寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ャッフル・ャッフル

復活設定かつ、中身入れ替わりパラレル
同じ設定でもそれぞれの話は独立しています。
カミュ氷大前提によるシュラ氷。


◆カミュ⇔シュラ編 ②◆

 それでも、氷河が来たことはシュラにとっては僥倖だったのかもしれない。
 時折カミュの真似事をして信じられないくらい甘い言葉を吐いてみせなければならないのが、背中がむずかゆくて正直誰にも知られたくないほどの屈辱なのだが、少なくとも退屈はしない。
 星矢が、紫龍が、と、シュラの知らぬ、青銅聖闘士達のエピソードや、女神の小さい頃の意外な(でもないのか?)お転婆ぶりを聞くことも楽しかったし、聖域運営の今後について議論を戦わせることも新鮮な経験だった。黄金聖闘士同士、話をすることはあっても青銅聖闘士と直接こういう話をすることはあまり多くない。
 その上、シュラが勝手に使うことを躊躇っていたキッチンに氷河は慣れた様子で立って、久しぶりなので俺が先生の好物を作ります、などと言いながら腕を振るってくれたことで、ひもじい思いもせずにすんだ。(氷河の料理の腕前は正直かなり微妙で、こんなものが好物なのかとカミュの味覚を疑ったのだが、まあ、多分、たいして器用そうに見えぬ少年に対するカミュの優しさのひとつなのだろう、と見当をつけ、相当に無理をしてシュラも全てを平らげてみせた)

 ただ、慣れぬことに、少年が「先生」と呼ぶのがずいぶんとくすぐったく、呼ばれるたびに腰が中途半端に浮く思いがするのには困った。
 少年とは言え、すっかりと歴戦の戦士だ。
 会うたび逞しさも増している。
 なのに、二人きりでいるときにはこうも甘えた表情を見せるのか。
 シュラに普段見せているよりも、幾分子どもっぽい表情で先生、先生、とまとわりつく姿は、見てはならぬものを見てしまった禁忌でシュラを後ろめたくさせるのに十分だった。

 氷河を騙している罪悪感を眉間に寄せた皺でごまかすシュラの耳元でまた、先生、と呼ぶ声がした。
「どうした、氷河」
「あの…湯を……」
 使いますか、と氷河は何故か頬を染めて俯いた。

「ゆ」?
 ………ああ、湯。

 もうそんな時間か、とチラリと目をやった時計の針は相当にいい時間を差していた。
 白いタオルを差し出すように立って、シュラの様子をうかがう氷河から、つまりはもう準備はできている、という意味だとわかりシュラは小さく息を吐いた。
 これ以上「カミュ」の帰りを待っていても仕方がなさそうだ。どうも今夜中には帰還しなさそうだ、と諦めきっていた事実を再確認してシュラは重い腰を上げた。
 だが、上げた瞬間、ふと、こういう場合、どちらが先に入るのが礼儀に適っているのだろうか、という割とつまらぬ疑問が湧いてきて立ち上がっていた腰をもう一度落ち着け直した。
 解決しえぬ大きな問題の前には、人は現実逃避のために小さな問題に目を向けてしまうものだ。シュラとてそれは例外ではない。

 通常であれば、客人である氷河が先に使うべきだろう。
 だが、そもそも師と弟子という関係の中では、純粋なゲストとホストの関係とは少し違う。(そもそも『客人』であるはずの氷河が食事の支度から湯の準備から何もかもを担ったのだ)
 この師弟の常態がわからないから一向に正解が読めぬ。
 とりあえず、自分の常識に照らしてみれば、客人が先、が正解だ。
「お前が先に使うとよい。わたしは後で使うとしよう」
 シュラがそう言うと、氷河は何とも言えない複雑な表情を浮かべて口を開いたり閉じたりさせた。その上、頬がみるみる赤く染まってゆく。
「?どうした、何か不都合でもあるのか。ないなら早く行くがいい」
 素っ気ないシュラの返事に、赤みを帯びていた氷河の頬から今度は次第に血の気が引いて行く。
「……不都合というわけではありません。…………カミュ先生、今日は、あの、どこか具合が悪いわけではないですよね……?」
 身体に魂がくっついていない、という状態を具合が悪い、と称していいならすこぶる具合は悪い。だが、肉体的に不調があるかどうか、という意味なら答えはNOだ。少年が聞いた意味は間違いなく後者だろう。
「いや、どこも具合は悪くない」
「では、あの、やはり俺が何か……?」
「しつこい!お前のせいではないと何度言えばわかる!機嫌をうかがうような真似をするな!」
 突然に降って湧いた怒鳴り声にシュラ自身が一番驚いた。
 今の声は俺か……?
 違う、氷河は悪くない。なにせ中身が違うのだ。いつもと違う師の様子を怪訝に思って何度も確認して当然だ。
 なのにそれに過剰反応して、思わず声を荒げてしまったのは───シュラの方の問題だ。
 実は、先刻から氷河が言わんとしていることには薄々気づいている。先生、と呼ぶ甘え声で何を求められているのかも。

 気づいているが、だからって今の俺に何がしてやれる……!

