サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ⑥◆
その日、氷河が目を覚ました時、辺りはまだ暗かった。
夜明けの早い夏の入り口だ。部屋に光が満ちていない、ということは、それは、朝というより夜中に近い、という意味で。
のろい瞬きを一度だけして、二度寝に向けてベッドサイドの時計を見やれば、六の位置で重なった短針と長針が薄暗闇にぼうっと浮かんでいた。
……んん……?
体感の時刻と指し示された時刻のずれにしばし戸惑い、だが、寝起きで動きの悪い頭でその理由をみつけることは一旦諦め、氷河は半覚醒のままベッドの上へ身を起こした。
しばらくそのままぼうっとし、そして、夢遊病者のようにふらりと立ち上がって、半ば無意識に窓へと歩いて安っぽいカーテンを無造作に開ける。
───ああ。
暗いはずだ。
分厚い雲があたりを覆っていて、バラバラと大きな雨粒が窓ガラスを叩いている。(多分、その音が氷河の目を覚まさせたのだ)
どうやら朝ではあるらしい、と、氷河は両腕を頭の上へやって、ん、と大きく伸びをし、諦め悪くベッドへ戻りたがっている身体に新鮮な酸素を行き渡らせた。
雨、というだけで幾分憂鬱だというのに、窓を叩くほどの大雨とくれば空模様と同じように気分がどんよりしてしまう。
近頃は梅雨末期に大雨が降ることが多いが、この雨もそれだろうか。
スマートフォンで天気予報を確認しようと、視線を部屋の中へ戻した瞬間、ベッド付近で、ピリリリ、と、そのスマートフォンの電子アラームが鳴り始め、氷河はハッと、そこでようやく本当の意味で覚醒した。
試験だ、今日は……!!
今日はついに建築士の学科試験日なのだ。
日曜にも関わらず、アラームをかけておいたのはそのためだ。昨夜、受験票やら筆記用具やら、持ち物を確認してから床についたことを今思い出した。
一級建築士の試験は二段階。
学科試験でまず八割近い受検者がふるい落とされる。残った二割の合格者には、設計の実技試験が課されることになるのだが、そこでさらに半数が不合格となる。つまり、全体の受検者のうち一割程度しか合格しない。
合格割合の低さから言えば超難関であることは間違いがないのだが、一発合格の望みがないほどか、と言えば、必ずしもそうとは言い切れない。
勉強しない、否、できない受検生も一定数いるからだ。
建築の現場では、一級建築士の資格が必須とされる場面が多い。一級と二級では設計可能な建物の規模がまるで違う。聖域建築で手掛ける建築物のそのほとんどを、氷河では補助的作業しか関わることができないのはそのためだ。
ゆえに、ある程度の規模の会社では、どこも、新人建築技師たちに一級の資格を早く取るよう促しているのだが、ただ、業界全体が超絶ブラック体質ときている。残業に次ぐ残業で、資格試験の勉強など一切できないまま、会社の手前、受けないわけにもいかないからとりあえず受検会場には来る、という者も少なくはない。
つまり、倍率だけをもってして、努力する前に望み薄だと諦めてしまう必要はない、ということだ。
そうした事情のせいだろう。カミュはここしばらく氷河に残業をさせることはなく(その分、カミュ自身の労働時間は増えているはずだった)、ばかりか、総務に交渉までしてくれて、早めの、そして長めの夏季休暇まで取らせてくれた。
正直、カミュやミロと社で顔を合わせるたびに気持ちが浮いたり沈んだり、まともに勉強に手がつくような状態ではなかったのだから、これには助かった。
初めのうちは、カミュから何か連絡があるかもしれないと日に何度もスマートフォンを見つめていたりしたのだが、数日で、氷河は悟った。
氷河の期待(そう、期待していた)に反して、「しばらく試験対策に集中するといい」と言ったカミュが、「あの件はどこまで進んでいた?」などと仕事を思い出させるような連絡をしてくるようなことは全くなかったし(氷河がいなくともカミュさえいれば、何の不都合もなく建築設計部は回るのだ)、ましてや、単なる上司と部下でしかない関係、仕事以外のことでなど連絡があるはずもなく、つまり、一人やきもきしてみたところで、全くの無駄でしかないのだった。
浮わついていたせいで、落ちた、なんてことになったら洒落にならない。
気合い入れろ、俺。
雑念ばかりの自分の横っ面を張り倒す勢いで腹を括り、氷河は、試験勉強に集中するための方策として、社用も私用も含めて、カミュに繋がることができるデバイスは全部電源を切って封印してしまったのだった。
頭の中で時折考えてしまうことだけはどうしようもなかったが、外界を遮断できたのは、幾分、集中の助けにはなった。
どうせなら完全に引きこもりだ、と、多少自棄気味で、外出もせず、テレビすらもつけず、ここ一週間ほどは、寝食も忘れるほどひたすら問題集や参考書とにらめっこしていたのである。
とはいえ、いくらなんでも天気予報くらいは確認すべきだった。
今さらではあるが、氷河はアラームを止めたスマートフォンの画面に視線をやった。
