サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ①◆
「え」
抱えていたもやもやは、ついに氷河の唇から音となって零れ落ちた。
「話が違う」と続きかけた言葉は、テーブルの下で、カミュの手が、窘めるように咄嗟に氷河の膝に触れたことでどうにか喉奥に抑え込んだが、既に表情に上ってしまっていた苛立ちを隠すことは難しかった。
「少し、整理をさせていただいても構いませんか」
カミュは至って冷静な態度を崩していないが、氷河の頭の中は混乱と憤りがぐるぐると渦巻いていた。
契約しない?ここまできて?だってもう基本設計を終えて実施設計にまで現場は動き始めているのに?カミュだって何時間も残業してきたのに今さら?
「整理してもらってもいいけど、うちの結論は変わらないよ?最初はさあ、おたくみたいに設計から工事まで全部まとめてやってくれるところが面倒なくていいかなと思ったけどさあ、熱心に売り込んできた業者がいてさ。そっちじゃ現場経費、こんなにかけずにやってくれるって言うじゃない。近隣対策費なんかさ、やっすいタオル配るので十分だって。原価10円くらいの。労務管理費も書類作成費もいらないって言われたしさ。おたく、もしかして、俺が知らないと思ってそれっぽい経費いろいろ上乗せしてない?聖域建築さんも意外にあこぎだね。え、なになに、その顔。なにか問題ある?契約書はまだでしょ?」
くらくらくら。
よく隣のカミュは表情を変えずにこんな理不尽を聞いていられるものだ。ぺーぺーの氷河でもわかる、あり得ない台詞のオンパレードに怒りで眩暈がする。
思えば第一印象からして最悪だった。
誰もが名前を知る広告代理店。バブル全盛期に建築された社屋の老朽化が進んでいるため、その修復工事を設計から施工までまとめてお願いしたい、という依頼だった。
が、折悪しく、建築設計部はめいっぱい業務を抱えていて飽和状態で、これ以上の新しい仕事は今は受けられない、と一度はカミュが断った。
だが、どうしても、と粘られて、しまいには、営業部を通さずに、建築設計部に直接しつこい電話が入るようになってしまって、仕方なく、とりあえずどんな建物かくらいは見てみるか、と、皆で社屋画像をインターネットで検索してみた。
そして、画像が表示されるや否や、ああ、と皆、ため息をついた。
バブル期ってやつはどうしてこんな、と頭を抱えるほど、機能性度外視の、ただただ奇をてらったデザインのビルだったからだ。
しつこいはずだ。きっといずこも、面倒なわりに利益の上がらない仕事だと一目で見抜いて、けんもほろろに断ったのだろう。
国道を挟んで東西に向かい合うように立つビル二棟……といっても、ありがちなマッチ箱状の建物ではない。
ドーナツを半分に切って東西の敷地に分けたような、ほとんどすべての窓及び壁が球面で構成された、容積のわりに底面の少ない、まさにバブルの発想の申し子のようなビル。
向かい合う二棟はガラス張りの跨道橋で繋がっているのだが、国道の上あたりで、床と天井が入れ替わるトリッキーなデザインにしていて(もちろん錯視を利用した外観だけの話で、中はただのフラットな通路だ)、そのおかげで上空からはビル全体が捩じれた輪っかに見えることから、元々は社長の名を冠していた会社名は、社屋由来で「メビウス」と変更された───来歴にはそう書いてあるが……いや、無理だろこれ。
建築確認をどう取ったのかわからないようなあの代物の修復工事??
工事のためには国道を通行止めにする必要がもしかしてあるか?許可が下りるか?当時はたいして交通量がなかったかもしれないがいまや幹線道だぞ??
構造計算はどうなっている?耐震性はどう担保されている?
