サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ⑧◆
「氷河」
ひょうが、というより、どちらかと言えば、ひょっおが、に近い、少し弾むような声で、建築設計部の扉を開いて顔を出したのは営業部の星矢だ。
「……どうした」
「や。お前、荷物とかどうすんのかなーって思ってさ。持ってきてるなら、俺、預かって、外回りついでに一回家に寄ってもいいなって思ってさ」
「ああ……悪いな、迷惑をかけて」
「めーわくなわけあるかよ!俺とお前の仲だろ」
実際、朝一番にこうして荷物の受け取りにわざわざ立ち寄ったくらいなのだから、星矢はむしろこの状況を楽しんでくれてはいるのだろうが、氷河にとっては浮かれられる話などでは全然ない。
星矢のところへしばらく身を寄せるよう言われた。
出勤の準備を整えるために寄った、カミュの家での出来事だ。
明け方近くに目が覚めた氷河は、自分が、カミュを放ったまま長々と寝入ってしまっていたことに気づいて(俺の方から上がってくださいと言ったのに、いろんなことで頭がいっぱいでお茶も出していない。ありえない、これは本当にありえない!)、すみません、と、慌てて飛び起きた。
ベッドに背を預ける形で片膝を立てて座ったまま何か考え事をしていたらしきカミュは、ああ、と氷河の方へ首を傾けて、よく眠れたならよかった、と微かに笑った。
緩く弧を描いた瞳には翳りが差し、珍しく目の下に隈もできていて、もしかしてカミュはあれから一睡もしていないのか、とハッとして、のうのうと一人だけ夢の世界へ旅立っていたことに身が細る思いがする一方で、とうに小雨になっているのに俺を放って帰ったりせずに傍にいてくれたのだ、と思えば、やっぱり俺はこのひとが好きだ、と胸が苦しいほどに鳴る。
「わたしは一度家に戻って出勤する。お前は……今日は休んでいい、と言いたいところだが、一人にならない方がいい。遠回りになって悪いが、わたしと一緒に来てくれるか。できれば数日分の着替えも一緒に」
そんな風に言われては、もしかしてもしかしたら、カミュがしばらく俺を泊めてくれる、とかいう話だろうか、などと図々しくも期待してしまったのは、無理もないというもの。
このところよそよそしく冷たくなっていたカミュは、昨日は人が違ったかのようにやさしく、ただの部下にそんな瞳でそんな誤解されるような甘い言葉をくれてしまうのは罪なのでは、と、氷河はドキドキしっぱなしで、おかげで、ドルバルにされた仕打ちなどいつの間にかぜんぶどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
だから、氷河にとっては二度目のカミュの自宅で、緊張して廊下とリビングとの間の半端な位置で所在なげに立っている氷河に、少し難しい顔をして身支度をしながら、「親しい同僚はいるか」と問うたカミュに、営業の星矢とか総務の瞬とか……紫龍もかな、最近は彼女ができてつきあい悪いけど、と、あまり深く考えることなく氷河は答えた。
以前ならアイザック一択だったのに、と、去ってしまった彼のことを思い出して痛みが走り、慌ててそれを振り払おうとした瞬間、カミュが、ペガサスなら安心だ、と言ったので、何の話かわからず、氷河は目を瞬かせた。
「確か武術の心得があるとアイオリアから聞いたことがある。しばらく泊めてもらえるよう、わたしからも頼んでおこう」
そう言われて初めて氷河は、すっかり解決した気になって呑気にときめいているのは自分だけで、カミュの方は昨夜からずっとドルバルのことを考えていたのだ、ということに気づいた。
「……あの……俺も武術の心得ならあります。昨日は油断していただけで、今後は気をつけておきますし、奴もそう何度もは……」
同期の星矢をまるで保護者みたいにつけておかなければならないような半人前なのだと言われたようで、そして、カミュが泊めてくれるなどと思った厚かましさを咎められたようで、ふわふわと浮いていた心が一気に沈む。油断があるからだ、こんなことばかり、お前は一体何度目だ、と叱られても仕方がないところをやさしくされたのは、一人前に扱うに能わないと呆れられていたせいだったのだ。
