寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ⑪◆

 海風ががたがたと操舵室の窓を揺らした。
 窓越しに空を見やれば、太陽を隠す雲が速いスピードで流れていて、上空に強い気流が起きていることがうかがえる。
「嵐が来るな」
 そう呟いて、カミュは海図へと目をやった。
 蠍はどこへ消えたのか。
 追う立場の焦りをよそに、その行方は杳として知れない。
 二人がどうしているか想像すればとても自分を保ってはいられないため、意識の外へ追いやるよう努めているが、考えまいと努力している時点で既に考えてしまっている。グラード領の港を離れてから幾日も経っているが、まるでつかめぬ行き先に心労は増すばかりだ。
 風向きと、これまでの蠍の出没動向からして東へ向かったと見たが、その判断に誤りがあったのだろうか。港、港に立ち寄って、蠍の情報を探っているが、新しく襲われた船の話は未だ聞かない。見当違いの方角を追っているのでなければよいが、と、カミュは海図から目を離し、深い息をついた。
「司令官殿!」
 操舵室へのタラップを、セーラー襟の若い水夫が駆け上ってくる。
「……『副』だ」
 律儀にそう正したカミュに、水夫は、失礼しました、とこちらも律儀に頭を下げておいてから、「それで、司令官殿」と再び顔を上げた。
 カミュは苦笑する。
 本物の「司令官殿」は、船長室で今頃呻いているはずだ。
 勇ましく、さあさあこのわたくしが、と言っていたのは討伐艦が海原に滑り出した瞬間だけ。後は激しい船酔いに、ただの一度も船長室から外に出られないと来ている。
 海図も読めないのだ。お飾りの司令官になるだろうことは予想していたが、お飾りの役すら務められないとは。海上生活に慣れていないとはいえ、たいていの者は数日でおさまる船酔いがいつまでもおさまらないでは、全く話にならない。呆れを通り越して気の毒ですらある。
 こうした事情ゆえに、実質的に艦を指揮する立場となったカミュを、司令官と呼ぶようになってしまった部下たちをあまり責められるものでもない。二度目は訂正せずに「何かあったのか」と聞いてやれば、水夫は、「南東の方角に」と言いながら息せききって望遠鏡を差し出した。
「何か見えたのか」
「漂流物が見えます。それとともに何か動くものも。海洋ごみや海獣の類かもしれませんが、念のためご報告を、と」
「なるほど」
 カミュは筒に填められた丸い硝子をのぞき込んだ。
 どこまでも広がる海原に白い波頭が不規則に連なっている。あまりにも広大な海の上で、小さな目標物を捉えるのは難しい。
 水夫の誘導に従って南東の方角を探り、そして、ややしてカミュはそれを発見した。
「あれは……」
 水夫の言うとおり、確かに何らかの物体がいくつも波間を漂っていた。
 海流の影響で海洋ごみが集まりやすい海域というものはあって、時折、海獣がその漂流物で遊ぶかのように周囲をぐるぐる泳ぎ回っていることはそう珍しい光景ではない。
 だが、海流でどこかから流れてきたにしては漂流物の数が多いように思える。
 大半は木箱のようだ。原型を留め、浮力をまだ保っているあたり、海に投じられてそう時間はたっていないものと見受けられる。
 その木箱のすぐ傍で、水夫が言うとおり、確かに黒っぽいものが浮き沈みしている。漂流物のひとつか、あるいは海豚か海豹か……この海域に棲息する種を思い浮かべながらカミュは目を凝らしてそれをじっと観察し、ハッとして水夫に向かって望遠鏡を手渡した。
「いい判断だった。あれは人間だ、まだ生きている。すぐに引き上げろ」
 えっ、と驚いた水夫は、本当に「念のため」のつもりだったのだろう。それとも、この距離で、カミュがそれを見抜いたことを驚いたのかもしれない。
 わかりました、とにわかに表情を引き締めて、慌てて元来たタラップを駆け下りていく水夫の後を追うようにカミュも操舵室を後にした。
 
