寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味


◆ep1 ミス×ミス×ミス ③◆

「ああ……」
 寝坊事件から少したったある日の午後、カミュが漏らした困った調子の声を聞き咎め、氷河とアイザックは同時に顔を上げた。
 アイザックがすかさずカミュに声をかける。
「どうかしましたか?」
「今度、アースガルドと共同で手掛けることになった老人福祉施設があるだろう」
「ああ……北部地域の」

 カミュが言っているのは、とある医療法人と、その同系列の社会福祉法人が設置を予定している、その地域では珍しい大規模な老人福祉施設のことだった。
 現在、その地域で拠点診療施設となっている総合病院を中核として、その周辺に新たに、特別養護老人ホームや短期入所施設、また病院のリハビリ施設に併設させたデイサービスセンターなどを一体的に整備するという計画だった。
 政府直轄事業ではないものの、国のモデル事業にも指定されたその計画は、総事業費の半分以上を国家の補助金で賄うことが予定されているため、事業規模の割にリスクの少ない、堅実かつ実入りの大きい仕事だ。
 聖域建築だけでも、十分それらの設計を手掛ける技術はあったのだが、ただ、難点がひとつあった。
 北部地域の山間部、冷たい吹き下ろしが厳しいあたりにその施設の立地は予定されていた。通常の建築技術でもってしたのであれば、その吹き下ろしが建物に与える様々な影響を免れえない。
 そこで、聖域建築は、同業他社の株式会社アースガルドに目を付けた。アースガルドは小規模な会社ながら、独自の断熱構造の特許を持っていて、極寒、酷暑地域の建造物に強い。その特許技術を使用させてもらう代わりに、アースガルドにも一部の施設の設計を任せる、という提携を聖域建築は申し出た。
 アースガルド単体であれば、これだけの規模の施設整備を手掛ける体力はないだろうが、聖域建築と手を組むことによって大規模プロジェクトに携わることが可能になる。大規模な老人福祉施設を手がけたということになれば、断熱構造を売りにしている彼らにとってもこの先有利に働くに違いなく、かくしてこの友好的提携を武器に聖域建築とアースガルドはプロジェクトの請負を勝ち得たのだった。

 カミュは手元の書類を確認するように何度もめくりながら、ため息をついた。
「先日から先方の担当者との電話の内容に齟齬があると思っていたら、アースガルドの担当者が手元に持っている図面が最終図面になっていない可能性がある。どうも最後に加えた変更が先方の図面から漏れているようだ。明日現地で最終図面を基に打ち合わせの予定だったのだが……」
 アイザックがすぐに察して、俺が最終図面を今日のうちに届けておきましょうか、と立ち上がりかけたが、それよりずっと早く、隣の氷河が弾かれるように椅子を蹴った。
「俺、行ってきます!あちらの図面を確認して、違っていれば最終図面と差し替えてくればいいんですね?」
 まるでお手伝いをしたくてしたくてしかたない子どものように、氷河は目をキラキラさせながら、だって、カミュもアイザックも忙しいでしょう?俺は幸い暇です、と胸を張った。
「暇なことを自慢されては困るわけだが……まあ、そうだな。それなら、氷河に行ってもらおうか」
「はいっ!!」

 うきうきと出張(といっても数駅しか離れていないわけだが)準備を始めて、ホワイトボードに行き先を書いている氷河に、カミュは製図ケースに包んだ設計書を渡しながら細々と注意をする。
「わかっていると思うが、この図面はとても大事なものだ。万が一にも電車の中に置き忘れ、はあってはならない」
「はい!」
「相手の担当者はアルベリッヒと言う。間違いなく、彼に直接渡して確認してくれ。アルバイトに預けたりするのはナシだ」
「はい!」
「慌てて電車を乗り間違えたり、転んだりしないように。ああ、噴水の近くにも寄るな。設計書が濡れる」
「はいっ」
「何か困ったことがあれば自分で判断しないで必ずここへ電話してくるのだぞ」
「はい」
「財布は持っているか?電話は持っているか?名刺は持っているか?ハンカチは?」
「………はい」
 だんだん、注意事項が、「お母さん」のようになってきたカミュに氷河はちょっと拗ねた顔を見せ始めた。
 ええと、ほかにはもう氷河がやりそうな失敗はないか、とカミュが考え始めたのを見て、氷河は慌てて製図ケースのベルトを肩に引っかけ、じゃあ行ってきます!と部屋を飛び出した。
「氷河!」
 アイザックが部屋から顔だけのぞかせて叫ぶ。
「アースガルド、前株だかんな!間違えるなよ!美人の社長がいる方!」
 アイザックの言葉を背中で聞き、氷河は製図ケースを振ってみせた。

