藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
ミロと女性との抱擁、氷河女装あります。苦手な方、ご注意ください。
◆Navy Story ⑭◆
母はやさしい人だった。
父と母の間に何があったか氷河は知らない。母がそれを語ることはなかった。語って聞かせるには氷河がまだ幼すぎたせいだろう。
父親のない子を産んだことで、苦労は多かっただろうに、そのことへの恨み言すら氷河は一度も聞いたことがなかった。
あなたのお父様はとてもやさしく、すばらしい人なのです、と聞かされて育ったせいで、父親に対して悪い感情は持っていなかったが、ゆえに、実際に会った父親が母の語って聞かせた父親像とはあまりに乖離していて、氷河はしばらくの間、城にたくさんいる人物のどれが氷河の父であるのかわかっていなかった。
お父様にもうすぐ会えるのですよ、と心を躍らせていた母には、真実、父はやさしい人間に見えていたのだろう。
光政が、生き残った我が子の顔を見ようともしない冷たい男であると知らずに生を終えたのは、惨劇の中において、唯一、救いだったのではないかと考えることがある。
もしかしたら、あのままグラード領にたどり着いていても、母はただ傷つくだけだったのではないか、と。
そんな風に考えて己を納得させねば生きていくことは難しかった。
だが、どう理屈をつけても、何の罪もない母が命を摘み取られてしまった理不尽さは飲み込みきれるものではなく。
結局、蠍に引導を渡して決着をつけない限りは、氷河は前には進めないのだ。
氷河はゆるゆると目を開いた。
何度か瞬きをして、ここがムウの部屋だということを認識して氷河は身体を起こした。
ムウの姿はない。
嵐は完全に去ったのかあの酷い揺れはもう感じない。
だが、自分がまだ母の仇の手中にあるという事実は氷河の心を重くする。
しばらくぼんやりとベッドの上へ座っていたら、トン、とノックの音が響いた。
入りますよ、と、自分の部屋であるにも関わらず、ムウは律儀にそう言って扉を開いた。
「……気がつきましたか」
起き上がっている氷河に一瞬目をみはり、そしてすぐに安堵したように表情を緩ませてムウは氷河の傍へと近づいた。
「体調はどうですか」
尋ねられても、自分の体調がいいのか悪いのか氷河にはまるで判別がつかなかった。
体の中に重い靄のようなものがぎっしりと詰まっていて、自分の身体がここにあるという感覚がまるでない。
何も答えない氷河に、ムウはそれ以上重ねて訊くことはなく、代わりに氷河の前へ跪いた。
「……少し、話をしてもよいですか」
海賊の話になど、もう耳は貸せない。
だが、やめろ、と制止するほど強い感情も起こらず、氷河は口を閉ざしたままムウを見下ろした。
ムウは辛抱強く氷河が口を開くのを待っていたが、やがて諦めたらしく、勝手に話し始めた。
「あなたが我々を憎む理由はよくわかりました。……言い訳に聞こえるでしょうが、わたしたちの誰もあなたが蠍の襲撃の生き残りだということを知らなかった。ただ一人をのぞいては」
言い訳とは、自己弁護のための正当化だ。
全てはミロの独断だったと言いたいのかもしれないが、その事実を知らなかったからと言って、彼らの海賊行為の何一つ正当化できるものではない。言い訳にもなっていない、見当違いのムウの言葉は滑稽でしかない。
「だからどうした、という顔ですね。ですが、知っていれば不必要にあなたを傷つけることもなかった。もっとほかの手を打てたかもしれない。この件に関しては、わたしたちには全く正当化できるところはない。許して欲しいとはとても言えませんが、それでも、心が痛んでいないわけではない」
申し訳ないという気持ちがあるのなら、殺した人間に対して詫びるべきだ。氷河ではなく。
「あなたの言いたいことはわかります。…………一つだけ言えるのは、当時、あなたの母を殺した蠍の船には、わたしは乗っていなかった。それだけは誓って確かです。この程度、あなたにとっては救いにはならないでしょうが……今は、言えるのはここまでです」
だから自分は罪がない、恨むなら他の奴らを恨め、とでも言いたいのか。実に海賊らしい利己的な論理に、心が冷えていく。もう怒りも湧かない。
全てがどうでもよかったが、だが、一つだけ、投げやりに済ましてはならない問題があった。
「……アイザックは」
ようやく氷河が口を開いたことに一瞬ムウはほっと表情を緩ませたが、すぐにこれまでよりずっと深刻な厳しい顔つきとなった。
「彼は今、生死の淵にいます。あなたは幸いにも肺をやられずにすんだが、彼の方はそうはいかなかった。その上、目の怪我が酷くかなり重篤です。下船させて治療を受けさせようにも、外へ連れ出すことすらできないほど危険な状態が続いている。無理に下船させようとすれば、急変して儚くなってもおかしくはない。……あなたにも彼にも酷な話ですが、このままこの船に留まって治療を受けることだけが彼の命を救う唯一の手段です」
