藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
ミロ氷でカノザク
◆Navy Story ⑰◆
海風がさらさらと梢を揺らしている。
揺れるたびに葉の間から零れる光が少し眩しい。
風に乗って潮の香りが運ばれてくるたびに、懐かしさと寂しさが交じり合った疼きが氷河の胸をきゅうと締め付ける。
城の中庭、一番高い楢の木の枝の上、少し不安定に揺れるそこはまるで海の上のようで、未練がましく思い出してしまう自分を疎ましいと思っているのに、気づけばいつの間にか、ここに来てしまっている。
今頃彼はどこでどうしているのか。
なぜ海賊同士が戦っていたのか、はっきりとしたことはわからないまま、あれきり蠍たちの行方は杳として知れず、その噂すらも届かなくなった。
氷河はすっかり手に馴染んだ短剣の柄を頭上に掲げて、はあ、とため息をついた。
勇気を振り絞って、気持ちを伝えた。
海賊相手だ、人の道を踏み外す覚悟で告げた言葉だったのに。
それに対する答えは彼からはなかった。
もしも、と、もう何度目かしれない問いを氷河は繰り返す。
あの時、彼が、俺もだ、と答えていたなら。
彼と共に行く選択肢はやはりなかっただろう。それでも、きっと別れる覚悟は揺らいでいた。
氷河の揺らぎを察して、こちら側には来るな、と、強く一線を引かれてしまったのだろうか。
それとも、同じ気持ちを共有しているような気がした、あれは、氷河の思い違いに過ぎなかったか。
今頃また、新しい玩具を見つけて、あの、人好きのする、だが少し憎い笑みを浮かべて揶揄っているのかもしれない、と想像したら、嫉妬で胸が捩れそうだ。
氷河の中では、彼と過ごした日々が色褪せることなく、切ない痛みとなっていつまでも残っているというのに。
「……いなくても、俺を振り回すんだな、あなたは」
唇を噛んで、氷河は枝の上で立ち上がった。
もうあれから何か月も経つ。
いい加減に過去にしてしまわなければ、と短剣を遠くに放り捨ててしまおうと大きく振りかぶって、だが、最後の最後の瞬間に躊躇してしまい、手放せずにぱたりと手を下ろす。
この葛藤も、もう何度目か。
はあ、ともう一度ため息をついたとき、氷河、と下から呼ぶ声があった。
「アイザック!」
慌てて見下ろせば、またここにいるのか、と苦笑しながら、幹を上って来るアイザックの姿が見えた。
「起き上がって大丈夫なのか、今日は風が冷たいのに」
差し出した氷河の腕を取って自分の身体を同じ枝の上に引き上げながら、アイザックは笑った。
「いつまで病人扱いする気だ。みろ、すっかり元通りだ」
そう言って氷河の額にくっつけたアイザックの額にはうっすらと汗が滲んでいる。以前は簡単に上っていた木ですら、今の彼には大仕事なのだ。
当然だ。
一月前まで起き上がれもしなかった。
アイザックはグラード領に戻ってから数か月もの間、臥せつかなければならないほどの重傷だったのだ。カミュが再びの海賊討伐にすぐに発つことができなかったのはそのためだ。
愛弟子が回復するまでは傍に、というカミュからの願い出を伯爵は受け入れた。艦の指揮は余人をもって代えがたいと判断され(件の司令官殿はさすがにバツが悪かったのか、艦を下りるなりこそこそと消えてしまった)、グラード領の海賊討伐は一時棚上げされている。
なかなか起き上がれないほど重傷ではあったが、ムウの最初の処置が適切だったのか命が危うくなることはなく、だというのに、アイザックが回復するのを待たずして、後継争いはすっかり氷河派優勢で決してしまった。
そのことが腹立たしく、彼を蔑ろにする重鎮たちへのせめてもの抵抗に、氷河は、自分の成年の儀のための礼装の採寸から頑なに逃げている。
成年と同時に後継の儀式も済ましてしまわねばならぬほど、領主は老いに弱り始めているからだ。
旦那様の顔に泥を塗る気か、最上級の絹と金糸を纏わねばグラード領の領主の名が廃る、と執事頭の辰巳が怒り心頭で小言をくれるのだが、バカバカしすぎてまともに聞く気にはなれない。
大人になるとはそういうことじゃない。
……ない、と教えてくれたひととはもう会えないけれど、とまた胸が切なくなる。
「また奴のことを考えていたのか?」
アイザックが氷河の頬を撫でる。違うよ、と少し不貞腐れた声になったのが、図星だ、と言ったみたいになって、氷河は気まずく俯いた。
「……なんだか、長い夢を見ていたようだな」
そう言ったアイザックの左目はもう包帯こそないものの、新緑のように美しかった碧の瞳は失われ、痛々しい大きな傷跡が顔の左半分に残っていて、皮肉にも、あれらの出来事が夢ではなかった証となっている。
氷河の視線に気づいたのか、アイザックが、ひとつだけの瞳をフッと細めた。
「箔がついて男ぶりが上がっただろ?」
自分以外の誰にも、ほんの僅かな責任すらも負わせまいと毅然と振る舞う彼の気持ちを、俺のせいで、などと浅薄な台詞で踏みにじることはできない。
氷河は泣きたくなるのを堪えて、アイザックの背へ腕を回して抱きしめ、お前は今までもこれからもずっといい男だよ、と言った。
これから、まで断言されちゃ道を踏み外しにくいな、と言ってアイザックは苦笑する。
なかなか息が整わないのか、まだ少し肩が上下しているアイザックを枝の上へ座らせて、支えるように腕を回して氷河も隣へ腰かける。
「お前が道を踏み外すわけがないだろ。……この地は、だから、お前が継ぐべきなんだ。みんな間違っている」
もう、『父親』に従うのが嫌だとか、政が苦手だとか、そんな子どもじみた理由で避けているわけではない。
ただ、様々な経験を経て、己が器ではないことを強く自覚してしまっただけだ。
己を犠牲にしても他人を躊躇いなく救えるアイザックの方がずっとずっとふさわしいことは誰より自分がよくわかっている。にもかかわらず、すっかり氷河で決まったかのような城中の空気が、正直、怖い。
「大丈夫、お前ならやれるよ」
そんな慰めが欲しかったわけではない。だが、この期に及んでぐだぐだと抵抗するのは男らしくない。
深く息をついて、氷河は、アイザックの肩に己の額をとん、とぶつけた。
「俺が間違った方向に進みそうなら、お前が全力で止めてくれ。頼りにしている」
表向きの後継者は氷河でも、実際の舵取りはきっと二人でだ。それが今の氷河の救いだったのだが、だが、アイザックは途端に視線を下に落として言い淀んだ。
「あー……、そのことなんだが、氷河、俺は……」
どうした?と氷河が首を傾げたその時だ。
二人ともそこにいるのか、と大きな声が真下で発せられた。
見下ろせば、枝葉の隙間から、ちらちらと禿頭がのぞいている。
辰巳だ。
彼が氷河を呼ぶ用事と言ったらだいたいろくでもないことばかりだ。
うんざり顔となって、だが、アイザックに窘めるような視線を寄越されて、仕方なく氷河は、いるけど何だよ、と叫んだ。
「すぐに下りてくるんだ。急なことだがこれから式典が開かれることになった」
式典、と、氷河の心臓がドッと跳ねる。
動揺で身体をぐらつかせた氷河の腕をしっかりと掴みながら、アイザックが下に向かって叫ぶ。
「何の式典だ!俺たちに何か関係があるのか!」
辰巳が、大ありだ、だから早く正装しろ、と苛々した声を投げる。
自分たちに関係ある式典など、もう決まっているも同然だ。
ついに来たのか、と観念しながらも、やはり、不安で指先が震えてしまう。
「カミュ先生がついてる。ちゃんとやれるところ、見せなきゃな」
力強く背を叩くアイザックのその言葉で少しだけ自分を取り戻して、氷河は頷いた。
それでも酷く重い気分で、のろのろと幹を伝って地面へと下り立てば、辰巳は両手を腰にやって仁王立ちで二人を待っていた。
「まったくいつもこんなところで油を売ってばかり、これで旦那様の後継ぎの自覚があるのかどうか……」
放っておいたら無限に続く小言だ。辰巳の言葉を急いで遮って、氷河は、何の式典だ、と問うた。
「祝いだよ、祝い」
「祝い?」
「ああ、海賊討伐を終えて女王陛下の海軍ご一行様が今しがた入港なすった。それを歓迎する式典だ」
予想外の辰巳の答えに面食らって、え?と氷河は気の抜けた声を出した。
自分が主役の式典が開かれるのではないことがわかって安堵すると同時に、すぐには飲み込めなかった言葉の意味を何度も反芻して咀嚼する。
海賊討伐を終えて……?海軍……?