**

 設計書、設計書、俺が持ってるのはカミュの引いた設計書。
 とても大事なものを託されて、氷河は誇らしげに胸を張って歩く。
 コピーだとか簡単なデータ入力だとか、そういった雑用がいやというわけではないのだが、やはり設計士の卵、ほんの少しでも設計書に関われるのは格別に嬉しいものだ。まして、それが憧れのカミュの設計書とあれば。

 目的の駅で電車を降り、人ごみを避けるように道の端を歩いていると通りの向こうから大きな声で呼び止められた。
「氷河!」
 目をやると、背の高い、豪奢な巻き毛を一つに結わえた、明るい色合いの洒落たスーツを着こなした男がこちらに向かって手を振っていた。
 あれは……確かええと……ミロ……?
 彼は大股でこちらに向かって歩いて来て、屈託のない、太陽のように輝く笑みを氷河に向けた。
「やあ、奇遇だな。こんなところで会うとは。俺と君とは運命の赤い糸で結ばれているのかな?」
「な、」
 瞬時に頬を赤らめる氷河の髪をミロはくしゃくしゃと撫でる。
「冗談だ。いちいち反応するな、余計に構いたくなる。おつかいか、坊や?」
「おつっ……だ、大事な使命を帯びて任務遂行のために目的地へ向かっているところですっ!」
「おつかいだろう、結局」
「ち、違います!」
「だからいちいち反応するんじゃない。適当に聞き流す術を覚えろ。このへんを歩いてるってことは……ああ、アースガルドか。今度の事業の」
「そうです。だから、とっても大事な任務なんです!」
「わかったわかった。初めてのおつかい、俺のせいで失敗したとか言われたくないからな」
 ミロはそう言って、自分が撫でて乱した氷河の髪の毛を、指で梳いて元に戻してやる。最後に、頬にはらりとかかっていた一筋の髪の毛を耳の後ろに流してやりながら、うん、可愛くなった、と満足気に笑った。
 精悍な顏が、少年のようなあどけなさで笑み崩れたことに、氷河はドギマギしながら、視線を逸らした。からかうような物言いは嫌な感じだが、見た目だけならカミュに劣らず魅力的な(世間的には、だから!)部類に入る。
「それ、セクハラです。俺の合意なく触れたんだから」
「なるほど、カミュに入れ知恵されたな?それにしたって、髪の毛を直してやったぐらいでセクハラとは大げさな。本当のセクハラってのはそんな赤い顏できるような余裕あるもんじゃないんだが……まあいいか。気を付けて行って来い。転ぶなよ?迷子になるなよ?」
 ここでもカミュと同じように子ども扱いをされてしまい、氷河はわかってますよ!と憮然としながらミロと別れた。

**

 アースガルド株式会社。
 氷河はそびえ立つビルのエントランスに刻まれた社名を何度も確認した。
 うん、間違っていない。ちゃんと、転んだり設計書を失くしたりすることなく辿り着けた。
 後は担当者の人に会って、図面を渡すだけだ。

 氷河は受付で「設計部のアルベリッヒさんを」と取次ぎを頼む。が、ここまで順調だった氷河にとって予想外のことがそこで起きた。
「弊社にアルベリッヒという社員はおりませんが……」
「えっ。そ、そんなはずは」
 先方が不在だったらどうしよう、とか、話しにくい人だったら嫌だなあとか、そういったことは考えてきたのだが、まさかそんな社員はいませんが、ときた。
 あまりのことに氷河は軽い恐慌状態に陥った。
 どうしよう。
 俺、名前を覚え間違えてきた?アルベリッヒじゃなかったっけ?最後が「ッヒ」だったことは確かなんだけど……ルードヴィッヒ?ハインリッヒ?ヨーロレイヒ?
 次々と名前(?)を上げてみせる氷河に、受付に座っていた女性はくすりと笑った後、同情的な顏になって、申し訳ないですが会社をお間違えではないですか、と聞いた。
「こちらはアースガルドさんですよね?」
「はい。弊社はアースガルド株式会社です」
「それなら間違ってはいないです」
 変だなあ、と氷河は首をひねりながら、困った時には電話しなさい、と教えられたとおり、ポケットから携帯電話を取り出した。
 ちぇ。
 これを使うことなく、やり遂げてみせたかったのに。
 悔しい思いがあったが、仕方ない。
 どうやら名前を覚え間違えてしまった自分のミスのようだから確認しないわけにはいかない。たった一つの単語さえまともに覚えきれなかったのか、俺は、と自己嫌悪に陥りながらボタンを操作してカミュの番号を呼び出す。
 通話ボタンを押そうとした、まさにその時、氷河の背後から威厳に満ちた低い声が響いた。
「どうかしたのかね?」
 氷河は咄嗟に、携帯電話を折りたたんで振り向いた。
 氷河が身体を預けていたカウンターの内側で、応対してくれていた女性が「社長」と緊張した声を漏らした。