昨夜寝る前にアラームをセットするまで長らく電源を入れてなかったスマートフォンは、様々なアプリに未確認の情報が複数あることを示す通知マークがついているが、今はのんびり全部を確認している場合ではない。
たくさんのアイコンから情報アプリを選択して、氷河はそれを起動させた。
警報級の大雨の恐れあり、早めの避難行動を、という赤い文字の警告が目に飛び込んできて、思わずドキリとする。
さらには、「夕方以降の計画運休実施予定」の文字を見るにつけ、え、と、氷河は青ざめた。
この雨、そんなにひどくなるのか。
電車が止まるほどなら試験自体が中止になるかもしれない。
冷や汗をかきながら、氷河は試験サイトを確認してみたが、今のところ試験が中止というアナウンスは出ていない。
試験の終了時刻は18時頃。
運休にかかるかどうかぎりぎりといったところだが、今は、帰りの交通手段まで心配している暇はない。
まずは試験会場に辿り着いて、話はそれからだ、と、氷河は受験票が濡れないようデイパックの中身をビニールで包み直し、慌てて出発準備に取り掛かった。
少し早めの時間設定でアラームをかけていたが、早めと言っても、晴れ想定での「早め」だ。この雨で電車の運行に遅れが出ているかもしれないし、運休になる前に用事を済ませたい人が駅に押し寄せているかもしれない。
幸先悪い滑り出しになってしまったな、と、暗雲立ち込める空を横目に、氷河は、重い息を吐くのだった。
*
「酷い雨だ」
隣に立った男が発した声は氷河に語りかけているようにも、独り言のようにも聞こえた。
激しく降る雨に電車は徐行運転をしており、おかげでダイヤは乱れ、試験会場として指定されている大学の最寄り駅に着いたのは、試験開始時刻のおよそ三十分前。
開始時刻より前に着いたのはよいが、改札を出て、駅から試験会場までたった数分の道のりを歩く間に、風を伴って横殴りに降る雨に全身ずぶ濡れとなってしまったのは想定外だった。
そのまま受付をするわけにもいかず、会場に辿り着いて、何はともあれ氷河はまず、トイレへと駆け込んだ。
狭いトイレには同じような濡れ鼠が数人いて、タオルで鞄を拭いたり、服の裾を絞ったりしている。
氷河も、洗面台の上で髪の毛を絞って水滴を切り、ゴムで一つにまとめ、ポタポタと雫の落ちるTシャツの裾をぞうきん絞りの要領で捩じり上げた。
鞄の中身をビニールへ包んできたのは、あまり気の利かない性質の氷河にしてはかなりの好プレイなのだが、残念ながら、着替えまでは持ってこなかった。
絞っても絞っても次々に垂れる水滴に、もう、これ、いっそ脱いで全体を絞るか、と、Tシャツをたくし上げたところに、男の声が聞こえた、というわけだった。
試験時間は迫っている。
Tシャツを脱ぐ手を止めて、見知らぬ人との世間話に愛想よく応じている余裕はない。
だから、氷河は黙って、そのままTシャツを脱ぎ去った。顔は正面に向けたまま、いかにも、聞こえませんでした、または、今それどころではないので世間話なんかできませんよ、という空気を醸して。
だが、男にその空気は読めなかったようだ。あるいは、読めたにも関わらず、氷河の意図に沿うつもりは端からなかったのかもしれない。
男の唇から、ひゅう、という揶揄うような口笛が発せられる。
他にも生肌を晒して着替えをしている人間はチラホラいるから、氷河に対してとは限らないが、誰に対してだって、まともな礼儀をわきまえている人間のすることではない。
関わり合いになるまい、と、氷河は大急ぎでTシャツをぎゅうぎゅうと絞り上げた。
「フ、夜な夜な可愛がってもらっているって身体つきじゃないな。熟れ頃にはほど遠い」
値踏みするような無遠慮な視線を向けられて、今度ははっきりと話しかけられたことがわかったのだが、相手にするに値しない下卑た揶揄に、氷河は無視を貫き、だが、少しだけ視線を上げて、鏡越しに男の姿をチラと確認した。
年の頃はカミュと同じか少し上くらい。氷河より十センチ近く上背があって、整った見てくれをしているのに、血色の悪い肌のせいか、白目がちな瞳のせいか、どこか陰気な印象だ。
同じ受検生だろうか。それとも、大学の関係者か。全く無関係の人間だって入り込めなくはないが、見覚えのある顔ではないのは確かだ。
変なのに絡まれてしまった、早くここを出よう、と、氷河は限界まで絞り切って、雫が垂れなくなったよれよれのTシャツを頭からかぶり直した。しっとり湿った布地が肌に張り付いて不快だが、まさか裸でいるわけにもいかないのだから仕方がない。
洗面台から離れ、デイパックを担ぎ直して、氷河は男の横を足早にすり抜ける。
「まあ、せいぜいがんばって来いよ。デカい契約を落としたおかげで勉強する時間はたっぷりあった。そうだろう?」
「……な、」
徹底的に無視をするつもりが、背に投げつけられた、煽るような男の声に、氷河は思わず振り向いた。
下品な揶揄だけなら気にも留めなかったが。
『デカい契約を落とした』……?
