寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味

モブ×氷河(未遂)性表現あります。18歳未満の方、苦手な方、閲覧をご遠慮ください。

◆幕間1 プールオムアトランティック◆

 ああ、いやだな、と氷河は階段を見上げてため息を零した。
 のろのろと足を上げる氷河の追い越しざまに、勢いよく肩をぶつけながら人の波がプラットホームへと動く。
 氷河は、毎朝恒例の地獄タイムにこれから突入するところだ。
 早朝のこの時間帯の駅というのは、誰も彼も何かに追い立てられるように忙しなく動いていて、殺伐とした空気を放っているのが、氷河はどうにも苦手だ。
 幾分覚え始めた仕事自体は楽しく、会社にも取り立てて不満はないのだが、この通勤ラッシュだけはどうしても慣れない。ただでさえ、少し気怠い月曜の朝だっていうのに、これからあの通勤通学客でごった返す四角い箱の中に、ぎゅうぎゅうに押し込められて揺られていくのかと思うと、それだけで気も足も重くなる。

 あー、時々でいいから車通勤したい……。

 自家用車は自家用車で道路が渋滞するから大変だと聞くが、同じ混雑ならそっちの方がよっぽどいい。少なくとも半径何メートルかの空間は自分だけのものだ。生来、人が多い場所はあまり好きではない氷河にとってはそれだけで天国だ。
 だが、自家用車で、となると、車自体を所有していないといけないのはもちろん、維持費だってかかるし、会社の近くに駐車場(これがまたばか高い!)だって借りなければいけない。氷河のようなぺーぺーには夢のまた夢だ。
 専門書ひとつ買うのにもお財布の中身と相談しなければならない薄給の身では、どれだけ嫌でも、毎朝の1時間近い地獄は避けては通れないのだ。

 せめて会社の近くに引っ越すか。

 会社の近くに住むとなると今度は家賃が高くなる。でも、少し節約をすればギリギリ不可能ではない。実際、氷河より1年早く入社しただけのアイザックも、会社のすぐそばではないものの、少なくとも長時間立ったまま満員電車に揺られなくて済む距離には住んでいて、氷河が残業で終電を逃した時とか、飲み会で遅くなった時にはアイザックの家に転がり込むのが常になっている。
 だが、引っ越すとなると、家賃だけではなく、敷金に礼金に引越し費用に……と頭の中で電卓を叩いて、自分の貯金残高を余裕で超える金額に、駄目だな、と氷河はまたため息をついた。

 アイザック、ルームシェアとかいやだろうか。

 提案してみたことはない。だが、幼いころからずっと一緒に過ごしてきた、親友とも兄弟ともつかぬほどの仲だ。いやだとは言われないような気がした。

 今日、提案してみようか。
 アイザックと一緒に住んだらきっと楽しい。

 一緒に飯を作って、テレビ観て笑って。設計のことになったら、学生の時のように一晩中だって議論していられる自信がある。
 一度思いついてしまうと、それは、何故今までそのことに思い至らなかったのだろうと不思議に思えるほど、とてもいい考えのような気がしてきた。コストは半分、楽しさは二倍。メリットはあってもデメリットなんかありそうにない。

