寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ⑮◆


 ぼそぼそと低く抑えた話し声がしている。
 眠っているような、起きているような、曖昧に漂う意識をひとところにかき集めて、アイザックは声の主を探すために目を開こうとした。
 だが、その試みはうまくいかなかった。
 身体は重く、そして異常に熱くて、瞼を持ち上げる、ただそれだけのことすらアイザックの自由にはならなかった。声を出そうにも胸と喉のあたりが酷く痛くてそれもままならない。
 仕方なく、アイザックは聴覚だけを外の世界へ向ける。
 声の主はドクだろうか。聞き取りづらくはあったが「氷河が戻って、」という言葉をかろうじて拾って、どうやら彼は生きてはいるようだとアイザックは安堵した。
 話し声は次第に近づいてきて、やがて、アイザックの額にひやりと冷たいものが触れた。
「……ここはわたしが看ますから、今のうちにあなたも眠った方がいい」
「いや、俺は大丈夫だ」
 応えた声はカノンのものだ。
 己の身体が沈んでいるベッドの感覚と匂いには覚えがあったから、ここは、恐らく航海長室なのだということには気づいていた。特別な推理を働かせなくとも、ドクと話している相手が彼だということは容易に想像できた。
「大丈夫ってあなた……何日眠っていないと思っているのです。いざというときに使えない航海長に針路を委ねるなどわたしはごめんですよ」
 辛辣なドクの言葉にもカノンは、「大丈夫だ」と重ねて言ったが、少しは眠っているという意味なのか、眠らなくとも動けるという意味なのか、声色からは判別がつかなかった。
 カノン、あなた、とドクが何事か続けようとしたとき、空気が微かに動いて、二人が振り向いた気配がした。
「ミロ」
「様子はどうだ」
「おかげで薬が少し効いてきているようです。まだ熱は高いが、いくらか呼吸がましになっている。ここ数日が山でしょう。氷河はどうしています?戻った時には顔色が悪いように見えましたが」
「落ち着いている。……それが却って怖いがな。ここへ連れてきてやってもいいか。顔でも見れば少しは安心すると思うが」
「……そうですね……もう少し待った方がいいかもしれません。苦しんでいる姿はあまり見せない方がいい」
 俺なら大丈夫だ、氷河に今すぐ会わせてくれ。そう言いたいのに、全身の神経が麻痺してしまったかのように動かない。
 わかった、ここは頼んだぞ、と言って去ろうとするミロを、ドクが引き止めた。
「ミロ、二人をもう解放しましょう。アイザックは無理でも、せめて氷河だけでも今すぐに。二人は十分役に立ってくれた。これ以上ここに置いていても後は危険なだけです。奴らがあれで諦めたとは思えない」
「……残念だが、それはできん。半端に舞台に引っ張り上げておいて、ここで放り出したのでは却って残酷だ。………氷河には蠍を討つ権利がある」
 ミロ、とドクが息を飲んだ。
「彼に敵討ちをさせるというのですか。本気で言ってます?あなたの方が殺されるかもしれないんですよ」
「殺される覚悟もなしに蠍が名乗れるか。どう選択するかは氷河の自由だ。……お前にもその覚悟があったから氷河を獲物に選んだのだろう、なあ、カノン?」
 一言も発することなく黙り込んでいるカノンへ不意に向けられた声は、剣を抜いた時ほど冷えてはいなかったが、決して温かでもなかった。
 カノンは、にも関わらず(それとも、だから、か)、いっそう煽り立てるように、ふっと吐息で笑った。
「俺は奴を釣る最適の獲物を選んだだけだ。氷河の気持ちなど知ったことではない。利用した道具の気持ちをいちいち気にするところがお前は甘い」
 しんと空気が凍り付く。
 ミロとカノンと、ドクと……三者三様に気配が重く強張っている。
 やがて、ミロが口を開いた。
「……だが、これが俺のやり方だ。変えるつもりはない」
 バタン、と扉が閉まる音がして、気配がひとつ消える。遠ざかる足音──恐らくはミロが去っていったのだ。
 残された静寂を、あなたねえ、と、盛大なため息で破ったのはドクだ。
「本当に知ったことではないなら、一睡もせずに道具の看病をしたりしませんよ。わたしに言わせれば、悪人ぶるくせに徹しきれないあなただってずいぶん甘い」
 手厳しいドクの言葉にカノンは反論するでなく、無言を貫いている。
「その様子では、あなたは、ミロの怒りの理由もまだわかっていないでしょう。ミロは、氷河を獲物に選んだこと自体を怒っているのではない。あなたが、氷河の母が蠍に殺されたことを知っていて隠したことを怒っているのです。なぜ隠したのです。ミロがそれで情けをかけると思ったのですか。だから一人で汚れ役を引き受けた?彼が誰かに責任を押しつけてよしとする人間ではないことくらい、あなたにもわかるでしょう」
 相変わらずカノンは何も言おうとはしない。
 ドクはカノンの申し開きを待っていたようだが、やがて根負けして、ふ、と息をつくと、ほかの怪我人を見てきます、あなたも少しは休むように、と言い置いて去っていった。
 ドアが閉じてしばらくは、カノンの動向を探るように聴覚を研ぎ澄ましていたアイザックだったが、どれだけ待っても身じろぎの音ひとつすることはなく、静寂の時ばかりが過ぎていき、朦朧としていたアイザックの意識は次第に眠りの世界へ引き戻されていく。
 ふう、という、カノンが吐いた重いため息の音が耳に届いた時には、もう意識は深いところへ滑り落ちていた。

