サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
◆ep1 ミス×ミス×ミス ⑥◆
さて。
人事部で一通りの手続きや状況説明に明け暮れていたカミュは、全てのやり取りを追えて、その部屋を後にした。
その後の足は迷うことなく営業部のあるフロアへと向かう。
だが、営業部は既に明かりが落ちて、残っている者は誰もいなかった。仕方なくカミュは胸元から携帯電話を取り出した。
人影の消えた廊下で壁に背をつけて発信音を数える。が、いくらも数えないうちに相手は電話に出た。
───思ったより遅かったじゃないか。
「色々あったんだ。お前じゃないなら誰なんだ」
───あれっ。なんだ、正解に辿り着いたわけじゃないのか。てっきり礼の電話かと思ったぞ、俺は。
「礼?……何があった」
カミュは苛々と、握った携帯電話を指先で叩く。
廊下で立ち尽くしていた氷河の姿を見とめて、すぐにその横顔に残る涙跡に目がいった。
怪訝に思い近寄り、資料庫から漏れ聞こえる内容のひどさに、涙の理由を見たと思ったのだが、振り向いた瞳を縁取る睫毛は乾いていて、彼は今泣いたのではない、ということに気づかされる。
泣いたのか、と直接聞くことは彼のプライドを傷つけるだろうと憚られ、何かあったのかと問えば、何もありません、と言う。
何もなくて泣くようなやわな人間ではないことはとうにわかっている。遅刻であれほど冷たく厳しく突き放した時も涙に逃げず、きちんと自分の力で建設的な挽回方法を考えていた。だから、相手先で何か嫌味を言われただとか、うまく説明がこなせなかっただとか、その程度のことで泣いたとは考えられなかった。
仕事上の出来事であれば上司に隠されるのは問題だと思ったが、だが、仕事上の理由でない涙なら立ち入る権利はカミュにはない。追求すべきか追求せざるべきか迷っていると、ミロの名が出た。
『俺じゃない』
泣かせたのは、俺じゃない、という意味だ。
ミロはカミュが氷河の涙跡に気づく前提でその伝言を寄越した。答えは俺が持っている、というメッセージでもあるのだと解釈して連絡を取って見れば、ミロまでがはぐらかすようなことを言う。
苛立つのは当然だった。
───何があったかは俺の口からは言えないなあ。坊やと約束しちゃったもんでね。
「ふざけるな。仕事上のことなら上司であるこのわたしに報告するのが筋だろう」
───おっと。その勢いで坊やのことは叱ってやるなよ。……変だな。お前は鼻が利くからすぐにわかると思ったけどな。
「一体何を……」
───ああ、悪い。俺はまだ営業途中なんだ。いろいろ予定が狂ったもんでね。じゃあな。
連絡をしてこい、ともとれるメッセージを寄越したくせに、正解を教えないままミロは一方的に通話を切った。カミュは苛立ったまま、乱暴に携帯電話を胸元にしまい、静まり返った廊下で腕を組んで思考の海に沈む。
実りのない、上滑りしたミロとの会話のやり取りだったが、何かがカミュの意識を刺激した。
何がそんなにひっかかったのだろうか、と、もう一度、先ほどの会話を反芻し、もっとも違和感を感じた箇所に突き当たる。
鼻が利く……?
別にカミュは特段、人より嗅覚が優れているということはない。比喩的な意味合いなら、多少は勘がいい方かもしれないが……。
だが。
そうだ。
先ほど、氷河の身体を抱きとめた時に、おや、と一瞬思ったのだ。
彼らしくない、ずいぶん高級そうな、だが、少々嫌味なほどに甘ったるい芳香を纏わせていて、それを意外に思った。彼が普段どうだったか、というのは思い出せなかったが、違和感を感じたということは、日頃と違っていたのは確かだろう。
出張に出る前はどうだったか。
わからないが、朝から違っていたのなら、その段階で気づきそうなものだ。あれほど違和感があったのだから。
どういうことだ?
