サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ④◆
「……だいじょーぶ、です、かえれます、から」
ろれつの怪しい言葉に、ぐにゃぐにゃと芯を失った身体、焦点の合わない瞳はとろりと今にも閉じそうだ。
これでは、そうか、ではまた会社でな、と電車に乗せてしまうわけにもいかない。
ひとりで赤くなったり青くなったりして、まるで乾きを潤す水のように次々に杯をあおっているが、いくら強くてもさすがに酔いが回るのではと気づいたときにはもう遅かった。
突然に立ち上がったことがとどめとなったのだろう。急激に全身を巡った酒精に耐え切れず、氷河は、立ったと同時にその場に崩れ落ちた。
もしかして酔っているな、これは、とうっすら予想していたために、咄嗟にカミュは氷河の二の腕を掴み、倒れた拍子に床へ頭を打ちつけるのはそれでどうにか防いだが、テーブル越しでは身体が崩れるのを支え切らず、氷河はへたりと床の上へ座り込んでしまった。
「……………あ……?」
自分の状態がよく理解できない様子で、氷河はゆっくりと瞬きをしながら、力の入らぬ身体を不思議そうに見つめている。
氷河の手が当たって倒れてしまったグラスからは、テーブルを伝って中身が氷河の髪や肩へぽたぽたと落ち続けている。
カウンターの奥から「お客さん、大丈夫ですか!?」と言いながら出てきた店主からタオルを受け取って、迷惑をかけてすまない、とカミュが頭を下げれば、若い店主は、「好きな人と飲む酒は、回りが早いらしいですよ。心臓がいつもよりドキドキするから」と冗談めかして笑った。
食事を途中止めにする詫びを重ねて言って、氷河を連れて店を出たものの。
出てすぐに氷河は、へたりと再び座り込んでおきながら、かえれます、だいじょうぶです、と繰り返しているところなのだ。
あなたに迷惑はかけられません、と頑固に拒む氷河を、わかっている、だから家に帰ろう、と宥め、頼りなく揺れている身体を支えるために腰に腕を回してどうにか歩かせて、駅前の大通りでタクシーを拾う。
どちらまで?とバックミラー越しに問うた運転手に、カミュは一瞬考え、そして、己の自宅の住所を告げた。
氷河の自宅へと送り届けるつもりが、タクシー独特の新車然とした人工的な臭いがよくなかったか、カミュの肩へ頭を預けた氷河が「きもちわるい……」と言い出したからだ。
郊外の氷河の自宅まではここからは1時間はかかるが、会社近くへ借りているカミュの住むマンションまでは15分もかからない。だからだ、と、誰に聞かせるわけでもないのに、どことなく言い訳めいた思考が過ったことに気づいて、カミュの眉間に、ぐ、と皺が寄る。
幸いにタクシーの中で吐くことはなかったが、降車した先のエントランスで完全に歩けなくなってしまった氷河を半端に支えるのも面倒になって、カミュはひょいと彼の身体を抱き上げた。
「あるきます……」
自分が今どこにいるかも焦点の合わぬ瞳には映っていまいに、まだ主張しているのが少しおかしくて、思わず、カミュは氷河を見下ろして微かに笑った。
見下ろした拍子に顔にかかったカミュの髪がくすぐったかったか、酒精でうっすらと赤みの差した頬がへにゃりと崩れる。
「……かみゅのかみ、きもちいー……」
「………そうか」
仔犬か仔猫が甘えるようにすりすりと鼻先を摺り寄せられては、甘く胸が揺るぐ心地がするが、アルコールの影響下にあるときの言動は、本人の意志とは違うところにあることを忘れてはならない。
酔ったことがない、という本人の弁は、さて、ここまでくると些か怪しくなってきた。酔うたびごとに記憶を失って覚えていない、が正しいのではあるまいか。