 
 がたがたと、びしょ濡れのまま甲板で震えている男を毛布やタオルを抱えた水夫たちが入れ替わり立ち替わり介抱をしている。
 船を寄せて、人間だというカミュの見立てに誤りがなかったことがはっきりした時には、その男はほとんど泳ぐ力を失って沈みかける寸前だった。
 すんでのところで船上に引き上げることができたのは、全く幸いというほかない。あと僅かでも船を寄せるのが遅れていれば、彼の命は海の底に沈んでいた。
 しこたま水を飲んだらしく、震えの合間に時折体を二つに折ってげえげえと海水を吐く男の眉間はざっくりと割れ、赤いものを滴らせている。鋭く裂けた一文字傷はどう見ても刀傷だ。ただの遭難者ではない。
 救助活動を見守っていたカミュは、眉間に皺を寄せながらゆっくりと男へと近寄った。
「何があった」
 軍服姿のカミュを見上げて、男は、歯の根があわぬほど震えながら、天の助けだ、でも、少しばかり間に合わなかった、みんな殺されてしまった、と、声を上げて泣き出した。
 誰かが気を利かせて呼びに行ったのか、駆けつけてきた船医が男の傷口の手当てを始めている。
 邪魔せぬように空間をよけてやりながら、カミュは男の前へ膝をついた。
「……海賊だな?」
 カミュの言葉に、男はまるでその言葉そのものが男を害したとでも言わんばかりに、ひぃ、とすくみ上がって、そして、がくがくと頷いた。
「さ、さ、蠍だ、蠍がみんな、」
 ざわ、とカミュの背が総毛立つ。氷河と、アイザックの顔が脳裏に浮かんで、全身の血が逆流しそうなほどの怒りが瞬時に甦り、同時に、ようやくつかんだその気配に血が沸き立つような興奮を覚える。
「蠍がお前の船を襲ったのか」
 男は、何度も頷いた。
「ひ、酷かった、みんな、命乞いした、荷はぜんぶやると言った、の、に、問答無用で、き、斬られて、奪われた、な、何かを探しているようだった、酷く、怒っていた、あの大男がみんな殺した……!」
「大男?」
 カミュが見た蠍は確かに長身だった。だが、すらりと整った見目のせいか、大男と称するのは若干の違和感がある。
「金の巻き毛をした男か?蠍だと名乗ったか?いったい何を探していた?」
「か、髪?髪なんか、し、知らない、俺が見たのは、恐ろしい、あの、蠍の刺青だけだ、さ、探していたのは青い何かだ、青い宝石がどうとか、ないと知るや怒り狂ってみんなを、ああ、蠍が、蠍が、」
 頭を抱えて恐怖に震える男をなだめるようにして、船医が、これ以上は、とカミュに首を振る。
 カミュが頷くと、血止めの治療を施した男を船医は抱えるようにして立ち上がらせ、船室へと運んでいった。
 
 一人甲板に残されて、カミュは考え込む。
 
 蠍の刺青……?
 あの男が乗った船を襲ったのは、では、蠍で間違いはないということか。
 だがしかし。
 蠍が、全てを問答無用で斬り捨てた?
 あの夜の蠍はそうはしなかった。目的を遂げた後は鮮やかなまでに姿を消した。
 それに蠍が探していたという青い何かとは何のことだ。
 青の……青の宝石の公子、と呼ばれている氷河は当の蠍がさらっていたのだ。それを蠍が探すということは、蠍の元にはもう氷河はいないのか。別の海賊に奪われたとでも……?
 いったい、何がどうなっている……
 
「氷河、アイザック……」
 
 甲板を睨みつけるように眉間に深く皺を刻んだカミュの頬に、ポツリと一つ雨粒が落ちた。
 
 
**
 
 
 昼過ぎから、重く水分を含んで低く垂れ込めていた鉛色の雲は、日が沈んで夜の闇が海を覆うと同時に、ついに雲の形をとどめておくのをあきらめたらしく、大粒の滴となってバラバラと音を立ててスコルピオ号に降り注ぎ始めた。
 それとともに風までもが大きなうねりを立ててにわかに吹きつけ始め、風にあおられた波はその山を次第次第に高くしようとしていた。
「そこにいては濡れるぞ!戻った方がいい!」
 甲板をぐるりと覆う舷縁へ腰掛けた氷河に、自分たちは濡れながらばたばたと忙しく働き回っている水夫が声をかける。
 無言で頷いて、氷河は、再び、海の方角へ目をやった。
 美しいコバルトブルーの海は今や見る影なく黒く闇色に染まり、海面は飛沫を氷河の頬にまで飛び散らすほどに荒れている。
 スコルピオ号の航海は今、嵐を迎えようとしているのだ。