メビウスのことを言っているのか? 俺を聖域建築の人間と知っている……?
「……何者だ」
警戒を漲らせてそう問えば、男は、ハハッと勝ち誇ったような嘲笑を見せた。
「そんなに警戒しなくても試験の邪魔はしないさ。そうしたいならもっと前にできた。お前はバカみたいに隙だらけだからな」
氷河をずっと監視していたかのような物言いに、ぞわ、と背が冷える。
冥界建設のあの男の仲間だろうか。
大事な設計書をコンペ前に盗み見られた失敗が咄嗟に思い浮かんで、氷河は激しく動揺した。
「俺はただエールを送りに来てやっただけさ。そう固くなるな。『同僚』さん?」
さあ、早く行け、ボスをがっかりさせてくれるな、と手の甲で氷河の二の腕を叩くようにして、男は氷河の脇を通り抜け、廊下へと歩いていく。
同僚?ボス?
聖域建築の人間だという意味だろうか。
こんな男がいただろうか。少なくとも同じ部内の人間ではないのは確かだ。
全社員を把握しているわけではないが、例え聖域建築の人間だったとして、メビウスの契約の件も、氷河が今日ここにいることも、顔も知らない程度の関わりの同僚が知っているはずはない。
頭の中で鳴り響いた警告に咄嗟に従って、おい、ちょっと待て、と、氷河が追って廊下に飛び出したときには、だがしかし、男の姿はもうどこにもなかった。
*
試験は散々だった。
否、正確に言えば、散々だったかどうかもわからないほど、集中力を欠いて臨む羽目になった。
ともすれば、直前に会った三白眼の男の顔がちらつき、いけない、今は試験に集中しろ、と我に返って鉛筆を走らせては、また、もやもやと、俺はまた何かまずいことに巻き込まれたのか、と心を乱されるの繰り返し。
大事な試験でこんなことになって、図らずも、『お前はバカみたいに隙だらけ』があながち間違っていないことが証明された結果となっただけに、気分は最悪だった。
正誤は別にして、一応、全ての問題は解いた、と、思う。
思う、と曖昧なのは、持ち帰りを許されている問題用紙が完全に白紙だからだ。
後で自己採点するために、どう回答したか問題用紙に転記しておくつもりが、とてもそんな余裕がなかった。まさか回答用紙まで白紙で出してはいないはずだが、本当にきちんと解けたかどうか、全く自信はない。
一次試験の合否がわかるのは二か月後。だが、二次の実技試験に課される設計テーマは来週にも示される。
自己採点ができないということは、来年に向けて再び一次試験の対策を続けなければならないのか、それとも二次試験の対策を進めていいのか、それすらわからない、ということだ。
エールだ、と言いながら、そこはかとない悪意を滲ませて接触してきた男を無視しきれずに、うかうかと動揺させられてしまった自分が酷く情けなかった。
大雨の影響なのか、それとも例年こうなのか、試験会場は初めからいくつか空席ができていて、その上、途中で合格を諦めたか、二科目目、三科目目と進むにつれて、途中退席する受検生が続出した。
最後の科目が終了するまで教室に残っている人間は半分にも満たなかったくらいだ。
それも今は、試験監督員に急き立てられるようにして会場の外へと退出しようとしている。
氷河も筆記用具を片付けながら、電車の運行情報を確認しようと、朝からずっと鞄に入れっぱなしだったスマートフォンを取り出して電源を入れた。
ブブ、と振動とともに画面が明るくなれば、待っていました、とばかりに、複数のアプリの通知が一斉に鳴る。
アップデートしろだとか、新しいニュースがあるだとか、さして重要でない通知ばかりと思い、アプリを開きもせずにそれらを消そうとして、ふと、氷河の指が止まる。
着信の通知に、カミュ、の文字が見えた。
ドク、と心臓が熱く爆ぜる。
気持ちが沈んで鉛を飲んだように冷たくなっていた腑が、心臓から伝わる熱に急速に温度が上昇していくのがわかる。
通知の時刻はたった今だ。
試験が終わったこのタイミング。
カミュに限って偶然ということはないだろう。試験が終了する時刻を把握していて、かけてきたのだ、きっと。