 社長、と呼ばれたずいぶん背の高い男は、歳の頃は四十か五十か。皺の寄った目尻はずいぶん年配のように見えるが、一方で、全身から禍々しいほどの精気を迸らせていて、そのアンバランスさが実際の年齢を巧妙に隠していた。
 男は、白髪と見まごうほどの見事な銀髪を撫でつけるようにしながら、ねっとりと絡みつくような視線を氷河によこした後、女性に何か問うた。
 「聖域建築さんの」とか「該当する社員が」とか切れ切れに単語が聞こえていたが、その間中、男の視線は氷河を値踏みするように絶えず絡んでいて、氷河はあまりの居心地悪さに自分の爪先に視線を落として俯いた。
 女性の説明を聞き終えた男は、氷河に向かって言った。
「聖域建築さん、でしたかな?わざわざお越しのところを弊社の社員が不案内で失礼した。どうぞこちらに。余が代わりにお話を聞こう」
「えっ?ええと……アルベリッヒさんは……」
「心配無用。アルベリッヒに取り次ぐまでは余がお相手いたそう。……それとも、代表取締役の余では役者が不足かな?」
 氷河は慌てて首を振った。
 よくわからないが、大事な提携会社のトップとあっては、彼に失礼な態度を取るわけにはいかない。自分の不用意な発言で会社全体の利益を損なうことにもなりかねない、とつい先日もカミュに言われたばかりだ。
 ここは、粗相のないようにしなければならない。

 緊張でかしこまった氷河は、男に促されるままにエレベーターに乗り込む。
 氷河の背に、誘導するべく回された男の手は、エレベーターに乗った後も外されることはなく、氷河はますます固くなった。
 狭い箱の中で、必要以上に密着する身体に、氷河は息苦しさを覚える。男が纏っているパルファンの濃厚な麝香の香りが狭い箱の中に充満している。開けた空間では官能的だ、という印象を受けるかもしれない甘く後引くその香りは、だが今はあまりに濃く氷河に絡みついていて、氷河はくらくらと目眩を覚えた。
 階数表示のオレンジ色の光を、早く、早くついて、と祈るような気持ちで見つめる氷河のこめかみに冷たい汗が一筋流れる。
 男の指がすかさず伸びてきてそれを拭う。
「暑いなら上着を脱ぐとよい」
「いっいえ、大丈夫です!」
 氷河は慌てて少し身を捩って男の指から逃れる。
 だが、男の指はいつの間にか氷河の上着にかかっていた。
「遠慮することはない。余はマナーなどに煩い方ではない」
 そう言いながら、ひとつ、ボタンを外される。
 驚きに声を失っていると、さらにひとつ。

 な、なに、このひと……!?

 氷河の全身が総毛立つ。
 社の代表という立場にふさわしく、どこか高貴さを感じさせる柔らかな物腰でありながら、無遠慮に氷河の領域に踏み込んで蠢く指先に、たまらなく不快感を感じる。
 一刻も早くこの場を立ち去りたい。
 だが、今は自分の感情に従って行動すべき時ではないのだから、と氷河は必死に込み上げてくる嫌悪の情を押し殺した。
 襟元を割って上着を体から取り去ろうとするように侵入する手を振りほどくこともできずに、ただ、身を固くして立ち尽くしていた氷河を救うかのように、チン、という些か間抜けな音を響かせてエレベーターはその目的地、最上階へと到達した。
 ブン、という音とともに、ようやく空間が開けて、氷河は安堵で大きく息をした。
 狭い箱から転がり出るように外へと飛び出せば、そこは、廊下から既に靴が沈むほどの毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、社長室、と書かれた部屋以外は何もないフロアだった。
 男は相変わらず氷河の背に手を添えたまま、その社長室へと氷河の身体を押しやるように歩かせる。氷河には、男の手の誘導に従うしか選択肢はなかった。
 氷河と、男の体がドアの内側へと滑り込んだ瞬間、背後でカチリと響いた金属音に、氷河はギクリと身を竦ませた。

 鍵……?

