サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep2 キス×キス×キス ①◆
「よう。やってるか」
少し猫背になりながら、パソコンの画面で製図システムを操作して設計図面を引いていた氷河は手元に落ちた影で顏をあげた。
「ミロ!また油売りに来たんだな!……来たんですか」
氷河は勢いよく咬みつこうとして、しかし、向かいに座る上司の存在を思い出し、年長者に対しての最低限の礼節を取り繕うために、そう言いかえた。もっとも、その上司の方も氷河とほとんど同時に「また来たのか」とあからさまに邪険にする様子を見せたので、その気遣いはあまり意味はなかったかもしれないが。
ここは聖域建築株式会社。
氷河は、建築設計部に属している新米設計士である。
今、氷河に声をかけたのは営業部のミロだ。
氷河は、ミロには過去に世話になり、大きな借りのある身だ。
が、助けてもらった恩義があるから、と敬意を払っていられたのも最初のうちだけ、顏をあわせるたびに坊やだ坊やだとからかわれ、セクハラまがいの無駄話につきあわされてすっかりと辟易してしまい、近ごろではもう、ミロが「カミュ2号だ」と称して笑うほど、氷河がミロを邪険にするのはいつもの光景になってしまっている。
「氷河、すまないが、この図面を青焼きしてきてくれるか。うちの青焼き機は調子悪いから、工事監理部に行って借りて来てくれ」
「はい」
ミロの相手などする必要はない、と言わんばかりにカミュは、その存在を無視して氷河にそう指示を出す。カミュの助け船に、氷河はすっと立ち上がり、残念でしたーとミロに舌を出し、図面を受け取ると部屋を後にした。
残されたミロは、にやにや笑いながら空いた氷河の椅子に腰をおろして長い足を組んだ。
「相変わらず可愛い坊やだ。今夜また呑みに誘ってもいいか」
「やめろ。遊び相手ならほかにたくさんいるだろう。戯れでうちの部下に手を出したらただじゃおかんぞ」
「誰が遊びだと言った。本気ならいいのだろう?俺は結構あいつを気に入っている」
「なおさら論外だ。くだらん話をしに来たなら邪魔だから帰れ」
「相変わらず冷たいな。ココへ来ないとお前には会えないだろう。ガードが固いお前は家の場所を教えてくれないからな」
「なぜお前にわたしの家を教えねばならん」
「まさか会社で愛を育むわけにもいくまい?」
カミュは苦虫を噛み潰したかのように渋い顔でこめかみを揉んだ。
「わたしとお前の間には育むような愛などない。今、氷河を気に入っていると言った舌の根も乾かないうちにお前というヤツは……」
ミロは頭の後ろで腕を組んでにやりと笑った。
「嫉妬か?心配するな。本命はお前だ。将を射んとすればまずは馬から、だろう」
「そんなくだらん理由で氷河を構うな!」
カミュは機嫌の悪さを隠さない声音でそう言うと、ミロの眉間を狙って稟議書が挟まったバインダーを投げつけた。ミロは片手で簡単にそれをキャッチする。
「ここで油を売るほど暇なのであれば、それを法務部へ持って行け。こっちは食事をする時間もないほど忙しいんだ」
「それが人にものを頼むときの態度か?俺は高いぞ。キスの一つもないことにはな」
「……わかった。返せ。わたしが自分で行って来よう」
稟議書を受け取るために差し出されたカミュの手をミロは指先だけ掴んで、恭しく屈みこむとその手の甲にちゅっと口づけを落とした。
カミュから反撃がある前に、ミロは長い足を振って勢いよく立ち上がって、バインダーをひらひらと振る。
「今日はサービスだ。手だけで勘弁しといてやるよ。法務部だな」
あっという間に扉から姿を消したミロに、カミュは大きくため息をついた。
ちょうどコピーを終えて帰ってきた氷河と廊下ですれ違ったのだろう。扉の向こうで、や、やめろよ!と焦る氷河の声がしている。
