寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味

アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ

◆ep2 キス×キス×キス ④◆

 ミロのプレゼンはまるで魔法を見ているかのようだった。
 カミュが持ってこさせた新しい図面の完成度にも瞠目させられたのだが、ミロの話術によって、それはさらに輝きを増した。
 氷河は、途中でちらりとミロが手元に持っている書類の束を見たのだが、なんと全部白紙だった。白紙を片手に、さも、入念な準備をしてきました、という顔をしてミロは次々にコンセプトやら、設計上のメリットデメリットを適切に説明して見せたのだ。
 冥界建設はやはりこちらの企画をそのまま盗用してぶつけてきたようだった。
 夕日を望むシチュエーションというキーワードに、審査員の顏が、ああ、お宅もそのパターン?というやや気の毒な顔になった。しかし、ミロは巧みに冥界建設の(つまりはこちらの最初のプランの)デメリットを強調しながら、このプランの良さを説明していった。
 間接的に見る美しい景色の良さは、風雅の心がわかる、都会的でスタイリッシュな人間にはかならず受ける、と強調するに至っては氷河は内心舌を巻いた。どこから見てもスタイリッシュで洒脱なミロにこんなふうに強調されては、このプランを否定すれば、それはすなわち風雅の心を解さない野暮ったい人間だ、と言っているようなものだ。
 ミロは説明しながら、部屋の中をさりげなく歩き回った。女性の審査員が手に持っている資料に背後から手を伸ばして、ここのところをご覧ください、とミロが屈みこんだときにその審査員の頬が染まったのを氷河は見逃さなかった。
 一人、頭の固そうな年配男性が、しかし、家族連れなんかには洗練された美しさよりわかりやすい面白さが受けるのではないのかね、わたしはやっぱり冥界さんの方が、と隣の男性とひそひそ話しているのを聞きとがめると、ミロは氷河に意味ありげな視線をよこした。
 出かける前に言われたことと、さきほどからのミロの行動で自分の役割をなんとなく察した氷河は、仕方なくその男性の前に資料を一枚ペラリと落とし、「失礼しました」と、俯いて資料を拾って見せた。言われていたとおりに、なるべく深く頭を下げ、十分視線をひきつけたかな、と思った頃、顔をあげて、もう一度、すみません、とはにかんだ笑顔を見せると(慣れぬ真似をさせられて実際恥ずかしかった)、その男性は途端に、視線をウロウロと彷徨わせ、いや、まあしかし、なんだその、と言葉を詰まらせ始めた。

 ミロ、これじゃ、プレゼンの中身はまるで関係ないじゃんか!
 ホストクラブかなんかだよ、まるで!

 ものすごく抗議したかったが、そもそも、こんな真似をしなければいけないほど追い込まれたのは自分のせいだという認識があったので、氷河はミロが送ってよこすサインを必死で受けて行動に移した。

**

「結果の方は今日中には会社の方へ連絡させていただきますから」
 そう担当者に言われて会議室を後にすると、氷河の背にどっと冷たい汗が噴き出た。いくらカミュが用意周到で、ミロの話術が完璧だったとしても、相当な綱渡りなのは確かだ。
 結果を聞くのが怖い。
 ミロに腕を引かれていなければ、もう一歩も歩けないほど神経をすり減らしきっていた。
 会社へ帰る道を歩きながらも、だんだんと足取りが重くなる。
「あの……ミロ、今日はありがとう、ございました。ええと……あの、先に帰っていてくれませんか。……俺はちょっと用事が、」
 ミロが立ち止まって氷河を振り返った。
「馬鹿だな。みんなに顔が会わせられないとか思っているんだろう」
 図星である。
 みんなに、特にカミュにはどう考えても顔向けできない。逃げ出したかった。結果がどうあれ、このまま会わずに辞表を郵送してすませたかった。
 ミロは視線を氷河の後ろへと送る。お誂え向きに公園がある。
「来い。俺も慣れない頭使って疲れた。ちょっと一服させてくれ」
 ミロは氷河の手を引いて緑地帯を抜け、ベンチへと腰掛けさせた。
 自分の方は水飲み場でダイレクトに顔に水を浴び、それから子犬のようにぶるぶるっと頭を振って水を飛ばした。氷河は鞄からハンカチを出してミロに渡した。スーツのままでそんな無茶苦茶な、と憎まれ口の一つもききたいところだが、今日はこのひとの、こういう好いたらしいところに救われたのだから何も言える立場ではない。
 ミロは氷河の隣へ腰かけ、煙草を胸元から取り出したが、風向きを見て、氷河の反対側へ腰かけなおした。
 火をつけて、ゆっくりと煙を吸い込む。
 氷河は、空へ立ち上る紫煙を視線で追いかけながら言った。
「『営業部のエース』って伊達じゃなかったんだ」
「疑ってたのか。どうだ。惚れ直したか」
「うん……い、いや、人間としてって意味だけど」
 素直に肯定された。いつもの生意気な口をきく余裕もないほど弱っているわけか。
 ミロは笑って氷河の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。
「君も、よく逃げなかった。俺ならとっとと逃げ出していたかな」
 嘘だ。
 このひとも、カミュも、絶体絶命の状況でも逃げるようなひとじゃない。そう信じていられたから、自分もどうにか逃げずに済んだだけだ。
 本当は社運がかかった大事なプロジェクトの資料を社外に持ち出すような信じられないミスを犯した己を、なかったことにして、逃げてしまいたかった。