もう少しで正解に手が届きそうなもどかしさに、カミュの指先が苛々と自分の腕を叩く。
あの香り……わたしはあれを知っているような気がする。過去に、どこかで……。
もやもやと頭の片隅にあった得体の知れない違和感が、カミュの中で香りの刺激を得て、急速に収斂していく。一人の男のイメージとなって。
不意にカミュの指先がピタリと止まる。最後の1ピースが埋まったのだ。
「アースガルド違いか……」
自分の辿り着いた答えに、思わずカミュは一人声を漏らした。
氷河が纏っていた芳香は、カミュに、過去に会ったことのある一人の男を喚起させた。
ずいぶん下卑た趣味を持つ、あの男に会ったのだな、氷河は。
そういえば、アイザックが「前株だ」と氷河の背に叫んでいた。その時は、それほど気に留めなかったが、そうか、氷河はもしやアースガルドが二社あることを知らなかったのか。
勉強不足、とは咎められない。
星の数ほどある同業者を入社数か月で全て網羅しておくべきとまでは要求できない。
真に注意を払ってやるべきは……上司であるわたしだった。
業種形態、社屋の位置、社名、全てが似通っている両社は、日頃からよく郵便間違いなどが起きていて、本来であれば、当然気づいて然るべきだった。だが、このところ自分が前株の仕事にかかりきりだったため、自分の仕事に没頭するあまりに氷河の目線になってやることができなかった。
気づいてしまうと、今更ながらに氷河の涙跡が気遣われた。
あのミロが、「礼だと思った」からには、多分、氷河のことについても、業務上の漏えいについても、大きな心配はしなくてもよいのだろう。いい加減ではあるが、のっぴきならない状況を氷河との約束だからと言って黙っている男ではない。
だが、涙を流さずにはいられないほど、傷ついたのだ、氷河は。
そして、ミロは、そのことを自分が知っておくべきだと思ったからこそ、氷河に涙跡を隠させることなく自分の元へ帰した。
「参ったな……」
再び、溜息と共にカミュの唇から声が漏れる。静まり返った廊下にそれは反響して緩やかに消えた。
日頃、仕事上の姿勢を説教してやってばかりいるミロに助けられた、という居たたまれなさ。
氷河に涙を流させるほどの──噂通りなら反吐が出るほど卑しい──何かをした男への怒り。
何より、肝心なところが行き届かなかった己の傲慢さに対する自己嫌悪に心が重く沈んだ。
氷河に、指示が悪かった、すまなかったと言ってやりたいところだが、健気にも、指示通りに業務遂行しました、という顔をしてみせた氷河にそれはもはや言えないだろう。
自らの過ちを謝る機会を持てない、というのは存外につらいものだ。
ミロはそこまで計算して、自分には内緒にしておく、と氷河と約束をしてみせたのだろうか。──したかもしれないな、あいつなら。氷河が味わった苦痛と応分の負担をお前もしろと、手厳しいメッセージでもあるのだ、あれは。
こういうところではカミュを甘やかさないミロだからこそ、本気かどうかわからぬほど軽薄に、俺と付き合え、キスさせろ、などとまとわりついていても、カミュは彼を親友としての位置にいることを許している。
性格は正反対とも言えるほど違ってはいるが、だが、根底に流れる精神だけは、とてもよく似通った二人だからこそ、多くの言葉を必要としないまま信頼関係は成り立っていた。
多分、この件に関しても、ミロは、言って見せたほどには礼を要求したりはしないだろう。
カミュの方も、改めて口にすることはきっとない。
軽薄を装う本人は認めないに違いない、短い会話に込められた気遣いは確かにミロの想いをありありと伝えていて、それを気づかぬふりでやり過ごすのは難しかったが、気づいたところで応えようがないからには、今回もまた、気づかぬふりをするしかないのだ。今の関係を壊さぬためには。
カミュはゆっくりと一つ息を吐いた。
あまり長くここで自分一人、内省に沈んでばかりもいられない。人けの消えた営業部のフロアから建築設計部のフロアへと移動すべく、カミュは足を進める。
今となっては、今日は氷河を早く帰してやるべきだったかという気もしていたが、仕事を、と言われて目を輝かせていた氷河の姿を思えば、むしろ、彼にとってはそれはいらぬ配慮というものだろう。
氷河にとってはずいぶん色々あった一日だろう。出先での出来事に加え、戻ってからまたあのようなやり取りを聞かされる羽目になるとは、と、こちらもまだ燻る怒りが抑えきれず湧き上がる。
こんなことであれば、氷河にもっときちんと言ってやるべきだっただろうか。
日頃叱ってばかりいるが、氷河がずいぶん熱心にノートを取っていることは知っている。
設計者に必要なのはひらめきやセンス、それだけではない。
建物を使うのは結局のところ人間だ。部屋同士のつながりはどうあれば使い勝手がよいのか、この部屋であれば使う人間は家具をどう配置するか、この建物を利用するのはどんな年齢層か、……すべては『人』から始まり『人』に帰る。
覚えたことを忘れぬようノートに取る氷河の姿勢は、カミュに二度手間を掛けさせまいとする気遣いの顕れである。カミュの状況を読んで、自然とそうできる氷河は、いずれ、小さな『人の声』を大事にする、いい設計者に育つだろう。
涙の代償に、そうはっきり告げてやれれば、少しは彼の気分も上向くだろうか。