ムウの言葉に、まるで動くことのなかった感情が恐怖の形となって氷河の身体を震わせる。
血の気が引いたせいかぐらりと揺れた氷河の身体を、慌ててムウが抱き留める。
「………大丈夫、絶対に彼を死なせはしません。このわたしがきっと」
氷河はそろそろと左手を腰のあたりにやった。
腰骨にあたる固い感触で、短剣がまだ取り上げられていないことは気づいている。
彼の話の全てを鵜呑みにはできない。
蠍は簡単に人間の尊厳を踏みにじる蛮族なのだと身をもって知っている。
お前の言うことなど信じるものか、と、剣を抜いてこの場でムウを斬り、アイザックを探して救い出す、という選択肢もある。
……だが、万に一つ、本当だったら。
最後に見たアイザックは、ムウの言葉どおり、命の灯が消えてしまうのではと思うほど酷い怪我をしていた。
ムウを斬り捨て、アイザックを見つけた時に、その命を救う唯一の希望を自分が断ち切ったのだとわかったら。
時は絶対に巻いて戻せない。
失われた命を戻す術はない。
───できない。
彼が嘘を言っていない可能性がある限り、そのリスクは取れなかった。
およそこの世で蠍ほど憎いものはないのに、今はその蠍にアイザックの命を委ねるしかない皮肉に、氷河はギリと奥歯を噛みしめる。
俺のせいだ。
俺があのとき、海に落ちなければ。
アイザックは何か言おうとしていたのに俺が……動揺のあまり完全に己の制御を失っていた。もっと冷静に立ち回れていたなら、今頃、どうやって蠍の首を取るか二人で相談できていたかもしれないのに。
己が招いた最悪の事態だ、どうして同じ過ちが犯せようか。アイザックを救うために、己の感情は二の次にして飲み込むしかない。
氷河は、既に鞘へ触れていた手を下ろした。
殺気に気づいていたのか、ムウが微かに息を吐く。
「全力を尽くしていますが……ただ、この船にある薬だけでは十分ではありません。新しく手に入れようにも、スコルピオ号の入港を受け入れ、取引きに応じてくれるような港はない。正面突破できない以上、極秘裏に上陸するしかないが……ミロが行くと言っていますが、彼とてお尋ね者の身、無事に戻ってこれるかどうかは賭けでしかない」
「だったら俺も行く。要はミロが捕まっても誰かが薬を持って帰ればいいのだろう」
気づけばそう口にしていた。
正直、ミロの名を聞いただけで既に心臓が激しく脈打っている。
顔を見て己を失わない自信などない。
事情はどうあれ海賊に手を貸すことになるなんて、それこそ全く、全く不本意で、以前の氷河なら絶対にそんな選択はしなかった。
だが───絶望と哀しみを経て、自分の思いより優先せねばならないものもあるのだと氷河は思い知った。
己の信念を曲げることに対する苦痛も、怒りと哀しみに痛む胸も、彼の命を救うためだと思えばいくらでも耐えられる。自分が行くことで少しでも可能性が増すのなら、やるしかない。
「……これ以上あなたを利用するのは心苦しいが……」
そう言うムウの眉間には深い皺が寄っている。しばらくムウは葛藤するように氷河を見つめていたが、やがて、静かにひとつ頷きを返した。
**
湾曲した入り江の岩礁に隠れるように停泊させたスコルピオ号から、小さなボートへと氷河は乗り移った。
グラード領から連れ去られるときにも乗せられた、あのボートだ。
先に乗っていたミロは、氷河が縄梯子からボートに移るのを助けるために手を差し伸べていたが、氷河はその手を取らなかった。
伸ばした手の行き先を失った形になったが、ミロは氷河には何も言わず、オールを持った水夫たちに、出してくれ、と言って船首座へと座った。
氷河はその反対の端、船尾座へと座り、まぶしく夕陽を反射している海面に視線をやる。
触れることはおろか、彼の顔をまともに見ることもできなかった。なんの気まぐれか、彼がいつものように氷河を煽ることはなかったからどうにか表情に出すことは避けられたが、同じ空間にいる、その気配だけで、心が激しくかき乱され、波立った感情を平らかにするために、氷河は何度も深い呼吸を繰り返さねばならなかった。
ボートは入り江を回り込んで、海岸線沿いの人家が途切れた浅瀬へ向かって進んでいる。人目を忍ぶためだ。
やがて、誰もいない砂浜へとボートは漕ぎ着いた。
「日没から三刻の間までに俺が戻らなければ失敗だとムウに伝えてくれ」
水夫たちは頷き、ミロと氷河を残して、ボートは海岸から少し離れた沖合で待機するために戻っていく。
行こう、と歩き出したミロから数歩遅れる形で氷河はその後を追う。
振り向きもせず進むミロには、氷河が逃げるとか、背後から襲いかかるとかする可能性は浮かんでいないのだろうか。「変な気を起こせばアイザックがどうなるかわかっているだろうな」と脅しのひとつも吐いてもよさそうな状況だが、ミロ含め誰もそんなことは口にしなかった。
もちろん、脅しなどなくとも、アイザックを見捨てるような真似はするつもりはないが、こうまで無警戒でいられては(与えられた短剣も結局そのままだ)、侮られているのかと、やはり感情が落ち着かなくざわざわと波立つ。