どの領地でもそれなりに海賊退治に力は入れているが、女王陛下を頂く、都の海軍が標的にしているほどの大物とは、即ち───
ドクドクと氷河の心臓が激しく脈打ち始めた。
アイザックがそっと氷河の背を支えるように腕を回す。
「か、海賊って、」
明瞭な音とならないほど声が戦慄く。
アイザックが耳元で「落ち着け、まだそうと決まったわけじゃない」と囁いたが、膝までが震え始めた。
「蠍だ、蠍!喜べ、あの夜にお前たちを拐かした憎き賊がついに討ち取られたそうだ!確かスコルピオ号?そんな名前だったかな。
赤い蠍を描いた帆の。海軍様が見事に引導を渡して奴の首を持ち帰ったそうだ。急いで準備だ、盛大な祝宴になるぞ!」
ぐら、と景色が揺れた。
氷河、と慌てた様子のアイザックの声を最後に、氷河の耳には何の音も届かなくなった。
**
大広間はかつてなく豪華に飾り立てられていた。
まだ日も高いうちだというのに贅沢にも全てのシャンデリアには火が灯され、色とりどりの花が随所を飾り、歓迎の音楽を奏でるための楽師たちは壁際にずらりと居並ぶ。
氷河たちも皆、最礼装で、広間の入り口から中央に向かって敷かれた赤い天鵞絨の正面に立ち並んでいた。
老いで身体が弱っていることもあって、招宴時はいつも、玉座に座ったまま動かない光政卿ですら例外ではなく、杖を支えにしてではあったが、氷河とアイザックに挟まれる形で立っている。
陛下直属の軍隊、それを指揮する最高司令官ともなれば、地方領主より位が高いからだ。
一足早く城に到着した先触れの特使が今、光政卿の前に跪いて、司令官であるナントカ提督とやらの経歴とこれまでの功績など、長口上を述べているところだが、氷河の耳は音を拾わないままだ。
何も聞きたくない。
これなら、後継の儀式が執り行われた方がましだった。
ミロを死なせたくなくて別れることを選択したのに、こんなに早くその死の報せを受けることになるのならば、最後まで共に戦えばよかった。
ミロの最期はどうだっただろうか。
海賊ながら不思議に正邪を心得ていたあのひとは、名君と名高い、現女王陛下の海軍相手には醜い抵抗はしなかったかもしれない。
きっと、そうだ。
正義の剣を前にしては、潔く、ここまでだ、と、己自身で決したのではあるまいか。
そうでなければ、いかに海軍であってもあのひとが討ち取られるはずはない。
風のように自由で、嫌味なほど強くて、笑うと意外にやさしくて、なのに時に厳しくて、自分自身に対してはもっと厳しかった。
義賊、などと陳腐な言葉で説明できはしないが、それでも、ただの悪賊と彼は何かが違っていた。それは、母を海賊に殺された氷河の心ですら、動かしてしまうほどで。
彼が追っていた、氷河の母を殺した黒の蠍はどうなっただろうか。せめてそちらも討伐されたのでなければ浮かばれない。
握りしめた氷河の拳が激しく震えている。
グラード領での成年を迎えていない氷河には、まだ帯剣は許されていない。
だが、氷河は、礼装に着替えるにあたり、こっそりとあの短剣を懐に忍ばせてきた。
海軍相手に八つ当たりのような大立ち回りを演じるつもりはない。
人攫いに盗み──ミロが法を犯していたことは紛れもなく事実だ。勤めを果たした将官たちに責めは何もない。
それでも、これから姿を現す提督が、あの、腑抜けた「司令官殿」と同様の男で、彼らを貶めるようなことを口にしたなら、今や形見となってしまったそれを抜かない自信もない。
青ざめて俯いていた氷河は、特使の長口上がいつの間にか終わり、主を招き入れるために立ち上がっていたことに気づかず、さあっと射した光に驚いてハッとした。
大広間の扉が大きく開け放たれている。
光を背にしたシルエット。
逆光となって、顔はよく見えない。
だが、真っ白な軍服を纏った長身の男が、同じく長身の軍装の男二人を従えて天鵞絨の上を姿勢よく真っ直ぐに歩いてくるのはわかった。
正義を成した者のみに許される堂々たる凱旋が苦しくて、氷河は俯いて唇をぐっと噛みしめる。
胸に山ほど勲章のついた男が、天鵞絨の中ほどで、すっと膝をついて頭を垂れた。
続く二人もその両脇に控えるように膝をついて頭を下げる。
「領主殿、この度は、わが艦の燃料補給のための寄港をお許しくださり、また、このような歓待の席を設けていただき、光悦至極に存じます」
張りのある低音が広間の天井に反響し、氷河は思わず、え、と微かに声を漏らした。
この、声───
どういうことだ、何が起きている……?
聞き、間違いか……?