 気づかぬふりをして、何事もないように祈ってやりすごす以外にない、と必死に感情を遮断しているのに、こちらの気も知らず無防備に近寄ってくる氷河に苛立ちがつい爆発したのだ。
 完全に八つ当たりだ。

 シュラの声に雷に撃たれたように硬直している青い瞳を縁取る睫毛が何かを堪えるように小刻みに震えている。
 そこから雫が零れるのを見てしまった日には、「わかった。一緒に入ろうか」などと言ってしまいそうだ。自分で自分の首を絞めるバカはどこにもいない。

 シュラはついと視線を逸らすと猛然と立ち上がった。
「今日はどうも疲れた!悪いが先に湯を使うぞ!」
 返事は聞かない。
 どんな表情をしたのかも見ない。
 鬱陶しく肩にまとわりつく長い赤毛をバッサバッサとかきあげながらシュラは氷河に背を向けて勢いよく部屋を出た。
 胃がどうしようもなくキリキリと痛んだ。

**

 疲れた。

 氷河のことではない。
 入浴そのものの話だ。

 他人の身体というものはどうにも扱いづらい。

 まずもって、生まれてこの方、肩より髪を長くしたことなどない。
 このような長い髪をどうやって洗えばいいのか皆目見当がつかない。身体を洗う時に邪魔になって仕方ないのだが、これは一体どうするのが普通なのだ。結わえようにもどのようにすればよいのかも知らない。
 まあいい、要は洗えばいいのだろう。身体と同じだ、と諦めて視線を前へやる。
 やったところで再び困惑だ。
 似たようなボトルがいくつも並んでいるから、なんだ、と手に取って見れば「トリートメント」などという見慣れぬ単語が並んでいて思わず固まる。
 ……いや、知ってるぞ。
 やけに風呂の時間が長いアフロディーテがそんなような単語を吐いていた。さほど美に拘っているようには見えぬカミュも実はそのクチなのか。黄金聖闘士が何と惰弱な。
 だが、長く伸ばされた緋色の髪の毛は、鮮やかに黄金聖衣に映え、アフロディーテの艶めかしい美しさとは違う凛とした清涼な美しさを彼の立ち姿に添えているのは確かだった。
 まあ、「借りてる身体」だ。主のルールに従って、人生初の「トリートメント」とやらをほどこしてやっとくか、とボトルに手をやれば、隣に「コンディショナー」というボトルがあることに気づく。
 
 …………。
 
「コンディショナー」とは何だ。「トリートメント」とどう違うのだ。どちらも何やら髪の毛を労わる系の?ケア製品的な?洗髪に伴うオプション?なのだということはわかる。(わかる、というにはずいぶん怪しいが)これは両方使えばいいのか。使うなら順序はどっちが先なのだ。
 ボトルを隅々まで読んでもそこのところがわからず、ええい、気がきかぬメーカーめ!と矛先を製造元へ向け、もう面倒だ、ばっさり短く切ってくれよう、と手刀を振りかざしたところで、今の身体では手刀は切れ味など何もないに等しいただの手刀でしかないのだったと気づいてシュラは項垂れた。
 考えた末にトリートメントとコンディショナーは混ぜることにした。要は両方髪に塗ればよいのだろう。コンディショナーはすぐに湯で洗い流せ、と書いてあるのに対し、トリートメントにはしばらく置け、と書いてあるのが気になったが、しばらく置くと風邪をひきそうだと思ったからすぐに流しておいた。
 後は知らん。
 とにかく俺は努力はした。

 髪の毛だけでなく、身体を洗うのも気を使って精神がどっと疲弊した。

 有体に言えば、男同士なら、当然に気になる部位の扱いに困った、ということだ。しばし固まった末に、スマン、とまたもや主もおらぬのに謝ってから、自分なりのやり方で洗うための一通りの手順は踏んだ。
 正直、色々と思うところがあったのだが、それについてはお互い様であろうから永遠に口にせぬのがマナーというものだろう。

