寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ⑩◆

 甲板は、どこにこんな人数の水夫が隠れていたのかというほど大勢の男たちで埋め尽くされていた。
 男たちの真ん中にはまるでモーゼが割った海のようにぽっかりと空間ができていて、その中心点にはミロがいる。その広い背に遮られてよくは見えないが、向かい合うように立っているのは紛れもなく氷河だ。
 取り巻いた男たちの背後からその姿を垣間見て、まずは氷河が元気である、という事実にアイザックは安堵した。
 しばしの間、キャビンで放心していたアイザックは、どんどんと騒がしくなっていく甲板の声に我に返り、様子をうかがうために外に出たのだ。
 何日顔を見ていなかったのだろう。
 船倉で過ごす時間が長いせいか、よく日に焼けていたはずの氷河の肌はいくらか色を失っている。だが、げっそりと落ちていた肉は戻り、きりりとミロをきつくにらみつけている瞳はしっかりとした光を放っていた。
 駆け寄って、こんな茶番につきあう必要はない、と手を引いて彼を止めたかったが、興奮したたくさんの男たちに阻まれて近づくことはかなわない。氷河の方からも、屈強な男達に埋もれたアイザックは、まるで見えないに違いない。

 やがて、どこにいたのか、二人の間に、カノンが進み出た。
「剣を取れ」
 あれほど渋い顔をしてミロを止めていたのに、結局、船長には頭が上がらないのかとアイザックは幾分失望した。
 失望し、また失望した、ということに気づいて、俺はあんな奴に一体何を期待しているのか、と、アイザックはぶるぶると首を振る。
 カノンが差し出した二本の剣のうち、短い方をまずはミロが取った。
 残るは遠目に見ても剣身の美しい、一目で一流の鍛冶師の手によるものだとわかる立派な長剣だ。
 さあ、取れ、とカノンは氷河を視線で促したが氷河はじっとそれを見つめて動かない。
 怖じ気づいているととられてもいい、やつらの挑発に乗らずに徹底的に無視するのはうまい作戦だ、とアイザックが安堵したとき、氷河が信じられない言葉を発した。
「俺が短剣の方でいい」
 何を言い出すんだお前は!というアイザックの驚きの声は、男たちのどよめきにかき消された。
「ほう……?その剣では不満なのか。言っておくがちょっとやそっとではお目にかかれない由緒正しき一等品だぞ」
「由緒とは正当な持ち主が語ってこそ意味があるもの。盗人が語ったところで片腹痛いだけだ。そんなことより、なぜ剣の長さが違う」
「君と俺とではまるで体格が違う。同じ長さの剣では勝負にならない」
「負けた時の言い訳を用意しておくとは、さては臆病風に吹かれたな。……ああ、もしや、今呑んだ酒も言い訳のつもりか。『酒は剣を鈍らせる』からな」
 くらくらくら。
 目眩がするとはこのことだ。よくこんな状況でそこまで強気に煽れるな、お前は。
 べそべそ泣いてベッドへ潜り込んでくるほど甘ったれなくせに、時に、信じられないくらい無謀なことをやらかして周囲を慌てさせてきたが、ここにきてもその悪癖は治らないらしい。マストを上ってみせただけでは飽き足らないのか。どっちもカミュが知ったらきっと大目玉に違いない。
 ミロはと言えば腹を折って大笑いだ。カノンはもう視線で人が殺せるんじゃないかというくらい渋い顔をしている。周囲の男たちは、いいぞ坊や、と口笛を吹いての大喝采だ。
「よかろう!君がそれを使え!ありがたくハンデをいただいた俺は怪我をせぬよう気をつけるとしよう」
 己が取った短剣を氷河に放りながら、カノンから長剣をミロが受け取ると、観衆はどっと興奮に沸いた。
 放物線を描いてくるくると空中を舞った抜き身の短剣の柄を、氷河は器用に片手で受け止め、手のひらへ馴染ませるように二度、三度と振ってみせる。