前にも似たようなことがあったのに、あのやさしさを、どうして俺はいつも甘く距離が近づいたなどと誤解してしまうのだろう、と情けなくなって、氷河は俯いた。
「……俺……信用ないですか」
入社以来起こしてきたトラブルを脳裏に浮かべ、信用しろというのが無理な話だろうな、と、酷く沈んだ声となったことに気づいたか、カフスボタンを留めていたカミュは顔を上げて氷河を見た。
「お前ではなく……わたしの問題だ。これからしばらく忙しくなる。その間、ずっとお前の傍にいられるとは限らない。……何かあったらと心配しながらでは片づくものも片づかない」
昨夜の、まるで恋人にするかのようなカミュの甘い仕草が甦って、瞬時にドッと心臓が跳ね、だがしかし、違う違う、何度痛い目見れば学習するんだ俺、と、慌てて、乱れた鼓動を宥める。これは、つまり、俺はカミュの足手まといという意味なのだ、多分。
頬を染めつつどんよりと落ち込む、という、複雑怪奇な表情で、氷河は、はい、と返事をしたのだった。
「もしかして、気になってる?」
心ここにあらずって顔だぜ、と星矢に言われてハッとして氷河は顔を上げた。
ちゃっかりと不在のカミュの席(管理職用の高級椅子によく躊躇いもなく座れるな、お前は)へ腰かけて足をぶらぶらさせている星矢は、突然に氷河を泊めることになった行きがかり上、いくらかは事情を聞かされているはずだ。
「……気にならないわけがない」
カミュは、今、緊急の幹部会議に出席しているのだ。
何の件かカミュから説明はなかったが、昨日の今日だ。アースガルドのことであることは間違いなかった。
心配いらないと言ったカミュの言葉を鵜呑みにして、呑気に、カミュの家にしばらく泊めてもらえるのだろうかと胸をときめかせて家を出た自分に腹が立つ。
定例幹部会議ですら稀にしか開かれず、大抵の案件は社長に決定権限があるのに、全員を集めての会議だなんてよっぽどだ。やはり会社に損害が出る事態になりそうなのか、もしかしたら俺の対応がまずかったせいなのか、と、気になって仕事など手につかない。
「そこまで気になるなら、会議、聞いちゃえば?」
あっさりと言ってのける星矢に、『幹部』会議だぞ、どうやってだ、と氷河は眉を顰める。氷河のような下っ端が参加できるわけもなく、廊下で盗み聞きしようにも、会議室の扉は重厚で、音など漏れ聞こえるはずがない。
戸惑う氷河に、だがしかし、星矢は、その気があるなら手を貸すぜ? と、いたずらっぽくニッと唇の端を上げた。
そして、ちょっと待ってな、と言って、星矢はカミュの席の電話から受話器をひょいと取り上げて、いずこかへ掛け始めた。
「あ、もしもし、美穂ちゃん? 俺だけど。ん? ああ、建築設計部からかけてるからな。そそ、氷河の。今日さ、急なお茶出し入ったって言ってたよな。あれ、社長室の隣の会議室? あ、これから出すとこ? ごめんな、忙しい時に。美穂ちゃんのお茶美味しいからみんな楽しみだろな。……でさ、お願いなんだけど、あそこの前室のさ、会議室側の扉、お茶出しついでに、ちょこーっと開けといてくんないかなあ。……頼むよ、こんなの頼めるの美穂ちゃんだけなんだから。……あ? 違う違う、沙織さんは関係ないって。てか、沙織さんも今日来てるんだ? へー、会長も出てこないといけないほど大変な話なんだ。あ、いや、こっちの話。……わかる。わかるけど、今、一旦沙織さんの話は置いとこ。……ほんとかい? 俺、美穂ちゃんのそういうとこ好きさ。また今度飯行こうな。好きなもの考えといて。俺おごるからさ」
交渉を終えて受話器を置いた星矢は氷河の方へ向かって、ぐっと親指を立て、「これで盗み聞きできるぜ!」と言った。
不穏な台詞と爽やかなポーズが全然噛み合っていない上に、疎い方の氷河でもわかる天然ジゴロっぷりに(ミロといい星矢といい営業部の話術どうなっているんだ?)思わず呑まれ、あ、ああ、と氷河は頷いてしまう。
行こう、行こう、もう始まってるって言ってたぜ、と急かす星矢に連れられて、社長室のあるフロアまで来たものの。
エレベーターが開くなり、敷き詰められた高級そうな毛足の長い絨毯に、ウッと気圧されて、思わず氷河の足が止まる。
だが、星矢は堂々としたものだ。
エレベーターホールのカウンター内に座る秘書の女性に、「アイオリアさんに言われて来た! 控室で待ってろって」などと嘯きながらウインクをして、社長室と会議室の間にある小さな部屋までずんずんと進んで行く。