だとしたら、今後は、仕事を言い訳に酒宴から逃げるのもやめて彼の防波堤とならねばなるまいな、と、心配の種が増えたカミュは息をつく。
カミュの両腕がふさがっているのを見てとって、管理人が黙ってエントランスの中扉を開け、エレベーターを呼び、カミュの暮らすフロアのボタンを押してくれた。
挨拶を交わすのみで不必要に詮索はしないのに、細かい気遣いができるこの管理人をカミュは気に入っている。
遅い時間のせいかほかの住人に会うことはなく、玄関扉の前にたどり着いて、氷河を抱いたまま、カミュは左手の親指を扉のノブ上の認証機に押し当てた。
電子錠が解かれた音がして、扉が開く。
「まだ気分が悪いか?」
洗面とリビングとまずはどちらへ向かうか迷ってそう問えば、うん、とも、ううん、ともつかぬ、曖昧な答えが返ってきた。
顔色はさほど悪くない。リビングでいいだろうと判断して、肘でライトをつけ、ソファの前で膝をついて氷河を下ろす。
男の一人住まい、まさか人を招き入れることになるとは思っていなかった。物が少ないから悲惨な状態は免れているが、残業続きで、隅々まで手入れが行き届いている状態とは言い難い。
氷河が横たわったソファカバーは前回いつクリーニングに出したのか覚えてもいない。これなら健気なロボット掃除機がカミュの留守中にがんばってピカピカにしている床の上へ下ろした方がまだましだっただろうか、と悩むレベルである。
どうも氷河はカミュを完璧人間のように思っている節はあるが、カミュとて、着の身着のままベッドにも行かずにソファで眠ってしまうこともあれば、感情を制御しきれずに理不尽に当たり散らしてしまうこともある程度には不完全な人間だ。
だから、ソファに横たえた氷河が薄青い瞳をある種の熱で潤ませて、もの言いたげにカミュをじっと見つめた日には───
「…………………水を取ってこよう」
氷河が酔っていて幸い。酔っていなければ、一瞬、表情にのぼった理性の揺らぎにきっと気づかれていた。
熱を帯びた視線を振り切り、不自然なほどの勢いで氷河に背を向けて、カミュはキッチンへと向かう。
ミネラルウォーターのペットボトルを取り出すために冷蔵庫の扉に手をかけ、だがしかし、把手を手前に引く代わりに、はあ、と深い息をついて、カミュは崩れるようにその場に膝をついた。
参った。
氷河相手に、今、わたしは何を考えた。
これまで、あの薄青の瞳に見つめられるたびに少しく過ぎって来たほの甘いものは、すべてかわいい「部下」に対してだと、そう己を納得させてきたが。
そこに雄の情動を伴ったのでは……氷河を「部下として」好ましく思っているせいだ、という言い逃れはさすがに苦しい。
「……距離は保っているつもりだったのだがな……」
氷河に指摘されるまで、カミュは彼にしばしば触れてしまっていたことも自覚していなかった。
カミュはスキンシップをコミュニケーションのひとつと捉えているような類の人間ではない。むしろ、どちらかと言うと親しみやすさを履き違えて無遠慮に触れ回るような輩を苦手としていて、だから、自分から好き好んで他人に触れることはしない。しない、と思っていた、のだが。
今、カミュの理性を揺らがせたのと同じものが、知らぬ間に、カミュをして氷河に触れさせていたのだろう。これでは、理性が揺らぎかけた原因を、アルコールのせいだけにしてしまうことはできそうにない。
自覚はしたものの───だがしかし、認め難い。
入社しての数年は最も成長著しい大事な時期だ。
特に、近頃の氷河はアイザックの抜けた穴を埋めるに申し分なく、既に建築設計部にはなくてはならない存在になりつつある。
いっそう彼を厳しく鍛えて一人前に育てようとしている矢先に、その責任のあるカミュ自らが、私情を交えて足を引っ張るような真似をするわけにはいかない。