死人恋しさのあまりに、俺はついにおかしくなって、幻聴まで聞こえるようになったのか。
激しい混乱で氷河の身体は戦慄く。
「礼を言わねばならぬのはこちらの方だ。蠍には長年悩まされてきた。大切なものを奪われ、かろうじて取り戻せはしたが、ここにおる我が子達も先頃拐かされ、苦しんだのは記憶に新しい。蠍の首を見事持ち帰ったとのこと、皆、この上なく安堵し、感謝しておる」
光政卿の言葉の間も、男は、は、と深く頭を下げたままだ。
老領主は杖をつきつき、数歩、男に歩み寄り、言葉どおりに礼を尽くすように深々と頭を下げた。
そして、振り返って、息子二人に向かって手招きをする。
「氷河、アイザック、お前たちを攫った蠍を討ち取ってくれたお方だ。お前たちからも提督に礼を」
俺たちを攫った
蠍を討ち取った提督……?
違う、だって、今そこで、神妙に頭を垂れているそのひと……その肩に流れる豪奢な金色の巻き毛は───
氷河、と再度促されるように名を呼ばれ、茫然としたまま、氷河はおそるおそる足を踏み出す。
これは夢か……?
身体が自分のものではなくなってしまったかのように現実感がなく、歩みは、雲の上を歩いているかのように頼りない。
もどかしいほど長い時間をかけてあと数歩の距離まで近寄ったとき、膝をついて頭を垂れていた男が、ゆっくりと立ち上がって顔を上げた。
───ああ……!
氷河をじっと見つめる、悪戯っぽく弧を描いている瞳は───美しい海の色だ。
だが、短剣と同じレリーフのついた海軍の帽子に隠れている品よく一つにまとめられた巻き毛も、胸に輝く無数の勲章に彩られた洗練された所作も、とてもではないが、記憶の中の彼の姿とは一致しない。
先ほどの特使は何と説明していた?
海軍の……最高司令官……?
代々王家に仕える侯爵家の出で、幼少から卓越した剣の腕を見込んで陛下がどうとか……
氷河が知る彼は、そんな、手の届かない高貴な存在などではない。
茫然と歩みを止めた氷河に向かって、男が帽子を取って胸に当て、軽く腰を曲げるように頭を下げた。
「お初にお目にかかります、公子様。わたしは女王陛下より海軍を任されたミロと申すもの。以後、お見知りおきを」
そして、こちらに控えるは我が有能な片腕の、と、紹介された二人の男がカノンとムウに瓜二つであることに気づいてしまえばもう堪えようもなく、瞳の縁にはみるみるうちに熱いものがせり上がり、それが零れ落ちてしまわないように、氷河は必死に目を見開いて耐えた。
全く言葉を発しない息子を不審に思ったか、光政卿が首を傾げる。
「どうかしたのか。提督を知っているのか、氷河」
知っているか、なんて。
知らない。
こんな、非の打ちどころのない、品行方正なお貴族様は、俺の知っているあのひとではない。
「………いいえ、都の海軍の方に知り合いなどおりません」
辰巳の早合点か彼の情報操作か。
死の報せを一度は受け入れた。
驚きすぎて乱高下した感情はもうぐちゃぐちゃだ。
出会ってからずっと、自分一人翻弄されていることが悔しくて、少しく混じった皮肉と非難の色を読み取ったか、ミロが、ニヤ、と笑った。
「では、海賊にはおられる?」
なんてひとだ、と息を飲んで、飲んだ拍子にせっかく堪えていた涙が、雫となって氷河の瞳から零れ落ちた。
「……ええ、自分勝手で強引で、人を驚かせてばかりいる困った船長なら、一人、存じております」
それはいけない、討伐リストに加えておかなければ、と素知らぬ顔で返すミロが小憎らしくて仕方ないのに、その人を食った態度に、ああ、これは紛れもなく俺の知っているミロだ、とようやく確信して、氷河は、泣いているのか笑っているのかわからない表情に顔をくしゃくしゃに歪めて頷いた。
「失礼ながら、提督殿」
氷河を背にかばうように、ぴしゃりと割って入った厳しい声はカミュのものだ。
「以前にもわたしとどこかでお会いしたのでは?」
攫われた夜に一度、そして、取り返したときにもう一度。
二度、間近でミロと接したカミュの険しい声が、他の人間は騙せても、わたしだけはごまかされぬ、海軍とは偽りの姿、お前は海賊であろう、と告げている。
「いいえ。貴殿とは初めてお目にかかる。どなたかとお間違いでは?」
表情を変えずにのうのうと言ってのけたミロに、カミュがますます険しい顔となった。
「ならば質問する非礼を許されよ、提督。都の海軍の方は海賊紛いの行為もなさるのか。───例えば、公子を誘拐するであるとか」
言葉と態度は非常に丁寧ではあったが、あまりにも明け透けに、氷河とアイザックを攫ったのはお前であろう、という糾弾に、ざわっと周囲の輪が揺れる。
ミロだけが涼しい顔をして、フッと笑みを頬に張りつけた。
「任務遂行の過程では、敵国相手に海賊行為を仕掛けることもありますがそれが何か?わたしは女王陛下から、私掠を許可する信任状も得ています。必要とあればお見せしましょう」
まるで剣を抜いて対峙しているかのように男たちの間に緊張感が走っていて、ざわめいていた周囲も静まり返る。
カミュが、ならば、となおも言葉を続けようとしたとき、取りなすように光政卿がそれを制止し、「提督はお疲れだ、控えよ」と言って、少々強引な形で、楽師たちに歓待するための音楽の演奏を始めさせた。
美しい宮廷音楽が鳴り響くのを無粋に妨げるようなカミュではない。
納得のいかぬ様子でしばしミロを見つめていたカミュだが、やがて、失礼した、と小さく頭を下げて、自ら一歩、後ろへと下がった。
「すまなかった。気を悪くされないでいただきたい」
「いえ、有能な参謀をお持ちでうらやましい。彼と戦わねばならない立場ではなかったことを、心から幸いに思います。……敵に回してはやっかいだ」
頭を下げた光政卿にミロがそう答えている。
音楽が奏でられ始めたのを機に広間はいつの間にか多くの人で埋め尽くされ、思い思いに話をする者、音楽に乗ってダンスに興じる者、さっそく祝杯を傾けている者と様々だ。
そのいずれにも混じらずに、氷河は、城の重鎮たちに囲まれてしまったミロを、なおも信じられぬ思いで見つめる。
都合のいい夢なら何度も見てきた。目覚めて何度、そんな夢を見てしまう自分の弱さに落ち込んだだろう。夢を見ているのだとしたら、もういっそ永遠に覚めないでくれと思わずにいられない。
やがて、ミロが、話の輪からすいと離れ、氷河のすぐ傍までやってきた。
そして、ダンスを誘う仕草で腰を折って氷河の手を取り、耳元で囁くように、
「一曲お相手願えますか、お嬢さん?」
と笑い含みの声で言った。
今日の俺はどこからどう見ても『お嬢さん』じゃないだろ、と、油断すれば込み上げる熱いものを堪えて言いながら、ふと、気づく。
ああ……そういえば。
どうりで完璧なワルツの作法を心得ていたはずだ。
海賊がどこでこんな洗練されたステップを身に着けたのかと不思議だったが、宮廷で育っていたなら頷ける。
王家の紋章入りの剣も。
あれは、盗品などではなく、正真正銘、ミロ自身が陛下から賜ったものだったか。