困難が見えている業務に、やはり断るべきだ、と部内はざわざわしたのだが、ただ、カミュが「あれほどしつこければ、簡単には諦めまい。断るにしても、一度も現地を見ないでは納得もしないだろう。仕方ない、わたしが現地を見てこよう」そう温情をかけて、依頼主と会ってみることにしたのである。
で、その初回の顔合わせ。
相手方はくだんの失礼な態度の総務課長と、社屋の日常メンテナンスを請け負っているという下請けのビル管理サービスの業者、そして、こちらは営業のミロと、建築設計部からは責任者のカミュ、カバン持ちの氷河で臨んだ。(カバン持ちだって大事な仕事だからな?)
格子のシャツにピンク色のカーディガンを肩掛けした、一昔前のいかにもな業界人風の格好をした総務課長とやらは、どうやら少し前までは花形の制作部署でばりばりとCMやらイベントやらを手掛けていたらしく、初めから「俺はこんな地味な仕事をするべき人間じゃない」オーラがすごかった。
挨拶もそこそこに、「あのCM知ってる?アイドルの〇〇が出てるやつ。俺がつくったんだよねー」「総務ってのは雑用係だから誰がやったって大差ないのにさあ、俺みたいな有能な制作マンをさあ……うちの上層部、ほんと、バカで参るよね」などと、過去の栄光自慢と意に染まぬ人事異動への愚痴を長々とこぼすものだから、途中からカミュもミロも全く相槌を打たなくなってしまって、氷河は困って、一人でがんばって、はあ、とか、すごいですね、とか無意味な相槌で場を持たせ続けた。
ひとしきり男のくだらない話を聞かされた後に、「それで今回のお話なのですが、」とカミュが切り出せば、男は、「あ、そうそう、そうだったね。で、いくらでできる?」と身を乗り出した。
「………まずは現場と図面を確認させていただかないことにはお受けできるかどうかもわかりませんし、すぐに金額までは」
「だいたいの相場とかあるんじゃないの?そういうのでいいから教えてよ。悪いところ全部直すとして、1千万くらいでいけそう?」
ミロが思わずカミュの顔を見た。
ありありと「こいつ何言ってんだ?」と書いてあるのを見てとって氷河もはらはらと成り行きを見守る。
見かねたのか、ビル管理業者の担当がおそるおそる口を出す。
「さすがにそれは……設計だけで数百万、直接工事費は億単位となる案件なのでは」
「億ぅ??いやいや、ただちょこちょこっと古いところ直すだけで億はないなあ。億あったら建て替えられるじゃない」
だったら建て替えたらよろしいのでは(ここ、解体だけで億かかりますけどね?)、と、多分、全員の心が一致した結果のシーンと静まり返った会議室に、さすがに変な空気を感じたのか、男が立ち上がった。
「まあいいや。とにかく見積もり出してみてよ。そっから考えるわ。現場って、要は建物見せてってことでしょ?俺忙しいから案内とかできないけど、適当にちゃちゃっと30分くらいで回ってきてよ」
俺、このあと制作部の手伝いでイベントに呼ばれててさあ、あっ、知ってる?〇〇テレビの、と、またも脱線しかける男を制して、ミロが言った。
「その前にまずは建築当初の設計図書と直近の点検結果を拝見させていただけませんか」
普通なら、こちらが要求せずとも最初に出てくるものだ。
しかし、既に薄々嫌な予感はしていたが、男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、なにそれ、とのたもうた。
微妙にこめかみに青筋をたてたミロが「……差し支えなければ、ご担当の方と直接お話をさせていただければ、お忙しい課長さんのお手間を頂戴しなくて済むのですが」と慇懃に伝えたが、担当は俺しかいないけど?部下もつけてもらえないなんてやんなっちゃうよな、と絶望するような答えが返ってきた。
「データが何もない状態では我が社に限らずお受けすることはできないかと。製図システムのデータもございませんか。CADの……」
設計図書がわからない人間がCADデータがわかるはずもない。
面倒なこと言うやつだな、と言いたげに舌打ちをされて、氷河は卒倒しそうになった。
舌打ちした?今、舌打ち、した───!?
さっきから、態度も言葉遣いもなんだか失礼なひとだな、と思っていたのに、面と向かって舌打ちときた。言葉遣いはまだ、もしかしてもしかしたら、親しみを感じさせるための演出だと好意的に解釈できなくもないが(親しみどころか不快感しか感じられない時点でアウトだと思うが)、舌打ちはあからさまにおかしいだろう、人として!?