**

「カミュ司令官!」
 操舵室で相も変わらず何もない海原を見やっていたカミュの元に、水夫の一人が飛び込んできた。
 どうした、と振り向けば、珍しい銀の羽をした鳥を肩に乗せた水夫が、伝令です、と言って、カミュに、幾筋も折り目のついた紙を差し出した。
「こいつが運んできました。カストゥラの港からです。蠍が現れたとのことです」
 なに、とカミュは思わず声を大きくした。
 カストゥラは航行している区域からはそう遠くない、小さな港町だ。
 蠍はすぐ近くにいるのだ。
 東へ向かったと見立てた己の判断に誤りがなかったことに、安堵と昂揚でカミュの背がふるりと震えた。
 水夫から紙切れを受け取って、カミュは文字に目を滑らせた。
「……青の宝石が蠍と共に、だと……?」
 途中で雨に降られたか、波飛沫のせいか、ところどころインクが滲んでいて判別し難くなっている文字をどうにか読み取ったものの、その内容が俄かには信じがたく、カミュは眉根を寄せた。
 先に救出した男の話では、蠍は青の宝石を探し回っていたという話だった。共に行動しているならば矛盾する。一度逃げ出して、再び捕えられたとでも言うのだろうか。
 おかしなことはそれだけではない。
「上陸したが、奪われたものは()()()()……?」
 解せぬ。
 ならば、何が目的だ。
 上陸すれば捕まるリスクは高まる。
 捕まっていないまでも、寄港して人目についたせいで現にこうして追っ手に動向を知られる羽目になっている。
 百歩譲って何か理由あっての上陸だったにしても、捕虜である氷河をわざわざ連れて動いた理由がわからない。
 そもそも、だ。船を下りておきながら、氷河はなぜ大人しく蠍に従ったのか。監視は当然ついていたにしても、機転を利かせて逃げ出すか、少なくとも誰かに助けを求めるくらいはできそうなものだが。
 …………アイザックか。
 彼を人質にとられていた。だから下手な行動がとれなかった、か……?
 結局彼も蠍に攫われたという確証は未だないままだ。
 だが、機会がありながら氷河が積極的に逃げようとしなかった、という事実は、二人が共にいることの証左にも思える。
 ほかに何も情報がないからには、そこにカミュは縋るしかない。
 氷河はまだ生きている。そして、恐らくはアイザックもまた。
 カミュは、どくどくと鳴る心臓を平らかにするために深く呼吸をした。
 蠍が現れた、というこの情報自体がフェイクで、攪乱されている、という可能性もないではない。人間はしばしば、そうであって欲しいという願望を形にしたものに簡単に飛びつき、信じてしまう習いがある。
 ここで判断は誤れない。
 しばしカミュは真剣に情報を吟味するように思案して、そして顔を上げた。
「針路はこのまま東だ。速度を上げて蠍に追いつこう」
 イエッサー!と水夫はデッキへの階段を駆け下りていく。
 蠍の上陸は多分、グラード領の時と違って予定外だ。
 リスクを冒してでも寄港しなければならなかったとしたら、盗まれたものが何もないはずはない。気づかれぬうちに無形物(例えば情報だ)を盗まれたのか、あるいは、盗まれた人間が、蠍を()()()()のかもしれない。
 大切なものを盾にして脅されていたり、口止め料として金貨を掴まされていたりすれば、国賊である蠍であっても、かばう人間が現れても不思議ではない。
 いったい、蠍の船で何が起こっているのか、氷河とアイザックはどんな扱いを受けているのかと、悪い想像ばかりが次々に浮かんでカミュを苛む。
「……待っていろ、もうすぐだ」
 逸る気持ちを押し殺して、カミュは海原を見つめ続ける。
 その背を押すように、東へ向かう風が、ごう、と強く吹きつけた。