真実を隠す目くらましはあったとはいえ、彼が氷河に見せていた姿のそのほとんどは、嘘偽りなく本物だった、というわけか。
小さな違和感をひとつひとつパズルのピースに当てはめていけば、もしかしたらもっと早く本当の姿が見えていたかもしれないのに。
完敗だった。
すっかり騙された。
だけど、そのことがどこか清々しい。
光政卿が再びやってきて、酒の入ったグラスをミロへと勧めて差し出す。
「グラード領は御覧のとおり豊かでよいところだ。燃料補給だけと言わず、何日でもゆるりとして行かれよ」
未だに父親だという実感が持てないでいる男の言葉だが、こればかりは珍しく氷河も全く同じ意見だった。
聞きたいこと、話したいことは山ほどあるのだ。
もしかしたら、ミロは氷河の傍にいてくれるのでは、そのための寄港なのでは、と。
立場上、ずっとは無理でも、少なくとも数日、できれば数か月、俺は何年だっていいけど、と薄ら期待していなかったと言えば嘘になる。
だが、ミロは、いえ、ときっぱりと首を振った。
「蠍の首を討ち取ったとはいえ、暴虐を働く海賊すべてを滅したわけではありません。まだお若い陛下の治世が盤石ではないうちに、と敵国の攻勢も未だ激しい。この国の領海を巡っての攻防は厳しいものだと言っていいでしょう。わたしは夜を待たずにすぐにでも発たねばなりません」
再会の実感もまだなのに、もう別れなければならないのか、と氷河の心は氷を掴まされたように急速に冷えた。
彼が怠惰に享楽を求める人間ではないと知っていたのに、浅はかにも期待した己が恥ずかしくもあって、氷河は、彼から視線をそっと外して俯く。
「そうか……それは残念だが致し方ない。ならば、せめて、グラード領から蠍討伐の褒賞を何か贈りたいと思うがいかがか。金貨だろうと宝石だろうと、船一隻だろうと、例えこの領地であっても何なりと望むものを」
領地まるごと与えてもよい、という、破格の申し出を、だが、ミロはそれも、いいえ、と笑って首を振った。
「それには及びません、領主殿。欲しいものは……」
そう言ってミロは氷河を見た。
海の青が寄せて返す波のように笑って揺れている。
「───自分で盗みますので」
刹那、ミロが氷河の腕をぐいと掴んで引いた。
氷河の手を取った彼は、驚く人の波を縫って、城の外へと飛び出してゆく。
後ろでは、誰かお引き止めしろ、提督がご乱心だ、と騒ぐ声が響いて───
**
「海軍の将校様、だって?あんたが?本物なのか?ふりをしているわけではなく?」
「似合わない、と言いたいのだろう。言われずともそれは俺が一番承知している。お前が偽物だと思うのは無理もない」
「……………まあ、似合ってはいない、かな」
「正直だな」
そう言って微かに笑ったカノンは、きっちり詰まった首元の金釦を外して緩め、ふう、と息をついた。
似合っていない、というのは嘘だった。
ラフなシャツ姿でも見目よさの際立つ男だったが、白い軍服を纏い、目深に帽子をかぶった姿は、腹が立つくらい完璧で、絵画にでもしたら、世のご婦人方がこぞって金貨を差し出しそうだ。首元の釦を緩めたぐらいでは男ぶりの良さが揺らがないどころか、整った容貌にアンバランスな野性味まで添えて却って魅力が上がってしまっているのが小憎らしい。
相手はカノンだというのに、うっかりと見惚れてしまいそうで、えーと、とアイザックは慌てて下へ視線を下げ、意味もなく、中庭の、整えられた芝生の生え際を靴の爪先でぐりぐりと掘った。
どういうことだよ、説明しろ、と、彼を広間から人目のない中庭に連れ出したのは自分であるというのに、聞きたいことがあまりにも多すぎて、却って言葉が出てこない。
海賊を討つために海賊のふり(ふりどころか、実際に人攫いまでして煽り立てるなんて!)をするとか、都の海軍はやることが無茶苦茶だ。
だが、彼が、悪賊などではなかったことにはどこかで安堵していた。(まあ、賊ではないだけで、性質の悪い男、という印象は変わらないのだが)
それは彼のため、というより、どちらかと言えば自分自身のためだ。
カノンが正真正銘の海賊であったとしても(実際、あの時はそう信じていたわけだ)、きっとアイザックは同じ行動を取ったに違いないが、それでも、庇いようもない悪人を命懸けで救ったせいで何か月も寝付いて師を眠れぬほど心配させた、というよりは、幾分申し訳が立つというものだ。
「……傷が、」
そう言いながら不意に頬に触れた温かな手のひらに、アイザックはビクリと肩を震わせた。
思考に沈んでいたせいで、死角から伸ばされたカノンの腕に気づいてなかったのだ。
「残ってしまったな」
頬の、醜く引き攣れた肌の上を、カノンの親指が滑る。
やけにゆっくりと往復する指の動きに狼狽えて、別に、と後退れば、離れ際に、低い声が、生きていてよかった、と呟くのが聞こえた。
独り言じみたその呟きに何か反応すべきか迷い、迷ったあげく、結局、聞こえなかったことにしたものの、この、神に愛されたような完璧な男が、もしかして少しは俺のことを心配していたのかな、と思えば、そう悪い気はしなかった。
しばし、何をどこから聞くべきかアイザックは考えていたが、長く考えた結果、カノンが海賊ではないのなら、今更改めて聞かねばならぬことは何もないな、という結論に達して、だから、ただ、「いろいろ悪かったな」とだけ言った。
「なぜお前が謝る」
「いや、まあ……あれだ、見当違いのことをいろいろ言ったからな。真っ当に生きろ、とかなんとかさ。知らなかったとはいえ、海軍様に野暮を言った。よかったら、この傷に免じて全部忘れてくれ」
グラード領に来れば俺が面倒見てやるのに、などと。
成年も迎えていない己が陛下の将官相手に一体何てことを言ったのかと、今更ながら恥ずかしい。よくぞカノンは笑いもせずに聞いていたものだ、と、その動じなさがありがたいような憎らしいような心地がする。
自分自身の記憶からも抹消してしまいたいくらいだが、かと言って、年齢も立場もはるかに上の男への非礼をそのままにしておくのも、アイザックの性格がよしとしない。
羞恥と居たたまれなさをどうにか飲み込んでようよう切り出した謝罪だ。
できれば、カノンが、全て忘れているか、覚えているにしても忘れたふりをしてくれればいいと期待していたのだが、案に相違して彼は、「悪いが忘れてやることはできん」と宣うた。
「……躊躇いなくお断り、かよ。……いいさ、今さらだ。好きに笑えよ」
「可笑しくもないのに笑うほど酔狂ではない。生憎と記憶力は悪くないのでな。忘れろというのは無理な相談だが、なかったことにしてくれ、と言うなら考えないでもない」
どういう意味だ、と不審を覚えてカノンへ視線をやって、アイザックは、はた、と動きを止めた。
カノンの纏った軍装。
男前が上がる凛々しい軍服姿だが、よくよく見れば、何かがおかしい。
肩から袖にかけてと胸のあたりに、なんだか不自然な余白があるような……
「……あんた、階級章……?」