扉から姿を現した氷河は図面を抱えて、赤い顔で頬を押さえていた。
おおかた、頬にキスでもされたか。
あいつのアレはどうにかならないものか。一見、軽薄そうに見えるあれは営業戦術のひとつ、いざという時には普段言っているほどには軽くないことを知ってはいるが、近頃はどうも、その信頼も怪しい。冗談もからかいもどうも目に余ることが増えてきた。
カミュはもう一度ため息をついて作業に戻るために視線を落としたが、その拍子に自分の手の甲が目に入り、嫌なものを見た、というように顔を顰めた。
**
「カミュ、休憩をしますか?俺、コーヒー淹れますけど」
氷河の声にカミュは顔をあげて、チラリと自分の腕時計を見、ああ、もうこんな時間か、と眼鏡を外して眉間を揉みほぐした。
終業時刻はとうに過ぎている。
数週間後に大きなコンペを控えているので、そこへ出す予定の設計図面や資料を揃えるのに、ここのところ二人は連日の残業が続いていた。
「いや、お前はもう帰っていい。後はわたしがやっておこう」
「でも、カミュだって、最近ずっと俺より遅くまで残っていてあまり寝ていないですよね。俺なら大丈夫ですから、どんどん仕事まわしてください」
朝から既に連続12時間以上も働きづめだというのに、まだ、はつらつと目を輝かせる氷河の言葉に、カミュの表情も思わず緩む。
仕事は9時から5時まで、あとはプライベートを楽しむ、というドライな若者が多い中、氷河は今時珍しいほど真面目で、カミュの言うことに素直になんでもはい、はい、と耳を傾ける。
まだ新米である。失敗も多いので、どうしても厳しく叱らなければいけない部分はあるが、氷河は教えがいのある部下だった。厳しくするのはその期待の現れである。
「氷河、設計の仕事は好きか?」
「はい!楽しいです!白紙に線をどんどん引いていくだけのことが、立派な建造物になる過程が、なんていうか……芸術です。カミュが手掛けた現場、この間見せてもらいましたよね。俺、感動しました。建物を見て、その美しさに涙が出たのは初めてです。光の取り入れ方とか、水場との調和とか……いつか俺もカミュのようになりたいです」
本人を前に、迷いなくきらきらと憧れの視線を向ける氷河の薄い色の瞳が、逆にカミュには眩しすぎる。
す、と手元の設計書に視線を戻してカミュは言った。
「水場との調和、か。今度のコンペ作品の設計素案を見たか?」
「はい!あれも、ですよね。南向きだけじゃなく、通常、西日を避けるために窓を減らす西側も全面ガラス張りの設計にしているのは、そちら側が海、だから……?」
「そうだ」
今手がけているのは、政府のウォータフロント開発構想の中核となる建物の設計だ。
工場の撤退などで荒廃が進んだ湾岸沿いの一帯を再開発することで、観光資源として国内外からの集客が望める大規模なマリンリゾート施設が建設されることになっている。大型水族館、プール、ショッピングセンターなどが集まるエリアに、このリゾート地を象徴するような中核施設を作るのだ。
象徴される建物となるには、機能性に比べて、ある程度のデザインインパクトも必要だ。
「最初に見た時はなんで、と不思議だったんですけど……でも、シミュレーションの動画を見ていたら、海岸線に沈む夕日っていうキャプションがあったから、そのためだったのかなと思って。南面もガラス張りにしてるから、位置によっては、中庭にいるのに、建物の向こう側の景色が透けて見える、っていう不思議なことになりますよね。大胆な発想だし、構造計算も難しいから、技術力のある我が社でしかできないことだと思うし……きっとコンペでも目立つんじゃないでしょうか」
「だが、政府の開発構想の一環だから、奇をてらって目立つより、堅実に基本に忠実なものを提出した方が受けがいいこともある」