 氷河は、そっと船尾の方角を見やった。
 無数の帆やロープに遮られ船尾全てを見通すことはできないが、操舵輪を握るミロの片腕がランタンに照らされているのがちらと目に入って、氷河は慌てて視線を逸らした。
 逸らしておきながら、だが、またそろそろと視線をやれば、今度はタイミング悪く風で大きく帆が膨らんで遮るものがなくなって、片腕どころかしっかりと視線が合い、まるで盗み見などお見通しみたいな顔でフッと笑われて、氷河はかあっと耳を熱くした。
 
 ───ミロという人がわからない。
 
 ミロは、氷河の剣を避けることができたように見えた。
 そういう気がした、というだけだ。はっきりそうだという確証はない。そう感じたのは、避けない理由がないからだ。
 あの時はもうほとんど日が落ちて、暗闇はすぐそこに迫っていた。時間切れ寸前だったのだ。だから、失うもののない氷河には捨て身で真正面から飛び込むしかなかった。
 だが、ミロは。
 ミロが氷河の剣をかわすことを優先していれば、彼の剣が氷河に傷をつけることはなく、恐らく、時間切れで引き分けに終わっていた。
 船長として、まだ帯剣すら許されぬ年の捕虜に負けたなどという事実は不名誉なことだろうことは容易に推察できるが、ひょっとしたら、引き分けですら、彼にはあり得ない不名誉だったのかもしれない。
 だから、その不名誉を厭うて、明確に勝負をつけることにこだわったというのはなんとなく理解できる。だが、そこまで守らねばならぬプライドがあるなら、負けたという申告もする必要などなかった。ルールの上では紛れもなく勝負はミロに軍配が上がっていて、そして、あの場にいた誰も、ミロとおそらくはカノン以外、当の氷河ですら何が起こったか全く理解していなかったのだから。
 なのに彼はそうしなかった。
 自分自身に嘘をつかない、潔く、俺の負けだと高らかに宣言したその姿は、負けを宣言していながら誇り高くすらあった。
 それだけではない。
 剣を持ち、構える彼の姿は真剣そのもので、無駄のない研ぎ澄まされた動きは師カミュに勝るとも劣らず美しかった。
 本気で命をかけた勝負は、形ばかりの華やかな儀式など比べものにならない、身震いするような昂揚と、激しい恐怖、そして、剣を通して、ミロという人物の一部を深く理解したような、自然と畏敬の念が湧きあがってくるような、そんな不思議な心地を氷河にもたらしていた。

 すっかりと心を奪った、心地いいくせに性質の悪い熱に浮かされていたのは、だが、数日の間。

 ───海賊相手に何を俺は血迷っている。

 カミュ先生とも俺たちとも所詮は生きる世界が違う奴のすることに心を乱されるとはどうかしている。
 自分が情けない。たった一度剣を合わせただけで、長年抱えてきたものがこうも簡単に揺らぐとは。どんなことがあろうと、海賊を許せない気持ちは揺らぐことはないという自信があって、それだからこそ、カミュに帯同を願い出たというのに。
 あれほどはっきりしていた、ミロという人間と、彼に対して自分が為すべきことが今はひどく輪郭を失ってぼやけている。
 怒りで自分が保てなくなるから、母のことはできるだけ思い出さないようにしてきたのに、今は、意識して母を海賊に殺された怒りを思い出していないと、自分を見失いそうだ。
 ミロに対してだけではない。
 水夫たちとの関係が変化したことも、氷河の迷いに拍車をかける。
 ミロの言葉の影響力というのは絶大なもので、一目置かれている、と感じる瞬間は多くなった。
 捕虜ではあるが、外に出たい、と言えば、よほどの不都合がない限りは、わざと閂錠をかけ忘れる、というやり方で目こぼしされることが増えた。ばかりか、俺にもキャプテンを負かした剣の扱い方を教えてくれよ、と懐こく集まってきさえし、下卑た冗談でからかわれることも、賭け事の対象にされることもなくなった。

