寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味


◆ep1 ミス×ミス×ミス ①◆

 プルルルル~プルルルル~。

 んー……一体誰だ、こんな朝っぱらから……。

 何かとても楽しい夢を見ていたような気がするのに、しつこく鳴り続ける電子音によってそれを強制終了させられて、氷河は不機嫌に身を捩った。
 心地よい眠りの深層から、急速に意識を覚醒へと引っ張り上げられた不快感から、電子音の元となっている塊を探る手つきが乱暴になる。
 薄いブルーの液晶画面に表示された発信者の名前を確認することなく、不機嫌さを隠さない声色のまま、氷河は通話ボタンを押した。
「ふぁい」
 誰だか知らないが、お前は俺の眠りを妨げたんだ、という密かな主張の意味を込めて、敢えて寝起き声のまま返事を返すと、一瞬、相手がたじろいだ空気が小さな機械を通じて伝わってきた。
 そのまましばらく沈黙を返す機械に、つい、氷河の意識がうとうとと微睡へと戻りかけたその時、耳元に覚えのある柔らかな低音が響いた。

 ──事故にでもあったのではないのかと心配していたのだが……まさかと思うがその声は今起きたのか。

「……?ふぁい、そーれすけど……?」
 まだ、覚醒しきっていない意識が素直にそう返事をした瞬間、氷河は、声の主に気づいて、雷に打たれたかのように慌てて飛び起きた。

 しまった!会社!!

 ベッドサイドの時計を確認し、その針が指す時刻を目にして恐慌状態に陥る。

 10時半!?え!?この時計止まっている!?

 何かの間違いであってくれ、と祈った氷河だったが、部屋に満ちる明るい日差しは、朝と呼ぶには相当に日が高く昇っていることを告げていて、もちろん時計は止まってなどなく、まぎれもなくとうに会社で働いていなければいけない時刻なのだった。

「あ、あのあの、すぐ、すぐ行きます!!」

 ──いや、それには及ばない。遅れるという連絡もできないほど体調が悪いのだろう。今日はもう出社しなくてよい。休暇届はわたしが代わりに書いておこう。ゆっくり休みなさい。


 違います、体調が悪いわけではなくて、という氷河の言い訳を一言も聞くことはなく、一方的に通話は途切れた。
 氷河は電話を手の中に握りしめたまま、茫然とベッドの上に座り込む。

 休んでいいって言われてしまった……わーい。

 完全なる寝坊をもっと咎められるかと思ったのに、と拍子抜けして、再びベッドの上に氷河は転がった。

 あー……二度寝、気持ちいい。

 ……………。
 ……………。
 ……………じゃ、なくて。

 ま、まずいよな?
 カミュ、相当に怒ってた、よな?
 怒っていなくてもこれはありえない事態だよな?

 一瞬現実逃避しかけていた氷河は、すんでのところで思い直して、慌てて再び跳ね起きた。

 シャツ、シャツっと……あー、こういう時に限ってアイロンしてるヤツがない!もういい、昨日ので!

 そのあたりに脱ぎ散らかしていた洋服をかき集めて、身づくろいもそこそこに氷河は部屋を飛び出した。

**


 飛び乗った電車の中でも走りたいほど気持ちは焦っていたが、氷河が焦ったところで、電車がスピードを上げてくれるわけではない、ということに気づいて、諦めた氷河は改めて携帯電話を取り出した。
 最後のカミュの着信の前に、山ほどアイザックからの着信履歴が残っている。

 ああ、俺のバカ。
 なんでアイザックの電話で起きなかったんだ……。

 恐らく、始業時刻を過ぎても姿を現さない氷河に、同僚のアイザックが気を利かせて何度も電話をしてくれたのに違いなかった。なのに、その電話では目が醒めず、よりによって、たった一度しかかかっていない上司からの電話で目が醒めてしまうとは。

