サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
◆ep1 ミス×ミス×ミス ⑤◆
変なところで時間をくったせいで随分遅くなってしまった、とやや足早に氷河は廊下を急ぐ。
建築設計部のオフィスのある廊下には灰色の薄いカーペットが敷かれていて、速足となった氷河の靴底の音をすっかり吸収してしまう。
他のフロアには敷かれていないそのカーペットは、細かい、集中を伴う作業をすることが多い設計者達が、廊下を行きかう台車や足音で集中を途切れさせることがないように、というカミュの配慮で総務に要望したんだとアイザックから聞いた。
正直、ええ?物音くらいで神経質な人なんだな、とびっくりしたのだが、今日、なんとなくその理由がわかった気がする。
この業界は、生き馬の目を抜く、とても厳しい世界で、ライバル会社との競り合いもどこよりも激しいのだ、きっと。
だからこそ、体力のある会社と提携することで、他社と競り合うための駆け引きを身に着けたり、褒められたものではないが、あのドルバルという男のように、卑怯な手段でもって技術を盗もうとしたりと、皆必死に少ないパイを奪い合っている。
物音ひとつ、と侮っていては、この業界では生き残れないのだろう、きっと。
改めてカミュの、仕事に対するストイックな姿勢を尊敬しながら歩いていた、その時、鼻腔を不快な匂いがくすぐったように感じて、氷河はハッと立ち止まった。
これは……煙草…?
どこからか煙草の匂いがする。
愛煙家に厳しいご時世の昨今、聖域建築も例外ではなく、喫煙できるスペースと言うのはごく限られていて、建築設計部のあるフロアには喫煙場所は設けられていない。
それなのに、なぜ。
不審な顏で氷河は廊下を見回した。
奥に建築設計部の扉が見えているが、匂いはすぐ近くから漂っている。
建築設計部の扉の二つ手前、つい先日、自分が半日籠った資料庫。意図してか意図なくしてか、扉が薄く開いていて、オレンジ色の人工的な明かりが廊下に漏れている。どうやらそこから匂いの元は発せられているようだ。
あんな紙ばかりのところで一体誰が、と、驚いた気持ちで、そのドアノブを握ろうとした瞬間、「氷河」という単語が漏れてきて思わずギクリと動きを止めた。
──どう思う、お前。
──どうって、あれで社員だってだけで俺らより給料は上なんだぜ。詐欺だろ。
──だよなー。去年、アイザックが来た時は、スゲーなって思ったけど今年はハズレだな。
──ハズレもいいとこだろ。法務部とか総務部の新人は優秀だって言ってたぜ。
──仕事に慣れるまでは仕方ないかなーと思ってたけど、あいつ、基本的に常識がなさすぎるよ。多分、一生モノにはらないぜ。
──そうそう。「朱肉」取ってくれって言ったら、あいつ何したと思う?冷蔵庫見に行ってやんの!朱肉って肉の種類だと思ったんだよ、あれ確実に!
──電話受けた時もすごかったな。『アイザックですか?今トイレです』って!
──『トイレです』!ぎゃはははは!それ言っちゃうヤツがあるかっつーの!
──カミュに『データの受け入れ伝票きっといてくれ』って指示された時も傑作だった。あいつ、ハサミ持ち出して、ほんとに伝票切りやがった!そんでカミュが『違う、ハサミで切るんじゃなくて、伝票をおこしてだな』って説明したらえ?起こすんですか?って机の上に伝票綴りを立ててた。
──あーもう、腹筋崩壊する、やめてくれ~!
