寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味

アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ

◆ep3 P.S. 宣恋布告です ⑤◆


 氷河、と低く鼓膜を震わせるカミュの声は聞いたことのないような艶を帯びていた。
 いつも少し冷たい指先に比してカミュの肌は熱くて、何も纏わぬ肌どうしが触れ合うところが火傷したみたいにじんじんしている。
 ちゅ、と濡れた音をさせて、カミュの唇が氷河の喉へ触れる。
「あの、俺、」
 どうした、と動きを止めて氷河を見たカミュに慌てて氷河は首を振って、いえ、夢みたいでと言いながらおずおずとカミュの背へ腕を回す。
「わたしにこうして触れて欲しかった?」
 吐息交じりに耳元で囁く声がぞくぞくするほど身体を疼かせて、氷河の中心にはぎゅうっと熱い血潮が集まり、そうなると恥ずかしさよりも、込み上げた淫熱が勝って、氷河はこくこくと頷く。
 かわいいことを、と、氷河の耳朶を唇に含んだカミュの声が笑いに揺れ、その微かな刺激にすら、じん、と腰が疼き、氷河は、ああ、と身を震わせる。
「わたしもお前に触れたいと思っていた。出会ったときからずっと……」
 うれしいです、と熱に浮かされたように答えながら、ちらと、出会ったときから……?と脳裏を掠めた違和感に氷河は首を傾げる。
 出会ったとき……出会ったとき……あれか、辞令を持っておそるおそる「建築設計部」と書かれた扉を開き、アイザックの顔を見つけて思わず歓声を上げ、ちょうど気難しい顧客相手に打ち合わせをしていたカミュからものすごく睨みつけられた、あれがきっかけで俺を……?????

 なんか変だぞ、と気づいてしまうと、たいていの夢は覚めてしまうものだ。
 すっかりとふわふわ甘く蕩け切っていた氷河の脳髄も御多分に漏れず、一気に覚醒に傾いた。
 氷河を包み込むように抱いていたカミュの身体は途端におぼろげに消えゆき、眠ってからこれまでに見た夢の景色が断片的に脳裏を去来して、混沌だけが意識に残る。

 眩しく瞳に射す光を避けるように片腕をかざしながら氷河はゆっくりと目を開けた。

 ………?

 パチパチと何度も瞬きを繰り返し、氷河は己のおかれている状況を認識しようと試みる。
 目に映るは見慣れない天井だ。
 何度開いて閉じてを繰り返してみても、知らない天井だ、ということだけしかわからない

