サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ⑦◆
窓硝子を叩く雨粒の音が大きくなり、カミュは、雨の様子を確認するために窓辺へと近寄ってカーテンをそっと開けた。
外はもはや嵐の様相だ。あまりに激しい降りように、外灯の光も遮られて、まだ宵の口だというのに辺りはほとんど真っ暗だ。
恐らく災害級となるであろうこの雨に、だがしかし、カミュは(ひいては氷河も)救われたのだ。
試験休暇の間も、氷河のことはずっと気にかかっていた。
以前のカミュであれば、恐らくもう少し気軽に、試験勉強は順調か? と連絡していただろうが(そもそも資格取得は半ば業務だ、休暇とはいえ完全プライベートではない)、なまじ私的な感情を自覚してしまった後だけに、そうすることは躊躇われた。
友人にするのと同じ気安さでキスやハグを(無自覚とはいえ)してしまえたのも、「今日は上司としてではない」などと言えたのも、今思えば、カミュの中で、言葉とは裏腹に、彼との関係性が「上司と部下」以外のいかなるものにもなり得ない、という意識が働いていたせいだ。
全く曇りなく上司としてのみだ、と言い切れぬ疚しさを自覚してしまっては、以前ほど気安く接することは難しく、かと言って気に留めずにいられるわけもなく、自制と葛藤を繰り返しながら迎えた試験日。
大雨による運休のニュースに、氷河が交通手段に困るのでは、と気づき、しばしの迷いの後に、上司としてフォローするだけだ、断じて私情ではない、と自分自身を説き伏せて、久しぶりに送ったメッセージは既読にならなかった。
いい大人なのだから自分でどうにかしているだろう、という思考にならなかった時点で、客観的に見れば上司と言うにはやや逸脱していたのだろうが、結果、連絡がつかないまま試験会場そばで直接待つ選択をしたことが幸いしたのだから───今回ばかりは、逸脱した己を許してやらねばならない。
正門から少し離れた位置に停めた車の中、もう一度電話をかけてみるべきか思案しながら顔を上げ、男に強引に車に押し込められようとしているブロンドを発見した瞬間たるや。
あっという間の出来事だったが、事態を飲み込むより早く、身体が勝手に反応していた。
走り去ろうとする車を追うためにアクセルをふかし───前の車を運転している男がドルバルの腹心だということに気づいたあたりから、正直、怒りか恐怖かわからぬもので真っ黒に心が塗り潰されてしまって記憶が曖昧だ。
車を大破させてでも止めてやるというカミュらしからぬ乱暴さでアクセルを踏み込んで、ロキの運転する車の進路に強引に割り込んだのと、後部ドアを開いた瞬間の氷河の血の気の抜けた真っ青な顔だけは薄らと覚えている。
雨でなければ、カミュはきっと己の立場に縛られて、氷河を迎えに行くことはなかった。ドルバルが易々と目的を遂げていたかもしれないのだと思うとぞっとする。己を抑えて氷河と距離を取ることが、一体正解なのかどうかこうなってはもう何もわからない。
ひどいジレンマもあるものだ、と、カミュは重い息を吐いて顔を上げた。
ドルバルへの怒りを思い出したせいか、窓ガラスに映る己の顔は険しく歪んでいて、まるで般若の形相だ。(どうりで車中、氷河が言葉少なだったはずだ。己自身ですら話しかけるのを躊躇うような酷い顔をしている)
何度か深い呼吸を繰り返して険を削いで、カミュは窓から部屋の中へと視線を戻した。
リビング兼ダイニング兼ベッドルームの狭いこの部屋へ来るのは二度目だ。
さすがにあんなことがあった後でエントランスで下ろしてそれきりにはできなかったし、酷くなる一方の雨に、このまま運転して帰るのは危険です、と、氷河も引き止めた。
雑然と散らかった部屋の明かりをつけて、氷河は、今すぐ片づけますので、と、顔を引き攣らせていたが、カミュがそれを止めた。
そんなことより濡れたままでは風邪をひく、と言えば、それもそうでした、と、氷河は慌ててタオルを取りに走ってカミュに差し出したが、わたしのことではない、とカミュは首を振った。
カミュの方は、幾分濡れてはいたものの、夏に向かう時期でもあり、腸が煮えくり返っていたせいもあってか、そう冷えたという感覚はなかったが、車から降ろすのに手を貸した際に触れた氷河の身体の冷たさは異常なほどだった。
おそらく朝にも雨に打たれ、そのまま試験会場の冷房にさらされ、さらには心が芯から冷えるような思いをしたせいだろう。
差し出されたタオルを受け取って髪の雫を拭きながら、お前は少し温まってきた方がいい、と言えば、氷河は迷う素振りを見せたが、最後には、すみません、そうします、と頷いてバスルームに消えたのだった。
