サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
◆ep1 ミス×ミス×ミス ②◆
「お先に失礼しまーす」
あちこちで、そういう声が聞こえ始め、一人、また一人と、フロアから人が減ってゆく。
ああ、もうそんな時間か、と、カミュは顔を上げて、ぐるりと首をまわした。
と、そのタイミングを計っていたかのように、アイザックがふう、と大きく息をついて両手を上げて伸びをしながら、まるで、たった今気づいたような声色で言った。
「あれ?氷河のヤツ、まだ資料庫から戻ってませんね」
ああ……そういえば。
気にはなっていたのだが、部下たちの手前もあって、簡単に甘い顔を見せるわけにもいかず、目の前に積み上げられている山のような仕事を次々こなしているうちに気づけば終業時刻を迎えてしまっていた。
そろそろ許してやってもらえませんか、と言いたげな顔でカミュを窺うアイザックに、そうだな、呼んできてくれ、と言いかけ、だが、思い立ってカミュはその言葉を止めた。
「わたしが行って様子を見て来よう」
「あ、俺、行きますよ」
「いや、色々説教もしないといけないからな。アイザック、お前もこのところ残業が続いているだろう。今日はもうあがれ」
「え、いや大丈夫です。まだやります」
「部下の労働時間管理も上司の務めだ。今日は帰りなさい。……お前は寝坊するなよ」
「俺が一度でもしたことありますか?」
心外です、と抗議するように唇を突きだすアイザックと目が合い、カミュは思わず小さく吹き出した。そのまま、笑いの発作が押し寄せて、肩を震わせて声を漏らすのを耐える。
「……『すみません、寝坊しました』か……あれには参ったな……」
「すみません、アイツ、ばかで」
何故か自分のことのように謝るアイザックにカミュは視線を向けた。
「お前たちは元々仲がいいんだったな?」
「ええ、長い付き合いです。あの、アイツ、不器用だけど、いい加減なヤツじゃないんですよ。今日のも、多分、遊んでいて寝坊したわけじゃないと思います。だから、」
あまり叱らないでやってください、と氷河を必死で庇うアイザックは、友人、というより出来の悪い弟を持った兄のようだ。
カミュはわかっている、というように頷いて立ち上がった。
「氷河に説教が済んだら私たちも帰るから、扉以外の施錠と電源確認は済ませておいてくれ」
「わかりました」
アイザックの声を背にカミュは廊下へ足を踏み出す。
何ごとにつけ要領がよく、頭の回転の速いアイザックは、カミュの元へ配属されて割とすぐに、なくてはならない存在になった。だから、というわけではないのだが、欲を出してもう一人、と人事部に望んで、回ってきたのが氷河だった。
これは困った、ずいぶんかわいらしいのが来てしまったな、というのが最初の印象だ。
いわゆるマスコット的存在、というのはカミュは求めていない。
建築設計部というのは会社の屋台骨だ。常に最先端の技術や流行に敏感でなければならないし、場合によっては取引先に直接出向くこともあるから、話術だって必要だ。多忙を極めるこの部署で求められるのは即戦力になるか否か、それだけだ。
何ごとも一度聞けば覚えてしまう、一を聞けば十を知るアイザックと比べては可哀そうだが、要領悪く失敗ばかり繰り返す氷河に、正直、がっかりした。
それでも、素直に何でもハイ、と気持ちよい返事を返すところは好ましかったし、今のところ同じ質問を二度三度繰り返されて苛々させられる、ということはなかったから、アイザックとタイプは違うが、長い目で見てやろうと思っていた矢先の遅刻だった。
軽薄な今どきの若者であれば、おおかた二日酔いででも寝ているのだろう、と気にも留めなかったに違いないのだが、のんびりしてはいても、たいそう真面目に思えた氷河の初めての遅刻はカミュを不安にさせた。
何かあったのか?
一人暮らしと聞いているが病気で倒れているのか?
来る途中に事故でもあったか?
ちょっと頼りないところのある子のようだから、何か面倒なことに巻き込まれていないか?
