寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク

流血(主要登場人物の不可逆的な怪我)あります。苦手な方、ご注意ください。


◆Navy Story ⑬◆

 アイザックは風圧で重くなったハッチの扉を押し上げた。
 甲板に首を出した瞬間にすさまじい風と雨にさらされて、身体ごと吹っ飛ばされそうになる。
 マストに抱きつくようにして身体を固定しながら、右舷を見やれば、まるで大型の獣にかじりとられたかのように無くなっている舷縁が見えた。
 暗闇の中を追撃が海へ落ちる音が轟いている。
 水夫たちは、砲門を塞げ、積み荷を捨てろ、と怒鳴りながら必死に作業をしていて、どこも下甲板に負けず劣らず地獄のようだ。
「カノン!!」
 あの男はどこだ。
 呼んだところで奴が素直に返事をするはずはないが、それでも呼ばずにはいられない。
 自分も氷河もここで終わるのかもしれない、という激しい恐怖で身体は震えていたが、だが、それを凌駕する強い怒りがアイザックを衝き動かしていた。
「カノン!!!」
 操舵は誰だ───振り向いて、アイザックは半開放の操舵室の窓に白金色の髪を見つけて、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
 カノンは鬼気迫る表情で何事か叫びながら操舵輪を握っている。この荒波では帆船の操舵輪はとてもひとりで動かせる重さではないはずだが、傍に船長らしき姿はなく、彼一人だ。
 今すぐ操舵室へ乗り込んでやる、と、アイザックがマストから手を離した瞬間に、船が跳ねるように傾いた。ほとんど垂直となった床を落ちるように滑って、船尾楼の階段に叩きつけられたアイザックは、ぐあ、と呻く。
 同じように階段や壁に叩きつけられた水夫たちが、呻きながら、帆を調節するロープの元へと這い戻っている。本来ならとうに全て畳んでいないといけない帆はまだ張られたままで、素人のアイザックでも危険な状態だとわかる。二抱えも三抱えもある太いマストはまるで柳の枝のようにぎしぎしと音を立ててしなっていた。
「カノン!!」
 アイザックはブリッジへ続く階段の手すりをぐっと握りしめ、男の名前を呼びながら操舵室を目指す。
 一歩動けば船が傾いて三歩戻される、かと思えば逆に傾いで五歩ぶんも六歩ぶんも滑る。
「ミロ、もう無理だ、帆を下ろす!!」
 カノンが怒鳴っている声が聞こえる。伝声管の向こうの声も漏れ聞こえるが何を言っているかまではわからない。
 開放状態の操舵室の入り口から激しく雨風が吹き込んでいて、カノンの全身もびしょ濡れだ。
「カノン!」
 ようやく入り口に到達したアイザックを、カノンはちらとも見ない。
 いくつかある伝声管のひとつから、航海長、限界だ、全ての砲門から浸水が始まっている、と悲鳴のような叫び声が響いている。
「カノン、説明してくれ!話が違う!」
「ミロ、聞こえたか!深追いはできん!」
 アイザックの声は同時に発せられたカノンの声にかき消された。
 伝声管の向こうで、──を無駄死ににさせてたまるか、というくぐもった声が聞こえ、まさか既に死者が出たのかと、アイザックの背はぞわ、と総毛立った。
 おかしいじゃないか。
 俺と手を組むなら二人の命は保証しよう、と言ったのだ、この男は。だから、氷河を大人しくさせておくことにも手を貸した。
 なのに、なぜこんな狂気じみた抗争に巻き込まれねばならない。
 もちろん、海賊なんかの言うことなどバカ正直に信じていたわけではなかったが、こんなところで理不尽に死に行くのならせめてなぜそうなったかの説明を聞かねば納得などできない。
「カノン!」
「邪魔だ!引っ込んでいろ!」
 操舵輪を握るカノンの腕を掴めば、触れた瞬間に強い力で振り払われ、アイザックは操舵室の隅まで吹っ飛んだ。
 呻きながら身を起こして、アイザックはカノンを睨みつける。
 暢気に問答をしている状況ではないことはわかっている。
 自分たちの生死どころか、この船全ての運命を、この男とミロが担っていることは。
 それでも今ではなければならない理由がアイザックにもある。
 アイザックは操舵室の入り口のところで木枠につかまったまま、叫ぶように言った。
「カノン、せめてこれだけは答えろ!あの男は本当に蠍なのか!あいつだ!あんたたちの船長だ!あいつは蠍の刺青を持っているのか!」