 いい考えだ。会社に着いたら、早速言うぞ。

 憂鬱な気分は、「アイザックと一緒の生活」の想像によって、すっかりと吹き飛んでいた。
 最後の数段は一段飛ばしで駆け上がって、よっと最上段に足を掛けたところで、ちょうどホームに電車がすべりこんできた。
 馴染みとなった発車メロディの鳴り響くホームに、開いたばかりのドアから、ドッと人が吐きだされてくる。降車の波がまだ押し寄せてきている途中だというのに、もう乗車の波が狭い入り口を目がけて流れ始めている。明らかに降りた人数より乗る人数の方が多い。
 窓がうっすら曇るほどの人いきれを確認して、氷河はやっぱり絶対絶対引越しをしてみせる、と決意した。
 ぎゅうぎゅうと背を押されて進み、痛いやら息苦しいやらで半泣きになりながら氷河は車内へ乗り込んだ。ここまで来たら自分の意志ではもう自分の座標を決められない。流されるままにあれよあれよという間に、乗ったのと反対のドアのところまで押しこまれてしまう。
 それでも今日はまだラッキーだ。ドア付近なら掴まるところも少しは見つかるし、かかる圧力が多少(ほんとうに多少だが)マシだ。座席の間まで押しこまれてしまうと、全方位から圧力がかかって、たいして背が高い方ではない氷河は息をすることもできない。
 やれやれ、と氷河は掴まるものを求めて視線を彷徨わせた。ドア横の手すりになんとか届きそうだ、と手を伸ばす。

 と、その時、ふにゃあ、とこの場に似つかわしくない甲高い声が響いた。
 氷河は視線だけで音の発生源を探した。
 自分のすぐそば、それも真下の方角から響いたような?と目をぱちくりさせてみれば、果たして『それ』はそこにいた。
 氷河の目の前に立つ女性が背に負っている荷物が泣いているのだ。
 もちろんただの『荷物』が泣くはずがない。クマ耳のついた水色の帽子に隠れていた『それ』は動きさえしなければぬいぐるみと見紛うところだが、ふみゃあふみゃあという泣き声は紛れもなく人間の赤ん坊だ。
 満員電車に赤ん坊を背負った女性。
 およそあり得ない組み合わせに思えるが、チラと見下ろした彼女の風体から事情はなんとなく察せられた。
 小奇麗なスーツにたっぷり書類の入りそうなビジネスバッグ。この人口密度の高い箱の中にあっては珍しくもない『ワーキングウーマン』の風体だ。ただし、彼女がほかの誰とも違うところは、背中に赤子、というオプションがついているところ。
 こんな小さな子を連れては、この時間になど乗りたくないに違いないのに、きっと乗らざるをえない事情が何かあるのだろう。幼い子を連れて出勤、子どもは託児所か保育園へ、自分は会社へ、というパターンだろうか。望む保育施設へ入所できなくて、会社と逆方向の施設に預けなければならないこともままあると聞く。
 氷河の母がそうだった。働きながら女手ひとつで氷河を育てる苦労がたたったか、早くに亡くなってしまった母の姿と目の前の女性の姿が重なる。
 なんとなく、胸の奥の柔らかいところがきゅっと疼いて視線を落としたところで、アレ?と氷河は首を傾げた。
 彼女の手にはビジネスバックのほか、ハンドメイドの───園バックだろうか、可愛くぞうさんのアップリケが施されたキルトバックが握られている。藍色と、水色と二つ。
 ───二つ?
 もしかして、と少し伸びをして、女性の背中越しに覗き込んでみれば……クマ耳のついた、バックとお揃いの藍色の帽子。

 うわ、もう一人……!

 こんな混雑ぶりでは赤ちゃんは背負っていたより抱っこしていた方が安全じゃないのかなあとチラと掠めた疑問の答えがそこにはあった。
 つまり彼女は「抱っこもしてる」し「背負ってもいる」のだった。
 双子だろうか。どちらもまだ歩き始める前くらいの月齢に見える。男の子のようだ。
 扉の所へ押し付けられるように立っている彼女は、赤ん坊が潰されないよう、一生懸命守るように前後に腕を回している。
 だが、背負われている子の方は母の顔が見えずに、その上、ぎゅうぎゅうと周りから押されて苦しくなって、ぐずぐずとむずかり始めた。彼女が慌てて、よしよし、と宥めているが、泣き声は次第に大きくなっていく。
 少し離れたところの座席に腰掛けていた女性が、席を譲りたそうに何度もチラチラ見ているのが救いだが、ここまで混んでしまっていては、そもそも座席のところにまで辿り着くのはもう不可能だ。氷河のすぐ隣へ立つ中年の男性が、チ、と舌打ちをして、四つ折りにして読んでいた新聞を大げさにバサバサ言わせた。舌打ちはしないまでも、周囲の視線は、うるさく響く赤ん坊の泣き声に冷ややかだ。赤ん坊だけではなく、自分も泣き出しそうになって俯いている女性の姿に、氷河の中に、ふつふつと怒りが湧いてくる。

