寒いところで待ちぼうけ

パラレル:築会社シリーズ

サラリーマンパラレル
ミロ→カミュ風味かつ、氷河総受気味

アイザックが登場しないのはep1とep2の間にもう1つエピソードがあるからですが、それはまたいずれ

◆ep3 P.S. 宣恋布告です ②◆


「カミュ、メビウス社の製図データはどうしますか?」
 二人して社に戻ったとき、フロアの社員はほぼ退社して済んでいた。
 遠回りして寄った海で少々時間を食ってしまったせいである。
 ……と、言えば、二人きりの海で何か心ときめくような展開があったかのように聞こえるが、全くそんなことはなく、むしろ、ご期待に沿えずすみませんというか、いやほんとうに全くの肩すかしだよ、というか、ですよね、部下相手に海って言ったらそりゃそういうことですよね、というか───

 何か考え事をしているのか、それとも運転に集中しているのか、ハンドルを握るカミュは言葉少なで、そのくせ、自身の車という私的な空間のせいか会社では見られないほどリラックスした表情をしていて、隣に座る氷河はちらちらと横顔を盗み見ては胸をドキドキさせた。
 あまりに胸がドキドキしたものだからうまく話しかけることもできず、オーディオから流れる音楽(これはカミュの趣味だろうか!?後でタイトルを調べて同じものを買いたい!)を耳にしながら、氷河は、車窓から流れる景色に落ち着かなく視線をうろうろさせていた。
 味気ない灰色のビルと、やたらと目立つ配色の看板をいくつも数え、海ってどこのですか、くらいは聞いてもいいかな、と思い始めたころ、ロマンチックなライトアップがされることで有名な、湾の岸と岸を結ぶ吊り橋が目に入った。
 流れるような動きで、橋の方角に車線変更をするカミュに、心臓がドッと跳ねる。
 俺、なんかこういうの知っている、テレビで見たことがある、夜景を見ながらお酒を飲んでいい雰囲気になったりするやつだ、だってほら、金曜だし、えっ、でも俺、心の準備がまだ、どうしよう、何て答えたらいいんだ、もちろんカミュは好きだけど、俺でいいのか自信はないし───
 すっかりと舞い上がってしまった氷河の頭の中ではさまざまなシミュレーションが進んでいたが、だが、無数に考えたシミュレーションとは全く相違して、二人の乗ったプジョーはデートスポットが山ほどある湾岸の商業地帯ではなく、湾を挟んでその反対側、再開発途上の、何もない、寂れた荒れ地へと滑り込んだのだ。
「お前は現場は初めてだったか?」
 などと言いながら、カミュがくぐりぬけたロープに『マリンリゾート(仮称)予定地 関係者以外立ち入り禁止』と書かれた看板がぶら下がっていることを発見して、ここは、例の、綱渡りのプレゼンで勝ち取った、ウォーターフロント開発構想の中核施設の建設予定地だ、ということに氷河は気づいた。
 これは、「穴場スポットでのデート」ではなく、普通に仕事だ(よく考えてみたら車を運転してきたカミュと「お酒を飲んでいい雰囲気」になどなるはずがなかったのだ!)、と気づいて、すっかりデートのつもりみたいになっていた自分が死ぬほど恥ずかしくなって、返事もできずに氷河は真っ赤になって俯いた。
 目敏くそれに気づいたカミュが、「どうかしたのか。あれほど現場に出たがっていただろう」と首を傾げたので、氷河はますます居たたまれず身を縮こまらせる。
 カミュは、意図して思わせぶりな言い方をしたわけではなく、つまり、仕事でイライラと腐っていた氷河の気を張らすには別な仕事が一番だと考えたわけで、つまりつまり、そこには上司と部下、それ以外の関係性が混じる余地は微塵もない(少なくともカミュにはない)からそうなったわけで、仕事の鬱憤を仕事で晴らすカミュのやり方は間違っておらずカミュのそういう姿勢が氷河は好きなわけで。こんなに恥ずかしくて消えたくなることなどそうそうない。
 はい、来れて嬉しいです、と、どうにか取り繕ったものの、今日一番凹んだ状態で、工業排水と生活排水で濁った湾の海水を横目で眺めながら、カミュに気づかれないようにこっそりと、氷河は自分の頬をピシャリと殴りつけたのだった。