 膝の上で握られた氷河の拳に、ポタリと涙の雫が落ちる。
 情けなかった。
 カミュがあんなに真剣に取り組んでいたものを、己の浅薄な考えひとつで台無しにした。
 少しずつ仕事を自分の力でこなせるようになってきて、入社直後の緊張感を忘れて油断していたとしか思えない。カミュの仕事を一緒にやっているうちに、まるで、自分までカミュのように有能になったつもりで浮かれてしまっていた。
 こんなに駄目な俺をフォローしながら、カミュは、元のプランと同等かそれ以上に素晴らしい対案まで用意していた。
 敵わない。どれだけがんばっても俺はあのひとに絶対に追いつけない。
 そして、白紙を見ながら、カミュがそこにいるかのように、滔々と内容を説明してみせたこのひとにも。
「俺、なんて駄目なんだろう。きっと、もうカミュは俺には何一つ任せてはくれない」
 氷河の頬を静かに涙が伝い下りる。
 ミロは正面を向いたまま、腕だけを横へ伸ばして氷河の頭を掻き回すように撫でる。
「半人前だということを自覚したら、もう君は一人前だよ」
 やめてください、と湿った声で氷河が首を振る。
「俺に優しくしないでください。優しくされると余計に自分が許せなくなる……」
 そうか、と言ったきり、氷河の髪の柔らかい感触を楽しむように指を差し入れて梳いていたミロが、ふと、氷河のおとがいへと指をかけた。
 そのまま己の方へ氷河の顏を上げさせると、ミロは氷河の唇へ己の唇を重ね合せた。
 驚いた表情の氷河が、何度も涙に濡れた睫毛をしばたたかせるのを、ミロは唇を触れ合わせたまま笑う。
 唇を優しく吸い上げて離れれば、氷河は、これ以上はないほど目を大きく見開いた。
「な、な、なにをして……!?」
「キスも知らないのか」
「いや、それは知っているけど、」
「では改めてもう一度」
 そう言って再び顏を近づけてくるミロを押し戻して氷河は、いやいやいやいや、おかしい、おかしいから、それ!と声を上げた。
「易々と弱味を見せるからだ。つけこむのに絶好のチャンスだったからつけ込んだまでだ」
「つけこむ……!?せっかくあなたを見直したところだったのに!セクハラで訴えてやる!」
 さきほどのしょげ返りぶりが嘘のように、真っ赤になって怒って歩き出す氷河をミロは笑って追いかける。
「会社に戻るのか。もう少し俺の胸で泣いて行ってもいいんだぞ。キスの続きも教えてやろう」
「なっ、泣いてなんかいないし、そんなもの教えてもらいたくない」
「じゃあ代わりに俺の失敗を教えてやるというのはどうだ」
 失敗?あなたの?と氷河が足を止める。
「……あなたの失敗なんて……何の慰めにもならない。俺よりひどい失敗なんかそうそうない」
「あるんだな、それが」
 ミロは、少し顏を顰めて、そして苦笑してみせた。
「大事なコンペを落とした」
「……え?」
「それも遊び歩いた末の二日酔いで」
「それは、ええと、」
「ひどいもんだろう?君のポカなんか可愛いもんだ、挽回できたんだから」
「挽回できたかどうかはまだ……」
「できたに決まってるだろう。本気のカミュに本気の俺だぞ。はっきり言って無敵だ」
 な、とミロは氷河に向かって片目をつぶってみせる。