 両者の手元に剣が渡ったことで、渋面のままのカノンが片腕を上げた。
「相手方の剣を落とさせるか血を流させた方を勝者とする。時間は水平線の向こうに太陽が完全に隠れるまで」
「一つ聞きたい」
 カノンの言葉に被せるように、口を開いたのはまたしても氷河だ。
「………今度はなんだ」
「殺すのはありなのか」
 男たちの輪が何度目かのどよめきに揺れる。
 何か言いかけたカノンを片腕で制し、ミロが答えた。
「よかろう。それも許可する」
 ミロの頬から笑みは消えていた。ごくごく真剣な瞳に、ぞわ、とアイザックの背が震える。
 カノンの腕が音もなく下ろされた。
 始まりの合図だ。
 カノンが一歩後ろへ下がったときには、もう、キン、という金属音が響いていた。
 落ちる日は早い。日没まで僅かしかない。相手の出方をうかがうような慎重なさぐり合いなどすっ飛ばして、初めから切り結ぶ選択を二人はしたのだ。
 何度も剣の相手になってきたアイザックは氷河の速さをよく知っているが、初めて目にする水夫たちには驚きをもたらしたようで、金属音が響く度に、興奮した獣のような歓声がもれている。
 だが、アイザックにはミロの速さの方が驚きだった。
 あの長い剣をまるで己の体の一部のように操って、その軽やかさといったら桁違いだ。
 師カミュと同じかそれ以上の使い手であるのは間違いがない。
 アイザックも氷河も、一度もカミュに適ったことなどありはしないのだ。
 残念だが、この男は格が違う。この勝負は受けた時点で氷河の負けだ。
 見ていられない。
 だが、放ってもおけない。
 通してくれ、と水夫たちの間をかき分けて彼らに近づこうとしたが、既にかなりできあがった酔いどれ水夫達に、兄ちゃんも楽しめ、とげらげら笑って引き留められた。
「……誰か、あの男に勝った奴はいるのか」
 両脇の水夫に肩を掴まれて足止めされたアイザックが、近づけないことに焦りながらそう問うと、周囲の男たちから、一斉に、まさか!と声が上がった。
「キャプテンは負け知らずだ」
「だったら、この儀式になんの意味がある」
「あるさ、おおありだ!あのキャプテンに相手をしてもらえるだけで名誉なことだ!それだけで一人前だと認められたようなもんだ」
 あんな細っこい坊やがなあ、マストを上ったときもすごかった、と皆口々に氷河を称えているのだが、こんな状況でこんな相手からでなければ喜べたに違いない称賛も、今は、胸に重いだけだ。
「どうした、坊や、口だけか!」
 獲物を「斬る」ことを目的に作られた剣だが、ミロは時折それをレイピアのように刺突の動きに操っている。彼の速さのせいで、腕の長さと剣の長さ以上に手元でぐんと伸びるそれを避けるために、氷河は常に彼からかなり間合いを取らねばならず、短剣では案の定、防戦一方だ。間合いを詰める隙すら与えず、休む間なく繰り出される剣を、氷河は必死にかわしているが、ほとんど紙一重だ。今やミロの挑発に答える余裕も失っているように見える。
 汗一つかいていないミロに対して、氷河の周りには、彼が動く度に小さな水の玉が無数に散っていて、それが沈み切る直前の夕陽に赤く染まって反射していた。
 容赦のないミロの攻撃を避け続けることは、全速力で常に駆け続けているようなものだ。やがて、体力が尽きてきたのか、氷河の防御は時折危うさを見せるようになり始めた。
「……っ、」
 汗で額に張り付いた前髪の隙間からのぞく瞳に明らかに焦りの色が混じっている。
 まずいぞ、と、アイザックの焦燥もピークに達したとき、ふら、と、氷河の足がもつれるようによろめいた。
 トトッと、その場で数歩たたらを踏んで、氷河が片膝をついてしゃがみ込む。
