藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ⑯◆
轟音が響いて船が傾くや否や、すぐに状況を飲み込んで、氷河は跳ね起きた。
これは、あの嵐の夜と同じ砲撃の音だ。
医務室には今は氷河一人きりだ。
すっかり回復して、医務室にいる必要もなくなった氷河だが、ムウ含め、水夫たちはスコルピオ号の修復に忙しいようで、ずっと放置されているのだ。
もう一度、ドン、と突き上げるように床が傾いた。
跳ね飛ばされる前に、扉の把手へと飛びついていた氷河はぐっと足を踏ん張って揺れに耐え、不用心にも施錠されていなかった扉から、外へと飛び出した。
水夫たちは慌てた様子で持ち場へ就こうとしている。
恐らく砲門を目指しているのだろう、下層へ向かう流れに逆行するように、氷河は甲板を目指して駆けた。途中、氷河に気づいて、あっという表情で振り向く水夫もいるにはいたが、皆、ほかに優先すべき事項があるせいか、引き止められることはなかった。
ハッチの扉を押し上げて、氷河は甲板へと顔を出す。
すぐ近くの水面に着弾したか、激しく吹き上がった水柱から飛沫が甲板に降り注いで、氷河の髪をも濡らした。
ぶるっと頭を振って飛沫を散らして顔を上げれば、修繕途中の舷縁越しに、待ち伏せしていたかのように、岩礁の陰からぬうっと姿を現した船影が目に入り、氷河はハッとした。
まるで闇夜を切り取ったような漆黒の船体に黒い帆。
陽の光の元でも禍々しさを醸す、その船は、きっと嵐の夜の戦闘相手だ。
証拠に、スコルピオ号同様に、舷縁が真新しい被弾の痕跡で抉れている。
接舷せんばかりに間近に迫り来るその船の、風に大きく孕む黒い帆を見上げて氷河は声を失った。
三本マストの真ん中、よく目立つ位置で風を受けてまるく膨らむ黒いトップセイル。
その中央に白い線で大きく描かれているのは、毒針を擡げた───蠍、だ。
……蠍……?
すぐにはその意味が飲み込めずに、氷河は瞬きを繰り返した。
謎の黒船は速度を緩めることなくスコルピオ号に向かって迫って来る。
対するスコルピオ号は回避行動も取らず、結果、二隻の舳先はほとんど手が届かんばかりの距離で反航したかと思うと、すぐに、ガガガ、という激しい軋み音と共に舷同士が擦れ合った。
強引な接舷に船体は激しく揺れ、拮抗する互いの推進力は、結果として二隻を急激な勢いで停船させた。
衝突の揺れで思わず甲板に尻をついた氷河の頭上から、よく通る声が海風に乗って響く。
「は!岩陰に隠れ潜んで不意打ちの砲撃とは、正攻法では勝ち目なしと踏んで臆したか、
蠍め!」
誰が誰に向かって『蠍』だって?と半ば混乱しながら振り仰げば、ミズンマストの檣楼から、片手をヤードロープに引っ掛けて身を乗り出したミロが、確かに、黒い蠍の船に向かってそう煽り立てていた。
何がどうなっているのか、近くにいる水夫に確かめようとしたその時だ。
蠍の帆を掲げた黒船の檣楼から野太い声が降ってきた。
「儂の名を騙って好き勝手しておる偽物は貴様かァ!!その首、今すぐかっ切ってやるァ!」
威嚇するような濁声が響き渡った刹那、氷河の全身は雷に打たれたかのように硬直し、そして、ぶわ、と冷や汗が噴き出した。
この声、この訛り───
「……あ……あ……」
記憶の抽斗から一致する声の主を探し当てるより早く、汗で冷たく濡れた身体がガタガタと震えだす。
なぜ怖気が走るのか理解しないまま、おそるおそる檣楼を見上げれば、脂ぎった禿頭を真っ赤に茹で上がらせた大男が、ミロを睨みつけていた。
太りすぎて釦が掛け合わせられなくなったのか、男のシャツの前はだらしなく開いている。そのせいで腹や胸がむき出しとなっているが、遠目にもわかる、男の胸の皮膚に刻まれた刺青、その特徴的な毒針は───
「……ッ」
激しく呼吸が乱れ、こめかみから噴き出た汗が水雫となってぼたぼたと流れ落ちる。
うああ、ああ、と意味をなさない音が唇から漏れ、なぜ、どうして、と混乱で視界がぐるぐる回る。
俺は知っている。覚えている。違う、覚えていない。記憶は途切れていて、顔ははっきり思い出せないままだ。でも、身体中の細胞が、こいつだ、と叫んでいる。なぜだ。蠍はミロだ。彼自身がそう名乗った。記憶とピタリと重なる刺青がその揺るがぬ証拠だった。だから俺はミロを許すわけにはいかないのに、どうしてあの男にも同じ刺青が刻まれているんだ。
「俺が偽物とは笑止千万!生まれし時より蠍の星は俺の守護星、海の蠍とは俺のことだ!紛い物の貴様には英雄オリオンをも殺す毒針は扱えはせん!」
やはり自身を蠍と名乗ってそう煽り立てる、ミロの言葉の途中から大男は狂ったように何か喚き始めた。
配下の男からマスケット銃を受け取った大男はミロに向かって引き金を引く。
頭に血が上った状態で撃ったにしては、弾丸はミロが支えとしていたヤードロープを過たず弾き飛ばした。支えを失ったミロは一瞬バランスを崩しはしたが、空中でしなやかに体躯を反転させて、くるりと帆桁の上へ着地する。が、着地したその足元で再び破裂音と共に弾丸が爆ぜた。
それが開戦の合図だった。
二隻の船のそこここで、水夫たちの獣のような怒声が爆発する。
水夫たちは次々に武器を手に取り、接している舷伝いに、互いに乗り移らんとし始めた。
白兵戦を前にして騒乱状態となる中、武器を手にしたスコルピオ号の水夫の一人が、まだ甲板に尻をついて座り込んでいた氷河の腕を掴み、立ち上がらせた。
「下に戻れ!ここは戦場になる!」
まだ状況をうまく飲み込めず混乱の最中にいる氷河は立ち上がったもののすぐには動けない。
マストから垂れたロープを振り子のように大きく揺らして、蠍の船から男たちが次々にこちらの甲板に飛び込んでくる。
そのうちの一人が、着地するや否や、棒立ちとなった氷河めがけて剣を振りかぶった。
ハッとして、斬撃を受け止めるために氷河は短剣へ手をやった。
だが、僅か遅く、柄へ指が触れた時にはもう男の間合いの内だった。
くっと歯を食いしばって身を固くした瞬間、振り下ろされた剣からかばうように、氷河の前へ大きな背が立ちふさがった。
揺れる金色の巻き毛で隠れた視界の向こうで、男が、ぐあ、と呻いて剣を取り落とす。
いつの間に甲板へ下りてきたのか、ミロは、襲い掛かる男たちを次々に薙ぎ倒しながら、振り向きざまに氷河に己の長剣を放った。
「戦え!氷河!」
すぐに代わりの剣を近くの水夫から受け取って戦い続ける背へ、氷河は、戦えって、何とだ、と茫然と問いかける。
今この船が攻撃を受けていることは確かだが、だからと言ってミロに加勢してやるような義理はなく、むしろ、彼が蠍を名乗る以上、氷河が真っ先に戦わなければならないのは、自分をここへ攫ってきたミロその人だ。その、はずだ。
理屈では確かにそう導いているのに、氷河の中の何かが、それは違う、と告げている。
剣を握ったまま全く動けないでいる氷河を、ミロが再び視線でだけ振り返った。
「君がそうしたいなら俺を斬れ!何と戦うかは君次第だ!自分の心に従え、氷河!」
俺に加勢をしろ、と言われたとしたら、多分、氷河は動かなかっただろう。
だが───
自分の、こころ……?
