寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味


◆ep1 ミス×ミス×ミス ④◆

「さてと」

 いつまでも往来を氷河を抱いて歩くわけにもいかず、駅前まで戻ったミロは、手近にあったカラオケボックスの個室に腰を落ち着けた。平日の昼間とあって、ずいぶん空いていたが、ここなら周囲に話が聞かれる心配もなく、ゆっくりと氷河を落ち着かせることができる。
 ミロの腕からソファへと下りた氷河は、姿勢を維持させることができずにずるずると床の上まで体をくずおれさせる。
「大丈夫か?」
 優しくそう問われれば、床にぺたりと座り込んで返事をする氷河の声が涙で揺れた。
「なんで?俺、ちゃんと言われたとおりにアースガルドへ行ったのに。ミロ、どうしてあそこがわかったんですか?監視カメラってどこですか?なんであの人あんなことしたんですか?」
 激しく震えながらも言葉を一気に吐き出す氷河に、ミロは苦笑して頭を撫ぜた。
「ずいぶん一度に質問したもんだ。一つずついこう、氷河」
 氷河の背を、ミロはそっと抱き締める。
「まずは好きなだけ泣いていい。怖かっただろう」
 ゆっくりと頭を撫ぜられながら、温かな胸に包まれれば、堰を切ったように氷河の瞳から涙があふれ出した。
 どこからか漏れ聞こえる流行の音楽に紛れて、唇から零れ落ちる嗚咽は、涙と共にミロの胸へ吸い込まれてゆく。

 怖かった。
 特別な憤りも憎しみもないままに、他者を害することを厭わない、温度のない瞳というものに生まれて初めて出会った。
 あまりそういうことに知識がない氷河であっても、ミロが来なかったら、自分がどんな扱いを受けていたのか、くらいは容易に想像がついた。

 まだ、そばにあの男がいるかのように氷河にまとわりつく濃密な香りから逃れるように、氷河は無意識にミロの背に手をまわしてすがりつく。

 感情を放出して身体を震わせる氷河にミロは、もう大丈夫だ、とあやす様に背を柔らかく叩いてやった。
 耳に響く、温かな心音と同じリズムを刻むその動きに、揺り動く感情を涙として解放させていた氷河の気持ちは少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「俺がどこかで失敗した、んですね……?」
 涙を拭くこともせずに、ミロを見上げれば、背を叩いていたミロの手が止まり、ゆっくりと氷河の身体から離れた。
「君が、というより、カミュが、かな」
 そう言ってミロは胸元からペンと手帳を取り出して、それにさらさらと何かを書きつけた。

 『株式会社アースガルド』
 『アースガルド株式会社』

 白紙のページにそれだけ書いたミロは、氷河に手帳を見せながら問うた。
「さて、君がカミュにおつかいを頼まれたのはどっちだ」
「えっ?………どっちって……どっちも同じ会社です」
 ミロがやっぱりな、というように首を振った。
「違うんだよ、氷河。この二つの会社は全く別の会社なんだ」
「ええっ。だって……同じ名前です」
「本当に同じか?」
 驚きのあまりすっかり涙が止まった氷河は、もう一度まじまじとミロの手帳に視線を落とした。指で押さえて、一文字ずつ文字を追ってみる。
「『アースガルド』っていう部分は同じで、あとは『株式会社』が前についてるか後についてるかの違いしかありませんけど……」
 ミロが人差し指をビシッと氷河の方へ向けた。
「それだ」
「え?どれ?」
「『株式会社』のつく位置が違うだけで、違う会社になるんだ」
「え?え?ええ───っ!?だ、だって、そんなの、そんなの、変です、だって『株式会社』っていうのは会社の種類を表すってだけの単語で、『アースガルド』の方にその会社らしさというかアイデンティティが詰め込まれているはずなのに!?」
「変でもそういうことになってるんだから仕方ない。ついでに言うと全く同じ名前でも登記は可能だから、『株式会社』の位置が違ってるだけ区別はつけやすい方かな。まだ、社会人になったばかりの君がそれを知らなくても誰も責められない。君にとっての、そして、カミュにとっての不運は、その、似た名の会社が同じ業界に二つあり、しかも社屋の位置が近かった、そのことに尽きるな。だが、君が受けた仕打ちを思えば、不運で片付けてはいけない問題だ。きちんと指示しなかったカミュが悪い」
 ミロの種明かしを氷河は茫然とした表情で聞いていたが、カミュが悪い、と言われて、何度も首を振った。
 その動きで涙が床にぽたりと落ちる。
「あの、『まえかぶ』って、もしかして…?」
「ああ、そう、この二つの会社を区別するときには、『株式会社』がどこにつけられるか、その位置で、『前株』『後株』と呼び分けるのが習わしだな」
「あ………ち、違います。だったら、やっぱり俺のせいです。出がけに、アイザックが叫んでたんです。『前株』の方だぞって。一瞬、『まえかぶ』ってなんだろって思ったけど、俺、気が急いてて……確認を怠りました。だから、やっぱり俺の失敗です」
 しょんぼりと肩を落としてしまった氷河の頭を、ミロは手帳の背でポン、と叩いた。
「そうか。それはちょっと君も迂闊だったかな。新人の時は、恥ずかしくても面倒でも、相手を怒らせてでも、わからないことはどんなことでも一から十まで聞くもんだ。それが新人の特権ってことだからな。でも、今日のは、大部分はカミュのせいだからそうしょげるな。アイツ、一種、天才だろう?なんでもソツなくこなしてしまうから、凡人がどこでひっかかるか理解できないとこあるんだ。自分ができることは他人もできて当たり前だって思ってる。だから、アイザックですらできた配慮がカミュにはできなかった。……カミュのこと、許してやってくれるか?」
 思いっきり「凡人」呼ばわりされた氷河は、そのことに気づいた様子はなく、やはり必死に首を振って、ミロを上目づかいで睨んだ。
「カミュを悪く言わないでください。カミュは……完璧です。俺が何も知らなさすぎるのがだめなんです、きっと」
 そう言って、氷河はまた俯いて、少し涙を零した。
 ミロはやれやれ、と苦笑する。
 俺もカミュのことは好きだが、もしかしたらこの坊やには負ける。
 一途で健気なところはなかなかどうして可愛いが、今日はこの外見とその健気さが裏目に出たようだ。