ミロの方にはたくさんの星やら線やらで階級を示した肩章と胸章がついていて、それで、相当に位が高い将校なのだと一目でわかったが、そう言えば、カノンの方はその白い軍服姿にすっかり目を奪われて、階級までは気に留める余裕がなかったが───余裕があったところでこれでは確認はできなかった。
カノンの軍服には本来あるべきところに徽章が何もつけられていない。
不審に思って見上げると、カノンはこともなげに言った。
「階級章は全て返上して来た。俺は今日から無職だ」
「ハ、ハア!?」
何を言っているんだ、とアイザックは驚いて目を見開く。
無職って、海軍を辞したという意味か。
そんな馬鹿な。
スコルピオ号はどうする。航海長だぞ。
あの国賊蠍を討伐したのだ、都に帰ればさぞかし莫大な褒賞と勲章の一つや二つ賜ることもできるだろうに……
───俺がグラード領に来いと言ったからか。
アイザックは青ざめる。
確かに言った。
それも二度も。
気まぐれで適当な誘いを投げかけたわけではない。
二度目は、それなりの覚悟を持って告げた。(カノンは眠りこけていて聞いてはいなかったはずだが!?)胸がたまらなく苦しくなって、この男を放っておいてはいけないような気持ちになっていたから。
だが、それだって、彼が海賊であること前提の誘いであって。
まさか、望めばなんだって手に入る、泣く子も黙る女王陛下の海軍を誰が辞めてまで来いなどと言うものか。
口を開いたまま絶句したアイザックに、なおもカノンは続ける。
「隻眼の若い領主が統治するにはグラード領は難所に過ぎよう。お前は有能だが、人が好すぎて魑魅魍魎どもを相手にするには危なっかしい。清濁併せ呑むことができる参謀でもいればよいが、お前のあの生真面目な師に『濁』までは任せられまい」
先払い分には足らないと思うが、『濁』担当に俺を拾ってみるというのはどうだ、とカノンが言うに至っては、
驚きを通り越して、茫然自失だ。
つまり、俺が誘ったから、というより、俺のために、スコルピオ号を下りようっていうのか……。
「……皆殺し、するとか何とか言ってなかったか、あんた……」
いくら、想定外過ぎる申し出でどう返すべきかわからなかったにしても、もう少しほかに言いようがあっただろう、と口にしてすぐに後悔することになったが、素直に、うれしい、あんたが傍にいてくれたら心強い、などと言えるような関係では全くなかったのだから、アイザックだけの落ち度ではないだろう。
照れ隠しにはずいぶんな言葉を、だが、カノンは特に気分を害した様子はなく、そうだな、と頷いた。
「お前の警戒はもっともだ。俺はかつて陛下を殺そうとした男だ。兄も俺のせいで死んだ。再び同じ過ちを犯さないとは言い切れない。断ってくれて構わない」
表情を変えずにそんな恐ろしい冗談を言うのはやめて欲しい。
冗談ではないとしたら、とんでもない衝撃告白だ。
驚かされっぱなしで言葉もないが、だが───
そう、だったのか、と、不思議と彼のこれまでの歪さがすとんと腑に落ちる心地がした。
嘘か真実かわからないが、嘘なのだとしても彼にそう嘘をつかせるだけの重い荷を、この男は抱えている。
陛下がカノンを海軍に留めていること、あの船長がカノンの言葉をまるごと信用したこと、それを考えれば、周囲はカノンがその荷を負い続けるべきとは思っていなさそうだ。にも関わらず、男自身はきっと己を赦していない。だから、すれ違う。
「そん……なの……断るに決まってるだろう……あんたはここにいていい人間じゃない。スコルピオ号に戻らないとだめだ」
「………………そうか、わかった。賢明な判断だ。俺の出る幕ではなかったな」
そう言って、睫毛を伏せて背を向けて歩き出すカノンに(そっちは港の方角じゃない。絶対に『わかって』いない)、ちょっと待て、と、アイザックは、その腕を掴んで引き止めた。
「あんた、そういうのずるいんだよ、本当に。そんなだから、俺は、俺は……」
「……何が言いたい」
「だから!」
ああ、もう、なんだろう、この気持ちは。
胸が締めつけられて、泣いてしまいそうだ。
カノンが、例えそれが無傷で返す予定の捕虜に傷を残してしまったことへの責任感からにせよ、きっと彼には、特別な場所であったに違いないスコルピオ号を離れてまでアイザックの傍にいてもいいと考えていたことを知って、ひどく心が揺さぶられている。
「こんなのは、だめだ、カノン。スコルピオ号はあんたを必要としている」
「航海長の代わりならいる。元より、俺は一時的に預かっていただけの身。お前がそんなことを気にする必要はない」
そう言ってカノンはアイザックの肩をひとつ、ふたつ、軽く叩いて、達者でな、と別れの挨拶を告げて再び背を向ける。
待てったら、と、アイザックは去る男の背にぶつかるように抱きついた。全身で止めなければ止まりそうにないほどもう彼は、しっかりとした足取りで歩き出していたからだ。
何かを手に入れることを諦め慣れた様子の執着のなさに、アイザックの胸が軋んで、鼻の奥が痛くなる。
「あー……、大丈夫だ、お前ならうまくやれる。余計なことを言ってすまなかった」
「違う、あんたの話をしているんだ、俺は。グラード領はこの際関係ない。あんたがいようといまいと……俺がグラード領を継がないことはもう決定しているんだから」
なに、と色をなして振り向いたカノンは、アイザックの瞳に薄らと水の膜が張っているのを発見して、みるみるうちに顔色を変えた。
「チッ、遅かったか。くだらん理由でお前を排除したのは一体どこのどいつだ。名を言え」
そいつを消してやる、と言わんばかりに声に怒気を滲ませるカノンに、だから俺じゃなくてあんたの話だって言ってるだろう、バカ、と、アイザックは拳で彼の背中を叩いた。
「勘違いしないでくれ。別に排除とかそういうことじゃない。後継争いは俺の方から下りた」
「どういうことだ」
「養子縁組を解いてくれと願い出たんだ。表向きはまだ息子として扱ってもらっているが……ただの居候だ、今は」
「氷河のために身を引くというのか」
「氷河のためなら、もっと早くそうしていた。これは俺自身の問題だ」
後継が自分に傾いたことを察して事情を知らぬ氷河は憤っていた。
伯爵にもカミュにも強く慰留はされ、何より、継ぐことを前提で拾われた身、これまでの恩義と、氷河のこれからを思えば激しい葛藤はあった。
だが、片目を失い、生死の縁をさまよって、自分自身の生を強く意識したときに、アイザックの望む居場所はここではなかった。自分でも驚くほど、迷いなく、答えはひとつだった。
「…………………お前がそれでいいなら口出しをする権利は俺にはないが……だが、それではこれからどうするつもりだ。後ろ盾もないでは苦労をする」
酷く困惑した表情となったカノンの髪から、懐かしい潮の香りがしている。
まだ彼の背へすがるように抱きついたままだったアイザックは、彼が逃げないことを確認するようにおそるおそる手を放し、そして顔を上げた。
「俺、あんたと行くよ」