**

 眩しい、と感じるのは久方ぶりだ。
 深いところに沈んでいたアイザックの意識は、時折は浮上して、そのたびに外の音は拾っていたが、視覚が刺激されたのは初めてのことだった。実際には幾分前から光は感じていたのかもしれないが、少なくとも、光を光と認識できるほど意識が明瞭になったのは、臥せついて以来のことだった。
 覚醒まもない身に久しぶりの光は、開かぬ前の瞼を通していてすら刺激が強すぎて、アイザックは無意識に顔をしかめる。
「……ん、」
 思わず唇から漏れた声に即座に反応して、アイザックの傍で、気がついたか、と掠れた声がした。
 声のした方へ首を傾けようとしたが、急には動くな、と大きな手のひらがアイザックの額を押して留めた。
「痛みはどうだ」
 痛み……?とアイザックは、まだ鈍い働きの思考を巡らせ、ゆるゆると意識を全身に向ける。
「どうかな……痛いというより怠い感じだ……」
 言いながら、アイザックは軽く身じろぎをして身体の感覚を確かめる。
 ほんの少しの身じろぎにも関節がギシギシと軋み、四肢はついているのかいないのか、身体が自分のものではないかのように重い。
 だが、全く動けなかった状態は脱しているように思えた。
 少なくとも声は出せている。
 恐る恐る目を開いてみたが、光から瞳を守るように視界を遮っている大きな手のひらのほかは何も見えなかった。だが、声と気配でそれがカノンの手のひらだということはわかっている。
 アイザックはゆっくりと瞬きをした。した、つもりだった。
 右の目は確かに瞬いたが、左目が動いた感覚がない。
 それもそのはず、顔の左半分をきつく包帯が覆っていた。
 確かめるようにアイザックは何度か瞳を瞬かせたが、無理に動かそうとしたせいか、左目に引き攣れたような痛みが走り、あまりの痛みに喉奥から小さな悲鳴が迸った。

