サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ⑨◆
『メビウス社の総務課長横領か』
『余罪多数、被害額は数億円とも』
『関連株は売り注文殺到、混乱した市場は一時ストップ安』
『容疑者の制作部局時代の豪遊写真を入手』
『不正を許したメビウス社の杜撰な経営体質』
ちょうど、政治的にも経済的にも大きな動きがない時期だったせいだろう。
国家的なイベント運営を請け負うこともあるトップ企業の不祥事とあって、どこのニュースサイトでもかなり大きな扱いがまだ続いている。
丁寧な取材に基づく報道もあるにはあるが、より刺激的な記事にしたいがための不確かな伝聞と記者の想像が入り交じる三文記事も多く、時に『正義』は恐ろしいな、と、ミロは手にしていたスマートフォンの画面を閉じて、白い煙を吐きだした。既に短くなっていた煙草の火を消し、だが、なんとなく、惰性でもう一本取り出して火をつける。
「……切れ目なしで三本目とはサボりにも程がある」
不意に背後から響いた声に驚いて、ミロは振り返った。
「カミュ」
いつからいたのか、全く気配を感じさせないまま、カミュが屋上の扉を開いていた。
空間の開けた屋上と言えど、非喫煙者の彼には喫煙スペースにわざわざ近寄るのは苦痛だったのだろう。ミロが吸い終わるのを待っていたが、いつまで経っても吸い終わらないものだから痺れが切れた、といったところか。
「二か月近く、吸う暇もなかったんだぞ。まとめて吸わせてくれてもいいだろう」
「二か月も吸わずに過ごせるならいっそ止めればいいものを」
呆れたようにため息をついて、だがしかし、ミロが吸うのをやめないと見るや、カミュは、眉間に深い皺を刻ませながら歩み寄ってきた。
そして、これを、とミロの胸へ紙きれを押しつけて、早々にミロから距離を取って風上へと回る。
「なんだ……週刊誌のゲラか?」
「社長が手に入れたらしい。来週には出る」
ニュースサイトの記事がまだ可愛く思えるようなゴシップ誌らしい下世話な煽りを多用した真偽不明の記事を斜め読みしたミロは、数枚捲って、はた、と手を止めた。
『横領事件渦中のX氏とA社の疑惑の黒い交際』
『X氏の横領はA社主導によるものか』
訴えられない程度に画像処理は施しているが、知る人が見ればそれとわかるアースガルドの社屋の写真が、同じく画像処理されて判別し難くされたドルバルの姿と共にでかでかと掲載されている。A社がアースガルドであることは明らかだ。
X氏がA社社長に渡したアタッシュケースの中身は果たして、だの、A社が関係した契約先では過去にも横領事件が起きており、だの、はっきりそうと書いていないものの、アースガルドが唆したせいで横領事件が起きたかのような、もっと言えば、横領した金の一部がアースガルドに流れているかのような印象を受ける文字が躍っている。
ばかりか、A社社員の話として、社長は気に入った女子社員を社長室に呼んでセクハラ三昧、だとか、薬物疑惑のある人物との交際をうかがわせるような内容まで。
一連の報道が出始めて以来、知る限りではアースガルドに言及する記事はこれが初めてだが、初手にしてはなかなかのインパクトだ。
「……とうとう、ヤツのところまでたどり着いたか」
「ああ、短期間でよく調べてある。おかげでわたしがリークせずに済んだ」
冗談には聞こえぬカミュの言葉に、そうならずに済んでよかったよ、と、ミロは苦笑する。
結局、聖域建築は正当な手段での不正行為の告発のみにとどめたのだ。マスコミに流せという過激な意見もあったが、最終的にはサガがそれを止めた。
正しいことを成すには手段も正しくなければ、と言ったサガに反論できる者は誰もなく、マスコミにリークする案はそれで消えた。
かに見えたのだが───
サガは、その日以来、検察庁通いを始めたのである。
告発状の提出だけなら一度で用足りる。そして何も社長自らが出向く必要もない。
にも関わらず、来る日も来る日も。
正面玄関に社用車を横付けして、顔を隠しもせずに鷹揚と庁舎に入るサガの姿に、しばらくして、検察付きの番記者が気づいた。
聖域建築のトップがいったい何の用だ……? 昨日も、その前も来ていなかったか……?