口にした瞬間に、ああ、俺はこれを言うためにこの男と出会ったのか、と、不思議な気持ちがアイザックに訪れる。
離縁を願い出たのは、カノンとは別問題だったが、カノンと出会っていなければ、己を見つめなおしてみることもなかった。そして、グラード領との縁を解いていなければ、カノンと共に行くという選択肢はアイザックにはなかった。
不思議だ。
氷河と出会ったことも、片目を失ったことも、これまで起こった全てのことが、まるでアイザックを導くかのようにひとつの道に繋がっている。
アイザックの言葉に、なに、と目を見開いたきり、カノンは声を失って、長いこと考えていた。
「…………大事な弟子を二度も攫ったとあっては、お前の師に申し訳が立たん」
苦虫を噛み潰したようなカノンが出した答えは、許容したとも拒絶したともとれる。
「二度どころか、一度だって俺はあんたに攫われてなんかない。全部、俺自身が決めたことだ」
アイザックがそう言えば、カノンは天を仰いで片手で顔を覆い、ああ、くそっと呻いた。
「半年前の俺を殺したい」
できるものならやってみろよ、とアイザックは笑って、往生際悪く呻き続けているカノンを置き去りに、ほら、行くぞ、と歩き出した。
「待て、どこへ行く気だ」
釣られてアイザックを追うカノンは、まるでいつかの夜の反転だ。
だったら行き先はひとつだ。
「決まっている。スコルピオ号だ!」
**
まるで逃避行だ。
氷河の腕を強引に掴んだまま、城を後にしてどんどん駆けるミロを、氷河は、待って、待ってくれ、と息を切らしながら呼び止めた。
何度目かの制止でちらと半身振り返ったミロは、追っ手のないことを確認して、ようやく、速足程度にまでスピードを落とし、氷河の腕を離した。
はあはあと肩で息をし、小走りになってミロと歩調を合わせながら、氷河は、どうして、と問う。
なぜ海賊のふりをしたんだ、その刺青は偽物なのか、あんな真似をしてどうするつもりなんだ、夢見心地から我に返ってみれば、聞かなければならないことはあまりにも多すぎた。
ずいぶん一度に聞くのだな、とミロが苦笑したが、そうさせたのは彼だ。
「奴は逃げ足が速かった。堂々と軍旗を掲げていては何年かかろうと尻尾すら掴ません。どこに奴の協力者がいるかわからん以上は君に説明してやるわけにもいかなくてな」
「だけど、刺青は?海賊を装うためにあなたは刺青まで入れたのか」
「まさか!我が侯爵家では元々成年前に守護として星を刻むんだ。だから偶然だ、と、言いたいところだが、偶然にしては似すぎていた。出入りの彫師は身元も確かで信頼できる人物だが……」
たくさんいる弟子の誰かにモチーフと技術が盗まれた可能性は高い、とミロは眉根を寄せた。
人の命を嬲りものにしていたあの賊に、よりにもよって己の守護星を名乗られていることは、ミロには耐え難かったことだろう。
「……………奴は、どうなったんだ」
本当は一番に聞きたかった。
知ることが怖くて少し震えた声に、ミロは初めて立ち止まって氷河の顔を見た。
氷河を見つめる瞳が真剣な色を宿している。
「俺が奴の首を刎ねた。最期まで醜く、どうしようもなく卑怯な奴だった。……君に討たせてやりたかったが」
やめろ、言うな、と何度も叫んでいたミロが、氷河自身に決着をつけさせようとしてくれていたことはわかっていた。
何年もそれが望みだった。
母の仇を討つ日のために、と己を鍛え、哀しみに耐え、怒りを飲み込み、きっと俺が、と拘り続けてきた。
自分の手でそれが果たせなかった今、だがしかし、悔しさは微塵もない。
もう奴が誰かを傷つけることはないのだ、という安堵とともに、奴が死んだところで母が帰ってくるわけではない、という哀しみがあるばかりだ。
自分自身であの悪賊に引導を渡していたとしても、何かが変わったとは思えない。むしろ、戻らない命への虚しさが一層募ったに違いない。
だから、氷河は、いいんだ、と首を振った。
「俺では冷静になれずに返り討ちにあっていた。我が師がおっしゃっていた。復讐は身を滅ぼすのだと。だから──これでよかったのだと思う」
ミロの長い睫毛が伏せられて、微かに瞬く。
「………つくづくよい師に育てられたのだな、君は」
妬けて困る、と本気か冗談かつかぬ声色で言ったミロは氷河の手のひらを取って、何かをその上に乗せた。
シャラ、という繊細な音とともに伝わる冷たい感触。
───ロザリオだ。
「見覚えはあるか?奴の船の倉から出てきた。刻まれているのは異国の文字だが、君の名と読めたから持ち出してきたが」
見覚え、どころか。
かつて毎日目にしていた十字の祈具だ。
裏返して刻まれた文字を確認するまでもなく一目でわかる。
「………母のものだ」
母の胸で揺れるその十字架に刻まれた文字を、幼く、まだ文字も読めなかった氷河は、なんて書いてあるの、と問うたのだ。
折に触れては神に祈っていた母は、
『神様、わたしのかわいい氷河をどうぞお守りくださいって書いているの』
そう言って、氷河を抱きしめたものだった。
おそるおそる手のひらの上で裏返してみれば、果たしてそこには、母の愛を刻んだ小さなキリル文字が記憶と同じに並んでいた。
ごくごく小さな貴石の装飾しかない銀の十字架は金になるほど価値のあるものではなかったのだろう。
母はそのロザリオをどんなときも肌身離さず身に着けていたが、それが、船倉に打ち棄てられていたことは、母がもうこの世にいない証にほかならなかった。
「……っ」
これでもう、本当に何もかも終わったのだ、と。
終わった今となっては、自分がそれを心から望んでいたのかはわからない。
母の仇を討ってやる、と願い続けることは、氷河には、母の存在を強く心に描き続ける手段でもあった。
だが、復讐心と共に半端に浮いていた死者との決別の時が、今、シャラシャラと寂しい音と共に氷河に訪れようとしている。
込み上げた涙はあっという間に溢れてロザリオを握りしめた拳を濡らす。
もうどこにもいない、母との幸せな時間は決して帰らない。
強く胸に迫った喪失感に後から後から涙が零れ落ちる。
ミロの温かな腕が氷河を胸へ引き寄せて、ゆっくりと髪を撫でる。
「母上は残念だった」
氷河は頷いた。
彼の鼓動が、氷河を温かく、力強く、勇気づけている。
涙で頬はぐしゃぐしゃに濡れていたが、これはもう、ただの哀しみの涙ではない。
腹の底から、大きな力が湧きあがってくるのがわかる。
終わった。
だからこそ───
俺は新しく、始まることができる。
氷河は、深く息を吸い込んでミロを見上げた。
「もう誰にもこんな思いをさせるのはごめんだ。復讐ではなく、ほかの誰かのために俺は戦いたい」
ミロが、酷く眩しいものを見るかのように目を細める。
「わかっている。だから、迎えに来た」
氷河の背を抱くミロの腕に力が込められる。少し腰を折ったミロの唇が氷河の耳に触れ、そして吐息のごとき密やかさで囁く。
「 」
甘く音を紡いだ声に、氷河は涙で濡れた睫毛を何度も瞬かせ、言った。
「知っていた……」
