寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク

死にネタ(モブ)あります。苦手な方、ご注意ください。


◆Navy Story ⑫◆

 砲弾は次々に至近距離に着弾して、それは、嵐が巻き起こす大波と相まって、スコルピオ号を翻弄し続けていた。
 まだ直接的に被弾してはいないようだが、それも時間の問題だ。砲撃の音は止むことなく続いている。
「アイザック、どうだ?」
「もう少しだ」
 海賊たちは二人に外にいられてはまずいようだったが、こうなっては、船倉に隠れていたって安全だという保障は全くない。横っ腹に着弾すればあっという間に下層はすべて浸水して、逃げ場のない二人はお陀仏だ。
 数回体当たりをして、その頑丈さに扉を壊すことは早々に諦めをつけ、二人は、扉の蝶番を外すことに方針を転換した。
 氷河の短剣を梃子のように使って、錆びた蝶番の螺子を一つずつ外すアイザックの額には、焦りからかうっすらと汗が滲んでいる。
「交代しよう、アイザック」
「ああ」
 揺れから守るようにアイザックの背を支えていた氷河と、アイザックがその位置を入れ替える。
「見てくれ」
 体勢を入れ替える際に、氷河はアイザックに、己が描いたスコルピオ号の見取り図を渡した。
 一体なんだ、と言って、扉の隙間から薄く漏れる光に羊皮紙を翳したアイザックは、「これ、お前が?」と僅かに驚いたような声を出した。
 氷河は這い蹲るようにして短剣を使いながら、ああ、と頷いた。
「逃げるにも、奴らに反撃するにも必要だと思ったから……こんな形で使うとは思わなかったが」
 よくできている、と頷いたアイザックの横顔を盗み見て、今はもういつものアイザックだ、と氷河は密やかに息を吐く。
「…………砲弾庫がやけに広いんだな」
「そうなんだ。広いだけじゃない。バラスト代わりかってくらい弾丸もぎっしり詰まっていた。スコルピオ号は船の規模の割に砲弾数が多い」
 海賊が船を襲うのは、荷を奪うためだ。
 だから基本的に、砲撃はあまり行わない。目的を達する前に標的が海の底に沈んでしまっては元も子もないからだ。
 最初の砲撃は基本的に威嚇だ。その後、接舷して乗り移り、お宝を奪った後で沈めるか、そのまま放り出すのが奴らの常だ。
 理屈から言えば、奪った宝を収容する荷室より砲弾庫の方が広く取られているスコルピオ号の作りは海賊船としては非常に奇妙なものと言える。
 これでは戦うことが主目的で略取簒奪は行きがけの駄賃に見えるが、果たして、そんな海賊があり得るのだろうか?
「装弾は十分なのか……その割に、大した反撃をしていないな」
「ああ」
 激しい衝撃音をもたらしているのは主に相手方の砲撃だ。スコルピオ号も反撃しているが、数にすると相手方の半分ほどしか撃っていない。
 接舷して人間同士が戦える状況ではなく、火矢や火器類も使える天候でない以上、戦闘は、大砲同士の撃ち合いしかない。相手の船の規模がわからないが、これだけの装備があれば、撃ち合いの消耗戦になったとしてもスコルピオ号が不利になるとは思えない。
 にもかかわらず撃たないのは、恐らく、相手方の自滅を待っている。
 暗闇に、荒れた海。標的を確実に捉えられない状況では、むやみやたらに撃ちまくるより、煽り程度に反撃して自滅を誘うのは恐らく作戦としては最適だ。
 だが、例えでたらめでも、これだけ撃たれ続ければ、被弾するリスクはゼロではない。至近距離に落ちた衝撃波で船が傾くたびに、短剣を握る手にはじわりと厭な汗が滲む。
「……よし、いいぞ、もうひとつ外れた」
 腐食した螺子がころりと床に転がり、緩んだ蝶番の次の螺子に氷河は短剣の切っ先を差し込む。
「そういえば、アイザックはいつもどこに監禁されているんだ?」
 手元は作業を続けながら、何気なく発した氷河の問いに、だが、返事はない。
「俺、脱走のたびにお前を探して回ったけど見つけられなかった。……ほら、それ、×をつけているのはお前がいないのを確認できたところだ。下甲板にも中甲板にもお前はいなかった。窓がいくつもある部屋ってどこだ?そんな見晴らしがいい上等な部屋なんか、」
 そのとき、ドン、という何度目かの轟音と同時に、スコルピオ号は爆ぜるように大きく跳ねた。
 これまでと明らかに違う、とてつもない激しい衝撃に、氷河の身体は支えていたアイザックごと端の壁まで吹っ飛んだ。
「……ッ」
「く…っ、氷河、大丈夫か」
「ああ……舌を少し噛んだ」
「……無駄口を叩いているからだ」
 クッション代わりに氷河の下敷きとなったアイザックの腕が、緊張だろうか、恐怖だろうか、少し強ばっている。
「助かった。お前は怪我はないか」
「大丈夫だ。……いよいよヤバいな、こいつは」
 アイザックが言い終わる前に、遠くから、「被弾!!」という声が響き、氷河は思わずアイザックの顔を見た。
「だめだ、沈む」
「まだそうと決まったわけじゃない」
 だが、急ごう、と二人は素早く身を起こして扉へ飛びついた。
 通路からバタバタと走り回る音とともに、「右舷損傷、砲門破損!」「浸水する!」と騒ぐ声がしている。
「多分、もう外れる」
 既に留め具をほとんど失っていた蝶番は今の衝撃で半分だらりと垂れ下がっている。隙間が大きく広がった扉の根本に指を差し込み、全身に力を込めたアイザックを見て、氷河は短剣を鞘に収めて腰のベルトへ挟んだ。
「開きそうだ。タイミングを合わせよう」
「わかった」
 1、2、と声をそろえて、二人は同時に扉を押した。
 んんーっと二人分の体重をかけて押すうちに、螺子跡を中心にメキメキと亀裂が走る。
「よし、氷河、退いていろ」
 アイザックが数歩下がり、船が水平となった一瞬のタイミングを見計らって扉を蹴ると、バキ、という音とともに蝶番は弾け飛び、亀裂は大きく広がった。
 鋭く裂けた木枠を蹴って通り道を確保しながら、通路に飛び出した二人を見つけて、浸水だ、浸水だと慌てふためいて走っていた水夫は、なんてことだ、と青ざめて悲鳴を上げた。
「だめだ、お前たちがうろうろしていていい状況じゃねえ!頼むから大人しくしていてくれ!」
「浸水はどこなんだ!」
「お前たちには関係ない!何も問題はない!」
「関係ないわけない!一刻も早く浸水を止めなければどの道みんな死ぬ!俺はこんなところで死ぬのはごめんだ!」
「だがキャプテンが、」
「俺はミロの所有物じゃない!俺がどうするかは俺自身が決める!俺も浸水を止める!場所はどこだ!」
 スコルピオ号を救いたいわけでも、海賊どもと馴れ合いたいわけでもない。それでも、そう言ったのはもはや本能だ。理屈ではない。
 氷河の気迫に水夫は気圧されたのか、それとも、それ以上言い争う暇もなかったか、あー、くそ、と天を仰いだ次の瞬間には、わかった、ついてこい!もうかなりやばい!気をつけろ!と言って走り出した。
 行こう、アイザック、と氷河も追って走り出す。
 数歩走って、だが、アイザックの気配が後ろにないことに気づいて氷河は振り向いた。
 アイザックはまだ扉を出たところで立っている。
「アイザック……?」
「氷河、お前はそれでいいんだな」
「何が……」
「悪いが俺は行かなければならないところがある」
「どこに行く気だ」
「確かめる。はっきりさせる。今すぐにだ」
「何を」
「お前は来るな。……俺が戻るまでは決して死ぬなよ」
「アイザック?……おい、アイザック……!」
 氷河が止める間もなく、アイザックは反対方向へと走って行く。
 追うべきか刹那迷い、だが、次の瞬間に、すぐそばから「第一隔壁は諦めろ!第二隔壁手前で止めるしかねえ!もっと人はいないか!!」という悲壮な声が聞こえ、くそっと短く悪態をついて、氷河はアイザックに背を向けて水夫の後を追って走り出した。