 カミュはどうやら、現場の測量士たちと元々会う予定になっていたらしく、プレハブの仮設事務所で図面と測量データを見ながらの打ち合わせが終わったのは、結局、日が暮れてしまってからだった。
 プレハブの外へ出て辺りが暗くなっていることに気づくと、カミュは、遅くなってすまなかった、今日はこのまま家まで送ろう、と言ってくれたのだが、今度こそオフタイムのドライブだ、と浮かれてしまうことができないほど、気持ちは凹み切っていた。
 このままダウナーな状態で一人暮らしの家に戻ってもしんどいだけだ。
 だから、一旦気持ちを立て直すために、仕事が残っていたのを思い出しました、と氷河は言って(何の仕事だ、と相当に不審がられたが)、半ば無理矢理、社までついて戻ってきたのだった。
 仕事があります、と言って戻った手前、何もしないわけにもいかなくなって、図面のデータフォルダを整理のために開いて、そして、くだんのメビウス社のデータを氷河は発見したのだ。
 そうだ、そもそも全ての元凶はこれだよ!と、苛立ちと鬱屈に任せて削除ボタンを押したい衝動と戦いながらカミュに問うたのだ。
 今日初めての登社となるカミュは、不在の間に机の上に山ほど積まれていた稟議書に目を通しているところだったが、氷河の声に応えて顔を上げた。
「ああ、そうだったな。メールを送っておいてくれ」
「やっぱり送るんですか」
「バックアップは残しておいてくれ。削除はするな」
「もう使うことはないのに、ですか」
 アナログな図面をデジタルに変換するのはなかなか骨の折れる作業だった。しかも、あの男がろくに探していないだけで、本当はメビウス社のどこかに存在しているはずのデータだ。明日にでも「見つかったからもういい」となって、全部水泡に帰すかもしれないとわかっている作業に取り組むのは並大抵のことではなかった。
 面倒でしかないその作業が苦にならなかったのは、これからの設計作業を頭に思い描いて少しわくわくしていたからであって。
 手間だけかけさせられて、安いだけが売りの三流業者に横から仕事をかっさらわれてはやはり面白くはない。ちょっとした意地悪で、データを送らないことにしたって許されてもいいような気がする。
 だが、向かいに座るカミュは、『承認』と『差し戻し』に稟議書を分ける作業をしながら、使うことはなくとも、だ、と首を振った。
「納得がいかないか、氷河」
「それは……逆に俺はなぜあなたが平気なのかがわかりません、カミュ」
 平気ではないな、わたしも、と言いながらカミュは別の現場の図面を広げている。
 ダメージを受けているようには見えないし、受けていて見せないようにしているなら、その完璧なポーカーフェイスぶりは少し怖い。
「……そもそも、どうしてこの仕事を受けたのですか」
 どちらかと言うと慎重で、リスクは取りたがらないカミュには珍しく、ミロの反対を押し切ってまでこの仕事を受けた。そこまでしたにも関わらず、土壇場で反故にされたというのに一向に動じていないのは全く解せない。
「『どうして』?お前ならわかると思ったがな……」
「俺が?」
 わからない。カミュが何を考えているのかいつだってやきもきしているが、今回はまた特にわからない。
「製図データを描き写していて気がついたことはないか」
「気がついたこと……?」
 面倒な作業だったが、氷河には勉強にはなったことは確かだ。
 奇抜な建築デザインだけが目を引きがちだが、意外にもメビウス社の社屋は機能的で堅実な構造をしていて、建築物としても優良な部類に入ると思った。球面を持つ建造物はデッドスペースが生まれがちだが、メビウスはそのデッドスペースを生かして耐熱性を高める構造としていて、へえ、こうやってデザインと両立させる方法もあるんだ、と氷河は感心したものだった。
 だが、その程度であれば、そこまで特異な工夫とまでは言えない。カミュの琴線に触れるほどではないような気がして、答えを探して考え込んだ氷河に、カミュは、ふ、と笑う。
「そうか……お前はあの頃の建築物をあまり見ていないのだな」
「あの頃というのは、メビウスがつくられた頃、ということですか?」
「そうだ。経済が実態以上に膨張して、あらゆる不動産の価値が跳ね上がり、異常なほどの建築ラッシュが起こった」
 そう言えばそう習ったことがあるようなないような。(あまり熱心に授業を聞くタイプの生徒ではなかったため自信はない)
「その頃に建築された建物が今どうなっているか一度調べてみるといい。無理な工期での突貫工事に地盤も調べずに設計図の使い回し、質の悪い早強コンクリート……おそらく、あの異常な好景気はすぐに破綻することを皆わかっていたのだろうな。数年もてばそれでいい、とにかく泡沫の景気が弾ける前に建てて建てて建てまくって売り切れ、ということがありあり感じられるような、ぞっとするような酷い施工の跡をわたしは多く見てきた」
「…………メビウス社の建物には俺は感じませんでした。むしろ……」
 氷河は画面に呼び出した製図データを眺めた。
 長期に使用されることが前提となった建物である、と。
 そう、見える。
 コンクリートに使用されているアンカーの種類ひとつとってもわかる。これは、いずれ、抜くことを想定して作られているものだ。
