サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味
アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ
◆ep3 P.S. 宣恋布告です ③◆
遠目からでも目を引く緋色の髪。
細身のダークグレーのパンツに、濃淡の違う同系色のサマージャケット、折り返した袖から見える差し色はインナーの白を引き立たせる爽やかなブルー。
長い脚を組んでスツールに腰かけ、中庭のグリーンがよく見える大きな窓に面したカウンターに片肘をついて本を読むカミュの姿は、普段のスーツ姿とは全然違って見えてとても新鮮で、氷河は入り口の柱の陰で足を止めたまま、しばしの間ぼうっと見惚れていた。
氷河の、落ち着きのない返信に対するつっこみもなく(それはそれで恥ずかしい)、ほどなくして送られてきたカミュの返信で提案されていた待ち合わせ場所は図書館だった。
あー、図書館、そりゃそうか、あのミロでさえカミュの家を知らないのに、ただの部下の分際で家に呼んでもらえたりするわけがなかった、と、がっかりしたような安堵したような気持ちで、氷河は待ち合わせ場所を検索した。
半官半民のその図書館は、カフェや自習スペース、シアターが充実して、ちょっと小洒落て便利な多目的図書館としてよくメディアでも取り上げられているようだ。氷河の家からは電車一本、会社からもたいして離れていない。
午前中は用があるというカミュに合わせて、午後の、ランチには遅いが、ティータイムには早い時間の待ち合わせ。
まる一日ではないことにがっかりしたが、それでも緊張と興奮で相当に浮足立って、指定された時間よりも小一時間は早く着いたはずなのに、カミュはもうそこにいた。
え?俺の時計合ってるよな?それとも間違えた?と慌ててスマートフォンを取り出してみたが、カミュのメッセージに書かれている時間よりやっぱり一時間近くは早かったし、氷河の時計も遅れてはいなかった。
失礼がないように早めに着いて席を確保しておいて、それから待ち時間の間にカミュに教えてもらいたい箇所に付箋をつけて、時間が近づいてきたら二人分の飲み物を買っておいて、と、来る道すがらシミュレーションしてきたことが初手で躓いてしまい、「休日のカミュ」にうわあと興奮した気持ちは、次第に戸惑いと狼狽えに変わった。
どうしよう、このパターンは考えていなかった、と、足を踏み出せないでいる氷河の隣で、高校生らしき少女たちが、きゃあきゃあと黄色い声をあげながらカミュを指さして頬を染めている。
やっぱり世間的に見ても、カミュは世界一(誰もそこまでは言ってない)かっこいいんだな、と、何故か思わず誇らしい気持ちになったものの、はた、と我が身を見下ろして氷河は青くなった。
俺、あの完璧な人の隣に並んで変じゃないかな、今日……
裾をロールアップしたパンツに、マリンテイストの半そでシャツ、スニーカーはなんとなく無意識に下ろしたてを履いてきたのだが、正直、いつもコンビニに行くときの格好と何もかわらない。
社会人になるときにスーツは何種類か買い揃えたが、普段着は学生の時からの愛用品ばかりだ。クローゼットをひっくり返して、中でも比較的マシなものを着てきたわけだが、ラフ過ぎたかと、カミュに会う前から帰りたくなってきた。
こんなことなら、日ごろからもう少し着るものに気を付けていればよかった。
ひとつ躓くと、何もかもがうまくいかなくなる日というのが人生では時折起こるのだが、今日はもしかしたらその日なのかもしれない。
初めて仕事以外でカミュに会うというのに、既に心が折れそうである。
待ち合わせの時刻までには小一時間ある。カミュが既に到着しているという大問題はあるが、大急ぎで駅前まで戻って、商業ビルに飛び込み、せめて格好だけでももう少しカミュの隣に並んで恥ずかしくないものに変えてくるか?