あれからしばらく経つがまだ水音は響いている。
雨宿りの気遣いや、散らかった部屋を気にする様子はいつもの氷河なのだが、それで何事もなかった、と信じ込めるほど鈍くはない。
ドルバルが彼に何をしたのか想像したくもないが、長いシャワーの時間が何があったかを物語っているようで、カミュは強く奥歯を噛みしめるのだった。
すみません、すっかり考え事をしてしまっていて、と、氷河が慌てふためいてバスルームの扉を開いて出て来た時、カミュはベッドサイドの床へ直に座り込んで、氷河が開きっぱなしにしていた試験の問題集に目を通していた。
空のペットボトルの山だとか、洗濯前だか後だかわからない洋服だとか、タブレットの充電器だとか、床には様々なものが散らかっていて、待っている間に片付けてしまいたい衝動に駆られたが、私的な空間を勝手に他人に触れられては氷河も気まずいだろう。だから、唯一、触れても許されそうだと判断した建築関係の書籍の山を片付けて座れるスペースを作ったというわけである。
「あの、俺、試験終わったら、今日まとめて片づけるつもりで、」
「わかっている」
彼が食事をする時間どころか寝る間も惜しんで勉強に励んでいたことは部屋の様子からありありとわかる。
だらしがないと幻滅するどころか、よくがんばったことを好ましく思う気持ちしかないのだが、うっかりと怒っているような口調となってしまい、打ち消すためにカミュは遅ればせながら笑みを(それが笑みに見えているといいのだが)浮かべて見せた。
「どれもこれもよく解けていた。これだけ理解できていたなら、試験は問題なく解けただろう」
安心させるつもりで言ったはずが、あ、とたちまち氷河の顔が曇る。
氷河はカミュの前に崩れるように膝をつきながら、まるで土下座でもするかのようにうなだれて、実はあまり、と力なく言った。
「試験の直前に、ロキ…?に話しかけられて……動揺してしまって、なんと書いたか覚えていません。正直、自信はないです」
試験が始まる前から狙われていたのかという衝撃でまたぞろ感情は大きく波打ち、それを表に出さぬようカミュはぐっと拳を握りしめる。
「……そうだったか。だが実力的には十分達している。一次試験の結果を待たずに二次の対策を進めていて損はないだろう」
手ごたえがわからないでは不安だろうに、カミュの慰めに、だがしかし、氷河は健気に頷いて、カミュがそう言うなら、俺、できていることを信じます、と言った。
「…………カミュ………俺……」
言い難そうに口ごもりながら氷河がそう切り出したのは、少しの沈黙の後だった。
あんなことのあった後で全くそれに触れないのは不自然で、かといって、何をされたのか、あるいは、何を言われたのか、氷河を問い詰めるような真似もしたくはなく、ただ、彼が口を開いてもよいと思えるのを待っていたカミュは、どうした、と、およそ彼の声帯が出しうるもっとも柔らかな声で返した。
緊張のためか、俯く氷河の瞳が忙しなく瞬き、まだ完全に乾いていない髪先で玉となった雫が、その微かな振動で空に舞う。それほど言い難い話なら、先に髪を乾かしてこさせようかと思った瞬間、氷河が覚悟を決めたように顔を上げてカミュを見た。
「……俺……奴に……アースガルドに来るよう誘われました」
なに、などと声を荒げて氷河を委縮させずに済んだのは、半ば予想していたからだ。『誘われました』などと穏やかな言葉で語れないような手段であちこちから人材を奪う男だというのは業界では有名だ。
だから、真に驚いたとすれば、その後に続いた告白の方だ。
「俺に、メビウスの設計をさせたいようです。契約をしたと言っていました。聖域建築の設計をそのままアースガルドで引き継げと、そういう話でした」
それと繋がる話か、と、カミュは目を見開いた。
新しい箱モノを作るのと違って、修繕は(特にメビウスのような特殊な構造の建築物は)比較的、請け負う社の技術力に価格が大きく左右される。技術力ではトップクラスの聖域建築が価格においても負けるはずはなく、何より、他社が手掛けている最中の案件に営業をかける掟破りがいたことが解せなかったが、なるほど、アースガルドならさもありなん、だ。自分では設計をせずに横取りする前提なら、価格などどうにでもなる。
「もちろん断りましたが……俺が断ったところで奴はもううちの図面を手に入れている。盗用は避けられません。一体どうしたら……」
氷河は盗用を憂いて頭を抱えているが、カミュは、声には出さぬまま、いや、問題はそこではないな、と眉間に皺を寄せた。