重ねられた唇はどちらからかわからない。
柔く、濡れた互いの内側を無我夢中で確かめ合う。
は、と吐息を零して離れ、狂おしく高ぶった感情を抑えきれずにもう一度唇を合わせて。
さあ、急ごう、と、柔らかな弧を描く海の青に氷河は大きく頷く。
緑の木々を揺らす潮風に誘われるように、海へ、海へと。
風に吹かれて、ミロの帽子が大きく後方へと舞う。
あっ、と振り向いた氷河の腕を引いて走りながら、放っておけ、『海賊』には無用だ、とミロが笑う。
駆けて、駆けて、駆けた先にあるのは懐かしいスコルピオ号の姿だ。
船縁に多くの水夫が集まって、手を振り、氷河を呼んでいる。
「おーい、氷河―!」
手を振る水夫たちの中に、アイザックの姿を見つけて驚き、氷河はミロを振り返る。
「あいつめ、話がずいぶん違うぞ」とミロが苦笑している。
困った。
アイザックがいるから、後先考えずに城を飛び出してきたのに、これではグラード領は後継者不在だ。
でももう止まれない。
行きたい、という気持ちが大きく膨らんで、まるで羽を生やしたのように氷河を前へと進ませる。
行こう。
行こう、コバルトブルーのその先まで。
このひととなら、きっとどこまでも俺は行ける。
真紅の蠍を刻んだ白い帆をはためかせる風に乗って、ミロの声が響き渡る。
「錨を上げろ!さあ、出航だ!」
**
港を離れた帆船は風を受けて、ゆっくりと太陽の色に染まった海原を進んでいく。
海の上へ大きく突き出た岬を駆け上がるように強く吹きつけた潮風が、帆船を見送る、夕陽と同じ色をしたカミュの髪をなびかせる。
「あれで海軍だとはな……」
今なおもって信じがたいその正体だが、それでも、あの実力だけは本物だった。
案外、今年に入って蠍が沈めたという二十九隻もの船のうちには、あの男が沈めたものが多く含まれているのではないのか。
海賊を装って敵国の船を沈めることなど、彼にはわけはないに違いない。
「……やはり、ここにいたか」
不意に背後から響いた声にハッとしてカミュは振り返った。
見れば、草木の生い茂る傾斜のきつい悪路を、介添えもつけずに一人きりで上ってきた老領主が、杖をついて、ふう、と大きな息をついたところだった。
「わたしに用でしたか。御身自ら探しに来られずとも……申し訳ありません」
慌てて近寄り、支えに差し出したカミュの手を、よい、と首を振って退け、光政卿はゆっくりとした足取りで、崖の上へ立っている楡の木へと近寄った。
「儂ももう、あと何度来られるかわからないのでな」
そう言って、その木の根元にある、名の消えかかった石碑の前へ膝をついて、手にしていた一輪の赤い花を捧げる背に、カミュは目を見開いた。
「……あなた、だったのですか……」
決まって一輪。いつも赤い色だった。
しおれて地面で朽ちていたり、風に吹かれて花弁が散らばっていたり。
毎日ではなかった。
カミュと氷河、それにアイザックくらいしか存在を知らぬはずの墓標に、この七年、ごくごく時折、不定期に捧げられた形跡残すその花の送り主を探してみることはしなかった。
自分以外にも同じ気持ちを共有している存在がどこかにあることは、氷河の慰めにはなっていたかもしれないが、だが、多忙な上に椅子から立ち上がることも難しいほど老いが進行している己が父がその人だったとは、氷河も全く想像もしていなかっただろう。
「墓も作ってやらぬ、冷たい男と思うたか?」
市中ではもっぱらそう論じられていた。氷河が彼に対してずっと壁を築いている原因もそこにあり、実のところカミュもまた、せめてもう少し人の心があってもよいものを、と思わぬでもなかった。
「嘆くあまりに墓も作れぬ心根の弱い領主と思われるよりは、冷たい男でいた方がましというものだ」
だから、ここで会ったことは忘れてくれ、とそう言って、ごく短い祈りのみ捧げて、頭を上げた男は、帆船が消えゆく海の方角を見やって、少し頬を緩めた。
「まさか二人ともに逃げられるとは」
「申し訳もございませぬ」
「謝る必要はない。二人を立派に育て上げたのは紛れもなく其方の功績。こうなった原因は儂にある。……二人にはこの方がよかったのかもしれぬ」
目を細めて帆船を見送る老領主は、どこか愉快そうだ。
カミュは。
寂しさはある。
育てた身には、予期せぬ突然の旅立ちはやはり心に穴が開いたような心地がするものだ。
だが、実のところ、小気味のよさを感じないではない。
それほど、閉塞した後継問題に、奇想天外で、鮮やかな風穴を開けられた。二人の気持ちを置き去りに進む後継選びに心を痛めておきながら、カミュではこうした答えを出してやることは決してかなわなかった。
ずいぶんと逞しく見違えて戻って来たことも、連れ戻して以降、まるで魂の抜けた容れ物のようであった二人の瞳に久しぶりに光が戻っていたことも───二人の背を押してやる理由にはなっても、引き留める理由にはならない。
育った小さな箱庭を飛び出して行ってしまった愛弟子たちを誇らしく思う気持ちに比べれば、この寂しさとつきあうくらい、どれほどのことでもない。
それが、彼らにしてやれる、師として最後の務めでもある。
「……グラード領をどうなさるおつもりですか」
元は、彼が老齢であることで持ち上がった後継問題だ。
決着を見る前に当主候補が二人とも消えてしまって、元の木阿弥、否、当主が老いた時間分、それはいよいよ切迫した問題になっている。
二人の家庭教師に、と乞われて来たカミュは去ればそれで終わりであるが、少しなりと関わった身、この領地の行く末を見届けぬうちに己の身の処し方を考えたのでは、あまりに無責任というものだった。
カミュの問いに、なぜか光政卿はどこかそれを待っていたように、そのことなのだが、と、向き直りながら自らの懐に手を入れた。
懐から取り出されたのは、蝋で厳重に封をされた書簡だ。
「其方あてだ。提督が陛下より預かって来たらしい」
「わたしに?」
陛下が、とカミュの心臓が鳴る。
カミュには過去に陛下からの下命を袖にした経験がある。
氷河とアイザックを育てている最中のことで、寛容にもその時は許されたが、まさか二人がいなくなった今、遅れてのお咎めか。
二人が立派に巣立った暁にはご恩返しを、とは考えてはいたが、不遜に下命を袖にした人間にはそんな虫が良いことは許されぬものかもしれない。
緊張の面持ちで、王家の紋章の刻印がなされた書簡を丁寧に開封して、カミュは文字に目を滑らせる。
一行、二行。
読み進めていくうちにカミュの瞳は驚きで大きく見開かれていく。
「………グラード領を………女王陛下の直轄領に……」
事前に書簡の内容が伝えられていたのか、うむ、と光政卿が頷く。
「息子たちのいずれも乗り気ではない上に、どちらを選んでも遺恨が残るならば、いっそ、全く無関係な者が継いだ方がよい。誰か適任はいないか、と、陛下には以前よりご相談申し上げていた。……討伐艦が完成するより前のことだ。直轄領に、というのは儂も思いつかなかったが」
そんなにも前から……?