 不思議だ。
 このひとがいうと本当にそうかも、という気になってくる。

**

 社に戻った時には、辺りは暗くなっていた。
 終業時間を過ぎていたので、もう誰も残っていないかも、と思ったのにエントランスホールで社長に出迎えられた。
「よくやったな、お前達。うちを取ると連絡があったぞ」
 そのひとことで、氷河は、抱えていた資料を取り落してぺたりと冷たい床に座り込んだ。ミロは相手が社長だというのに不遜な態度で、なんだ、だったら早く電話してくれよ、と言ってさっさとエレベーターに乗ってホールを抜けて行った。
 社長のサガは、そんなミロの背を見送り、氷河の方へ向き直った。
「氷河と言ったな。お前の処遇はカミュに一任してある。カミュの指示に従え。わたしとしては結果さえ出れば経過は問わない」
 社長の寛大な言葉に、氷河はただ黙って頭を垂れた。

 氷河が建築設計部の扉を開くと、カミュはまだ残っていた。
 ほかの社員はほとんどいない。明かりも半分消えている。
 氷河はおずおずとカミュの元へ向かった。ミロのおかげで、社に戻る元気までは出たが、カミュの顏を見ればやはり居たたまれなさで身が縮む思いだ。それでも、氷河は勇気を出して、デスクに寄りかかって腕を組むカミュに、おずおずと告げた。
「す、すみませんでした。俺のせいで……」
 実際、消えてなくなってしまいたいほど自分が情けなくて恥ずかしい。謝罪の言葉を考えながら帰ってきたはずなのに、情けなさすぎてどれも言葉にならない。
 カミュはそんな氷河の心中を全てわかったかのように静かに頷く。
「ミロからだいたいは聞いた。よく気づいてくれたな。事前に気づいてくれたおかげで大事に至らずにすんだ。お前のおかげだ」
 せっかく涙を堪えて帰って来たのに、その一言でまた涙が溢れそうになり、氷河はぐっと拳を握った。
 ミロといい、カミュといい、なぜ俺を責めないんだ。優しくされればされるほど、つらさが増す。
「でも、元はといえば、俺のせいです」
「いや。責任を問われるとしたらわたしだ。情報管理もわたしの仕事のうち。たまたま今回はお前がターゲットに選ばれたようだが、あの手合いは手段を選ばない。どこから漏れていてもおかしくはなかった」
「でも、」
 なおも言い募る氷河に、カミュは少しだけ顰め面をしてみせた。
「まあ、社外秘情報を社外へ持ち出したのはお前の脇も甘かった。そのペナルティは受けねばなるまい」
 きた、と氷河はごくりと喉を鳴らす。
 社長の言葉どおりなら、カミュに一任してあるという自分の処遇がどうなるか。降格しようがないほどの下っ端だ。となると、やはり左遷か。閑職と噂の資料庫番か。
「こんな初歩的ミスを犯したお前はな……わたしが鍛えなおしてやるから当分異動はないと思っておくように」
 えっと氷河は思わず声を上げる。さらりと言われたその言葉を、氷河は何度も反芻した。
「いいのですか。俺がまたあなたの元で働いても?」
「喜ぶには早い。わたしは誰よりも厳しいぞ。異動したいとどれだけ泣いても手放してやらんから覚悟しておけ」
「はいっ!」
 今度こそ本当に氷河の心が浮上する。水底から勢いよく水面に飛び出した風船のようにふわふわと心が柔らかく漂う。
 と、その時、氷河の胸元で携帯電話が鳴った。
 氷河はふわふわとした気持ちのまま、明るく通話ボタンを押した。
「ハイ!」
 ──元気ですねえ。結果が良かったからおとがめはなしになりましたか?
 途端に氷河の心臓が冷たい手で掴まれたかのようにキュッと収縮した。背中を冷たい汗が流れ落ちる。
 電話番号までどうやって知られた……。
 ──可愛らしいあなたとデートができずに残念ですよ、私は。次の機会をまたすぐに設けたいものですねえ。
 ねっとりと氷河を絡め取るような声がまた氷河を呪縛し、身動きを妨げる。
 氷河の顏色で、電話の相手に気づいたのだろう。カミュが横からそれを取り上げた。
「うちの氷河が世話になったな」
 ──なんの、保護者から礼を言われるほどのことはしていませんよ。
「うちの設計をそこまで気に入っているなら今度から直接わたしに言ってくれ。落成式くらいには呼んでやろう。呼ばれてもいないのにわたしの視界に入るようなことがあれば、会社をつぶす覚悟でいるんだな」
 受話器の向こうからは相変わらずミーノスの人を食ったようなくつくつ笑いが聞こえていたが、カミュはそれには構わず、終話ボタンを押して、何ごともなかった顔で氷河にそれを返した。