 なんだよ。赤ん坊が泣くのは仕方ないだろ。
 乗りたくて乗ってんじゃないんだよ!(多分)
 こんな混雑の中で新聞を読もうとしているあなたの方がよっぽど迷惑だ!

 氷河は、その男性をキッと睨みつけるように見上げて、電車が揺れたのでたまたまです、という体を装って、母子を守るように扉のところに片手をついた。ぐっと足を踏ん張れば、氷河の背中へかかる圧力とは裏腹に、自分の前へ立つ女性の周りへは少しだけ空間ができた。
 周囲の視線から逃れるように俯いている女性がそのことに気づいた様子はない。それでも背負われた子の泣き声は少しだけ小さくなって、氷河はほっとした。
 真下でまだ時折思い出したように泣き声をあげる子へ氷河は笑いかけてやる。

 おい、お前は男だろ。あんまりマーマを困らせるんじゃない。

 ……と、精神論で泣きやむくらいなら苦労はない。ぐすぐずと耳に不快な泣き声は続いている。

 えーと、なんかないか、なんか。
 アレとか駄目かな。

 氷河は片手でネクタイを緩めるとシャツの釦を一つ、二つ外し、首にかけていた母の形見のロザリオを取り出した。
 猫をじゃらす要領で、赤ん坊の目の前でぶらぶらと揺すってやると、窓の外から差し込む朝日にきらきら輝く物体を、涙をいっぱいに溜めた瞳でじっと見つめた赤ん坊は、ダァ、と不思議そうな声を出した。
 そして、好奇心いっぱいの顔で手を伸ばしてロザリオの先を掴む。

 わー!ご、ごめん、口には入れちゃだめだ!

 見せてやるだけのつもりがうっかり奪われて、氷河は焦る。涎まみれになるのは洗えばいいとして、赤ん坊の口に入っては衛生的にまずい気がする。いや、自分がばっちいとかそういうことではないけど、見ず知らずの他人が身に着けているものを口に入れるのは母親が嫌だろう、多分。
 とはいえ、力任せにひっぱると赤ん坊の手が傷つく。意外と握る力は強い。
 かくして、氷河と赤ん坊の、ロザリオを巡る攻防はしばらく続いたのだった。


 十分も揺られないうちに、殺人的な混雑を氷河の背に守られた母子は、よほど疲れているのか揃ってうとうとし始めた。
 母の方は胸に抱いた子をつぶさぬように扉のところへ額を預けて。
 背負われた子の方は、母より少し遅れて船を漕ぎ出す。結局ロザリオは握ったままだ。寝入ってしまえば放してくれるかも、と期待して見つめているうちに、今度は危なっかしくぐらんぐらん前後に揺れる首が気になってきた。
 かっくん、と真後ろに直角に折れた首は、柔らかい身体だなあ、という感想以前になんだか怖い。あんなに首を反らして気道は塞がれないのだろうか。電車がブレーキを踏んだ時に鞭打ちになったりしないのか。気になって気になってしかたがない。
 何度目かの「かっくん」の拍子にようやく放してくれたロザリオを胸へ戻すついでに、氷河はそっと彼の後頭部を押して元に戻してみたのだが、電車の揺れでまたかっくん、と後ろに直角に反る。
 迷った末に、氷河は空いていた方の手首を時計を眺めるふりをして持ち上げ、その赤ん坊の頭にそっと添えてやった。
 近寄ってよく見ない限りは、時間を確認している人、に見えるはずだ。まじまじと見られてしまえば明らかに他人の赤ん坊の頭を掴んでいる「変な人」なのだが。