氷河はミロが放って寄越した剣へと視線を落とした。
大人になるための儀式だ、などと嘯いて、戦ったあのとき、ミロが使っていた長剣だ。
高貴な者のみが持つことを許される、見覚えのあるレリーフは、あからさまな盗品の証でもある。
それなのに。
対峙したときの不思議な昂揚が甦る。
俺の負けだ、と高らかに宣言した潔さ。
死んだ仲間へ見せた真摯な瞳。
何一つ弁解などしない背中。
氷河は一度目を瞬かせて、蠍の帆を掲げた黒い船を見上げた。
蠍を名乗った大男はまだ檣楼にいて、男たちに、何をやっている早く奴を殺せ、とがなり立てている。マストの天辺と舳先には、殺した数を誇示するためだろう、いくつもの頭骨がぶら下げられていて、死者への冒涜甚だしい。
スコルピオ号になだれ込んできて剣を振り回している男たちも、にやにやと下卑た笑いを浮かべながら剣を血に染めている。まるで人を傷つけることそのものを楽しんでいるかのように。
ミロだって海賊だ。許せない、と、彼に対して怒りをずっと抱いてきた。
だが、こんな、生理的嫌悪感は彼相手には覚えたことがない。記憶の奥底から湧き上がる恐怖と怒りとで吐きそうだ。
そのうちに、その若造を早く殺せと喚いていた禿頭の男は、ミロを殺すどころか傷一つ付けられない部下たちに業を煮やしたか、この役立たずどもめが、と罵ったかと思うと、あろうことか、ミロに向かって剣を振りかぶっていた己の部下に対して、どけ、邪魔だァ!と言って銃を撃ち放った。
「……ッ!」
血飛沫を降らせて倒れた男を見て、ミロが、なんてことをする、と怒りを滲ませて吐き捨て、ひらりと舷に飛び乗ったかと思うと存在を誇示するように両腕を広げた。
「俺は逃げも隠れもせん!首が欲しいなら貴様自らが取りに来い!それとも、その醜く膨らんだ腹が邪魔で剣も握れないのか、蠍とやら!」
蠍を名乗る男を睨みつけているミロの背中はがら空きだ。
甲板にいた男の一人が、ミロに近づきながら懐に手を入れている。そのことの意味を考えるより早く氷河の身体は勝手に動いていた。
数歩の距離。
男とミロの間に割って入れば、懐から抜かれた男の手が銃身の短いピストルを構えるのがスローモーションのように見えた。
本能的に氷河は剣を振りかぶって男へと飛び込む。
氷河の剣が男のピストルを弾くより、銃口が火を噴く方が速かった。だが、氷河の動きで標的を見失ったか、弾丸の軌道は大きくミロから逸れた。
慌てたように男が氷河へ筒先を向けたがもう遅い。次の瞬間には、氷河が降り下ろした剣は黒い筒を真っ二つに斬っていた。
音に振り返ったミロが、ふ、と表情を緩めて、来い、氷河、と叫んだかと思うと、自分は大きく舷縁を蹴って、黒い船へと乗り移った。
向こうからやってこないなら俺が行く、と言わんばかりだ。
船長自ら敵船に飛び込んでいくなど、無茶苦茶もいいところだ。
でも、それがミロだ。
氷河を信じているのか、もう振り返りもしない。
あっという間に見えなくなった背に、氷河の心は決まった。
否、もうずっと前に決まっていた心に、身体がようやく追いついた。
氷河は舷縁に向かって駆け出す。ミロの背を追いかけるように、駆けた勢いのままに、垂れ下がったロープを掴んで、黒船の甲板へと飛び込んだ。
それに気づいた男たちが、氷河をすぐに取り囲む。
男たちは、数で勝っている余裕からか、「お嬢ちゃん、可愛がってやろうかぁ?」などとにやにやと嗤いながら斬りかかってくる。
訓練された様子もなく、てんでばらばらに斬りかかる男たちの攻撃は、ミロや師の洗練された剣捌きに比べれば脅威とは言えなかったが、ただ、凡庸な剣でも数が多ければそれなりにやっかいで、避けても避けても次々に繰り出される鋭い刃に、氷河の息は次第に上がる。
「ミロ!どこにいる!」
応える声はない。
だが、ミロが向かうとしたら、あの男の元だろう。同じ蠍が刻まれた、あの、大男。
正直、今でも、脳裏に響くあの濁声を思えば剣を持つ手が震えてしまう。魂に刻まれた恐怖を克服することは、母を殺された怒りをもってしても難しい。
だが、立ち向かえ、戦え、という腹の奥底で熱く滾る魂の声が氷河を奮い立たせ、前へと進ませる。
男たちを次々に退けながらマストまで到達したとき、上方から、ぐああ、という悲鳴とともに、ぼたぼたと血が降ってきた。
そこか、と見上げたその時だ。
ドォン!!という激しい衝撃とともに、海面に大きな水柱が吹き上がった。
砲撃……!?
接舷しているこの至近距離で大砲を撃ち合うのは自殺行為だ。
スコルピオ号ではない。黒の蠍の船でもない。
氷河は、スコールのように降り注ぐ水飛沫の向こう側に目を凝らした。
帆をはためかせて迫り来る、見覚えのあるあの船影は。
「……先生……!?」
ドン、と再びの衝撃で二隻が揺れ、甲板にいた男たちがよろめいてロープを、舷縁を掴む。
戦闘は三つ巴へと転じようとしていた。
*
「司令官!!あれを!」
水夫が階段を駆け上ってくるより前に、耳に届く甲板の騒めきで、何かを発見したのだ、と察していたカミュは、既に、束の間の休息から起き上がって身繕いを終わらせたところだった。
不穏に震える海風から戦闘の気配を嗅ぎ取り、長い髪をまとめてキャビンの外へ出たところで、息を切らした水夫が望遠鏡を差し出した。
筒に片目を当て、丸く切り取られた世界を目を細めてカミュは見やる。
三本マストの白い帆船。何張りもある帆のうちの一つだけが、鮮やかな真紅の蠍を描いている。
間違いない、あれは蠍の船だ。
氷河を攫われた夜に、月明かりに確かに目にしたものときっちり一致する船影に、ついに捉えたぞ、とカミュの全身が昂揚でぶるりと震える。
だがすぐに、蠍の船にぴったりと舷を接した黒い船の存在に気づいて、カミュの眉間には打って変わって深い皺が寄せられた。
船を襲っているところか……?