メビウスに送ったのはまだ基本設計の段階の図面だ。つまり、方向性やアイデアなどの全体図はできているが、工事に使うための詳細図をこれから描く必要がある。
道義的、法的是非はこの際置いておいて、理論上は確かに、最も技術者の能力や経験に出来映えが左右される基本設計をそのまま盗用してしまえば、実施設計は易く描けるわけだが、ただ、今回のケースではそれは不可能なのである。
聖域建築の基本設計は一般に普及していない聖域建築独自の技術を使用することを前提で描いている。他社の技術者では、どのように施工するか薄らと理解するのがせいぜいだ。つまり、カミュや氷河になら続きが描けても、どれだけ優秀であっても他社の人間には続きは描けない。よしんばどうにか描けたとしても、施工の時点で技術が足らずにつまずくことになる。(氷河は、聖域建築ではごく当たり前に使用しているそれが、他社にはないものだと知らなかったのだろう)
だから、カミュは、メビウスに求められるままにデータを送ってやることを厭わなかったのだ。
技術的にも価格的にも唯一無二の提示をしたという自負があった。
どこの社がメビウスを口説き落としたのであれ、あの設計図を見たなら、改めて設計し直すのではなく、聖域建築に協力を仰ぐことを選択するだろう、と。それほどの出来栄えだった。
主契約からは外れても、業務提携という形で関わる可能性がある、そう踏んだから、氷河にはバックアップデータを残したままにさせておいたのだ。
だが、よりにもよってアースガルドとは。
コストをかけずに設計を手に入れたはいいが、自社では使い物にはならないと知って、ドルバルは腹が煮えたことだろう。改めて設計しなければならないなら、ありえない低額で契約したアースガルドには大損害だ。
カミュの思惑どおりに、アースガルドが聖域建築に業務提携をもちかければ解決する話だが、あんな誘拐紛いの真似をしたということは、ドルバルの中にその選択肢はないのだろう。
だから問題は、盗用されることなどではなく、その逆だ。簡単に盗用できないことで、氷河は狙われ、そして、この先も、アースガルドがメビウスの工事から手を引くか、諦めて設計し直すかしない限り、危険に晒され続けることになる、
「あの、俺、」
険しい顔で黙り込んでしまったカミュを誤解して、不安げに瞳を瞬かせていた氷河は、まるで名案を思いついた、みたいな顔をして勢い込んで言った。
「俺、奴の話に乗ったふりをします。それで、アースガルドに入り込んで、あのデータを取り返してくれば、」
だめだ、と、堪らず遮ったカミュの鋭い声に、びくりと氷河の背が竦む。
叱られたととったかみるみる血の気の引く頬に、違う、そうじゃない、と咄嗟にカミュは彼の背を引き寄せた。
これまでカミュを縛り付けていたものが刹那、制御を失った───否、制御するのをカミュは放棄したのだ。
氷河は
上司に認められようとするあまりに、度を越してがんばりすぎて却って空回りすることが多々あって、これまで、彼のそうした健気さから来る失敗をもカミュは厳しく指導してきたのだが───まさか、高じて、己の尊厳を傷つけるような男の元へ行くとまで思い詰めてしまうとは。
これまでと同じに、上司として、浅はかだと叱責することはできたが、それでは氷河は引き下がらないだろう。下手をすればカミュに黙って男の元へ行きかねない。(氷河には、結果が得られるなら経過を気にしないような無鉄砲さと強情さがある)
氷河を止めるには上司としてでは駄目だ、と、理屈ではなく感覚がカミュにそんな行動を取らせたのだが───いずれにせよ、今日はもうこれ以上血の気の抜けた青白い顔を見ていることは耐えられそうになかった。
突然に抱きすくめられて、カミュより一回り小さな体躯が、あの、と戸惑ったように小さく身じろぎをする。
「……大丈夫です。俺……きっとうまくやってみせますから。信頼してもらうには、まだ力不足かもしれませんが、」
「氷河」
今度はやさしい声音でそう呼ぶと、氷河は少し驚いたように瞳を瞬かせた。(カミュ自身、己にそんな声が出せたのかと少々驚いた)
カミュは氷河の頬を両の手のひらで包んで上向かせた。部下にするには酷く甘い仕草となってしまったせいか、血の気の抜けていた頬はカミュの両手の中でみるみるうちに赤く染まった。
ああ、息ができなくなるほどいとおしい。
いつの間に己の中にこれほどの感情が育っていたのか。
なぜこんなにも激しい感情を隠してこれたのか、不思議な心地がする。
「できるできないは問題ではない。……これ以上心配させないでくれ。あんな男の元にお前がいることはひと時たりとも耐え難い」