おそらく、懇意の検事にそう尋ねたのだろう。あるいは、毎日毎日、あの件はどうなりましたか、と、社長直々に通って来られて辟易した検事総長(もしくは次席か? ヒラ検事が対応できる相手ではないはずだ)あたりが、超法規的措置としてマスコミを利用したのかもしれない。
とにもかくにも、サガが通い始めて二週間足らず、
検察側から情報が洩れる形で主要紙の一面に『メビウスで横領疑惑』の文字が躍ることになった。
社長室を訪れたミロに、新聞紙を広げながら、どこかから情報が漏れたようだ、捜査に影響がないといいが、などとしれっと言ってのけたサガの表情は、心の底から、捜査の行方を心配している者のそれだったが、自分が動くことでこうなることを予想できないような愚鈍な人間ならば聖域建築のトップを務められるはずはない。社員にすら腹の底を見せない人ではあるが、きっと、全ては計算ずくだったのだろう、とミロは踏んでいる。
メビウスという会社は、どうやらほかにも火種をいくつも抱えていたらしく、横領疑惑告発記事を発端に、役員のセクハラにパワハラ、労基法違反、国の助成金の水増し請求、と各社渾身のスクープに次ぐスクープで世間は燃えに燃え、その勢いは二か月近く経つ今も収まるところを知らない。
そして、その火の手が、こうしてついにアースガルドにも回ったのだから───ドルバルに同情するわけではないが、制御不能な『世間』の暴力的とも言える正義には、背が冷える心地すらする。ひとつ対処を間違っていれば、この勢いの炎の矛先が聖域建築に向いていなかったとは言い難いのだから。
何もかもが火種となる勢いで燃えていては、正義も悪も等しく消し炭だ。マスコミの力を利用することは諸刃の剣になるということを、サガはきっとよくわかっていて、それであんな迂遠な手を使ったのに違いなかった。公権力が先に動いていたおかげで、メビウス社の超内部情報をどうやって手に入れたのか(カミュにも言えない手段を一部つかったことは墓場まで持っていくミロだけの秘密である)気に留めるものもなく、おかげで何かと煩い業界内でも聖域建築を非難する声は上がらず、むしろやっかいごとに巻き込まれた被害者として同情する声しかあがらなかった。
不都合な報道が出そうになるたびに金の力で潰してきたドルバルも、さすがにこの勢いの炎上には太刀打ちできないだろう。
それでなくても、メビウスの件に絡んで、連日任意聴取を受けているという話だ。一度の聴取で放免になっていないあたり、恐らく検察は検挙に耐えうる何らかの重要証拠を押さえている。
「ドルバルもきっと終わりだな。有罪にならなくとも、これが表に出れば次の株主総会では無傷で済むまい。取締役からは追放されるだろう」
「だといいが。どうせなら、完膚なきまでに叩き潰してくれるとわたしも安心だが」
本音が過ぎるぞ、とミロは苦笑した。
一度ならず二度も部下を危ない目に遭わされては当然と言えば当然であるが。
「そういえば、昨日、メビウスの役員たちが来た」
カミュの言葉に、メビウスの? とミロは片眉を上げた。
そのときのことを思い出したのか、憐れむような表情となって、ああ、とカミュは頷いた。
「型通りの謝罪で帰るつもりだったようだが……開口一番、サガが、な。『計画どおりに厄介払いできた気分はいかがですか。御社の人事管理の一助となることができ、弊社も嬉しく存じます』などと言った途端に顔色を変えた」
「と、いうことは、やはり意図的か」
「決して御社を利用したつもりでは、と言いながら三人そろって大慌てで床に頭を擦りつけていたぞ。さすがにここまでの大事件を起こすとは思っていなかったようだが……まあ、何にせよ、クビを切りたかっただけなら、かなり悪手だったのは確かだ」