心配でいてもたってもいられず、思わず電話をかけてみたら、寝ぼけた声で「ふぁい」と来た。安堵のあまり脱力しかけ、しかし、その反動で怒りが湧いてきた。
新人の頃の寝坊は実はわりとよくある失敗で、カミュ自身の経験こそないものの、同期の何人かの失敗談は聞いている。
夜型生活をしていることが多い学生が急に生活時間帯が変わることに加え、慣れない会社勤めに緊張しっぱなしだった神経が、その連続した緊張状態に耐えかねて、勝手に緩んでしまう、入社後一ヶ月から二ヶ月頃によくみられる現象だ。
だから、ちょっと叱咤してやればすむことだったのに、つい、必要以上に厳しく接してしまったのは、あまりに心配したがゆえだ。
わたしがこんなに心配したというのにお前ときたらそんな呑気な声で、と。
資料庫に行きます、と氷河が言った時、ああ、そこへ逃げ込んで泣くのだな、とは思ったが、自分の態度が理不尽に厳しすぎたという認識はあったので、人前で泣かないならいいだろう、とそれを咎めはしなかった。
だが、これほどまで長く籠って泣かれるとは、些か気が滅入る。
少しは見どころのあるヤツだと思っていたのに、まさか退職届など書いてはいまいな、とげんなりした気持ちで、スチール製の扉を開けたカミュは、目の前の光景に驚いて目を瞠った。
足の踏み場もないほど乱雑に積み上げられていた書類の山が、整然と(というにはちょっと惜しかったが)書棚に並べられていた。
今日は総務部の監察でもあったのか?しかし、責任者の自分はそんなことは聞いていない、と思いながら、ずいぶんすっきり片付いた通路を進むと、最奥に、こちらに背を向けて座り込んでいる氷河の姿があった。
文書保存用の段ボール箱を机代わりにして、一枚の設計書を眺めながら、どうやらそれをノートに書き写しているようだった。
ずいぶん夢中で鉛筆を走らせている氷河は、カミュが背後に立っても少しも気づいていない。
氷河の手元をしばらくのぞきこんでいたカミュが、背後から、「ここ、写し間違っている。露出配線じゃなくて床隠蔽配線だから点線じゃなくて破線にするといい」と声をかけると、「あ、ほんとだ」と返事をしたあと、数拍遅れて「わーっ!?」と悲鳴をあげて壁際まで後ずさった。
「カ、カミュ……!一体いつからそこに!?」
「お前が二階廊下の分電盤を書きこんだ辺りからかな」
「分電盤って……そんなに前から!?」
ひどいです、カミュ、と声をあげかけて、そもそも自分が資料庫に籠ることになった経緯を思い出したのだろう、氷河は急に神妙な顔をして、「あの……すみませんでした」と小さく言って俯いた。
カミュはそれには答えず、ぐるりと資料庫の中を見回した。
「ずいぶんすっきりしたな。半日でここまでやれたら上出来だ」
「でも、分類は間違っているかもしれないです」
「うん。そのようだな」
手近にあったファイルを数冊手に取って眺めていたカミュは、それを反対側の棚の一番下と上とに分類しなおし、ついでに、天地逆さまに突っ込まれていたファイルの向きを修正してやる。
カミュの動きに氷河は真っ赤になって俯いた。
「す、すみません、あんまり役に立たなくて……」
消え入りそうな声でそう告げる氷河に、カミュは今日初めて笑って見せた。
「いや、ここの惨状をどうにかしようと思いついたのはえらかった。少しお前を見直した。……それで?今のは何をしていた?」
「えっ!?いやっ、これは、なっなんでもないですっ……!」
ますます赤くなって、自分の背の後ろにノートを隠そうとする氷河の腕を柔らかくカミュは掴んだ。
「見せてみなさい」
「いやっ、そんな、人に見せるようないいもんじゃなくて、あの、俺の備忘録みたいな、字も汚いし、あの、ただのメモと言うか、あの、だから……今のはそのう……コレ……この設計がすごいなあって思って……お手本にしたいなあって思って写して帰ろうかと……そ、それだけです、ほんと」
氷河はノートをカミュに渡すことをあくまで抵抗する代わりに、反対の手に持っていた設計書を差し出し、カミュはそれを受け取った。
「……これのどこがすごいと思った」
「それは……これ、だって十三年も前に書かれた設計書ですよね。今でこそどこででも当たり前に見かけるスロープが随所についているし、二階建ての低い建物なのにエレベーターまでついています。当時ってまだそこまで、UDの意識って浸透しきってなかったはずだし、なにより、これ、ライブハウスですよね。公共の建物なら、十三年前でもバリアフリーに配慮していてもおかしくないと思うけど、民間の娯楽施設でっていうのは珍しいなと思って……設計をした人の優しさが表れていて、俺はすごく好きです。俺が最初に手掛けるとしたらこんなのがいいなあって思って……あの……それで……」