 海賊だぞ、こいつらは。
 みんなみんな悪党だ。
 
 呪文のように心のうちで唱えながら、親しい笑顔を向けてくる男たち全てを冷たくあしらい続けることは酷く骨が折れる。
 今だってそうだ。濡れるぞ、と気にかけられれば、胸のあたりがむずむずして、どうしようもない。口を開けばうっかり笑みで応えてしまいそうで、だから、ずっと一文字に唇を結んでおくしかない。例え生き抜くために仕方なかったとはいえ、海賊船にすっかり馴染んで親しく交わる氷河を見たら、カミュや死んだ母がどんなにショックを受けるかと思えばどうにか信念を失わずにいるが、親切に差し出された手を叩いて返すような真似をし続けることが果たして人として正しいことなのかどうか、定まらない心は、嵐の海同様にずっと乱れ続けている。


 雨はどんどんと激しさを増し、既に甲板は余すところなく濡れて水たまりができ、水夫たちは大慌てで帆をたたんでいる。
 急速に荒れ狂い始めた海に、スコルピオ号はまるで木の葉のように大きく翻弄されていた。
 さすがにまずいなと、姿勢を変えようとした瞬間に突き上げるような勢いの大波が襲って、氷河は慌てて舷縁にしがみついた。だが、大波に高く舳先を持ち上げられたスコルピオ号は、今度は奈落に落ちるかのように低くなった海面へ向かって鋭角に船首を下げて傾ぎ、その激しいうねりに氷河の身体は空中に跳ね上げられた。
 あっと息を呑んだ瞬間に、氷河の腕を誰かが掴んだ。
「っ、ミ、」
「危ねえっ、落ちるぞ!」
 先ほど、氷河に声をかけて通った水夫だった。
 その後ろから、二人、三人とすぐに加勢が駆け寄ってきて、せーの、というかけ声と共に、氷河の身体は水夫たちごと甲板の上へ投げ出された。
「ここは危ない!早く中へ!」
 水夫たちが口々にそう言って、下甲板へと促すように氷河の背を押す。
 下甲板でも皆が行き来している気配がしていて、まるで戦場のようだ。人が足らないのだ。あっちこっちで、早くしろ、と水夫同士が急かしあっている。こうしている間にも、誰か早くロープを引け、と怒声が降ってきて、氷河を助けた水夫の一人はわかってる、と焦りの滲む声で返している。
「……俺も、手伝うよ」
 気づけば、知らぬうちにそう口走っていた。
「え?なんだって?」
 氷河の声は激しい雨風にかき消されたか、水夫はまだハッチの扉を押さえて、早く早くと氷河に手招きをしている。
「俺も手伝う!何をすればいい」
 今度ははっきりと意図してそう言葉にしたが、言った瞬間に、師を、母を今俺は手酷く裏切ったという強烈な罪悪感が押し寄せてきて、ぐっと吐き気がせり上げ、だがしかし、氷河はそれをどうにか腹の奥へ抑え込んだ。
 男たちは氷河に今見せている顔と裏腹に、残虐な行為を働いているかもしれない。あの時の嵐でスコルピオ号もろともに全員沈んでおけばよかったんだ、と後になって身を捩って後悔することになるかもしれないという恐怖は常につきまとう。だが、今この瞬間は、こんな風に助けられておいて、いい気味だ、海賊なんかみんな嵐で死んでしまえと呪い続けることを、あのやさしかった母が望むとは氷河にはどうしても思えなかった。
 第一、スコルピオ号が沈んでしまえば母の敵討ちどころではない。これは俺自身が生きるために必要な戦略だ。だから、だ。
「そうか!助かる!そっちのロープを持ってくれ!」
 よほど人手が足らなかったか、氷河の声が届くや否や、水夫は躊躇うことなく頷いて氷河へ太いロープの端を投げて寄越した。それを握った瞬間に、騒ぎに乗じて殺すかもしれないのに、疑いもせずに捕虜の俺を信頼するなんて、と今度は彼らに対しての罪悪感が襲ってきて、氷河は、ぐっと唇を噛んだ。
 この状況で、自分の立ち位置が定まらないのはどうしようもなく辛い。だが、目の前に迫る危機にそんな甘えも言っていられない。迷いを振り切るように氷河はぶるぶると首を振る。