 氷河がたどり着いた先では大勢の水夫が膝まで水に浸かって、流れ込む海水を必死にかき出しているところだった。
 木桶を掴んでざぶざぶとその輪に入り、「状況は!?」と聞いた氷河に、多くの水夫はギョッとした表情を見せ、それから、後で怒らないでくれよ、キャプテン、と胸の前で十字を切った。
「この隔壁向こうは機械室だ。ここで浸水をくい止めなければスコルピオ号は手足をもがれたも同然だ」
「相手の船はどうなった」
「砲撃がいくつか命中した。奴らも戦えなくなるのは時間の問題だ。だが、こっちも食らって右舷が損傷している。破損した砲門を今塞いでいるが浸水が止まらねえ」
 損傷箇所を完全に塞ぎきるまで、だからこうして人海戦術で水をかきだすしかないのだ。
 浸水を防ぐためか元々隔壁は防水のために膠で塗り固められてはいるが、水圧で破られてしまえばどうしようもない。ビルジポンプを集めて排水しているが小さな排水具だけでは間に合わないほど海水が流入し続けているため、水夫たちとともに、氷河も必死になって水をかく。
「それで、戦っている相手は誰なんだ」
 よく日に焼けた大柄な水夫は、氷河の問いに、ちらと視線をくれた後、悪魔だよ、海の悪魔だと言った。
 はぐらかすような物言いは、まるでミロだ。
 情報一つとっても、スコルピオ号はミロを中心として文句なく統制が取れている。氷河派だの、アイザック派だの、くだらない派閥争いで揺れているグラード領よりよほど。
 彼らが海賊であることをどう断じればいいのか一向に答えは定まっていないが、迫る危機を前に、思考は一旦棚上げだ。
 次々に流れ込む海水は氷河の膝を越え、腿のあたりにまで上ってきている。
「急げ!手を止めるな!!」
 誰からともなく上がる声に、氷河は応えるように腕を動かし続けた。