休日にまで上下関係を持ち込んで窮屈な思いをさせるには忍びなく、今日は、極力、上司と部下であることを忘れて対等な立場で過ごせるよう心を配ったつもりだが、こうして、己の自制心がたいして機能しないことを自覚してしまったからには、今後は、片時たりとも、彼の上司であるという立場を忘れるわけにはいかなくなった。
「……氷河はただの部下だ」
それだけだ、と、己に言い聞かせるようにしながら、ゆっくりと立ち上がり、改めて冷蔵庫を開いてペットボトルを二本取り出した瞬間、ソファの方で、うう、とうめき声があがった。
ハッとしてカミュは、慌ててリビングへと戻る。
「大丈夫か?」
ソファの上へ起きあがった氷河は真っ青な顔で胸元に手をやっていた。
「……すみません、俺、ソファ、汚しました……」
「ソファ?」
見た限り吐いた形跡はなさそうだが、と怪訝に思い、氷河の視線を辿って、ああ、とカミュは合点する。
氷河が見つめる先のソファカバーは確かにそこだけ色が違っているのだが、それは、以前、カミュが零したワインの染み跡である。クリーニングに出す暇がなく、そのままとなってしまっていたものだ。
己の服がアルコールで濡れていたこともあって、酔いの回った氷河の頭は、自分がやってしまったのだと誤解して青ざめているのだ。
「大丈夫だ、あれはお前じゃない」
すみません、と項垂れて、瞳を潤ませている姿にまたもカミュの胸に甘い痛みが差す。
たった今、自分の立場を再確認して自制を強くしたばかりだというのに、うっかりと背を引き寄せてしまいそうになる。
理性を鈍らせるアルコールなど飲むものではないな、と、苦い思いを飲み込みながら、カミュは、おいで、と氷河を立たせた。
そして、覚束ない足取りの氷河を支えて、洗面所に向かう。
どうせなら、いっそ吐いて、胃を空にした方が明日の朝、楽だろう。
「吐けるか?」
明かりをつけて背をさすってやると、首を振って抵抗していた氷河は、しばらくして観念したのか、うう、という呻きと共に、びしゃ、と透明な液体を吐き出した。
空腹だったくせにあまり食べないな、と思っていたが、本当にアルコールだけ空きっ腹に放り込んでいたのだ。これではどんな酒豪でも立てなくなって当然だ、と呆れ、だが、呆れた瞬間に、不意に、「好きな人と飲む酒は」と言った店主の言葉がカミュの脳裏を過ぎった。
バカな、酔客相手のステレオタイプな冗談を真に受けてどうする、とカミュは、己の愚かさを呻きながら、首を振ってその言葉を脳裏から追い払う。
なおもしばらく背中をさすっていたが、どうやら少し吐いてすっきりしたようで、氷河は洗面台に両手をついたまま、うとうととし始めた。
「氷河、眠る前に服を洗っておこう。脱げるか」
洗面室の床へ座らせてやってそう言うと、氷河は目を閉じたまま頷いた。
待っていなさい、着替えを、とカミュが口にする前に、氷河は早々とTシャツの裾に両腕をかけて、頭からすっぽりと脱いでしまう。
止める間も何もあったものではない。
健康的に日灼けした四肢に比して思いのほか白い肌を目の当たりにして、思わずカミュは目を逸らす。
思春期の少年でもあるまいし、こんなことで動揺するほど初心ではないのだが、己の自制心に信頼を失った今はとても正視はできない。
目を逸らしたまま着替えを取るために立ち上がって、カミュは、は、とまたため息をついた。
着替えと、カミュらしくなくうっかりリビングに置いてきてしまったペットボトルを取って洗面所に戻ると、氷河は唇を半分開いて両足を投げ出し、壁に寄りかかってすやすやと眠っていた。
取って来たTシャツを彼の頭に被せて腕を通してやると、長い睫毛に縁どられた瞳がうっすらと開く。
「…………カミュ……?」