 内部拡張型アンカーボルトは、種類によっては、一度施工したら引き抜けなくなる。コンクリートを固定するためのボルトだ、引き抜けなくても短期的には問題は起こらない。むしろ、引き抜けないことで頑丈さを後押ししている側面はある。
 だが、コンクリートそのものにも耐用年数というものはある。乾燥と高温で中性化が進行すると、剥離に亀裂、内部鉄筋の爆裂が起こりやすくなる。アンカーボルトが引き抜けて、部分的にコンクリートの修復ができる構造になっていれば、建物自体の長寿命化が図れる。
 目地をまたぐ形での空調や非常防災機器類の設置をしていないのも、いずれ来る、目地の打ち直しを想定してのことか。
 初期設計から既に壁中に空けられた配線用スペースは、近年、急速に進んだIT化を容易にさせたことだろう。
 どれもこれも、今ではそう作るのは常識だとすら言えるが、確かに、大量生産大量消費の時代につくられた建物だと思えば、これは………
「…………いい、設計、ですね、これは。今さらですが」
「そうだな。設計者を調べてみたが、もう亡くなっていた。建物を蘇らせることができるのは、だから、この設計者の思いが理解できる我が社を置いてほかにない、とわたしは思った。クライアントの態度がいささか失礼だというだけで断るべきではない、とな」
「でも、だったら、なおさら……!」
 安いだけの業者に任せてしまったのでは、せっかくの建物の寿命を縮めてしまうだけだ。
 カミュならきっと完璧に蘇らせることができるのに、それを理解しないあの浅はかな男のせいで台無しになってしまう。
「訴えましょう、カミュ!」
「訴える?」
「俺、法務部に行って聞いてきます。だってあの男は、『それで進めといて』と言ったんです。簡単にやっぱりやめた、なんて道理が通るのはおかしいです!」
「確かに法的には口約束でも契約は契約だ。訴えればおそらく我が社は勝つだろうが、だが、金銭的損失を埋めればそれでよいというものではない」
「だけど、だって、泣き寝入りなんておかしいです、こんなの!カミュは、カミュが、だって、こんなに、」
 昂る感情にだんだんと声が大きくなり、じわりと、涙腺が刺激された時だ。
 元気のいい残業があったものだな、と笑いを帯びた声が入り口のあたりで響いた。
「ミロ!」
「外まで筒抜けだったぞ。訴訟とは穏やかではないな」
 そう言ってミロは氷河に近寄ると、気持ちはわかるが少し落ち着け、と、くしゃりと髪をかき回した。カミュの前でまるで子どもにするように頭を撫でられて、カッと頭に血が上る。
 抗議しようと息を吸った瞬間、だが、「氷河に気安く触るな」と、地を這うようなカミュの声がミロを咎めた。
 ミロは、わかってるさ、と素直に両手をホールドアップさせて肩をすくめる。
「お前、過保護に拍車がかかってないか?」
「余計な世話だ。……それより、」
「そう急くな。俺が収穫もなしに寄ったと思うか?」
 そう言うと、ミロは、机を回り込み、カミュの机へ手をついて、腰を折った。
 氷河に聞こえぬほど低く声を落としたミロが、カミュの耳元で何か囁く。
 唇が触れそうなほどの距離に近づいて、二人だけの会話をかわす姿に、氷河の胸がギシギシと不快な音を立てて軋む。
 ミロから何事か告げられたカミュは微かに眉根を寄せ、「わかった。わたしも行こう」と頷いて立ち上がった。
 ミロがニヤッと笑って「念願の初デートだな」と言ったことで、氷河の胸のざわめきははっきりと痛みへと変わった。ミロ、とカミュは渋い顔をして窘めてはいるが否定はせず、トントンと書類をまとめて帰り支度を始めてしまう。
「カミュを借りてしまって悪いな、坊や。俺は君が一緒についてきても構わないが……」
 ミロが伺いを立てるようにカミュに視線を投げる。
 だが、カミュは、僅かも迷う素振りを見せず、氷河は連れて行けない、と首を振った。
 二人の間に立ち入りたいなどと思っているわけではないし、仮に、仮に、だ、本当にデートなのだとしたらいくらなんでもついていくような野暮はしたりしないが、こうまではっきりと蚊帳の外宣言をされてしまうと、きりきりと捩じれそうに胸が痛い。
「氷河、送ってやれなくて悪いが……一人で大丈夫か?」
 カミュの送りは、冥界建設の男に絡まれてからしばらく続いていたが、遠回りさせているのはやはり申し訳なくて、近頃は何かと理由をつけては固辞している。
 だから、「一人で大丈夫」な実績はしっかり積んでいて今さら確認するようなことでもないのに、どうしてこのタイミングでカミュはそんなことを訊くのか。
 二人して氷河を子ども同然の半人前扱いすることに、どうしようもなく胸がじくじくして堪らない気持ちになる。
「俺のことは気にしないでください。元々、もう帰る予定でしたし」
 ひとりで、帰る予定でした、最初から、と思わず続けて零れてしまって、なんだか拗ねた子どもの捨て台詞みたいになってしまってかっこわるかったが、零れてしまった言葉はもう取り消せない。
 顔を赤くして氷河はカバンを抱え、では失礼します、と逃げるようにフロアを飛び出す。
 氷河、と引き留めるカミュの声にはとてもではないが振り返れなかった。