「そういうものなんですか?でも、俺は、絶対カミュの設計が一番だと思います」
そこまで絶対の信頼を寄せられてはカミュも些かくすぐったい。ミロではないが、確かにこうも素直に敬愛されては、かわいいものだ、と思わずにはいられない。思わず、氷河の頭を撫でかけ、しかし、すぐに思いとどまって、途中まで上げた腕をごまかすように、カミュは氷河に再び帰宅を促した。
「さあ、電車の時間があるうちに帰るんだ。わたしももうすぐ帰るから。まだ先は長い。途中で倒れては何にもならないからな」
「でも、」
「氷河。上司命令だ。今日はもう帰りなさい」
「はい……」
氷河はしぶしぶ、と言った様子で背中をまるめて机上を片づけ始めた。
「気を付けて帰るんだぞ」
「はい。では……お先に失礼します。お疲れ様でした」
頭を下げて出ていった氷河をカミュはしばらく見送り、やがて手元の設計書に視線を戻した。
氷河には自分もすぐ帰ると言ったが、すぐ、どころかまだまだ帰れそうにない。
一人きりになったフロアで、カミュは上着を脱ぎ、少しネクタイを緩めた。
よし、やるか。
カミュは息をついて、再び作業に没頭し始めた。
**
氷河は駅までの道を鞄を胸に抱えて歩く。
カミュの設計、何度見てもすごい。
あんなに繊細で、芸術的な設計、他には知らない。
カミュの設計はどれもこれも水をテーマにしていて、建築物というより美術品のようだった。
カミュのすごさはそれだけじゃない。いつも部内の細々したところまで目が行き届いていて、さりげなくフォローを入れているし、ものすごく厳しいけど、言っていることが間違ってたことなんて一度もない。
カミュは氷河にとって、尊敬する上司であると同時に憧れの存在だった。
この会社に入る前からその名を知っているほどカミュの仕事は有名だったので、カミュの元に配属されたときは天にも昇る気持ちだった。憧れのひとのそばで働ける、そのことにとても胸がドキドキした。
実際に間近で一緒に働くようになって、その人となりを知るようになると、誠実さや清廉潔白な人間性にますます惹かれるようになった。
いつかあのひとのようになりたい。
追い越すのは無理でも、少しずつ、あのひとに近づきたい。
カミュのことを考えて、温かい気持ちで歩いていたが、足元が次第にぼんやりと暗くなるのを感じて、氷河は憂鬱になった。
会社を出てから駅までは時間的には10分もかからない短い距離だ。しかし、これから通る地下道は元々街燈が少ない上に、その街燈も2日前から消えてしまっていて、正直言ってかなり不気味だ。治安の悪い地域ではないとはいえ、犯罪を誘発しやすい死角ができてしまっている。
僅かな距離とは言え、暗闇の中を歩くのは気持ちがいいものではないのだが、自分は男だし、子どものように怖がっていると認めるのは恥ずかしく、わざわざそのためだけに遠回りはしなかった。
覚悟を決めて、足早に地下道を抜けるつもりでいると、不意に前方の闇がゆらりと動いて氷河はギクリと立ちすくんだ。
じっと目を凝らして闇を見つめる。
気のせいか……?
しばらく、動かず様子を見る。
長い静寂の後、再びもう一度ゆらりと闇が動いた。
氷河がハッとする間もなく、そこから、音もなく、闇を切り取って抜け出したかのような黒い人影が姿を現した。
まるで喪服のようにも見える漆黒のいでたち。
黒いスーツに黒いシャツ、ネクタイまで黒い。しかし、顔を縁取る長い髪だけが銀色で、まるでそれは暗闇の中で発光しているかのように鈍い光を放っていた。
長い前髪に目元が隠れているが、薄い唇は口角があがっていて、かろうじて笑っているのだということがわかる。
笑っている……?いや、嗤っている。
好意的な笑みではないことは氷河にもわかった。
一体何だ?