**


 長い夜だった。
 相手の船を沈めたのか、それともどちらかが退いたのか、砲撃の音はいつしか止んでいたが、そのことに誰も気づかないほど、荒れ狂う嵐の暴虐と戦うのに皆必死だった。
 海に飲み込まれたかと思うほど流れ込む水の勢いは圧倒的で、その上、上下左右に激しく跳ね回る船体に、水夫も、氷河も、皆、一度や二度ではなく足をさらわれて水中に身体が沈んだ。
 誰かの姿が消えるたびに、また別の誰かの腕がそれを救い上げ、互いに、「大丈夫だ、俺たちにはキャプテンがついている」と鼓舞し合いながら、水夫たちは一丸となって、損傷箇所の修復と排水に駆け回り続けた。
「ここまでくればもう大丈夫だろう。少し休もう」
 水夫の一人がそう言ったのをきっかけに、隔壁前の空間からは、ああ、と大きなため息が一斉に漏れた。
 まだ海は荒れていて、スコルピオ号は上に下にと揺れていたが、一時は腰の高さにまで浸水していた海水はようやく流入が止まり、足首近くにまで水は減っている。
 生き延びた、と安堵した途端に、立っていられないほど全身が震え出して、はあはあと肩で息をしながら氷河は海水の中にがくりと膝をついた。
 海水に長く浸かっていた身体は冷たく凍えていて、手足の感覚がまるでなく、呼吸をするたびに肺が軋んで悲鳴を上げている。
 水夫が「大丈夫か」と声をかけてくれたが、頷くこともできないほど疲労は極限に達していた。
 剣技で引けを取ることはなくとも、体格で劣る氷河は彼らほど体力があるとは言えない。こんなところで死んでたまるかという気力だけが、氷河の身体を動かしていたようなものだ。安堵で気が緩んだ瞬間に、限界を超えた身体は正直にその場に崩れ落ちた。
「おっと、休むなら、水に浸かっていない方がいい」
 浅い海水につっぷしてしまった氷河の身体を、己も限界まで働いたであろう水夫が抱き起こし、担ぐようにして、通路の方へと押し上げる。
 乾いた通路の端で一旦は座り込んで人心地をつけ、だがしかし、二度、三度と大きく息をして、氷河は動かぬ身体を叱咤しながらふらふらと立ち上がった。
「どこへ行く」
 通路で大の字に倒れ伏していた水夫の一人が気づいて、のろのろと顔を上げたが、氷河は片手を振って仕草だけで心配はいらないと伝え、そして、壁を支えにしながら一歩、また一歩と歩き出した。
 浮力のなくなった身体は石を抱いたように重く、凍えた身体の関節は強ばって動かない。
 だが、じっとしていることはできなかった。
 アイザックを探す必要がある。
 俺が戻るまで、と言った彼は結局戻っては来なかった。
 一体どこへ行ったのか。
「お前はそれでいいんだな」と言われた。
 海賊どもに手を貸すことを非難されたのだと、刹那心臓は凍ったが、だが、ただの非難にしては様子がおかしかった。怒っている口調ではあったが、怒りの矛先は氷河ではないかのようにも見えた。
 何を確かめると言ったのか。
 あの戦闘の最中に、危険な甲板へとアイザックは出て行き、戦っている相手を見極めようとしたのだろうか。
 だとしたら、戻って来ないのは、彼の身に何か悪いことが起こったからではないのか、と不安で胸が押しつぶされそうになる。彼の無事を確認しないことには、とても休んでなどいられなかった。
 あちこちで力尽きたように座り込んでいる水夫たちは、怪我をしている者も多いのか、血の臭いが漂っていて、それが氷河の不安に拍車をかける。