 あー……と、どこ、だっけ、ここ。
 今日、会社はどうしたんだっけ。
 深く寝入った日などは、翌朝、曜日がわからなくなることはよくあるが、自分がどこにいるのかまでわからなくなることはそう多くない。
 えっ、マジでここはどこだ、と、少々焦りながら、氷河は片手を額にやった。
 自宅で目が覚めたのなら、ひえ、とんでもない夢を見た、と赤くなって小さくなるところだが、目が覚めてみれば全く見知らぬ部屋にいたのでは、赤くなるどころか、青ざめるしかない。
 落ち着け。
 えーと。まず、そう、そうだ、違う、今日は会社じゃない。
 昨日は土曜で、だから、仕事には行かなくて、それで───カミュと、会った。
 飯を食って帰ろうとして、それから……それから??
 家にたどり着いた記憶が全くない。
「……?」
 氷河はベッドの上へおそるおそる起き上がってあたりを見回す。
 白い壁紙に落ち着いたブラウンの絨毯。クローゼットらしき扉と照明のほかはシンプルにベッドだけ。装飾の少ない部屋の窓からは、朝の光がカーテン越しに漏れている。
 調度類のセンスはいいが、物が少なすぎて、そして、何もかもがシンプル過ぎて生活感があまりない。
 乗り過ごすか終電を逃すかしてビジネスホテルあたりに泊まったのだろうか。いや、ビジネスホテルと呼ぶには、醸す雰囲気がやけに高級だ。まさかと思うが酔って気が大きくなって、駅前のあのお高そうなシティホテルにチェックインしてしまったのではあるまいな。俺、ここの支払い大丈夫なのか……。
 何がどうなっているのか確かめようと恐る恐るベッドから下りようとしたとき、カチャ、と、ドアレバーが下がる音がした。
 えっ、不法侵入!?と驚愕して顔を跳ね上げて、そして扉から顔をのぞかせた人物と目が合うと、氷河はさらに驚いて目を見開いた。
「目が覚めていたのか」
「……ッ、カミュ!?えっ、じゃあ、あの、さっきの、え、ここ、カ、カミュも一緒に泊まって!?」
 驚いて、驚きすぎて猛獣に出くわしでもしたかのように後ろへ飛び退った氷河は、そのまま壁に後頭部を打ち付け、あまりの痛みにもんどりうってベッドから床へと転がり落ちた。
 驚いたように目をみはり、そして次には笑いを噛み殺したような表情となったカミュが、「ああ、一緒に泊まった。なぜなら、ここはわたしの家だからな」と言って部屋へと入って来る。
 わ、わたしの家!?それはつまり、カミュの家という意味か!?
 家というのはあれか、その、寝たり起きたり、着替えたり、あれとか、それとか、そういう、そういう!?
 なんで!?
 混乱の極みで目を白黒させている氷河の前でカミュは膝をついた。
「具合は悪くないか?」
「ぐ、ぐあい???」
 具合ってどこの?
 生々しく耳元に残る雄の熱を孕んだ吐息と、触れ合う肌の感触。つい今しがたまではリアルに感じていたそれは、覚めてみると現実感はなく、夢以外の何物でもなかったと既に確信していたのだが……
 激しく狼狽えながら、氷河は下を見下ろして、己が、昨日家を出るときに着てきたものと違うTシャツを纏っていることに気づいた。
 えっと息を飲んだ氷河の視線を追って、「ああ、わたしのだ。お前の服は濡れてしまったからな」とカミュが言い、手にぶら下げていた白いビニールの袋を氷河の目の前に掲げる。
「コンビニで間に合わせを買ってきたところだ。サイズが合うかは知らないが。シャワーでも浴びて、すこしすっきりするといい」
 ぬ、濡れた!?シャワーですっきり!?!?!?とさらに混乱しながら、手渡された包みの中身を確認し、それが、真新しい靴下とパンツであることを発見して、氷河は声にならない悲鳴を上げてひっくり返ったのだった。


 自分が突拍子もないすごく恥ずかしい勘違いをしていたことに気づいたのは、状況をうまく飲み込めないままおそるおそる借りたシャワールームの脱衣所で、だ。
 夏物のパンツに通したベルトはどう考えても昨日家を出た時のままで、上以外は全く脱いだ形跡すらなかったからだ。
 当たり前だ。恋人でもないのにそんなことになるわけがない。カミュはそんなひとじゃない。
 俺ってサイテーだな。
 何でよりによってあんな夢を見てしまったのか。
 自分で制御できない夢の中とはいえ、何も、カミュの部屋にいるときに見なくてもいいじゃないか。(氷河を包んでいた借り物の服や寝具が纏っていたカミュのにおいに誘発されたからこそ、なのだろうが、だからって、あんな……カミュを後ろめたい夢に引き込んでしまったことよりも、カミュが己をずっと好いていたかのようなご都合主義なめでたい脳内がすごく恥ずかしい)
 水洗レバーを、温ではなく、冷の方向にひねって、冷たい水に無造作に打たれながら、氷河は、俺のバカ、と深い自己嫌悪に陥って、両手で顔を覆った。
 いや、問題は、変な夢を見てしまったことではない。
 記憶がさっぱり飛んでいるが、酔っぱらってカミュに世話を焼かせてしまったなんて。
 最悪だ。
 ご都合主義の夢は論外だとしても、だ。なんとなく、なんとなく、だが、プライベートタイムを共有して、少しだけ距離が近づいたような、そんな雰囲気を薄ら感じなくもなかったのに、こんな迷惑をかけてはきっと幻滅された。
 たいして飲んだ記憶はない。
 というか、飲む量を気にしなければならないほど弱くないのに、本当に、どうして昨日に限って酔いが回ってしまったのだろう。
 カミュの表情がいつも見ているのとはすごく違っていて、舞い上がってドキドキしたことは覚えている。
 だが───そうだ、確か、ミロの話になって、そうしたらカミュが少し怒ったみたいな顔をして、そのあと急にわけがわからなく……
 ああ、本当になんでよりによってこんな失敗をしてしまったんだろう、と氷河はタイルの壁に頭をこつんとぶつけた。
 時間を巻き戻して全てをなかったことにしたい。
 どこまで巻き戻せばいいのかわからない上に、もう一回やり直させてもらったところで、自分は同じ失敗をしてしまいそうな気もするところが落ち込むが。
 俺も一緒に流れていけないかな、と氷河は、排水口に流れていく水を恨めし気に見つめて唇を噛むのだった。