 ううっ。ごめんなさい、俺、不審者じゃないです。

 どうか、誰もこの変な状況に気づきませんように、と祈りながら、赤ん坊の顏を覗き込めば、しっかりした支えの枕を得て、赤ん坊は、本格的にすうすうと寝息を立てていた。その寝顔があまりに可愛くて、氷河は、ふふ、と笑う。
 この母子にたくさんの祝福がありますように。
 シャツの内側に掛けた、母の形見のロザリオを意識しながらそう祈った時だ。
 ふと、背後に迫る気配に違和感を覚えた。
 車内の混雑は相当なものだ。電車がスピードを変える度に、手すりからも吊革からもあぶれた人間の塊が慣性の法則に従って氷河の背をぎゅうぎゅうと押してくる。何しろ、鞄から手を離してもそれが人間同士の圧力で床に落ちないほどの密度だ。さっきから背中にぶつかる誰かの鞄だとか腕だとかが痛くて仕方ない。
 だが、違和感はもっと下の方で感じた。
 太腿のあたりを何かがもぞもぞと動いたように思ったのだ。

 ……?
 気のせいか?

 背中も、尻も、肩も、誰かに接触していない部分などないほどすし詰めだ。気にせぬように外の景色を眺めようと顔を上げれば、また、腰のあたりに不自然な感触を感じる。
 その動きに、なんとなく嫌なものを感じて、氷河は後ろを振り返ろうとした。
 だが、半身を捻った途端、氷河の手のひらから赤ん坊の頭がぐらりと落ちかけて、慌てて氷河は意識をそちらへ戻した。薄く目を開いた赤ん坊は、またすぅ、と眠りの世界へ戻っていく。
 赤ん坊を起こさずに済んでほっとしたのも束の間、今度ははっきりと、双丘の辺りをさわさわと撫でまわす動きを感じた。

 ……!

 たまたま手が当たったわけではない。間違いなく、故意の動きだ。

 くそっ。

 氷河は唇を噛む。
 実のところこういう目に遭うのは一度や二度ではない。
 最初は女性と間違えられたのだと思って、残念でしたー、と笑う余裕があったのだが、一度、大胆にも下着の中にまで手を入れてきた輩がいたことで状況は一変した。その不埒な輩は、手を入れた瞬間にはっきりと氷河が男性だと認識した(はずだ)。にも関わらず、まったく退かなかった。むしろ、さらに喜々として若い肌を蹂躙し、物理的な刺激に勝手に反応してしまう雄の本能に翻弄される氷河を執拗に嬲ったのだ。
 満員電車が苦手なのはこれが多分に大きい。毎度同じ人間なのか、それとも違う人間なのかわからないが、よくもまあ飽きもせず、と思うほどそれは頻繁だった。
 同じ人間だとしたら、乗る車両を変えても時間を変えても必ず遭遇する、というのが気味が悪いし、違う人間だとしたら、そんな変態が世の中に何人もいるのだと思うとそれはそれで気が滅入る話だ。
 女性であれば、恐ろしさのあまり声も出せずに泣き寝入りせざるを得ないところかもしれないが、氷河は違う。憤りは感じるが恐ろしくはない。ただ、注目を浴びるのは世の女性同様に(むしろ男性であるがゆえに)恥ずかしく、声を上げて騒いだりはしない。代わりに、問答無用で氷河はずうずうしく人の身体を勝手にまさぐる手首を万力で締め上げてみせる。細い身体にそぐわず、意外と力の強い氷河に思わぬ反撃にあって、たいていはそれで怯んで諦める。そのまま手首を捕まえ続けて、駅で下りたら、面と向かって抗議してやろうといつも思っているのだが、降車するときの混乱状態で逃げられてしまい、未だに一度も犯人を特定できていないのが業腹だ。