 ほとんど這うようにしてハッチの跳ね扉にたどり着いたが、いつもなら簡単に開く扉も、今の氷河にはとてつもなく重く感じられた。
 腕の力のみでは足りず、全身で押し上げるようにして、ようようと扉を開いてみれば、夜は明けているらしかったが、まだざあざあと雨を降らせている雲が空を暗く覆っていた。
 海水ですっかりと全身は濡れていたが、風とともに打ちつける雨の冷たさはまたひとしおだ。
 ガタガタ激しく震えながら、肘をついて重い体を甲板の上へと引っ張り上げ、だが、辺りを見回すや否や氷河は声を失った。
 まだ四つ這いの低い位置からでも、濁って荒れる海が()()()いた。
 スコルピオ号の船首部分の右舷縁が甲板ごと削り取られたかのように木っ端微塵に吹き飛んでなくなっている。
 何がどうなったのか、海上には今はほかの船の影はない。
 嵐と砲撃、両方の驚異に曝されていたことを思えば、むしろ、マストも舵も無事なことを喜ぶべきかもしれないが、それでも、形の変わってしまった船体に動揺しないでいるのは難しい。
 同じく動揺しているのか、はたまた、怪我か、疲労か。下甲板同様に水夫たちはあちらこちらに四肢を投げ出して放心状態で座り込んでいて、甲板は多くの人影があるにもかかわらず、とても静かだった。

 雨の音しかしない中、あり得ない形に途切れた甲板の端に、男が一人、膝をついている。
 すっかりと濡れた長い髪はいつもの曲線を失っているが、あれはミロの背だ。
 彼に言いたいこと、聞きたいことは山とある。
 氷河は、引き寄せられるようにその背へ向かって歩き出した。
 だが、近寄るにつれ、氷河の歩みは遅くなる。
 何か、侵しがたい静謐な空気が、雨に打たれているミロの周りを凛と包んでいる。
 酷く近寄りがたい。
 威圧感とも恐怖とも違う。
 例えて言うなら礼拝堂で祈りを捧げるカミュの背に感じるような、そういう、近寄りがたさだ。
 気圧されて、その背を見つめているうちに、すっかりと歩みは止まってしまった。
 ……今はやめておこう。
 そう思って踵を返しかけた、その時だ。
 ミロの背に隠れ死角となっていた彼の足元が目の端に飛び込み、氷河の心臓はドクンと大きく爆ぜた。
 誰か、倒れている。
 跪いたミロの足元には、男が一人横たわっていた。近寄るまで気づかなかったのは───それが、人間だと遠目で認識できるほどの質量を留めていなかったせいだ。