**

「……氷河?どうしたの、こんなところで。……氷河?おーい、ひょおがー?」
 肩を揺すられてようやく、聞こえていた声が、自分を呼ぶものだったということに気づいて、氷河は、え、と顔を上げた。
 一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって、辺りを見回す。
 会社近くの駅前だ、まだ。
 なんとなく、あのまま電車に乗る気になれなくて、コンビニで買ったコーヒーを片手に、植え込み花壇のコンクリートブロックに腰かけていたのだ。
 コーヒーを飲んで気分転換をしたら帰るつもりが、いつの間にかぼうっと考え込んでしまっていたらしい。
「誰かと待ち合わせ?」
 氷河の顔をのぞきこむように膝を折る、少女と見紛うかわいらしい顔立ちの、だが、れっきとした男は、同じ会社に勤めている、同期の瞬だ。
「……いや、帰るところだった」
「ふうん?そのわりに長いことそこにいたけどね……?ね、予定ないなら、ご飯でも付き合わない?僕、おなかぺこぺこなんだ」
 そう言って、瞬は、ねっ?と氷河の腕を取ってにっこりと笑った。
 今日のような日は、どうせ帰ってもコンビニ飯になるか、それすら面倒で買い置きのカップ麺を食べて終わりだ。素直に頷いて、氷河は瞬の腕に引かれるに任せて立ち上がる。
 プラスチックカップの中身を飲み干して(どのくらい時間が経っていたのか、ずいぶんとぬるくなっていた)、カップをゴミ箱に投げ捨て、氷河は歩き出す。
「こんな時間まで残業だったのか。総務部は大変なんだな」
「何言ってるの、氷河だっていつも遅いじゃない。僕のは決算期だけだもん」
 氷河に並ぶように歩きながら、瞬は、僕の好きなものでいいよねー、おいしいガレットのお店見つけたんだ、そこにしよっと、と了解も取らずに勝手に行き先を決めてしまった。
 だが、特に食に対して拘りのない身、何食べたい?などと相談されても、「なんでもいい」以外の回答が出そうにないわけで、氷河のそうした性質をよく知っているから、瞬も、希望を聞きもしないのだ。要はそれだけ気心が知れているのである。
 だが、氷河の肘に自分の腕を絡ませながら、「二人きりのデート、初めてだね」などと、どこかで聞いたことがあるような台詞を瞬が言うものだから、せっかく忘れかけていた胸の痛みが戻ってきて、それが氷河の気持ちをまた沈ませるのだった。