グラード領への襲撃にカストゥラの港、奇妙な例外はあれど、蠍は基本的に陸には上がらないという噂だ。燃料や食料を手に入れるのは、だから他の船を襲って奪い取っているはずだった。
二隻のあちこちで炎と煙が上がっている。遠すぎて視認はできないが、きっと、火矢か手投げ弾だ。
黒い船の正体がわからないが、両船が戦闘状態に陥っていることは明らかだ。
「いかがしますか、司令官」
カミュの乗る討伐艦からの距離はまだあるが、追い風が強く吹いていて、ぐんぐんとその距離は縮まっている。
「砲撃の準備を」
既に肉眼でも捉えられるまでになった二つの船影を見ながらそう言えば、強張る声で、イエッサー!と答えた水夫は、足をもつれさせるようにしながら甲板へと戻って行った。
カミュは身を翻らせて、操舵室の扉を開ける。
操船に携わっていた航海士数名にも、二隻の姿は目に入ったようで、ようやく標的に追いついた興奮で落ち着かない様子となっていた。
「接近して砲撃をする」
カミュの言葉に、近づいてきた航海士長が頷いて、そして、
「どちらの船を狙いますか」
と訊いた。
当然の疑問だ。
カミュは白と黒の船をじっと見つめる。
「………白い帆の船を。氷河を攫ったのはあの船で間違いない。公子を取り戻すのが我らの最優先事項だ」
黒い船の正体も、何を争っての戦闘かも、確たるものはそこにはない。だが、白い帆の船の男が氷河を攫ったことは揺るぎなく確かだ。目の前で奪われ、遠ざかってゆく帆影をしかとこの目で見たのだから。ならば、迷う必要はなかった。
「威嚇で数発、その後はマストを狙え。あの船にはまだ氷河とおそらくはアイザックが乗っているはずだ。船体には傷をつけるな。操船不能にして逃げられなくすればそれでいい。沈めてはならない。黒い船の方には正体がわからないうちは攻撃をするな」
そんな正確無比な砲撃など、相当に熟達した砲撃手でもなければ無理に決まっている。
だが、淡々と、できるな?と問うたカミュの、かつてない険しい横顔に気圧される形となって、航海士長は、はっ、と敬礼をするのだった。
*
ここから動くな、が聞いて呆れる。
それは、航海長室が安全地帯だということが前提の台詞だ。
強引に接舷した『蠍』の船から次々に男が乗り移って白兵戦が始まった今、航海長室がアイザックにとって安全だという保障はない。むしろ、ここにいることで、幹部だと誤解されて危険な目に遭うリスクが高まったと言っても過言ではない。
せめて、これで戦え、と、剣の一本くらい置いていってくれた方がよほど親切だったというものだ。振り回す体力が今のアイザックにはないにしても、だ。
まだ敵船の男たちは航海長室には到達していないが、向こう側から投じられた手投げ弾が航海長室前で爆発して、先ほど扉は吹っ飛んだ。
すっかり風通しのよくなった航海長室の入り口から大量に降り注ぐ水飛沫の向こうに見ゆるのは、グラード領の討伐艦だ。
本来なら、救い手が追いついたことを喜ぶ場面だが、戦闘の最中にあるこの混乱状態では、それが吉と出るか凶と出るかわからないところが痛い。とにもかくにも、嵐の夜同様に、敵も味方も関係なく、己の身は己で守らねばならぬことは確かだ。
捕虜の存在があるせいだろう、討伐艦の砲撃は威嚇の距離にしか着弾しないが、それでも、ドン、という衝撃波とともに大砲が撃たれるたびに、スコルピオ号には大量に水飛沫が降り注ぎ、大きく船体が傾ぐ。
「カノン、どこだ!!」
檣楼で悠々と構えている禿頭を追い詰めようと、早々に敵船に乗り移って戦いながらシュラウドを上る船長の姿はこちらからも見えているが、どこへ消えたか、カノンの姿は近くにはない。
アイザックは粉々に砕けた航海長室の扉の残骸をまたいで外へと出た。
甲板ではあちこちで戦いの輪ができていて、キン、キン、と、鋼鉄がぶつかり合う高い音が響いている。嵐の夜はただひたすら治癒のみに専心していたドクですら剣を持ち、赤い色をした翼の、船長の飼い鳥までもが鋭い嘴で男たちを攻撃している。
文字通りの総力戦だ。
向こう側の甲板でも同様の光景が広がっていて、敵味方入り乱れる戦いに、一目では、どちらが優勢なのか判じるのは難しい。
と、その時、向かいの船で、男たちに囲まれながら剣を振るうハニーブロンドがアイザックの目に飛び込んできた。
「……ッ、氷河、」
なんでお前がそこで戦っている、と驚いて、条件反射で身を乗り出して、だがしかし、アイザックは数歩よろめいて膝をついた。
意志に反して身体が動かない。
当然だ、つい数刻前まで意識なく眠っていた。動く前から既に眩暈がしている。
肝心な時に役立たずの身が悔しく、くそっと呻いて手すりを掴んで立ち上がり、アイザックは向かいの船を見た。
氷河は次々に襲い来る男たちを、長剣を巧みに操って退けている。だが、多勢に無勢、斬っても斬っても湧いて出てくる男たちにさすがに疲れてきたのか、時折足元が怪しくなっていて、氷河がふらつくたびにアイザックの腑が冷える。
甲板で斃れている水夫たちの剣を拝借して俺も早く助太刀に、と、気持ちは焦っていたが、だが、アイザックは行動に移す前にその焦りを飲み込んだ。
───こんな、病み上がりの自分の助太刀などなくても、あいつは戦える。
近すぎて互いに一人で立っていられなくなるような幼い関係は、左目とともにおさらばだ。
アイザックは踵を返して航海長室の中へ戻った。
今の自分にできること───カミュにどうにかして伝えなければならない。
スコルピオ号は海賊船だ。