「ただの嵐じゃねえ、こいつはきっとサイクロンだ。全部の帆をたたまなければあっという間にやられちまう!急げ!」
「サイクロン?馬鹿な、そんなはずはない」
 国土が面している海は大陸と大陸に挟まれた内海だ。荒天はままあるが、サイクロンのような大型の嵐はもっと南東の大海でしか通常発生しない。スコルピオ号がどのあたりを航行しているのかわからないが、グラード領を離れた日数からしてまだ大海にまでは達していないはずだ。
「いや、俺はずっと前に経験がある。稀に起こるんだ。この風の感じ、間違いねえ」
 自身も手を休めずに帆をおろす主導をしている水夫の言葉に、氷河とともにロープを引っ張っている年若い水夫たちは、一様に顔が強張っていて不安げだ。無理もない。海上で一番恐ろしいのは、海軍でも海賊でもない。嵐だ。ただの嵐でも操舵を間違えば簡単に沈むが、それがサイクロンほどの大きな嵐ともなれば、なおさら危険だ。
「大丈夫だ!このレッド・スコルピオ号はかつてのサイクロンを無傷で乗り切った。俺達には無敵のキャプテンがついている!」
 おお、と鼓舞された水夫たちがぐっとロープを引く力を増した、そのときだ。
 マストに上って帆を畳んでいた水夫が大きな声を張り上げた。
「奴だ!!キャプテン、奴が近くにいる!!」
 奴……?
 咄嗟に氷河はマストの上を仰ぎ見た。まだ少年の面差しの水夫が手をかざして面舵の方角を見やって、ミロを呼んでいる。
 振り返って氷河は目を凝らす。
 高く盛り上がっては砕ける海水がひっきりなしに甲板に降り注ぎ、その上、船の縁が邪魔をして氷河のところからは何も見えない。いや、舷縁に遮られずともこの夜の闇の中で見えるものなど、不気味にのたうち暴れまわる波ばかりだ。
「間違いはないか!」
 そう言ってミロが、ひらりとデッキの手すりに飛び乗って、自身も見張りの水夫と同じ方向を睨みつけた。
「明かりが見える!あの旗、奴の船に間違いないです!………こっちに……こっちに向かってきている!!」
 水夫の最後の叫びは興奮か恐怖か激しく戦慄いていた。
 ミロは一瞬険しい顔をし、だが、好戦的に口角を上げると声を張り上げた。
「ようやく姿を現したかと思えば、この嵐、この闇の中を向かってくるとは!よほど頭に血が上っているな。どの道、奴とて荒れた海では長くは戦えまい。向かってくるならばこれを逃がす手はない。総員、戦闘準備にかかれ!風上を取って奴に反航しろ!砲門は俺がいいと言うまで開くな!」
 ごうごうとうねる風と叩きつける滝のような雨の中にもミロの声ははっきりと響きわたり、甲板は、怒号と悲鳴で溢れ、蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。
 戦闘って言ったのか……?この嵐の中を?一体何とだ?
 一人状況が飲み込めずに、氷河はただ、茫然と立ち尽くす。
 まっすぐに大波の向こうを睨みつけているミロの瞳は鋭く、ぎらぎらと見たこともない恐ろしい光を放っている。
 と、その瞳が、雨と波の打ちつける甲板で嵐と戦闘準備に駆け回る水夫たちの間で立ち尽くしている氷河の姿を捉えた。
 刹那、微かに眉間を歪ませたミロは、猫のようにしなやかに手すりから飛び降りたかと思うと、大股で氷河の方へと近寄ってきた。
「君はここにいてはならない」
 言うなり、ミロは氷河の腕を掴んだ。
「は?いや、でも、俺も何か、」
 人手は不足していることは明白だ。借りられるものなら何でも借りたいに違いない状況で、捨て駒にするに都合のいい捕虜が自ら水夫に交じって立ち働こうとしているのに、それを拒む理由があるはずがない。
 なのにミロは、怖い顔で氷河を引きずって甲板を横切り、ハッチの扉を乱暴に開いた。そして、抵抗する氷河を小脇に抱えるようにして飛び降りると、忙しく水夫が走り回る通路を、無言でつかつかと進んで行く。
「……ミロ、奴とは、誰だ。あれは、まさか、先生の船なのか」
 いつもの軽口もない、常ならぬ固さを見せる横顔に怯みながら、かろうじてそう問うたが、ミロから答えはない。
 やがて、いつもの船倉にたどり着くと、ミロは氷河を問答無用で押し込んだ。
「ミロ、誰か傷つける気なら、俺はあなたを許さない、何をする気なのか説明くらい、」
 閉じ込められては何が起こっているか確認する術がない。船倉に入るのを抵抗しながらそう言ったが、見下ろすミロの鋭い瞳に射抜かれて、氷河は思わず息を呑んだ。
 氷河の腰からいつの間に抜いたのか、ミロの手にはあの短剣が握られている。
 ここへきて、足手まといの捕虜は用済みとなって始末されるのだ、と、氷河の全身は凍り付いた。
 ミロは氷河をきつく射すくめたまま、だが、氷河の手を取って、短剣の柄を握らせた。
「万一の時は自分の身は自分で守れるな?」
「……え……、ミロ、ちょ、ミロ……!」
 意味を問いただす間もなく、扉がバタリと閉められた。ガチ、という金属音で、閂錠がかけられたことがわかる。
「ミロ!万一ってなんだよ!誰から身を守れと言うんだ、あれは先生ではないのか!こんな状態でどうしろって言うんだよ!なにが起こってるんだ、なにをするつもりなんだ!」
 ドンドンと扉を叩いてみても、ミロの足音は躊躇いなく遠ざかっていく。
「一人前だと認めてくれたのは何だったんだ……」
 何かが変わったような気がして、その変化に戸惑い、落ち込み、迷っていた自分がばかばかしく思えるほど、その扉はミロと氷河を強固に隔てていた。やはり理解しあえない存在なのだと、そして彼の方で歩み寄る気持ちはまるきりないのだと認識したことは、だが、今更もう氷河の救いにはなりはしなかった。