 死んでいる。

 一目でそうとわかる、惨い状態の男は───見覚えがある。氷河を助けてくれたあの水夫だ。
 思わず呑んだ息の気配が伝わったか、ミロが僅かにこちらに顔を傾けた。だが、切れ長の瞳は氷河の上で焦点を結んだものの、すぐにまた足元へと戻される。
「……あと一息のところで逃げられた」
 氷河がまだ何も口にせぬうちから発せられたミロの言葉は、少し嗄れていた。
 だが、彼が口を開いたことで、傍に寄ることが許されたのだと知れ、何に逃げられたのか、誰と戦っていたのか、聞いても答えの得られぬに違いない問いは飲み込んで、氷河は、恐る恐るミロに近寄って隣へ膝をついた。
 息絶える瞬間を立ち会ったのか、それとも息絶えた後で駆けつけてそうしたのか、血濡れの水夫の右手をミロの手がしっかりと握りしめていた。
 水夫は砲撃を食らった個所の間近にいたのだろう。正視に耐えない姿形となっていたが、懐こい笑みを見せた顔は不思議に綺麗なままで、それだけにカッと見開かれた瞳が痛々しい。
 瞳は既に硝子玉のように光を失い、雨の中には濃い死臭が漂い始めている。
 無惨な光景に古い記憶が刺激されて、厭な汗が背に滲み、寒さとは違うものが氷河の身体を震わせる。
 呼吸が乱れ、叫びだしそうな恐怖は、だが、次第に、胸を引き裂くような痛みへと変わった。
 相手は海賊だ。氷河を攫い、閉じこめ、親しい仲間などでは決してなかった。喪失を嘆くこともできないほど、彼のことを何も知らない。名前すらわからない。
 それなのに、胸が痛むのは───彼に救われたことが揺るぎない事実だからだ。
 救ってもらった礼も言わなかった。もう永遠に伝えられない。
 取り返しのつかない何かを間違った気がしてならない。生と死の断絶は、いつだって突然で、無慈悲であることを氷河は痛いほど知っていたのに。
 見開かれたままの光のない瞳があまりに辛い。
 氷河の激しい動揺を察したか、ミロの指先がそっと彼の瞼に伸ばされる。
 安らかに閉じられた瞳に少しだけ救われた心地となったが、だが、少しだけだ。どうしようもなく心が重く、身体は激しく震えている。
「……………もうすぐ子が生まれるところだった」
「……え……」
「父になるのだ、と嬉しそうだった」
 抑揚のない声で発したミロの言葉が、彼のことを指しているのだと理解した瞬間に、氷河の胸を軋ませていた痛みは、矛先を全てミロへと集約した言葉となって抑えようもなく口からまろび出た。
「あ、あな、あなたの、せいだ……!あなたが、彼を殺した!なぜあんな状況で戦うことを選択した!」
 激しく震えてあまり音とならなかった、強い非難の言葉を、だが、ミロは、全て飲み込むように、その通りだ、俺が殺した、と表情を変えることなく頷いた。
 その瞬間に、言うのではなかった、と、氷河を猛烈な後悔が襲った。
 氷河が言葉にするまでもなく、ミロは彼が負うべき責以上のものを既に負っていた。八つ当たりのような非難すら凪いだ瞳で全て受け止めてしまうほど、彼は己を責めているのだ。

 ───なぜだ。
 尊大で、嫌味で、強引で、その上海賊で、人を攫って支配下に置くような悪党だ。既に何人も殺していると言っていた。
 軽薄で尾籠な冗談ですぐに人を煙に巻いて本音なんか見せやしない。

 にも拘らず、彼からは、いつだって隠せない他者への真摯なやさしさが滲んでいる。

『キャプテンがどんな人間か知ればきっとあんただって好きになるさ』

 水夫たちがなぜ彼に絶大な信頼を寄せているのか、わかりたくなどなかった。
 理解してしまうくらいなら、腹の底まで憎悪を詰まらせていた方がどんなに楽だったか。
 いっそ全て理解できればまだよかったのに、彼がなぜ海賊なんかでい続けるのか、どうしても、どうしてもそこだけは理解ができず、それが気が狂いそうなほど苦しい。