「……俺、の……左目は、」

 問うたわけではない。
 問わずとも答えは多分わかっていた。
 だが、カノンの手のひらはピクリと小さな強張りを見せた。
「……そうか、だめになったのだな」
 朧げながら直撃の際の記憶はある。
 頭半分吹っ飛んだのではと思うほどの激しい衝撃だったのだ、どんな名医でも治せはしなかっただろう。
 氷河を連れて戻れるなら腕がもげてもいい、と心底思っていた。
 一時は死すら覚悟した。
 だから左目くらいで済んだことにはむしろ感謝をすべきだ。
 だいいち、失ったものをどれだけ嘆いても決して元には戻せないことは長年氷河を傍で見てきて思い知っている。だったら、嘆くだけ無駄なことだ。
 瞬時に、己の中でそう飲み込んで冷静さを失わなかったのは、傍にいるカノンに取り乱した姿を見せたくないがゆえの虚勢だったのかもしれない。
 だが、育て親同然の師から遠く離れて一人きりでその事実を受け止めねばならなかったアイザックには、例え虚勢でも己を保つための支えが必要だった。
 僅かでも同情するような真似をされたなら、その、アイザックをようやく支えているだけの虚勢も崩れ去って、きっと酷く惨めな気分となって打ちのめされていたに違いないが、そっと下ろされた手のひらの向こうのカノンは、「残念だがその通りだ」と言葉少なに頷いただけだった。
 下手な慰めでも吐かれたら、跳ね起きて、バカにするなと殴ってやるつもりだったのに、そして、既にそのつもりでシーツの下で拳を握っていたのに、全くの拍子抜けだ。
 おかげで殴り損ねたが、だが、その、一見冷淡に見えるカノンの態度に、固く強張っていたアイザックの心はゆるりと解けた心地がした。
 確か前にもあった、こんなことが。
 見透かしたように踏み込んで人の心を引っかきまわすくせに、案外、本当に触れられたくない一番柔らかなところまではずかずかと土足で入り込まない。
 彼自身が多分、そうされる不愉快さと痛みを知っているのだ。

「……なあ……あんたが前に言ってた、俺に重ねて見てしまった奴って誰なんだ?」
「意識が戻ったと思ったら藪から棒に一体何だ」
「あれ、もしかして、あんたのことだろう」
「記憶が混濁しているようだな。そんなことをお前に言った覚えはない」
 取りつく島なしだ。
 ということは、つまり、ここがカノンの、誰にも踏み込ませたくない聖域なのだろう。
「そんなに警戒しなくてもいい。俺はただ、そいつに言ってやりたいことがあっただけだ。あんたじゃないならいいんだ」
「言ってやりたいこととは何だ」
「身に覚えのない奴に言ったって仕方ないだろう」
 氷河なら、アイザックずるい、意地悪しないで教えてくれよ、と降参する場面だが、カノンはさすがに簡単には顔色を変えず、しばし沈黙した後、それもそうだ、と肩をすくめただけだ。
 だが、カノンはとぼけはしたが、否定まではしなかった。
 氷河とアイザックの関係を「見ていて俺には痛い」と言ったこの男にも、思い出すだけで痛くなるような近しい存在があるのかもしれない。アイデンティティが揺らいでしまうほど共にいすぎて、自分の人生は自分のためにあることがわからなくなってしまうような、そんな存在が。
 疲れた様子で俯く男は、この船、というより、この世界にひどく居づらそうな印象を受ける。

「……あのさ、あんた、この船下りたら?……グラード領に来れば俺が面倒見てやるのに」
 なぜそんな風に言ったのか、アイザック自身でもよくわからない。
 命を救われて絆されたのかと言えば、そう単純な話でもないような気もしたし、その反対に、捨てられて行き場をなくしている犬をつい拾ってしまっただけの、至極、単純な話であるような気もした。
 言ったアイザックも、それが音となった瞬間に、包帯の下で頬が引きつるほどには驚いたが、カノンの方も、何と表現していいかわからぬ、奇妙な表情に端正な顔を歪めた。
「……公子自らが海賊を領地に引き入れるなど感心しない。初日の晩に皆殺しされでもしたらお前はどう責任をとる気だ」
「あんたはそんなことしないだろうう?殺す気があるなら、俺なんかとっくに死んでる。でも、あんたは俺を助けた」
「あれはミロが先に飛び込んだから仕方なくだ。そんなに真っ直ぐでは悪い奴につけこまれると言っただろう。用済みになったら躊躇なく殺すぞ、俺は」
「ということは、あんたの中では俺はまだ『使える』駒なのか?氷河のことならもう俺に言っても無駄だろ。蠍本人が自ら、氷河に母の敵討ちをさせようとしているじゃないか。本人がいいなら止める理由はない。あんたにも、な」
「……………聞いていたのか」
 聞いていた、というほどには意識して聞いていたわけではなかった。半ば夢うつつでぼんやりと漏れ聞いた、聞いたと思ったやりとりが夢ではなかったことがわかったのは、むしろ、たった今、一拍遅れたカノンのその反応によって、だ。
 顔色こそ変わらなかったものの、カノンの声に、動揺が微かに混じっていたように聞こえた。
 ……なんだ……?
 聞かれていたことに気づいていなかったのならば、少なからず驚いてもおかしくはないが、だが、ただそれだけのことで、カノンが動じたりするだろうか。