ですよね、カミュ!?と鼻息荒く隣のカミュを盗み見たのだが、氷河がそんなことをしたら烈火のごとく怒るであろうカミュは、ご面倒を申し上げてすみませんが、と頭を下げていたので、ええー、そんなあー、と氷河はがっかりした。
「本当に面倒だっての。30年以上前の書類なんかあるかなあ」
「後日、設計図書が見つかれば改めてお伺いさせていただくということでも弊社は構いませんが……」
言葉は大変柔らかだが、要は、「話はそれからだ」という意味である。
席を立ちかけたカミュに、さすがに慌てたのか、男は両手を大仰な仕草で振った。
「わかったわかった、今持ってくるから!資料庫見て来るから、先に現場見といてくんない?俺、ほんと、この後時間ないんだよね」
男の方から打ち合わせ日時を指定してきたくせに「時間がない」とは失礼な言い草だが、設計図書を探しに行く気になっただけ進歩だ、と、その場の全員が菩薩顔となって頷いた。
マスターキーこれね!と鍵束を渡されて男が会議室から出て行ってしまうと、一同は顔を見合わせて、ハア、とため息をついた。
ビル管理の業者の男性が、彼の方こそ単なる下請けでとばっちりだろうに、なぜだか、すみません、と頭を下げている。
「弊社で請け負っているメンテナンスの範囲でしかありませんが、設備や配管の位置くらいはわかりますので、ご案内しましょうか。躯体にクラックの入った箇所や、鉄筋爆裂部もいくつか見つけています。……社外の人間がご案内、もおかしな話なのですが……」
「助かります。お願いしてよいですか」
そうした奇妙な流れで、契約当事者不在のまま、一時間ほどかけて初回の下見をひととおり終え、会議室に戻ってみれば、男は椅子にふんぞり返った姿勢で待っていた。
「どーもどーもごくろーさん。こっちも収穫あったから」
どうだと言わんばかりに、テーブルの上へ大判の設計図書が数冊並べられている。
あまり保管状態のよくない、古びた紙質を見て取って、これ以上傷めないように、とカミュが懐から白い手袋を取り出して両手に装着し、「拝見します」と言ってページをめくり始める。
「確かに」
間違いなく建築当初の設計図書だと確認して、カミュが頷く。
「それでこれの製図システム用のデータはありましたか」
「ていうか、それ見てよ、全部手書きだもん、データとかないって」
探しもしていない風情ありありの返答に、カミュが顔を顰めて、もう一度、図面を見下ろす。
「いえ、これは確かにシステムで作成されたものです。鉛筆書きに似たフォントですので、知らぬ方には手書きに見えるかもしれませんが……」
なんだよ、と男は再び舌打ちをして不機嫌になった。
「そのデータがないとできないわけ??」
「できなくはありませんが、この紙ベースの設計書を一からシステムに描き起こすところから始めなければならなくなるため、労務コストが大幅に違います」
「でも、できなくないんだよね?クライアントに手間かけさせないで欲しいなあ」
不機嫌そうに言われても、怒りたいのはこちらである。
だったらあんたがやってみろよ、どれだけ大変か知らないくせに、とふつふつと怒りをため込む氷河の隣で、それまで黙っていたミロが耐えかねたように口を開いた。
「電子データなしで設計を、ということになりますとそのぶんご予算は上乗せしていただく必要があります。通常はサービスでさせていただいている、基本設計方針の作成と概算見積自体も料金を頂戴するようになりますがよろしいでしょうか」
「は?今どきは見積くらいどこもタダでやってくれるよ?」
それは、設計データとか点検結果の資料を用意しておいてくれたら、の話だ。仕事がなくてタダでもいいから見積もらせてくれとこちらから頼んだわけでもないのに、タダになどなるわけがない。
「…………この件は一旦持ち帰り、弊社でお受けすることができるかどうか社内で協議させていただきたいと存じます」