ぐるぐると迷って柱の陰から出れないでいる氷河の隣で、小さくキャッキャしていた少女たちが、スマートフォンを取り出して、こっそりとカミュの背へ向けた。
えっ、それは盗撮だ、さすがにだめだろ、と、氷河は思わず目を見開く。
彼女たちに注意をしようと思ったが、声をかける勇気はない。この世で何が苦手って集団になった若い女性の無敵感ほど苦手なものはない。
仕方なく、氷河は隠れていた柱の陰から飛び出して、被写体を遮るようにカミュの方へと向かった。(被写体が二つに増えてJKがのけぞって喜んだだけであることは氷河は知らない)
「お待たせしてしまったみたいで、」
文字に集中していたのか、少し驚いた表情で顔を上げたカミュは、いや、と笑って首を振った。(間近で見るとますますやばい!!!スーツを着てないだけなのに、なんか、なんかいつもと雰囲気までが違う気がする!!!ていうか今、笑った!?!?いつもの、ふっ、っていうやつじゃなくて、ふわっと笑み崩れるみたいな、俺の錯覚か!?)
「前の予定が早く終わっただけだ。……お前こそずいぶん早かったのだな」
左腕を持ち上げて時計を確認しながら、カミュが首を傾げる。
「あー、俺、ちょうどいい電車がなかったので」
氷河の家からは乗り換えなし、しかも、5分と空かずに次の電車が来るような路線なのだが、落ち着かなくて自宅でじっと待っていられませんでした、なんなら昨日の夜もドキドキしすぎて寝れませんでした、と正直に告げるのはさすがにかっこ悪くて恥ずかしい。
カミュは怪訝そうな顔をしたが、氷河は視線を逸らして、電車のせいにしたままやり過ごした。
「そういう格好をしていると、まだ学生に見えるな、お前は」
参考書類がぎっしり詰まったリュックを下ろしながら隣へ腰かけようとすれば、カミュはそう言ってくすりと笑った。
途端に氷河の頬がカッとのぼせて、しどろもどろとなる。
「あ、俺、やっぱり、変、ですよね、だって、働きだしてから買いに行く時間もないし、あの、でも、今すぐ戻って、着替えて、」
慌てて立ち上がった氷河の手首を、カミュが柔らかく掴む。
「戻らなくていい。そういう格好も似合うな、と言いたかっただけだ」
本当にこれが、あの厳しいカミュの台詞だろうかと氷河は真っ赤になった。
「………カ、カミュもお似合いです……」
そうか、と目を細める顔がやっぱり会社で見るのよりはずいぶん柔らかくて、今日夕方までに壊れないかと心配になるほど、氷河の心臓はばくばくと脈打つのだった。
「試験の申し込みはしているのか?」
図書館の中には、会話すらNGの無音の自習スペースもあるのだが、カフェに併設されたこの自習スペースは会話の制限はされていない。それでも、大声で騒ぎ立てるような良識のない使い方をするような人間はおらず、他のグループに聞こえない程度の声が時折ぽつぽつ響くだけだ。
カミュもそれは例外ではなく、(叱る時は特に)よく通る声は、まるで囁くかのように低く抑えられていて、その上、少し身体を寄せて口を開くせいか、膝同士が時折触れて、氷河はそのたびに頬が熱くなるのを感じて困った。
「申し込みは、しました」
年に一度しかない試験だ。逃すと来年まで資格取得が遠のく。どれだけ忙しくても失念するわけにはいかなかった。
使い込んだ問題集をリュックから取り出しながら、でも、まだ半分も点が取れないんです、今年はダメかもしれません、と正直に告白すれば、カミュは氷河の手から問題集を受け取って、パラパラとめくった。
「……なるほど。そう悲観しなくとも、基礎はできているようだ。これなら少しコツさえ覚えれば簡単に解けるようになる」
確かもう少しわかりやすい解説書があったはずだ、と、そう言いながらカミュは席を立つ。
専門書フロアへ行って探して来てくれるのだろう。