そもそも海賊を討伐するために騎士たちを集めていたグラード領での夜、領主の目の前で嘲笑うかのように公子を攫ったのは、紛れもなくスコルピオ号の船長であるミロだ。攻撃するなとはとても言えない。カミュは全く正しい。公子誘拐の罪でミロも、そしてカノンも裁かれなければならない。
だが……今は、待って欲しい。
スコルピオ号が戦っているのは、きっと、氷河を長年苦しめてきた、母の仇だ。カミュがスコルピオ号を攻撃することは、結果的に、そうと知らずに氷河の母を殺した相手を助けてしまうことになってしまう。
この複雑な状況を、どう伝えたらいいのかアイザックにはわからない。
わかることは、カミュがスコルピオ号を攻撃することを、俺も、そして多分、あそこで船長を助太刀して戦っている氷河も望んでいない。
アイザックは今しがたまで己が横たわっていたベッドへ飛びつくと、白いシーツを剥ぎ取った。
白い帆のスコルピオ号。
帆の色と同化するような白旗に、カミュは気づくだろうか。
勝手に白旗を揚げてはあの船長の怒りを買いそうだが、ほかに討伐艦からの砲撃を止める方法は思いつかない。文句なら、捕虜であるアイザックを自由にしたまま放って飛び出したカノンに言って欲しい。
少し動いただけで激しく視界が揺れる。
眩暈がしているのか、実際に船が揺れているのかよくわからないが、あまりに揺れ動く視界には吐き気が込み上げる。胃に何も入っていないせいで吐きはしなかったが、だが、吐けない苦しさで、知らず、瞳に涙が浮かぶ。
それでも、アイザックは必死にシーツを抱えて、キャビンの外へ出た。
船尾楼上にある航海長室は甲板より高い位置にある。
だからと言って、数百ヤードは離れている討伐艦から見えるかどうかは賭けでしかないが、今のアイザックには例えシュラウドを使ってもマストの天辺まで上ってシーツを振って見せるような体力はない。
「先生ー!」
攻撃を中止して欲しいという意図が通じるように、と精いっぱいの声をあげて、アイザックがシーツを大きく広げた時だ。
船尾楼の階段下で、火を放つ男の姿が見えた。
あらかじめ油でも撒いてあったか、甲板を一気に炎が走り抜け、戦っていた水夫たちが一瞬怯んでどよめきが起こる。
炎は燃え種を探すように右に左に揺らめいて、やがて、ヤードロープの端へ取りついたかと思うと、ロープを伝ってパチパチと火の粉を散らしながら上方へ走り始めた。
このままでは帆が燃える、と、アイザックが息を飲んだ時、長身の体躯が向こう側の船から、ザン、と飛び込んできて、燃えているロープを帆から切り離した。
カノンだ。
カノンは炎渦巻く甲板を縦横無尽に駆け回り、剣の風圧と、その斬撃そのものによってスコルピオ号を炎上から守るために戦い始めた。
幾人かの水夫が、切れたロープの代わりを帆に張るためにシュラウドを上っている。させじと追う男たちを次々にカノンが大剣で退ける。
カノンにとっては男たち一人一人は脅威にはなり得ないが、だが、数で負けている。
水夫の大半は、向こう側の船へ乗り移ってミロを補佐して戦っているか、操船を立て直すのに必死となっていて、スコルピオ号を守っているのはカノンとドク含めてごく僅かだ。
カノンがいかに八面六臂の働きをしようとも、人間一人が守れる範囲には限界がある。
カノンに斬りかかる男がいる一方で、ピストルを撃ち放つ男も、甲板に並んでいた食糧樽を固定しているロープを切ってカノンに向かって投げつける男もいて、一身に浴びる攻撃すべては避けきれずに、カノンの頬や腕に無数の傷が刻まれ、彼が剣を振るたびに、鮮血が甲板に散っている。
助太刀してやろうにも、隻眼となった病み上がりの少年一人、出て行っても足手まといになるだけだ。
押して、引いて、また押して。
じりじりと、アイザックのいる船尾楼に向かって追い込まれて後退していくカノンの姿に、あんた、その程度の人間じゃないだろう、と奇妙な焦りと苛立ちが湧きあがる。
五人から同時に斬りかかられたカノンは、両手で柄を握った大剣を横一線に薙ぐように振ってまとめて五人ともを吹っ飛ばした。
アイザックがホッとしたのも束の間、カノンが剣を再び構えもしないうちに、ドン、と耳をつんざく砲撃音がしたかと思うと、黒船と接弦していない方の舷付近で激しい水飛沫が吹き上がった。砲撃で盛り上がった海面がざあっと大量の海水をスコルピオ号の甲板へ流れ込ませる。
津波のようなその流れはスコルピオ号の甲板を乗り越えて再び海面へと滑り落ちていったが───甲板から、つい今しがたまで戦っていた男たちがすべて消えていた。
海水に流されて落ちたのだ。
カノンは。
カノンの姿も、ない。
嘘だろ。あんたまで。
慌ててアイザックは海面へと目をやった。壊れた船の欠片や、落ちた人間の頭が、白い泡とともに次々に浮いてきている。
誰より重い大剣を振り回していた大柄なカノンは、そのぶん深く沈んでしまったことだろう。だが、その重りを手放して、そろそろ浮上してきてもおかしくないはずだが。
先に浮上した男たちは、既に、それぞれの船へ泳ぎ戻って、垂らされたロープを頼りにデッキへと上ろうとしている。
やがて、全身から水を滴らせたドクが「わたしは戦闘要員ではないはずなんですがね!」と悪態をつきながら甲板へ姿を現したが、それからしばらく待ってみてもカノンはまだだ。
「……ッ、カノン!!おい、カノン!!」
どこかに彼の姿はないかと、目を凝らしてみたが、どこにも姿は見当たらない。
まさか落ちた拍子に何かにぶつかって気を失った?それとも、砲撃でできた渦に巻き込まれて溺れた?