 間接照明ばかりのやたら洒落た店内に案内されて、聞きなれない料理名が並ぶメニュー表を差し出されたときも「瞬に任せる」と言えば、彼は、てきぱきと氷河の分まで注文を決めてくれた。自分にはリンゴ酒、氷河にはウォッカトニックまでつけるというおまけつきで。
「なんかあったの?」
 瞬が半熟卵の乗ったガレットを器用に一口サイズに切り分けて氷河の取り皿の上へ乗せてくれながらそう問うた。
「……いや……あったというか……」
 むしろ、何もできない自分に落ち込んでいるというか。
 カミュに一人前に扱ってもらえなくて凹んでる……ってとこかな?と、悪戯っぽく笑う、その勘の鋭さは時折こわい。
「まあ、そんなとこ、かな」
「ふふ、氷河かわいい」
 かわいい、と言われても腹が立たないのは、氷河より明らかに『かわいい』容貌をしている瞬が言うからだ。
「カミュのこと、すきなんだね」
 だが、ストレートにそんな風に指摘されてはさすがに動揺し、思わず口に含んだウォッカを吹いてしまうところだ。
「えっ、いや、俺は、そういう、」
 冷たいひとかと思ったけど、部下にそんなに好かれるなんて意外だね、と瞬が続けたので、『上司として』か、と気づいて、氷河は自分の勘違いに赤くなった。
「……………上司と部下って、どこまで行っても上司と部下、だよな」
「??それ以外になにがあるの」
「いや、なんでもない」
 自分の抱えている、うっすらとほの甘い気持ちを口にするのが恥ずかしい、とか、そういう初心さがあるわけではない。
 つりあいもしない、相手にされてもいないのに、何を夢見ているのか、と笑われやしないかと、感じているのはそういう居たたまれなさ、だ。
「………俺、やっぱり頼りないよな」
 はあ、とため息をつくと、瞬がくすくすと笑った。
「比べる相手があのカミュじゃどんな人間だってそう見えちゃうのは仕方ないんじゃない?ましてや僕たちまだ新人と言っても通るくらいしか社会経験ないわけだし。……ただ、そうだなあ……。氷河ってすっごい鋭くて頼もしい時と、全然そうじゃなくて隙だらけな時があって、大丈夫かな、とは思うよね」
 遠慮のない指摘にウッと項垂れ、おそるおそる、隙だらけって例えば、と聞いてみる。
「さっきもそう。氷河のこと車の中からじっと見てた男がいたの、気づいてないでしょう」
「男?」
「そ。氷河のすぐ傍に銀色の車が停まってたでしょう?鷲鼻でこう顔色の悪い感じのおじさん。なんかやらしー目つきでずっと氷河を見てた。僕が声かけなきゃやっかいごとに巻き込まれてたかもしれないよ」
「はは、まさか!道を聞きたかっただけかもしれないじゃないか」
「ほら、そういうとこだってば。僕は自分が女の子だと間違われやすい外見してる自覚あるから自衛してるけどさ、氷河は自分がどう見えるか自覚がないから怖いんだよね」
「だが、俺なんか別に……目立つって意味ならミロやカミュの方が」
「あの人たちはトラブルをかわす社会経験を持ってるじゃない。氷河はそうじゃないでしょ」
「そんなことはない。俺だってそれなりに気をつけている」
「気をつけていて、他人に自分が口にするアルコールの注文させちゃう無防備さはちょっとどうかなあ。例えばさ、僕が不埒なこと考えてたらどうするの。わざと氷河にだけ度数の強いの飲ませてお持ち帰り、なんて古典的手段じゃない」
「………お前はそんなことしないし、俺は少々の酒ではつぶれない」
 だからその自信が怖いんだってば。一度痛い目見せてあげようか?と微笑む瞬の目が、なんだか全然笑っているように見えない。
 いよいよ笑い飛ばす空気ではなくなって、氷河は、うーん、と真剣に考え込む。
 腕っぷしは強い方で、だから、瞬が言うような自衛を考えたことはなかったが、言われてみれば少しトラブルには遭いやすい……というか、変な輩に絡まれがちな性質かもしれない。
「そうか…………だからカミュは俺を家まで送ろうとするのだな……」
 アルコールでいくらか軽くなった口がそうポロリと零せば、瞬は、えっ、と目を見開いた。
「カミュ、氷河を家まで送ってくれるの?いつも?」
「いや、最近はずっと俺が断っている。だが、まあ……少し前まではほとんど毎日、だったかな」
「ええーっ、毎日?家まで?えっ、隣に住んでるとかじゃないよね??部下ってだけでそこまでするひと、いるかなあ。個人的な感情がないとしないんじゃない、普通は」
「な、」
 違う違う違う、と氷河はぶんぶんと首を振った。
「前に俺が帰り道でトラブルに遭ったからそれでだ。もう大丈夫だと言ったのに、カミュが心配して……」
「心配って……え、ええー?でも、それ、氷河以外にもカミュはそんなことするわけ?何人部下がいると思ってるの、建築設計部。いちいち全員が家に無事にたどり着けるよう送って回る上司がいたら、それ、もう上司じゃなくて保育士かなんかだよ」
「ほ、保育士って……だからそれは、その時のトラブルが仕事に影響してしまったから、カミュはまたそうならないように、責任感から、だと思う。心配、というより、俺が何かやらかさないか、監視、なのかもしれない」
 氷河の方は私情ありありだが、カミュがそうではないことは、とりわけ今日、痛いほど自覚した。瞬の言葉に浮かれて勘違いをしてしまわないように、氷河はほとんど自分に言い聞かせるようにそう言った。
 瞬は、うーん、とまだ納得いかなさげだ。
 氷河だって本心では瞬の解釈に乗っかりたいところだが、簡単には乗っかれない障壁がそこにはあるわけで。
「だいいち……カミュは多分ミロが……」
「ミロ?営業部の?えっ、つきあってるの、ふたり?」
「まだ違うとは思うが……仲はいい。今夜も、二人でどこかに行くみたいだった。……ミロは、デートだって言っていたが」
 今頃二人は何をしているんだろう、と思えば、氷河の胸はキリキリと締め付けられて苦しい。
「えー、でも、うーん、つきあってないにしても、それらしいステディいる人が、毎日送ってくれるかなあ?ミロとは何でもないんじゃない……?」
 瞬はそう言うが、それは、あの、どことなくただならぬ空気を醸す二人を見ていないからだ。
 はあ、と、憂いを帯びたため息が零れた、その時だ。
 氷河のパンツの尻ポケットでブルブルとスマートフォンが震えた。
 悪い、と瞬に断りを入れて取り出し、液晶画面を確認する。
 メッセージだ。
 ───カミュからの。
 話題にしていた人物からの連絡に、思わず動揺が表情に上ったか、瞬が即座に「カミュからなんだ?」と問う。
「……ああ、たぶん、仕事かな」
 そもそも、業務連絡のために交換した連絡先である。
 氷河がそう思うのは当然のことだった。
 急ぎの仕事の指示なら、今なら会社にとって返すのは容易いが、酒を飲んだのはこうなるとまずかったかな、と思いながらメッセージを開けば……