後ろ姿を見送って、氷河は、はーっと深く息をした。
あっつい。
館内は寒いくらいに空調が効いている。だが、異常に暴れまわる心臓のせいで、空調の効果がなくなるほど身体が熱くなって汗をびっしょりかいていた。
ぱたぱたと胸元を仰ぎながら、氷河はリュックのポケットを探り、ゴムを取り出した。
忙しくて髪を切る暇もなかった。伸び放題に伸びた、ざんばら頭を後ろでひとつにまとめる。
冷たい空気に触れるうなじが気持ちいい。汗で貼りつく髪をそのままにしているより、見苦しくもないはずだ。
最初からそうして来ればよかったのに俺は本当に気が利かなくてだめだ。
昨日、せっかく瞬に会ったのだから、冷やかされるのを承知でどういう格好で行けばおかしくないのか、相談してみればよかった。
次は絶対………次、があるのだろうか。
一次試験は2週間後だ。
忙しいカミュが来週も時間を取ってくれるという奇跡が起こるのはもう期待できないだろう。
ということは、これが、最初で最後のチャンスだったかもしれないわけで。
───試験に落ちたら、あと一年間はチャンスがある、けどな。
悪魔のささやきがふと掠め、氷河はぶんぶんと首を振った。
カミュに認められたくて資格を取りたいのに、プライベートで会う口実欲しさにわざと落ちる、とか、本末転倒だからな!?だいたい、あのひとが、ろくに資格も取れないような人間にそういつまでも甘い顔をしてくれるとは思えないからな!?
気持ちが上がったり下がったりおかしい日だ。
だめだ、集中しろ、と氷河は自分の両頬をぴしゃりと叩いて、問題集に向かう。
しばらくして戻って来たカミュは、髪を結った氷河を見て、おや、と微かに目を見開いた。
「暑いのか」
「あー……と、まあ、少し、」
「わたしと席を変わるか?少しは空調に近いが」
「いえ、大丈夫です」
困った。
カミュがやさしい。
いや、どれだけ厳しかろうと、本質的にやさしくて情が厚いひとだということはもう十分知っているのだが、向けられる視線が、なんというか、なんというか、こう……うまく言えないが、ミロっぽい。ミロっぽいってなんだって話なのだが、ミロが時折見せるような、単なる「職場の同僚」としての親切以上の個人的なものを感じるというか……とにかく、会社の時のカミュと、外でのカミュは全然違う。───それとも、違うのは、自分の方の気持ちだろうか。
氷河にはよくわからない。
なぜそうなるかはわからないのに、カミュの一挙手一投足に動悸ばかり起こって、挙動不審をおかしく思われないかと気になって仕方がない。
カミュは、専門書フロアから取って来た参考書を数冊並べて、これの解説がそのまま応用に使えてわかりやすいんだ、と言いながら、自らペンをとって問題を解き始める。
長くて白い指がすらすらと作り出す文字に氷河はぼうっと見惚れて、問題の意味が入ってこない。
「………………氷河、聞いているのか?」
気づけば、いつの間にかカミュのペンは止まり、赤い瞳がこちらを見つめていた。
聞いているかと言われたら全く聞いていなかった。ぼうっと、器用に動く白い指に指輪の跡はなさそうだ、とか、カミュの吐息が耳にかかって変な気持ちになりそう、とか、ミロともこういう休日を過ごしたことがあるのかな、とか、邪念でいっぱいだったのだ。
しまった、これは、二度は同じことを言わない、とお説教される流れだ、と一気に心臓に冷水を浴びせられて、すみません、もう一度お願いします、と青くなって頭を下げる。
だが、カミュは、仕方のないヤツだな、と笑っただけだった。
───本当に、これはカミュ本人なのだろうか。
誰かが俺を陥れようとカミュのふりをしているとか。
実は双子で入れ替わっているとか。
それともカミュ、どこか体調が……?