カミュは、ハッとして、老領主の顔を見た。
「……あなたは……もしや、二人が攫われることをご存じだったのでは……?初めから、こうなることは計画されて、」
いや、と珍しく動じた様子で老領主はカミュの言葉を遮った。
「いかに儂でもさすがにそこまでは。直轄領とされることが決定したことも先ほど知ったばかりだ。ただ、まあ……」
おじいさまがいらないならグラード領はわたくしのものですわ、うまく取り計らいますから少しばかり待っていらして?と、卿を祖父のように慕う、まだ少女の年頃の陛下が、ふふ、と悪戯っぽく笑っていた、と。
そう説明を受けて、カミュはただ、茫然とするばかりだ。
いつ、どの時点から、この筋書きが進行していたのかはわからない。
ただ、二派に別れて危うい情勢となっていたグラード領にとって、極めて合理的かつシンプル、この上なく円満な解決法だ。女王陛下の直接の統治に文句がある人間はどこにもいない。
光政卿がグラード領を返上したのでは、彼の統治が続くことを望んでいた領民を見捨てた形となり、築いた信頼関係は失われてしまう。
息子二人が拒絶した、という形が残るのも同じ理由でまずい。
だが、この国を治める陛下その人が息子を二人とも海軍へと召し上げ、代わりにグラード領は直接治めることにした、という形であれば……
全てが計算されていたのであれば、この完璧な筋書きが書ける利発さが恐ろしいばかりだ。
偶然がそう導いたのであれば、それを引き寄せた強運がまた恐ろしいというもの。
ただただ畏敬の念を覚えて、カミュは大きく息をついた。
「女王陛下の統治となれば心強いが……ただ、王都はあまりに遠いのでは。直轄地になるにしても、やはり、実質的にこの地を任すことができる、仮の領主のような存在は常駐させておく必要はあるかと存じますが……」
直轄領、という建前がある以上、その人選はグラード領の後継者を普通に探すよりはるかに難しいかもしれない。
陛下の代理としての立場を取る以上、高貴な出自は求められる。少なくとも日常的に陛下にお目通りが許される伯爵家以上の身分でなければならない。
高潔な人柄でいて、これこそが陛下のお言葉であると誰もが信じられるような、忠実で真摯な者がいい。
グラード領が隣国からの攻めへの防衛を担う地であることを考えれば、戦術に明るく、いざとなれば騎士たちを率いるだけのカリスマ性も必要だ。有能であるのはもちろんだが、野心家はよくない。
己の知る人間の中から早くも脳内で人選を行いながら、カミュがそう言えば、さすがはよいところに気がつくな、と光政卿が笑った。
同時にカミュは、己が手にした書簡がもう一枚あることに気づく。
まだほかに何か、と、不審に眉根を寄せながらおそるおそる捲り文字を拾ってみれば……
「わたし、ですか……!?」
女王陛下の側近入りをした上で、国境警備を統轄する任に就いて欲しいのだと、そしてその任地はグラード領である、と。
側近入りにあたって侯爵家を継ぐことはカミュの父と既に話がついている、と、グラード領の後継問題のみならず、侯爵家を継がせて女王陛下の近衛にと望んでいたカミュの父の願いまですくい上げる、濃やかな気遣いまで含まれた、陛下本人の署名のある書簡があまりに恐れ多すぎて、紙を持つカミュの手が震える。
「……突然のことで……あまりに恐れ多く……」
思いもしていなかった展開に、単なる家庭教師は戸惑うばかりだ。
すぐには引き受けかねて、眉間の皺を深めるカミュに、光政卿が深々と頭を下げた。
「元より、其方が一番の適任だと考えていた。この地のことを熟知していて領民からも慕われ、家臣たちの信頼も厚い。儂のため、というより、我が孫娘のために引き受けてはもらえんか。長年、其方が欲しいと懇願されて、儂は断り続けるのにずいぶんと苦労をしたのだ。……それに、」
と、光政卿は海の方角へ視線をやった。
夕陽はもう半分以上沈んでいて、帆船の姿も豆粒のように小さくなっている。
「二人には、安心して帰ることができる港が必要になるだろう。戻った故郷に、其方がいないではひどくがっかりすると思うが」
それを言われてはカミュは弱い。
せんせい、と、逞しく育った弟子たちが、弾ける笑顔に土産話をたくさん持ち帰るところを想像してみれば、固く強張っていたカミュの身体が、ふ、と緩む心地がした。
師として彼らにできることがまだあるのなら──
「身に余りある光栄、感謝いたします」
膝をついて、深々と頭を下げたカミュに、うむ、と老いた領主が安堵したように頷く。
顔を上げれば、水平線のかなたに、帆船の最後のマストが今、沈んだところだった。
風の吹く日は気をつけろ
どこからともなく現れて、鮮やかな真紅の衝撃
気づいたときにはもう遅い
真紅の針持つ海の覇者、その名は───蠍
(fin)