**
遅くなった、と扉を開くと、既に二人だけとなっていたオフィスで、それぞれの机の前に座っていた氷河とアイザックが同時に顔を上げた。
一瞬違和感を感じ、すぐにその正体に気づく。
氷河のシャツの色が変わっている。確か白を着ていたはずが、今は薄いグリーンの格子のシャツだ。
あのシャツには見覚えがある、とカミュはチラと、恐らくシャツの持ち主であるアイザックに目をやる。
何か?と見返すアイザックの、薄いブルーのシャツの肩口が少し濡れたように色が変わっている。
もう一度、氷河に目をやる。
涙跡はもうない。
だが……。
泣いたな、これは。多分、もう一度。
自分には告白しなかった今日の出来事を、アイザックには話したのか。
取り立てておかしなことはない。
二人は長い付き合いだ。
上司の自分には言えなくとも、気心の知れた同僚になら言えることもあるのかもしれない。
だが、なぜか心がざわめいた。咎める理由は何一つないのに、どこか、何かが苛立ちをが───
「カミュ?どうかしましたか?」
アイザックの声にはっと我を取り戻したカミュの胸の裡からは、一瞬にして不可解なざわめきは霧散してゆく。
まずは、仕事だ。
一瞬去来した胸のざわめきの正体を深く追求することなく、カミュは、二人に向かって頷きを返す。
「すまんな。この忙しい時に急きょ人手が減る事態にしてしまった」
すみません、俺のせいで、と立ち上がろうとする氷河をカミュは片手で制して止めた。
「お前のせいではない。担当している業務を終わらせるまでは彼らを辞めさせない、という責任の取らせ方もあった。だが、わたしが我慢ならなかった。それだけだ」
アイザックはわかります、というように大きく頷いているが、氷河の方は気詰まりなのか身を縮ませている。
カミュは二人の男たちが使っていたデスクへと歩みを進め、その上の書類を手に取った。
案の定、だ。
処理の簡単な案件はさすがに終わっているようだが、面倒な作業を必要とするものや、少々手続きが煩雑な案件はほぼ手つかずになっている。あの手合いは、契約更新を狙ったりせず、期間満了までこうして手抜きをしながら時間をつぶして最後は放置し、また次の気楽な職場へと移って行くのだ。昨今、正社員も派遣社員も区別なく、同じレベルで専門業務をこなす者がほとんどだが、ごくまれに、こうした職業意識の低い、旧時代的な人間もまだ生息している。
こうなった以上、下手に途中まで手を付けられているより却って好都合だとばかりに、カミュはそれらの書類をてきぱきと仕分けしていった。
システムを使わねばならない少々ややこしい設計処理はアイザックに、無理なくできるデータ入力は氷河に、と仕分けをしていきながら、ふと、思いついて、書類の山を入れ替える。
構造計算のデータ入力はアイザックに。
製図システムを使う設計処理を氷河に。
渡された書類の束を見て、あのう、逆ですよ、という顔をした氷河に、カミュは静かに首を振った。
「そろそろお前も覚えていい頃だ。最初はわたしが教えよう」
不安気な顏を見せるかと思ったが、氷河はパッと瞳を明るく輝かせた。ハイッと返事をした後は、アイザックと肘でつつきあって、嬉しさを堪えきれない、といった笑みをこぼす。
残業でこんなに喜ぶヤツは初めてかもしれない。
可愛いものだ、と思い、一瞬後に、可愛い部下だ、と自らの気持ちを訂正し直す。
さらに、アイザックと同じく、と付け加えてもみる。
どうかしている。
何があったかに気づいたせいか、屈託なく笑うその姿がずいぶん健気で可愛らしいものに思えて、堪らない気持ちになった。
アイザックがいなければ、思わず手を引いて、お前はよくやっている、と胸に抱いてしまったかもしれない。
『美少年がタイプなんですか?あなたも意外と俗っぽいですね』
さきほど捨て台詞のように投げかけられた言葉が何故か今不意に甦る。
……………本当に、どうかしている。
「取りかかる前に、熱いコーヒーでも飲むか」
独り言のようにそう呟けば、氷河はやはり嬉しそうな声を出して、あ、俺、俺、淹れてきます、三人分!と張り切って飛んで行ってしまった。
残ったアイザックは、ずいぶん張り切ってますね、アイツ、と笑って、膨大な入力票を抱えて端末の前へ移動する。
二人きりになれば、アイザックが気を利かせて、実は今日氷河が泣いてこんなことを、と注進でもしてくれるかと思っていたが、どうやらこちらも秘密のようだ。
この、もやもやした胸のつっかえは、だから、きっと話に混ぜてもらえない、疎外感のようなものなのだろう。それ以外の何ものでもない。
この件についてはこれで終わり。もう考えない。
カミュは、製図システムの入った端末のあるブースへと移動した。
終業時間は過ぎたとあって、ほとんどの端末は既に電源が落ちている。
ここも例外ではなかったが、電源を入れる前に、給湯室の扉が開いた気配でカミュは振り向いた。が、すぐに見てしまったことを後悔する。
氷河は、熱いコーヒーの入ったカップを、トレイに乗せもせずに、不安定な手つきで3つまとめて持って出た。その状態で扉が開けたはずはなく、どうやら閉まりきっていなかった扉を自分の身体で押して出たらしかった。
たった今しがたまで、無自覚ではあったが仄かに甘やかな感情が去来していたはずなのに、瞬時にカミュの喉奥まで、怒鳴り声がせり上がる。
お前という奴は!