星矢が躊躇いなく扉を開くものだから、中に誰かいたら叱られるのでは、と緊張で嫌な汗が出たが、おそるおそる足を踏み入れた部屋の中は無人だった。
小さな机と数客の椅子、そして、社長室側にも会議室側にも扉がついているところを見れば、多分、お茶出しのタイミングをはかるためだとか、秘書の待機室だとかで使われている控え室のようなものなのだろう。
机の上には空になったお盆や布巾が置かれていて、約束通りに会議室側の扉が、それとわからぬほど微かに開いていた。
な? と得意顔で星矢が振り返り、氷河は緊張でごくりと唾を飲み込む。
足音を立てないように、だろう、四つ這いの低い姿勢となった星矢に倣って、氷河もそっと扉へと膝でにじり寄る。
開いていると言っても、ほんの数ミリの隙間で、中の様子をうかがうことはできないが、だが、声はなんとか聞こえる。
会話の内容が判別できるほど扉に近づいたところで、「氷河は」という声が耳に飛び込んで、氷河の心臓はドッと跳ねた。
『彼は以前も問題を起こしていなかったか。社外秘のデータを持ち出したと聞いた』
あ、と氷河は思わず息を呑んだ。顔が見えないから誰が発言しているのかまではわからぬが、声の調子で強い非難は読み取れ、みるみるうちに血の気が引いてゆく。
『あの件の処分はカミュに一任された。既に終わった話だ。今回のこととは無関係だ』
『その処分が甘かったんだろうよ。一度ならず二度もっていうのはたいてい本人に隙がある』
『デスマスク、今の説明を聞いていたか? 氷河は今回、一方的な被害者だろう。責められるべきは……ミロ、いいから座っていてくれ。必要があれば俺がこいつを殴る』
『あのよ、言わせてもらうけど事実だからな? うちの技術者が必要ならなぜカミュじゃない? 主任設計者をすっ飛ばして下っ端に来るか、普通? カミュを篭絡させるのは無理でも氷河ならいけると思われたんだろうよ。これで本人に隙がなかったとでも?』
『なぜ氷河なのかはここで今議論しても無駄じゃ、よからぬことを企む奴等の論理などわかりはせぬ』
『そもそも、なぜもっと早く契約を結んでおかなかったのか……契約書があれば不履行でメビウスを訴えられた。契約担当は何をしていたんだ』
『担当は俺だ。メビウスからのろくでもない依頼を最初に営業部で断り切れなかったことも含めて責任は取る』
『営業で断った話を設計が無理に受けたと聞いたが本当か? 契約だって営業部以外に設計にも担当がいるはずだが。それは誰だったんだ』
『わたしだ。何度も催促したが、メビウス側があれこれ理由をつけて遅延させていた。もう少し厳しく詰めるべきだった』
『きみがそんなに甘い男だったとは俄かには信じがたい。この際正直に言いたまえ。契約も氷河が窓口として担当していた。違うかね?』
『同じことだ。氷河の上司はわたしだ。全てわたしが指示をした。責任はわたしにある』
『ちょっと待ってください、論点がズレていませんか。今は誰が責任を取るかなんてどうでもいいでしょう。アースガルドをどうするかという話だったはずですよ』
『契約書がなくとも証拠を揃えればメビウスを訴えることもできるんじゃがのう。差し止め請求権が認められれば勝手にアースガルドと話を進めることはできんはずじゃ』
『だが、証拠を揃え、裁判の結果を待つ、など、悠長なことをしていていいのか? アースガルドがその間大人しくしているとは思えない』
『いっそのこと、アースガルドに氷河を送り込んでみればいいんじゃねえの? ヤツの好きものぶりは有名だ。かわいこちゃん、案外、身体を張ってヤツを骨抜きにして、』
『カミュ! 待て! 待っ、ミロお前もだ!……ッ、ああもう、なんてことを! シュラ、遅い!』
『……すまん』
何がどうなったか、次々に重いものが倒れる鈍い音がして、あたりは静まり返った。
大荒れの幹部会議に、さしもの星矢の顔も心なし青ざめている。
氷河は、ぐっと拳を握って深呼吸をした。
何も心配いらない、考えがある、なんて、カミュのやさしい嘘だったのだ。
やはりアースガルドに設計データが渡ったのはまずい事態で、そして、直接的なミスはないにしろ、氷河がもっと経験豊かで細心の注意を払えていたなら、こんな事態は引き起こされていなかったかもしれないのだ。