──カミュ、背中が震えてたぜ。よくキレられずにすんだもんだ。俺らだったら『そんなことも知らんのか!』って怒鳴られてるな、あれ。
──ああ、確かにな。あれだよな、カミュ、氷河に甘いよな。
──あの外見だもんな。反則だよな、あれ。何やっても許されるんじゃねえの。
──仕事できなくても座ってりゃ可愛がられるんだから世話ないよなー。
──さしもの堅物カミュも、カワイコちゃんには弱かったってわけか。
堪えた。
正直、今日一番堪えた。
何故なら、全部、事実だったから。
氷河のノートには「朱肉っていうのは印鑑のインクのこと」だとか「伝票をきる、おこす=伝票を書く」とかちゃんと書いてある。
社会に出て、初めて知った。
俺って本当に何にも知らない。学校でそんなことを教わらなかった、なんてことは言い訳にはならない。同じ学校で学んだアイザックはこんな基本的なことでは躓いてなどいないのだから。
『一生モノにはならない』
『今年はハズレ』
どれも当たっている。今、資料庫の中で話をしているのは派遣社員の二人だけのようだが、部内全体の声に違いない。
きっと、カミュも。
氷河は空になった製図ケースをぎゅっと握って、こぼれそうな涙を耐えた。
それでも。
自分だけならともかく、自分のせいでカミュまで公正ではないような言い方をされるのは我慢がならなかった。その上、大切な大切なカミュの作品が収まったあの箱の中で煙草など言語道断もいいところだ。
一言、言ってやる。いや、殴ってやる。
その結果、会社にいられなくなっても構わない。
氷河は唇を噛みしめて、ドアノブに手をかけた。羞恥と激しい怒りで、自分でもびっくりするほど手が震えていた。
が、くるりとそれを回す瞬間、その手を止めるように背後から長い指が重ねられた。
驚いて視線を上げる。
「……カ……」
カミュは氷河が声を上げる前に、指先をそっと氷河の唇にあててそれを止めた。
氷河の足音を吸収したカーペットは、カミュの足音をも消したのだ。いつから背後に立たれていたのか、全く気付かなかった。
今の会話をカミュは聞いてしまっただろうか。氷河はいたたまれないやら恥ずかしいやら情けないやらで、頬を赤く染めた。
カミュは、わたしに任せなさい、と少し氷河の肩を押しやると、自分はするりと扉の内側に体を割り込ませた。
「あっ!」
薄い壁を隔てた向こうから、慌てふためいて、大きな塊があちらにぶつかりこちらにぶつかりする音が響く。
ややあって、カミュのいつもよりさらに厳しい声が響いた。
「現行犯だ。喫煙場所以外での喫煙。それもこんなに可燃物ばかりの場所で、論外だ。───ところで、お前たちは自分の派遣契約書を読んだことがあるだろうか。第十三条の六項、『派遣された者が聖域建築の職場秩序に違反する場合、懲戒その他合理的な措置をとることができる』そういうわけだ、残念だったな」
「えっそんな、いきなりクビ!?煙草くらいで!?」
「いきなり?いきなりだと思うなら自分の胸に手を当ててよく考えるといい。この場所での喫煙は初めてではなかろう。ここがすっきりと片付いたのをいいことに、度々、資料探しをするという口実で油を売っていたのは誰だ」
気まずそうな沈黙がカミュの言葉を肯定している。カミュは、冷酷とも言えるほど容赦ない断罪をさらに浴びせる。
「120%の力を出す努力をする者しかわたしの元には必要ない。隙あらば手抜きをしようとするお前たちの姿勢には以前から辟易していた。やりかけている仕事は全部そのまま放っておいてくれればいいから今すぐ人事部へ行って、今日までの報酬を清算してもらえばよい」
引継ぎすら必要ない、それだけの仕事などお前たちはしていない、という、取りつく島すらない、あまりに厳しいカミュの糾弾に、それでも、悔しそうな声で弱い反論が上がる。