砂浜を抜け、海風から町を守っている木々の間の小径を通り抜ければ、次第に町の気配が近づいてくる。
グラード領の城下にある港町よりはずっと規模が小さい。
町の向こうに見える尖塔がこの町の領主の暮らす城のようだが、町との距離も近く、城というよりは館といった方がふさわしいほどの大きさしかない。全体的にこぢんまりとして、鄙びた印象の町だ。
やがて、木立の代わりに道の両側にポツポツと花売りや魚売りのテントが立ち並び始めた。
ミロは土地勘があるのか、テントの傍を通り抜け、バラックのような小屋が連なる複雑な路地を迷いなく進んでいく。
もっと忍んで行動するのかと思っていたのに、あまりにも堂々と人通りのある往来を進む姿に、誰かに気づかれて警備兵でも呼ばれたら、と氷河は気が気でない。
ミロは自業自得だが、彼が捕まりでもしたらアイザックはどうなる。
呼び止めて、もっと顔を伏せるように言うべきかどうか迷っているうちに、ミロは小さな旅籠屋の前で足を止めた。
やあ、空いているかな、と扉を開いて声をかけたミロに、奥の勝手場で作業をしていた妙齢の女性が目を丸くして飛び出してきた。
「………レッド…!……まあ、あなたなの、本当に……!」
「なかなか顔を出せなくて悪いな」
いいの、生きていたならそれで、と、その女性はミロを抱きしめるように背に腕を回した。
応えてその女性の背を親しげに抱いたミロの姿に、知らず、氷河の胸がずくりと疼く。
ここの女主人だろうか。装いこそ質素だが、すらりと背が高くてすごくきれいな人だ。
女性のスカートに隠れるようについてきた小さな男の子がきょとんとしてミロを見上げている。
「……だれ?……おとうさま……?」
その声が届いたミロは目をみはり、男の子をやさしげな手つきで抱き上げた。
「ずいぶん大きくなったな!はは、重くなった!」
ええ、今年でもう六つよ、と女性が頷く。
「お手伝いもしてくれるようになって、最近じゃ、すっかりわたしのナイト気取りよ。だから……わたしたち、もう大丈夫。こうして生活もちゃんとできている。………時々届けてくれる金貨、あれ、あなたでしょう?もう、いいのよ、忘れて。あなたのせいじゃない。わたしにはこの子がいるから、」
女性の言葉を遮るかのようにミロが片手を上げた。
「すまない。悪いが今日は昔話をしている時間がないんだ。今夜中に手に入れたい薬がある。医者か薬師を探している」
女性はハッとした様子でミロから離れ、少し緊張した表情となった。
「……医者は一人いたけど……先月亡くなって今はこの町にはいないの。でも、領主様のところに薬師がいる。腕はすごくいいらしいけど、町の人を彼が診ることはない。領主様が城から出ることを許さないから。貴族様専属の薬師ってわけ」
「そうか……だが悠長に領主と交渉している時間はない。手っ取り早く城に忍び込む。警備はどの程度だ」
女性は顎に手をやって考え込み、そうねえ、と言いながらちらと氷河を見た。
「あなたなら田舎の警備兵なんて相手にはならないと思うけど、それよりもっと穏便に済ませるいい手がある。あの坊やが協力してくれるなら、だけど」
すっかり蚊帳の外で所在なく突っ立っていたところに、突然に会話に引っ張り上げられて氷河は戸惑った。
二人にじっと見つめられ、何かを協力しろと言われているのはわかるが、心情的にはそのまま頷くことに激しい抵抗感がある。多くを語ってもいないのにすぐに通じ合った親し気な様子の二人に比して、氷河はひとり、何がどうなっているのかさっぱり理解できないでいるのだ。疎外感で胸がじくじくする。
だが、子どもじみた感情のままに、いやだ、と言うくらいなら、こんなところまでついてきていない。アイザックのためなら、全部飲み込むのだと決めている。
氷河は俯いて二人に視線をやらないまま、微かに頷いた。
よかった、そうと決まれば準備を急がなくては、と、女性は氷河に、こっちへ来て、と手招きをした。
わけがわからないまま、大人しく女性の誘導に従えば、女性は、旅籠の奥の部屋まで氷河を案内し、少しここで待っていて、と言い置くと、どこかへと出ていった。
何をする気なのか聞かされていない以上、待っていて、と言われたなら、待つ以外に氷河にできることは何もない。
小さな旅籠だ。
最奥の部屋までに通った扉は四つだけ。それでも一応全て埋まっているようだった。
港に停泊している商船の水夫たちか、それとも旅人だろうか。まだ日も暮れぬうちにもう酒でも飲んでいるのか、どの部屋も扉の内側から賑やかな談笑が聞こえている。
氷河が通された部屋は、客を泊めるための部屋ではなく、彼女たちの私室なのだろう。
ベッドとテーブルがそれぞれひとつに椅子がふたつ、きちんと整えられた部屋に、小さな子ども用の靴や上着がひっくり返したように散らばっているところに生活感が透けて見えて、それが却ってもの寂しさを誘う。
慎ましく、母と子、二人で暮らしている様子には、どうしても己の記憶が重なってしまう。