初めから違和感はあったのだ。
メビウスほどの社が、社屋のリニューアル工事を、あんな門外漢もいいところの社員一人に任せきりにしておくなど。
不適格とわかっていて担当させたのは、業務が遂行できなかったことをもって降格あるいは懲戒処分としたかったのだろう。酒癖や女癖が悪い、言動や性格に難あり、と言った素行不良だけでは、クビを切りたくても切れなかったのかもしれない。即クビにできるほどの何かを期待していたなら、案件は大きければ大きいほどいい。
契約の相手方である第三者に多大な迷惑をかけることを想定していなかった(あるいは想定できたにも関わらず蔑ろにした)時点で、傍若無人もいいところだが、その傲慢さが横領のような大不祥事を引き起こしたのだから、同情の余地はない。サガの慇懃無礼な物言いだけで済んで有難いと思って欲しいところだ。普通なら訴訟ものである。
「……まあ、わたしとしては、土下座されるくらいなら、あの設計の続きを描いてくれ、と依頼された方がよかったが。当分メビウスは工事どころではなさそうだ」
風向きが変わったのだろう、煙草を咥えたミロからさらに少し距離を取り、転落防止のフェンスへ身体を預けながらそう言ったカミュに、正気か、お前、とミロは目を見開いた。
「ここまで虚仮にされてまだそんなことを言っているのか! なぜそこまでメビウスに拘る。氷河だってそのせいで危ない目にあった」
そうだな、と、多分、無意識にメビウスの社屋がある方角へ目を向けながら、カミュはフェンスの金網をぐっと握りしめた。
「……氷河にはよい経験になるはずだった。バブル期に建てられた建築物は建て替えになることが多い。あれほどの特異な構造の建物を修繕設計する機会は滅多にない」
それがこの大騒動を引き起こした発端か、と、ミロは天を仰いで唸った。氷河に経験を積ませたい、そんな、些細な理由が。
彼らしくない小さな判断ミスを重ねたことといい、カミュが氷河を特別に気にかけていることは知っていたがこれは重症だ。
情にあついところがある割に、他者との関係はどこか淡泊に線を引いていた、ミロの知るカミュの姿からはほど遠い。
ミロは、ふーっと長く紫煙を吐きだした。
「氷河を好きなのか」
氷河には断定で訊いた問いを、そういう形で投げかけたのは、未練などではない。
これまで、酒や曖昧な言葉遊びで核心に触れずにきた関係に、カミュの言葉で引導を渡される必要があった。そうしなければ、互いに最も背を預け合える関係で、この先もきっとそれは不変なだけに、多分、いつまでも抱えていてはならぬ想いはくすぶり続ける。
カミュは少しハッとした様子でミロへ視線を向け、そしてすぐにそれを逸らした。
「メビウスに関しては……誓って、上司としてだけだ」
「俺が聞いたのはそういう意味じゃない。わかっているだろう」
わたしは、と言って、カミュは黙り込む。
己の内面を表現する言葉を慎重に探っているようにも、未だ葛藤の最中にあるようにも見えるその沈黙を、ミロは黙って待ち、短くなった煙草を消して四本目に火をつけた。二か月分にはまだまだ足りない。彼が口を開くのを待つ時間ならいくらでもあった。
「………………聖域建築を、辞めるつもりでいる」
長い沈黙の末、カミュの口から告げられた言葉があまりに予想外で、ミロは、は? と思わず咥えていた煙草を取り落とした。
「ちょっと待て。本気か? お前はそういう形では責任を取らない男だと思っていた」
メビウスの件で、責任はわたしにある、と皆の前で言った彼が、なんらかのペナルティを負うことを選択するだろうとは思ったが、社長はきっと彼を手放したがらないだろうし、彼自身が、辞職という選択は厭うと思っていた。辞職は、最大級の責任の取り方のようでいて、ある種の逃げにもなるからだ。己を責め立てる連中に背を向けるくらいなら、針の筵を選択する、ミロの知るカミュは、そういう男だった。そんな彼だから、社外秘の情報を持ち出した氷河を異動もさせなかったのだ。