「落ち着いたか?」
 残念ながら排水口から逃げ出すことがかなわなかった氷河は、仕方なくシャワーを浴び終えた後は着替えてリビングへ出て来るしかなかった。
 氷河の服はまだ乾いていなかったらしく、再び、カミュのTシャツを借りたわけだが、だぶだぶと余る身ごろに、カミュは細身に見えているがやっぱり自分よりずいぶん大きいのだな、とドキドキしてしまい、だが、呑気にドキドキしている場合じゃないのに、俺ってどこまでバカなのかな、とまた少々落ち込んだ。
 寝室同様にあまり生活感のないリビングに足を踏み入れ、そこに、カミュがソファで寝たらしい痕跡を発見してこれ以上はないほど項垂れた氷河は、すみません、と小さくなってリビングの隅に佇んだ。
「そんなに落ち込まなくていい。飲ませすぎたわたしが悪かった」
 どう解釈したって『カミュが飲ませた』というにはほど遠い飲み方をした記憶はうっすらある。
 居たたまれない。
 氷河のあまりのしょげ返りぶりに同情したのか、キッチンに立っていたカミュが少し表情を緩めて、おいで、と言った。
 見れば、ダイニングテーブルに2人分の朝食が乗っている。
 ミネストローネにクロックムッシュ、野菜たっぷりのサラダ。
「あり合わせしかないが、食べられそうか?」
 エプロンを外しながらキッチンから出てきたカミュに促されてダイニングチェアに腰かけながら、氷河はこっくりと頷いた。
 一週間くらい断食して反省したって足らないほどだが、緩く髪を結わえてエプロンをかけていたカミュの姿が、申し訳なさと居たたまれなさがふっとぶほどの破壊力で氷河の心臓を鷲掴みにし、いいえ、と抗うことなどできなかったのである。
 神妙に反省しておきながら、ぽーっと上気する、という、なんとも奇妙な状況に陥って、氷河は、いただきます、と手を合わせるのだった。