 ミロは氷河の髪に指を挿し入れ、直接頭の輪郭をなぞるようにそれを撫でた。
「それにしても、アイツに設計書、見せなかったのはえらかった。あのドルバルって男は、えげつないことするんで有名なんだ。業界でもあんまりいい噂を聞かない。あの男に、断熱構造の詳細が載った設計書を見られてたら、どんなふうに利用されていたかわかったもんじゃない。うちの会長はあの男のやり方を何度も批判してきた。聖域建築の社員ってだけで、あの男が顏を歪める程度にはな」
 ドルバル、の名を聞いて、氷河の身体がまた竦んだ。
 それでも設計書を守れたことを褒められて、今日の出来事が少しは報われたような気になって、氷河の表情がほんの少し緩む。
「でも、ミロ、なんであそこに……?」
「君が、前株の方に行くと言いながら、後株の方へ行く道を曲がったからだよ。変だな、と思って後をつけたら、案の定、だ」
「監視カメラは?GPSは?」
 ミロはぷっと吹き出した。
「君まで本気にしちゃったのか!そんなもの、つけているわけないだろう?君の許可なくつけてたら、今度はプライバシーの侵害で裁判だ」
「でも、ミロ、アイツがなんて言ったかまで言い当てたのに……」
「あの手の悪役は、お決まりのセリフを吐くもんなんだよ。ひねりがなさすぎるよな?」

 では、今日、俺は、あそこでミロと出会っていなければ、本当にどうなっていたかわからなかったのだ。

 いたずらっ子のように笑うミロを見上げて、氷河はまた少し瞳を潤ませた。
「ミロ、来てくれてありがとう。あと、セクハラって言ってごめんなさい」
「ホントのセクハラ(というには逸脱しすぎだが)、どんなものかわかったか?」
「うん」
 頷く氷河の身体をミロは再び、胸へと引き寄せた。
 まだ、乱されたままの氷河のシャツの裾からするりと長い指を滑り込ませて、滑らかな若い肌を直接指の背で何度か撫でてみせる。
「俺のはセクハラじゃないよな?」
「うん」
 ミロの指の動きに気づいていないはずはないのに、氷河は、素直に首肯した。
 てっきり赤い顔をして、それとこれとは話が別です、と怒られるかと、(そしてそれをきっかけに笑いに変えてやろうかと)思っていたのに、素直にうん、と来た。
 さすがに調子が狂って、ミロは確認するようにもう一度、今度はあからさまに、手のひらで腹のあたりを撫ぜて問う。
「じゃ、いくら触っても平気だな?」
「うん……」
 さらに首肯。
 これは困った。引き返せない。
 きめ細やかな肌の感触を愉しみながら、反対の手でうなじを撫でて後頭部を捕まえる。唇が触れそうなほど、ぐっと近づくとようやく氷河は頬をほんのり赤らめて睫毛を伏せた。
 だが、次に来るはずの拒絶の言葉はまだない。
「これでも平気か?」
 ほとんど熱い吐息だけでそう囁くと、氷河の伏せられた睫毛がふるりと震えた。
「平気、ではないです……けど、あなたの手は優しいから……嫌いではないです」
「優しいから、ね」
 そりゃあ、あの男の後じゃ、世界中のどんな人間の手だって優しく感じるだろう。ミロは氷河の身体を抱いたまま、くすりと笑った。