 ───知らぬうちに、俺は、彼(あるいは彼ら)にとって都合の悪いことを耳にしていた、ということか。

 そのことに気づいて、アイザックは霞がかかったように不確かな記憶を慌てて遡り始めた。
 話をしていたのは、主にミロとドクだった、ように思う。多分、そうだった。
 氷河を解放するとかしないとか……最終的に、蠍を討つ権利があるのだから解放しない、と決めたのはミロだが、ドクはあまりそれを歓迎していない様子だった。
 ドクは、確か、二人は十分役に立ってくれた、とも言っていた。
 よく考えてみれば腑に落ちない。
 嵐の際には多少の助太刀はしたが、でも、ほとんど閉じ込められていただけの捕虜二人が、一体何の役に立ったというのか。
 存在が娯楽に使われている感もあったが、まさかその程度の理由で必要とされていたわけではあるまい。

 ただ───

 そういえば、カノンが。
 奴を釣る最適な獲物、と。
 そう言っていた。
 氷河の気持ちなど知ったことではない、とも。
 何かに利用されていたとしたらそれは、だから、氷河だ。アイザックではない。
 十分役に立った、ということは、氷河を攫った目的はほとんど達せられたことを意味する。
 つまり、カノンの言うところの『奴』が釣れた、ということで───アイザックの意識のないうちに何かが起こったのではないならば、恐らく奴というのは、あの嵐の夜の謎の船のことだ。
 氷河がこの船に乗っていることで、何者かが攻撃を仕掛けてきた……いや、逆か。そう仕向けるために、氷河はスコルピオ号に連れて来られた……?
 アイザックの鼓動が、核心に近づいている興奮でどくどくと高くなる。
 覚醒直後は働きの悪かった思考回路も今やすっかり明瞭だ。
 これまでの情報が次々につなぎ合わされ、目まぐるしく働いた思考は、今、一つの答えに向かって急速に収束しようとしていた。

 なぜ、氷河、なのか。
 氷河を利用して、何をおびき寄せようとしていたのか。

 ()、だ。

 ミロのことではない。氷河の母を殺した、真の蠍だ。ミロは氷河の母を殺していない。

 確証はない。だが、そうと仮定すればすべてが繋がる。
 氷河は、ミロには蠍の刺青があった、と言った。
 さすがに見間違うはずはない。あれほど氷河が動揺したからには、確かに蠍の刺青は彼には刻まれていたのだろう。
 だが、七年も前のことだ。氷河は、身体のどこに刺青が刻まれていたのかすら覚えていなかった。本当に完全に一致していたかどうかはわからない。
 もし、蠍の刺青を持つ男がもう一人存在するならば。
 刺青として非常に珍しいモチーフではあれど、絶対にありえないわけではない。どちらかが真似たということも考えられる。
 海賊として箔をつけるために、「蠍」の名を盗もうとしたか、それとも、もともと一つだったものが、何らかの事情で袂を分かったのか。

 いずれにせよ、蠍はきっと二人いる。

 ミロやカノンが、海賊討伐艦就航祝いの席への急襲、などという、派手な誘拐劇を演じたのは、噂を広く轟かせてもう一人の蠍を挑発するためだ。()がそこに現れた、と知らしめることだけが目的だったから、だから誰も殺さなかった。
 商人上がりの領主の後継候補が衆人環視の中で攫われたとなればセンセーショナルだが、単に話題性だけなら、ほかに、名の知れた国宝級の宝石や絵画を標的にする選択肢もあっただろう。
 にもかかわらず、グラード領の公子を選んだのは、それが、かつて、残虐な蠍の襲撃を生き延びた奇跡の子ども(つまり氷河だ)だったからだ。
 母を蠍に殺された悲劇の公子が再び蠍に攫われた、と。
 市井の人々は恐怖で口々に蠍の恐ろしさを語ったことだろう。
 真に氷河の母を殺した蠍の耳にその噂が届けば、俺の偽物がよく働いている、と喝采を送ったはずはない。
 子どもごときに逃げられていたことを揶揄されたととったか、自分の方が力があると誇示されたと感じたか。噂を聞きつけた蠍はプライドを逆撫でされて逆上し、だから、探し、追いかけて、己自身の沈没の危機もものともせずに攻撃をしかけてきたのだ。
 全てアイザックの推察だ。裏打ちは何もないが、今まで覚えてきた違和感や彼らのやりとりの全てに、これで説明がつく。
 真相にたどり着いた興奮でアイザックの指先が震えている。
 ちらと窺ったカノンは黙したままだ。
 アイザックは震える指を彼に気づかれないように、そっとシーツの下へと滑り込ませた。