一人きりになれば、必死に封印していた感情が抑えきれなく次々に湧き上がり、どうして、と胸が張り裂けそうな強い葛藤が氷河を激しく揺さぶる。
なぜミロは何も言わないのか。
ムウのように、七年前の襲撃は自分の仕業ではない、と、たった一言そう言ってくれれば。
君の記憶違いだと言ってくれさえすれば、嘘だと思いながらも、まだ、もしかしたらと一縷の望みで自分を騙せたのに。君があの時の生き残りとは知らなかった、と、そんな言い訳すらないなんて。
弁解の一つもないということは、つまり、氷河の母を殺しておきながら、殺しそこなった子どもを弄ぶ意図で攫った、それは、弁解の余地なく事実だからなのか。
ミロが母の仇であることそのものよりも、彼が何一つ弁解しない、そのことにひどくかき乱される。
蠍の刺青を目の当たりにしてもなお、何かの間違いではと考えてしまう自分の甘さを、当の仇本人にぴしゃりと斬って捨てられているようで、心が引き裂かれたように痛くて堪らない。
心なんか、母と共に海の底に沈んでなくなってしまえばよかったのに。そうすればこんな苦しい思いをすることなどなかった。
どれくらいそうして部屋に入ったそのままの形で突っ立っていただろうか。
扉が開く音がして振り向けば、「……ごめんなさい、わたしったら椅子も勧めなかったのね。適当に座っていてもらっても大丈夫だったのだけど」と驚いた表情の彼女が立っていた。
その驚き具合からして、相当の時間をぼうっとしていたのかもしれない。言われてみれば、窓の外はもう夜の帳が下りている。
「急だから少し無理はあるけど、だいたい手配はできたわ。タイミングよく今日でよかった。あとはあなたの準備だけ」
そう言った彼女は、両手いっぱいに大きな荷物を抱えている。
着替えてほしいの、これに、と広げられたそれを受け取って氷河は目をまるくした。
「……女物のドレスだが」
「舞踏会へ紛れ込むのよ。あなたかレッド、どちらかに着てもらわないといけない。レッドが着るのは変だもの」
忍び込むよりいい手というのは、つまり、招待客を装って堂々と正門を通って行く、という意味か。
今初めて聞かされる作戦に氷河は無理だ、と首を振った。
「俺が着たって変だ。おかしく思われてすぐにつまみ出されるに決まっている。入り込むのに女性が必要ならあなたの方が……」
「大丈夫、あなたすごくきれいだし細いからなんとかなると思う。わたしは子どもを置いては行けないから」
子どもが理由では氷河は分が悪い。
女物なんか嫌だ、と駄々をこねたいわけではない。必要なら、人を傷つけること以外は何でもするつもりで来たが、いくらなんでも、女性に化けろとは無理がある。
失敗するとわかっている作戦には乗れない。
だが、彼女は、時間がないの、早く早く、と氷河を急かしている。
仕方がない。議論しているより、実際に纏ってみせて、どうにもならないことを見せた方が早い。駄目だと理解してくれれば、さすがに別の手段にせざるを得ないに違いない。
試してみてもいいが、俺は着方もわからない、と氷河はため息をついた。
彼女は頷いて、悪いけど少し失礼するわね、と氷河に触れた。
氷河は、着せかえ人形よろしく彼女に黙って身を任せる。
「……あなたは、レッドの部下ではないようね。どういう関係なのかしら」
彼女はミロをレッドと呼んでいるようだ。
お尋ね者の名を連呼するわけにはいかないから、それがここでのミロの偽名なのだろう。(それとも、そちらが本当の名だろうか?)
氷河の背へ回りドレスのウエストを絞りながら問う彼女を氷河は少し振り返った。
年の頃は多分ミロより少し上。苦労の跡だろうか、目尻に少し皺が寄っているが、まるで宝石みたいな美しい青い目が印象的で、ほんとうにきれいなひとだ、と氷河の胸がずくずくと痛む。
信頼し合っているような抱擁と、ミロをおとうさま、と呼んだ存在があることを思えば、彼に母を殺された、俺はさらわれてここに来た、と真正直に説明するのは躊躇われる。
「…………あなたは知っているのか、その、……彼が、何を生業にしているのか」
代わりに問えば、彼女は声を潜めて、それはつまり、レッドが海賊だってこと?と、言った。
知っているのか、と氷河は息を飲む。
ミロの、城に忍び込むという不法な企みを事情を尋ねることなくすぐに飲み込んで、てきぱきと準備を進めたあたり、ただならぬ関係だとは知れたが、もしかしたらミロが素性を偽っていて、彼女は騙されて協力させられているのでは、と心配をしていたわけだが、そうではないわけだ。
だが、そうとわかれば却って黙っていられなくなった。
「あなたは手を引くべきだ。まだ間に合う。父親が海賊では子どもは辛い思いをする。だいたいたいして寄りつきもしない男など父親とは言えない。自分の子どもの年も知らなかったじゃないか。あなたはまだ若いしとても魅力的だ。彼とはきっぱりと縁を切って真っ当な人と、」
待って待って、と彼女は少し笑いながら氷河を止めた。