 落ち込む氷河の手の中で、マナーモードにしておいた携帯がブルブルと震えた。
 そのアイザックからのメールだ。

『このバカ!来なくていい、って鵜呑みにすんなよ!カミュ、めちゃくちゃ怒ってっかんな!覚悟しとけよ!』

 うっ。
 いきなり出社する気が萎えるメールだ。
 でも、カミュの目を盗んで送ってくれたに違いない忠告に、心の中で手を合わせて感謝する。危うく鵜呑みにして二度寝しそうになったことはもう永遠に内緒だ。

 氷河は深くため息をついた。


 聖域建築株式会社。
 それが氷河の勤め先だ。
 つい一ヶ月と少し前に、念願かなって、設計士として採用されたばかりだ。この会社を志望したのは、ほかでもない、カミュの存在によって、だ。

 建築業界に身を置く者にとって、カミュの名を知らぬものはない。
 彼が設計したどの建物も、水場との融合をテーマにしていて、究極まで追究された機能性の中にも、ある種、計算され尽くした芸術品のような美しさがあった。有名な賞を何度か受賞したこともある。
 だから、一足早く大学を卒業した親友アイザックから、カミュの元に配属されたんだ、と聞いた時はとてもうらやましく思った。
 同じ大学出身ではあれど、氷河が入学した時には既に第一線で働いていたカミュのことは、長い間、実体のない伝説でしかなくて。
 なのに、手の届かない存在だと思っていたカミュと一緒に働けるチャンスがある、という。
 そのことに気づかされたその日から氷河は一心不乱に努力して努力して、この会社の内定をもぎ取ったのだった。
 だが、ただ、採用されただけではカミュと一緒に働けるとは限らない。一年先にアイザックという設計士を得ている建築設計部がもう一人新人を必要とするかどうかはわからない。 工事管理部や海外事業部にまわされる、という可能性もなきにしもあらずだ。営業部だけは嫌だな(しゃべるの苦手だし)と、おそるおそる覗き込んだ辞令書に「建築設計部」の文字を見た時は、思わず拳を握ってガッツポーズをしてしまい、隣に立っていた瞬にくすりと笑われたほどだ。

 一ヶ月の新人研修を終えて、初めてカミュに挨拶した時の衝撃はまだ新しく氷河の中に残っている。

 アイザックからは「怒るとめちゃくちゃ怖いし、超厳しい」と聞いていたから、もっと鬼のような外見を想像していた。
 なのに、氷河を迎え入れたカミュは、自分が設計した建物そのままのように、端正で涼やかな容姿をしていた。 だが、何より、水の魔術師という通り名に反して、まるで燃ゆる炎のような鮮やかな赤毛とその色を映してでもいるような情熱的な緋色の瞳が印象的で、氷河は思わずぼうっと見惚れた。

 その外見もさることながら、間近で見るカミュの仕事ぶりはもはや溜息しかでなかった。
 鉛筆一本でさらさらとアイデアを生み出すことも驚嘆に値するのだが、部下の作った設計図面をひと目見ただけで、普通なら見落とすような、動線の絡まりだとか、僅かな構造上の欠陥だとか、小さな瑕疵に気づく、驚くべき目を持っていた。

 すごい。こんな人の元で働けるなんて。

 俄然、氷河は張り切った。
 カミュから与えられるならどんな仕事でもこなそうと毎日張り切って出社した。
 だが、そこはやはり新人。
 学校で得た知識だけでは、実社会では即戦力にはならず、氷河の任される仕事といえば雑用ばかり。
 アイザックはとっくにカミュの片腕として、何枚も設計図面を引いているというのに、製図システムにすら触らせてもらえない自分が悔しく、早く追いつきたい一心で、氷河は毎晩毎晩、自宅に帰ってから、猛勉強を続けていた。
 教えられたことを忘れない様に、と密かにメモを取ったノートはあっという間に文字で埋め尽くされ、それももう数冊目である。
 正直、書いてある内容は、電話がかかってきたら部署と自分の名を名乗ってから相手の要件を聞く、だの、会議室の鍵の管理は総務部、だの、コピー機を使用した後は必ずリセットボタンを押しておく、といった、設計がどうこういうレベル以前の恥ずかしいほど基本的な内容がほとんどなのだが、だが、入社して一か月、その基本すら未だ怪しいのだから仕方ない。
 多忙を極めるカミュに何度も同じことを言わせるわけにはいかない、と、ただそれだけ肝に銘じて、毎晩、その日言われたことを一生懸命書き記して、頭に叩き込むようにしていた。