 とにかく、癒すための空間であるはずの入浴タイムをシュラは非常に疲労して終え、髪を乾かすのもそこそこに火照った体をリビングのソファへと横たえた。
 入れ替わりに氷河が浴室へ向かう足音がしている。それがずいぶん元気なさげなのが、またシュラの疲労を深めさせる。
 カミュが帰ってきた時に、氷河との関係が拗れていたらヤツは氷河を泣かせたと言って怒るのだろう。
 だからと言って、俺が完璧にカミュのふりをするということは。

 脳裡にまた「せんせい」という甘い声が響き、シュラは慌てて頭を振った。

 血迷うな、俺。

 デスマスクがさんざんそれで痛い目にあっているのを見て来たじゃないか。一時の欲に負けて事態が好転することなど何もない。

 駄目だ。
 寝よう。それに限る。

 シュラは慌てて跳ね起きた。
 氷河が浴室から出て来た時に、まだここへいたらまるで「待っていた」ようだ。涙で潤んだ瞳で、先生、と切なく呼ばれてしまったら……想像するだに恐ろしい。

 今朝方、カミュが蝶番を壊した寝室の扉を目指してシュラはほとんど駆けるように飛び込んだ。
 気分は「悪い男に襲われて安全地帯に逃げ込む乙女」だ。貞操を守るためなら(?)壊れた扉に鍵さえかけたいほどだ。
 が、目に入った光景にシュラはまたもや頭を抱える。

 ベッドの上に枕が二つ並べてある。

 ど、どういうことだ……

 そう言えば、夕飯の片づけの後で、寝室を整えてきます、と氷河が言っていた。
 整えて、とはこういう意味か。
 俺はてっきり、氷河の寝るベッドを整える、という意味だと思っていたのだが……氷河の寝るベッド=俺の(つまりは普段のカミュの)寝るベッドだったのか……

 十二宮はどこも客室など備えてはいない。なにせ要塞だ。誰も通さぬようにするのが役目なのだから客をもてなすようにはできていない。宮の主一人慎ましく暮らせる程度の居住スペースしかないのが常だ。

 だからって。

 これはまずい。どう考えてもまずい。
 氷河を追い出すべきか?
 いや、むしろ、俺が出て行くべきか?
 ………………くそっ。
 こんなことなら、苦しい言い訳で不審がられようとも凍気が操れずにアフロディーテに怪訝な顔をされようとも、俺が任務に就いておくべきだった!

 そうだ、任務!
 今からでも遅くはない。急な任務に呼ばれたと言って俺は出て行こう!氷河は可哀相だが仕方ない。カミュが後できっとたっぷり慰めるはずだ。間違ってもそれは俺の仕事じゃない。

 が、結論を出したシュラが踵を返そうかとしたその時、背後に気配を感じた。

「せんせい……」

 で、出た……!

 気分としては悲鳴を上げてカーテンの後ろに隠れたい心境だ。
 いや、実際に、ひっと喉奥で息を吸う音を立てたかもしれない。
 振り向かないことでそれはどうにか気取られるのを免れたはずだが、本当なら森の中で無装備でクマに会ったってこんな悲鳴をあげられない、というくらいの悲鳴をあげたって許されるはずだ。だいたい、あのクマはイヤリングを拾ってくれるいいクマだったじゃないか。
 こっちはどうだ。
 万人に美醜を問わせたら誰しもが美と答えるようなすこぶるつきの美少年(口を閉じてさえいれば、だが)だぞ? 絶対に手を出してはならないのに、相手の方は触れなば落ちん風情で見上げてくるんだぞ?どっちが性質が悪いかって100人いたら100人ともこっちだって言うはずだ!

 心の裡で喚くシュラに追い打ちをかけるかのように、せんせい、と呼ぶ声が涙で揺れている。
 まだ何も起こっていないのに、キリキリとシュラの胃が痛む。後でカミュが戻った時に、どれだけ大変だったかこの胃痛でわかって欲しいほどだ。

「先生、今日は本当にお疲れだったのに、俺の我が儘で、色々とすみませんでした」

 声がいつもより低いところから響いている。
 二人きりだと言うのにずいぶん冷たい師の背中に、さすがに拗ねるどころではなく、しゅんと小さくなって俯いているに違いない。

「俺は、あっちのソファで寝ます。明日は、あの、許されるなら俺で何かできることがあれば何でも言ってください。お役に立てるかどうかわかりませんが、俺、がんばりますから」