「……俺、昨日、何をやらかしましたか」
 おずおずと、そう切り出したのは、いくらか腹に物を放り込んで(と、言って差し支えない勢いで氷河は片端から平らげた。カミュが作ったから、というより、単純に、死ぬほど腹が減っていたことをフォークを持った瞬間に自覚して、物も言わずに氷河はがっついたのだ)、ある程度腹が満てて、少し思考がまともに巡るようになり、向かいに座るカミュが酷く言葉少なだということに気づいたからだ。
 微かにではあるが、眉間に皺まで寄っていて、表情も少し固い。
 とはいえ、それはカミュの常態だ。会社でのカミュは常に眉間を寄せて難しい顔をしている。
 それに比べたら、今目の前の表情は幾分柔らかでやさしくすらあるが───はっきりと昨日とは違う、どこかよそよそしい表情に、腑がきゅっと縮み上がる心地がする。
 カミュは落ち込まなくていい、と言ってくれたが、社交辞令を真に受けては駄目なのだ、きっと。客観的に考えてやはり迷惑でなかったはずはない。
 通り一遍の謝罪だけではなく、クリーニングが必要なものがあれば引き受けなければならなかったし、立て替えてもらったものがあれば精算しなければならない、ということに氷河はようやく思い至ったのだ。
 だが、カミュは、氷河の言葉に我に返ったように顔を上げて、いや、と首を振っただけだ。
「お前はただ、少し酔って、途中で寝てしまっただけだ」
「カミュが運んでくれたのですか」
「ほとんどはタクシーが運んだ。少しはお前も歩いたしな」
「………あの、俺、タクシー代払います。あと、昨日の食事代とか、着替えも……」
「必要ない。上司の責任下で起こったことだ。気にしなくていい」
 ()()()責任下───?
 なにかが引っかかった。
 何が引っかかったのかはわからない。
 酒精があやふやにさせてしまった記憶のどこかで、似たような台詞を聞いたようなそうではないような。
 よく思い出せないが、そう言われてしまっては、部下である氷河が言えることは何もない。
 仕事をしている時のような少し張った空気が、似つかわしくなく食卓に下りていて、はい、と言った切氷河は居心地悪く俯く。
 しばし同様に沈黙していたカミュが、やがて、んん、とひとつ咳払いをした。
「……予定があるならそのままわたしの服を着て帰ってくれてもいいが、何もないなら乾くまでまた勉強でもしていくか?」
 柔らかな声の提案に、昨日なら確実に、舞い上がって、一も二もなく頷いているところだが、言葉どおりに受け取ってもいいのかどうか、今はわからなくなっていた。


**


 屋上に上るとミロがいた。

 週明け、月曜日のランチタイムの出来事である。

 結局、寝具に着替えに朝食に、と迷惑をかけっぱなしのまま、なお居座るほどの図々しさはさすがに持てず、まだ半端にしか乾いていなかったシャツを、大丈夫ですもうこれで帰りますと強引に纏って、氷河は逃げるようにカミュの家を後にしたのだ。
 受検対策をするというのが目的だったことを思えば、氷河にとっては確実に有意義な週末だったことは確かで、カミュは帰り際に親切に参考書まで貸してくれて、そしてそれは大いに役立ちそうではあるのだが、できることなら迷惑をかけてしまう前の金曜に戻りたかった。
 カミュをとても好きなのだと自覚して、ようやくスタートラインに立ったと思えば、いきなり逆走してしまった、みたいな、ただただ、やってしまった感だけが残る最悪の週の始まりである。
 カミュがほとんど休めていないのを知っていたのに、勉強を見てもらおうとしたことがそもそもいけなかったのだろうか。
 少しでも一緒にいたい一心で食事までついていったことが間違いだったのだろうか。
 考えても考えても答えはない。勉強しなければ、と借りた参考書を開いたものの、ぐるぐると思考が堂々巡りするばかりで、何も手につかず、帰宅後は食事もうまく喉を通らず、夜もろくに眠れなかった。
 胸が痛くて切なくて、すごく苦しい。誰かのことを眠れないほど考えたのは生まれて初めてだ。
 顔が腫れていないのが不思議なほど寝不足状態で出勤してみれば、氷河の落ち込みをよそに、カミュはまるで何もなかったかのような態度だった。
 あまりにいつも通りだったから、週末、俺は本当は家から一歩も出なかったのでは? 酔って前後不覚になって多大な迷惑をかけたりはしなかったのでは? と、現実逃避をしたくなったほどである。
 だがしかし、カミュから借りた参考図書の存在が、それが、空想や夢などではなくしっかり現実だったのだと物語っている。
 昼の休憩を告げるベルが鳴り、いくらか社内の空気がオフに傾いて、建築設計部のフロアでも週末どこへ行っていた、何をしていた、みたいな雑談が飛び交うようになると、なんだかカミュと同じ空間に居づらくなって、それで氷河は居場所を探して食堂で買った弁当を抱えて屋上へと上がってみた、というわけである。