 フン、この下衆野郎が。

 貴公子のように整った顔に似合わぬ乱暴な罵りを心中に吐いて、氷河はいつものごとく反撃に出ようとした。
 が、はた、と動きを止める。
 今は……両腕がふさがっている。片腕は目の前に立つ女性へ空間を作ってやるために扉へ手をついて。片腕はその背にいる赤ん坊の枕として。
 ……困った。
 足を蹴ってやろうかと思ったが、これほど人口密度が高い車内で、過たず犯人の足を蹴ることができる保証などないに等しい。
 仕方なく、氷河は押しつけられる手の動きから逃れようともぞもぞと身を捩った。
 だが、その程度の抵抗など、背後の不埒な気配は全く意に介した様子はなく、むしろ、遠慮がちだった手の動きをあからさまな性戯へと変えていく。ぴたりと腰を抱くように密着した背後の身体は不快な熱を放っていて、その上、双丘の間に熱い昂ぶりをすりすりと擦りつけてくる。

 この、野郎……!

 氷河はせめて睨みつけてやろうと首だけ背後にまわしてみたが、件の新聞の男性が、まだバサバサと中途半端に広げている紙面が邪魔で、犯人の顔を視認するには至らなかった。
 だが、背後に立つ輩からは、氷河の両腕が塞がっている状況が見てとれるのだろう、抵抗がないと知っているかのように、堂々とその手が前にまわり、スラックスの上から氷河自身の輪郭をなぞるように撫で回し始めた。
 やめろ、と思わず声が漏れそうになる。
 赤ん坊は声に驚いて起きるだろうか。周りの人間はなんと思うだろうか。
 そう思うと、氷河は羞恥と怒りを抑えて唇を噛むしかできない。

 くそっ。今日こそ許さない!駅についたら覚えておけ!

 勇ましく罵ってはみるものの、抵抗を返さない氷河に、不逞の輩の手は、そのうちに、ジ、と氷河のスラックスのジッパーを下ろし始めた。慌てて腰を引けば、自分から相手に下肢を押し付けるような格好になってしまい、氷河は臍を噛む。
 妖しく蠢く指が、ジッパーを下げたスラックスの隙間からするりと侵入してきて、布地をかき分け、直接、氷河自身を掴んだ。
 身を固くして辱めに耐えていた氷河の身体がビクリと震え、背中を嫌な汗が流れ落ちてゆく。血の気が抜けるほど唇を噛む氷河の耳元で、はあはあと興奮した獣のような呼吸音が聞こえて、あまりの怖気に氷河の全身が総毛立った。
 くたりと力なく垂れる氷河自身を、いやに湿った男の手が包み、揉みしだくように指が蠢く。
 嫌悪感しかないのに、緩急をつける指使いは巧みに氷河の欲望を引き出していく。
 ここのところ忙しくて、シャワーを浴びてベッドへ入ったが最後、すぐに寝落ちる生活が続いていた。起きたときに、長らく放出されずにじんわりと淫熱を帯びている自身を慰撫する時間もなく、そのまま着替えて電車に飛び乗ってきたのだ。氷河の意志とは裏腹に、彼の雄はあっという間に高められて固く膨らんでしまう。
 背を駆け上がるぞわぞわした疼きを嫌悪感ではなく、快感と感じてしまう自分に、耐え難い屈辱を感じて、氷河の眦に涙が浮かんだ。
 長い睫毛を伏せて感じまいと耐える姿すら、男の欲を煽るとは知らずに、氷河は身体を震わせて中心に熾きかける火を消すのに必死だ。熾きては消し、消してはまた熾きる雄の衝動を耐える拷問に、氷河のうなじに汗が浮かび、一筋の金の髪がそこへ艶めかしく張り付く。
「……っ……ぁ……っ」
 若い性を無遠慮に弄ぶ暴虐に堪えきれずに、噛みしめた唇の間から、押し殺しきれない苦悶の喘ぎが漏れ、いやだ、離せ、と小さく髪を振れば、その弾みで耐えていた眦から一滴涙がこぼれた。