横着をするな、横着を!
トレイを使うか、使わないなら一つは二往復目に回すとか!
とにかく、熱い飲み物を、こんな電子機器だらけのところでそんな不安定な持ち方をするんじゃない!
それらの怒鳴り声をカミュはすんでのところでどうにか呑みこむ。自分が怒鳴ったがために事故を誘発してはことだ。氷河が無事にカップを机の上に乗せてからゆっくり小言を言ったので間に合うだろう。
仕方ない、せめて、カップを一つ取ってやろう、とカミュが近づいたとき───
「あっ、カミュ!コーヒーはいりまし…」
やめろ、氷河、そんなに嬉しそうに弾んで顏を上げるんじゃないっ!
という悲鳴にも似たカミュの心の叫びは、ほんの少し遅かった。慎重に足を進めていたはずの氷河は顔を上げた瞬間に、案の定というか、予想通りというか、お約束、というか、足元の配線に爪先をひっかけて大きく身体を傾がせた
「わああっ!?」
待て、よりによって、メイン端末の前で!?
カミュの顏が青ざめる。
そこに収められた膨大なデータ量と、それを使って行われる作業の多さと、今後のスケジュールを考えれば、咄嗟に体が動いたのは当然の成り行きだった。
この忙しい時に、端末破壊、データ損傷だけは免れたい……!
重要情報が詰まった高価な箱を守らねばと、足を踏み出し、腕を伸ばす。
だが、空を舞う3つのカップの中味が、スローモーションのように弧を描いて、まるで狙ったかのように端末の上へ降り注ぐのを後目に、なぜかカミュの腕は、空に浮いた氷河の身体の方を柔らかく抱きとめていた。
当然の帰結として、ビシャッという嫌な水音を響かせて、カップの中味の大部分は、データがぎっしり詰まったハードディスクの上へ、キーボードの隙間へ、液晶画面へと無残に散った。そして、そのまま、白い湯気を立てながら、ポタポタと、床の上へと茶色い雫が落ちてゆく。
あまりのことに、少し離れた端末の前で顔を上げたアイザックも、思わず氷河の身体を抱きとめたカミュも、カミュの腕の中で茫然としている氷河も、声が出ない。
はっきり言って大惨事だ。
カミュは、目の前に広がる光景よりも自分自身の行動に驚いていた。
咄嗟の行動とはいえ、少し前のカミュであれば、間違いなく端末の方を守ったに違いない。
氷河がどうも危なっかしい、と予測して行動に移しかけていたため、一瞬の内にも、そのくらいの判断をするだけの余裕はあった。氷河の方は転ぶに任せて、手近にある書類を盾代わりに端末にかかる飛沫を防ぐくらいのことはできた。
カミュは、憐れなほど茶色の飛沫を浴びている白い物体に目をやる。
このわたしが。
命より大事に思っていると言っても過言ではない作品群の詰まった箱よりも、転んだところでちょっとした怪我程度ですむであろうこちらの方へ腕を伸ばすとは。
自分の変化を驚きを以て見つめ、だがカミュは、自分の選択の結果の無残な光景にも、さほどの後悔はしていなかった。
わたしの今日の失敗は、ストイックに自分の世界に入り込みすぎて、『人』をきちんと見ることを忘れていたことに根差すものだ。
今ここで、端末より氷河を守ったのは間違ってはいない。……たぶん。
少々水に濡れたくらいでは端末はすぐには死なない。(そうであってくれ)
幸い、データのほとんどはバックアップも取ってある。(最後にバックアップを取ったのがいつかは思い出せないのだが)
最悪の事態でも、ちょっと総務部に泣きつけばよいだけのこと。(どれだけ嫌味を言われるか考えただけでうんざりするが)
『モノ』に関しては、取り返しのつかない事態、というのはそうない、のだ。
だが、『人』は。
『人の心』は。
涙跡。
どうしてもそこへ思考が戻る。