サイズが合わないせいで少し肩の落ちたTシャツに鼻先を摺り寄せるようにして、氷河はまたうとうとと目を閉じる。
アルコールで濡れた氷河のTシャツを洗濯機にかけておいて、カミュは氷河の前へ膝をついた。
「氷河、ここで寝ては駄目だ」
起こして自力で歩かせるつもりだったが、肩に手をかけた瞬間に、氷河の首がかっくりと大きく傾いで、慌ててカミュは氷河の身体を支える。
仕方がないやつだな、と、カミュは、彼の肩と膝裏へ腕を回して抱き上げた。
面倒をかけられているというのに厭う気持ちが起こるどころか、ほのかな喜びすら感じて甘く緩む胸は、とても自分のものとは思えない。
油断をすれば揺らぐ理性を叱咤しながら、寝室へと氷河を運んで、今朝、己が抜け出た状態のままのベッドへと下ろす。
ごく柔らかな着地だったはずだが、その小さな衝撃に、氷河は、ん、と薄く目を開けた。
「気分が悪くなったら呼ぶといい」
焦点の合わない薄青の瞳は眠りに落ちるのを抵抗するかのようにゆっくりと何度も瞬きをしていたが、次第にそのスピードは遅くなり、やがて完全に閉じられた。
**
そういえば着信があったのだった、と思い出したのは、氷河のシャツを干し、ついでにリビングの片づけを終えてからだった。
ソファへ放ったジャケットからスマートフォンを取り出して、カミュは電源を入れる。
多分、電話をかけてきたのはミロだろう、という予想のとおり、彼からの着信が2件。
時計を見たが、既に日が変わってしまっている。
少し悩んだが、彼にとってはまだ『今日』は終わっていない範疇だろうと踏んで発信ボタンを押すと、コール音がほとんど鳴らないうちに電話は繋がった。
──遅い。何をしていた。
「今どこにいる」
彼の問いには答えずにそう問うと、ミロからは、会社から(つまりカミュの自宅からも)そう遠くない駅近くのバーの名が返って来た。
昨日、二人が訪れていたのとはまた別の店である。
「何かわかったのか」
──まあな。予想どおり、といったところかな。
そうなのか、とカミュは息をつく。
ミロは今日一日、メビウス社の、あの男の身辺を探っていたのである。
元々、予定外に捻じ込んだ仕事だ。契約に至らなかったことは、社にはたいした痛手ではない。だが、先方の無理押しで始まった仕事だけに、突然の梯子外しには、氷河が感じていた憤りとはまた違う、飲み込めなさはカミュにもあった。
契約しない理由がコストや技術力不足にあるならわかるが、細かすぎる、という断りの理由がどうにも納得し難かったのだ。
質の悪い工事に起因する建物の不良で多額の賠償を抱えた上に企業イメージを下げるよりは、少々値が張っても、安全性を最優先に、というのは昨今では常識だ。
細かいことでもひとつひとつ確認して、精度の高い設計図を引こうとする聖域建築の姿勢は業界でも高く評価されていて、それを理由に断られることは通常はあり得ない。
男はこうした大規模な工事契約に明らかに不慣れで(よく言えば、だ。言葉を飾らずに言うなら、正直、事務処理能力は皆無と言ってよかった)、その、通常の判断ができなかったとしても不思議ではないのだが、ただ、度を越えた無能は、時に、突拍子もないトラブルを起こして周囲を慌てさせるものだ。取引関係が消えた後にまでいらぬ火の粉を被っては敵わない。
それで昨夜は、メビウス社が好んで接待に使う店を巡り、男の情報を集めていたのである。積極的に主導したあたり、ミロの方も、男の無能ぶりに幾ばくかの危うさを感じたのだろう。
有益な情報にたどり着くまでには数日はかかると思っていたのだが、さすが営業部のエースの名は伊達ではなかった。
華やかに着飾った夜の蝶たちが、ミロの巧みな誘導で「うっかり」零す噂話をいくつか繋ぐうちに、うっすらと男の抱えていた事情が見えてきた。