長い休暇に入ってから一度も連絡がないことに悶々として、自分は、カミュにとっても建築設計部にとっても、いなくて困るような存在ではないのだ、と、少なからず凹んでいたのだ。
例え明日からの出勤に向けての業務連絡だったとしても、これを浮かれるな、という方が無理だ。
「……君、大丈夫?」
突っ立ったままの氷河を、具合が悪いのだと勘違いしたのだろう。心配して寄って来た試験監督員に、いえ、と首を振ったが、口を開いた拍子に、へへ、と意味なく頬が緩んでしまい、試験監督員をたじろがせた。
電車で来たのだろう、急いだ方がいい、と促され、ようやく、受検生はもうみんな退出してしまって自分が最後だいうことに気づいて、氷河は、慌てて、スマートフォンをデイパックにしまい込んだ。
折り返しをその場でかけることはしなかった。
自身も早く帰りたそうに試験監督員が氷河の退出を待っていたし、何より、せっかくのカミュとの電話を、電車の時間を気にしながらの慌ただしい状況で済ませてしまうのは惜しかった。
どんな用件にしろ、会話の流れで、試験の首尾は必ず問われるだろう。
実は自己採点ができそうになくて、などと言えるわけがない。家に帰って、落ち着いてもう一度問題用紙をよく見て、カミュに報告できるだけ確かな記憶を呼び起こす必要がある。
どう書いたか思い出せないならもう一度解いてみればいい。
よし、と、落ち込んでいたのが嘘のような軽い足取りとなって、氷河は教室を後にした。
雨足は、朝よりさらに酷くなっているようだった。
建物から外に出た途端に雨粒がバラバラと顔を打ち、その痛みに、わ、と思わず氷河は両腕で顔を覆った。前線の影響か強い風まで吹いていて、油断すると、そこまで華奢ではないはずの氷河の身体が煽られてふらふらと揺れるほどだ。
雨傘を広げることは断念して、氷河は、目に雨粒が直接叩きつけられないよう腕で顔を覆って、激しい雨の中を正門まで一気に駆け抜けた。
みんな大急ぎで駅に向かったのか、構内には人っ子一人いなくなっていて、正門は完全に閉じ、その脇の警備ボックスすら今は無人だ。
唯一開いていた正門横の通用口から外へ出て、駅に向かって右折した瞬間、だがしかし、氷河の目の前に突然に人影が現れた。
早く帰宅したい一心で、前方の安全確認もせずに全速力で曲がったのだ。驚いて、慌てて身体を翻して激突だけはなんとか回避したものの、おかげで全速力の勢いのまま、氷河は水たまりに盛大に尻もちをついた。
「すみません!」
転んで痛い思いをしたのは氷河だが、前をよく見ていなかった非もまた氷河にある。
咄嗟に詫びつつ相手に怪我はなかったかと慌てて見上げれば───
今朝見た顔がそこにはあった。
「えらく遅かったな。おかげでずぶ濡れだ」
濡れた髪の合間から、白目がちの瞳を氷河に向けて、男はそう言った。
ドキドキと甘ったるい音を響かせていた氷河の心臓が再び冷水を浴びせられたように一気に凍り付く。
「……待ってくれと頼んだ覚えはない」
自分の声と思えないほど強張った音は、雨にかき消されて男に届いたかどうかわからない。
まさか今朝からずっとここに立っていたわけではなかろうが。
誰だって一刻も早く帰宅したいに違いない大雨の中を、正体も目的もわからぬ男に待ち伏せされていては控えめに言って気持ちのよいものではない。
「立て。いつまで座り込んでいる」
男に命令される筋合いはなかったが、だからと言って反抗してずっと座り込んでいるのもおかしな話だ。
氷河は立ち上がり、男の存在は無視して、駅へ向かって歩き始めた。
おいおい、待てよ、と、男が笑って氷河の腕を取る。触るな!と振りほどこうとしたが、男の力は存外に強く、そのままギリッと二の腕を締め上げられた。
「そっちに行っても無駄だ。電車はもう止まる。駅は乗り切れないヤツで溢れかえっている。歩いて帰れる距離じゃないだろう?迎えに来てやったんだ、ありがたく思え」
勝手な理屈で何を言っている、という怒りより、この男は俺の自宅まで知っているのだろうか、という不安の方が勝った。