いい加減限界が来たのか(それにしたってよく堪えた方だと思う)、ミロが、ピシリとそう告げ、男の返答を待たずに立ち上がった。
ではこれで、と、問答無用でミロが会議室を出て行ってしまったものだから、氷河も、そしてしばし遅れてカミュも、慌てて後を追ったのだった。
「お断り一択だ」
受付のセキュリティゲートのところで二人を待っていたミロは、メビウス社の敷地を出るなり開口一番そう言った。
契約のいろはのわからない氷河も全く同感だった。少なくとも、工事が終わるまでの間、あの男と頻繁に打ち合わせというかコミュニケーションがとれる気がしない。
氷河たちが会議室を後にするときだって、なんだよ、即決できる人間寄越せよな、とブツブツ言っていたあの男を一度も殴らずにすべての工事を終えるのは非常に困難に思えた。
だが、カミュの意見は違った。
「……あの男は確かに酷いが、建物に罪はない。わたしは受けてもいい」
えーっ!?と声に出さずに驚いた氷河の横で、うそだろ、と、ミロが天を仰ぐ。
「建築バカもたいがいにしろ。興味がわいたからと言ってリスクは取るべきじゃない。ああいう手合いは絶対に契約後にもトラブルを起こす」
「それはわたしも同感だがな」
「わかっているならやめておけ。下手したらお前の名前に傷がつく」
「傷がつくことを気にするようなたいそうな名でもないが」
そう思うか?と目を吊り上げたミロが視線を寄越したので、氷河は全力で首を横に振る。
「社の看板を背負っている自覚を少しはしてくれ。お前はほかにも山ほど案件を抱えているだろう。この上あの面倒な仕事まで引き受ける余裕なんかないはずだ」
「……大丈夫だ、社に迷惑はかけない。空き時間に片付ける」
「空き時間などお前にはないだろう!そういうことは一度でも定時で帰ってから言え!」
初めて聞く怒気あらわなミロの声に驚いて氷河はビクッと立ちすくむ。
カミュが氷河の背へ手を回して顔を顰め、こんなところで怒鳴るな、と窘めたが、ミロは、そうさせているのはお前だ、と譲らない。
自身もどちらかと言えばハードワーカーなミロが怒るのも無理もないほど、近頃のカミュは明らかなオーバーワークが続いているのだ。本人は、好きでやっている、と涼しい顔をしているが、だからこそ、際限なく働いてしまうから性質が悪い。
カミュの身体を思えば、絶対に絶対に、断ると言ったミロが正しい。
だが、断る理由を探すための顔合わせであったはずなのに、あの建物の何がカミュの気を変えたのだろう、と興味も引かれていて、カミュがそうしたいなら何とかならないものかと考えてしまう。
「あの、俺、」
おそるおそる口を開けば、険悪な雰囲気となった二人が険を纏わせたまま、じろりと氷河を見下ろす。
「あの……俺も、カミュを手伝いますから、製図システムに図面を入力する作業は全て俺がしますから、あ、いや、仕事と言うより、俺の勉強にもなるわけですし、ほかの業務もできる限り俺、がんばりますから、」
だめですか、ミロ、と上目遣いでミロを見上げれば、彼は、低い唸り声を発して、くそっと悪態をついた。
「氷河に言わせるのはずるいだろう」
「わたしが言わせたわけではない」
「なお悪い」
社に戻るまでの道中をずっとミロはブツブツと文句を言っていたが、だが、2対1となったことで腹を決めたのか、最終的には、社長を説得するのに力を貸してくれたのだった。
それなのに、だ。
案の定というか、想像以上と言うか。
相当な苦労の末に仕上げた設計提案書とそれに基づいた工事の概算見積書を、「こんなに高いの!」と目を丸くして受け取った男は、「参ったな。もう社屋リニューアルイベント企画動き始めちゃったしなあ……ま、なんとかなるか。とりあえずこれで進めてみてよ」と言ったにも関わらず、なかなか本契約の手続きを進めなかった。