「誤解しないでくれ。辞めるのはメビウスの件があったからではない。それについては、これからどう転ぶにしろ片が付くまではわたしが責任を持って最後まで対処する。ただ……」
赤髪が、カミュの表情を隠すかのように風になびいている。それを煩わし気にかき上げて、カミュはミロの方へと身体を傾けた。
「お前のその質問へは、辞めた後でなければ答えられない」
氷河を好きなのか、と。
そう問うたのだ、ミロは。
彼の上司のままでは答えられない、と───それは。
それは、もう───
「……ハ…」
酷く乾いた笑いがひとつ漏れ、無意識にミロは指先を唇へとやった。そしてそこに何もないことを発見し、ああ、そう言えば煙草はさっき、衝撃のあまり取り落としてしまったのだった、と気づく。
半ば茫然と煙草の箱へ手をやって、さらに一本取り出しかけた、その時だ。
「ミロ……?」
聞きなれた声が屋上への扉の所で響いて、ミロは(そしてカミュも)ハッとそちらを振り返った。
氷河だった。
「カミュを見ませんでしたか。俺、探していて……」
そう言いながら近づいてくる氷河のところからは、給水塔の死角になっていて、カミュの姿が見えていないのだ。
わたしならここに、と、声を上げようとするカミュを、ミロは仕草で止め、そして視線を遮るように氷河の方へと一歩、二歩、と歩み寄った。
「俺は見ていない。いろいろと忙しいのだろう。メビウスの捜査に協力もしなければならないしな」
「そう……ですか。ここのところいつもいないので……あなたならわかるかと思ったのですが」
ミロの方が距離を詰めたものだから、氷河は喫煙スペースのずっと手前で歩みを止めた。姿を現すタイミングを失った形になったカミュも、多分、彼の死角にいるまま、動きを止めている。
「あなたとも久しぶりに会う気がします」
「そうだな。君も災難だったな。家にも帰れず不便だっただろう」
「先週から様子を見て少しずつ戻れるようになったので、それは別に。こんな大変なときに何も役に立てないことが悔しいだけです」
そう言って、氷河は、心底悔しそうに両の拳を握った。
ミロやカミュですら、独断では動けないような重大事件を前に、まだ入社してたった二年の氷河が何もできないと悔しがる様が微笑ましかったが、彼がごく真剣なのだとわかるから、表情には出さずに、そうか、とミロは頷いた。
「カミュに何か用だったのか?もしも顔を合わせることがあれば伝えておいてやるが」
「あー……」
たいしたことではないのでいいです、と、踵を返しかける氷河の腕を、待て待て、とミロは掴んで止めた。
「そんなあからさまにがっかりした顔をされたら気になるな。何か言いたいことがあったのではないのか」
自分が、というより、多分、会話を聞いているのであろうカミュがやきもきする様子が浮かんで思わずそう問えば、氷河は、少し口ごもりながら、ほんとにたいした話じゃない、と首を振った。
「俺には言えない話か?」
「そっ、そんなわけでもないけど」
「やけにもったいぶるな。カミュが席に戻るのを悠長に待てずに探しに来ておきながら、たいした話ではないと言い、俺に言えなくもないが、言伝を頼むほどでもない……?」
さあて、なんだろうな、とニヤリと笑って腕を組むミロを、あなたが想像しているのとは違うから、と、氷河は頬を紅潮させた。
「一次試験の合格発表があったから……結果を伝えたかっただけだ」
一次試験? とミロは問い返した。だが、問い返した瞬間に、ああ、そう言えば建築士の試験を受けたのだったか、とすぐに合点する。