「心配してくれてありがと。やさしいのね。でも、あなた、何かいろいろ誤解してる」
「誤解……?」
「レッドはあの子の父親じゃないわ。……夫はあの子が生まれてすぐに死んだの。海で。あの人の船に乗っていた」
氷河はハッとした。
冷たい骸と化した水夫の手を握りしめていたミロの姿が脳裏を過ぎる。
「わたしは彼の死を受け入れられなくて、遺品を届けに来たあの人を詰ったの。あなたのせいよ、この子の父親を返してって。あの人のせいじゃないってわかっていたのに止められなかった。すごく混乱していて……酷い言葉をいっぱい投げつけた。言わなきゃよかったってわたし今でも後悔してる。あの人……あの時はまだ、今のあなたくらいの年でしかなかったっていうのに」
───ああ。
あなたのせいだ、あなたが彼を殺した、と氷河が詰ったとき、ミロの脳裏には、子どもの父親を返して、と同じように詰ったこのひとの姿が過っていただろうか。
海の底にあっても金にはならん、と胸元へ入れたあのロケットは、いつかこうして家族の元へ届けるつもりだったのだろうか。責められることは百も承知で、彼は。
「…………だけど、ミ…レッド、は、海賊だ。責められて当然だ。あなたは間違っていない……」
彼女を擁護しているようで、それは全部自分自身に対しての言葉だ。
声に出してそう確認しないと、母の仇に対して抱くにはふさわしくない疼きが胸を締め付けて苦しい。
そうねえ、と言いながら彼女は着替えの終わった氷河を椅子へと座らせた。
氷河の髪を梳る細い指はかつての哀しみを思い出したのか少し震えている。
「夫はやさしい人だった。子どもの父親はあなただけなのにどうして家族を置いて逝ってしまうのって、夫のことも恨んだこともあったけど、でも、わたし、今では夫があの人のために命をかけた理由、わかる気がするの。レッド、あの人、いい人よ、とても。……あなたもよく知っていると思うけれど」
わかりかけていた、はずだった。でも、今はそれが本当にミロの本質だったのかどうかよくわからなくなっている。
苦しい。彼女の口からこれ以上ミロの話を聞きたくない。
痛みすら感じる胸の疼きが忌々しくて辛くてどうしようもない。
前へ回った彼女が、氷河の唇に紅を差しながら、あんまりそんなに唇を噛まないで、と困って眉を下げる。
仕上げに装飾具を首や耳へとつけてくれながら、彼女は氷河の肩をやさしく叩いた。
「少し、肩の力を抜いて。あなたがどうしてそんなに辛そうなのかわたしにはわかってあげられないけれど……大丈夫、きっと何もかもうまくいくから。レッドがついているんだもの」
彼の船で夫を喪ったという女性はそう言って笑って、氷河に手を差し伸べた。
**
舞踏会など、あれ以来だ。
カミュを見送るのがつらくて、シェリー酒ばかり飲んで悪酔いして、そして───氷河を翻弄させる海賊と出会った、あの。
いつの間に着替えたのか、貴族の礼装で身を包み、子どもの遊び相手となって笑い声をあげていたミロは、ドレスで着飾った氷河が姿を現した瞬間に笑いを引っ込めて黙り込んだ。
やっぱりあからさまにおかしいのだ、やめておけばよかった、と後悔で唇を噛んだ氷河をよそに、女性は、偽物だけどこれが招待状、馬車も手配した、御者は八百屋のおじさんだけど、と問答無用で話を前に進めてしまい、氷河は今更やめようとは言い出せず困って俯いた。
海辺訛りの人の好さそうな老爺が「野菜を運んだことはあるが人間ははじめてじゃなあ」などと呑気に言いながら進ませている馬車に揺られている間も、ミロは黙って窓の外へ視線をやっていて氷河のことは見ようともしなかった。
正視に耐えないほど酷い、無様な姿を仇敵に晒していることはひどく惨めだった。
アイザックのためでなければ、今すぐにでも逃げ出したいほどに。
唯一、ミロが口を開いたのは、氷河の役割を教えてくれたときだけだ。
「舞踏会が始まったら君はすぐに具合の悪いふりで倒れろ。それで薬師が呼ばれるはずだ」
なるほど、それで後はミロが薬師の後をつけて目的のものを頂戴するのか、とようやく合点したが、たったそれだけ告げてまたすいと視線を逸らしたミロに胸が締め付けられる。
「…………君の剣はどうした」
視線を逸らしたまま、そう聞くミロに、氷河は黙ってドレスの裾を捲り上げた。
着替えるときに、短剣は鞘ベルトごと大腿に巻き直してきたのだ。ちらとそれを確認するとミロは頷いて、また視線を窓の外へ向けた。
どういう身分設定になったのか、彼の方は見る限り剣は携えていない。帯剣したまま入城を許されるような誂え向きの人物像が急には用意できなかったのかもしれない。少し型の古い野暮ったい礼装は、彼に似合っているとは言い難かったが、日に灼けた肌のおかげで、落ちぶれて平民と変わらぬ暮らしをしている田舎の貴族っぽさはどうにか醸していた。
奏でられる音楽、目映い装飾、運ばれてくる高級な酒に、婚礼相手を物色してチラチラと投げられる視線。
規模は違えど舞踏会で繰り広げられる光景はどこも同じだ。