あの男は派手な接待で大騒ぎすることで有名だったらしい。業界人を鼻にかけてマナーの悪い客だった、という話に、さもありなん、と二人は強く頷いたのだが、それでも、金払いがよいことで太客として歓迎されていたというのだから、金の力は偉大である。(カミュなら金を払ってでもあんな男と飲むのはお断りだが)
が、近頃はその雲行きもどうも怪しいようだ。
下品で派手な接待は相変わらずだが、ツケの支払いが滞っていて、いずこの店にもかなりの額の借金があるようだ。
急に金回りが悪くなった理由は───おそらく、人事異動のせいだ。制作部局なら接待も経費で落ちるだろうが、総務課では経費にはなるまい。彼の給料がどの程度か知らないが、今までどおりに高級クラブで毎夜遊べるほどではきっとないだろう。
そうなると異動の理由が今度は気になってくるな、と、考え込んでいたミロは、おもむろにどこかへ電話をかけ始めた。
「遅くにすまない。この間のお誘いだが、少し急だが明日なら時間が取れるんだがどうだろう」などと言っているミロに不審な視線を向ければ、彼は電話口を押さえて、「メビウスの受付嬢だ」と小声で言った。
なぜ連絡先を知っているのか、と呆れ顔となったカミュに、電話を切ったミロは、俺から聞いたわけじゃない、向こうが勝手に教えてくれただけだ、と肩をすくめた。
電話口の向こうで、こちらまで聞こえるほど弾んだ高い声がしていたあたり、あながち嘘ではないのだろうが、それにしたって、まだ片手で足りるほどしか訪れていない他社の男性にいきなり個人的な連絡先を渡したりはしないものだろう。ミロの言葉を鵜呑みにしていいかは大いに疑問である。
だが、まあ、彼のそうした、好いたらしさのおかげで、昨夜も、そして今日も、大いに女性たちの口が軽くなったのだから経緯はこの際とやかく言うまい。
──あいつ、メビウスで相当にお荷物みたいだぞ。
受付嬢を皮切りに、ミロは、人事に、経理に、デザイナーに、と次々に彼女の社内の友達を呼んでもらって話を聞いたらしい。デートだと思って声を弾ませていた彼女はさぞかしがっかりしただろう。
ともあれ、様々な部署を横断しての女性の情報網によって、男の人事異動の原因は、あっさりと、件の過剰な接待だということが判明した。
派手に飲み歩いては経費を次々に請求するのを咎められ(制作には必要な経費といえど、度が越えていたのだろう)、それでも改まらなかった結果、「接待」のない総務へ回された。
それも、部下もつけてもらえなかった、という彼の言葉は本当らしく、総務課というのはもともと存在せず、総務的な事務は人事部が担っていたのにも関わらず、男の異動に伴ってわざわざ新設されたらしい。
だとすると、たった一人の課でも「課長」という肩書をつけてもらっただけ温情処分の、実質、社内リストラなのだろう。
知らぬは本人ばかり、どうせ制作には己が必要なのだ、すぐに元に戻されると信じて、今もまだ業界人を気取っている、というのだから少々同情は禁じ得ない。
変わらずツケで飲み歩いても、だから、それは全額、払うあてのないただの借金だ。本人としては制作に戻れば経費請求すればいいくらいに軽く考えていたのだろうが、なかなか戻してもらえないことにそろそろ焦れた頃合いか。
夜の街には、一見、健全な飲食店に見えても、バックに怪しい組織がついていることも多い。嵩む借金に、法に則った督促状が届くならありがたい方で、夜道でいきなり片腕を折られる事態にならないとも限らない。「また今度払う」がいつまでも通用しないことは、男もよく知っていることだろう。
──ちなみに、うちが送った契約書を経理が処理しようとしたら、『あっ、これ、金額が違うやつだから』と取り返しに来たそうだ。お前、どう思う?