 聞いていたのか、とカノンが顔色を変えた彼らのやり取りから察するに、蠍を挑発するために氷河に白羽の矢を立てたのはカノンだ。あとの人間は誰も氷河の過去を知らなかった。
 生き残った子どもを囮にするとは、悪趣味極まりないが、ただ、手っ取り早く蠍をおびき寄せるにはうってつけの獲物であったことも確かだ。カノンが言うように、当の氷河の気持ちを全く考えないならば、だが。
 人間を物のように扱うその手段は───だが、酷く既視感を覚える。目的のためなら、一切の感情を差し挟むことなく最も理にかなった行動を取る男を、アイザックは一人知っている。
 光政卿だ。
 氷河の目の前で、その母の救助を、もう無駄だ、と躊躇いなく断じたというあの男なら、必要とあれば、実の子を利用するくらいのことはしそうだ。
 カノンと彼が繋がっている、などと論理を飛躍させるつもりはない。
 ただ、卿のその性質を間近で見続けてきたアイザックは、彼が真実、冷酷なだけの男ではないこともまた知っている。情がないわけではない。だが、それより優先せねばならないものを抱えているだけだ。
 だから、アイザックは、カノンを決して許すことはできないが、彼がなぜそうしたのか理解ができる心地がするのだ。
 氷河がもしも、非情に徹しきれずに最善の判断を迷うことがあれば、アイザックとて彼に代わって憎まれ役だろうと汚れ役だろうと演じてみせることに躊躇いはないだろう。

 ただ───

 ドクは「一人で汚れ役を引き受けて」と言っていたが、果たしてカノンにそこまでの意識があったかどうか。
 確かに、あの、ミロという男は、海賊ではあっても、真に人道に悖るような汚い真似を嫌いそうではある。事前に知っていれば氷河を利用することは首肯しなかったかもしれない。だから、それを懸念してカノンが故意に情報を伏せたとしたドクの言葉もわからなくはない。
 だが、アイザックが見る限り、カノンは、あの年下の船長に対してはとりわけ敬意を払っているようだった。よほどのことがない限り、騙すような真似をして、彼を蔑ろにするとも思えない。
 もしかして、とアイザックは、黙りこくって俯いている男の横顔を盗み見た。