「さあ、疲れただろう。だが、明日から本格的に忙しくなるぞ。今送るから帰ってゆっくり休め」
「えっ。いえ、でも、アイツは別にストーカーってわけじゃなかったみたいだし、もう平気です。今まですみませんでした」
「いや、まだ当分送らせてくれ。……前にも言ったが……わたしが個人的に心配なだけだ」
 氷河はパチパチと目を瞬かせた。ほんのりと頬が赤くなる。
「だったら……今日は、いつもより時間も早いし、俺にお礼をさせてもらえませんか」
「お礼?」
「はい。上手ではないと思いますが、食事を作ります、俺」
「お前が?」
 氷河の不器用さを知るカミュは瞠目したが、しかし、ふっと笑って答えた。
「では、今日は氷河の言葉に甘えよう」
 カミュの答えに、氷河はとても嬉しそうに、はいっと元気な返事を返した。

**

 その夜、カミュは初めて玄関から先へ足を踏み入れた。
 氷河は、ドアを開けた瞬間、雑然と散らかった部屋を目の当たりにして、しまった、こんなことになるなら、今朝、もっとちゃんと片付けておくんだった。っていうか後日改めて招待にすればよかった、と後悔したが、時すでに遅し。
 カミュは笑って、大丈夫だ、別にお前の部屋がものすごく片付いてるとは思ってなかった、と慰めているのかとどめをさしているのかわからない微妙なセリフでますます氷河を落ち込ませた。
 それでも、ボルシチをふるまうと、うまい、とカミュが満足気に笑ってくれたので氷河はほっと胸をなでおろした。
「俺の故郷の料理なんです。俺がまともに作れるのは実はコレだけなんですけど」
「そうか。でも確かにこれはうまい」
 カミュは職場で見せるよりほんの少し柔らかい顔をしている。脱いだ上着とか、緩められた首元だとかに氷河はドギマギした。
 カミュは氷河の本棚を見て言った。
「建築士の資格を取りたいのか」
「はい。実務経験が足りないから受験資格はないですけど、勉強だけは、と思って。でも難しいです。独学じゃなかなか……」
「わたしでよければ休みの日にでも勉強を見てやるが」
「えっ……でも、いいんですか?」
 毎日職場で朝から晩まで面倒を見てもらっているというのに、その上、休みの日までも俺のために時間を費やしてくれるなんて。
 カミュは氷河の頭に掌を乗せて優しく撫でた。
「私が鍛えてやると言ったろう」
 カミュの手が、頭の輪郭にそってそっと下に降りる。耳を撫で、ミロによって露わにされたままだったうなじへと。冷たい指先がうなじに触れると、氷河の心臓はドクドクと大きく脈打ち始めた。
 沈黙がおりる。
 どうしよう。
 何か言わないと。
 言うことを思いつかないままに、気持ちだけが焦って、酸欠の金魚のように口を開いたり閉じたりさせている氷河にカミュはまた優しく笑いかけた。カミュの指先はうなじから頬を通って顎におり、そのまま自然にすっと離れていく。
「あ」
 離れていく瞬間、思わず氷河はその指先を掴んで止めた。止めてから、そのことに激しく動揺し、一気に耳まで赤くなる。
 ど、どうするつもりなんだ、俺。
 なんで今引き止めちゃったんだ。
 この手、この手をどうしよう。
 カミュは静かに氷河を見つめていたが、やがて、我に返ったかのように唐突に言った。
「そろそろわたしは帰るとしよう」
「あ、あ、あ、そ、そうですね!もう遅いですもんね!」
 慌てて氷河は掴んでいた指先を離した。
 カミュは上着に腕を通して立ち上がる。カミュが上着を羽織った瞬間にふわりと透明な香りが舞って氷河はますますドギマギした。
 氷河はカミュを玄関先まで見送り、その背に声をかける。
「今日は本当にありがとうございました」
「わたしこそ礼を言おう。ゆっくり休むといい」
「はい。明日からまたがんばります。よろしくお願いします」
 では、と氷河に背を向けて、ドアノブに手をかけたカミュの動きがなぜか止まった。
 ……なにか忘れ物かな、と氷河が思った瞬間に、カミュは振り向いた。
 そして、氷河の身体を一瞬、柔らかく抱き締め、額に触れるだけのキスを落とす。
 氷河が声を失っていると、カミュは今日一番の優しい笑顔で「おやすみ、氷河」と言ってドアを開けて出て行った。
 残った氷河はへなへなとその場に崩れ落ちた。