 正直なところ、ミロは、今、カミュと並んで顔を合わせたくない人間の筆頭である。
 だから、扉を開いて豪奢な金の巻き毛が揺れる背中を発見した瞬間、しまった、と、開いたばかりの扉を閉めたくなったのだが、扉の開閉音に耳ざとく振り向いた彼とばっちり目が合ってしまった。
「……君か」
 話しかけられてしまっては踵も返しにくい。
 仕方なく、氷河は扉を閉め、フェンスに寄りかかって煙草をふかしている彼へと近寄る。
「こんなところで何を?」
 氷河の問いに、ミロは、見てわからないのか、と言いたげに苦笑して、煙草を挟んだ指を掲げてみせた。
 そういえば、最後まで抵抗していた営業部のフロアもつい先日、とうとう禁煙になったのだったか。
 屋上のそのスペースは社内に設けられた喫煙所のひとつではあるが、日よけも雨よけもなく、通り抜ける扉のダイヤルロックをいちいち外すのが面倒だから、と、かなり不人気で、利用する人がほとんどいない、と聞いている。証拠に、ミロと氷河以外の人影はまるでなく、設えられたベンチも灰皿もあまり使い込まれた形跡はない。
「君こそ珍しいな。喫煙者でもないのに、こんなところで昼飯か?」
 出入りの弁当業者のロゴマーク入りの包みを携えて立ち寄ったのだ、違う、というのもおかしな話で、まあ、そうだけど、と観念して、氷河は喫煙スペースのベンチへと歩み寄った。
 腰かけようとして、同じ白いビニール包みがもうひとつベンチの端に乗っていることに気づく。
 ミロもまた、ここで食事をとる予定だったのだ。
 わざわざ不人気な喫煙スペースで、ということは、彼も、もしかしたら一人になりたかったのか、ということに遅れて気づいて、氷河は下ろしかけた腰を慌てて伸ばして立ち上がる。
「あっ、俺、やっぱり、戻っ…」
 立ったり座ったり落ち着かない様子がおかしかったのだろう、ミロは笑って、いい、と首を振った。
「ちょうど君と話したいと思っていたところだ」
 どく、と氷河の心臓が跳ねる。
「は、話って、」
 動揺が全部態度に出るのをミロが笑って、まあ、落ち着いてまずは飯を食えばいい、と言った。
 そう言われても、弁当は惰性で買っただけで、こう胸がドキドキしていては物を食べたいような気分にはなれない。
 ベンチに座り直して弁当を抱えたまま、ミロの話とやらが始まるのを待ったが、彼はたった今、煙草に火をつけたばかりらしく、紫煙を肺の隅々に行きわたらせるのに忙しいようだった。
 仕方なく、氷河は、短くなっていく煙草の先から立ち上る紫煙が空に消えていくのを、ただ、黙って見つめる。
 フェンスに背を預け、時折指先に煙草を挟んで煙を吐きだしていたミロが、所在なさげに座り込む氷河をチラと見下ろした。
「……カミュの家に泊まったって?」
 弁当を開いていなくてよかった。開いていたら、このあまりに予想外の不意打ち攻撃に、多分、盛大にひっくり返していた。
「どうしてそれを……」
「カミュから聞いた」
「カミュ、が」
 昨日の今日で私的な時間の話がもう伝わっているのだ、ということに氷河は酷く衝撃を受けた。
 それは、つまり、私的に起こった出来事を全部報告し合うほど、二人が特別に親しい、ということではないのか。
「あ、あの、」
 動揺で声が震える。
 ふーっと長く白い息を吐きだしたミロが、煙草を消して吸い殻を灰皿へ落とすと、氷河の隣へと腰かけ、俯く氷河の頭をくしゃくしゃとかき回した。
「浮かれてはしゃいでいるなら嫌味のひとつでも言ってやろうかと思っていたが……なにをそんなに落ち込んでいる。おかげで虐めにくくて困る」
 落ち込んでいるのが傍目にもわかるのか、と知れて、氷河は狼狽えて視線を左右にやった。
 いつも通りにしていたつもりだが、カミュにもそう見えていたのだろうか。だとしたら、仕事でミスをして泣いて同情を引くのと大差ない情けなさだ。
 ぐずぐずと考え込んでいる場合じゃない、しっかりしろ、と、氷河は大きく息を吸うと腹にぐっと力を込め、そして、顔を上げた。
「あの、あなたは、つきあっているんですか、カミュと」
 考えたって答えはでない。駆け引きも苦手だ。
 だったらもう、腹を括って当たって砕けた方がいい。当たる相手がカミュ本人ではなく、ミロだというあたりがすごく情けないが、カミュより先にミロと向き合う機会が訪れたのだから仕方がない。
「今さらそれを聞いて何になる」
「今さら……?」
 今では遅いというのなら、いつ聞けばよかったというのか。二人の親しさにずっともやもやしていたのは確かだが、はっきりカミュを好きだと自覚したのはこの週末の出来事だ。むしろ、後先考えず性急に踏み込みすぎだろうかと気になるほどなのだが。