動揺が顔に現れたか、男が、ニヤ、と唇の端を上げる。
乗れよ、と顎で指し示す先を見れば、ハザードをつけた銀色の高級外国車が路肩に停まっているのが目に入った。
この流れで、やあこれは助かった、などと素直に乗り込むバカがどこにいるだろう。
「断る」
当然そう言った氷河に、男は、「お前に選択権はない」と言って腕を掴んだまま引きずるように歩き出した。
「……っ、や、めろ…、お前は何者だ、何のつもり、だっ」
数歩の距離。
揉み合いになり、一瞬で、というわけにはいかなかったが、男は氷河を抱きかかえるようにして、ずるずると車の前まで引きずってしまう。多少喧嘩の心得があっても、体格で劣る相手に抱えられてしまうと、抵抗が難しい。
普段ならこんな不穏な光景、すぐに通報されてしまうだろうが、あいにくこの荒天で人通りはまばらだ。
抵抗も虚しく、あっという間に男は氷河を後部座席に無理矢理押し込めてしまった。
慌てて体勢を立て直して扉に飛びつき、男が運転席に回る隙に開こうとしたのだが、間一髪のところで男にロックをかけられてしまう。
「くっ」
窓を叩いてみたが、人間の拳で簡単に割れるような代物ではない。鈍い痛みが走っただけの拳を抱えて、ぐう、と氷河は呻いた。
男がアクセルを踏んだのか、銀色の車体が滑るような動きでぬるりと車道へと動き出した。
まずい、走り出されては逃げようがないと、青ざめて、何度も扉の把手をガチャガチャさせてみたがロックが外れる気配はない。
畜生、下ろせ、と喚こうと息を吸ったその瞬間───
ふ、と、何かの香りが鼻腔をくすぐった。
その正体を見極めるより早く、ぶわ、と全身が意図なく総毛だつ。
「……っ…?」
湿度の高い、密閉された車内。
充満して香っているのは、氷河を絡めとるかのように濃密にまとわる──パルファン。
この香り、は。
戦慄いて、握りしめていた扉の把手から手を放し、氷河はおそるおそる振り返る。
広い車内の後部座席。
氷河と反対側の端で鷹揚に背もたれに身体を預けてこちらを見返す鷲鼻の男───
「しばらくであったな」
「貴様は……ッ、」
氷河の脳髄よりも早く正体を察して戦慄していた身体はまだ、この男にされた仕打ちを忘れていない。
取引先だと信じていたから、非礼を働いてはならじとされるがままとなってしまった屈辱の記憶は、今なお、ふとした拍子に蘇って氷河の心を重くする。
これ以上距離は取れない、というほど背をドアに押しつけるように後退り、氷河は、男を、それでも精いっぱいの虚勢とともに睨みつけた。
あの時とは違い、今は、氷河にとって、男は、社会人が通常取るべき礼節すら必要ない、最低の輩、ただそれだけだ。
「アースガルドが、一体、俺に何の用だッ」
威勢はよいが声が震えているぞ、と、男は(確かドルバルといった)は喉で笑った。
逃げ場もなく、助けも望めない状況で、虚勢でも声が出せただけ奇跡だ。それほど、まだ、男への恐怖も嫌悪感も強い。
車を運転している男はアースガルドの社員か、それとも私的に雇われた用心棒か。
会社ぐるみでこんな誘拐紛いの犯罪行為をするとは思えないが、白昼堂々、自社内で氷河に不埒を働こうとした男のすることだ、そうでないとどうして言えよう。
「そう怯えるでない。大人しくしておれば傷つけはせぬ。まあ、暴れるようなら、そこのロキ(と、ドルバルは運転している男へ視線をやった)が仕置きはするだろうがな。余は紳士だが、此奴はどうも荒っぽくてのう」
猛禽を思わせる目が氷河を見据えたまま細められる。男が足を組み替えた拍子に、じわりと距離を縮められ、氷河に絡みつくパルファンがぐっと濃くなった。
「それで……試験の首尾はどうであった」
ドルバルの指が愛玩動物を撫でるように氷河の頬を撫で、その不快さに氷河は、やめろ、と顔を背けた。
「貴様には関係がない」
「ある、と言ったら?」
なんだって、と、氷河は背けた顔を思わずドルバルの方へと戻した。それが狙いだったか、男の目がますます満足げに眇められる。