まるで自分が通りかかるのを待っていたかのようなタイミングで現れた。
しかし、こんな人物に心当たりはない。俺を待っていた、というのは自意識過剰か。ただの通りすがりだろうか。
氷河は目を合わせない様に俯き、ぎゅっと鞄を抱きかかえて、その人物の脇をすり抜けようとした。
その闇は、まだ、ゆらゆらと笑っているかのように揺れている。
すり抜ける瞬間、禍々しい空気が氷河を絡め取るように包み、強い力で腕を掴まれた。
驚きと恐怖で思わず悲鳴をあげそうになるのをすんでのところで堪えて、掴まれた腕の先にある顔を見上げる。
一瞬、生温かい風が吹いて、銀の前髪がふっと揺れ、奥に隠されていた薄い紫色の瞳が姿を現す。その瞳が氷河を眼光炯々と刺すと、途端に、氷河の体が金縛りにあったかのように動けなくなった。
混乱して頭の中が真っ白になっている氷河にさらに衝撃が襲った。
「お待ちしておりましたよ。キグナス。お会いできて光栄です」
俺の、名を、知っている……!!
誰だ、何者だ、なんで名を知っている。
声をあげようとしたが、こみ上げる恐怖が喉のあたりを支配していて声にならない。闇に掴まれた腕が痺れたように痛く、指先ひとつ、ピクリとも動かせない。
「おや、震えていますね。見た目どおり可愛らしいおひとだ」
闇色の腕がゆるゆると持ち上がり、氷河の頬をするりと撫でる。
「ふふふ。私が怖いですか。怖がることはありません。私はただ、可愛らしいあなたとお近づきになりたいだけです。あなたのこの美しい金の髪、空色の瞳、白磁の肌……ああ、ようやくこうして触れることができる……」
そう言って、闇が氷河の頬を撫で、腰を抱くように体を密着させる。身体じゅうにまとわりつく禍々しい闇の不快感に思わず肌が粟立つ。
この手を離せ。
声は出ないが、視線だけで拒絶を返す。
「ああ、いい瞳です。その反抗的な瞳はぞくぞくしますねえ。私はそういう瞳が大好きですよ。あなたを屈服させるのは愉しそうです。思う存分泣かせてみるのもいいですねえ」
くつくつと喉の奥で笑い、氷河の顎に手をかけると、それはいきなり氷河の唇を奪った。
氷河は喉の奥でくぐもった悲鳴をあげた。
嫌だ。やめろ。
唇の上をぬめぬめと這いまわる、軟体動物のような舌が気持ち悪い。それは氷河の唇をこじ開け、歯列を割ってさらに奥へと侵入してくる。
生温かい濡れた感触が口腔内で無遠慮に蠢くことが、まるで心の中まで犯されているかのようで背筋を悪寒が走る。
身動きはとれないのに、膝だけは激しく震えている。立っていられないほど膝が笑っているのに、なぜか、座り込むこともできない。まるで見えない糸に体を操られているかのようだ。
腰に回されていた掌が、さわさわと背や尻を撫でまわしていることに吐き気を催す。
その時、不意に背後から低い大きな声が響いた。
「おい、何してる」
その声が耳に届くと、氷河の体はふっと糸が切れたかのように地面にへなへなと崩れ落ちた。
闇色の何か、は氷河の耳元へ唇をよせて、くつくつ笑いのまま言った。
「せっかくの初めましてのご挨拶の時間でしたのに、とんだ邪魔が入りました。でも、またすぐにお会いしましょうねえ。この次はもっと私を愉しませてくれると期待していますよ」
もう、俺は会うつもりなんかない。
氷河が、顔をあげた時には、しかし、辺りにはもうその闇の気配は残っていなかった。
切れていた筈の街燈が、二度、三度と明滅して、ぼんやりと明るさが戻ってくる。
「大丈夫か?」
「シュラ……」
大股で近づいてくるのは、同じ会社の工事監理部のシュラだった。見知った顔に、氷河の緊張が緩み、思わずほっと息を吐く。
「立てるか?」
そう言って手を差し出されたが、安心したことで逆にすっかり腰が抜けてしまって、立てそうにない。
「知ってるやつなのか?お前が嫌がってるように見えたから声をかけたが……」
「ありがとう……助かりました。俺にも何がなんだか……。全然知らない人だった……でも、向こうは俺の名を知っていた」