いつもと違うカミュの態度の真意を探ろうと、氷河は、緩く弧を描いている、カミュの、髪の色と同じ瞳を見つめる。
氷河の疑念を敏感に読み取ったのか、カミュは僅かばかりの苦笑を口の端に浮かべた。
「わたしが教え役では落ち着かないか?一人の方がはかどるならわたしは、」
「!い、いいえ!」
慌てて氷河は首を振った。いつも怒られているポイントで怒られなかったことにびっくりしただけで、別に積極的に怒られたいわけではない。
こんなことで、せっかくのチャンス、まだ何も教わっていないのに帰られてしまっては元も子もない。
カミュがいいです、教えてください、と頭を下げれば、カミュは、集中できるならば、と言って頷いた。
集中できるかどうか自信はない。
心臓はばくばく鳴りっぱなし、少し気を緩めれば思わず見とれてしまいそうになる。
だが、カミュに教えてもらえる貴重なチャンスを、ふいにするようなバカな真似はできない。心を無にして、あとはできることをやるしかなかった。
**
公共施設ってどこも閉館時間を告げる音楽は「蛍の光」なんだなあ、とぼんやり考えて、書きかけた式を消し、あ、そうか、さっきカミュが解説してくれたやつと構造は同じだ、とひらめいて、新しいものを書き直す。書き直す最中で、ん?閉館時間??と気づいて、ああっ!?と氷河は顔を上げた。
いつ閉まったのか書架のあるスペースにはもうとっくにシャッターが下りていて、明るく陽が射していたはずの中庭はライトアップされ、夕方以降は外扉からのみ出入り可能なカフェすらももう人はまばらだ。
「っ!?すみません、俺、」
隣で本を読んでいたカミュが顔を上げて、そして、氷河の頭へ手のひらを乗せた。
よく集中していた、わたしが呼んでも気づかなかった、とカミュは笑ったが、氷河は時計を見て青ざめた。
一般的な夕飯時はとうに過ぎている。何度か飲み物は買ったが、食事休憩もとらずにカミュをこんなに拘束してしまった。
「……すみません、あの、カミュ、時間は大丈夫だったですか」
「こんなにゆっくりできたのはわたしも久しぶりだな。おかげで三冊は読めた」
解説をしていない時は、カミュはずっと本を開いていたのである。
参考書類を片付けてしまいながらスツールを下り、ありがとうございました、と氷河は頭を下げた。
ありがとう、と、こちらはカフェの店員に声をかけて、カミュは外へと通じるドアを開く。
氷河の身体がドアの外へ出るまで、カミュの手は扉を押さえたままで、上司にそんな風に扱われて落ち着かない反面、ごく自然な紳士的な気遣いに、ふわあ、と興奮した胸がきゅうっと音を立ててしまう。
「少しははかどったか?」
「少しどころじゃありません!俺が一年かかって理解した量と同じだけ今日一日で詰め込んだ気がします!」
明日試験でもいいくらいだ、というか、明日試験でなければ忘れてしまいそうだから、零れ落ちないうちに試験を受けてしまいたい。
氷河がそう言うとカミュは肩を揺らして笑った。
「すぐに帰るか?遅くなっても構わないなら、食事でも」
駅へ向かう道を歩いてはいたが、正直、カミュがそう言ってくれないかな、などと薄ら期待していなかったとは言い切れない。
別に家に帰るのも我慢できないほど空腹で死にそうだったわけではない。ただただ、カミュともう少し一緒にいたかっただけだ。
だから勢い込んで、はい、と返事をしようとしていたのに、氷河が口を開くより早く、欲望に正直な腹の虫が、ぐう、と返事をしてしまった。
カミュが片手で顔を覆って肩を震わせている。
赤くなって、慣れないエネルギーをつかったので、と言い訳をする一方で、カミュって仕事じゃないときはこんなに笑うひとなんだ(笑われているのは俺だけどな)、という新しい発見に、半日かかって覚えたことが全部零れ落ちてしまうほど頭の中がお花畑状態である。