 あまり用を為していなかった、錆の浮いた襤褸の閂錠のほかにもう一つ新しい錠を増やされたばかりだ。かけ忘れてもらえるから脱走も容易だっただけで、しっかりと施錠されてしまえば脱走も難しい。
 何度か扉に体当たりをしてみたが、びくともせず、そのうちに、上下左右に大きく揺れる船体にバランスを失って、氷河は強かに身体を床に打ち付けて呻いた。
 船の揺れにはすっかりと慣れていたが、さすがに嵐がもたらす揺れは、まるで船全体が回転しているかのような激しさだ。立つこともままならずに、氷河は傍にあった木箱にすがりついた。
 だが、息もつかないうちに、ガチャガチャと、今し方閉じられたばかりの扉の錠が開く音がして氷河はハッとそちらに顔を向ける。
 通路の光が射し込む眩しさに片腕を翳して見やれば───
「アイザック!」
 カノンの肩に担がれたアイザックが、まるで荷物か何かのように乱暴に放り込まれようとしているところだった。
 ミロと違い、カノンは一言も口を開くことなく再び扉を閉め、そして去っていく。
 暗闇となった船倉で、氷河は手探りでアイザックの元へと近寄った。
「アイザック!アイザック!」
「……ここだ」
 声を頼りに膝でにじりよって、そして、指先が温かなものに触れたときには安堵で涙が滲みそうだった。
 抱き合うように互いの身体を引き寄せあって、氷河は顔を上げた。
「なぜ、ここに?」
 これまで決して二人をひとところにしようとしなかった海賊たちが、突然方針を変えたのは奇妙なことだった。まさか不安がるだろうから、などと二人の気持ちに配慮してくれははずはあるまい。
「……わからない。多分、何か、俺たちに見られたらまずいことが起こるか……それとも、俺たちが見つかるとまずいのかもしれない。俺が……閉じこめられているところには窓がいくつもあったから」
 そうか、と頷いて、だが、氷河は、アイザックの声が強ばっていることに気づいて首を傾げた。
 声ばかりか、氷河の背へ回された腕がどこかよそよそしい。
 あ、俺……
 異様な状況にすっかりと忘れていたが、アイザックと顔を合わせるのはあれ以来初めてだ。唇の上の熱が今頃になって思い起こされて、氷河は彼にずいぶん遅れて、居たたまれなく身を固くした。
「あの、」
 いつもは小さなランプが心許なく照らしている船倉だが、この嵐でどこかへ吹っ飛んでしまったのか、今はそれすらなく暗闇だ。
 黙り込んだアイザックがどんな表情をしているか伺えない。
 だが、見えない方が気が楽だ。
「アイザック、ごめん、俺、」
 気まずい時間が長引く前に氷河はそう勢い込んで言った。
「………なんで謝るんだ」
 正直、アイザックのあれが何だったのか、氷河は今も理解していない。ただ、長い付き合いだ、アイザックが何かに対して怒っていたことは肌で感じていたし、氷河は氷河で彼に顔向けできない後ろめたい迷いを抱えている。たいていの場面において間違ったことを言わないアイザックが怒っているのは結構堪える。謝りたい理由を抱えているなら、早々に謝るのが道理だ。
「ごめん」
 うまく説明できず、ただ、重ねてそう繰り返した氷河に、アイザックは、お前は謝らなくていいよ、と言った。
「悪かったのは俺だ。……どうかしていた」
「いや、俺も、その、少しおかしかった」