「返事をしろよ、カノン!!」
アイザックは転び落ちるように船尾楼の階段を駆け下りた。
舷縁へ飛びついて、海面を見渡したがそれらしき姿はまだだ。半分しかない視界がもどかしい。実際にカノンがどこへも浮上していないのか、それとも自分が見えていないだけなのかわからない。
「カノン、応えろって!!ふざけんなよ、あんた、勝手に俺たちを引っ張り込んでおいてこんなところで、」
アイザックのすぐそばで、バン、と音がして舷縁が砕け散った。
顔を上げれば、向かいの船で男が銃口をこちらに向けていた。
舷に隠れるようにアイザックはしゃがみ込む。
何も考えずに、気づけば氷河を追って飛び込んでいたあの時とは状況が違う。自分は片目を失った。もう、そうしたいからといって以前のようには決して動けない。何より相手はカノンだ。共に育ったかわいい弟分なんかじゃなく、言葉巧みに己を誑かした海賊だ。彼が海に落ちたからと言って探してやる義理なんかない。満身創痍の俺が行ったところで何になる。だけど、俺の他にカノンが戻っていないことを気づいている人間はいない。船長も、水夫たちもみなそれぞれ戦っていてそれどころではない。
長々と迷っている時点で、もう、結論は出ていたも同じだった。
アイザックはすっくと立ち上がる。
すぐ傍で再び鉛玉が跳ねたが、アイザックは構わず舷縁に飛びついて、そしてその上に立ち上がった。
「アイザック!!」
姿を見つけたのだろう、向かいの船から悲鳴のような氷河の声が響いて、アイザックはそちらへ向かって顔を上げた。
互いに生死の縁をさまよってから、視線を交わすのはこれが初めてだ。
だめだ、と、氷河は首を振っている。斬りかかる男たちを退けながら、アイザック、あぶない、やめろ、と氷河が何度も叫んでいる。自分は敵船に突っこんでいったくせに。無謀はいつだってお前の十八番だったのに、そのお前が俺を止める日がくるなんて。
あの、涙声のくせに決して自分の主張を曲げない強情さに俺は弱かったものだが。
悪いな、氷河。
今回ばかりは、お前の言うことは聞いてやれないんだ。
殺したったて死にそうにない、ふてぶてしく可愛げのない男だが、このままあの男が死ねば、俺は、意識を失う様に無防備に眠り込んでしまった、子どもみたいなあの表情を思い出すたび胸がじくじく疼いてしまう気がするから。
いけない、アイザック、行くな、行かないでくれ、と何度も叫ぶ氷河の悲鳴を背に、アイザックは海面めがけて飛び込んだ。
一度経験した身、海面下に身体が沈む際の衝撃を予測して身構えることができたぶん、海中で呼吸をコントロールするのは難しくなかった。
ただ、身体が思った以上に動かない。
水を飲んでいないにも関わらず肺がひどく痛い。
回復がまだ完全ではないのだろう。
塞ぎ切っていない左目の傷は海水でずきずきと痛み、ぐるぐると回る天地にともすれば方角がわからなくなる。
浮上して、は、は、と息を整えながら、アイザックは潮流に乗るようにして船尾の方角へと回った。
込み上げた感情に勢いを押されたとはいえ、完全に無策で飛び込んだわけではない。当たりはつけている。浮上しないなら、浮上しない理由がある。
嵐ではないにしろ、度重なる砲撃が作り出した潮流で海が荒れている。だが、流れがある、ということは、落ちたカノンもその同じ流れに乗ったはずだった。
潮流に助けられるように船尾に到達して、アイザックは再び海面下に潜った。
探すはシーアンカーだ。
スコルピオ号も向かいの黒船も、接舷したまま戦闘しているからには、停船のためのシーアンカーを投入している。
甲板を浚った波が引く勢いのまま海中に攫われた身体がいつまでも浮かんで来ないのは、海中の、アンカーロープに引っかかっているからではないのか。
果たして、アイザックのその推察は正しかった。
砲撃余波で絡み合った、黒船から長く伸びたアンカーロープに、大剣と共に磔にされるように囚われる体躯を、アイザックのひとつだけの瞳はしっかりと捉えた。
剣を手放さなかったことが災いしたらしい。
カノンの身体に無数についた傷から流れる血が海を染め、意識を失っているのか(まさかこの男に限って死んではいないはずだが!)目は閉じられている。
アイザックは泳ぎ寄り、カノンの体躯に絡みつくロープを両腕で引いた。
だが、帆船のうちでは小型の部類に入る船であっても、船一艘をその場に留めるためのアンカーロープは人間の腕ほどある。どれだけ馬鹿力でも、人間が、足場もない海中で引きちぎれるような代物ではなく、びくともしない。
アイザックは、一度浮上するべく、水を蹴って海上を目指した。
剣の重さでかなりの深度まで沈んでしまったのだろう、海面までがやけに遠い。
ぷはっと待ち望んだ空気に触れるなり、アイザックは、はあっはあっと激しく肩で息をした。早くも限界が近づいているのか、光の下にいるというのに、隻眼を通して見ゆる光景はなにもかもが暗く、なかなか呼吸も整わない。だが、整うのを待つような悠長なことはしていられない。アイザックは深く息を吸い込んで再び海中へと潜る。
改めて見れば厳しい状況だ。
この太いロープは、剣を使っても切り離すまでに相当な時間がかかるだろう。例え意識ないカノンが持ちこたえても、アイザックの方がそれまで持ちそうにない。
アイザックはカノンの足元まで潜った。
彼の体躯と共にロープに絡み取られた大剣。これを先に引き抜けばいくらかロープが緩む。そうすればカノンの身体も抜け出すことができるに違いない。
鞘なしの抜き身の剣だ。力任せに引っ張れば、ロープだけでなくカノンの身体にも傷をつけてしまうだろうが、躊躇っている猶予はない。
切っ先を掴んだアイザックの指に脳天を突き抜けるような鋭い痛みが走って、海中に赤い花が咲く。だが、痛みを感じていられる方が今はありがたかった。絶え間なく痛みでも感じていない限り、ふっと意識が遠のいてしまいそうになるほど自分の肉体が限界に近づいているのがわかる。
皮膚を切り裂く鋼鉄を両手でつかんで、カノンの体躯を足場代わりに蹴りながら、アイザックは渾身の力で剣を引く。
ずず、と返った重い手応えとともに、剣が動いた。
肉の切れた痛みで意識が戻ったか、がぼがぼと空気が漏れる音がして、真っ赤な靄の向こうでカノンの体躯が動く。状況を飲み込んだか、それとも本能か、カノンはロープを引きちぎろうとし始めた。
いくら怪力でもさすがに千切ることはできなかったが、その動きが助けとなって、最後は、自重に押される形となって、大剣がずるりと雁字搦めから抜け出した。