わたしは、この小さな設計士の卵の未来を、今日、つぶすかもしれなかった。大切なことを忘れていたせいで。
抱きとめた腕に、知らず力が入り、それをどう受け止めたか、氷河は、真っ青な顔をして、おそるおそるカミュを見上げた。
「あの……カ、カミュ……す……みませ……ん」
自分は一体何てことをやらかしてしまったのかと、これから受けるであろう叱責に既に声が怯えている。
視界の端で、アイザックが、拭くものを探しに慌てて立ち上がったのが見え、その動きに、カミュは腕の力を緩めて、氷河をゆっくりと立たせてやった。
「お前が火傷をしたのでなくてよかった」
想像していたよりずっと柔らかい声でカミュにそう言われた氷河は、戸惑って、青い瞳を何度も瞬かせた。
その様子に、やはりカミュはもう一度その身を腕の中へと収めたくなる強い衝動に駆られ、その心の動きを打ち消すかのように、慌てて厳しく渋面を作って見せた。
「すぐに拭くんだ。まだ端末が死んだとは限らない」
「ハ、ハイッ!」
カミュの慣れ親しんだ(慣れ親しんでは駄目なんだが……)厳しい声に、氷河は雷に打たれたように飛び上がった。
そこへタオルを何枚も持って駆け戻ったアイザックが、ほら、と氷河に投げて寄越し、二人は慌ててそれを白い機械の上へと広げて零れたコーヒーをふき取る。
目に見える範囲の雫は拭き取ったが、おそらく内部も濡れただろうな、とカミュの思案顔に、アイザックが「分解、必要でしょうか」と心配げに声をかける。
「そうだな。水ではなくてコーヒーだからな。乾いたところで……後は業者に任せた方がいいかもしれない。運が良ければ洗浄すれば復旧するだろうが、それまでの間どうするか、だな。データはどこまで取ってあるんだったか……」
「先月末のバックアップが最後だと思いましたが……」
「空白は半月分、か」
少々厳しいが、バックアップ分をサブに移してメインの復旧を待つしかない、半月分の空白ならなんとかならぬ量でもないな、と、安堵の溜息を洩らした二人のその前で、だった。
データどうなったかな?と呟きながら、氷河が電源を入れた、のは。
バチッと派手な音を立てて、端末から火花が散った。
………………………。
「お・ま・え~~~!!トドメさしてどうすんだよ!」
「え?え?え?」
「中濡れてんのに、電源入れる奴があるかってんだよ!」
「だ、だめだった?」
さすがに声を荒げて(何しろ飛んだ分のデータ入力をしたのはほとんど彼だ)氷河に詰め寄るアイザックと、もうこれ以上は小さくなれない、というほど身を縮ませた氷河を見ながら、次第に、カミュは肩を揺らして笑い始めた。
結局、総務部泣きつき、向こう一ヶ月休みなしコース、というわけか。
はっきり言って、とんでもない状況だが、怒りも焦りも湧いてはこなかった。
少し立ち止まれ、と。
そういうことなのだろう、きっと。
設計界の様々な賞を受賞して、常にトップで疾走し続けてきた自分の元に、この氷河が配属されてきた意味は。
大切なことを忘れるほどのスピードで走っていないで、立ち止まって、もう一度、原点に帰れ、と、誰かにそう言われているような気がした。
カミュは、まだ笑いを残したまま、アイザックに小突かれている氷河の方へ視線をやる。カミュの視線を感じて氷河はびくりと肩を竦ませてさらに小さくなる。
「氷河……お前は、いつかきっといい設計士になる」
たくさんの失敗をしてしまうお前だからこその、優しい視点を持った、とてもいい設計士に。
大惨事を引き起こしたというのに、カミュにそんな風に柔らかく微笑まれて、氷河は───
「ど、どうしよう、カミュが死ぬほど怒ってるぅ!」
と、震えあがって思わずアイザックに抱きついたのだった。
(fin)