 氷河の健気な言葉に胃がまた痛い。
 違う。
 痛いのは胸の方か。
 氷河に非はないというのに、理不尽に冷たくあしらわれていれば、混乱してずいぶん傷ついただろう。

 罪悪感でこちらの胸も塞がれる思いだ。

 廊下の向こうへ去って行こうとする足音に、咄嗟にシュラは振り向いた。待て、と思わず掴んだ手首が見た目以上に細く、その上、引きとめられて驚いてこちらを見た氷河の姿があまりにも───

 濡れた髪に潤んだ瞳、白い肌はほんのり上気して、薄く開かれた唇は艶やかな桜桃色だ。

 振り返るのではなかった。
 どく、と脈打って一気にシュラの熱が上がる。

 ……違う、俺の、じゃない。『カミュの身体』の、だ。

 おかしいと思った。
 日頃のシュラは、カミュの弟子はずいぶんと綺麗な顔立ちをしているな、と思いこそすれ、ここまで彼を前に狼狽えたことはない。
 だというのに、やたら簡単に氷河の姿に熱を上げると思ったら……そのはずだ。この動揺は俺のものではない。カミュの身体が条件反射で氷河を求めたにすぎん。

 シュラは一つ深呼吸をする。原因がわかりはしたが問題は何も解決していない。勝手に熱を上げる身体に理性の糸は簡単に切れてしまいそうだ。
「せんせい……?」
 氷河の怪訝な声にシュラはハッと我に返った。
 そして自分が氷河の手首を掴んでいることに気づいて愕然とする。

 いや、引き留めてどうするつもりだ、俺!!!せっかく「クマ」の方から去って行こうとしていたというのに!


 あまりに重苦しく痛む胸に耐え切れず咄嗟に引きとめたものの、その後どうするかを考えていなかった。
 だいいち、痛んだ胸もきっとカミュのだ。俺じゃない。俺はコイツが傷ついたところでどうってことはない。

 ……と言えば嘘になるのかもしれないが。しかし。でも。その。

「せんせい、あの、手、を……」
「行くな、氷河」

 ………………!?

 俺は今何を口走ったんだ!?

 勝手に口をついて出た言葉にシュラの動揺は広がる。
 だが、引きとめた手前、ほかに選択肢はない。
 仕方ない、泣きやませて落ち着かせるだけだ、と、ややぎこちない所作でシュラは氷河の手首を引き寄せた。シュラに引き寄せられるがままになっていた氷河は最後の一歩を自らシュラの胸へ飛び込むように踏み出す。

 だ、誰が抱きつけと……!

 ちょっと頭でも撫でてやるだけのつもりだったのに、身体全体で胸に飛び込まれてシュラは茫然と立ち尽くす。
「…かった……先生に、嫌われたかと思って、俺…」
 氷河にそこまで悩ませてしまっていたのか、と申し訳なく思うと同時に、俺は一体どうしたら、と中途半端に浮いた腕が空を彷徨う。
 だが結局、その腕も最終的に氷河の背中へと落ち着くしかなかった。ず、と鼻を啜る音に負けたせいだ。
「(カミュが)お前を嫌うはずがないだろう。ただ、お前があまりに愛おしすぎて壊してしまいそうで、今日は触れるのが躊躇われる」
 カミュが選びそうな愛の言葉で飾りながら、婉曲的に「だから今日は『そういうの』はナシで」と伝えたつもりのシュラだったが、氷河は泣き笑いの顔でシュラを見上げて首を振った。
「先生に鍛えられたのだからそう簡単に壊れたりはしません。それに、先生にだったら壊されても構わない……」

 し、しまった、そうじゃない。そんな熱っぽい目で俺を見るな!
 おい、カミュ!!!お前の躾、どうなってる!
 弟子にこんなことを言わせるな!

 言わせるような流れを作ってしまったのは自分なのだが、だが、氷河は「カミュ」に対して言ったのだからあながち自分のせいだけとは言えないというか、そもそもそんなセリフ、素面で言う奴を俺は初めて見た、というか、というか……ミロ、お前スゴイな、よくこんな二人の間に入ろうとか思えるな……!