渾身の力で剣先を引いていたアイザックは、抜けた勢いの重みをまともに受け止めてしまい、剣もろともに海底へ沈んでいく。
だが、取り返しのつかぬほど沈む前に、アイザックの腕は強い力で大きく上方へと引き寄せられた。見れば、ロープから抜け出た、鬼の形相のカノンが、アイザックの身体を抱えて海面を目指して水を蹴っていた。
ぷは、と二人同時に海面へ顔を出し、ぜ、ぜ、と何度も肩で呼吸をして空っぽになった肺に空気を送り込む。
しばらく口もきけずに喘鳴を繰り返していたカノンは、口が利けるだけの息が整うなり、血走った眼をきろりとアイザックに向けると、「なぜこんな無茶な真似をした!氷河ならともかく、お前の命をかけるような価値など俺にはない!」と怒鳴りつけた。
生還するなり自分を全否定かよ、あんた、と、なんだか酷く胸が締め付けられて、アイザックの鼻の奥が痛くなる。
カノンにしっかりと抱えられていなければ海面につかないように顔を上げておくことも難しいほど全てが限界だったが、最後の力を振り絞って、アイザックは揶揄う様に笑った。
「先払いだ、バーカ。命の価値なんか、自分自身の生き方次第でいくらでも変わる」
アイザックの言葉に、カノンの表情は険しく歪んで、くそっと呻きながら抱き寄せるようにアイザックの頭を胸へと押し当てた。
「青臭い説教なんかごめんだ!お前など攫ってくるのではなかった!」
『捕虜』だって認めるのかよ、今さら、とアイザックはもう一度笑おうとしたが、もはや表情を変えるだけの力も尽きようとしていた。
薄れゆく意識の中、アイザックを片腕に抱えて泳ぐカノンが、いつの間にか回収していた大剣を振りかぶって蠍の船に向かって放つ咆哮だけが響いていた。
*
「……アイザック……!」
襲い掛かってくる男たちをひとしきり倒して、舷へ駆け寄って海面を見渡したが、いくら探してもアイザックの姿が見つからない。
ドン、という大砲の音でハッと顔を上げれば、グラード領の討伐艦から鋼の玉が迫り来るのが見えた。
鉄の塊はスコルピオ号を飛び越して背後の海面へ着弾する。
威嚇攻撃を終え、マストを破壊して航行不能にする気なのだ。
「は!やってくれる!忌々しいほど有能なセンセイだな!」
上方から降ってきた声に氷河はマストを振り仰いだ。
檣楼へ到達したミロは禿頭の大男相手に剣を振るいながら、討伐艦の砲撃を見やり、スコルピオ号に向かって、「面舵いっぱいだ!転回させろ!」と怒鳴った。スコルピオ号を黒の船の陰へ転回させることで砲撃から逃れようとしているのだ。
「儂を前によそ見する余裕があるたあ驚きだな、若造!」
濁声の男が振り下ろした剣を間一髪かわしたミロのシャツの肩口が裂け、赤いものが滲む。
男の胸に刻まれた蠍の刺青と、裂けたシャツの左腕からのぞくミロの蠍の刺青、瓜二つの蠍は、足場の狭い檣楼で激しく斬り合っている。
大男が見た目ほど愚鈍ではなく、むしろ相当な手練れであることは、あのミロがまだ彼に一太刀も入れられていないことからもわかる。
スコルピオ号を守りながら戦おうとしているミロは不利だ。
その上、急速に転回し始めたスコルピオ号の意図を悟ったか、そうはさせじと討伐艦はその進路を塞ぐように次々に大砲を撃ち込んでくる。
「ひゃっは、こりゃあいい、どこの間抜けな軍艦か知らないが、儂らに味方してくれるとは!」
禿頭の大男が醜い腹を抱えてゲラゲラと笑っている。
くそっ、先生を侮辱するな、とマグマのように腹の底から噴き上がる怒りにまかせて、氷河は、うわあああ、と叫びながら檣楼目指してシュラウドを上り始めた。
そのことに気づいた大男の濁った目がちらと下方の氷河へ向けられたかと思うと、男はヤードロープを掴むと、その巨躯を空に向かって投げ出した。
驚いた氷河の前にみるみる蠍の刺青が迫り、あっと思った次の瞬間には男の太い腕に氷河の腰は絡めとられ、空中を舞ったかと思うと、男が元いた檣楼の上へと振り子のごとく連れ去られていた。
「やめろ!」
ミロが男に向かって剣を構える。
男は氷河を盾とするように腰を抱いたまま、耳元で不快な息を吐いた。
「貴様のその焦りよう……ははあ、わかったぞ、さてはこれが『青の宝石』だなァ?」
嬲りがいのある獲物だ、と言わんばかりに氷河の首へ男が刃を当てる。
柔らかな皮膚に鋭い痛みが走って、ポタポタと剣を伝った雫が男の手を濡らす。声を出せばその喉の動きでさらに刃が食い込みそうで、氷河は歯を食いしばって痛みに耐える。
躊躇いなく食い込んでいく刃に、視線で殺せるのではないかと思うほどにミロの表情が険しく歪んでいる。
「こいつの首を繋げておきたいなら剣を捨てて儂の足元に跪け。代わりに貴様の首を刎ねさせてくれりゃ、儂の気も晴れるかもしれんなァ」
どうせどちらも斬る気だ、とありありとわかる男の汚い要求に、ミロの顔は怒りで歪んでいる。その間も砲撃は続いていて、スコルピオ号では船長の指示を求めて「キャプテン!」と叫ぶ声がしている。
このままではスコルピオ号は沈み、氷河は母の仇を討つどころか、ミロの足手まといとなって終わりだ。
氷河はミロの瞳を見た。
よく晴れた日の海のような、美しい、マリンブルーの瞳だ。
海は大嫌いだった。
身体にまとわりつく潮風も、のどをひり付かせる塩分も、母の骸すら返さない冷たさも。だから、海を思い出させるブルーだってずっと避けてきた。
でも、彼の瞳を見ると、海ってとってもきれいだねえ、と無邪気に船旅を喜んで母の顔を見上げていた日の記憶が甦り、少しだけやさしい気持ちになれる。
氷河の意図を悟ったか、やめろ、とブルーの瞳が小さく左右に振られている。それで、覚悟は決まった。
氷河は、喉へ刃を当てられたまま、ぐっと身を沈めた。
衝撃でぷつぷつと皮膚が裂け、鮮血が飛び散る。
剣の上へ身を沈めるとは自殺行為だ。さすがに予想していなかったか、噴き出る鮮血に驚いた男に向かって、間髪入れずミロが己の剣を鋭く放った。
男の腕へ過たず命中し、深々と突き刺さった剣を抜くために、男が氷河の身体を離す。
ミロ、と叫んで(叫んだつもりが、音にはならなかったが)、氷河は己の長剣をミロへと放り、そして自分は帆桁を大きく蹴って空中へと飛び出した。
甲板に叩きつけられる前に、縦横に張られたシュラウドのロープを掴んで氷河は衝撃を和らげて軟着地することには成功したが、体重を支えた両掌は粗い縄目に削り取られて皮膚が裂け、呼吸をしようとした途端に、げほ、と大量の血を吐いた。
ぬるぬると嫌な感触のする首へ手をやる。動くたび鮮血が噴き出ているが、致命傷ではない。今はまだ。