「契約できればすぐに実施設計に入りたいので、お急ぎいただきたいのですが……」
氷河が何度電話しても、「あー、あれね、大丈夫、もう設計始めといていいから」と言うばかりで、あとは印鑑を押すだけとなった契約書を一向に返送してこないのだ。
いいからも何も、照明器具はLEDに交換してもよいのか、外壁の防水加工は全面か目地のみか、工事期間中は社屋の一部が使えなくなるが代替オフィスはどっちで手配するのか、確認できていないことだらけだ。確認しようにも、「任せるわ。いい感じにしておいてよ」と話にならない。
氷河よりずっと長い期間、社会人をやってきたはずの男だが、こうした契約ごとを進める窓口としては明らかに素人だった。誠実さが足らないという意味では、素人よりずっと悪かったかもしれない。なぜメビウス社が、大金のからむ事業をこんな男に任せているのか氷河には理解ができなかった。
挙句の果てが。
なかなか話が進まないことに業を煮やして、改めてカミュと氷河が詳細の打ち合わせを申し入れ、打ち合わせの場で、形式的に、そういえば契約の手続きはどうなっていますか、と尋ねたところ、おたくとは契約しないよ、と来たのだ。
その理由が、値段が高いから、とあっては、さすがに怒りを抑えるのが難しい。
今さらかよ、という怒りと。
どれだけ努力したと思っているんだ、という憤り。
まだ何枚も見積書を見たことがない氷河でもわかる、不必要な建築コストをできるだけ省いた良心価格、データ作成経費など完全に無償奉仕の代物だ。
近隣対策費は、安い10円のタオルでいいと言うが、こういうところをケチれば、倒産が近いと思われて株価に響くからってミロがわざわざ知り合いのノベルティ会社に頼んでそこそこ安価でおしゃれな石鹸を作ってもらうように段取りしたのに。
労務管理費がいらない会社なんて、要は社会保険にも加入してない、日雇い人夫ばかりの質の悪い会社だ。安くて当然だ。
そんなところと、引き受けたからにはベストを尽くそう、と真摯に対応してきた我が社とが比べられた挙句に、価格差を理由に、まさか、引き受けたこと自体なかったことにって、そんな話があっていいのだろうか。
氷河はぎゅっと自分の右拳を左手でつかんだ。そうしないと彼を殴ってしまいそうだったからだ。
正直、そのくらいのことはしても許されるんじゃないか、という気持ちになるほど、怒りは大きかった。
「……弊社をお選びいただけなかった理由は、単純に、コストだけの問題でしょうか」
氷河を叱る時には弁解の余地なく厳しいのに、カミュがなぜ、ここまで虚仮にされてそんなに静かな声を出せるのかがわからない。
「コスト?うーん、まあ、そりゃ安い方がいいのはもちろんだけど。おたく、なんかちょっと細かすぎるからね。うちの社風とは合わなかったかな。縁がなかったみたいで、なんか悪かったね」
細かいことをいちいち確認して物事を前に進めようとしていたのは、それだけ丁寧に仕事をしているからで、まさかそれが断る理由になっているとは思いもせず、氷河は唖然として開いた口が塞がらなかった。
カミュは、そうですか、とやはり静かなままだ。
「力不足につきご期待に沿う働きができず、申し訳ありません」
淡々と頭を下げ、半分以上作業の進んでいた設計書をまるめて製図ケースに収納し、借りていた古い設計図書を返却するカミュの姿に氷河の鼻の奥がつんと痛くなった。
理不尽だ。
こんなの、おかしい。
カミュに設計してもらいたくて、何年でもスケジュールが空くまで待つからって言ってくれるクライアントだっているのに。
こんなふうに軽んじられていいようなひとではないのに。
怒りで氷河は震えていたが、隣のカミュが何も言わずにすっと立ち上がったものだから、部下が勝手に暴走するわけにもいかなくて、氷河もしぶしぶそれに従う。
だが、二人して頭を下げて出口へと向かう、その背へ、男の無神経な言葉が追い打ちをかけた。