「聖域建築からはいくらもらっている?」
どうせあの小娘は使い走りごときにはたいした額を払っておらぬのだろう、と言って、ドルバルは鼻で笑った。
「倍額、払おう」
ばいがく、と、意味を咀嚼しかねて氷河は瞳を瞬かせる。
「一級の資格があれば、さらにその倍だ」
余の元へ来るなら、な、と白目がちの瞳がきろりとこちらへ向いた。
引き抜きの交渉をされているのだと理解するのに時間がかかったのは、それが、ドルバルにとって何の利をもたらすか全くわからなかったからだ。
カミュのような優秀な技師ならわかる。実際に、いくら金を積んでもいいから、と多方面から乞われているのを断り続けているのだと噂で聞いたことがある。
だが、氷河は実績もなければ、特別な技術や資格を持っているわけでもない。学生アルバイトと大差ない程度の働きの人間をわざわざ破格の給料で迎える利点はない。
氷河が考え込んだとしても無理はなかった。
「聖域建築の設計コスト情報を手土産に来るなら十倍でもよかろう」
どんどんとつり上がっていく買収額に、待ってくれ、と氷河は男を睨みつけた。
「まさかと思うが、俺をアースガルドで雇用したいという話か」
「そう申しておる」
「なぜ俺だ」
「おかしなことを聞く。優秀な技術者の引き抜きなど珍しいことではないだろう」
そう言いながら唇を舐めた男の薄ら笑いに、下卑な下心がちらとのぞく。
「金額に不満か?特別に上乗せしてやってもよいぞ。其方がどれだけ余を愉しませてくれるかによるが」
ドルバルの熱を持った手のひらが氷河の大腿の上へするりと置かれ、氷河はハッと息を飲んだ。
ロキという男が、まるで値踏みするかのように氷河の身体をじろじろ眺めていた理由が今わかって、あまりの屈辱と嫌悪で氷河の身体が激しく震えた。
「いくら金を積まれたって俺はアースガルドに行くつもりはない。今すぐここから下ろしてくれ」
幹線道が大雨で行き止まりになっていたのか、はたまた、人目を避けて大通りを外したのか、車は、今は、雑居ビルの並ぶ狭い路地を低速で流している。現在地がどこなのかわからない上に、外は激しく雨が降り続けているが、少なくとも、この車内より外の方がずっと快適で安全だ。
「断る、と……?」
ドルバルは意外そうに眼を見開いているが、氷河の方こそ驚きだ。下卑た目的が透けて見える話を、金額次第で受けると思われていたなら心外だ。
「威勢の良いのは結構だが、よく考えて口をきいた方が其方のためであるぞ。後悔することになる」
「絶対に後悔などしない。この手を離せ。貴様の下で働くなど真っ平ごめんだ」
「よかろう。交渉は決裂、というわけだ。力づくで従わせるわけにもゆかぬ」
物分かりよく退いたかのような台詞を吐いたくせに、ドルバルは氷河の大腿に置いた手を離さないばかりか、車を止めようともしない。
「……下ろしてくれ」
「下ろしてやるとも」
口先ではそう言うくせに、ドルバルはじっと氷河を見下ろしている。
恐怖に駆られて「今すぐだ!今すぐ、俺を下ろさないと、」と叫び声をあげた瞬間、ドルバルの皺ばった大きな手のひらが氷河の口を覆った。
うぐ、むうう、とうめき声をあげる氷河の身体をシートへ引き倒し、大柄な体躯が氷河の上へ押さえつけるように圧し掛かる。
やめろ、俺に触るな、と、氷河は喉奥で叫び声をあげ、四肢をバタバタと振り回した。
だが、ドルバルは氷河を押さえつけただけだ。
代わりに、ねっとりと不快な声が、耳元で低く囁く。
「すぐに下ろしてやると申したであろう。……だが、その前に其方にはひとつ教えておいてやらねばならぬ」
一体なんなんだ、と顔を顰めた氷河に、男は、歪んだ笑いを落とす。
「我がアースガルドは大きな契約をしたところでな。……メビウス、と言えば其方も覚えがあるかな」
驚いて、驚きすぎて氷河の動きが止まった。
やれやれ、手を焼かせてくれる白鳥よ、こうまでせねば話も聞かぬ、と、ドルバルが身を起こして、乱れた衣服を整えるように襟へ手をやった。
メビウスって、あの、メビウスか……?