若干まだ声を震わせながら、わかった、なるべく近いところにしよう、と言うカミュに、氷河はぼうっとのぼせ上ったまま、はい、と頷くのだった。
カミュに連れられて入った、駅裏の路地の小さなビストロは、どこか懐かしい感じがする山小屋風の内装で、むき出しの梁や、木目をそのまま生かしたテーブルが、オレンジ色の間接照明に照らされて、とても温かみがあった。
素朴な内装も感じはよいが、入り口から客席までの動線とか、カウンター奥のキッチンのほかに小さなギャレーが設えられているところとか、どことなく、作った人のこだわりが感じられる。
カミュ、こういう建物好きだろうな、とちらりと見上げれば、ジャケットを脱ぎながら、いい建物だろう、と言ったので、氷河は、くすりと笑った。食事をしに来て、料理より先に建物の評から入るあたりがとてもカミュらしいと思ったからだ。
「なんとなく、カミュが好みそうだなって思いました」
氷河がそう言うと、カミュは、おや、と片眉を上げた。
「なぜそう思う?」
「なぜって……なんとなく、です」
「なんとなく、か。お前はたまに鋭いな。(たまにですか……)今は大規模建築ばかりだが、本当はこういう、小ぢんまりした建物の設計の方が楽しいと感じることはあるな。いずれは、土地を切り開くところから電気の配線まで全部自分でするような、個人向けの建築専門に転向してみてもいいと考えている」
いつか聖域建築から独立したい、とも、聖域建築において大規模建築からは手を引きたい、とも取れる言葉だ。職場では決して見せることのないカミュの内面に触れた気がして、そう、なんですか、と氷河はドキドキして言った。
俺も一緒について行きたいです、と喉元まで出かかったが、簡単に、俺も、と乗っかってはならない、カミュの大切な想いのような気もして、結局氷河は、そうなんですか、ともう一度意味なく繰り返して、メニュー表にうろうろと視線をやった。
「そういえば、お前はアルコールはいけるのか」
歓迎会も送別会も忘年会も仕事で(と、言いつつ、近頃氷河は気づいている。仕事は建前で、カミュは宴席があまり好きではないのだ、多分)欠席したカミュとは、アルコール付きでの食事は全く初めてである。
カミュも氷河がどのくらい飲めるか知らないが、氷河の方もカミュがどうなのかはよく知らない。
「そんなに弱くはないです。酔って具合が悪くなったことは一度もないです」
無茶な飲み方をしたことがないから自分の限界を知らないが、少なくとも、参加した飲み会で前後不覚になったことは一度もない。
学生の頃も、お前そんなすぐつぶせそうな面しておいてザルとかねえわ!と足腰立たなくなった先輩たちに吠えられたことを思えば、多分、世間的には強い方なのだろう。
カミュも、本当か?それは意外だな、と目を見開いている。カミュが思うほど頼りなくはないのだと見せられたようで、少しだけ気分がいい。
食事と一緒ならビールだろうか、でも、あんまりあの苦みは好きじゃないんだよなと迷っていると、カミュがジンリッキーを頼んだので、じゃあ俺も、と合わせてウォッカリッキーを頼むことにした。
料理を前にグラスを合わせて、そういえばこういうのはじめてですね、と言えば、そうだな、とカミュも頷いた。
そう言えばどころか、今日は出会った瞬間から全部を焼き付けておきたい、と思うほど何もかも初めてづくしで、職場では見られないカミュの姿に氷河は興奮しっぱなしなのだが、一人で興奮しているのは全然クールではないので、必死に取り繕っているのである。
図書館の時もそうだったが、あまり声高く会話を交わして周囲の迷惑にならないように、だろう、カミュの声は終始低く抑え気味で、だから、聞き取るためには互いに顔を寄せなければならないわけで、それがどうにも氷河の心臓を早くさせる。