「金額が違う……?わたしが確認をしたからあり得ないが」
あり得ない、と言うカミュの脳裏で、『契約書』と『金額』という単語が、記憶をキシキシと刺激した。
そう言えば。
妙なことがあったか。
「失くしたから、もう一度、うちの押印済契約書を送ってくれって……押印だけしてもらえば、あとは先方で金額を入れておくので白紙でいいって言っていますが……」と氷河が電話を片手に途方に暮れていた。
金額も入っていない白紙契約書に押印などするわけがない。だいいち、契約書のデータは既に完成しているのだ、わざわざ金額を抜くくらいなら、もう一度同じ契約書を作った方が早い。
そんな不合理な要求があるはずがなく、きっと氷河が聞き間違えたのだろうと思い、カミュが、電話を替わろうと言ったのだが、替わることを告げると、「あ、やっぱりいいや」と電話は唐突に切れた。
ほかにも山ほど常識外れの言動がある男のすることと、あまり気にも留めていなかったが、これは。
「…………工事費の着服、か。」
──多分、な。借金の返済に充てることを安易に思いついたのだろう。こっちに隙がなく困っていたところに、運よく、『話が通じ』そうな業者が見つかって、心置きなく鞍替えしたってとこかな。
社から金を引き出すのに、実際の契約額より大きな金額が記載された契約書が必要だったのだろうが、やくざ者がカモフラージュで看板を掲げている建築会社でもないかぎり、そんなものを正式に作る社があるはずがない。
それで、
カミュは無理でも
氷河なら騙せると踏んでこっそり頼んだのだろうが、氷河が、変に「仕事ができる風」を装って、カミュに無断で男に融通をきかせてやるタイプではなかったことは男には残念なことだっただろう。
「なんと愚かな……気づいていれば、あの男の上司含めて断罪してやったものを」
──は!そこまでしてやる価値があの男にあるものか。だいいち、そんな男にメビウスが大事な自社ビルの工事を任せきりにしているのもおかしな話だと思わないか?きな臭いにもほどがある。これ以上深入りしないに越したことはない。
「そう、だな」
多少なりとも自身が設計図面に関わった建物には愛着がわくもので、作成途中の設計データをメビウスに送ってやるよう指示したのは、自分の手を離れたとしてもよい建物に生まれ変われるのならば、という善意にほかならなかったが、今となっては、その判断すら悔やまれる。うっかりと犯罪の片棒を担がされるところであった相手にまで親切心を発揮するほどカミュはお人よしではない。
深いため息が伝わったのか、ミロも同じように息を吐いた気配がした。
──なあ、今から出てこいよ。これだけの情報を引き出すのに、一日中、彼女たちにつきあってさすがに俺も疲れた。ご褒美くらいあってもいいだろう。
疲れた、と言いながら自宅に帰りもせず、外で飲んでいたのだ。
多分、初めからカミュを誘うつもりだったのろう。
薄々と察していたにも関わらず、だが、カミュは、言葉に詰まって、寝室との境の、装飾の何もない壁へ視線をやった。
──カミュ?
氷河との間に非難されるべき事実は何もない。
勉強を見てやって、一緒に食事をして、飲み過ぎた彼を介抱している、事実だけみれば、ただそれだけのことだ。上司と部下として、何ら逸脱はない。
だが、心の中では、少なからずやましさが去来したことは誰より自分が一番知っている。
──どうかしたのか?まさかまだ仕事でもしているのか?
「いや、自宅にいるが……」
急ぎの持ち帰り仕事がある、とでも言えば、彼は無理にとは言わないだろう。当たり障りなく断ることはできた。
だが、カミュは、彼には嘘をつくべきではない、と思った。
正直に答えることに迷う余地は全くなかったが、それでも、言葉にする前からずいぶんと気は重かった。
「……氷河が一緒にいる。だから出られない」
しばしの沈黙。
スピーカーの向こうで鳴る微かな騒めき。
琥珀色の液体の入ったグラスを前に、電話を耳にあてたミロの表情がまるで見えるようだ。
──坊やに負けるとは思いもしなかった。
一段と落ちた声のトーンで、カミュは、ミロが、単に「一緒にいる」以上の関係をカミュと氷河との間にくみ取ってしまったことを知ったが、実行に移したか移さなかったかの違いしかないなら、誤解だ、という言い訳は無意味だった。
だから、カミュは弁解をする代わりに言った。
「………わたしもお前がそこまで節操がないとは思いもしなかった」
──言っておくが今日のはほとんど仕事だからな。彼女たちの食事代もスイーツ代も経費で請求したいくらいだ、俺は。
「違う。そちらではない。……氷河に手を出しただろう」
また、しばしの沈黙。
事実なのか、と、カミュの内側がカッと熱く爆ぜる。
──氷河が泣いていたから慰めただけだ。
「そんな慰め方があるか!その気もないくせにどうしてお前は……!」
──『その気もないくせに』?……お前が言うのか?