ということは、『熱心に売り込んできた業者がいて』という、あれは───
「貴様だったのか、契約を横取りしたのは……!」
「聞き捨てならんな。まるで余をけちな泥棒のように言うのはやめてもらおう。アースガルドはクライアントが納得する見積書を提出しただけだ。正当なビジネスなのだよ、これは」
「だが、聖域建築が設計に取り掛かっていたのは知っていたはずだ!」
「知っていたとも。正式な契約を締結していなかったことまで含めて、な。何か問題でも?」
「……っ、卑怯だ!」
「そう褒められては面映ゆい。まあ、何十時間もかけた設計が水の泡になるのは、余も心が痛まなかったわけではない。ここしばらく終電にも間に合わぬほど力を入れていたのにのう」
よくもいけしゃあしゃあと、と、氷河は拳を握る。
ドルバルはそんな氷河の様子を横目に、ひどく愉しげに肩を震わせた。
「徒労を嘲笑ったように聞こえたなら失礼した。余はそんなつまらぬことを喜ぶような悪趣味さは持ち合わせておらぬ。それほど手をかけた『作品』を無駄にするのは技術者としては惜しかろう」
つまり、と、ドルバルはもったいぶるようにそこでしばし言葉を切った。
「……其方がアースガルドに来るなら無駄にせずとも済む」
なぜ無駄にならないのか、一瞬で意味が飲み込めなかったのは、氷河の中にまるでその発想がなかったせいだ。
これで合点しただろうと言わんばかりの態度のドルバルを怪訝に見つめ、まさか、と氷河は信じられぬ思いでそれを口にした。
「あの設計の続きはアースガルドで描けと……!?」
それはつまり盗用だ。道義的に許されることではない。
否、その前に技術的に困難だ。
元となる製図システムのデータがなければ同じものを再現など……と考えて、氷河はハッとして言葉を飲み込んだ。
『データがあればそのぶん値引きしてくれるらしいんだよねー』……?
製図システムの正式名称も知らなかった、あの、完全素人のメビウスの総務課長にそう言わしめた人物は、つまり。
「貴様が入れ知恵をしたんだな!聖域建築の仕事にただで乗っかるつもりで!だから破格の見積額が提示できたんだ!なんて汚い…ッ」
ドルバルがくくっと引き攣れたような嗤いを発する。
「小娘同様に青いのう。ビジネスとはこういうものよ。自らデータを手放したのでは法的権利も訴えられまいのう」
悪どい手口を使う男だとは噂に聞いていたが、目の当たりにした今、怒りで腑が煮えそうだ。
「其方もいつまでも新人ではなかろう。少し大人になるがいい。あの傲慢な上司の元では其方はいつまでも使い走りの犬から抜け出せまい。我がアースガルドへ来れば金がもらえて、名も立てられる、こんないい話はないと思うが」
「誰が……!」
怒りのあまりにうまく言葉が出てこない。
性質の悪いクライアントの要望ですら真摯に応えるカミュの仕事をこんな形で利用していいわけがない。己がこんな道義に外れた話に乗ると思われていることが最大の屈辱だ。
「プライドでは腹は膨れぬ。其方も霞を食って生きているわけではないだろう。余の前では綺麗事の虚飾など必要ない。正直に言うてみよ。悪いようにはせぬ」
「誰もが貴様と同じと思うな!」
いいや違うな、人間など一皮剥けば皆同じ、どろどろと汚い欲に塗れているものよ、と嗤って、ドルバルは氷河の腰を引き寄せて再び座席へと押し倒した。
「……ッ、や、め……っ」
「迷った時点で其方はもう聖域建築を裏切ったも同じ、今さら遅いわ」
違う、迷ってなんかいない、と、四肢を突っ張るも、上背のある男にあれよあれよという間に圧し掛かられて、氷河は逃げ場を失った。
たいして鍛えているようにも見えないのに、男の力は強く、シートに押し付けられた四肢がびくともしない。
「己の中の欲から目を背けて清廉なふり、あまりにも愚か」
憐れなものよ、と、目を細めて、男は氷河のシャツの裾を割って氷河の肌へと直接触れた。
何が起こっているかよく理解していなかったがために好き勝手させた前回とはわけが違う。
このまま男の好きにさせては俺はカミュの元に戻れなくなる、と、理屈ではなく本能がそう告げていて、氷河は激しく抵抗した。
さすがに易々と意を遂げることはできないと悟ったか、ドルバルの眉間に深い皺が寄り、愚かな抵抗を、と、今日初めて余裕の削がれた声が「ロキ」と運転している男を呼んだ。