 答え如何では氷河を腕ずくでも引き戻さねばならなかった。
 いや、もう遅い。もっと早く、何が何でもはっきりさせておくべきだった。
 氷河は既にずいぶんと海賊どもに心を寄せてしまっている。
 己自身も生き延びるためとはいえ、この危機的状況を、彼らと一体となって乗り越えさせてしまっては、そこに何らかの絆が生まれてしまう。
 何の縁もないただの海賊であっても、それは危うい一線を越えたと言えるが、それがましてや、母を殺した蠍、張本人であったならば。
 取り返しのつかぬほど深入りした後でそうだと知れば、氷河はきっと己を責めて壊れてしまう。
 氷河を守れないでは、海賊船くんだりまでついてきた意味がない。絶対にそんなことをさせてはならない。
 アイザックの叫びに、カノンが初めて、ちらとこちらへ首を傾けた。
「答えろ、カノン!」
 蠍の刺青だ、あるのか、ないのかはっきりさせろ、と繰り返すアイザックを止め立てするようにカノンは片手を上げ、そして、くそ、と短く吐き出すと、なぜか、指令を伝えるために開いていた伝声管の蓋を全て、バタバタと閉じた。
「蠍、蠍と喚くな。なぜ今そんなことを聞く」
 相変わらず険しい顔で操舵輪を握ったままのカノンの低く抑えた声にアイザックは気圧され、声が震えた。
「そ、そいつが、蠍の刺青の男が氷河の母を殺したからだ!氷河は今、浸水を止めるために下層に向かっている。この船が母の仇の船かもしれないと疑っているにも関わらず、だ!氷河に、仇の命を救わせるような真似を俺は許すわけにいかない」
 荒れた波に揺さぶられて傾く船体に、アイザックは、くっと入り口で足を踏ん張った。
 ならばすぐに氷河を止めさせろ、ミロにはある、というカノンの答えは、だから、すぐにその意味を解することができなかった。
「……え、」
 ある……?
 それは、つまり。
 ミロには蠍の刺青がある、と。
 そういう意味なのか。
 氷河を長年苦しめてきたのは、だから、まさしく、あの男である、と……?
 聞いておいて驚くとはおかしな話だが、俄かには信じがたく、カノンに言葉の真意をもう一度問いただそうとした、そのときだ。
 ごくごく至近距離に落ちた砲撃に、どうっと船体が跳ねた。
 海上に落ちていた船の破片が激しい波飛沫と共に四方八方に飛び散り、それが操舵室の窓硝子を直撃した。
 投げ出されないよう、両手でしっかりと入り口の柱を掴んでいたアイザックには、鋭く降り注ぐ破片を避ける間はなかった。衝撃を覚悟してアイザックは思わず目を閉じる。
「……っ?」
 チリチリとした小さな痛みを四肢に感じたが、覚悟したほどの衝撃はなく、おそるおそる目を開けば……
 窓枠ごと硝子全てが砕け散った操舵室にいつの間にか飛び込んできていたミロが、アイザックをかばうように覆い被さっていた。
 ハッとしてアイザックは目を見開き、何か言おうとしたが、ミロの瞳はアイザックではなく、カノンを睨みつけていた。
「なぜ伝声管を閉じている!!」
 呼んだのが聞こえなかったのか!と怒鳴りつけるようにしてカノンに近寄るミロの背には、鋭く砕けて刃のようになった硝子の破片がいくつも刺さっている。
 カノンを押しのけるようにミロが操舵輪の前へ立ち、次々に伝声管を開けて怒鳴った。
「奴が逃げる!下の状況はどうなっている!」
 浸水が続いている、先に浸水を止めなければこのまま沈む、とくぐもった声がわんわんと響いて届く。
「帆を下ろしてシーアンカー投入!すぐに立て直すぞ!」
 ミロがそう言った瞬間に、操舵室にまた一人男が飛び込んできた。
「ミロ、カノンを借りますよ!わたし一人ではとても手が足らない!下の医務室はもういっぱいです!動ける人間がどんどん減っている!」
 ドクと呼ばれているその男は、血塗れの男を抱えている。
 ミロは、わかった、ここは俺一人でいい、カノンを連れていけ、と頷いた。
 直接的に命令が下ったわけではないが、カノンは忠実な犬のように黙って操舵を離れて、血塗れの男の身体をドクから受け取った。
 男に肩を貸すように身体を屈めておいてカノンは半身振り返り、「ミロ、お前も手当てを」と言った。
 アイザックをかばったミロの背はまだ深々と硝子が刺さっている。
 ミロはチラと背を振り返る仕草をして、腕を背へ回すと、ぐ、と顔をしかめて、刺さっていた硝子を次々と抜いた。