だんだん、氷河の声が恥ずかしそうに小さくなっていくのをカミュは苦笑で受け止めた。
「そこまで褒められると面映ゆいな。それはわたしがこの社で一番最初に手掛けた建物だ。長いこと目にすることはなかったが……そうか、お前が整理してくれたおかげで出てきたのだな」
「え!?これ、カミュの設計ですか!?でも、水場なんて……」
「そうだな。その時はまだあまり水にこだわりはなかった。まあ、新人の頃の駄作だ。今ならそうは作らない」
「だ、駄作なんて……っ!そんなことはない、ですっ!!カミュはいつだってすごいです!!」
すごい勢いで首を左右に振る氷河に、カミュはまた笑って、設計書を折りたたんで返した。
こんなにすごいのに……とまだ呟いている氷河の、肩に流れるブロンドにカミュは手を伸ばした。
「……寝癖だ。まだついているな」
途端に氷河がハッと身を竦ませる。
カミュも笑顔を引っ込めて、渋面をつくった。
書棚に挟まれた狭い通路で向かい合って立つ。
終業時刻が過ぎた社内は、互いの息づかいすら感じられるほどしんと静まり返っていた。
しばらくの静寂の後、カミュは厳しい眼差しで氷河を見つめて静かに言った。
「氷河。今日、お前は色々間違った」
「はい」
「寝坊はもう論外だ。これは説明するまでもないな?」
「はい、すみませんでした」
「寝坊による遅れを取り戻そうと、慌てて家を飛び出したな、お前は?」
「はい……」
カミュは氷河の髪に絡めていた指先を、スッと氷河のスーツの襟元に光る社章バッジへと滑らせた。
「これを胸に光らせた社員が、寝癖をつけたまま、よれよれのシャツで電車に飛び乗ったのを見た人はなんと思っただろうか」
「……あ……」
「それにそんなに度を失うほど慌てて、途中で事故にでもあったらどうする。通勤途中の事故は労災になる。寝坊による遅刻をしたお前に対して会社は多大な補償金を支払わなければならなくなる」
「………」
「それから、部屋に飛び込むなり『寝坊しました』と言ったな。幸い、あの時は社員しかいなかったが、大事な取引先の人間が来社していたならどうなったと思う。寝坊するような社員がいる会社と取引を続けたいと思うだろうか。お前の不用意な一言で、会社全体の信用が失墜しかねないところだったんだ。常に正直でいることだけが正解とはいえない」
「す、すみませんでした、ほんとうに」
カミュに向かって深々と頭を下げようとする氷河の肩にカミュは手を置き、それを止めた。
これ以上、さらにまだ何か、と身を縮ませて見上げる氷河に向かって、厳しい声から一転、カミュは穏やかなトーンに声を落とした。
「もう謝らなくてよい。事故なく会社に辿りついてくれてよかった。今回は初めてだったからな、最初の電話でわたしがもう少し具体的に叱ってやるべきだった。寝坊してしまったからにはもう取り返しはつかないのだから、せめて落ち着いて最善の行動を取ってくれ。例え嘘だとわかりきっていても体調不良でした、で押し通さなければいけない場合も社会人にはある。今度から寝坊した時はぜひ体調不良でした、と言って、可及的速やかに、だが最大限に冷静に行動して欲しいところだな」
「はいっわかりました!」
元気よく返事をした氷河に、カミュは肩に手をかけたまま、ふふっと身体を揺らして笑った。
「氷河……今のは『わかりました』より『もう二度と寝坊はしません』と言って欲しかったところだな」
「はっはいっ」
やはり赤くなって俯いた氷河の反応があまりに素直で可愛らしく、カミュはからかう様に付け加えた。
「まあ、上司として言いたいことはそれだけだ。わたし個人としては……寝癖のついたお前の頭はなかなかかわいらしかった」
「!カ、カミュ……!」
慌てて自分の頭に手をやって、恨めしそうにカミュを見上げる氷河に背を向け、そのまま、さあ、帰るぞ、と言って、カミュは資料庫を後にした。
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一部を残してすっかり電気の消えた建築設計部のオフィスの扉を開けると、カミュの席に見知った男が坐って、長い足を机の上に放り出して待っていた。
「何しに来たんだ」
「相変わらず冷たいな、お前は。ま、わかっててお前の顔を見に来たんだけどな。もう帰るならたまには一杯つきあえよ」
「断る。お前につきあって碌なことになったためしがない」
「そう言い切れるほどつきあいもしないくせによく言う。……………あれ」
男の視線がカミュの後ろに注がれたのを見てとり、カミュは微かに唸った。