 やがて、ミロはひとつ深い息をすると、握っていた男の手を解いた。
 胸の前で組み合わせるように男の両手を組ませてやり、そしてミロは祈るように目を閉じた。
 ミロの、雨に濡れた頬と睫毛がまるで泣いているように見えるのは、氷河自身の中に泣きたい気持ちがあるせいか。
 ぽたぽたと雫の垂れる伏せられた睫毛を眺めながら、どうしてだ、どうしてなんだ、と、そればかりがぐるぐると脳裏を巡る。
 ややして瞳を開いたミロは、男の首からロケット状の装飾具を外した。
 己の濡れたシャツのポケットにそれをミロが入れたことに、ああ、こんな時でもやはり盗賊なのだ、この人は、と激しい失望に襲われて、氷河は、「死人からも奪うなんて」と思わず言った。
 ミロはチラと氷河を見、「海の底にあったところで金にはならん」と唇を皮肉に歪めた。
 海の底?と聞き返そうとした次の瞬間だ。
 ミロが男の亡骸を抱えて、壊れた舷縁から大きく身を乗り出した。
「!?待っ…」
 咄嗟に氷河がミロに飛びついて止めなければ、水夫の亡骸はまるでゴミくずのように海に投じられていた。
「何て非道いことを!」
 氷河には、それは、あまりに残酷な裏切りに感じられた。詰らずにはいられなかった。
 海を背に両手を広げてミロを睨みつけた氷河を、男の亡骸を抱えたままミロが静かに見下ろしている。
「あ、あなたのために命をかけた人間をよくも簡単に捨てられるな!家族がいるならせめて連れ帰ってやる心はあなたにはないのか!」
「……何日かかると思っている。変わり果てた肉塊を家族が泣いて喜ぶとでも君は思うのか」
「だが、もっとほかに、」
「残念だが、こうなった以上船には置いておけない。置いておけば病が流行ってほかの人間がやられてしまう。これ以上の犠牲を出さない責任が俺にはある」
「だが、せめて弔いの儀式くらい、」
「それで命が戻るならいくらでもつきあうが、今のスコルピオ号にそんな余裕はない。そこをどけ、氷河。これは船長の務めだ。邪魔をするならいくら君でも俺は斬る」
 口調は気味が悪いくらいに穏やかだが、有無を言わさない厳しい響きに氷河の体は竦み、その一瞬の隙に、ミロは氷河を腕で退けるようにして再び海へ身を乗り出したかと思うと、力一杯に男の亡骸を荒れた海へと放った。
「……っ!……あ、あ、……」
 迷いも容赦もないにもほどがある。
 そんな、と酷く動揺して、手を伸ばした氷河が、ふら、とバランスを崩したのをすぐにミロの腕が支えて抱き留める。
 ドボン、と大きな質量が海面を割った音が苦しくて、氷河は目を背けるようにミロの胸に顔を埋めた。
 ひどいことを、と、拳で胸を叩く氷河の背を抱いて、ミロが、わかっている、と髪を撫でた。
 酷薄に魂の容れ物を打ち棄てた手と同じとは思えない、やさしい手つきだった。
 沈んでいく水夫のイメージは次第に海の底で今も眠る母の姿に重なって、どうしてだ、とままならない激しい感情が氷河の心をかき乱し、嗚咽となって唇から漏れる。
 ひどい、あなたはひどい人だ、だから海賊なんか嫌いなんだ、とミロを詰りながら、だが、頭のどこかでは彼の理屈に何ら間違ったところがないことに気づいてもいて、それが受け入れがたく、止めようもなくあとからあとから涙が溢れる。