 抜いた端から血が噴き出して、彼の背を赤く染めていく。
「俺は後だ。先にそいつを助けてやれ。これ以上死なせるな」
 早く、一刻を争います、とドクがカノンを急き立てている。
 せめて血止めはしろ、とカノンはミロへ告げて、操舵室を出ていく。
 氷河の仇敵に救われた形となって、呆然としていたアイザックに、ちらりとカノンの視線が動く。
「ここにいても邪魔なだけだ、下へ戻るか、せめてこっちを手伝うかしろ」
 自分をかばったがために流れた血と、氷河との間で葛藤に揺れ、アイザックはどちらも選ぶことができずにただ震えていた。
 カノンが続けて何事か言わんとしたとき、デッキの方で「ドク!こいつも怪我をした!意識がない!」と叫ぶ声がした。
 ドクが慌てて「意識がない方を優先しましょう。カノン、航海長室へ運びますよ!そこのあなた!あなたはこっちを頼みます!」と言って、問答無用でアイザックの腕を掴んで引いた。
 カノンが抱えていた男をアイザックの背へ移し替えると、ドクとカノンは二人がかりで新しいけが人を航海長室へと運び込んでいく。
 俺は、でも、氷河が今、というアイザックの躊躇いがちの抗議など、この修羅場で、拾い上げてくれる余裕があるものは誰もいなかった。
 背中で呻く男を放り出すわけにもいかず、アイザックは二人の後を追って航海長室へと向かう。
 男を連れて航海長室の中へと入れば、二人は、床の上へ横たえたけが人の手当てを既に始めているところだった。
「出血が多い……のんびり傷口を縫っている場合ではなさそうです。焼いた方がいい。カノン、剣を炙ってください。……あなたもいつまでそこで黙って見ているのです。彼はそちらへ寝かせていても大丈夫ですから、すぐにここを押さえてください。……違う、もっときつく。カノン、アルコールがあれば全部出して。種類はこの際何でもいいですから。それからあなたはシーツを裂いて、ここを縛って」
 けが人を運ぶ手伝いだけのつもりが、矢継ぎ早に次の指示を与えられ、アイザックは慌ててそれに従う。
 そうしている合間にも、「もう一人いいか!」とけが人が運ばれてくる。
 目の前で繰り広げられる生死の攻防に、さきほどの言葉の真意をカノンに問いただすどころではなくなって、アイザックはひたすらドクの指示に従って、けが人たちの手当てをし続けた。

**

 その絶叫は、三人が全てのけが人の手当てを終え、ようやく久方ぶりの休息を取ろうと、ふうと一息ついたときに耳に届いた。
 夜通し、命の瀬戸際の攻防を続けることは並大抵ではなく、己が手順を誤れば、あるいはもたもたと手際が悪ければ、もしかしたら助かる命も助からないかもしれないというプレッシャーで、正直、途中からは氷河のことはアイザックの頭からすっかりと飛んでいた。
 すぐ傍で聞こえた、まるで泣き叫んでいるかのような声に初めに反応したのは、だから、ドクだ。
 まさかまた新しいけが人ではないでしょうね、と疲労困憊の様子で言ったドクに、カノンは、叫べるうちはたいした怪我ではない、とやはりやや疲れた声で断じた。
 カノンの言うことは一理ある。重傷者ほど叫び声も呻き声も上げはしなかった。
 疲れ切った身体を床へ横たえて、つい今し方までの修羅場をぼんやりと思い出していたアイザックは、だがしかし、不意に、雷に打たれたかのように飛び起きた。
「氷河だ」
 どうしてすぐに気づかなかったのか。
 今のは、氷河の声だ。
 氷河の身に何かが起こった。
 怪訝な顔をしたドクもカノンも置き去りに、アイザックは航海長室の扉を開いて飛び出した。
 姿を探す必要はなかった。
 声の主は、船長室前の通路で両手で頭を抱えるようにしてまだ引きつれた叫びを迸らせていた。
「氷河!!」
 慌てて駆け寄って振り向かせれば、氷河のシャツには赤いものがべったりとついていて、アイザックの心臓が跳ねる。
 全身びしょ濡れの氷河は真っ青となって震えていて、透明な薄青の瞳は焦点を失っていた。
「この血はどうした、怪我をしたのか」
 肩を掴んで、氷河、と何度も呼ぶのに、氷河の瞳は細かく左右に振れていて一向にアイザックに焦点を結ばない。だが、声で存在は知覚したのか、「アイザック……?」と震える唇が音を結んだ。
「そうだ、俺だ、何があった」
 芯を失って崩れそうな身体を抱き留めて問えば、氷河は胸をかきむしるように拳を握った。
「…………………見た……」
「見た?」