血を止めるために、急いでシャツの袖を切り裂いて首へと巻いておいて、氷河は手のひらの痛みを堪えてロープを掴んで舷縁を蹴り、振り子のように空を舞ってスコルピオ号へと戻る。
ミロがどうなったかは振り返らなかった。
一対一なら、彼は、絶対に負けないという奇妙な信頼があったからだ。
状況が圧倒的に彼に不利なのは、一対一ではないせいだ。
ならば、今の氷河にできることは、これしかない。
スコルピオ号の甲板を駆けて、氷河は船尾楼を目指す。船尾楼でアイザックが何かしようとしていた。何をしようとしていたのか、今ははっきりと意図がわかる。
氷河は砕けた航海長室前の通路で、白いシーツを拾い上げた。
転回しようとしているスコルピオ号の船尾楼は、討伐艦からではきっと見えない。
メインマストまでとって返し、氷河は、一番高いマストの天辺をめざしてシュラウドへ足をかけた。
ああ、ミロと上ったな、ここ、などと、なぜか場違いに思い起こされる記憶で胸が締め付けられる。
「やめろ、氷河!!」
姿を見つけたか、風に乗ってミロの声が響く。
その声で、ますます、氷河は上るスピードを上げる。
氷河のすぐ頭上を鋼鉄の塊が飛んでいき、また、ドン、という水柱が海面から吹き上がる。
「せんせい!!」
聞こえるはずはないが、それでも声を張り上げずにはいられない。声を張った拍子に、また吐いてしまった血が、抱えていたシーツを赤く染めたが構っていられない。
「せんせい、撃たないで!!」
ミロのとっておきの景色を眺めた最上段、ぜえぜえと肩で息をしながらようやく到達して、氷河は半赤く血で染まったシーツを広げて大きく振った。
「せんせい……!!」
また、頭上を鋼球が飛んでいく。今度は氷河の髪がなびくほど、本当にすれすれだ。次はもう、氷河がしがみついているマストそのものに命中するかもしれない。それでも、氷河は必死にカミュを呼んだ。
「お願い、せんせい、違うんだ……!ミロは違う、ミロじゃない、せんせい……!」
黒の船で、二人の蠍が斬り合っているのが見える。視線は男に据えて剣を振りながら、ミロが、氷河、やめろ、と何度も叫んでいる。
「せんせい、お願いだから、俺なら、」
ミロが、やめろ、言うな、と叫ぶ。
「俺なら、帰るから……!!今すぐグラード領に帰るから、だから、」
失血でぐらりと揺れた身体をマストで支えるようにして、氷河は、ぱたりとシーツを下ろした。
頬に涙が一筋流れる。
マーマ、ごめん。俺は仇を討てなかった。
もっと大切なものを見つけてしまったんだ。
一緒にいられなくていいから。
あのひとを……ミロを、死なせたくない。
「……せんせい、お願いだから……」
自分の耳にすら届かぬほどの小さな声が師に届いたはずはない。
だが、絶え間なく続いていた大砲の音がピタリと止んで、一瞬、あたりが静寂に満ちた。
攻撃が止んだのか、と束の間安堵した次の瞬間、大砲が放たれる、ドオッという音が大気を震わせて、氷河は慌てて頭を両腕で守って座り込んだ。
ああ、ダメだった、と半ば絶望とともに覚悟した衝撃は、だがいつまでたってもやってこない。おそるおそる顔を上げた瞬間に、黒の船の向こう側で、激しい水飛沫が吹き上がった。
ハッとして前を見やれば、狙いを変えるかのようにゆっくりと旋回する討伐艦の檣楼で、鮮やかな緋色の髪が風になびいてふわりと広がった。
**
「用意はできましたか」
ノックとともに扉を開いたムウが、氷河に向かってそう問うた。
攫われた夜に纏っていたフロックコートを返されて着替えていた氷河は、ああ、とも、いや、ともつかぬ曖昧な声でそれに答える。
あれほど着慣れていた、久しぶりの正装はひどく窮屈で、なんだか、胸のあたりが苦しく締め付けられるような心地がしてどうしようもなかった。
袖口の飾り釦の扱いがやっぱりわからずにまごまごしていた氷河に気づいて、ムウが数歩近寄る。
「首の傷は、グラード領に戻ったらすぐに本物の医師に診てもらってくださいね」
袖の釦を留めてくれながら、ムウはそう言った。
こんな酷い状態でセンセイの元へ返せばわたしは殺される、と言いながら、傷口は彼がさっき応急処置に縫合してくれたばかりだ。麻酔こそなかったが、丁寧な縫合と、彼独自の調合による痛み止めの効果か、言われるまで自分が怪我を負ったことを忘れていた。
「あなただって、本物だ。アイザックの命を助けてくれた」
氷河がそう言えば、ムウは目を見開いて、「ただの
博士ですよ、わたしは」と困ったように少し笑った。
「着替えが終わったなら、行きましょう。さっきから、センセイが苛々して待っていらっしゃる」
「……………ああ」
あなたたちは何者なんだ。
結局、蠍とは何だったのか。
これからどうする気なのか。
訊きたいことは山のようにあったが、うっかり口を開けば涙となりそうで、氷河は全部飲み込んだ。
さあ、と扉を開けて促しているムウとともに氷河は通路へと歩み出る。
甲板には、スコルピオ中の水夫が集まっていた。
黒の船の姿はもうない。
討伐艦の砲撃の矛先が変わり、形勢が一気に不利になったと見るや、黒の船はまたも逃げることを選択したのだ。
また逃げるのか、卑怯者、とミロは追おうとしたが、カミュがそれを許さなかった。
黒の船とスコルピオ号の間に割って入った討伐艦から、捕虜を直ちに返さねば再び砲撃する、返すなら一時停戦に応じる、という伝令が放たれ、そして、スコルピオ号はそれを受け入れたのだ。
今、スコルピオ号にぴったりと接舷した討伐艦からは、こちらに向かって舷梯が架けられていて、その中央で軍服姿のカミュが二人を待っている。
停戦の約束が嘘ではないことを示すために、危険も顧みず護衛なくたった一人待つ、その凛とした立ち姿に、離れ離れとなって何年も経ったわけではないのにぐっと熱いものが込み上げてきて駆け寄りかけ、だがしかし、甲板に集まった水夫たちの中に背の高い巻き毛の船長の姿を見つけて、氷河は思わず足を止めた。
何か彼に言いたい。
でも、何と言えばよいかわからない。
胸にぐっと押し迫った激しい感情が、氷河から言葉を奪ってしまう。
攫われてきた夜は、こんな気持ちでこの船を下りることになるとは思いもしなかった。
短かったような、長かったような航海。長閑で楽しかったことばかり、とは言い難い。むしろ、拳を握って、歯を食いしばっていることの方が多かった。だが、海賊船での生活は、確実に氷河の中の何かを変えた。
でも、それももう終わりだ。───終わり、なのだ。
「二人を返してもらおう」
海風に響いたカミュの声に、氷河はハッとして師の方を見た。