「俺のことが好きか?」
「えっそれは……えーと、好き?です、たぶん」
「俺になら何をされても構わない?」
 何をされても?と質問の意味がわからない、という表情のまま、氷河は曖昧に頷く。
「お礼に何でもしたい、とは思ってます」
「じゃあ、あの男と同じことを君にしたいと言ったら?」
「えっ……それは……あのー……でも、あなたはそんなことしないです。いい人だから」
 氷河の返事に、ミロはついに耐えられない、というように腹を震わせて吹き出した。
 いい人、だって?
 こいつは参った。
 こんなに無条件で信頼されては、さすがに咎めて手も出せやしない。
 危機的状況を救い出してもらったという恩義から、評価がずいぶん過大になってるところにつけ込むほど、こちらは困ってもいない。
 唇くらいは礼代わりにもらっておこうかと思ったがやめておいてやろう。
 君のその無防備さに免じて。

 何故、ミロが突然笑い出したのかわからずにキョトンとしていた氷河だったが、くすくすとおかしそうに笑い転げるミロの巻き毛が首筋に当たって揺れることがくすぐったく、終いにはつられたように一緒になって笑い声を上げた。

 しばらく、笑いの発作に身をまかせているうちに、氷河は徐々に己を取り戻し始めた。まだおかしそうに身体を揺らすミロの肩を押しやって離れると、氷河は、床に転がっていた製図ケースを引き寄せて胸に抱いた。
「俺、もう行かなくちゃ。ホントの、前株?のアースガルドへ」
 そう言ってきっぱりと顔をあげる氷河の瞳に、ミロはおや、と思った。
 もうすっかり気持ちがくじけているだろうから、今日はこのまま氷河は家に帰して、自分が代わりにそれを届けてやるつもりでいたのだ。だが、この坊やは儚げな見た目に相違して、思っていたよりずいぶん逞しいようだ。
「行けるか?無理はするな」
「大丈夫です。あなたのおかげで、な、何もなかったし」
「体の話をしているんじゃない。君の心の方だよ」
 ミロの言葉に、氷河は淡い色の睫毛を伏せて、暫し、自分の内側を探るように黙り込んだ。そして、やはり澄んだ瞳をしっかりとミロへと向けて頷いた。
「行けます。こんなことで逃げて帰りたくないです」
「そうか。…………惜しかったな」
「え?」
「君を心底営業部に欲しかった」
「あの、でも、俺、しゃべるの全然駄目ですよ。っていうか、しゃべること以外も全部全然駄目です」
「駄目なものか。本当に駄目だと思っていたら、カミュは君に自分の作品を託したりしない」
「そう、でしょうか」
 氷河はもう一度、製図ケースを愛おしそうに胸へと抱いた。
 本当にそうだったら嬉しいな、とはにかんだように笑う氷河の笑顔に、ずいぶん妬けた。
 この先、カミュの心はこの健気な坊やに惹かれて行くかもしれない、という予感めいたものがそうさせたのか、それとも、柄にもなくこのあどけなさの残る笑顔を独り占めしたくなったのか。ミロ自身にもそれはわからなかった。

 氷河は、もう一度自分を落ち着かせるように何度も深呼吸をして、うん、大丈夫、と頷いた。
「ありがとうございました。あの、今日のこと、カミュに言いますか?」
「君はどうしたい?」
「言って欲しくないです。情けないけど、この間、俺、大遅刻やらかしたばっかりなんです。せっかくの挽回のチャンスだったのに、それすらまともにこなせないなんて、悔しい」
「そうか。なら黙っておいてやろう。君と俺との間の秘密だ」
 氷河はパッと顔を輝かせた。
「ハイッ。あなたってホントにいい人ですね、ミロ。大好きです!」
 好きだと言われているのに、釘を刺されているような気分というのは生まれて初めてだな、とミロはひとり苦笑した。