「バタバタしていて忘れていたな。そう言えばもうそんな時期か。わざわざカミュを探している、ということは、受かっていたんだな」
そう問うと、氷河の相貌がみるみる緩んで、そうなんだ、と大きく頷いた。
「正直、自信がなかったから俺びっくりして……カミュが今それどころじゃないことはわかっているけど、伝えたかった。受かったのは全部カミュのおかげだし」
それだけ、と肩をすくめた氷河につられるように、ミロも同じ仕草で笑った。
「よく受かったな。聞けばきっとカミュも喜ぶ」
試験結果の報告だと察することができたなら、こんな形で間接的に知ることがないよう配慮できたのだが悪いことをした、と、背後で密かに喜びに拳を握っているであろうカミュの姿を思い浮かべ、ミロは苦笑する。
感情露わに一喜一憂する姿も、らしくない判断ミスも、社を辞める覚悟までも。
どれもこれまでミロが知らなかったカミュの一面だ。
氷河の存在がカミュを変えた(あるいは素の彼を引き出した)ことは間違いがないが、己がカミュにとってのそういう存在であり得たかと言うと───多分、氷河の存在があろうとなかろうと、冗談紛れに駆け引きばかり重ねていたあれが実を結ぶことはない、と、どこかでわかっていた。わかっていたから、冗談紛れにしか気持ちを伝えてこなかったのだ、とも言える。
カミュが喜んでくれたら俺も嬉しい、と笑って弧を描く氷河の薄青の瞳には、キラキラと零れんばかりにカミュへの気持ちが溢れていて、己にはないその素直さが少し眩しい。
あまりに真っ直ぐな青に毒気を抜かれたせいか、不思議ともう嫉妬は感じない。
「………………褒美をやろうか、氷河」
もう少しスマートなやりようはあったかもしれない。少なくとも、普段のミロなら、そこまで強引で性急な手に出たりはしなかった。
だが、カミュの衝撃の告白の余韻は、ミロから、冷静に判断させるだけの余裕を少なからず奪っていた。
ミロは、「あなたが俺に?」と怪訝に首を傾げている氷河の腰を抱くようにぐいと引き寄せ、同時に、後ろ髪を引いて上向かせて、何が起こったか気づかせる暇もなく、彼の唇に己のそれを重ねた。
突然の出来事に驚くあまり薄く開かれた唇を割って、舌を絡めとれば、ビクリとミロが抱いた氷河の肩が跳ね、胸を押し返す力が強くなった。戸惑いのためか、何度も瞬く彼の長い睫毛がミロの頬骨を叩き、ん、と重ねあわされた唇のあわいからはくぐもった声が漏れる。
逃げる金色の頭をさらに押さえつけようとしたミロの手首を、だがしかし、不意に(否、足音高く近づいてくる気配をミロはずっと背で感じていた)冷たい手が掴んで阻んだ。
「……っ、お前、というやつ、は……! 何度言えばわかる! 氷河には手を出すなとあれほど……!」
射殺さんばかりの鋭い瞳をしたカミュが、氷河を背に守るようにミロとの間に割って入っていた。動揺か、怒りか、ミロの手首を掴むカミュの手は激しく震えている。
カミュに手首を掴ませたまま濡れた唇を親指で拭って、は、とミロは笑う。
「坊やが抗議するならともかく、なぜお前が口を出す」
まさか非がある側から反撃されるとは予想していなかったのだろう。なに、と、虚を衝かれて力の緩んだカミュの手を振り払って、ミロはカミュの胸へ人差し指をつきつけた。
「お前は氷河の一体何なんだ」
氷河は、ミロの行為も飲み込めないうちに探していたはずのカミュが突然現れて、理解が追いついていないのだろう。目を丸くしてミロとカミュの姿を交互に見やって、何度も瞬きをしている。
「『
氷河には手を出すな』? 上司としてセクハラに抗議したにしてはえらく偏って聞こえるが気のせいか? 俺が遊びではなく真剣に口説いただけだと言ったなら? そこまで口を出せるのか、お前に」