「あ、そうだ、製図システム?とやらのデータ、できてるところまででいいからさあ、後でメールででも送ってくれない?そっちで持ってても、もう使い道ないでしょ?データがあればさらにその分値引きしてくれるらしいんだよね。無駄にするよりは有効活用できた方がおたくも報われない?」
「…ッ、あんた、どこまで、」
製図ケースを肩に担いだまま拳を振りかぶった氷河の右手は、だが、カミュによってその先を阻まれた。
「氷河」
耳元で低く名を呼ばれて、顔を見上げれば、厳しく咎めるような瞳があって思わず竦む。
どうして。
どうして、俺が、怒られるんだ。
間違っているのは、絶対に、奴の方なのに。
氷河の感情が収まらないうちに、カミュが、男へ向かって勝手に話を進めてしまう。
「わかりました。後ほどデータも送らせましょう」
あっそ、どうもねー、と男は軽く受け止めて、二人を見送りもせずに会議室から消えていった。
「氷河、」
後ろでカミュが何度か呼んでいるが、氷河は振り返らずに駅までの道を黙って歩き続けた。
怒っていた。
否、混乱していて、どうしたらいいかわからなかった。
カミュは業界では名を知らぬものがないくらい、すごいひとなのに。
あんな扱いされていいはずはないのに。
屈辱的な扱いを受けても黙って飲み込むのがサラリーマンには当然のことなら、俺には会社員なんか務まらない。とても納得なんかできない。
「氷河、待ちなさい、」
だいたい、カミュもカミュだ。何も言わないから奴が舐めてしまったんだ。
カミュなら、奴を言い負かすことなんか朝飯前だったに違いないのに、俺なんかいつもぐうの音も出ないくらいの正論で厳しく捻じ伏せられてしまうのに、あんな奴のいいなりで、どうして。
「氷河!」
駅のコンコース手前で、しびれを切らしたか、氷河の肩をカミュの手がぐっと掴んで振り向かせた。
「待ちなさいと言っ………泣くことはない」
「な、泣いていません!」
言ったものの胸の中でぐるぐる渦巻いていたものが零れ落ちていないかどうか自信がなくなって、氷河は思わず拳でごしごしと両目を擦った。
が、拳は乾いた感触を返すばかりだ。
「………泣いて、いません…?」
確認するようにそう言ってカミュを見上げれば、カミュは、だが泣きそうだった、そうだろう、と言った。
そんな風に言われてしまうほど、カミュの前では涙なんか零したことがないはずだけど、と氷河は頬を赤くする。
「……あ、あなたが何を考えているか、俺にはわかりません」
視線を外してそう言った氷河の肩を抱くようにして、カミュがすいと方向転換させた。
「ここは邪魔になる。こちらへ」
立ち止まったカミュと氷河をよけようと人の流れが分断されていたのだ。夕方と言うにはまだ少し早い時間だが、授業の終わった時間帯の学生たちで駅はそれなりに混んでいる。
そのまま、来た道を戻り始めたカミュに戸惑いながら、氷河はその背を追いかける。
「カミュ、やっぱり文句を言いに戻るのですか」
まさか、と、カミュは肩をすくめた。
「今日はわたしは車で来たからな。それでさっきから呼び止めていたのだが」
「えっ、そうだったのですか」
そう言えば、ほかにも回る現場がいくつかあるから、とカミュは自宅から直行、メビウスへは氷河とは別々、現地集合としたのだ。
頭に血が上って何も確認せず、勝手に駅までの道を歩いていた自分が恥ずかしくなって、氷河は俯く。
もう一度、あの会社までの道を戻るのはなんだか気が重い。
「あの、俺は電車で帰りますよ」
「わたしの運転は不安か?」
「そ、んなこと、あるはずないです!カミュの運転は完璧です!」
乗せてもらったことはないけれど、と思っていれば、カミュが「わたしの運転を知らないのにか」としごくもっともな指摘をしたために、氷河はまた頬を赤くした。
「実は、飛ばす方だったりするんですか」