カミュが全部担っていたら、きっと対応は完璧だった。なのに、カミュは氷河を庇って自分一人の責にしようとしている。幹部会議で出る『責任』という単語は、軽いものではないことは氷河にもわかるというのに。
出て行って、責任なら俺が取ります、アースガルドへでもどこへでも、行けと言うなら行きます、と言わなければ。今すぐに。
だが、立ち上がろうと片膝をついて腰を浮かせた瞬間、それに気づいた星矢が、まるで飛びつくようにして、慌てて氷河の腹へ腕を回して引き止め、バカ、お前が今ここで出ていくと、あのひとの立場ますますまずくなる、と耳元で囁いた。
でも、このままではカミュが、と、なおも抵抗する氷河を、だから、『部下』に庇わせちゃ、あのひと笑いものになるだけなんだってば! と星矢が必死に引き止め、静かな攻防が繰り広げられているうちに、再び声が聞こえ始めた。
『がはは、デスマスク、男前ぶりが上がったな。冗談を言うのは時と場所を選ばんとな。……しかし困ったもんだな。この際、静観するという選択肢はどうだ。うちの技術さえ使わせなければ、設計だけ持っていたところでアースガルドは自滅だ。二度と接触されぬよう、身辺に気をつけさせればいい』
『気をつけろと簡単に言うが、アースガルドが被る損害額を考えれば、今回のように犯罪まがいの際どい手を使われる可能性もある。社員に何かあってからでは遅い』
『いっそアースガルドより低い額をメビウスに再提示してみたらどうだ。赤字を出すだろうが、あんな奴にいいようにしてやられるよりマシだろう』
『さらにアースガルドが下げてきたらどうするのです。あんな三流会社と底のない値下げ合戦を繰り広げただなどと噂になっては我が社には痛手でしかありませんよ』
『叩けば埃の出る身ではないかね、ドルバルという男は。いっそ監禁罪で氷河から被害届を出させてもいいのでは?』
『証拠などないのにか。時間稼ぎにはなるかもしれないが、アースガルドを潰せるほどのネタではないな』
『………ねえ、カミュ、デスマスクの言い方はどうかと思うけど、氷河にトラブルが続いていることは確かだ。彼を切り捨てる選択肢があってもいいんじゃないかな。彼はきみと違っていくらでも替えがきく。クビでもいいけど……それだと逆恨みされて情報漏洩、なんてのもやっかいだから、どこか地方の関連会社にでも密かに出向させて飼い殺し、とか。ドルバルだってそこまでは追わないんじゃないかな。彼にとってもその方がいいと思うけど』
『聞き捨てならんなアフロディーテ。百歩譲って解雇されたとして、坊やは逆恨みするような人間じゃない』
『氷河に替えなどきかない。彼が抜けることは聖域建築にとって大きな損失だ。わたしが抜けるのと同じにだ』
ほとんど同時に発せられて、重なり合った(互いに気づいていただろうに、譲りもせずに両者とも言い切った)ミロとカミュの声を最後に、しん、と場が静まり返る。
八方塞がり感漂う重い沈黙を破ったのは、今日初めて聞く女性の声だった。
『───そろそろ、結論を言ってもいいかしら』
自分だけが結末を知っているミステリの犯人捜しの議論を、楽しんで見守っていたかのような含み笑いを滲ませたこの物言いは───これが、もしかして若くして絶対のカリスマを持つという会長の声か。
『打つ手はあります。そうでしょう? カミュ、ミロ』
やさしげに促したようでいて、どこか逆らえぬ響きが指名した二人に、多分、一斉に視線が注がれた。
ざわざわと、何のことだ、何かあるのか、と落ち着かない空気が漂う。
先に口を開いたのはカミュだ。
『……ですが、聖域建築も無傷では済まない恐れがあるかと。一歩間違えば、掟破りだとうちに非難の矛先が向く可能性がある。そうなれば、貴女が矢面に立つことになる』
ふふ、と何がおかしかったのか、まるで少女のような声が笑う。
『もしかして、それで躊躇いを? これだけ誠意を無にされて、社員の身の危険も迫っている。何も知らない外野の非難なんて何も怖くありませんわ、わたくし』
一体何の話だ、とざわざわと乱れる空気の中、社長の声が、『ミロ、資料を皆に』と告げ、ややして、モニターの操作音が微かに響いた。
『メビウス総務課長には横領、あるいは背任の疑惑がある。今回の工事に絡んでの話だ。告発すればメビウスは工事どころではなくなる。必然的にうちの設計は何の意味もなくなる』