「蠍の刺青だ……ミロだった……俺の母を……したのは…ミロだ…」
 アイザックは息を呑んだ。
 知ったのか。
 最悪のタイミング、最悪の状況下でそれを。
「わかった。だが、今はそのことは置いておこう。それより氷河、こっちへ来て、まず手当てを……」
 シャツを染めている血の出所が心配でアイザックがそう言えば、氷河の瞳が焦点を失ったままゆっくりとアイザックへと向けられた。
「……………アイザック、知っていたのか……?」
「……っ、そうじゃない、氷河、俺は、」
 知ったのはほんの数刻前だ。
 だが、そのことによって生じた僅かな反応の差を敏感に感じ取った氷河は、アイザックと、アイザックが飛び出してきた航海長室と、アイザックを追うように遅れて通路へ姿を現したカノンとに順繰りにぼやけた視線をやった。
「……もしかして、最初から、か?知っていて、お前は、」
「ッ、違う、違う氷河!」
「お前……ずっとここにいたんだな……探しても見つからないはずだ……ずっと奴らのそばに……」
「違うんだ、氷河、これは、」
 身を強ばらせた氷河が腕を突っ張るようにしてアイザックの身体を押し戻す。
 未だ焦点の合わない瞳は虚ろに乾いていて、涙すら出ないほど深く傷ついているのがわかる。
「氷河、」
「……来ないでくれ」
 氷河が、アイザックの手をすり抜けて一歩後ずさる。
「待て、違う、落ち着いて、俺の話を、」
 氷河がふるふると首を振って、また一歩下がる。下がった先に床はなく、雨と波で濡れた階段を踏み外して一気に甲板まで氷河の身体は転がり落ちていく。
「氷河!!」
 慌てて階段を駆け下りたが、アイザックがたどり着くより早く、氷河は身体を起こしてじりじりと後ずさる。
「……氷河、危ないから……俺の話を聞いてくれ、頼むからこっちへ」
 後ろを振り返りもせずにアイザックから距離を取ろうと後ずさっているが、あまり下がると舷のなくなった剥き出しの甲板縁が待っている。
「……俺……ここにはいられない……」
「わかってる!わかってるから、氷河、帰ろう、先生が待っている、俺がきっと連れて帰ってやるから、」
「……もう先生の元にも戻れない……俺は…」
「ッ、大丈夫だ、俺がちゃんと先生にも説明する、何も問題はない、先生ならきっと、」
「だめだ、戻れるわけがない……」
 そんなに。
 あれほど大好きだった師の元にも戻れないと思うほど、お前は、あの男を。
 俺がついていたのに。
 俺は一体、今まで何をしていた。航海長室に引きこもってばかりで、お前のために何一つしてやれず、俺は。
 後悔で臓腑が焼き切れそうだ。
 あと少し。
 手を伸ばせば氷河に届く。
 早く身体を捕まえねば、甲板縁はもうすぐそこだ。
 だが、アイザックが一歩踏み出したその瞬間、嵐の吹き返しに、ごうっと強い風が吹いた。
 心ここにあらずの氷河の身体は、まるで木の葉のように簡単に風に押されて、あっと息を呑んだと同時にふわりと空中に投げ出された。
「───ッ、氷河、氷河ーッ」
 身を乗り出して精一杯に伸ばしたアイザックの手は届かない。氷河の身体は、スローモーションのようにゆっくりと海面に向かって落ちてゆく。
 暗緑色に濁った海面が氷河の身体を飲み込むより早く、アイザックは壊れた甲板の縁を蹴った。
 躊躇いはなかった。
 恐怖で身体は震えていたが、それは氷河を失ってしまうということへの恐れであって、嵐の海に身を投じる危険への恐怖ではない。
 何事か叫ぶカノンの声が風のうねりとともに背後に響く。
 氷河にわずか数秒遅れる形で、ザン、とアイザックの全身は海水に沈んだ。
 ごぽごぽという激しい気泡が身体の周りで弾けている。一度海上に浮上してアイザックはあたりを見回す。
「氷河ァァッ!!」
 高い波がアイザックの頭越しに砕けて、叫んだ口の中へ塩辛い水が飛び込んでアイザックはゲホゲホとむせた。
 間近で見る海面は船上で感じる以上に荒れている。
 泳げない方ではないのに、身体が波に持って行かれる。
 すぐ近くに落ちたはずが氷河の姿はどこにもない。浮いていたとしても、高い波が視界を遮っていて、海面からはとても見つけられそうにない。
 大きく息を吸い込んでアイザックは海面下に全身を沈ませる。
 潜ろうとしても激しい潮流がアイザックの身体を流してしまう。その上、海は濁っていて、ほんの僅か先ですらよく見えない。
 ───氷河!!氷河ァッ!!