矢継ぎ早に逃げ道を断つミロの煽りに、わかっているくせに言わせる気か、とカミュの瞳が見たこともないほど剣呑につり上がる。
言えばいいんだ、もう観念してしまえ、とこちらも鋭くカミュを見据えたミロが、戯れなどではなく真剣であることを悟ったか───やがて、カミュが根負けするかのように、息をひとつ吐いて、表情を隠すように片手で顔を覆った。
「わたしが氷河を誰にも渡したくない。……上司としてではない。今のは私的な嫉妬、ただそれだけだ」
だから、後生だから手は出してくれるな、お前と争って勝てる気はしない、と、力なく言ったカミュの姿に、ミロは、しまった、と猛烈な後悔に襲われた。
本音を曝け出すことを迫ったが、まさかここまで深く曝け出されるとも思わなかった。
ミロはただ、こんなことのためにカミュを辞めさせたくなかっただけだ。
カミュが認めて、それでなんとなく二人がうまくまとまりでもすれば、何も辞める必要はなくなる、そう思っていたが、氷河への気持ちを抱えたまま上司であり続けることはできない、と言った彼の覚悟を甘く見ていた。
氷河の前でここまで弱さを曝け出したからには、もう、カミュは、メビウスの件が片づくのも待たずに彼の上司であることを手放すことを決めたのだ。今この瞬間。
ミロがしたことは彼を引き留めたのではなく、退社の時期を早めさせたに過ぎない。
そんなつもりではなかった、は通用しない。一度言葉にしたものはもう取り返しがつかない。それでも、こんな形で彼を去らせてしまうのは全く不本意だ。氷河にも顔向けできず───何より社長に殺される。
俺が悪かった、冗談が過ぎた、と全面降伏か、いや、冗談にするにはカミュの声はあまりに真剣過ぎた。ならば、今のは芝居だ、氷河を二人して揶揄ったのだとごまかすか、と珍しく狼狽えたミロが次の言葉を探しかねていたときだ。
待ってください、と、氷河が叫ぶように言った。
「駄目です、あの、」
注目されるきっかけを作ったのは己であるくせに、二人の視線を集めて、氷河はみるみる顔を赤くさせて、口ごもった。
視線から逃れるように少し俯いて、今のは違います、だって俺まだ、と、氷河はミロ以上に酷く狼狽えている。カミュが辞めることを知っているわけでもあるまいに、好意を示されて喜ぶならともかく、焦って取り乱している理由がわからず、ミロも、そして多分カミュも、盛大に困惑して金色のつむじを見下ろした。
まだ大いに混乱の最中にいる氷河は、二人の視線を集め続けていることでますます耳を赤くし、だがしかし、最後は自棄気味に勢いよく顔を跳ね上げた。
「あの!今の、ミロが俺を揶揄ったところから全部、何もなかったことにしてください!俺、まだ全然一人前ではないので、あの、二次試験、がんばって、絶対合格しますので、あなたに認められるくらい、ちゃんと、一人前になって、肩を並べられるようになったら、そしたら、そしたら、俺、あなたに好きだと言いますので!言うことが許されるほど、成長してみせますので!」
だから、忘れてください、全部!と、まるで自分の失言を詫びるかのごとく切実な声音で懇願した、氷河の瞳は真っ直ぐにカミュだけを見つめていた。
よほど動揺かつ緊張しているのか、薄青の瞳にはうっすらと水の膜が張っていて、今にも瞳の縁から零れ落ちそうだ。
だが、それが雫の形をとるより早く、では、仕事に戻るので失礼します、と、やはり勢いよく頭を下げて、氷河は二人にくるりと背を向け、小走りに去って行った。
残された二人はあっけに取られて、氷河が消えた屋上の出入り口の扉をしばし見つめ、それからゆっくりと顔を見合わせた。
『一人前になったら
好きだと言いますので』……?