「どうかな。さすがに今日は荒い運転をしない、とは言い切れない。お前が乗ってくれた方がわたしも自制しやすいのだが」
あ、と、氷河は息を飲んだ。
全く堪えていないかに見えているカミュだが、冗談めいた言葉に、理不尽さへの鬱屈はうっすらと感じられた。
「の、乗ります、俺」
どちらにしろ同じ場所に帰るのだ。
そこまで拘って電車に乗りたいわけでもない。
慌ててそう言うと、カミュは、そうしてくれ、と頷いた。
折しも、二人はちょうど駐車場の前へ着いたところだ。
「先に乗って待っていてくれ。わたしは社に連絡を入れておこう」
そう言ってカミュは、一台の車に近寄って助手席側のドアを開けた。
てっきり、社用車、あの、でかでか社名の入っただっさい白のバンかと思っていたのに、カミュが乗るように促したのは、青と深緑の中間のような色合いのブルーが大人の落ち着きを醸す、ローボディのスポーツクーペだった。
氷河は目を白黒させてパチパチと瞬きを繰り返す。
「?乗らないのか?私用車で悪いが、ちゃんと保険は入っているぞ」
戸惑う氷河から製図ケースやカバンを受け取って後部座席にやりながら、カミュは胸から取り出したスマートフォンを操作している。
通話の邪魔にならないようおそるおそる助手席に乗り込んで、氷河が深く沈むシートへ身体を預けた瞬間にドアがぱたりと閉められた。
え、え、え~~~~!?
カミュの車!?カミュの、車なのか、これ!?
かかかかかかかっこいいいいい!!
自分の外見にはてんで興味がないくせに、氷河とて男の端くれ、イケてる車にはたいそう弱い。あれいいな、俺も欲しい、と街ゆく車を目で追いかけることも多く、それが憧れの上司とともに現れたとあっては。
多分、フロントガラス越しにスマートフォンを耳にあてたカミュが氷河を見つめていなければ、ギャーッと顔を覆って一人で悶えていただろう。
私用車ということは、もしかしてもしかしなくても、これはカミュのプライベート空間と言ってもいいのでは!?
現金なもので、この興奮する出来事に、氷河の中からは、さっきまでの怒りも悔しさも全部吹き飛んだ。
なんかすごいいいにおいする!?
ていうかカミュのにおいがする!?
無表情に行儀よく助手席に収まっているが、心臓はばくばく、自分のスマートフォンを取り出して記念の自撮りをしたいくらいである。(俺はクールだからしないけどな!)
こーいう車が安アパートの駐車場に停まっているわけはないから住んでいるところもきっと高級住宅街だったりするのだろう。
思えば上司と部下というのは不思議なもので、一週間のうち眠っている時間以外のほとんどを共に過ごし、濃密に人生の一部を共有しているにも関わらず、それでいて完全に他人なのである。カミュは特に自分の話をしないものだから未だにどこに住んでいるかも氷河は知らないほどだ。
建築士になるための勉強を見てくれるという約束も、カミュがあまりに多くの仕事を抱えているため、ランチ時にお勧めの本を貸してもらうとか、終業後ひとつふたつ質問させてもらうとか、その程度にとどまっていて、氷河がほんのりと期待していたような休日の私的な勉強会は夢のまた夢、となっている。
カミュはまだスマートフォンを耳にあてたままだ。
声を低く抑えているせいで会話は聞こえない。
だが、発信するときに相手先は見えた。
会話をしている相手はミロだ。
社に電話を、と言ったのに。
興奮がおさまってしまうと、今度はそのことがずうんと氷河の胸を重くし始めた。
この件の営業部の担当はミロで、打ち合わせにも何度か同行したから事情はよくわかっているし、外回りが多い彼を捕まえようと思ったら、社ではなく直接携帯にかけた方が早いのかもしれない。
だが、微かに眉根を寄せながら長々と話し込むカミュの姿を見ていると、なんだか、胸がきゅうと締め付けられて困る。