 どれだけ泣いても収まることのない氷河を黙って撫でていたミロが、やがて、もうそんなに泣いてくれるな、と、濡れた後ろ髪を引いて上向かせた。
 海色の蒼に見つめられたかと思うと唇に温かいものが触れ、その温かさに逃げるように氷河は目を閉じる。
「……ん…っ、う、……んぅ」
 嗚咽とも吐息ともつかぬ声を漏らす氷河を宥めるように、何度も何度も触れる口づけは触れるたびに深まる。
 ミロの唇も舌も酷く熱く、その熱が頭の芯まで焼くようで、何を泣いていたのか、何を詰っていたのか、思考はどんどん朧になっていく。
「俺を殺すか」
 唇のあわいで不意にそう囁いたミロに、氷河はうっすらと目を開く。
 ああ、そうだった。
 一度目も、二度目も、殺し損なった。
 今は。
 舌を噛み切るなどという獣じみた手段を取るまでもなく、今のミロなら、氷河が背に短剣を突き立てたところで、それを甘んじて受け入れるのではないかという奇妙な確信がある。
 だが───
 当のミロに促されるまで、駄々っ子のようにあれだけひどく詰っておきながら、剣を抜くことなど頭を掠めもしなかった。
 なぜなのかわからない。
 ───否、わかっているが、認めがたい。
 自分の中の変化を自分自身で受け止めていないうちに、正面切って問われては、
「……殺す。俺は、あなたを、許せない」
そう、答えるしかない。
 揺れて定まらない自分自身を説得させんがために言ったも同然のその言葉に、ミロは僅かに頬を緩め、「ならばお手並み拝見といこう」と、再び氷河の唇を塞いだ。
「……っ、ん、……っ、ぁ、」
 ミロの腕も胸も唇も、時折漏れる吐息さえも酷く熱い。
 嗚咽は熱で溶かされて、もうどこかへと消えた。
 絡みつく舌は容赦なく氷河を暴き、噛みつくように唇を吸われては、息をすることもできない。
 苦しさで逸らせた氷河の背を、ミロの腕が押さえつけるように強くかき抱く。
「……っ、ミ、……?」
 何か様子がおかしい、と気づいたのは、氷河の背を抱いているというより、氷河を支えとして立っているようにミロの身体が傾いだせいだ。
 重みを増していくミロの胸を押し戻すようにして、どうにか彼の唇から逃れれば、ぐらり、と逞しい体躯はそのまま氷河へ倒れ込んだ。
「ミロ、」
 慌ててミロの背に手を回したが、指先に、ぬる、と厭な感触がして、え、と氷河は息を呑んだ。
 おそるおそる己の指を見れば、雨にも流れないほど粘ついた赤い物がべったりと指に絡みついていた。
「……っ、ミロ、あ、あなたも、怪我を───」
 背中を覆う長い髪をかき分けて見れば、一面が真っ赤に染まっていた。
「かすり傷だ」
 そう言って身体を起こしたミロだが、その眉間に僅かに皺が寄っている。
 氷河の肩へ支えを求めるように回された腕が燃えるように熱い。
 なぜ気づかなかったのだろう。これだけ冷たい雨に打たれ続けて、氷河は氷のように凍えていたのに、ミロだけが体温を保っているその意味に。
 かすり傷のはずはない。きっかけに発熱するほどの深傷なのに違いない。
「誰か、」
 己らの船長の危機だ。当然に水夫たちに知らせようとした氷河の唇にまたもミロの唇が触れた。
 何をまだふざけて、と目を見開いた氷河に、ミロが「騒ぐな。皆が不安がる」と唇のあわいで囁いた。
 こんな状態になっていてもまだ彼らのことを考えているのか、と、氷河の胸がぐっと締め付けられる。
「ミロ、せめて雨の当たらないところへ、」
 氷河が皆まで言わぬうちに、再び、ミロの身体がぐらと傾いだ。
 腕一本なくしたところで平然と戦い続けそうな彼が自力で立っていられないのは、発熱が平衡感覚を失わせているのだろう。
 氷河は彼の体躯の下に潜り込むようにして肩を貸し、ぐっと足を踏ん張った。体格差で、少々引きずる形となるが、歩けないほどではない。
 一歩、また一歩と船長室を目指して歩き出した氷河に、ふ、とミロの唇が笑みの形に崩れて、なんと可愛い真似をしてくれる、とからかうように言った。
「俺を殺すのではなかったのか」
「……借りを、返すだけ、だ。看病の、……っ」
「ふ、律儀だな。……ああ、どうせなら操舵室に運んでくれ。まだやることがある」
「口を、きく、元気が、あるなら、少しは、自分で足を、動かせ、……く……っ!」
 傍目には、ミロがいつものように氷河を構っているように見えたかもしれないが、肩にのしかかる重みは一歩増すごとにどんどん増し、深刻な状態となりつつあることは窺われた。
 どこにこんな力が残っていたのかと言うほどの力でブリッジへの階段をミロを担いで上り、だが、さすがに船長室の扉を開いたときには限界がきて、扉を閉めるや否や、氷河はミロもろともに床に崩れ落ちた。
 仰向けに床に転がったミロは、熱のせいか、それとも傷のせいか、目を閉じたまま身動きしない。
 彼が転がった床と氷河が膝をついた床のまわりに、全身から滴る雫であっという間に水たまりができたが、ミロの周りの水たまりだけがじわじわと薄赤く染まっていく。
 どの程度の怪我なのか。いつ負ったのか。まだ出血が止まっていないのは厳しい状況なのではないのか。
 確認したところで氷河では彼を治せない。
 ムウを探すのが最善だが、探す間も、濡れたままにしておくのはまずい。ミロが自分で起き上がって着替えそうな気配はない。
 ぜ、ぜ、と肩で息をしながら、氷河は船長室の中を見回した。
 着替えと、それから何か拭くものだ。
 幸い、きちんと整頓された船長室の中、どちらもすぐに見つかった。ベッドサイドのチェストの抽斗から目的のものを取り出して、氷河はミロの元へ戻った。
 仰向けとなったミロは目を閉じてはいるが、意識を失ったわけではなさそうで、時折鼻梁に皺を寄せている。
「痛むのか?」
「……いや。君をどうやってベッドに連れ込もうか考えている」
 痛むかどうか、たったそれだけのことすらはぐらかして答えないミロに少し苛立ちながら、氷河は手にしていたタオルをミロの頬に押し当てた。
「君のほうこそびしょ濡れだ」
 押し当てられたタオルをとって氷河の髪を拭こうとするミロに、いいからおとなしく世話をされていろよ、と氷河は声を荒げた。
「……君に世話をされるのは悪くない気分だ」
「こんな時くらい少しは黙っていられないのか、あなたは」
「口をきいていないと意識が飛びそうなんだ」
 そこまで酷いのか、と息を呑んだ氷河に、ミロがまた、君を抱けると思うと嬉しすぎて、と軽口で返す。
 本音の掴めない会話は、だが、氷河を心配させまいとしてのことだともう気づいている。胸が締め付けられるように疼いて痛い。彼のことを考えればなぜだか意味もなく泣きたくなる。
 着替えだろうと手拭いだろうとお構いなしに、チェストの中身を引っ張り出せるだけ引っ張ってきて、髪を拭き、身体を拭き、拭い取れるだけの雫を拭い去って、氷河はミロの濡れたシャツに手をかけた。
 上から順にボタンを外してゆけば、指に、装飾具の皮ひもが触れた。
 氷河の剣が割った貴石はなくなっていたが、あのときのペンダントはまだ彼の裸の胸を飾っていた。
「……何か、特別なものだったのか」
「?……ああ、それか……洗礼の贈り物だった」
「そんなに大切なものだったのか……悪いことをした。割れたものはもう戻せないが……」
「はは!あんなもの、色がきれいなだけの石ころだ、ただの。俺にはこっちの方が特別だ」
 貴石のなくなった、剥き出しの台座を持ち上げて、ミロが目を細める。
 やめてくれ、そんな顔。
 またも激しく胸が疼いて、氷河は慌てて視線を逸らしてうつむいた。
「着替え、を」
 動揺を隠しながら、氷河は震える指でミロのシャツの前を完全に開いた。
 くっきりと隆起した筋肉が胸を、腹を覆っている。
 完成された、大人の男の逞しい体つきはハッとするほど美しく、目のやり場に困って氷河は何度も瞬いた。
「袖を抜くから……少し肩を……」
 ああ、と素直に肘でミロが上体を起こす。
 血に濡れてまとわりつく髪をよけながら、シャツの袖からミロの腕を抜いて───