「行くなら俺も一緒に行くとするか」
「えっ!一人で行けます!」
 頬を膨らませて抗議する氷河の、乱れたままだったシャツのボタンを留めてやりながらミロは言った。
「うん、設計書を届けるのは君だけだ。俺はまあ便乗でサボリだよ。あそこの受付嬢、粒ぞろいなんだ」
「そ、そんな理由でついてこないでくださいっ!」
 本当のところはもちろん、念のための護衛のつもりなのだが、ミロはまあいいじゃないか、と軽薄に笑って、さあ、行くぞ、と氷河の肩を叩く。
「『いい人』っていうのやっぱり撤回しようかな……」
「そりゃいい。どんどん撤回してくれ」
「変な人ですね、あなたは。褒められるの、嫌いなんですか?」
「『いい人』ってのは時と場合によっちゃ褒め言葉じゃないってことだよ」
「??褒め言葉、ですよ?」
「時と場合によっては、な」
「どんな時とどんな場合が褒め言葉じゃなくなるんですか?」
「わからないうちは君は坊やだよ」
「坊やじゃないです」
「そうだな、君はとっても大人だ」
「バカにしてるでしょう。今、棒読みでしたよ」
「おや、そういうところに気づける程度には大人だったか」
「……本気で怒りますよ」
 と、唇を尖らせながらも、氷河の中のミロへの信頼は失われなかったようだ、立ち上がる瞬間、お手をどうぞ、お嬢さん、という冗談のつもりで差し出したミロの手を氷河はやはり躊躇うことなく素直に取った。

**

 ちゃんと、行って来れた。

 ようやく自社ビルへ戻った氷河は、高い天井の広々としたエントランスホールに足を踏み入れてほっと息をついた。
 今度こそ、と緊張して赴いた株式会社アースガルドの方では、そんな社員はおりませんと言われることもなく、至極順調に話は進んだ。(そして社長は紛れもなく美人だった。)
 間違いなく、先方の担当のアルベリッヒを確認して、二枚の設計書を広げ、最終図面がどう変わっているか、カミュに言われていたとおりの説明をすると、彼は、二転三転した部分だったので最終案がどうなったのか誤解があったようです、おいでいただけて助かりました、と氷河に頭を下げた。
 氷河の胸の裡にじわじわと熱い思いが広がる。
 「助かりました」だって。
 嬉しい。
 何にもできない俺だけど(そしてほとんど子どものつかいだったけど)、それでも、初めて、「仕事をした」ような気がして頬が緩む。
 はっきり言って、設計書のどこがどう変わったかの説明など、カミュから聞いたことをそのまま伝えただけで、アルベリッヒにつっこんだ質問をされたら、しどろもどろで何にも答えられなかったに違いないのだが、それでも、設計書を広げて、他社の社員と専門用語で会話する、というのは、コピーやデータ入力より、ずっとずっと、仕事をした、気がして、嫌な目にあったことが全部帳消しになるほど嬉しかった。
 だから、うきうきと弾む足取りでアースガルドのエレベーターを降り、そこに、カウンターに肘をついて受付の女性を口説いている最中のミロを発見しても、「弊社の社員がうるさくしてすみません」などと笑ってミロを引っ張るくらいの余裕があった。
「なんだ、ずいぶん張り切ってるじゃないか」
「そんなことないですよ。あなたこそ、意外と口説くのに時間がかかってましたね?」
 憎まれ口すら叩く余裕ができた氷河に、単純な坊やだなあ、君は、とミロは氷河の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。

 自社ビルが見えるところまで一緒に帰ってきていながら、ミロはそこで氷河に別れを告げた。
「もう、一人で帰れるだろ。俺はこのままサボリだ。どうせもうすぐ終業時刻だ。戻ったところでたいしたことなんかできんからな」
 この上まだサボるのか、と一瞬呆れたものの、俺のせいでミロは今日の営業予定が全部狂ったはずだ、と遅れて気づいて、氷河は神妙な顔になった。
「ミロ、本当にありがとう。お礼を……俺、お礼を何かしたいです」
「お礼?君から礼が必要なことなんか何もなかったけどな。むしろカミュに礼を請求したいくらいだ」
「そんなのだめです!俺の気がすみません」
「そう言われてもな……ああ、そこまで言うなら、カミュに伝言頼まれてくれ。『俺じゃないからな』って。」
「俺じゃない……?それだけ、ですか?」
「不満なのか?俺のためなら何でもしてくれるんだろう?」
「そうですけど、もっとなんかこう……」
 食事をおごらせてもらうとか、何か仕事で役に立たせてもらうとか、『それらしい』ことをしたいのに、と納得しきれていない氷河を置いて、ミロは、じゃあな、とジャケットを翻して颯爽と去って行った。

 カッコいいなあ、あの人。

 しぐさも行動もいちいちスマートで、ものすごく大人の男、という感じがする。
 カミュが言うとおり、物言いはずいぶん軽薄で、正直、仕事はできそうな感じはしないけど、カミュと特別にわかりあってるみたい(って言ったらカミュは怒るかな?)なところがうらやましい。
 俺もいつかあの人みたいに、カミュと同じ目線で話ができるようになるのかなあ。なれるといいなあ。いや、きっとなってみせる。
 ──ずいぶん先の話になりそうだけど。