ただの上司と部下でさえこうなってしまうのなら、世の中の恋人たちの心臓は、デートをする際に、一体どれほど鳴っているのだろう。一人や二人、ドキドキしすぎて心臓が止まってしまった人もいるのではないだろうか、と、他人事ながら酷く心配になってしまうレベルで、氷河の鼓動は音を立てている。
頬までもすごく熱い気がするのは、決してアルコールのせいだけではないだろう。
「……カミュは、あまり飲み会には来られませんね」
「上司がいない方が陰口を叩けてお前たちも気が楽だろう」
「い、言いませんよ!誰が言うんですか、あなたの陰口なんか!」
厳しいことは誰もが異論はないだろうが、同時に、カミュが間違いなく自分自身に対して一番厳しいことも皆知っている。叱咤されても、されっぱなしではない。その後のフォローは必ずある。これで、カミュを悪く言える人間がいたらお目にかかりたい。
「気にするな。管理職など煙たがられるのがある種の役割みたいなものだ。陰で口さがなく悪く言う連中は前にもいただろう」
あ、と氷河は口を開いた。
喫煙を見咎められてカミュにクビにされた輩がそういえばいた。
氷河が入社直後の頃の出来事だった。
「そんなこともありましたね。あのときは……そうだ、あのあと、俺がデータを飛ばしてしまって、後処理が大変だった………」
総務に泣きついて業者に出して、それでもなおかつ復旧できなかった大半のデータは、半泣きで氷河と……それからアイザックとで何日もかかって再入力したのだ。
懐かしく思い出して、同時に、キリと胸が痛む。
海界工務店に行ってしまって、今はもういない彼のことは、これまでカミュとの間で話題にしたことはない。なんとなく、その名を口にすることはタブーとなっている。
同じ人物の姿がカミュの脳裏にも浮かんだのだろう、しんと沈黙が下りる。
「………あのまま聖域建築に居てくれたら、カミュは今ほど大変ではなかったですね。俺のせいで……」
アイザックが抜けた後の欠員補充はなかった。
正確に言えば、補充の打診はあったが、カミュが断った。
理由はわからない。
ただ、アイザックがいつでも戻って来れるように席を残しておきたい、というカミュの思いがあったのではないかと氷河は考えている。
あれからずいぶん経つが、彼から音沙汰はなく、建築設計部にできてしまった空席は、だから未だに空席のままだ。
俯いた氷河の頬にカミュの手のひらが触れる。
「わたしが至らなかっただけだ。お前のせいじゃない。もう終わったことだからそう悩むな」
やさしくされると胸が疼いて泣きたくなってしまう。
このやさしさに応え、その負担を減らすには、自分が早く一人前になるしかないのだとわかっているから、泣いて慰めを乞うような真似は到底できないが。
微かに頷くと、カミュの手のひらは最後に氷河の頬をするりと撫でて去っていった。
滑らかに皮膚の上を滑ったほんのり冷たい感触が離れる瞬間、思わず、あ、と声が漏れる。
少し不審げに目を眇めたカミュに、声が漏れたことを気づかれた恥ずかしさで真っ赤になりながら、氷河は視線を狼狽えさせた。
「いえ、あの、俺、好きだから、」
思わず口にしてしまった瞬間、これではカミュを好きだと言ったように聞こえるだろうか、と激しく動揺して、慌てて氷河はグラスを取り上げ、中の液体をぐっと喉に流し込むと、首を振った。
「違います、あの、あなたの指が冷たくて気持ちがよくて、というか、い、いや変な意味ではなくて、あの、カミュ、意外とスキンシップ多いのかなと、あ、あ、違います、今の、だから嫌とかではなく、その、ま、前にもありましたよね、あの、俺の額に、あっ、大丈夫です、わかっています、意味があるものではないと、でも、俺は、好きで、あ、好きというのはつまり、なんだろう、ええと、撫でられると嬉しいというか、いや、これじゃ犬みたいか、え、俺、何言ってるんだ、ろ、」