帰りたい、帰りたいと願っているはずのグラード領でも毎日のように繰り広げられていた光景だが、なぜか、少しも懐かしいとは思えなかった。
代わりに心に浮かぶのは、海風に響く外れた調子のアコーディオン、安っぽい酒の香り、キャプテン、と笑う男たちの声、それから……。
わたしと一曲、いかがですか、お嬢さん、と言う声に氷河はハッとした。
見れば、背の高い男がダンスを誘って片手を差し伸べていた。
慌てて周りを見回したが氷河のほかには誰もいない。どこへ消えたのか、ミロの姿もない。
もう一度男を見たが、男はにっこり笑って氷河を待っている。
こんな俺でも、「お嬢さん」には見えたらしい、少なくともこの男には。目が悪いのかもしれない。
氷河は頷いて、おそるおそる手を取った。
舞踏会の作法は心得ているが、女性のステップまでは身についていない。ドレスの裾で隠れるとはいえ、ぎこちない動きをごまかすのに四苦八苦して氷河は冷や汗を流した。
「初めてお目にかかる顔ですがどちらのご令嬢かな」
俺が聞きたい、と、設定も教えてくれずに消えたミロを恨めしく思いながら、氷河は、黙って俯く。
もっとも、設定を聞かされていたとしても答えようはない。目の悪い男には装いでかろうじて女性に見えたかもしれないが、声を出すとさすがに気づかれるだろう。(ああ、だから、設定など知っているだけ無駄と思ってミロは説明もしなかったのか)
「……なるほど、気安く明かせない身分というわけですか」
男は氷河の沈黙を勝手に合点して、わたしはナントカ子爵家の長男で、と、経歴をぐだぐだと述べ始めたが、氷河は、早く「具合を悪くして倒れ」なければと焦っていて、男の話どころではない。
音楽が終わると、通常はダンスの相手を変えるのに、曲の切れ目にも男の話は続いていて、結局、男の腕に引かれるように二曲目も同じ相手と踊る羽目になった。
話の腰を折るのも悪い気がして、流されるままに男の腕の中で舞いながら、次の曲の切れ目でどうにか倒れてみよう、と思っていたのに、三曲目が始まる瞬間に再び氷河の腰を男の腕がぐっと引き寄せた。
思わず、いや、俺は、と首を振ってしまったのを見とがめられたか、別の男が、氷河の腰を抱いた男の肩をぐっと掴んだ。
「無粋な方もあったものだ。同じ相手を独占してはいけないマナーも知らないとは。……彼女も嫌がっているじゃないか。お嬢さん、次はわたくしと、」
「無粋なのはあなたの方だ。三曲までなら同じ相手と踊ることは許されている。嫌がっているなどと言いがかりはやめてもらおう」
男二人は赤い顔で睨み合って互いに譲らない。
だが、氷河の方は、倒れるタイミングを計るのに必死でそれどころではない。
ミロは舞踏会が始まってすぐに、と言っていたし、一刻も早くアイザックの元に薬をとって帰りたいのに、なんだかおかしな成り行きで険悪な状況になってしまった男たちの間で倒れてみせたら、ややこしいことになりはしないだろうか。後ろ暗い身、あまり注目を浴びたくはない。
困りきって、男たちの間で右往左往していれば、氷河の腕をすいと引く手があった。
「ちょっと目を離すともうこれだ。何を厄介ごとに巻き込まれている」
微かな苦笑いを含んだ声は……ミロだ。
思わず安堵した氷河を、ミロは流れるように優雅に曲に乗って、あっという間にダンスの輪へと攫ってしまう。
獲物を捕られてあっけにとられた男二人を後目に、ミロが氷河の手の甲を恭しく持ち上げて、「一曲お付き合い願えますか、お嬢さん」と嘯いた。もう既に氷河の背に手を回していていいも悪いもないくせに。
軽やかだった曲調は、折悪しく氷河の苦手なスローテンポなものに変わっている。
だが、氷河の手を取りながら踏むミロのステップはどこで覚えたのか完璧で、彼のリードで、ぎこちなかった氷河の動きまでが解け、不思議に体が自然に動く。
ミロが氷河の腰を抱くように引き寄せ、「薬師も広間にいるのを確認した。この曲が終われば決行だ」と囁く。
氷河は頷いた。
この曲が終われば。
───この曲が終わるまでは。
視線をどこへやればよいかわからない。
鼓動が聞こえそうなほどすぐ傍にミロの胸があって、触れてもいないのに全身がミロの体温を感じていてそれが気になってしかたがない。
「…………………背中の怪我は大丈夫なのか」
絶対に聞くまい、聞いてなどやるものかと思っていた。
でも、口をきかなければ彼の体温に引き寄せられるように身体を預けてしまいそうで落ち着かず、知らずそう口を開いていた。
氷河の手を乗せていたミロの手のひらが、指先を包み込むようにきゅ、と閉じられる。
「俺を心配してくれるのか」
腰に添えられていた腕の輪が狭まってミロとの距離が縮まる。
違う、と言ってはみたものの、頬が熱くて、そうだと答えたようなものだった。
くるり、くるりと、同じフレーズを繰り返しながら、舞踏曲は終わりにさしかかっている。
ミロの手が抱きしめるように氷河の背へ回された。
夜会巻きに髪を高い位置にまとめられてしまったせいで露わになっているうなじへ、ミロの吐息が触れてドキリとする。