 と、そのとき。

「……ぐぅっ……っつぅ」
 くぐもった苦悶の声とともに、氷河自身を責め苛んでいた、熱のこもった湿った手が不意に去った。
 吐精の欲と、それを許さぬ矜持との間でせめぎ合っていた氷河の意識は突然の解放を戸惑って、茫然と宙に浮く。
 不自然なほどに背中に密着していた熱が消え、代わりに、背後で、何かが揉み合う衣擦れの音と、呻き声とがした。そして、「次はへし折る。警告なしでだ」という低い囁き声がすぐそばでしたかとかと思うと、ややして、密集した人間の塊の間を何かが慌てふためいて移動していく気配がした。
 振り向かずとも、誰かが助けてくれたのだ、ということはなんとなくわかった。翻弄する嵐が完全に去ったことをようやく受け止めて、氷河は大きく息をついた。その拍子にまたポロリと涙がこぼれる。
 安堵すると同時に、耐え難い羞恥が湧いてきた。

 あんな恥ずかしい状態を誰かに気づかれていた。
 きっと、男のくせに無抵抗でいた俺のことを変に思っていることだろう。もしかしたら淫らに誘ったのが俺の方だと思われているかもしれない。

 世の被害女性が皆陥ってしまう思考に氷河もまんまと陥り、まるで自分が悪いことでもしていたかのように氷河は身を縮ませた。
 だが、すぐに、少なくともお礼くらいは言わなければならない、と気づいて、氷河は、「あの、」と羞恥を堪えて振り返ろうとした。
 しかし、振り返ろうとする動きは頭の上から降ってきた低い声に遮られた。
「動くと赤子が起きてしまうのだろう」
 氷河はハッと視線を赤ん坊へ戻した。氷河の腕を支えとして、まだ夢の中にいる無垢な寝顔に、よかった、と安堵する。
 氷河が抵抗しなかった理由に気づいていたかのような言葉と健やかな寝息に、抱えていた羞恥や悔しさは幾分減じられて、救われたような気持ちになった。

 氷河が扉についた手のすぐ横に、一回り大きな手が置かれた。氷河が守るようにして作っていた小さな空間は、今度は氷河ごと背後の人物に守られるように囲われる。
 背中から受ける圧迫感がなくなって、ほっと一息ついた氷河はこそこそと扉へついた片腕を下ろして、乱されていたシャツやスラックスを整えた。
 公共の場所だというのに遠慮なく釦を外され、落ちかかったスラックスに、さすがに周囲の数人には何が行われていたのか気づかれたことだろう。
 背後の男性が氷河を囲うように立っていなければ気まずさと好奇心の入り混じったあまり愉快ではない視線に晒されていたに違いない。
 こんな状況でなければ絶対に好き勝手させなかったのに、という屈辱でまた少し涙が出た。でも、俺でよかったんだ、女の人がこんな悔しい思いをしたんでなくて、とも思い、ず、と鼻をすすったあとはきっぱりと顔を上げた。
 氷河の前へ、タイミングよく後ろから、す、とハンカチが差し出される。
 一瞬、躊躇って、おずおずと氷河はそれを受け取った。
 ありがとうございます、と口を開きかけたが、声が涙で揺れそうで、仕方なく頭を下げて精一杯の謝意を伝えた。