弁解しようとすればするほど泥沼だ。
しどろもどろになってメニュー表を開いて、「すみません、同じのもう一杯ください!(同じものを頼むのになぜメニュー表を開いたのかは聞かないで欲しい)」と店員に声をかけて、おそるおそるカミュをうかがい見れば、彼は眉間に軽く皺を寄せて片手で顔を覆っていた。
不快に思われただろうか、とドキリとして、すみません、と言えば、カミュは、いや、と首を振った。
「すまない。……触れている自覚はなかった」
「えっ、あ、余計なことを言ってすみません、いや、でも、本当に、あの、なんというか、できれば、あの、カミュが嫌でなければ、俺はむしろ全然いいというか、いえ、変な意味ではなく、あー、撫でて欲しいとか思ってる時点でもう十分変か、違います、どう言えばいいのか、とにかく、すみません、今のは忘れてください」
「……わたしが言えた義理ではないが、あまりそういうことは誰にでも言ってくれるな。勘違いするか、もっと悪ければ、言質を取ったとばかりに利用されてしまう」
「言いません!誰にでも、ではないです!ミロにキスされても何も思わなかったし、」
「…………………………………ミロが」
「俺は、だから、……す、すみません、もう一杯ください!……あの、俺、たぶん、あなたのことが、」
「お前はあいつにずいぶん懐いている」
「えっ?あいつ……?……あー……ミロの話ですか?尊敬もしていますし、嫌いではないですけど、俺が懐いているというより、あのひとに一方的にからかわれているだけで」
「だが、少なくとも嫌ではなかったのだな」
「…………嫌とか、嫌じゃないとか、あの、一回だけです、そんなたいした話では、カミュ、」
もはや自分が何を弁解しているのかわからなくなってきたが、さっきまでよく笑っていたカミュが急に不機嫌になってきたのが手に取るようにわかり気持ちが焦る。
すみません、もう一杯、と三度、空になったグラスを店の主人に返しながら、とにかくミロとはなんでもないです、となぜこんな弁解をしているのかわからないまま、氷河は必死に首を振る。
「……いや。責めたわけではない。誰と何をしようがお前の自由だ。束縛する権利はわたしにはない」
言葉とは裏腹に、カミュの眉間には隠しきれない皺が寄っていて、怒っているように見える。何をしようと自由だ、という言葉どおりに受け止めるなら、氷河に怒るのは道理が合わないわけで、ということは、つまり、これは、ミロの方に怒っている……?
二人はやっぱり特別な関係なのかもしれない。
少なくとも、カミュの方はミロが好きなのに違いない。だから、彼が氷河を構うのが気に入らないのだ。きっと、そうだ。
心臓が鋭いもので射抜かれたかのように痛くてうまく息ができない。
それが、あまりに苦しかったものだから、初めて、氷河は今日一日の自分の鼓動の意味をようやく、ようやく、遅れて自覚した。
俺、カミュのことを、自分が思っているよりずっと好きだったんだ。
上司としての憧れも、尊敬もいつの間にか全部通り越して、その視線が自分以外に向いていることを知って心臓が捩れるように痛くなるほど、好きなんだ。
ひとを好きになると、こんなにも呼吸が苦しくなるものなのか。
せっかく自分の気持ちを自覚したのに、始まる前に終わってしまって───ああ、これは、普通に失恋するよりずっと堪える。
アルコールで既に緩んでいた涙腺が刺激されて、まずい、と思った瞬間に瞳の縁にぐぐっと熱いものがせり上がった。
こんなみっともない涙をカミュに見られたくない。
慌てて氷河はグラスを掴んで再びあおろうとした。
だが、氷河がそれを持ち上げる前にカミュがその手首を掴んだ。
「……カミュ、」
「いくら強くてもペースが早すぎる。少し抑えた方がいい」
「っ、俺、平気です、」