 なぜ、鍵をかける必要が?
 経営トップともなると警備上の必要からそこまで注意を払うものなのだろうか。
 でも、これでは、狭いか広いかの違いだけで、密室に身を置かれていることには違いない。
 新しく身を置くことになった空間の隅々にまで、また、男の濃密なパルファンが満ち始め、やはり氷河はそのむせ返るほどの眩惑的な香りに、自分自身を絡め取られてゆく錯覚に陥る。
 男は、一度も氷河の背から手を離すことはなく、そのまま、高級そうな革張りの黒いソファへ氷河の身体を沈めさせた。
 そして、自分もその隣へと腰掛ける。

 な、なんかこのひと、おかしい……。

 どうして、この広い部屋の中で、こんなにも密着して座る必要があるのだろう。
 社外秘の設計図面をこれから広げるから?
 それにしたってソファはほかに十分座るスペースがあると言うのに、何故、隣に。

 何か歪んだ空間に今自分はいる、という気がしてならなかったが、それでも、氷河はこの歪みを、どうにかあるべき姿に戻そうと足掻く。
「あ、の。申し遅れましたがわたくしはこういう者です」
 そう言って胸元から名刺を取り出して、ビジネスマナーよろしく彼に向かってそれを突き出し、ついでにさりげなく、彼から離れるように横へ数十センチ身体を滑らして距離をとった。
 男は目の前に突き出された白い紙切れを鷹揚に見下ろし、ややして、それを人差し指と中指で挟んで空に掲げるように眺めた。
「『聖域建築株式会社、キグナス氷河』……キグナス……白鳥か。なるほど、そなたに似合った名だが、だが、余であればもっと、」
 男はそこで言葉を止めて意味ありげに笑った。

 もっと、何だというのか。

 氷河は戸惑いの表情を浮かべたが、男がそれを気にした様子はなく、億劫そうに氷河に向かって同様に名刺を差し出して来た。

 『アースガルド株式会社 代表取締役 ドルバル』

 四角い紙片に書かれた文字を最後まで追いきらないうちに、ドルバルが氷河の肩にかけられていたままだった製図ケースのベルトをつ、と撫でた。
「これは例の事業の設計書なのであろう。早速こちらにいただいておこう。持ってきたのは設計書だけか?他には何も持っていないのか?原価計算のデータなどは?」
 氷河はハッとして、慌てて名刺は懐にしまい、製図ケースを自分の胸に抱くように抱え込んだ。
「あの、担当のアルベリッヒさんを……」
「彼には余から渡しておくゆえ気にするな」
「……いえ、あの、直接、渡すように言われてきていますので」
「ここでは全てのものは余の管理下にある。その余が受け取ると申したのであるぞ」
 言葉は柔らかいが、ドルバルは明らかに気分を害しているようだった。指先が苛立ったようにソファの座面を叩いている。

 どうしよう。
 アルバイトに渡すな、とは言われてきたけど、社長だったらいいのだろうか。
 困ったときは電話しろと言うけど、この状況で「社長が渡せって言ってますけど渡していいですか」なんて聞けるわけがない。自分で判断するしかないのだが、自分の中の印象だけで言えば、「この人には渡したくない」というのが氷河の結論だった。
 何か、どこかが狂っている。
 脳裡に響く不協和音。
 不意に甦るアイザックの言葉───美人の社長のいる……
 美人?
 切れ長の瞳の奥の鋭い眼光、存在を主張する鷲鼻、歪んだ笑みをたたえた口元……人の美醜の感覚はそれぞれだが、アイザックがこの人を美人、と表現するだろうか。