 い、今のは……いったい……

 夢でも見ていたのかと思ったが、夢ではない証拠に氷河の身体にはまだ、カミュの透明な香りがふわふわと残されていた。

 どうしよう……俺……
 す、好きになってもいい、の、だろうか。

**

 さて、もう一仕事残っているな、とカミュは拾ったタクシーに会社の住所を告げる。
 長い一日だった。
 氷河にとっても大変だっただろうが、カミュにとっても、あのプランが受け入れられるかどうかは一か八かの賭けのようなものだった。
 だから、自分が用意していた対案だけで今日のコンペを乗り切れたとは思っていない。
 自社ビル前でタクシーを降りたカミュはそこで缶コーヒーを二つ買って、営業部のフロアへと足を伸ばした。
 オフィスから明かりが漏れている。
 やはりいたか。
「お前でも真面目に仕事をすることがあるんだな」
「なんだ、カミュか。……当たり前だろう。デカい仕事取ったんだ。明日からまた細々とした打ち合わせが入る。今日の間に別件を終わらせておかねば俺は当分休みなしだ」
 カミュはさっき買った缶コーヒーを一つミロに投げてよこした。少し逸れたそれをミロは立ち上がって片手で無造作にキャッチした。サンキュと言いかけて、缶の表示を見て呻く。
「おい、俺はブラックは好きじゃない。知ってるだろう」
「子どもみたいなこと言うな。わたしが甘ったるいのは嫌いなんだ」
「お前な。俺にくれるつもりで買ってきたなら俺の好みを勘案してくれたっていいだろう」
「うるさいぞ。いるのかいらないのかどっちだ」
 ミロはため息をついて、手元の缶を見た。喉は乾いている。仕方ないので妥協して、プルトップに手をかけた。
 カミュも同じように手元のコーヒーを開け、二人で無言で缶と缶をカツンとぶつけ、向かい合って、それぞれデスクにもたれるように体重を預けて飲む。
 しばらく沈黙が続いていたが、やがてカミュがやや不本意な様子でミロに言った。
「今日は助かった」
 その礼が、好みの味でない缶コーヒーひとつ、とは、ね。
 ミロは片眉を上げることで小さくカミュに抗議した。
「俺が酔っていなかったことが証明できただろう。……まあ、氷河は不運だったな。ただ、どうかな。あいつは危険だ。氷河はストーカーではなかったと思ったようだが……俺にはそうは見えなかった。むしろ本命は氷河で、企画を盗んだ方が行きがけの駄賃じゃないかと思えたが……」
「お前が言うなら、間違いはないだろうな。せいぜい気をつけておく。氷河も多分今度のことで懲りただろう。少しは警戒心がつけばよいが」
「そいつはどうかな。坊やは、どうもそのへん抜けているようだ。ま、そこが可愛いんだがな」
「俺に言わせればお前の方がよっぽど危険人物だ。……手を出すなよ」
「お前の秘蔵っ子だから、か?お前が相手になってくれると言うなら考えとくけどな。なにしろお前には冷たくされっぱなしだからな。俺だって人の子だ。可愛い坊やに慰めてもらいたくなる時もあるさ」
「やめろ。氷河を泣かすようなことがあれば本気で命はないものと思え」
 冷たく、切り捨てるような口調に、ミロは肩をすくめた。
 飲み干したコーヒーの缶を灰皿に煙草に火をつけようとすると、カミュの手がそれを止めた。
 営業部のフロアは喫煙者が多いせいか、室内の煙草は禁止されていない。怪訝な顔でカミュを見返すと「まだ吸うな」と命令された。俺の望みを何一つ敵えないくせに、その上ささやかな一服すらもお前は奪う気か、と苦笑しつつ、まあ、わざわざ煙草嫌いの友人の前で吸う必要もないか、とミロはもう一度肩をすくめてそれをポケットにしまった。
 しばらく沈黙が続いていたが、やがてカミュがぽつりと言った。
「……お前があんな風に無条件で動くとは思わなかった」
「何がだ?」
「いつもキスさせろだの付き合えだのうるさいだろう。今日のは絶好の取引のチャンスだった。……多分、何を言われていてもわたしは受け入れるしかなかっただろうな」
 ミロは、そうだったのか?それは惜しいことをした、とニヤリと笑ってカミュを見た。
「今からでも有効か?今日の貸しはデカいぞ」
 カミュは真剣なまなざしでミロを見た。紅い瞳がまっすぐにミロを射抜いて、ミロはひるむ。
「あの状況で言われていたら、わたしはお前を心底軽蔑していただろうな」
 カミュは静かに、ミロに近づく。
 一歩、二歩。
「だが、お前はそうしなかった。だから……礼だ」
 カミュはミロのネクタイを引っ張って、その頭を引き寄せると、ミロに唇を重ねた。
 ミロは驚き、状況を把握するのが一瞬遅れた。