落胆を隠さない声に、思わずカミュはハッとする。
気づいているのだ、ミロは。カミュが犯した過ちに。
本当にバカだった、どうかしていた、と、カミュは眉間に深い皺を寄せて片手で顔を覆い、俯いた。
礼だ、などと嘯いて、気持ちの伴わないキスをしたのはカミュも同じだ。ミロを責められた義理ではない。
あの時は、ミロに大きな借りを作ったことに引け目を感じていて、何より、最大の功労者である彼にキスしてもいい、と思う程度には、綱渡りのプレゼンを勝ち取った安堵で酷く昂揚していた。
冗談めいた、大人の戯れで済むはずだった。
彼とはこれまでも、冗談とも本気ともつかぬ際どいやり取りは交わしていたし、何事も飄々として軽やかに世を渡っている彼には、キスひとつくらい、缶コーヒーを一本奢ってやった程度の価値しかないだろうと思っていた。
身を二つに分けた時の彼の瞳が思いのほか動じていて、カミュはそれで、冗談では済まぬ一線を己は今越えてしまったのだ、と、初めて気づいたのだ。
しまった、と酷く動揺して、だが、何の覚悟も思慮もなく、越えるべきではない一線を越え、越えたと同時に後悔しているのだと彼に悟らせることはとてもできず、殊更に驕傲な態度で動揺を隠してその場を離れ、以来、なかったものとして触れずにきたが───
ミロは、他人の心の機微に聡い男だ。あれ以来、カミュが彼に対して感じている幾ばくかの気まずさを過たず読み取り、そして、それで全てを察してしまっていたのだろう。
「ミロ、わたしは、」
この上、曖昧にして逃げるわけにはいかなかった。
いつもいつも戯れに紛れた言葉遊びばかり、互いに、真剣に腹を割って本心をさらけ出したことは一度もない。だが、言葉なくとも深く理解し合える相手であっても、否、だからこそ、はっきりさせておかねばならぬことはある。
刹那、そう腹を括って口を開いたカミュだったが、カミュが二の句を告げるより早く、ミロが、待て、とそれを遮った。
──それ以上何も言うな。俺は今、冷静さを欠いている。理不尽にお前に当たらない自信はない。
「構わない。お前はわたしを非難する権利がある」
──やめてくれ。お前に非があるなどと思っていない。……俺は酔っている。お前に何を言うかわからない上に、明日の朝には言ったことをきれいさっぱり忘れているかもしれん、と言っているんだ。それでいいのか。
酔った状態で聞いたカミュの説明を翌日のプレゼンで鮮やかに再現した男の台詞だ。会話を打ち切るための言い訳であることは明白だった。
彼はきっと、カミュが何を言わんとしているか既に察しているのに違いない。だから、言わせまいとしている。そして、それは、彼の我が儘なのではなく、やさしさなのだろう。
しばしの沈黙の後に、カミュは、わかった、と頷いた。酔っているか否かに関わらず、互いに酒精を浴びた状態でするような話ではない、と思ったからだ。
そして、少し考えて、すまない、と続けたが、何に対する謝罪なのか自分でもよくわからず、ミロもまたその意味を訊くことはなかった。
──メビウスの件は社長にも一応耳に入れておく。済んだ話がこっちにまで波及することはないと思うが念のためにな。
ああ、頼む、とカミュが言い終えるか終えぬかのうちに、余韻なくプツリと通話は途切れた。
ツー、という、繋がれていた空間が切れたことを示す電子音に、カミュは、はあ、と長く息を吐きだして天を仰いだ。
ミロとは長いつきあいだが、こんな風に重い気持ちで電話を終えたことは初めてだった。
ミロは、仕事において私情を挟むような男ではなく、この先も誰より頼りになる同僚であることは変わらないだろうが、それでも、二度と手に入らない大切なものを失ったような喪失感がカミュの気持ちを重くしていた。