熱い唇が氷河の耳の後ろへそっと押し当てられた。
あっと息を飲んだ瞬間に、それが、耳飾りをよけるように肌の上を滑って氷河の耳朶を食んだ。
ちゅ、と水音を鼓膜に響かせて氷河の耳朶を弄んだ後は、かり、と甘く噛まれて、背を電流のように切ない疼きが駆け抜け、氷河の腰はかくりと砕けた。
ミロの腕に支えられながら、へなへなとその場で崩れ落ちたところでスローテンポな舞踏曲の調べは最後の余韻を響かせ終わった。
一礼をして相手を変えようと周囲を見回した近くの客たちが、崩れ落ちた氷河に気づいてざわざわと揺れる。
「……具合が悪いのかしら……?」
「医者を呼ばないと」
そのざわめきが伝播して届いたのか、人ごみの中から、老人が、病人がいるのかね、儂は薬師だが、と言って近寄ってくる。
丸眼鏡をかけた老人は座り込んでしまった氷河の額へ手をやって、ふむ、と首を傾げた。
「……顔が赤いな……それに呼吸も荒いし、脈も早い。君、持病はあるかな?心の臓が弱いということは?息苦しくて眠れないということはないかね」
胸ならここのところいつも苦しいし痛い。息苦しくて辛くて眠れないのももうずっとだ。
頷いた氷河に、薬師は、少し休ませた方がいい、儂の部屋へ、と言って立ち上がった。
ミロがしれっと「よかったらわたくしが運びましょう」と言って氷河を抱き抱える。
抗議したいことは山ほどあったが、首尾よく薬師の部屋へ、それも疑われることなく堂々と入り込めることになったのだから飲み込むしかない。
鼓動を早くさせる原因がついてきたものだから、大広間を離れて、薬師の部屋で、聴診器を、ごまかせたかどうかわからないほど平べったい胸へ当てられても氷河の心臓はうるさいままだった。
「……ただの気つけ薬では効かぬかもしれんな」
ブツブツ言いながら心配そうに薬棚の前を行き来している老人に罪悪感でまた胸が痛くなる。
思わず胸へ手を当てれば、それに気づいた老薬師が「そんなに痛むのかね」と、また心配そうに眉を顰めて寄ってくる。
こんないい人に嘘をついている、と思えば冷や汗がダラダラと流れ落ちるのだが、それがまた誤解を誘って、いかんな、悪化している、少し横になりなさい、とソファを進められてもういたたまれない。
ミロは、といえば、薬師が完全に氷河に気を取られているのをいいことに、もの珍しげに薬棚を見て回るふりをしながら、時折、小瓶をくすねては上着やズボンのポケットに滑り込ませている。大胆に次々と盗んでいくミロに、氷河は、それは本当にアイザックに必要な薬なんだろうな、と気が気ではない。
心臓の病は性質が悪いのでな、と、気遣わしげに氷河の様子を見ていた老薬師は、水薬を氷河に渡して飲むように言った。
どこも悪くないのに飲んでも大丈夫なものだろうか、と一瞬、不安になったが、これだけ心配させておいて飲まないのも悪い気がして、氷河はそれを一気にあおった。
酷く苦い薬だった。
「脈を安定させる薬だ。これで少しは楽になるはずだ」
ふーっと長い息を吐いた老薬師は、薬を氷河に飲ませて少し我に返ったのだろう。今頃になって存在を思い出したかのように初めてミロへと視線をやった。
既に目的を達して済んだのか、薬棚から離れたところに立っていたミロは、薬師の視線を受けて、よかった、ではわたくしはこれで失礼、と一礼をして去ろうとした。
だが、老薬師は、不意に、何かに気づいたような表情となって丸眼鏡をくいと持ち上げ、眉間に皺を寄せながらミロを呼び止めた。
「……待て、あんた…………どこかで儂と会ったことがあるかね」
ひやりとして、刹那、ミロと氷河の視線が交錯する。
いえ、初にお目にかかりますが、と言ったミロに首を振って、薬師は「いや、違う、確かに儂はどこかであんたの顔を見た……どこだったか……」と言い始めた。
その上、それに、と薬師は今度は氷河へと振り返った。
「あんたの顔にも見覚えがある。………いや、でもあれは……」
記憶を探るように額に手を当てながら、間近でじっと顔を覗き込む老薬師に、氷河の心臓は今まで以上にドクドクと鳴った。
うかつだった。
お尋ね者のミロだけじゃない、攫われた方の、氷河やアイザックの絵姿だって、あちこちにばら撒かれている可能性に今の今まで思い至らなかった。
思い出さないで欲しい。
どうか、どうか。
氷河たちを救い出すために撒かれたに違いない情報だが、今はそれがアイザックの命の枷になってしまう。
思い出すなら、せめて、この薬がスコルピオ号に無事に届くまで待って欲しい。
だが、氷河の切実な祈りむなしく、やがて、老薬師が、あっと顔を跳ね上げて叫んだ。
「あんた、グラード領の、」
全てを老人が声にすることはできなかった。
電光石火、飛びついたミロの右手が老人の口を塞ぎ、同時に彼は氷河のドレスの裾を捲り上げて短剣を抜いた。
「やめろ!」
氷河は叫んだが、叫んだ時にはミロの抜いた刃は老人の首へ当たる直前の空間でピタリと止められていた。
「……悪いが今捕まるわけにはいかなくてな。人を呼ばないでいてもらえるとありがたいんだが」