 だが、ここへ来て、その努力が裏目に出てしまった。
 昨夜も遅くまで、ノートを開いていたのだ。連日の寝不足に、身体が勝手に限界と判断して、主の意志と無関係に休息を取ってしまったのだろう。

 だからって。
 寝坊して遅刻、しかも上司に起こされるまで全く気づいていなかった、なんてありえないよな。

 氷河はもう一度ため息をついた。
 車窓はそろそろよく知る街へと近づいていた。

**

「すみませんでしたっ!寝坊、しましたっ!」
 息せき切って建築設計部の扉を開いて、開口一番、そう声を張り上げた氷河に、室内の視線が次々に突き刺さった。
 視界の端でアイザックが、バカ、と唇を動かしたのが見えたが、集まった視線と漏れる忍び笑いが恥ずかしくて、それどころではなかった。
 カミュの電話に乗っかって、体調が悪かったことにしようか、と一瞬考えたが、下手な嘘をつくより潔く謝ろうと考えて、正直に寝坊したと告げたのだが、思った以上に注目を浴びたことがいたたまれず、氷河は俯いたままカミュの元へと向かう。
 カミュは数百枚にも及ぶ複雑な構造計算書に目を通しているところで、大声を上げて集中を妨げた氷河のことを煩わしそうに一瞥した。
「あ、あの、すみませんでした。本当に」
「わたしは休めと言ったはずだが」
「い、いえっ、あのっ、体調は悪くありませんっ働かせてくださいっ」
「始業時刻に起きられないほど疲れているようなヤツにわたしの大事な仕事は任せられない」
「すみ、すみませんでした……」
 項垂れて言葉無く立ち尽くす氷河に、カミュはもう興味を失ったかのように手元の構造計算書にさらさらと何か走り書きをし始めた。
 取りつく島がないとはこのことだ。
 どうしたらいいのかわからず、氷河はただ、拳を握ってカミュの手元を見つめる。
 二人の動向を窺うように、部屋全体の空気が緊張の色を纏わせていて、氷河の背中を冷たい汗が流れ落ちた。

 やがて、カミュが視線を上げないまま、静かに、だが、有無を言わさぬ調子で言った。
「そこに立たれると照明を遮るから邪魔だ。今日はもう休暇届を出してあるのだから、お前がそこにいる意味はない。帰りなさい」
「は、はいっ……すみません」
 氷河はすごすごと自分の席に戻る。隣の席のアイザックが唇の動きだけで、泣くなよ、と言ったのがわかった。
 あまりの自分の情けなさと、カミュの冷たい拒絶に、本当は涙が零れそうなほど気持ちがぐちゃぐちゃだったが、氷河は腹に力を入れてぐっとそれを堪えた。アイザックが言うように、ここで泣いたりしたら、きっと本当にカミュに愛想を尽かされる。
 どれだけ叱られようと、仕事でしか挽回できないのだから、挽回させてもらうチャンスを得るまでは、帰れと言われても本当に帰るわけにはいかなかった。

 目の前の席に座るカミュは、氷河が扉の方へ向かわず、自分の席に戻ったことをわかっているはずだが、重ねて「帰れ」とは言わず、そのことで氷河は自分の行動が間違っていなかったことを知る。
 カミュはそれ以上氷河を咎めるようなことは言わなかったが、代わりに、その存在はないかのように振る舞った。
 新人にとって、これは一番つらい。
 何しろ、まだ、自分の仕事と言える仕事はないのだ。上司から、細々と雑用を言いつけられてようやくやることがわかる、そんな状況だ。
 そのカミュが沈黙している限り、氷河には何をしていいかわからない。
 とりあえず机の上を整理してみたが、たいして仕事を持っていない身だ。ものの数分で机の上はピカピカになった。
 しばらく、カミュが何か指示してくれないかじっと待っていたが、いつもは氷河に頼むコピーを隣の係の者に頼んだことで、これは待っていてもだめだ、と悟った。助けて、というようにアイザックを見たが、その時だけ、それを咎めるようにカミュが視線を上げたので、アイザックに助けを乞うことも許されなかった。