 ───あんた、汚れ役を引き受けるとか、そんなたいそうなこと考えてなかっただろ、ほんとは。

「青の宝石」が蠍襲撃の生き残りだということは秘密にされていたわけではない。領地内では知らぬものはなかった。
 陸地と隔絶された洋上には情報は届きにくいものだが、少なくとも、カノンの耳には届いていた。
 だから、まさか誰も知らないとは思わなかった。
 知らないまでも、少し調べれば簡単にわかることだ。ミロがカノンの言葉の裏を取らないとは、そこまで自分を全面的に信用されているとは、思いもしていなかった。
 そういう、すれ違いが起こっていたのではないのか。
 カノンは、アイザックに対しては初めから、氷河が本命で、アイザックは単に氷河を大人しくさせておくためのお守り役だと言っていた。アイザックを操る駆け引きとして、「捕虜ではない」と装っていたのかと思っていたが、もしかしたら、言葉どおりの意味だったのではないか。本当に周囲に隠しておきたかったなら、アイザックに対しても同じ態度を取っていなければ道理に合わない。
 だいいち、氷河が蠍との因縁を語れば、カノンがそれを伏せたところで意味はない。実際、氷河の口からミロはそれを知ることになった。もっと早く詳らかになっていてもおかしくはなかったのに、幸か不幸か、その機会は氷河が海に落ちるまで訪れなかった。
 隠す意図があったとしたら、カノンの行動は穴だらけだ。
 言いそびれた。言いそびれているうちに、思いのほかミロと氷河が関わりを持ってしまい、今更後戻りもできず、隠し続けるしかなくなった。
 敵対する男の内面をそう解釈してやるのは、少し、善意にすぎるだろうか。
 もしかしたら、アイザックの人の好さを見越して、巧みに心理誘導されているのかもしれない。全てが演技だ、と言われても驚きはない。
 それでも、『お前がそれほど俺を信用するとは思わなかった』と思わず漏れたあの呟きは、偽らざる彼の本音だったのではないかとアイザックは思うのだ。それほど、力なく、聞いている方の胸が締めつけられるような声だった。
 航海長という、船長の片腕とも言える位置にいながら、なぜ、カノンはそこまで、己が信用されているはずがないと思っていたのか。想像しただけで胸が苦しい。
 だから、頭の中で組み立てた推察をカノンにぶつけて、彼の心を暴き立て、真相を確かめてみるような真似はしなかった。
 言葉を全部飲み込み、視線を定める先を探して、アイザックは男の長い白金色の毛先や、陽に焼けた腕に残る傷を半分欠けた視界でうろうろと見つめる。
 だが、何一つ言葉にはしなかったのに、聡い男は、そのことで却って察してしまったのだろう。自嘲気味の短い嗤いを、は、と吐いて、それきり、腕を組んで目を閉じてしまった。
 結局、傷つけた。
 だが、アイザックが言葉にしても、しなくても、多分、結果は同じだった。
 いっそ、あんたを決して許さない、と責めてやるのが正解だったのではないかという気さえするほど、彼は今、傷つけられたがっていたように見えたからだ。ミロを不必要に煽り、ムウの言葉に何一つ反論しなかったように。
 彼を構成する一部分はきっと、どこか歪なのだ。
 不器用なのか、自罰的なのか。
 普通なら隠したがるその歪さを、なぜか、これこそが俺だと主張したがっているような、自分で自分を生きづらくさせているような、そんな気がして仕方がない。
 何が彼をそうさせているのかわかるはずもなく、ただ、じくじくとした胸の痛みが次々に起こってどうにも堪らない。