「お、俺らがクビになるなら当然アイツも……氷河だって」
「何?」
「アイツだって役立たずなのは一緒じゃないですか。なのに、あなたはずいぶん可愛がっている。ああいう美少年がタイプなんですか?あなたも意外と俗…」
瞬間、カミュが叩いたのか蹴ったのか、ダン!と大きな音がして、氷河の目の前の壁が震えて、氷河自身も驚きで飛び上がった。
「どこまで低俗なんだ、お前たちは。お前たちと氷河を一緒にするんじゃない。氷河は必ずモノになる。なぜならこのわたしが教えるからだ」
壁にぶつけた怒りに反して、再び漏れ聞こえてきたカミュの声はとても穏やかだった。
氷河には、その穏やかさが逆にカミュの怒りの大きさのように思えて腑が冷えたが、反論する声は、カミュの声の調子の変化を、自分達が一矢報いたように感じたようだ。
「ほら。そうやって氷河には特別に肩入れしている。俺達に一度だってあなた自身が何かを教えたことなど……」
「自分達と氷河との決定的な違いがわからないような曇った目では、わたしが教えたところで何も見ることはできない。正社員か派遣社員かということも外見も何ら関係はない。氷河には教える価値があるがお前たちにはない。お前たちが、例えば、一度でも自分から進んで動くようなことがあれば結果は違っていただろうが……。残念だったな、お前たちは、このわたしの指導を受けられるチャンスを自分でつぶした」
次第に憐れむような口調となるカミュに、でも、とか、だって、という反論の声はついに止んだ。
「さあ、行きなさい。せめて契約解除理由は自己都合にしてやろう。懲戒となるともうこの業界では生きてはいけまい。どこも人余りだ。せめて心を入れ替えて励むなら、もう一度やり直せるだろう」
ややして、すごすごと、萎れた様子の二人の男と、それに続いて、険しい顔のカミュが姿を現す。
男たちは茫然と突っ立っている氷河の姿を一瞥したが、もはや、特別に反応することなく、廊下の先へと背を丸めて歩き去って行った。
見たことがないほど厳しい貌をしていたカミュは、氷河の前でようやく、ほんの少しだけ表情を緩ませた。氷河は何と言うべきか、言葉を探して、目を泳がせる。
「何と言うか……す、すみません、俺のせいで……?」
冷たいカミュの相貌に、かけるべき言葉など氷河にあろうはずがなく、結局、自分のせいで、この大事な時期に部下を二人も失うことになった痛手を謝るべきかと、そんな言葉がつい漏れた。
カミュは少し眉間に皺を寄せて氷河を見下ろす。
「聞いていなかったのか?お前が気に病むような問題ではない」
「でも、あの、かばっていただいて……役に立たないのは間違っていないのに……」
「わたしはお前をかばったわけではない。全部本当のことだ」
カミュはそう言って自分の左腕を目の前に翳した。文字盤を読んで、また微かに眉間に皺が寄る。
「もう終業時刻が来てしまうな。すまないが、氷河、今日は残れるか?あの者たちの仕事をお前に引き継がせたい」
「えっ…………ハイ!」
突然のことに、氷河は目をまるくして、勢いよく何度も首を縦に振った。
「悪いがわたしはこれから人事部へ寄ってくる。帰宅せずに残って待っていてくれ」
「ハイ!」
気持ちはもうすっかり新しい仕事へと向いて、元気よく返事をした後は、カミュにくるりと背を向けて部屋へ戻ろうとする氷河の手首をカミュが咄嗟に掴んだ。
勢いよく踏み出していた身体を縫い留められて、反動でカミュの方へと氷河の身体は大きく傾ぎ、それを抱きとめるようにカミュの腕が氷河の肩を支えた。高揚して浮つきかけていた気持ちを諌められるのかと、不安気にカミュを見上げる薄青の瞳をカミュの緋色の瞳が間近で射抜く。
「今日は……ご苦労だった」
出張のことを労われたのだと、氷河が気づくのには時間を要した。