 『無事に家に着いたか?』

 ごくごく短いメッセージ。
 業務連絡にしては、どことなくやさしげな空気の漂う文字列に、それが『仕事』の範疇か否かわからずに、氷河は戸惑う。
「どうかした?」
「いや………無事に家に着いたかって、ただ、その確認だった」
 えーっと瞬がなぜか赤くなって両手で顔を覆う。
「ほらあ!ミロと『デート』中にまで気になって送ってきちゃうなんて、それってもう『そう』じゃない!?カミュってあんな淡泊そうで冷たく見えるのに、意外にも甘やかしてべったべたに大事にしちゃうタイプなんだあー!」
「えっ?いやだって、家に帰ったかってそれだけだ……カミュは上司として当然の、」
「氷河の上司像、だいぶ間違ってるからね!?少なくとも僕はダイダロス部長に一度もそんなことされたことないから!上司と部下って言うのは文字どおりもっともっともーっとビジネスライクな関係なんですぅー!」
 瞬は「ああ、氷河ったら鈍いんだから」と身悶えている。
 わたし以外と会っていまいなっていう独占欲と解釈するのもおもしろいかも(面白がっているのか……)、と、自分の想像できゃあきゃあ言っている酔っ払いは置いておいて、早く返信をしなければ、と、氷河は画面を睨みつけた。

 『まだ会社の近くです。たまたま同僚と会って食事をすることになったので』

 正直にそう打って、だが、上司に対しての返信にしては、なんだか意味もなく浮気の言い訳っぽくなってしまった気がして(絶対に瞬のせいだ)、しばし逡巡した末に氷河はその文字を消した。
 代わりに、当たり障りなく、