それを聞いてシュラは眉間に皺を寄せる。
ただの変質者かと思ったが、名を知っていたとはただ事ではない。ストーカーだろうか。
何しろこの外見だ。なかなかのビジュアルの新人が入ったとシュラの耳にもその名が聞こえたほどだ。変な奴に目をつけられたのかもしれない。
「今日は俺が送ってやろう」
そう言って、シュラは腰が抜けて立ち上がれなくなってしまった氷河を背に抱えた。
「待ってください、鞄、が」
いつの間にか氷河の腕から落ちて、道の脇に転がっていた鞄をシュラは拾い上げ、氷河を背に抱えたまま駅までの道を歩いていった。
**
「カミュ、ちょっといいか」
翌朝、少し早目に出勤したシュラは建築設計部へ顔を出し、そこで作業しているカミュ(結局、ほぼ徹夜だ。一度帰って着替えてすぐまた出社した)に声をかけた。
壮絶に目の下に隈をつくっている同僚に、これ以上の気苦労を負わせるのは気が引けるが、部下の危機だ、伝えておかないわけにはいかない。
昨夜の出来事をカミュに言って聞かせる。
話が進むにつれてだんだんとカミュの眼光が鋭くなる。元々、感情を顔に表すことなどあまりないカミュだが、紅い瞳の奥に冷たい炎が燃え滾るのをシュラは見た。
「氷河は全然知らないヤツだと言ってたが、向こうは氷河の名を知っていたようだから、気を付けた方がいい」
「そのようだな。世話になった。礼を言おう。このヤマが終わったら一杯おごる」
「気遣い無用だ。なんかあったら言ってくれ」
「ああ、すまない」
シュラが出て行った後、カミュはふうと天を仰いだ。
またやってしまったか。
カミュ自身が、見た目の美醜に無頓着であるため、中性的な整った容貌をした氷河にある種の邪念をもって近づく輩がいるのだということを、しばしば忘れてしまう。あの、人目を引く外見の氷河を深夜に一人で歩かせたりなどするべきではなかった。
今度からもっと早く帰すか……いや、当分、目を離さない方がいい。
「おはようございます」
入り口から元気な声が響いて氷河が顔を出した。
白目が少し赤く充血している。昨夜の出来事が原因で眠れなかったか。
氷河の方から相談があるかと、少し待ったが、氷河は何ごともなかったかのように、パソコンを起動させ、書類を広げるといつもどおりの作業に取り掛かる。
どうやら、カミュには相談も報告もしないつもりのようだ。
困った時にはもっと頼ってくれればいいのにいつもいつもわたしは蚊帳の外だ、と少々胸が焦れ、そのせいで、思っていたより非難めいた声が出た。
「氷河、シュラから聞いたぞ。大丈夫だったのか」
「あ、き、聞かれたんですか……」
氷河は顔を赤くして、恥ずかしそうに俯いた。
「たいしたことではありません。俺も突然のことで驚いて……でも、あんな変態、次に会ったら、絶対、こてんぱんにのしてやります!」
「いや、下手に刺激するな。変な奴はキレたら何をするかわからんからな。今日から遅くなる時は私が送ってやろう」
「そんな!いいです、カミュ、今ものすごく大変な時に、俺の個人的なことで……!」
「部下を守るのも上司の仕事のうちだ。通勤途中に何かあったら労災になるからな」
「あ、で、でしたね、労災、まずいですよね」
部下だから。
仕事だから。
労災だから。
カミュの言うことはいつも正しい。
しかし、氷河には、その言葉たちは自分の気持ちに釘を刺されたかのように聞こえた。部下としての気持ちから逸脱しかけているのを牽制されたのだと思えて、声に詰まる。
だが、カミュは次の瞬間、視線は手元の設計書へ定めたまま、まるで単なるおまけだと言うように独り言のように付け足した。
「それに……個人的にわたしが心配だからだ。だから、頼むから送らせてくれ」
氷河の心臓が音を立てる。
カミュの端正な顔をそっと盗み見たがいつもとかわらぬ無表情だ。
多分、たいした意味はない。
俺の願望が深読みしたがってるだけだ。
勘違いしてはいけない。
何度か深呼吸して気持ちを整え、氷河も同じように、視線を手元に落として、はい、と頷いた。