それほど、カミュの瞳も、声も、剣呑な色を滲ませていた。条件反射で、すみませんでした、と氷河が謝ってしまいそうなほどに。
どうかしたのかと、緊張した面持ちでカミュを見上げる氷河をしばらく見つめ、カミュは人差し指の背で氷河の頬を掠めるように撫でた。
「何かあったのか?その……出先で」
「えっ……!?」
カミュにしては歯切れ悪い問いに、氷河は動揺で思わず声が裏返る。
「何かって、な、何がですか?ちゃんと、あの、俺、言われたとおりに行き、行きました!」
声が震えてしまったのは、嫌な記憶を呼び覚ましたせいか、それとも心の裡を見透かすようなカミュの瞳に射すくめられているせいか。気のせいだろうか、カミュに掴まれている手首が痛い。
「何もなかった?ほんとうに?」
そう言ってのぞき込む紅い瞳は依然として冷たく燃えているようで、その瞳に見つめられると、氷河には何も隠し立てなどできなくなってしまいそうになる。口を開けば、実は、と言ってしまいそうで、氷河は無音のまま、ひたすら首を振った。
が、否定したにも関わらず、カミュは、表情を変えることなく、依然として氷河の手首を掴んだまま離さない。
無言の詰問から逃れるように俯いてみても、つむじのあたりに注がれる視線を感じ、どうにも居心地が悪くなった氷河はたまらず口を開いた。
「あ、の!……あのぅ……あのぅ……ミロが…」
「ミロが?」
カミュの眉がピクリと動く。
「た、たまたま出先で会って、あの、それで、『俺じゃない』ってカミュに伝言を頼まれました。今日あった、変わったことと言えば、そ、それだけです」
「……『俺じゃない』……?」
「すみません、そうとしか聞いていなくて。い、意味不明です……か?やっぱり」
カミュはますます眉間に皺を寄せて難しい顔をした。
「いや、意味は通じている。そうか……」
カミュはしばらく思案顔だったが、やがて、静かに氷河の手首を解放した。
「わかった。……とにかく、まずはわたしは人事部へ行かねばならない。アイザックも今日は残ることになっているから、そのことを伝えておいてくれ。多分、そう時間をおかずに戻れるはずだが」
そう言って、カミュは廊下の向こうへ消えた。
今のはなんだったのか、氷河にはわからず呆然と背を見送る。掴まれていた手首が痺れたように感覚が無くなっていた。
**
「おう、お疲……れ?」
アイザックの顏を見た瞬間に、ぐっと涙がせり上がってきた。
人前でなければ、飛びついてしまったかもしれないほど、一気に氷河の中の箍が緩み、緩んで初めて、今日一日ずっと肩に力が入っていたのだと自覚する。
「待て待て待て待て、まだここでは泣くな、まだ就業時間内……っと」
まだ瞳が潤んだわけでもないのに、氷河の微妙な表情の変化に、何かやばそうだ、と察したアイザックが立ち上がった瞬間、終業を告げるチャイムが鳴った。
部内の空気が、少し柔らかく解ける。
その空気に、アイザックは、まあいいか、来いよ、と氷河の手を引いて、給湯室へと向かった。
終業時刻を迎えた給湯室は既にきちんと片づけられていて、残業者用の簡易ポットのみが小さな音を立てて稼働している。アイザックは照明のスイッチを押すと、執務室との入り口をパタンと閉めた。
帰宅準備でざわざわとしていた執務室の喧騒が途端に途絶え、気心の知れたアイザックと二人きりになると、もうダメだった。
「アイザック……」
後はもう言葉にならない。会社で泣くなんて駄目だ、最悪だ、と思えば思うほど、泣きたい気持ちが溢れ出てきて、氷河は必死に唇を噛んだ。
アイザックの手が伸びてきて、よしよし、と氷河の頭を撫でる。
その動きに、堪らず涙が零れた。もう今日の分は泣きつくしたと思ったのに、まだ残っていた涙に自分で呆れながらも止まらなかった。
遠慮なくアイザックの肩に頭を押し付け、堪えていた感情を解放させる。