「そうだ、と言ったら君はどうするつもりだ?」
 氷河の心臓がどくどくと脈打つ。
 知りたい気持ちに抗えなかっただけで、自分がどうするつもりなのか具体的に考えていたわけではない。
「……つきあっているひとがいるなら、諦めないといけないんじゃないですか、普通なら」
 ふ、とミロが笑う。
「この期に及んで諦める?その程度の気持ちの坊やに負けた、とはね」
「負け……?何の話を……」
 ミロが否定しないということはもう決定的だ、と動揺している氷河には、噛み合わない会話の意味はわかっていない。
 だから、「泊まったのだろう?」と違和感を覚えて少々不審げな声音となったミロの問いに、「そうですよ。迷惑をかけてしまって落ち込んでいるってわかっているのに、何度も思い出させるなんてあなたは意地悪だ」と唇を噛んだ。
 長閑な日差しが降り注ぐ屋上にしんと静寂が下りる。
 項垂れている氷河を怪訝そうに見下ろしていたミロは、長い沈黙の末に、は、と呆れたような笑いをひとつ吐きだした。
「……今どきの中高生でももう少し手が早いぞ、カミュ……」
 ミロは、脱力したかのようにベンチの背へ身体を預ける。
「………………参ったな……手も出せないほど、なら、俺は分が悪い……」
 ミロは氷河の存在を忘れているのか、ひとりで唸って、片手で顔を覆って眉根を寄せている。
「ミロ、」
 何に頭を抱えているのか一向に説明をしてくれないミロにしびれを切らして、そう呼べば、ミロはきろりと氷河の方へ青い瞳を傾けた。
「君はカミュがすきなのだな」
 すっかり断定だ。失恋してなおそうだと恋敵相手に認めるのはかっこ悪いが、ここまで見透かされていては、否定しても無駄だ。仕方なく、はい、と氷河は頷いた。
「言っておくが、あいつはかなり難儀だぞ。君の手には余る」
「……わかっています、あなたが相手では俺なんか……」
 ミロのすごさはよく知っている。言葉ほど不真面目ではないことも、カミュが彼を一番信頼している理由も痛いほどわかる。
 今の自分には嫉妬することすらおこがましい。
 頭で考えて敵わないとわかっているのに、諦めるべきだと知っているのに、一度自覚した好きだという気持ちは簡単になくせない。ひどく惨めで苦しい。胸が切なくて泣きたい。泣きたいけど、ミロの前で泣くのは悔しい。
 心の裡ではたくさんの言葉が溢れていたが、何か一言でも口にすれば、涙腺が刺激されてしまいそうで、氷河は唇をきっと一文字に引き結ぶ。
 氷河のその様子を横目で見たミロは苦笑しながら、そういう意味ではないんだがな……と呟き、胸ポケットに手をやって、しまい込んでいた煙草の箱を取り出した。
 トントンと紙箱の底を叩いて一本取り出し唇に挟み、そして、ふと思いついたかのように紙箱を氷河に向かって差し出す。
「吸うか?」
「えっ……?」
 いや、俺は、と首を振ろうとして、だがしかし、直前で気が変わって氷河は、ミロの差し出した紙箱をじっと見つめた。
 ミロと同じ土俵に乗ろうと背伸びしてみたくなったのか、断ることで負けた気分になりたくなかったのか、自棄を起こしたわけではなさそうなのだが。
 どういうわけか吸い寄せられるように苦手な煙草の箱に手を伸ばし、もらいます、と言って一本取り出すと、間髪入れずミロが横から火を差し出した。
 唇に挟んでみたものの、慣れぬせいで震えてなかなか火を移さない筒先を笑うでなく、ミロは、熱いだろうに、大きな手のひらを、風よけ代わりにじっとかざしている。
「火のつく前に少し吸うんだ」と教えられて、ようやく煙が立ち上った紙筒をしっかりと唇に挟みなおして、氷河は深く息を吸い込んだ。
 途端に喉奥に刺すような刺激が巡って、げほげほと盛大に咳き込む。
「……ッ、よく、こんなのまずいもの……っ」
 吸い込み過ぎだ、バカ、と笑ったミロが、自分は器用にまるい紫煙を吐きだした。
「まずいが泣きたい気分のときにはよく効く」
 ドキリとした。
 立ち上がって、フェンスの際まで行って下を見下ろしながら紫煙を吐きだす背が、泣いてもいいぞ、と、言っている気がした。
 人好きのする性質で、いつも誰かしらに囲まれている彼が、一人でこんなところで紫煙を遊ばせていたということは、もしかしたら、彼も何かそういう気分だったのだろうか、と、ふと気づいて、氷河は黙って紙筒のフィルターを唇にやった。
 今度は慎重に吸い込んで、ゆっくりと吐きだす。
 二度目は咳き込むことはなかったが、やっぱりまずくて、氷河にはあまりにまずすぎて、じんわりと視界が揺れて滲んだ。