失恋のやけ酒を本人の前で、というのも妙な流れだが、居たたまれなくて、恥ずかしくて、惨めで、酔ってしまわなければやってられない。
「氷河」
手首を掴んだまま、名を呼んで、カミュが、ふう、とため息をつく。呆れられたのだ、と思って、身が竦む。
「お前は何か勘違いをしている。ミロのことは、」
「っ、じょ、上司のプライベートに立ち入るつもりはありませんから、」
聞きたくない。
はっきりととどめを刺されてしまったら多分、会社で顔を合わせづらい。今ならまだ、氷河のひとり相撲で、切なくはあるが笑い話だ。
「今日は上司としてではないつもりだったが」
上司と部下でないならば、ほかに何があるのか。
氷河の鼓動がドッと跳ねる。
違う、今、失恋したばかりだろ、少しは懲りてすぐに勘違いして浮かれるのやめろ、と氷河は、跳ね回る心臓を、どうどう、と宥める。
その時、カミュが椅子に掛けていたジャケットの内ポケットから電話の着信を告げる振動音が小さく鳴り響いた。
気づいていないはずはないのに、カミュはじっと氷河を見つめていて微動だにしない。
振動音は長らく続いていたが、一度静かになり、そして再度鳴り始める。
「……カミュ、電話が、」
僅かも逸らされることなくじっと見つめるルビーのような瞳が眩しくて耐え難く、堪えきれなくなってそう指摘すると、ようやくカミュは氷河の手首を掴んでいるのとは反対の手で内ポケットを探り、スマートフォンを取り出した。
だが、カミュは、ぶるぶると震えている機械を取り出しただけで、視線をやることはなく(青い光が『ミロ』と文字を刻むのが氷河からは見え、また心臓が鋭い針で貫かれたかのような痛みを発する)、そのまま電源を切ってしまった。
「で、出た方がよかったのでは。もし、大事な連絡なら、」
「後でいい」
何の連絡だったのか、誰からの連絡だったのか、確かめもしていないのにそう言ってのけるカミュの言葉は、今はお前の方が大切だ、と言っているように聞こえて、氷河は狼狽える。
「あ、の、俺、もう帰らないと、」
終電にはまだ時間はある。明日、特別に予定がある身でもない。何より、まだ、目の前に並んだ料理が半分も減ってない状況で、あまりに唐突過ぎたが、これ以上カミュと一緒にいられなかった。
自分がまったくコントロールできない。
言うつもりではない言葉が次々に口を衝いて出てしまうし、顔は勝手に火照るし、だめだだめだとどれだけセーブしてもカミュの言動のひとつひとつに心臓が勝手に鳴ってしまう。
これ以上僅かでも一緒にいたら、もしかしたらもしかして、と、あり得ない勘違いをしてしまいそうですごく怖い。あとで酷く傷つくことがわかっていても、うっかり自覚したばかりの気持ちを口走ってしまいそうだ。
自分がコントロールできないのは酒のせいだろうか。
否、昨日、瞬と飲んだときは、ほろ酔いとなった彼を気遣うくらいに余裕が残っていた。
カミュだからだ。カミュが、氷河を氷河ではなくしてしまう。
さっき言ったばかりなのに意図的にか無意識かまた触れているカミュの指は相変わらずほんのり冷たくて、なのに氷河はおかしいほど熱を帯びていて、急降下と急上昇を繰り返す思考はまったく正常に働いておらず、氷河は、カミュをまともに見ることができずに視線を逸らす。
「帰ると言うなら止めはしないが、そんな顔で帰られては今夜わたしは眠れなくなる」
そんな顔ってどんな、眠れなくなるってそれってどういう、と、氷河にまた動揺が走り、心臓はもう限界だった。
逃げるように慌てて立ち上がった瞬間、だが、目の前の景色が突然に二重写しとなった。
あれっと思うや否や、ぐにゃりと世界が大きく歪んで、平衡感覚がふっと失われる。
ひょうが、と呼ぶカミュの声に焦りの色が滲んだのを、どうしたのだろう、と、不思議に思ったと同時に氷河の世界はぐるりと暗転した。