 頼む、俺の手を取ってくれ、とアイザックはやみくもに何度も潜っては氷河を探す。焦りと恐怖で呼吸が乱れ、そのたびに海水を吸い込んではむせる。
 海上にも海中にも船の破片が無数に散っていて、それらが波と共にアイザックを痛めつける。
「……う、ぐっ、」
 大きな木の破片に腕がぶつかり、アイザックは呻いた。
 腕なんかもげてもいい。氷河を見つけられなければ、両腕があったところでおめおめ戻れはしない。
 ───氷河、どこだ、どこにいる!
 冷たい海水はアイザックの体力を刻々と奪う。それでなくとも一晩中寝ずにけが人の手当てをしていたのだ。限界はすぐそこだ。
 アイザックは意を決し、今までで一番深く息を吸い込んだ。
 くるりと身体を反転させて海中に潜り、より深く潜って濁った海中を探し回る。
 ───頼む、頼む、氷河、こんなところで絶望したまま死んでしまってはだめだ。
 息ができなくて苦しい。海水がかなり入ってしまったか、肺が痛い。手足が痺れて感覚がなくなってきた。もう一度はきっと潜れない。浮上するわけにはいかない。
 ───氷河……
 濁った海の中を潮流に揉まれるように船の欠片がくるくると舞っている。
 視界はほとんどないが、だが、大きな木片は影となって潮流の流れをアイザックに示している。
 その影を目を見開いて追って、そしてアイザックは発見した。
 潮流に押されるように力なく水底へ沈んで行こうとしている身体。濁った色の海中でもゆらめく金の髪が微かに見えている。
 力を振り絞ってアイザックは水をかく。
 ───行くな、氷河、まだ母の元へ行くには早い。
 手足がちぎれそうなほど必死に泳いでアイザックは氷河の元へたどり着き、そして、海中にたゆたう指先を掴んだ。
 せっかく掴んだ指先を激しい潮流が引きはがそうと襲いかかる。
 二度、掴んだ指先が離れ、アイザックは三度目でようやく氷河の身体を引き寄せた。
 しっかりしろ、と頬を叩いてみたが、息があるのかないのか薄青の瞳は見開かれたままどこも見ていない。
 アイザックは氷河の身体を抱えなおして、海上を目指して水を蹴った。
 だが、その時だ、ひときわ激しい潮流が二人を襲った。大きな渦に巻き込まれて錐揉み状態となって身体が前後左右に振り回される。氷河の身体だけは離さぬように、両手の節が白くなるほどしっかりと胸に抱いていたが、あまりの潮流の激しさに、ゴボゴボとアイザックは大量に海水を飲み込んだ。
 潮流はひどく気まぐれで、攫ったときと同じだけ突然に、二人の身体を渦から放り出す。
 錐揉み状態から逃れられて、ほっとしたのも束の間、潮の境目に出た瞬間に、ガツッという激しい衝撃を左目に感じて、アイザックの視界が真っ赤に染まった。
 同じように潮流から放り出された船の破片がぶつかったらしい。
 痛いと感じるほど身体の感覚はもうなかったが、ゆえに、その衝突の衝撃で氷河を抱えていた腕が一瞬外れた。
 あっと手を伸ばしたがもうだめだった。
 再び潮流に氷河と引き離されて、アイザックは声なき声で絶叫する。
 口から流れ込む海水が身体を重くしていき、もがくこともできないまま、アイザックは水底へ沈んでいく。
 氷河、どこだ……。
 待ってろ、俺もすぐにそこへ行く。
 お前は、来るなと拒むかもしれないな。手酷い裏切りにひどく傷ついていたから。
 わかっていて、それでも、お前を放っておけないのは…………だから、お前のためじゃない。俺自身が、そうしたいだけだ。
 ……ああ、そうか。
 自分が何のために生まれてきたのか、なんて。
 決まっている。
 俺は俺自身のために生まれてきた。