老薬師はしばらく目玉だけを動かしてミロと氷河を交互に見つめていたが、やがてがくがくと頷いた。
それを確認したミロは刃を下ろして氷河に放って戻し、遅れる形で、塞いでいた口もそろそろと離した。
薬師は約束どおり叫ぶでなく、逃げるでなく、じっとミロを見つめている。
「……グラード領の公子は蠍に攫われたと聞いたが………あんたが蠍、か……?……だが、儂は、やはりどこかで一度あんたと会ったことがある、あれは、」
まだ何事か言わんとしていた老人の首へミロが手刀を打ち下ろした。
ふっと意識を失って崩れる体を氷河が慌てて抱き留める。
「ミロ……!」
「大丈夫、気絶させただけだ。すぐに気がつく。目を覚ませば追っ手がかかる。猶予はない。すぐに戻らなければ」
追っ手と聞いて、氷河の身体はふるりと震えた。
心配してくれたのに、と罪悪感でいっぱいだったが、一刻も早くアイザックの元へ戻らなければ、という気持ちが最終的には勝った。
氷河は、そっと老人の体を床へ横たえ、早く来い、と既に声だけとなっているミロの姿を探して駆け出した。
旅籠へ寄って元の格好に着替えるような余裕もなく、礼も別れも言えずに、城から飛び出した姿のままで木立の間を駆けて駆けて、砂浜へとたどり着く。
遠目に見える、浅瀬に浮いたボートの上で水夫が二人、大きく手を振って待っている。
長いドレスの裾が邪魔で何度も砂浜で足をもたつかせた氷河は、途中で立ち止まってドレスを脱ぎ捨てようとした。
だが、脱ぎ方がわからず、立ち止まったところでもたもたとしていれば、それに気づいたミロが少し駆け戻り、何をしている、急げ、と言って氷河をそのまま抱き上げた。
邪魔だしみっともないから脱ごうとしていただけだ、余計な世話だ、と勝手に抱えられた怒りをぶつければ、ミロはちらと氷河を見て、みっともないものか、君は誰よりもきれいだった、と言った。
何を言って、と、氷河は声を失う。ふざけたからかいはやめろ、と抗議しようにも、もう既にミロの視線は前へ向けられていて、至極真面目な瞳がそこへあるだけだ。大仰に騒ぐ方がおかしい気がして、氷河にはただ、熱の上った顔を俯けることしかできない。
脈を安定させる薬なんて全然嘘っぱちだ。
本当に病気なのかもしれないと思うほど、心臓がずっとおかしな音を立てていてどうしようもない。
砂浜を大股で横切ったミロは、待たせたな、と言ってボートへと乗り込んだ。
たちまちボートは夜の海へと漕ぎ出だす。まだ薬師は気がついていないのか、追っ手がかかった気配はなく、氷河はそっと息をつく。
もう歩く必要もなくなったのだからさっさと下ろせばいいものを、ミロは、氷河を抱えたままで船首座へと腰を落ち着けた。
背後から腹に回された腕の輪から逃れようと、氷河はぎこちなく身じろぎをする。
だが逆に、「外してやるから動くな」と拘束する腕に力がこもり、ミロの胸へ倒れ込むように引き寄せられ、何のことだ、と問うた氷河の声は思わず上ずった。
耳元で、パチリと小さな金属音が鳴ったことで、ミロが答えるまでもなく、何をしようとしているのか理解が訪れ、氷河は目を瞬かせた。
左の耳が軽い。
女性がつけてくれた耳飾りを、ミロが器用に片手で外したのだ。
自分では外し方もわからない借り物だ。もしかしたら大急ぎで用立ててくれた彼女にとっても、それは、借り物かもしれない。
扱い方も知らぬ氷河が乱暴に扱って壊しては事だ。
仕方なく、氷河は身体を強張らせたまま、ミロに身を委ねる。
ひとつ、またひとつと、氷河を飾り立てた貴石がミロによって外されていく間、氷河はじっと暗い海面を見つめていた。
母と師とアイザックの顔が闇の色をした波間に浮かんでは消える。
氷河を抱えているミロは両手が塞がっている。短剣を抜いて、心臓に突き立てるなら今だ。薬はもう手に入った。ミロを無傷でスコルピオ号に戻す理由は何もない。水夫はたった二人だ。三人をここで片付けて、ミロは捕まったから戻れなかったとでも言えば、あとはどうにでもなる。
わかっている。
なのに、身体が動かない。
薄く滑らかな布越しに短剣の柄を探り当てた指先が制御できないほど震えている。
ミロの指先が耳朶に、うなじに触れるたびに、ずきずきと疼く胸の音が大きくなり、鼻の奥が痛くなる。
最後に、髪飾りをミロが解くと、はらりと氷河の髪がうなじへ落ちた。
頬を隠す影ができたと同時に、氷河の瞳からは一筋、堪えきれぬ雫が零れる。
「……俺はあなたというひとがわからない」
彼の口から一言でも弁解が聞きたくて、氷河が必死に喉から絞り出した声にも、ミロは何も答えない。
それなのに、全ての飾りを外し終えても氷河を柔らかく抱いたままのミロの腕は、切なくなるほどやさしく温かい。
この腕は、躊躇いなく、盗み、奪い、人に刃を向けるのに。
母を殺したことに、弁解もない。それなのに。
氷河の頬を伝った涙は顎のあたりで雫となって震えていたが、やがて、蠍の刺青を刻む男の左腕に吸い込まれるように落ちて砕けた。