お前に何かあればわたしは正気ではいられない、と、これ以上はない本音の吐露に、真っ赤になって声を失ってしまった氷河の髪をカミュは撫でた。完全に乾ききっていない、少し癖のある髪が、カミュの指に絡んでくるりと跳ねる、そんな些細なことにすら胸が甘く疼いてしまって、ああ、もう駄目だな、わたしはとカミュは苦く笑った。
「……何も心配はいらない。アースガルドの件はわたしに考えがある。だから、お前はただ、いつもどおりに」
正直なところ、まだ具体的に何か策を考えられるほど冷静に思考が働いているわけではなかった。
だが、まるで全部想定していたかのようにそう言い切るカミュの姿に、氷河は赤くなった頬を微かに緩ませて、本当ですか、とか細く問うた。
「わたしがついていて、大丈夫ではなかったことがあるか」
少し冗談めかしてそう問えば、氷河は、いいえと即座に首を振り、それからようやく安堵したかのように大きく肩で息をした。
「……だったら、よかった、俺……」
張りつめていたものが切れたように崩れる氷河の身体を支えて、大丈夫だ、と背を撫でてやれば、こわかったです、と氷河の声が震えた。
「あんな奴にあなたのことを利用するような真似を許してしまったらと思うと……」
そんなことのために自分を犠牲にしようとしたのか、といじらしさのあまり口づけてしまいそうになるのを押しとどめ、カミュはそっと氷河の肩を押して離れた。これ以上触れ続けていて、自分を保つ自信は全くなかった。氷河の傷に上塗りをするような真似は今夜だけはしたくない。
「メビウスの件はすべてわたしの判断でしたことだ。片はわたしがつける。お前は手を出してはならない」
いいな、氷河、と、一転、意図して甘さを削いだ声に、ハッとしたかのように氷河の姿勢が伸び、ほの甘やかに傾きかけていた空気は、上司と部下のほどよい緊張感を伴ったそれへと変化した。
自分自身でそうしたくせに、蹴散らしたはずの甘い空間に後ろ髪を引かれてしまい、迷うようにカミュは視線を床へと落とす。
「……ともかく、お前が無事でよかった」
「カミュ……?……」
上司と部下以外の何ものでもない、と完全に線を引ききれないカミュの狡さに氷河が戸惑っているのがわかる。
ひどい上司、否、ひどい男もあったものだ。
いっそひどい男になり切れたらどれだけ楽だろう、と仄暗い葛藤がカミュの胸を去来するのだった。
*
氷河はすっかり寝入ったようだ。
連日の試験勉強に加えて朝からいろいろあって、よほど疲れていたのだろう。まだ宵のうちだというのに、休んでいた間の社の出来事や出勤後の段取りを話しているうちに、呂律が怪しくなり、やがて船を漕ぎ始めた。
わたしに気にせず休みなさい、と言えば、すみません、30分だけ横になります、と言った氷河は、ベッドへ横になりながら寝惚け眼でとろんとカミュを見て、
「なんかヘンな気分です……」
などと独り言めいた呟きを最後に、あれからずっと健やかな寝息をたてている。
変な気分か、違いない、と苦笑して、部屋の隅へ移動してカミュはスマートフォンを取り出した。
まずは社長だな、と、アドレスからサガの名を探しかけ、だが眠る氷河を振り返って、発信先をミロへと変えた。
メビウスの件は当然社長も把握しているが、アースガルドが絡むとなると、少々説明がややこしくなる。長々と話し込む声で氷河が起きてしまわないとも限らない。
ミロとはあの電話以来、幾分ぎくしゃくした関係が続いていて、正直、躊躇いもあったが、ただ、事情をよく知っていて、無駄な説明の必要がないのは彼しかいない。
──何かあったのか? 今どこの現場だ?
数コールの後に電話に出た彼は、開口一番そう言った。
カミュがコールしたのは私用ではなく業務用の番号だ。
彼とは仕事の話であってもたいてい私用の番号でやり取りしてきたが、話す内容の重さから、敢えてそちらを選択したのだが、カミュの意図を過たず察して、初めから緊張した声でそう構えるミロを選択したことは、やはり正解だった。
「今、氷河の家にいるのだが……」
──氷河? プライベートの話なら、
「いや、仕事の話だ。……氷河がドルバルに攫われかけた。メビウスの契約をとったのはアースガルドだ」
たったそれだけの説明だが、ミロには十分だったようだ。しばし、そのことの意味を咀嚼するように沈黙した後、は、と唾棄するように短く吐く息づかいがカミュの耳に届いた。
──うちの設計をまんま使う気だな。自分のところの無能じゃ使えないものだからそれで氷河を? 施工技術情報ごと手に入れるつもりで?