 氷河を追って気づけば勝手に海へと飛び込んでいた。命の瀬戸際に、打算も、強制も、忖度も、演技もあるはずがない。氷河のためなら命を捨てられる、なんて、俺はそこまで献身的な人間じゃない。氷河を見捨てる俺でありたくない、それだけなんだ。氷河のために生きているように傍からは見えたかもしれないが、俺は、いつだって俺のために生きていた。
 なんだ。
 気づいてしまえば、悩んでいたことが馬鹿らしくなるくらい当たり前のことだ。
 カノンにそう言ってやりたいところだが……でも、もう、戻れそうにはない……それは少し心残りだ……
 底なしの海をゆっくりと沈んでいくアイザックの意識は次第次第に不明瞭となり、痛みも苦しみも遠ざかってゆく。心地よく、水底には存在しないはずの光がアイザックを導いているかのような錯覚に襲われる。
 だが、完全に意識が失われるその前に、何かがアイザックの腹へと巻き付いた。
 それは力強く水を蹴ってアイザックを勢いよく生の世界へ連れ戻してゆく。
 誰だ……?
 視界はぼやけて姿は見えない。
 だが───
『飛び込まれたところで必ず連れ戻していた』
 ……ああ、そう言えば、飛び込む瞬間に、後ろで何事か喚いていた。
 あんなに余裕のない声は初めてだった。どんな顔をしていたのか、振り向いてみればよかった、と、アイザックは微かに笑った。

**

 甲板は大騒ぎとなっていた。
 アイザックを抱えたカノンが縄梯子を上って甲板に戻るなり、ドクが駆け寄ってきて、よく生きて戻ってくれましたと言って、アイザックの身体を抱きしめるように毛布で包み込んだ。
 飲み込んだ海水をげえげえと吐き出しながら、アイザックは、氷河は、と切れ切れに口にする。
「そっちはミロが今…」
 振り向こうとしたが、身体がほとんど動かせない。海水を吐き出しても吐き出しても肺の痛みが治まらない。その上、酷く視界が暗くてうまく物が見えない。ぬるぬるとしたものが顔を覆っていてそれが唇に滴ってすごく厭な味がする。
 ドクがアイザックの身体を抱えて、誰か乾いた綿布とアルコールを、と叫んでいる。
「氷河は……」
 再び訊いたとき、水夫たちの輪が、キャプテン、とざわめいて揺れた。
 ミロが戻ったのだ、と知れ、アイザックは必死に身体をそちらへ傾けた。
 海水を滴らせて、ミロが甲板縁を掴んで体躯を引き上げている。
 その腕に抱かれているのは確かに氷河だが、だらんと四肢を投げ出して、閉じ損なった瞼の隙間から見えているのは光を失った瞳だけだ。
 アイザックの身体を毛布で暖める役目をカノンに譲り渡して、ドクが急いで立ち上がった。
 ミロはアイザックのすぐ傍まで氷河を抱えて戻ると、がくりと崩れ落ちるように膝をついて、氷河の身体を甲板に横たえた。
「息をしていない」
 ミロの言葉に、アイザックの心臓が凍り付く。
 駆け寄りたいのに、力の入らない四肢は、ただ、カノンの腕の中で震えるばかりだ。
 ドクが慌てた様子で氷河の胸へ耳をつけ、心臓はまだ止まっていない、すぐに水を吐かせるんです、とミロへ言って、氷河の身体を横へ向けさせた。
 アイザックの正面を向いた薄青の瞳はまるで硝子玉だ。
 ミロが──彼の方こそ今にも心臓が止まりそうな酷い顔色をしている。結局、あの背の傷は手当てもされないままだ──掌底を氷河の腹へ当ててぐっと押し上げる。
 何の反応もない。
 ドクがもう一度、と言って、ミロが今度は両手を組んで背後から氷河の鳩尾のあたりを強く押す。
 ごぼり、と空気を含んだ水が、力なく開いた氷河の唇から甲板へとこぼれる。
 もう一度ミロが強く胸を押せば、今度はがぼっと大量の水が吐き出され、ひゅっという喘鳴とともに、氷河の瞳がひとつ瞬いた。
 はあっという、深い安堵の息がミロからもドクからも発せられる。