 氷河の背を、つ、と一筋冷たい汗が流れた。
「……やはりアルベリッヒさんを。彼が既に持つ設計書と比べて確認したい点がいくつかありますので」
 何度も瞬きを繰り返しながら、どうにかそれだけ声を絞り出した氷河の頬を、ドルバルの指が捉えた。
「なるほど、よく躾けられている白鳥だ。だが、あまり利口ではないな」
 氷河の頬を掴む指に、力が込められ、無理矢理にドルバルの方へ顔を傾けさせられる。
「余を怒らせぬ方がそなたのためであるぞ。自分の会社をつぶしたくはないであろう……?」
 暗に、自分にはその力がある、と言われて、氷河の肌は粟立った。
 この男が自分に触れる指にたまらなく嫌悪感を感じる。今すぐ、彼を突き飛ばして逃げ出したい。が、その結果、会社がつぶれるようなことになったら。
 カミュに、また、迷惑をかけてしまうことになったら。
 嫌悪感よりもそちらの恐怖感の方が勝った。氷河の身体は目に見えない鎖で呪縛されたように、指一本動かせなくなってしまった。
 ドルバルが、顔色を失って身を固くする氷河を満足気に目を細めて見た。猛禽を思わせるような金色の瞳が氷河の視界いっぱいに広がり、そのことで、氷河はじわりと距離を詰められたことを知る。
 ドルバルの片手が氷河の腰にまわされ、耳元へねっとりとした声が生温かい息と共に届られる。
「そなたを躾けた人間を悲しませたくないのなら、余の言うとおりに」
 氷河が胸に抱く、黒い筒のキャップへ、ドルバルの長い指がかかる。
「さあ、手を放すがよい」
 抗いがたい呪文のような囁きが、濃いパルファンの空気を割って鼓膜を震わせる。だが、それでも氷河は、身を竦ませたまま、微かに髪を揺らして首を振って、彼にできる精いっぱいの抵抗を返した。
「強情な白鳥だ。そのような抵抗など詮無きこと。全てのものが余の管理下にあるというのはそなたも例外ではないということをわかっておらぬようだな」
 と、次の瞬間、氷河の視界がぐるりと回転した。
 回転が止まった先に白い天井が広がり、混乱で呼吸をすることをも忘れているうちに、男の恵まれた体躯が氷河の細い腰に圧し掛かった。
「あくまで手放さぬと言うならそれもよい。なに、そなたごと手に入れればよいだけのこと。まずは主人の名をその身に刻むがよいぞ」
 あの不快な指が、氷河のシャツのボタンを外し、内側へと侵入してくる。
「……っ!?」
 おぞましく肌を蠢く、生き物のような指を止めようと氷河は腕を突っ張りかけ、だが、腕に抱いていた設計書の存在を思いだしてそれを躊躇した。

 抵抗のために腕を使うことは、設計書がこの腕から離れるということで。
 それは……死んでもできない。

 氷河は、あくまでカミュの設計書を抱きかかえ、身を縮ませることで、男の指の侵入を拒もうとした。ドルバルの口元が加虐の笑みに彩られる。
「健気よのう。そなたがそれほどまでして守るものは、そなたを少しも守ってはくれまいに」
 肉食獣が、捕えた獲物を弄んで甚振るように、男は愉快気に、胸に黒い筒を抱えて身を竦ませた氷河の身体をころりと反転させた。
 ソファの上へ伏せの形にされ、だがそのことで男の目から設計書の存在を自分の身体で遮ることができて安心したのも束の間、背筋を尻に向かって撫で下ろす指の動きに、氷河はビクリと肩を震わせた。
 身体を密着させるように上に圧し掛かったドルバルが、氷河の乱れたシャツの裾を割って滑らかな白い肌を指先で味わうように撫で擦る。前へまわった指が、氷河の二つの胸の先端を爪先で挫くと、その鈍い痛みに氷河の唇から声が漏れた。
 氷河の内股を割るように挿し入れられた男の身体の重みに、苦しげに息をつくと、ドルバルの指はより一層、嬲るように氷河の肌の上を踊った。

 いつの間にベルトを緩められたのか、スラックスの隙間からやわやわと尻肉を掴みあげられ、内腿に熱い塊が押し当てられるに至って、氷河は、初めて、その先に待っている行為をおぼろげながら自覚して慄いた。
 双丘の谷間を割って、節くれだった指が、自分でも触れたことなどない場所へ侵入してくる。
「あっ……!?」
「……ほう。未通だな、そなたは」
 ドルバルの瞳が細く歪められ、鷹揚に獲物を見下ろし、舌なめずりをする。
「ますますそなたが気に入ったぞ。存分に聞かせよ、甘美なる最初の啼き声を」
 固く閉ざされた蕾の周りをゆるゆると指でなぞりながら、わざと、押さえつけていた力を緩めて抵抗を促すことすらしてみせる、絶対の支配者の前で氷河は無力だった。
 例え設計書を守っていなくても、この力の差の前には、どうあがいても抗いきれない。何より、恐怖で体が竦んで、指一本自分では動かせない。