目を惹く容貌をした氷河はきっと───コイツの格好の玩具になる。だから知られたくなかったのに。
同じ会社にいる以上、存在を隠し通すのは不可能であるのに、そんなことをカミュは思い、視線で氷河に相手にするな、と告げる。
だが、氷河は、男が同じ社員証をつけているのを見てとると、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
「……へーえ……?」
男は氷河を値踏みするかのようにつま先から頭の先まで無遠慮な視線を投げかけ、それからカミュに振り返った。
「新しいコが入ったって聞いていたが……ずいぶん上玉じゃないか。なんで俺に紹介してくれないんだ?こいつは通ってくるのが楽しみになった。お前はつれないから、次からはこっちを指名してもいい」
「ここをキャバクラのように言うんじゃない。例え冗談でもただじゃおかんぞ」
氷河は二人の男の間で、ええと、この人にお茶を出すべき?と視線を彷徨わせて戸惑っている。
迷った結果、出さぬ非礼より、余分でも出して悪いことはないだろう、と判断した氷河が既に明かりが消えている給湯室へ向かおうとするのを、カミュが手首を掴んで止めた。
と、同時に、反対側から、いつの間にか立ち上がっていた男の長い腕が伸びてきて、氷河のおとがいに手をやり、自分の方へと視線を向けさせる。
「ふーん。いい瞳だ。坊や、名はなんという」
「……氷河……」
「氷河か。覚えておこう」
人に名を聞いておきながら、自分の方は、まるで世界中の人間が自分のことを知っているかのように名乗りもしない尊大な男は、氷河のおとがいから頭の輪郭をなぞるように、頬、耳、後頭部へと指を滑らせて、最後に、カミュが可愛いと笑った、盛大に跳ね回っている氷河の寝癖のついたブロンドを掬うように緩く掴んだ。
「素材はいいのに、ずいぶん個性的な恰好をしているな。こういう頭とかよれよれのシャツって流行りなのか?学生ならともかく、社会人としてはちょっとどうかと思うが」
「今日は、特別、です。た、体調不良、だった、ので」
「体調不良、ね」
お見通し、といったかのように、弧を描くマリンブルーの瞳に、氷河は頬を赤らめた。
その様子に、男はますます頬を緩めて氷河の耳元に唇を近づける。
「可愛いな、坊や。気に入った。営業部に来るか?俺が君を育ててやろう」
「えっ……」
思いがけない言葉に、驚いて氷河は男の顏を見上げた。冗談で言ったのだとばかり思っていたが案に相違してそこに真剣な色の瞳があって、氷河は戸惑う。
だが、まだ、氷河の手首を掴んだままだったカミュの冷たい指先に、僅かに力が込められたことに気づいて、慌てて氷河は首を左右に振った。
「俺の上司はカミュですから……!」
遠慮がちに、だがはっきりと告げられた拒絶に、男はニヤリと笑う。
「上司も部下も、揃って難攻不落とはな。まあ、先は長い。せいぜいカミュにおいしく育ててもらえよ、坊や。よく熟れた頃に俺がいただいてやろう」
氷河の耳に触れる寸前のところへ唇を寄せて囁く男に、カミュが氷河の手首を強い力で引いた。
「ミロ、それ以上言うとセクハラで訴えるぞ」
「セクハラ、ね。知ってるか?同じ行為でも受け取る側の意識ひとつでセクハラか否かのボーダーラインは変わってくるってな。お前と坊やのラインはずいぶん違うところにあるようだぞ?」
確かに、氷河は、彼が何を言わんとしたのか、いまいちよく理解しきらなかったようで、はい、などと間が抜けた返事を返していた。
「だからってそこにつけ込むんじゃない。油を売ってないでさっさと帰らないか」
苦虫を噛み潰したようなカミュの渋面に、ミロは肩をすくめて、去って行った。
「……あの……」
「今のは営業部のミロだ。わたしの同期でな……仕事はできるし、本質的には真面目なんだが……今見たとおり、軽薄な物言いをする悪い癖がある。アイツの言うことは真に受けなくていい。ちょこちょこ来るだろうが茶も入れなくていいし、返事をする必要もない」
「はい。…………あの……カミュ………」
言いにくそうに氷河がもじもじと赤くなって俯いているのを、カミュは不審げに見返す。
「どうした」
「……すみませんが、手を……」
申し訳なさそうに告げた氷河の視線の先を見れば、彼の手首をまだつかんだままだった。
「ああ、すまない」
そう言って手を離せば、氷河は、いえ、と照れたように笑った。
「さあ、そろそろ我々も帰ろう。明日も寝坊とか勘弁だぞ」
「し、しませんっ二度と!」
「そうあって欲しいものだな」
その会話を最後に、ようやく建築設計部のオフィスから明かりは消えた。