 身を二つに折って、げぼっがほっという、水と空気の混じった咳を繰り返す氷河に、アイザックも安堵で身体を弛緩させた。
 緊張が急に解けたことで、アイザックの意識は朧になり始めた。酷く頭痛がしている。否、ズキズキと激しい痛みを訴えているのは左目か。
「アイザック……」
 己を呼ぶか細い声に、既に半分手放しかけていた意識をどうにか呼び戻して、アイザックは唯一動かせる右目をひとつ瞬かせた。
 こちらをじっと見つめる薄青の瞳は焦点を結んでは輪郭を失い、輪郭を失ってはまた焦点を結び、完全に息を吹き返したとは言えないほど生気が感じられない。
「死んだらいやだ、アイザック……」
 死にかけていたのはお前の方なのに何を言っている、と首を振ってみせたアイザックは、夥しい血を流している己の惨状に気づいていない。
「……マーマ……いやだ……アイザックを連れていかないで…」
 ガタガタと震えて小さくうずくまる姿は、母を失って港へ辿り着いた、あの、幼き日に戻ったかのようだ。
「……誰かマーマを助けて、マーマはまだ船にいる……助けて……マーマが殺されてしまう……アイザックが斬られた……せんせい早く来て……いやだ、俺はマーマの傍にいる……」
 心を壊してしまったかのように、過去と現実と幻との境目を行きつ戻りつして虚ろに吐き出される氷河の声だけが、甲板に響いている。
 やがて、ミロの手が氷河の濡れた髪に宥めるように触れた。
 壊れ物を扱うような、ごくごくやさしい動きの手だったが、だがしかし、氷河は触れられた瞬間に突然現実に戻ってきたかのようにビクリと身体を強ばらせた。眼球が左右に激しく揺れ、あどけなく、小さな子どものようだった表情がみるみるうちに凍りつく。
 氷河は真っ青な顔でミロの腕から這い出し、そして叫ぶように言った。
「海賊め、俺に触れるな!!あなたの蠍の刺青、俺は覚えている……!見間違いじゃない、確かにそれだった!俺の目の前で、蠍が、あなたが、あの日、みんなを殺した……!俺から母を奪った!殺したんだ、あなたが!…………なのに、俺は……俺は……どうして……あなたが…」
 急激にやってきた激しい興奮状態についに身体も心も持ちこたえきれなくなったか、言葉の途中で氷河は意識を失ってくたりとその場へ崩れ落ちた。ミロの腕がそれを再び抱き留める。
 甲板がしんと静まりかえった。
「……どういう、ことなんです…」
 ドクが説明を求めるかのようにミロを見た。
 ミロは何も言わず、倒れてしまった氷河を見下ろしている。
 やがて、ミロは、氷河からゆっくりとカノンへ視線を移した。
 カノンは。
 そう言えばこの男は先ほどから一言も声を発していない。
「……お前は知っていたのか」
 温度を失ったミロの低い声に、アイザックを抱えたカノンの腕がピクリと反応した。
 それが答えだった。
 刹那、ミロが己の剣を抜いた。
 おやめなさい!と咄嗟にミロの腕をドクが掴んだが、切っ先が触れてカノンの頬から血が噴き出し、アイザックの上へ温かなものが降り注いだ。
「今は仲間割れをしている場合ではありません。氷河にもアイザックにもすぐに手当てが必要です。……ミロ、あなたにもね」
 さあ、運んで、とまだ剣を構えたままのミロをドクが促す。
 ミロ、と強く窘められ、やがて、男は剣を放り出すと氷河の身体を抱き上げた。
 あなたもですよ、とカノンの背へ投げられた声を最後にドクとミロの足音は遠ざかっていく。
 剣が頬を切り裂いても微動だにしなかった男は、アイザックを抱いたまま、俯いている。
 お前がそこまで俺を信用すると思わなかったんだ、と、ぽつりと漏らされた声は、なんだか、道を失って泣いている子どものようだった。