さすが話が早い男だ。長々と腹の煮える説明をする必要がないことを安堵して、カミュは、そのようだ、氷河は引き抜きの交渉をされたと言っている、と告げた。
──は! 攫っておいて交渉か? それとも交渉が決裂したから連れ去りを? どっちにしろ片腹痛い。よく阻止できたな。氷河は無事か? 今どうしている?
「……何をもって無事とするかによるが……少なくとも医者にかからねばならない怪我はしていない。いろいろあって疲れが出たのだろう、今は眠っているところだ」
そう言ってカミュは氷河の方へと視線をやった。無防備にシーツの上へ投げ出された手首には、強く拘束されたのだろう、薄赤い手形が今も忌々しく残っている。それを言葉にするには、あまりに怒りが大きすぎる。
だが、前回、直接、『現場』を押さえているミロは、カミュの持って回った言い回しで察したのだろう。カミュが口にするのを堪えた罵りの言葉を遠慮なく次々と吐き出した。
──だが……変だな。なぜ坊やだ。奴はどうやって氷河がメビウスに関わっていると知った。設計書にはお前の名しか書いていないはずだ。お前の部下ならほかにもいる。言っておくがメビウスのあの総務課長どのが情報源ということはない。氷河のことは軽んじていて名前など憶えていなかった。俺のことすら設計士だと勘違いしていたくらいだからな。
一通り罵り尽くして冷静さを取り戻したミロの指摘に、やっぱり痛いところに気がつくのだなお前は、とカミュは吐息を零した。
「わたしのミスだ。氷河からデータを送らせた。メビウスは多分、個人情報を消すことなくそっくりそのままアースガルドへ転送した。……よしんば、単純に転送したのではなかったとしても、設計データのプロパティを見られてしまえばそれまでだ。アナログ図面をデータに描き起こしたのは氷河だ」
設計図の正式な署名はカミュの名しか入っていないが、データそのもののプロパティには、ファイルの作成者として氷河の名が自動保存されている。特定するのは容易かっただろう。
──それは……脇が甘かったと言わざるを得ないな。お前らしくないミスだ。
カミュらしくない、と言ってくれただけ、それはミロの温情だろう。
そこまで気が回らなかった、と、言えるならまだ救いもあったが、カミュは、そこに氷河の名が記されているとわかっていて、消すことを指示しなかったのだ。
大きなプロジェクトで、クライアントの注文がいい加減なことも相まって、最初から何もかもが大変な作業だった。
根幹となる方針は逐一カミュが指示したものの、設計の一部は氷河にも描かせた。氷河はカミュの期待以上の働きを見せたが、だがしかし、まだ一級の資格を持たない彼の名が公式な書類に残ることはない。メビウスは氷河が設計者として署名できる建築規模を超えている。
せめてデータのプロパティにくらい、確かに関わった証が残っていてもいい、と、ついそう思ってしまった。普段のカミュならしない、甘い判断だった。私情を交えたわけでは決してないが、判断を鈍らせる要因が私情に根差していたものだと非難されれば、反論はできなかった。
なにしろ、カミュのその甘さが、むざむざとドルバルを引き寄せる結果となったのだ。
氷河が関わっていることを知って、ほう、あのときの、と下卑た笑いを浮かべる様を想像すれば、己の愚かさに吐き気が込み上げる。
──お前と氷河なら、俺でも氷河を狙う。嫌な奴に目をつけられたな。きっと一度では引き下がらんぞ。
「わかっている。……明日、幹部会議を開けるか。早急に手を打ちたいが事が大きすぎる。わたしの責任も問わねばならない」
──この程度でいちいち責任を問うていては組織が成り立たんぞ。責任を負いたいお前の気持ちもわからなくはないがな。ともかく、幹部会議の件はまかせろ。メビウスの資料も俺が用意しておこう。
すまない、頼んだ、と言って、通話を終え、カミュは深く息を吐いた。
カミュが何故これまでにないそんな判断誤りを犯したのか、恐らく、その根底にあるものを察しているに違いないミロは、だがしかし、それに触れることなく、短い業務連絡だけで淡々と会話を終えたが、一切の私情を交えぬその潔さが今のカミュには酷く痛かった。