どのくらいの間、放心していただろう。
我に返って見上げた時計の針は、いくつもの時を刻んで済んでいた。
カミュは息をついて、握りしめたままだったスマートフォンをガラス製のローテーブルの上へ置くと、立ち上がった。
氷河を長らく一人にしていることが心配になったためである。
短い廊下を通って、再び寝室の扉を開き、ベッドへ近寄ってみたが、氷河は気持ちよさげに、すうすうと寝息をたてていた。
自分が目を離していた間に吐いたりしていては事だ、と、案じていたカミュは、ほっと安堵の息を吐いて、そのままベッドの縁へと腰かけた。
楽しい夢でも見ているのか、氷河の柔らかそうな頬は緩んで口角が上がっている。
「……人の気も知らないで」
八つ当たり気味にそう呟いてみたものの、だがしかし、彼の寝顔に、カミュのずっしりと重く強張っていた心は僅かに和らいだ。
カミュの微かな呟きで眠りが浅くなったのか、それとも、夢の影響か、んん、と声をもらして、氷河が身じろぎをした。
拍子に、微かにアルコールの香る唇が無防備に開かれ、隙間からちらりと、舌の艶めかしい赤がカミュの目に飛び込んだ。
刹那、カミュの心臓が鋭い痛みを発する。
───ミロがこれに触れた。
そのことを思い出すともう駄目だった。
心を重くしていた凝った感情は全て妬気となって、キリキリとカミュを締め付ける。
氷河が誰と何をしようと口出しができる立場ではない。
自分自身では手を出すつもりもないのだから、なおさらだ。
それでも、相手がミロである、ということは複雑で、感情の収まりがつかずに酷く苦しかった。
自分で引いたばかりの、上司と部下である、という一線が、ぐらぐらと危うく揺れ、浅ましい所有欲がカミュの理性を奪わんと苛む。
強い葛藤に押し負けるかのように、カミュはゆっくりと腰を折り、そして、覆いかぶさるように氷河の頭の横へ手をついた。
光源を遮ったカミュの形をした影が氷河の上へ落ち、カミュの髪はさらさらと肩を滑って、まるで檻のように彼を閉じ込める。
体躯を支える腕の力をもう僅か抜けば、薄い皮膚を通して彼の体温を直接感じられる。喪失感や嫉妬、葛藤、様々に凝った感情を宥めるための手段として、それは、おそろしく甘美にカミュを誘う。
だがしかし、カミュは、彼のどこにも触れないまま、ゆっくりと身を起こした。
最低だな、わたしは、と天を仰いで、きつく目を閉じる。
カミュを留めたものは上司と部下である、という縛りではなく、単に、意識のない状態の人間と一方的に関係を結ぶことは許されない、という、人間としてごくごく当然の道徳心、ただそれだけだ。
それだけだが、人並の道徳心を持ち合わせていたことを強く感謝して、カミュは息を吐く。
それほど、説明のつかぬ感情が酷く縺れ絡まっていて、いつものカミュらしい冷静さはどこにも見当たらなかった。
揺らがぬ己を取り戻した、と言えるだけの時間、そうして心を落ち着け、カミュは再び目を開く。
相変わらず氷河は夢の世界に行ったままだ。
カミュはそろそろと手を伸ばして氷河の髪に触れた。見た目より滑らかな感触の髪を梳くようにまるい後頭部へ沿って指を滑らせ、髪を束ねたゴムへ人差し指をかける。
指の先に力を込めて引くと、束ねた髪がはらりとほどけて、柔らかなブロンドが無防備なうなじをカミュの視線から覆い隠した。
はあ、と息をついてカミュは片手で顔を覆い、立ち上がる。
サイドテーブルにその髪ゴムを置き、酷く長く重苦しい夜に別れを告げるように、カミュは寝室を後にするのだった。