それはもう、一人前になるのを待たずして告白したも同然なのでは……?
半人前のうちはカミュに好意を向けてもらうことすらおこがましいと涙すら浮かべて取り乱し、うっかりと本心を曝け出してしまった彼の大真面目な宣言の奇妙な可笑しみが遅れてじわじわと込み上げ、ミロは、はは、と微かに笑いを漏らした。
「全部、ノーカウントにしてくれ、とは……坊やには参るな」
「人がどんな気持ちで言ったと……わたしは振られたようなものだ」
そう言うカミュの表情は、先ほどの、青ざめて固く強張っていたことが嘘のように、甘く緩んでいる。
愛おしくて仕方がない、という表情だ。
ああ、それも俺ではきっと一生させることができなかった表情だな、と、ミロは苦笑する。
「坊やには負けたな。……俺の完敗だ」
本人は意図していなかったとはいえ、ミロの愚かな過ちごとノーカウントにしてしまったのだ。完敗以外の何物でもなかった。
言葉にしたことで、いっそ清々しいほどの敗北感が全身を巡り、だが、まるで一から生まれ直したかのような爽やかさがミロの内側を満たしていた。
「お前、これからどういう気持ちで氷河を一人前に育てるんだ? 二次試験も控えているのにまさかここで放り出せまい」
さすがに涙目のあの訴えを退けて、それでも辞意を維持し続けるほど頑なにはなれなかったのだろう。わたしはもう彼を育てる立場にない、とは言わずに(そのことをミロは酷く安堵した)、こめかみを揉むようにして眉間に皺を寄せながら、カミュは、今までと変わりようがない、と呟いた。
変わらない、ということができるのだろうか。
一度知ったものをなかったことにするのは簡単ではない。
自分の気持ちに線を引く自信がないからこそ、カミュは、言葉にした時点で辞める決意を固めていたのだろう。
互いに気持ちがあるとわかっていて、一体どうやってこれまでどおり変わらない関係を築いていけるのか。
その先に、己への好意を告げる日があると知ってする指導は今までより甘くか、それとも今まで以上に厳しく、か。
「お手並み拝見だな」
フ、と人の悪い笑みを浮かべたミロに、誰のせいだと、と、カミュが渋面を返す。
大いに眉間に皺を寄せて怒っているようでいて、それでもなお、頬にはまだやさしい笑みの余韻が残っている。
ほらな、今までと変わらないことなんかできやしない、と柔らかな表情のカミュを見ているうちに、ふと、悪戯な気持ちが湧上がってきて、なあ、と、ミロは彼の肩を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「今ならお前の気持ちがわかる。……俺もあの坊やが本気で欲しくなった」
だからお前より先に落とすことにするよ、俺には『上司』という枷もないことだしな、と高らかに宣言して、じゃあな、と、ミロは彼に手を振って背を向ける。
「な、ミロ……!お前は本当に人の話を聞かないな!?お前とは争いたくないと今……!」
焦った声に、それは氷河が無効にしただろ、と言ってミロは屋上の扉を開く。
駄目押しだ、これでカミュは当分辞めるとは言えまい、と少し愉快な気持ちで階段下に目をやれば───
踊り場ですっかりへたりこんで、今、何が起こった……?と真っ赤な顔でミロを見上げる氷河の姿がそこにはあって、君が一番なかったことになっていないじゃないか、と、ミロは堪えきれず噴き出したのだった。
(fin)