「ひとの気持ちというのは複雑で難儀なものだな」
 全部を吸うのは諦め、拳で眦をごしごし擦って早々に火を消してぼうっとしていた氷河に、自分はまだ煙をくゆらせていたミロがそう背で呟いた。
「え……?」
「ひとの気持ちをどうにかする権利など誰にもない。俺も、君も、誰を好きになろうと自由だ。もちろん、カミュもな」
 好きでいてもいい、諦める必要などないのだ、と、そう聞こえる。
 日頃の彼の自信たっぷりで尊大な態度を思えば、恋敵相手に余裕の煽りかと思ったが、短くなった煙草の火を消すために振り向いた彼の瞳には、氷河を煽るような色など微塵もなかった。それどころか、まるで、彼自身が、氷河と同じ痛みを抱えてでもいるかのように、瞳にはやさしげな光が宿っている。
 ミロは火を消した煙草を吸い殻入れへ放り込んで、氷河の頭をぽんぽんと撫でると、「坊やがどこまでやれるか楽しみだ」と言って去っていく。
「ミロ、あの、」
 なんだろう、いつもの彼らしくない。
 背が、引き留めてはいけない固い空気をまとっていて、自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったかのように落ち着かない。
 氷河は慌てて立ち上がって、それから、ベンチの端から弁当入りの袋を持ち上げた。
「ミロ!昼飯!!まだここに……」
 氷河の呼び声にミロは背中を向けたまま手を振った。
「俺はこれから外回りだ。坊やにやろう」
「こんなに食えません!!苦しい片思い中なので!!」
 ミロの固い空気をなんとかしたくて叫んだ、氷河の必死の自虐に、ミロは初めて半身振り返って、そして、誰が一度に二食も食えと言った、と腹を抱えて笑った。
 いつもの彼だ。だが、氷河の胸は、安堵するどころか、なぜか酷く締め付けられるのだった。