 カミュから俺にキスしてくれた。

 そう気づいた時には、しかし、ほんの少し冷たい唇は離れた後だった。
 じゃ、と踵を返して背を向けるカミュの腕を強く掴んで、身体を引き寄せ、ミロはもう一度唇を重ねる。
 蹴られるか、咬まれるか、と思いながら。
 しかし、構えて待っていたがその衝撃はこなかった。こなかったことで、一瞬にしてミロの中の想いが熱を持って爆ぜる。
 固く引き結ばれたカミュの薄い唇を舌で割って、口腔深くに侵入させる。カミュの眉は僅かに歪んだが、明確な拒絶はなかった。
 柔らかい粘膜を舌でたっぷりと味わう。今しがた飲んだばかりのコーヒーの味が残っている。

 ああ、それで。
 わざわざ俺にブラックを飲ませたのはこういうことか。
 まだ吸うなってこういう意味か。

 気づくと、ますます気持ちが昂ぶって、激しく、深くその唇を貪る。角度をかえて何度も口腔を犯し、腰を抱いてカミュのネクタイを緩めようと手をかけ……たが、その時、ミロの向う脛が力の限り蹴り飛ばされた。
 手加減なしで容赦なく蹴り飛ばされ、思わずミロは呻いた。
 カミュは眉を顰めて濡れた唇を親指の腹で拭う。
「礼はしたぞ」
 そう言ってミロを見る紅い瞳が少し気まずそうに揺れた。ミロは再びその腕を掴んで引き寄せる。
「待てよ。これだけじゃ足りない」
 カミュは、今度は手にしていた鞄でミロの背を叩いた。
「調子に乗るな、馬鹿。これだって十分すぎるくらいだ。わたしはそんなに安くはない」
 カミュは、今度こそ本当に踵を返して会議室から出て行った。しかし、すぐに戻ってドアから顔をのぞかせてミロに指をつきつけるようにしながら毅然と言った。
「氷河に手を出したら、二度目は永遠にないと思え」
 カミュの足音が廊下を通り抜け、角を曲がる頃、ようやくミロは我に返って、どさりと椅子に腰を下ろした。
 思わず天を仰ぐ。心臓が激しく脈打っている。

 つまり、氷河に手を出さなければ、いつか二度目がある、と?まるきり拒絶されていると思っていたが、もしかして、少しは脈がある、のか。

 少しずつ、言葉の意味が浸透してきて、笑いがこみ上げてくる。
 が、次の瞬間、昼間のことが思い出されて、一瞬にして笑いが引っ込み、血の気がひく。
 しまった……。
 手遅れだ。ついうっかり氷河にキスしてしまったんだった。
 バレたら間違いなく殺される。そして二度目もない。

 静かに冷たい炎を燃やすカミュを想像して、飄々と5億ドル規模の仕事を取ってきた男は、間違いなく今日一番嫌な汗をかいて深夜のオフィスで文字通り頭を抱えたのだった。


(fin)
(キリリク5000記念 2012.2.23~2.26UP)