ミロの説明に、なんだと、どういうことだ、と、氷河の頭の中と同じに会議室は大きく騒めいて揺れた。
『不正か。いつ気づいた』
『知ったのは契約が反故になった後だ。何かあった時の保険のつもりで俺とカミュとで調べた。奴の挙動がおかしかったからな。うちとは契約をしていないにも関わらず、メビウスではうちあてに契約着手金が支払われている形跡がある』
『そんな超内部情報をお前いったいどうやって……契約に絡んで知り得た内部情報で、元、だろうが、現、だろうが、クライアントを告発なぞ……カミュの言う通りだ、下手をすれば聖域建築の信頼を揺らがすぞ。あそこに依頼したら守秘義務もなにもあったものじゃない、というイメージがつく。そうでなくとも、契約を取り損ねた腹いせの嫌がらせと口さがなく言う連中はいるだろう』
『確かにそうでしょうが、事実なら犯罪です。今はもうコンプライアンス厳しい時代です。契約云々に関わらず知り得た犯罪事実に目をつぶるのは加担しているも同じ。告発は正しい選択です。会長が言うように、正しい行いで非難される筋合いはない』
『うむ。じゃが、正しい行いかどうかは、どうやって知ったか、にもよるのう』
『まさかと思うが、盗聴とか盗撮とか非合法の手段はとってはいないだろうな』
『わたしとミロとで普通に聞き込んだ結果だ。そうだな、ミロ』
『…………まあ大部分は』
『待て、ミロ、今の間は一体なんだ。わたしが聞いていない何かがあるのか。……そう言えば契約着手金の支払いの件はわたしも初耳だが、お前一体どうやって、』
『そんなことより、今はアースガルドの話だろ』
『気になることがあるのだが、ドルバルはこれが目的で接触してきたということはないかね。メビウスの工事を白紙にさせてしまえば、メビウスからはアースガルドには莫大な違約金が支払われることになるはず』
『うちをつつけばメビウスを潰しにかかると読んでいたってわけか? うちが横領の事実を掴んでいることまで奴が知っていたならそういうこともあるかもしれないが……もしそうなら、アースガルドの思惑通りに動いてやるのは癪ではあるな』
『でも、横領が仮に事実だとして。犯罪事実の裏付けには時間がかかるんじゃないのかな。起訴まで数か月、なんてもたもたされちゃあ、その間、結局、氷河の身の安全が確保されるわけじゃないんじゃない?』
『はっはー! この期に及んでお行儀よく正攻法で行く気かよ。ゴシップ紙にタレこみゃ明日の朝には一面だぜ。検察はその後でゆっくり動いてくれりゃいい。面白くなってきたぜ』
『……悪知恵を働かせたら天下一品ですねあなたは』
『腹黒いお前にお褒めに預かるとは嬉しくて涙が出るね』
腰でも抜けたかのように茫然と床に座り込んでいた氷河の腕を星矢がそっと引いた。
出よう、終わりまで聞いてたら見つかっちゃうぜ、と耳打ちされて、ハッと我に返って、氷河は慌てて頷いた。
来た時同様に、足音を消してそっと部屋を出て、エレベーターホールはそのまま素通りし(星矢は、ありがと!俺、出番なかったみたい!と秘書に愛想を振りまいていたが、氷河は全くそれどころではなかった)、階段室の扉を開いて、覚束ない足取りのまま互いに口を開くことなく数階分を下る。
多分、二階、あるいは三階分を下ったところで、ぷは、とまるで久しぶりに息をした、みたいに、星矢が大きく息を吸って、立ち止まった。
「なんか、思ったよりヘビーな話だったな!?」
俺、めっちゃへんな汗かいた、緊張で、と、星矢が両膝に手をついて、はあ、と今吸ったばかりの息を吐き出しながら座り込む。
ああ、と頷いて、氷河は、己も階段のひとつを椅子にして座り込んだ。
星矢同様に、は、と息を吐いて視線を下にやって、自分の両膝が視界に入った途端、それが激しく震えていることに気づいた。
どうりで階段がやけに下りにくいはずだ。
情けないな、と、片手で顔を覆えば、背に、温かい星矢の手が触れた。
「……大丈夫か、氷河」
「大丈夫だ…………いや、正直、よくわからない」
混乱していた。
初めのうちは、カミュが矢面に立っていることが苦しくて、俺が出て申し開きをしなければという焦燥感に駆られていたのだが───最後の急展開に頭がついていかない。
メビウスの総務課長による不正……?