**

 ブルルル、という少し高めの電子音は外線電話ではなく、内線からの着信を告げる音だ。
 無意識に数を数え、3回鳴っても音が止まないのを不審に思ってカミュはそこで初めて顔を上げた。
 氷河がいない。
 チラと左腕の時計を見て、そうか、まだ昼休憩中か、とカミュは作業をしていた端末の前から立ち上がった。作業ブースには電話機がないのである。
 休憩時間はどう過ごそうと自由とはいえ、いつもなら食堂で昼を済ませた後はすぐに自席に戻ってくる氷河が、昼休憩が終わらんとするこんな時間まで戻っていないとは少々(否、「少々」は嘘だ。本当のところは大いに、だ)気になる。
 昨日は早々に自宅に帰ったはずだが、氷河はあまり寝ていないのか、目の下に大きな隈を作って出社していた。休憩時間にでも、勉強するのはいいが根を詰めすぎではないかと気づかってみるつもりだったのだが。いないのでは、話しかけることもできない。
 電話はまだしつこく鳴り響いている。外線の音なら、休憩中であろうとフロアの誰かが即座に取るのだが、カミュの席に一番近い内線電話が鳴っている、ということはそれはカミュあてだ。それがわかっているから誰もとるものはない。電話機のある席まで歩いて戻って、カミュは受話器を取り上げた。
「建築設計部だが」
 カミュとてそれなりに常識的な社会人だ。外線にはもう少し愛想よく出るのだが、同僚からだとわかりきっている電話、それも、昼休みにしつこく、となれば、絶対にろくな電話ではないことは明らかで、だから、氷河の姿が見えない小さな胸の騒めきと相まって、要件を聞く前からため息まじりの声となったのは致し方ないというものだろう。
「カミュか?ちょうどよかった」
 電話口から聞こえる声は工事監理部のシュラだ。
 カミュの仕事は設計で、工事が始まってしまえば、たいていの現場はカミュの手から離れる。設計書通りに工事が進んでいるかどうか確認をするのは工事監理部の仕事だからだ。
 その工事監理部から、昼休み返上で緊迫した声で電話があったとなれば、設計者が出て行かねばならぬトラブルが起こった、ということだ。
 ほらな、ろくな話ではない、と、それとわかるほど盛大なため息をついて、わたしだがどうした、と憮然とした声を出したにも関わらず、シュラは怯みもせずに、「実はな」と話し始めた。慣れたものである。
 彼の説明によれば、資材トラブルが起きたようだった。
 予定していた資材を調達できず、代替品で施工せざるをえなくなったが、完成強度に問題はないか仕様を確認してくれ、と言われれば、さすがに無下にはできない。
「わかった、これからすぐにそちらへ向かおう」
 現場でサンプルを取り寄せたが今日中に発注せねば納期が危うい、というシュラの求めに応じて、カミュは出かける準備を始めた。
 壁のホワイトボードに行き先と帰社予定時刻を書きながら、もうすぐ昼休みも終わるというのに戻っていない氷河の席がちらと気になったが、気になったからと言って氷河が戻るまで待っていられるカミュではない。仕事は仕事だ。
 スーツの上着だけ作業着に羽織りなおして、急いでオフィスを出ようと入り口へ向かうと、誰かが飛び込むように駆けこんできた。
 カミュより一回り小柄な人物が跳ね飛ばされるようによろめいたのを、カミュは、反射で手を伸ばして慌てて抱き留める。
「…っ、すみません、俺、」
 氷河だった。
 前を全く見ていなかったのだろう。頭を下げておいてから、初めて相手がカミュだと気づいたようで、あっ、と言って頬を紅潮させた。
「午後はお出かけ、ですか?」
 抱えた書類と作業着に視線をやって、そう問う氷河にカミュは、ああ、少しトラブルだ、と頷く。
「遅くならない予定だが、わたしが戻らなくても定時になればフロアを施錠して帰ってくれていい」
「わかりました。お気をつけて」
 氷河に見送られ、カミュは建築設計部を後にする。
 エレベーターホールまで歩いて、カミュはちらと振り返った。
 氷河の姿はもうない。
 だがしかし、抱き留めたときに彼から漂った、独特の苦い香りがまだカミュに濃く絡みついている。

 ──自分がよく知る男の煙草の残り香だ、これは。

 そのことに気づいた刹那、臓腑が焼け付くような痛みを覚え、カミュは、ぐ、と奥歯を噛みしめるのだった。