 『着いています。お疲れさまでした』

 そう送った。
 カミュは今どちらですか、まだミロと一緒ですか、と、続けたかったが、さすがに立ち入りすぎだと思い、どうにかそれは堪えきった。
 送信ボタンを押した後で、嘘をついてしまった形になったことが急に落ち着かなくなり、そろそろ本当に帰ろう、と、氷河は皿の上のものを片付けにかかった。
 酒のグラスにばかり口をつけて、食事の方はほとんど手をつけていなかったのだ。
 だがいくらも口に運ばないうちに、また、スマートフォンが震えた。
 今度は、瞬に表情を読ませないように、一旦深呼吸をしてからゆっくりと開く。

 『明日、何か予定はあるか』

 今度こそ休日出勤の要請だろうか。
 カミュは自分では休みでも構わず出勤するくせに、氷河のことは労働基準法がどうのこうのと休ませたがるから、わざわざ出勤するよう連絡があるのは珍しい。(いつもは、単に、氷河が自主的に出勤してカミュを手伝っているだけだ。業務命令による出勤ではないから時間外勤務の請求をしたことはないが、給料明細から察するに、どうやらカミュが勤怠記録表上は後から業務命令を加えてくれているらしかった)
 週末は、そろそろ近づく建築士試験の勉強にあてたかったが、これは何かよほどのトラブルが起こったのかもしれない。
 正直、一人で勉強をしているより、カミュと仕事をしている方がずっと楽しいため、トラブルが起きたのかも、を言い訳に、あっさりと勉強の予定は反故にして氷河は文字を打つ。

 『何もありません』

 今度はしばし間があった。
 瞬、これ旨いぞ、と彼に皿を押しやりながら、意識はテーブルの上に置いたスマートフォンに集中していて、やけに乾く唇を濡らすために、氷河はアルコールのグラスを落ち着かなく何度も口元に運ぶ。
 リンゴ酒半杯ですっかりほろ酔いの瞬に水をもらってやって、彼のグラスの残りを代わりに空にしたところで、三度目にスマートフォンが震えた。
 返信に時間がかかっていたから、超長い、月曜までにやる仕事リストでも届いたのだったりして、と、ごくりと喉を鳴らしておそるおそる開けば───

 『勉強を見てやる約束だった。明日ならゆっくり時間がとれる』

 えっ……?
 どういう意味だろう、と、並ぶ文字を何度か目で往復して、そしてようやく意味を飲み込むや否や、激しく動揺して氷河は思わず顔を跳ね上げて瞬を見た。
 どうしたの?今からお前のうちに行くって?とからかう瞬に、全力でぶるぶると首を振って氷河はもう一度液晶画面を見下ろした。
 鼓動を落ち着かせようと、自分のグラスに残っていたウォッカをぐっと喉に流し込む。
 度数の強い酒精が流れ込む喉が、胸が、腹が、カッと熱を発する。
 これは、つまり、つまり、仕事ではなくて、いや、半分は仕事のようなものだけど、もしかしたらカミュには9割方、業務の延長のようなものかもしれないけど、会社の就業規則に縛られない、という意味では、プライベートでのお誘いと受け止めていいのだろうか!?
 いや、勉強を見て欲しいのは俺の方で、ようやくカミュにその時間が空いたという報告だ、これは。つまり、俺は誘われたのではなく、誘う権利を与えられた、という意味か!?
 わかりにくく、解釈の難易度が高い文字列に、いったいなんと返信をすれば正解なのかわからず、氷河はぐるぐると考え込む。
 ええと、まずは、ありがとうございます、ぜひお願いします、だろうか。(うれしいことを現すハートマークの絵文字もつければいいのか!?キャラじゃないけど、世間的にそれが普通だったら、ないと愛想がないと思われないか!?)それから、それから………ば、場所をどうする!?俺の家に誘えばいいのか、いや、教えを乞う身で家まで来てもらうのは失礼か、だからってカミュの家に上がり込むのは図々しすぎないか、え、でもでも、ああ、もう場所なんか後だ、まずは何か返さないと、返信を迷っているうちにカミュの気が変わったり次の予定が入ってしまったりしたら困る!
 ひょおがー?と舌足らずに己を呼ぶ瞬のことは完全に無視で、氷河は、慌てて文字を打ち、震える指で送信ボタンを押す。
 が、押した瞬間に、ありがとうございます、と打ったつもりが、慌てすぎて、あれがとえございめす、となってしまった誤字に気づいて、氷河は、あああああ、とテーブルにつっぷすのだった。