知らなかった。
だが、そうだ、と聞かされても、そうかもしれないな、という感想しか抱けないほど意外性はなかった。ばかりか、契約の件で氷河からカミュに対応を変わろうとしたら慌てて電話を切った、とか、工事の内容を一切知ろうとしないくせに金のことばかり聞いてきて、上司に確認すると言ったらお前が即答しろよなんでいちいち確認するんだと急に怒り出した、とか、今思えば腑に落ちることだらけだ。
だが、どれもこれも、今思えば、だ。
カミュにしてもミロにしても、いつ、そんなことに気づいたのか。同じように、否、多分誰よりあの男と接触をしていたはずの氷河はまるでピンと来ていなかったのに。
ドルバルの件に片が付きそうな安堵もあるにはあったが、それを凌駕して、自分は蚊帳の外だった、と、二人の間に決して割って入れないものがあることをはっきり突き付けられたことが苦しくて堪らない。
星矢は、だよな、話が大きすぎてびっくりしたよな、俺たちの知らない世界って感じ、と言ったが、仕事や会社がどうこうより、個人的なことで疎外感を覚えているのだと星矢に知られたくなくて、氷河は、未だ震えが止まっていない両膝の間に顔を伏せた。
星矢がそれを誤解して、よくわかんないけど、とにかくなんか解決しそうじゃん、よかったな、と氷河の肩を抱く。
励まされれば励まされるほど落ち込む時というのがあるが、今がまさにそれだった。
ただの部下としてだけなら多分ここまで落ち込みはしなかっただろう。自分の役立たずっぷりに身を小さくはしただろうが、カミュやミロの働きをすごいと素直に称賛して、ただ、それだけだった。
だが、今は、カミュが手の届かない存在であることがすごく辛い。
責任すらも取れない半人前で、重要事を相談できるような立場でもなくて、一方的に守られ、支えられ、導いてもらうだけの存在で、どうしてあのひとを好きだと言えるだろう。
無言で俯く氷河に戸惑ったかのように、星矢が、肩に回した手をおずおずと背へ下ろし、ほんとに大丈夫か? そんなに心配だったんだ? 沙織さんのあの感じならきっともう大丈夫さ、と、宥めるように何度も手のひらを往復させた。
もういい、先に戻っていてくれ、と言いたいが、声を出せばそれが酷く震えそうで、そうすることもままならず、氷河はきつく唇を噛みしめる。
「…………でもさ、俺、あれが最高に痺れた」
しばらく氷河の背を撫でていた星矢は、やがて、ポツリとそう漏らした。
己の器の小ささと、未熟さで、どんよりと落ち込んでいた氷河は、「あれ……?」と言ってようやく顔を上げた。
涙こそないが、まるで泣いていたみたいに、少しむくんだ表情を見て、星矢は一瞬たじろぎ、見てはいけないものを見た、みたいに視線をそらし、そう、と頷いた。
「『氷河は解雇されたからって寝返るような人間じゃない』ってやつ。あと、かぶっててよく聞こえなかったけど『氷河に替えなどきかない』……? お前が抜けたら損失だ、なんて、何の迷いもなく言いきってくれるなんて、さ。あんな無茶苦茶おっかなそうな人たちにそう言わせたお前もすげーな、って思ったし、うちの社、最高だなって、ちょっと感動した」
ああ、と、氷河は天を仰いだ。
二人の言葉を聞いた瞬間にも、あ、と身体中に電流が走ったようになったが、星矢に指摘されて、じわじわと遅れてやってきた実感が今、氷河の目頭を熱くさせる。
氷河のいない場所で晒された、それが本音だったらこの上ない喜びだが、氷河がどれだけ出来が悪くても、二人とも決してあの場で見捨てるようなことを言わなかった気もしている。
心の中の本音までは知りようがない。
だが、ほんの僅かでも、俺を認めてくれているならば。
あれだけはっきりと断言させたからには、あのとき氷河を切り捨てなかったことは間違っていなかった、と、俺は証明し続けなければ。
疎外感で背を丸めていじけている場合なんかじゃない。
「よし、戻るぞ、星矢」
己自身を鼓舞するかのように声を張り、腹に力を入れて、氷河は立ち上がる。もう膝は震えていない。
背を押すかのように、星矢が無言でグッと親指を立てた。