お待ちください、今薬を打ちます、とロキが言った次の瞬間だ。
あっと息をのむ音がして、突然に、キキーッという高いブレーキ音と共に、車が急停止した。
氷河と、氷河を蹂躙していた男の身体は、ドン、と一瞬空に浮いて、そして再び元の位置に落ちた。
「ド、ドルバル様!」
何事だ、ロキ、と不機嫌に顔を歪めた男が身を起こし、運転席越しに前方を見た。
己を拘束していた体躯が消えたことで自由を得て、氷河も身を起こして後退り、何が起こったのかと同じ方向を見やった。
雨の流れるフロントガラスの向こうの景色はまるで水中のように不鮮明で、だが、灰色の景色の中に、一台の車が進路妨害するかのように氷河の乗った車の鼻先すれすれに斜めに停まっているのが見えた。
水のカーテンの向こうに、運転席から下りてこちらに向かってくる塊がゆらめいている。
ロキがぐっとハンドルを握りしめ、「奴です。……始末、しますか?」と振り返った。
「……また小娘の犬か。どいつもこいつも本当に煩い」
ここでは面倒なことになる、と、男は忌々しげな視線を氷河に寄越した。
それでもまだ、ロキは、今なら目撃者はいませんよ、とハンドルを握っていたが、その人影がこちらの運転席まで近づいてきたのを機に、ち、とひとつ舌打ちをして、ドアを開いて車外へと出た。
「おいおい、危ないなあ、強引な割り込みなんかして、事故になったらどうしてくれるの、オニイサン?」
「下手な演技は不要だ。お前は確かロキと言ったな。部下を返してもらおう」
カミュの声だ、と、氷河は息を飲んだ。
ざあざあという雨音と、うねる風の音に消え消えとなっていたが、確かにカミュだ。
あまりの驚きに声を失って、助けを求めることも忘れて氷河はただ何度も瞬きをした。
「へえ。大昔に入札会場で一度会っただけの人間をよく覚えているもんだな」
「コソコソ他社の手元を覗き込んで札を入れ替える蝙蝠のような男がいると印象深かったものでな」
「はっ、その程度、どこもやってるよ。お前の無茶苦茶な運転に比べればかわいいもんだ。俺の反応があと少しでも遅れていたら下手すりゃみんな死んでいた。今すぐ訴えてもいいんだぜ」
「この雨で前方がよく見えていなかったことは詫びを言おう。誘拐罪とどちらが重罪か天秤にかけてもいいなら通報すればいい」
「おいおい、それこそ誤解だぜ。俺たちはただ親切で、」
「これ以上無駄な会話はするつもりはない。……氷河」
胡乱な言い訳をピシャリと遮ったカミュは、少しだけ柔らかな声となってそう呼ぶや否や、ロキの身体を押しのけるようにして運転席のドアを開け、後部座席のロックボタンを解除した。
息を呑んでただ成り行きを見守っていた氷河は、ロックが解除された音にハッとして、慌てて扉へ飛びついた。
氷河が扉を開くのと同時に、外からカミュも開いたのだろう。
存外に軽い抵抗で開いた後部座席のドアに、思わずつんのめってよろめいた身体を受け止めたのは、確かにカミュ、その人だった。
カミュは、氷河の腕を掴んで完全に車外へ引っ張り出しておいて、それから腰をかがめて車の中を覗き込んだ。
「一度ならず二度までも部下が世話になった。相応の礼をさせていただきたい」
慇懃な言葉とは裏腹に、鋭く、刺すような響きのカミュの声に怯むことなく、ドルバルは、見せつけでもするように、ゆっくりと乱れていたシャツをなおした。
「礼などいらぬ」
もうもらったからな、などと、ドルバルが意味ありげに氷河を見る。
違う、俺は何も、と反論しかけた氷河を、もうドルバルの視界にすら入らせまいとするかのように、カミュが背に隠すように割って入る。
「『氷の男』にもそんな顔ができるとはのう」
其方にその顔をさせただけでも気分がよいわ、と声をたててドルバルは笑っているが、背に庇われている氷河には、今、カミュがどんな顔をしているのかはわからない。
ロキが、ふん、と鼻を鳴らして、カミュが手をかけていた後部座席のドアを閉め、同時に、カミュがくるりと彼らに背を向けて「……行こう」と氷河の腕を引く。チラと見上げたその表情は、険しく強張ってはいるが、いつものカミュだった。
カミュに手を引かれて向かった青緑色のプジョーの前で、氷河は一度振り返ったが、銀色の車は、雨の夕闇へと溶け込むように消えていくところだった。