 鏡面のように鈍く反射する車窓に、ぼんやりとその姿が映っている。
 ずいぶん背が高いひとだ。周囲の人間より頭一つ抜けている。
 カミュと同じくらいか……いや、カミュよりもさらに高そうだ。
 仕立ての良さそうな三つ揃いのスーツからはとてもこんなゴミゴミした電車で通勤するような人種には見えない。車窓に映る姿だけでは容貌ははっきりしないが、佇まいからして男前のそれだ。爽やかなマリンノートが仄かに香り、嫌味ではない控え目な大人の男の色気を纏っている。
 無用に騒がず、大多数の人間に何が起こっているのか気づかせなかった配慮といい、黙ってハンカチを差し出す濃やかさといい、真に成熟した大人の落ち着きを感じるのだが、『へし折る』などと不穏当な台詞をさらりと吐いていたあたり、実際の年齢は思っているよりも若いのかもしれなかった。
 氷河の肩に、男性の、美しいプラチナブロンドが零れ落ちている。
 ちょっと見ないほどの完璧なブロンドは、だがしかし、氷河の記憶をチクチクと刺激する。
 俺はどこかでこんなブロンドを見たような……?
 声も、どこかで聞いたことがあるようなないような……?
 顏をもっとよく見てみたら、このモヤモヤが晴れるような気がするのに、硝子に映ったおぼろげな姿は、外の景色と二重写しになってよくわからない。
 どこかで会ったことがありますか?…………………なんて訊いたら、まるで陳腐な口説き文句みたいだ。
 それこそ誘われていると誤解されては居たたまれない。
 知り合いにたまたま助けられる、なんて映画のような偶然があるはずもないのだから、記憶が刺激されるような気がするのは多分何かの間違いだ。


 電車のスピードが遅くなり始め、次の駅名を告げるアナウンスが車内に響く。
 氷河はほっと息をついた。
 巨大なオフィス街が広がる基幹駅に着くのだ。たいがいの人間はここで降りる。氷河の目指す駅はその次なのだが、例え一駅でも体を動かす自由な空間が戻ってくることがありがたい。
 アナウンスの声で、うとうとと扉に額をつけていた女性がハッと目を覚ました。雑音では目が覚めないのに、自分が降りる駅のアナウンスで目が覚めるなんて、夢の中でも仕事に行かなきゃ、と気を張っている証拠だ。俺なら寝過ごしちゃうのにな、と、遅刻の過去を思い、その真面目さに頭が下がる心地がする。
 目を覚ました女性は、よいしょっと前後に負った子供を抱え直した。その拍子に氷河が支えていた赤子の首がぐらりと揺れて、母の肩にぶつかった。母はそれで、ア、と背中の子が眠っていることに気づいたようだ。前に抱いた子を庇いつつも、少し背をまるめるようにして、首が落ちないようにもう一度抱え直している。
 ようやく、『枕』の務めから解放されて、氷河は軽く腕を振った。じんわりと痺れている。勝手に焼いたおせっかいだが、その痺れは、でも、遠い日の母との思い出へ繋がる幸せな痺れだった。

 林立するビル群の谷間に、キィーッと長く尾を引く軋んだ音を立てて電車が止まった。
 シュッと音を立てて開く扉から、激流のようにドッと流れ出て行く人の波に、働く母の背はあっという間に飲み込まれて行った。たくさんの人の頭の間に、色違いのクマ耳の帽子が二組、長いことチラチラと見えていて、氷河は微笑ましくそれを見送った。
 再び、シュッという音を立てて扉が閉まり、あ、と氷河は慌てて周囲を見渡した。

 あのひとは……!?

 車内は、『殺人的に混んでいる』レベルから『足の踏み場もないほど混んでいる』レベルに落ち着いて、ようやく手に入れた、身体を動かす自由を享受して表情を緩めている乗客が立っているばかり。いくら見回しても、あの、背の高い男性の姿はもうどこにもない。

 しまった!お礼も言っていない……!

 母子に気を取られているうちに、どうやら同じ駅で降りてしまったらしい。
 氷河は手に握ったままだったハンカチを見つめた。

 返しそびれてしまった……。
(でも赤の他人の涙を拭いたハンカチなんてその場で返しちゃ駄目だよな?連絡先を聞きそびれた、というべきだろうか)
 ……また、会えるだろうか。

 きちんと糊のきいたオーシャンブルーのハンカチは、男性が纏っていたほのかなマリンノートが香って、氷河の心臓は長いことドキドキと音を立てていた。

(fin)
(2013.11.6UP)