「カ、カミュが、俺に仕事をさせてくれるって、俺をちゃんと育ててくれるって……それで二人クビになって……それで、俺は駄目だと思われていて……」
起こった出来事を逆順に説明しようとする氷河の言葉は足らないことだらけで、まるで支離滅裂だったが、付き合いの長いアイザックは、うん、うん、とただ黙って氷河の頭を撫で続けてやる。そのアイザックの肩口に氷河の涙が落ちては消えて行く。
自分でも何をそんなに泣いているのかわからなかった。
今日は色々ありすぎて、感情を収めていた胸の中の小箱は既にいっぱいいっぱいだったところに、さらにまた色々あって、流れ込む激しい奔流に耐え切れず小箱自体が勢いよく内側から壊れてしまった、そんな感じだった。
同僚に駄目な奴だと思われていた。悔しい。
ほとんどの部分は事実だった。情けない。
カミュが自分を認めてかばってくれた。嬉しい。
でも、どこをそんなに認めてくれたのかはよくわからない。困惑。
しかも、その後のカミュは何か変だった。ちょっと怖い。
自分で抱えきれない想いを、アイザックに向けて、不明瞭な言葉として吐き出しながら少しずつ頭の中を整理してゆく。
俺が泣いているのは、今、泣いている一番の理由はきっと、カミュが「モノになる」と言ってくれたのが嬉しかったから。
今日、一番感情が揺り動かされたとしたら、それだ、と氷河は思った。
会社勤めが始まってからずっと、自信がなかった。
社会人として流れる時間の早さについていけない。周りが話している単語の何もかもが理解できない。自分が何がわからないのかもわからない。
大海原に一人ぼっちで取り残されたような心細さがずっと付きまとっていた。
どこへ進めばいいのか。
自分が進んでいる方向は合っているのか。
周りに広がるは無限に続く海水だというのに、自分ときたら何も持っていない。どうやって進めばいいのかわからない。
なのに、遠くに浮かぶ船たちは、氷河の戸惑いをよそに、皆、迷いなく、確かな舵取りで自分の進むべき航路をどんどん進んで行ってしまう。
待って、と追いかけても追いかけても届かない。
それでも、必死に、水をかき続けてきた。いつか、目標とする陸地へ辿り着くために。
不安で不安で仕方なかった航路を、カミュが、大丈夫、それで合っていると、そう、言ってくれた。
安堵のあまり力が抜けそうなほど、その言葉は氷河にとって確かなもの。
縋るものがあれば、例え幻影の船影にすら縋りたいほどだったのに、それをもたらしてくれたのが氷河にとっての目指す陸地、カミュその人だったことが嬉しくて嬉しくて、どうしようもなく泣けた。
アイザックの手が、ゆっくりと頭を、背を撫でる。
氷河の、途切れがちな、支離滅裂な言葉に口をはさむでなく、何か問うでなく。
「よかったな。カミュがちゃんとお前を見ていてくれて」
どうにか氷河の言いたいことが通じたのか、アイザックはそう言って、少し複雑そうに笑った。
感情が揺れ動いたのは時間にすればごく僅かだっただろう。
昼間、一度、感情を放出させていたせいか、アイザックに己の思いを一気に吐き出した後は、すぐに落ち着きを取り戻して、伏せていた顏をしっかりと上げ、氷河は拳で頬をごしごしと擦った。
「ごめん。取り乱して。まだ会社なのに」
「お前は昔からよく泣いてたもんな」
氷河は、アイザックの言葉に少し唇をとがらせる。
「そんなに泣いていないだろ」
「そうか?だって、今日も泣いただろ」
「今のは特別だ。お前の顏を見たらなんかいろいろ堪えきれなくて」
自分は氷河の特別だ、と言われているようなその言葉をくすぐったく受け止めながらも、アイザックは苦笑して首を振る。
「違う、俺のとこで泣く前に、お前、既にどっかで泣いてきただろう」
「えっ……ええっ!?!?」