 どうしよう。
 まだ半日ある。半日もこの状態で机の前で座っているなら何をしに会社に来たのかわからない。
 何か、仕事。
 俺にもできる、仕事。

 あ。
 建築設計部の資料庫。

 二日ほど前に、カミュと一緒に、過去に出したコンペ作品の設計資料を探しに行ったのだが、カミュが、ラベルと中身が合ってない、探すだけでこんなに手間を食っていたのでは時間の無駄だ、とぼやいていた。
 最近の資料は全てデータベース化されて、電算管理されているので検索は容易だが、古いものは無造作に箱に詰め込まれたまま、棚に積み上げられていて、箱の側面に、ざっくりと建築年と建造物名が書いてあるにすぎなかった。しかも、それが中身と合っていないときている。
 総務部が管理している資料庫の方は、図書館でもここまでは美しく整理できない、と思えるほどに整理されていたが、建築設計部専用の資料庫の方は、理系集団の集まりが管理している(というか管理する気がある者がいない)哀しさ、惨憺たるものだった。

 あそこなら。
 部屋に流れるこの気まずい空気を感じずにすむし、俺でもできる仕事はある、かも。

 氷河は立ち上がり、「俺、資料庫に行ってます。」とカミュに向かって告げた。
 カミュは相変わらず、視線すら上げず氷河の声を黙殺したが、アイザックが了解、というように左手を上げたので、氷河は愛用のノートを片手にそのまま部屋を後にした。


 建築設計部のオフィスと同じフロアにある、その資料庫は二十畳ほどの広さだが、人ひとりしか通れないほどの通路しか確保されておらず、残りは全て書棚で埋め尽くされていた。
 書棚には文書保存箱に乱雑に突っ込まれた設計書や関連する構造計算書や資料などが積み上げられ、一カ所だけある東側の窓も、書類に埋もれてしまっていて昼でも薄暗い。
 早速氷河は自分のノートを開く。
 二日前に自分が書き記した、「資料庫の電燈のスイッチは入って右の書棚の裏」という記述を見つけ、安堵する。
 よかった。
 メモをしていなかったら、スイッチの在り処を聞きに、またあの気まずい部屋へ戻らないといけないところだった。
 埃っぽい書棚の奥に腕を伸ばして手探りでそれを押すと、薄暗い部屋に人工的な光が満ちた。

 やはり、カミュが苛立つのも無理はないほど、ひどい有様だ。
 皆、資料を借りた後、元に戻すのが面倒で、つい手ごろな箱に突っ込んでおいてしまうのだ。
 元あった場所に戻す、という一手間ができないほど忙しい、ということもあるが、これほどまでに乱雑に散らかっていれば、その、元あった場所に戻すという作業自体があまり意味のないものに思えた。

 試しに一番手近にあった箱を開いてみる。
 もう二十年以上前に書かれたのではないかと思われる黄ばんだ図面(何しろ手書きだった)や構造計算書、コンペ時のコンセプト集などが出てきたが、図面と構造計算書が合っていない様に見えた。
 だが、氷河の能力では一瞥してわかる、というほどではない。
 よくよく目を通して、複雑な計算式を読み解き、うん、やはりこれはこの建物の計算書ではない、という結論を出す。
 ここのところ、コピーだとか簡単なデータ入力しかやっていない氷河だが、元は設計がしたくて入った会社だ。かなり面倒な作業だったが、それでも自分の大好きな設計図を好きなだけ開いていられる、というのが楽しく、氷河は作業に没頭しはじめた。