「……なあ」
 躊躇いののちに、アイザックは口を開いた。
 シーツの下へ隠していた手を伸ばして、カノンの髪の先に触れてみる。
「……………あんた、やっぱり本当にグラード領に来ればいいのに」
 意図して口にするには勇気がいった。
 カノンが指摘したとおり、あり得ない誘いだからだ。
 自分を引き取り養子としてくれた光政のことも、慈しみ育ててくれた師カミュをも裏切る言葉だ。
 それでもアイザックにそう言わせたものが、同情だったのか、正義感だったのかはわからない。
 あまりに胸が痛くて、そうとでも言わなければ息をするのも苦しく、何も言わずに後悔するよりは、言って後悔した方がましだと思ったのだ。
 だが、アイザックの言葉にカノンは何の反応も見せなかった。
 聞こえなかったのだろうか、三度目を言う勇気はないが、と少し怯んで視線を上げれば、カノンの身体はゆら、ゆらと、不自然に前後に揺れていた。
 えっと驚いて見ているうちに、やがて、その体躯はぐらりと大きく前へと傾いだ。
 アイザックは慌てて身体を起こしてカノンへと腕を伸ばし、彼の体躯が椅子から崩れ落ちそうになるのを支える。
 顔をのぞきこんでみたが、目は閉じられているものの具合が悪そうな様子はない。
 眠った、のか……?
 そう言えば、何日も眠っていないようなことをドクが言っていた。
 まさかと思うが、あの嵐の夜から一度も眠っていなかったのか。
 目を閉じたと思えば、ほとんど気を失うように眠りに沈んでしまうとは、よほど限界だったと見える。
「嘘だろ……」
 すっかり意識を飛ばしているのか、ずるずると崩れ落ちていく体躯を、ベッドの上へと引っ張り上げなければと、アイザックは必死に抱え上げようとした。
 だが、ずっしりと重量感のある意識のない体躯を抱えるのは病み上がりにはどうにもきつい。抱え上げるどころか、床の上へ崩れ落ちていくカノンに引きずられるように、アイザックまでベッドから転がり落ちてしまう。
 なんだよ、あんた。
 用済みになれば躊躇しないんだろ。
 目的ならもう達したはずだ。怪我をして何の役にも立たなくなった捕虜など邪魔なだけだ。寝ずの看病、なんて献身的な真似、柄じゃないくせに、なんで、こんな。
「……馬鹿じゃないのか、あんた……」
 ドクの言うとおりだ。悪党なら悪党らしく、嫌な男でい続ければいいものを、そうではない本質をチラチラさせるのははっきり言ってずるい。意識してやっているなら最低だし、無意識なのだとしたら最悪だ。
 だから性質が悪いんだよ、あんたは、と、胸の内で悪態をつきながら、その、悪態渦巻く同じ胸が、なぜかわからないが締め付けられるように甘苦しく疼いてもいて、なんなんだよ、これ、と戸惑いと混乱で泣きたくなる。
 なぜ自分が泣きたくなるほど胸が痛くなっているのかわからないまま、圧し掛かる分厚い体躯としばし格闘した末に、アイザックは、ベッドの上へ彼を引っ張り上げることは諦めることにした。
 カノンの体躯に押しつぶされた形のままで、アイザックは、はあはあと肩で息をする。急に動いたせいかぐるぐると視界が回っていて、乱れる呼吸の合間に嘔気が込み上げる。熱まで再び上がったのか倦怠感も酷い。
 本格的に寝入ってしまったのかカノンはピクリとも動かない。
 ほんと、これ、一体なんなんだよ、と深く息を吐いてアイザックは目を閉じる。
 覚醒したばかりでえらくエネルギーを使う羽目になって、酷く疲れていた。
 カノンのことは言えない。目を閉じるなり、どっと四肢が重くなり、意志に反して身体が再びの休息を求め始めていた。
 腕に抱えたカノンの身体が温かいのがまたいけない。
 彼の寝息に誘われるように、アイザックの意識も次第次第に深いところへ沈んでいく。
 なんで胸が苦しいのか考えるのはやめだ。これは、きっと夢だ。
 目が覚めたら、多分、可愛い弟分の頭が胸の上へ乗っているんだ。そうしたら、お前が俺を枕にするから変な夢を見たじゃないか、と文句を言おう。いいじゃないか、と開き直って、却ってすり寄って来られそうな気もするけれど。……いや、もう来ないか。氷河はミロのことが……ああ、そうだ、氷河に教えてやらなければ……氷河、ミロを殺してはだめだ。彼じゃない……彼は違う……

 とろとろと、混濁しながら沈んでいく意識は、だがしかし、ドォンという激しい衝撃に身体を突き上げられて急激に浮上させられた。
「っ!?」
 大きく傾く船の床を滑って壁へ叩きつけられる寸前、腕の中に抱きかかえていたカノンの瞳がパチリと開き、身体を反転させたかと思うとアイザックを逆に自分の腕の中へと抱え込んだ。
 アイザックの代わりに壁へと背中を叩きつけられたカノンは、呻き声すら上げずに、深い眠りに落ちていたことが嘘のように俊敏に跳ね起きた。
 状況を確認するように、左右へ視線をやった後は、アイザックをベッドへ放って戻し、
「砲撃だ、お前はここから動くな」
そう言い残して、カノンは素早く剣を拾って外へと飛び出していく。
「カノン!!」
 アイザックの止めたてにも振り返らない。
 もう一度呼ぼうとしたが、ドン!という二度目の砲撃で再び床が跳ね、アイザックは慌ててベッドの縁を掴む。
 蠍だ、蠍の襲撃だ、という誰かの怒鳴り声が、窓向こうの空気を激しく震わせていた。