険しく眉間に皺を寄せたカミュの顔は少し窶れているように見える。頬に影が落ちているのは痩せたせいか。この数週間、どれほど心配させていたかが知れては師の気持ちは裏切れない。
氷河は思いを振り切るように舷梯へ向かって歩き出した。
人一人通るのがやっとの舷梯だ。
まずはアイザックを抱き抱えたカノンが先に足をかけた。
氷河と違い、自力で歩くこともできないアイザックは、身体を毛布で包み込まれ、ピクリとも動かない。その左目に巻かれた包帯からは痛々しく血が滲んでいて、迎えるカミュの顔は蒼白通り越して真っ白だ。
カノンから、ぐったりと力のないアイザックの身体を受け取る瞬間のカミュの腕は、怒りを抑えているがゆえか、激しく戦慄いていた。
自身も満身創痍、まだあちこちから血を滲ませているカノンは、己を射殺さんばかりに睨みつけているカミュに向かって深々と頭を下げた。
無防備に己の前に晒された首に、カミュが剣を振り下ろさなかったのは奇跡だ。
それほど、アイザックを抱いた師の手は震えていた。
無言で戻ってきたカノンに代わる形で舷梯の前へ動いたミロが、次は君だ、と言わんばかりにこちらを見た。
一歩。
踏み出す足が酷く重い。
また一歩。
大好きな師の元に戻れることに確かに安堵しているはずなのに、信じがたいほど強く後ろ髪を引かれている自分がいる。
ミロの前を通り過ぎる瞬間も、氷河は顔が上げられなかった。
彼もまた一言も発することはなく、舷梯へ足をかけた氷河の背には、固く、張りつめたような気配だけが届く。
強い海風渡る、心もとなく揺れる橋の上。アイザックを船医に預けたカミュが、安心させるように手を広げて待っている。あと数歩。歩みを速めて、師の腕へ飛び込めば、それでもう、本当にこの旅は終わりだ。
海賊であるミロと、海賊に母を奪われた氷河の生は、この先きっと交わることはない。彼が、母を奪ったその人ではなくとも、だ。元々、住んでいる世界が違う者どうし、本来ならば交わることもなかった。
これが、彼との最後の時間、そのものだ。
氷河の足がピタリと止まる。
俯いた頭に、「氷河」と師のやさしい声が降る。
せんせい、と、少し心は揺れて、だが、躊躇いの末に氷河は振り向いてミロを見た。
氷河がそうするとわかっていたかのように、舷梯に片足をかけたミロの唇が、氷河、と動く。
どうしようもなく熱いものが込み上げて、氷河は、ミロに向かって駆け戻る。不安定に揺れる舷梯から投げ出されるのを守るように広げられたミロの腕へ、氷河は飛び込んだ。
「ミロ、」
呼吸が乱れ、込み上げたものが頬を濡らして、言葉が出てこない。
言いたいことが山ほどあるのに、全部喉でつっかえて、絞り出せた言葉はたった一つだ。
「……俺は、あなたのことが好きだった」
もうきっと二度と会えない、その思いに押されて告げた言葉に、ミロの表情が今までで一番苦し気に歪んだ。
「…………………知っていた」
ミロの腕が、愛おし気に氷河の背を強くかき抱く。
離れたくない。このまま時が止まればいい。あなたが海賊でさえなければ。───だが、彼が海の蠍でなければ、こうまで強く惹かれもしなかった。
氷河はミロの胸をそっと押して、彼から離れた。ミロから離れる瞬間、指先がどうしようもなく震えた。
「俺を、連れ出してくれて、ありがとう」
大嫌いだった海は、今はもう、氷河から母を奪っただけの酷薄なブルーではなくなった。思い出すたびに切なくなりはするだろうが、ミロと見たコバルトブルーは、この先もきっと氷河の心を温かく慰めてくれるに違いない。
「……さようなら」
「…………ああ」
短い別れの挨拶を交わした後は、氷河は拳で涙を拭って彼に背を向けた。
二隻の船の間を通り抜ける海風が強く舷梯を揺らしている。安堵した表情のカミュが氷河に向かって手を差し出した。
今度は振り向くことなく、氷河は、温かく懐かしい師の手を取る。
旅は、終わったのだ。
**
水平線にゆっくりと、ゆっくりと、氷河とアイザックを乗せた討伐艦の白い帆影が沈んでいく。
二人を無事に返せば、少なくとも姿が見えなくなるほど距離を取るまでは攻撃を停止する、としたカミュは、律儀にその約束を守ったのだ。とても無事に返せたとは言えない、傷だらけの二人の姿を見たにも関わらず。
アイザックの身体をカノンからカミュが受け取る時、押し殺した低い声が「次にわたしの前に姿を現したときは容赦はしない」と怒りで激しく震えていたことを思えば、二人を取り戻したのをいいことに約束を反故にして、再び砲撃を再開されていてもおかしくはなかったし、海賊相手なら、約束を反故にしたところで誰にも非難はされなかっただろう。少なくとも、カノンが彼の立場なら攻撃していた。攻撃されていれば、スコルピオ号は相当な苦戦を強いられたに違いないのに、彼はそうしなかった。
あのアイザックの、そして氷河の、義の心を育てたのは確かに彼なのだとわかる、実に誠実で清い対応に、応えるだけの誠実さを持ち合わせていない己が身がさすがに苦しくなる。
船尾に一人佇んで、小さくなる船影を見送るミロの胸の内にも同じ思いが去来しているのだろうか。
水夫たちが忙しく立ち働く中、航路の指示も出さずに微動だにしない背は、何を思っているのか、カノンに彼の胸の内を推し量ることはできない。
ぐるぐると、上空を滑空していたミロの飼い鳥が、バサッと大きな翼を羽ばたかせて、彼の肩へと舞い降りた。
「……慰めてくれるのか、シャウラ」
羽毛で覆われた喉を指先でくすぐりながら、そう呟く低い声が聞こえて、歩み寄りかけていたカノンはギクリと足を止めた。
何事にも潔い彼らしくない、感傷的なその呟きは、聞いてしまってはならぬものだった。近寄るべきではなかった。
だが、カノンが下手な気遣いで躊躇うまでもなく、どうやら気配でとうにその存在に気づいていたらしいミロは半身を振り返らせて、ふっと笑った。
「すぐに追うぞ、カノン」
「…………………どちらの船を」
黒の蠍の船が消えた方角と、討伐艦が沈んでいった水平線を見比べるように視線を往復させて思わずそう問い返してしまったカノンに、ミロは、呆れたように、は、と一つ息を吐いた。
「我らが何者か忘れたか、カノン。蠍の名をこれ以上奴に名乗らせておくわけにはいかない」
ミロがどういう人間であるか考えれば、そう答えるのは当然だった。
だが、迷いなく切り捨てたものが、大切ではなかったわけではないことは、別れ際の苦し気な抱擁が物語っている。
「さあ、そうと決まれば出発だ」
くるりと水平線に背を向けたミロの顔はもう、いつもの頼れる船長のそれ、そのものだった。