 理解の範疇を越えた事態に、シュラの思考はまた明後日な方向へ逃避しかける。
 だが、それを引き戻すように氷河が柔らかな頬をシュラの胸へ押し付ける。湯上りの仄かな香りがシュラを絡め取るようにまとわりつく。

「先生、久しぶりに会うから俺…」

 いくらすこぶるつきの美少年でも金髪碧眼は全然タイプではない。
 いや、世間一般の評価をするなら、この少年の外見はまずたいていの人間の目を惹く。ここ聖域ではカミュの目が厳しいから手を出そうとか思う命知らずはミロのバカ一人だが、実際に手は出さずとも、怖い保護者がいなけりゃ味見してみたいなどと不穏なことを言う人間は実は少なくはない。
 だが、悪いが俺はそこに惹かれない数少ない人間の部類に入る。
 天使のように整った相貌を持った少年は単純に美しい、とは思うが、毎日毎日それこそビスクドールのような完璧な外見のアフロディーテの顏を見て育ったせいで、美しいものに対する耐性がついている。美醜に鈍感というほどではないが、美しいというだけで惑わされたりはしない。
 見目がいい人間はたいてい鼻持ちならない性格に育ちがちだが、(アフロディーテがそうだ。外見に騙されて寄ってきて痛い目にあった人間は数知れない)この少年にはそういうところもない。 真っ直ぐで少し天然で危なっかしく、ミロあたりがそりゃあ突っつきたくなるのも無理はない。
 だが、残念ながら、シュラにはそういう趣味もない。物事を縦横斜めスパスパと切りたい性質だ。ややこしい人間関係がくっついている時点で問題外だ。

 外見もシュラの琴線に触れない、中身だって好みと言うほどではない。

 だというのに、今、尋常ではない動悸と熱で身体がどうにかなりそうだ。
 カミュ、お前のせいだ、どう考えても!
 この感情は俺のものじゃない、絶対に絶対に……!

「せんせい?」

 ずいぶんと甘く空気を震わせる声が誘うように「先生」と発音するたびに、どんどん熱を上げる身体にシュラは後ろめたくてたまらない。
『師弟』という絶対的な関係の中で、今、この少年の全ては自分の思うままだ。
 自分の中にそのような背徳的な関係に欲を見出す部分があるとは信じたくない。いや、カミュとて結果としてそうなっているだけで、最初から師弟関係を逸脱することに悦びを感じていたはずはない。わかっている、わかっているが───だめだ、俺はもう限界だ。

「氷河、『先生』と呼んではいけない」

 でないと俺は間違いを起こしそうだ。

 だが、氷河はその言葉にこれ以上ないほど真っ赤になってしまった。なんだなんだどういうことだ!?

「そ、そうでしたね。こういうときは『カミュ』と呼ぶ決まりでした」

 っああ!!
「こういうとき」ってのはどういうときだ!?
 もしかして、房事には『先生』と呼ばせない決まりか!?
 だったら、俺のさっきの言葉は、つまり、これからお前を……という宣言なのか……!?

 ほとんど震えるようにおそるおそる下を見下ろしたシュラの目に映ったのは、頬を赤らめつつも、委ねるように身体を預けてゆっくりと瞳を閉じる少年の姿だった。

 目を閉じられても困る……!

 甘い雰囲気で抱き合って目を閉じられたら次に何をすればいいかは知っている。
 しかしそれは!

 もう一度、見下ろす。

 ふっくらと吸いつきたくなるような薄紅の唇。薄く開かれて奥で見え隠れしている赤い舌を吸ってやったらさぞかし……

 違う違う!

 いけない、それはいけないことだ。
 これは人のものだ。いや、今は俺のものなのかもしれないが、いやいやいやいや、俺は一時的に間借りしている身。(好きで間借りしているわけではないのだが!)

 なかなか訪れない甘い時間を訝って氷河がうっすらと目を開く。
 薄く開いた唇がまた「せんせい」と形作られ……

 ああ、もう!

「『先生』と呼ぶなと」

 言っただろう、という言葉は……ほとんど無意識に勢いよく重ね合わせた唇で潰された。
 抑圧した分だけ堰が切れてしまえば感情の放出は激しく、最初から余裕なく激しく貪るように桜桃の唇を味わう。
 禁断の果実は───ひどく甘かった。

 時折苦しげに息をつく氷河は、だが、それでも嬉しそうにシュラの首に両腕を絡め、激しい口づけを受け止めようと必死に応える。息をつく合間にも、「せんせ…」と掠れた声が呼ぶのでまたさらに唇を塞ぐ。

『カミュ』が氷河に触れているのだ。
 氷河が嫌がっているわけでもない。
 問題はなかろう。


 普段の自分なら絶対に許さぬ卑怯な言い訳は、脳髄に響く甘い声にどんどん上がる欲望によって強引にねじ伏せられた。


 俺は負けた。
 氷河にでもなく、カミュの身体に、でもない。自分の心にだ。

 「ついうっかり」の過ちがないのが自慢だったのに。
 もう二度としたり顔でデスマスクに説教などできる身ではなくなった。