 誰か……来てくれ……

 声にもならない音が喉の奥で消えてゆく。

 その時。
 氷河の声にならない叫びに応えるように、社長室の扉が、バァーン!とけたたましい音を立てて開いた。

 突然の闖入者に、ドルバルは不機嫌に顏を上げる。
 鍵をかけておいたはずだが、と視線をやった先に、ドア枠ごと無残に引きちぎられた鍵らしきものの残骸が転がっていた。
 破壊されたドアを、よっと足で蹴りながら、金色の巻き毛で縁取られた華やかな容姿の男が姿を現す。
 後ろには、と、止めたんですけど、と言い訳顔の受付の女性つきだ。
「ああ、ここに迷い込んでいましたか。弊社の社員がどうやら道に迷ってこんなところまで来てしまったようで……大変な失礼をいたしました」
 ドアを派手に壊しておきながら、しれっと頭を下げてみせる男に、ドルバルは、氷河の上に乗ったまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「なるほど、聖域建築さんは荒事がお好きと見える。さあて、これは困った事態になったことよ。余としては同業の御社を訴えるというのは心苦しいが……不法侵入に器物損壊、とあっては、さすがに黙っているわけにもゆくまいのう」
「なんの、心苦しいのはこちらの方。器物損壊罪はせいぜいがところ罰金刑、しかもこちらは切り捨てごめんの下っ端ときております。しかし、トップが強姦未遂とあっては、さすがのアースガルドさんも終わりかと」
「……ふん……小娘の犬は相変わらずよく吠えるのう。証拠など何もない。訴えられたところで余の肚は痛くもかゆくもないわ」
 氷河の上に乗ったままだというのに自信ありげにそううそぶくドルバルの言葉に、男は我が意を得たり、と瞳を輝かせた。
「証拠!ああ、汚い手を使わせたら右に出るものなしのドルバル社長もずいぶん目が曇った様子。迂闊にも気づかなかったとは無念の極みでありましょう。そこなる氷河には万一の時のことを考えて、監視カメラとGPSをつけておりますゆえ、証拠のことはご心配なきよう!」
「そのようなはったりなど余には通用せん」
「なんの、はったりなどでは。下衆な猊下どのが目的を遂げる前にわたしがここへ辿り着いたことが何よりの証拠。何でしたか……『会社をつぶしたくなければ、余の言うとおりに』?世間はさぞかしおもしろおかしく取り上げることでしょう」

 ドルバルはしばらく眼光鋭く男を睨み付けていたが、やがて、頭の中で己がどういう行動を取れば一番利が大きいか計算をしたようで、悔しげに、もう一度ふん、と鼻を鳴らしながら氷河の身体を解放した。
「勝手に迷い込んできた白鳥を飼いならそうとしただけで罪になるとは異なこと。迷い込んでこられてこちらも迷惑をしていたところだ。疾く連れ帰るがよい」
 男は、とりわけわざとらしく、「御意」と恭しくお辞儀をして、氷河の元へ近づいて膝を折る。
「困った坊やだ。だから迷子になるなよ、と言ったのに」
 そういう声は言葉よりずっと優しい色に満ちていて、氷河の瞳が初めて潤んだ。
「ミロ……」
「おいで。帰ろう」
 そう言ってミロは氷河の手を引いた。だが、安堵のためか、それともその前からの恐怖のためか、氷河は完全に腰が抜けてしまっていて、まるきり足は使い物にならなかった。仕方なく、ミロは「セクハラとか言うなよ」と軽口を叩きながら、乱れた衣服を軽く直してやった後に氷河の膝裏に手をのばして抱き上げる。

「では、ごきげんよう。世間を騒がせたくなければ二度と白鳥を飼おうなどとは思し召されませんことを」
 氷河を抱き上げたミロは、鮮やかに笑って、ドルバルの前を通り抜けて行った。

 後には、狡猾そうな瞳を屈辱で歪めた男の姿と、使い物にならなくなったマホガニー製の重厚な扉の残骸だけが残された。