あまりに的を射たアイザックの言葉に、氷河は動揺で瞳を泳がせた。
「な、なんで?泣いてなんかいない、俺、だって今日はちゃんと出張に行っていただけだし、ア、アースガルドの人、みんないい人だったし、そ、そんな泣くようなことなんか何も、べつに、」
「……アースガルドでなんかあったんだな」
「!ち、違うって!ほ、ほんとに!」
動揺のあまり言葉が過ぎた氷河が迂闊なのか、アイザックの方が鋭すぎるのか、あるいはその両方なのか。お前のことなら何でもお見通し、と言いたげな碧の瞳の前に、氷河はついと目を逸らすしか逃れるすべはない。
「だ、だいたい、泣いたなんて、根拠もないのに、言いがかりだ。当てずっぽうでそういうこと言うのはやめてくれ」
「根拠ならある。お前、ものすごく泣きました、って顔で帰ってきた」
「えっ?う、うそ」
つきあいが長いとはいえ、表情からそこまで読めるのか、と氷河が驚きに目を瞠ると、アイザックの指が氷河の頬の上を撫ぜた。つい先ほど、カミュの指が同じようにそこへ触れたな、という思いがチラリと掠める。
「涙跡。思いっきりついてた」
「えっ。えーっ!?」
そう言えば、泣いた後に顔を洗ったりはしなかった。
あんまりじっくり自分の顏を鏡で見る習慣がないから気づかなかった。恥ずかしい、じゃあ、俺はあの後ずっと……
………ん?
ということはアルベリッヒ!
うわあああ!涙跡ついたまま俺ってば嬉しげに仕事の話してたのかあ!?
どうりで、何の突っ込みもなかったはずだよ!
何て思われただろう!?
こんな、泣きました、ってヤツが届け物に来たら、あーコイツ怒られてここに来たんだなって思うよな、きっと。
だから、お情けで質問はナシにしてくれたんだろうか。
ああああ、もう俺アースガルドには行けない。
っていうか、ミロ!!
あの人が気づいてないはずないのに、どうして教えてくれないんだ!絶対、今頃笑い転げてるに違いない!
ひどい!
やっぱり、いい人ってのホントに取り消す!
一人で赤くなったり青くなったりしている氷河の、シャツの襟もとにアイザックは指を掛ける。そして、そのまま首筋に顔を埋めるように少し腰を折った。
「こ、今度は何だよ?」
くん、と犬のように鼻を鳴らしたアイザックは、眉を寄せて、しかめ面を返す。
「何だよって、お前こそこれは何だよ。お前一体どこでマーキングされてきたわけ?ずいぶん嫌味な匂いさせてんな」
「匂い?」
「気づいてないのか?香水かな……女モノじゃなさそうだ」
ドキ、と氷河の心臓が跳ねる。
あまりに濃密に氷河にまとわりついていたその香りに、自分自身の鼻はもう何も感じなくなってしまっていたが、自分はまだあの男の纏う空気の中にいたのだ。
そのことを指摘されて、一瞬にして血の気が引いた氷河の頬にアイザックが手をやる。
「おい、大丈夫か?ホントにお前何があった?アルベリッヒに虐められてきた?そういやアイツちょっと変なところがあったっけ」
「ち、違う、その人は関係なくて、な、何でもないんだ、ほんと。や、やだなー、どこでこんな匂いなんてついたんだろ。で、電車かな?結構混んでたし……」
目を泳がせる氷河は明らかに隠し事をしている顏なのだが、ここで問い詰めても、意外と頑固な氷河は自分で話さないと決めたことは絶対に話さないことを知っているアイザックは、ただ、溜息をついた。
「とにかく、それは着替えろよ」
本当にマーキングされてるようで気分悪い、とアイザックは不機嫌に首を振った。
「俺、着替えなんて会社に置いていない」
「俺のがある。どうせサイズは一緒だろ」
「うん」
頷いて、氷河はロッカールームまで行くのも待たずに、シャツのボタンを外してゆく。
あの男の空気から逃れられるなら、例えサイズが合わなくても構わない、気づいてしまった以上、一刻も早く脱ぎ捨ててしまいたかった。