 それは、あまりに突然の邂逅だった。



 追い続けた()()()()()()()()()


 今にも毒針を振り下ろさんばかりに尾を擡げた、忌まわしい真紅の大蠍が、ミロの左の上腕にはくっきりと刻まれていた。

 夢に何度も見ては悲鳴を上げて飛び起きた、忘れたくても忘れられない惨劇の象徴は、氷河の目の前に予想もしないタイミングで再びその姿を現した。


 うそだ。

 うそだ、うそだ。


 殺したかった。
 否、今も殺したい。
 女も、子どもも無差別に、命乞いすら斬って捨てた蠍は生かしておけない悪党だ。
 でも。
 でも、彼は。
 もう動かなくなった死人の手を長く握りしめていた。
 命について語る時はいつも真摯だった。
 剣を構えた真剣な姿。
 軽口に紛れさせている思いがけないやさしさ。

 違う、あなたじゃない。
 あなたがあの時の蠍なんかであるはずはないと、もう、それはほとんど確信だった。

 そうでなければいいのに、と、きっと願ってもいた。

 それなのに、なぜ。
 なぜ、あなたなんだ。信じられない。信じたくない。あなたが蠍でさえなければ、俺は。

 母の顔が脳裏を横切り、堪えようのない哀しみが吐き気としてせり上がる。

「……氷河……?」

 驚いた顔で手を伸ばした蠍になんと答えたかわからない。
 まるで慟哭のような絶叫が自分の喉から発せられたものだとは気づかないまま、氷河は知らず船長室から飛び出していた。