 おかしかった、どころか、今もおかしい。俺、なにか変なんだ、自分で自分がわからなくなっている、と、アイザックに相談してみたくてたまらなかったが、空気は固く、なんとなく、それが言い出せる雰囲気ではない。
 ぎこちない会話を交わしている間も、船はどちらが天地かわからないほど揺れ動き、しっかりと抱きしめあった二人の身体もぐるぐると上下が入れ替わる。あちこちに身体がぶつかって、痛い、痛いとうめきながら、それでも二人とも互いの身体は離さない。
「戦闘だって言っていた。一体、何と戦うつもりなんだろう。……先生、かな」
 ついにカミュが追いついて、ここから助け出してくれるのだろうか。淡い期待を胸にそう問えば、アイザックは違うと思う、と首を振った。
「嵐の夜に、戦闘をしかけるなんて正気の沙汰じゃない。先生だったら絶対にこんなことはしない」
 アイザックの言うとおりだった。
 あれだけ海が荒れていれば、通常は帆を完全に畳む。
 戦闘するにはある程度操船をする必要があるが、帆を張ったままでは風でマストが折れる危険がある。マストが折れてしまえばもう操船はできず、行くあてなく漂流し続けるしかなくなる。よしんばマストが折れずとも、砲撃のために砲門を開いた瞬間に、高い波がそこから浸水して船は数刻も持ちこたえられずに沈んでしまうに違いない。第一、こんなに揺れ動く船に大砲を撃ち込むのは至難の業だ。攻撃をしかけるにせよ、受けて立つにせよ、それは即ち自分の船と船員を危険に晒す自殺行為にほかならない。自分たちの命より優先せねばならない戦闘などあるはずがない。カミュにしろ、ほかの領主たちが放った追っ手にしろ、海賊討伐をしようかというような良識ある相手なら嵐の中の戦闘は避けるに決まっている。
 ならば、これは、海賊同士の抗争か。不法者同士にも縄張り争いはあると聞く。否、嵐の最中という狂気じみた状況で戦闘をしかけてくるからには、報奨金狙いか。国賊となった蠍の首には領地一つ買えるほどの莫大な報奨金がかけられている。報奨金を手にせねば食うにも困るほど追い詰められているような輩でもいれば、なりふり構わず戦闘をしかけてくるのはあり得ない話ではないのかもしれない。ミロに、それをわざわざ受けて立つ理由がないように見えるのが解せないが。

 通路から、怒号混じりの男たちの緊迫した声と、走り回る足音が響いている。この船上で、二人を除いたすべての人間が、死をも覚悟したともとれる重い緊迫感に包まれているのに、何が起こっているのかすら知らされないことがひどくもどかしい。
 やがて、ドォッという爆音と激しい衝撃とともに、船が大きく揺れた。
「な、なんだ、いまの、」
 床がほとんど垂直に傾き、そして、また水平に戻り、わんわんという反響音が消えないうちに、また、ドォッという衝撃で吹っ飛ぶような勢いで床が傾いた。
「な、波が、こんなに、」
 床に叩きつけられないよう、ぎゅっとアイザックの背にすがりつけば、アイザックの焦ったような声が、違う、砲撃だ、と呟いた。
 スコルピオ号が砲撃を受けている。
「嘘だ、だって、そんな、」
 自殺行為だ、と言い終わらないうちに、今度はかなり間近で、ガガァン、というとてつもない破裂音が鳴って、スコルピオ号はビリビリと激しく震えた。
「まさか本当に砲門を開いたのか……!?」
 反撃している。
 その事実に氷河は震えた。
 スコルピオ号は今、激しい嵐の最中で戦闘状態に陥ったのだ。