ミロは相変わらず氷河のことは、坊や坊やとからかうくせに、近頃はめっきりカミュにふざけて絡むことはなくなった。
ミロがふざけるから、カミュはセクハラだ、邪魔だ、と邪険に扱っていたのだ。邪険に扱う理由がなくなったせいか、カミュがミロを遠ざけることは少なくなった。
前回の一件から、彼に対する信頼が増したのか、難しい案件は必ずミロと組むようになったし、そればかりか───時折、なんだか意味ありげな視線を交わしているような気がして仕方がない。
二人を見ていると胸がざわざわする。
仕事だ。
仕事だから、仕方がないし、自分がミロの代わりを務められるかというと全く無理なわけだが、「困ったな……」と考え込んでいたカミュが、内線電話で「ミロはいるか」と営業部に電話をかけている姿を見ると、彼が困ったときに頼るのが自分だったらいいのに、と気持ちが焦って仕方がない。
ミロのすごさを目の当たりにしたこともある身、自分では到底まだまだカミュに頼られるに能わない、ということも強く自覚しているから、どうすることもできずに、ただ、ざわざわする気持ちだけを持て余すしかないのだが。
早く経験をたくさん積みたくて仕方ない。
自分が経験を積む間にも、彼らはまた別の経験を重ねていて、永遠に追いつけないことも知っていて、だから余計に苦しいわけだけど。
ミロなら、さっきの場面でどうしただろう。
カミュに対するあり得ない侮辱を許していただろうか。いや、彼なら何か鮮やかな反撃を用意していたのではあるまいか。
殴ってやる、くらいしか対抗手段が思い浮かばなかった自分が情けなくなってきて、氷河は、俯いて唇を噛んだ。
「……疲れたか、氷河」
不意に開いた運転席のドアに驚いて氷河は顔を上げた。
「いえ、大丈夫です。陽が少し眩しくて……」
そうか、待たせて悪かったな、と言いながらジャケットを脱いで、カミュは運転席へと乗り込んだ。
運転しやすいように、だ、とわかっているのに、ふわりと舞ったカミュの透明な香りと、纏うものが減ってわかる思いのほか逞しい身体のラインに心臓が勝手に大きな音を立てる。
カミュがエンジンを始動させると、びりびりと重低音が骨盤に響き、うわ、とそれがまた心臓をうるさくさせた。
滑らかな動きで駐車場から車を発進させながら、カミュは、この後は予定があるか、と氷河に問うた。
「予定?いえ、特には……」
帰社後は今日の打ち合わせの記録簿を作成しようとしていたのだが、それも必要なくなってしまった。本日はもう、不要になってしまった図面とデータを整理して、虚しく自宅に帰るのみである。金曜の夜としては非常に寂しい限りだが、メインの担当現場を何も抱えていない身なので、一つ仕事が減るとそんなものである。
そうか、と言いながらカミュは左腕に巻いた時計にちらと視線をやった。
なんとなく氷河も、カミュの時計の文字盤に目をやる。
そろそろ終業が迫る時刻だが、普段深夜まで働くことが多いせいか、あたりがまだ明るいせいか、(予定が何も入っていないせいも大いにあると思うが、)全然、もうすぐ嬉しい嬉しい金曜のアフターファイブ、という感覚はない。
これから社に戻ってカミュを手伝うにしても五、六時間は働けるな、などと考えていたため、次のカミュの言葉を氷河は聞き逃した。
「………………うか」
「えっ??」
なんですか?とカミュの方へ向かって首を傾げれば、ちょうど信号で止まったカミュがこちらをやさしげな瞳で見ていた。
「少し遠回りだが海でも見て帰ろうか、と言った」
「海……?」
「気晴らしになるかもしれない。多少、だがな」
徒労感だけで一日が終わるよりはマシだろう、とカミュが正面を向いたとき、信号が青に変わった。
カミュと海へ──?
それって、なんだか。
なんだか、とても。
氷河の頬が遅れてかあっと熱を発する。
ちら、とそれを横目で流し見て、カミュが、湾岸道路へ向かう道へぐっとアクセルを踏み込んだ。