 ミロの目が細められ、次の瞬間には、これまでで一番の、目にも留まらぬ速さの剣が氷河めがけて突き出された。
 と、そのときだ。
 屈み込んでいた氷河が、短剣をミロに向かって投げつけた。
 同時に、よろめいたことが嘘のように、彼は、獣のようなしなやかさでしっかりと地を蹴って、ミロの剣を避けもせずに、真っ正面へ飛び込んでゆく。
 なに、と一瞬ミロの目がまるく見開かれた。
 攻撃のために開いていたミロの胸元へ短剣が到達するかしないかの瞬間、重力で下向く軌道を修正するかのように、飛び込んだ氷河の手のひらがその柄を掴んだ。
 ガツッという鈍い音。
 交錯した形のまま、剣を手放すことなく動きを止めた二人の姿に、しんとあたりが静まりかえる。
「……どう、なったんだ……?」
「わからない、速すぎて見えなかった……」
 呆然と呟く小さな声のほかは、何も聞こえず、カノンもじっと二人を見つめたままだ。
 が、固唾を呑んで見守る無数の視線が、ポタ、とデッキの床に落ちる血滴をとらえた。
 一滴、そしてずいぶんの間をおいて、再び一滴。
 デッキの床へ滴を垂らしているのは……ミロの剣だ。
 鈍く光る剣身を赤い滴が伝い落ちていた。
 怪我をしたのは───氷河の方だ。
 耳の下で裂けた皮膚から血が流れ出しているのが見てとれる。
 ミロは───ミロは、無傷で立っている。
「勝負ありだ!我らがキャプテンの無敗神話は今宵も守られた!」
 立会人たるカノンの宣告を待つことなく、誰かがそう叫んだのをきっかけに、どうっと地響きのような歓声が上がった。
 そこここで、わあわあと祝杯のグラスを鳴らし始めた水夫に、だが、待て、と、ミロから鋭い声が飛んだ。
 再び甲板はしんと静まりかえる。
 ミロがカノンをちらと見た。
 カノンには彼が何を言わんとしているかすぐに理解できたのか、だめだ、と言いたげに首を振る。
 だが、ミロは、カノンのそれを黙殺して、まだ間合い内で立ったまま肩で息をしている氷河に視線を戻した。
 剣を下ろしたミロが、己の、はだけた胸元から、革紐でつるされた装飾具を取り出した。
 普段は隠れていて見えない、ペンダント状のその装飾具の中心、楕円形の貴石が───真っ二つに割れていた。
 彼はそれを氷河の眼前に掲げる。
 昂揚し、心ここにあらずの風情の氷河の青い瞳が、揺れる装飾具に焦点を結んだ。
「これがなければ血を流すことになっていたのは俺の方だった。見事だ」
 そしてミロは、大勢の水夫たちにも何が起こったかわかるようにその装飾具を掲げ、そして、まだ短剣の柄を握ったままの氷河の腕を同じように高く持ち上げた。
「この勝負、俺の負けだ!」
 悲鳴と怒号、そして割れんばかりの大喝采と称賛。興奮のるつぼと化した甲板に、なおもミロのよく通る声が響く。
「今日からこの氷河は一人前として扱え!坊やだと侮ることは船長の俺が許さん!」
 イエッサー!キャプテン!と、男たちの野太い声がぴったりと重なってこだまする。
 いいな、氷河、と声を落として、氷河にそう言ったミロの声は打って変わってやさしげだ。
 氷河が激しく戸惑い、混乱しているのが遠目にもわかる。
 ミロが、短剣を握りしめたままの氷河の手を取り、その甲にそっと愛おしむようにキスを落とした。
「一人前の証だ、この剣は君にやろう」
「……え……っ」
「帯剣の儀というのは、そういうものだろう?」
「…………あ、あなたを殺すつもりでいるんだぞ、俺は、」
「ああ、危ないところだった」
「寝首をかくかもしれないのに、剣なんか……」
 夜這いならいつでも大歓迎だがな、とミロはいたずらっぽく笑った。
 そして、かのーん、と、どこか間延びした音でミロはカノンを呼んで、後は任せた、と自分の剣を鞘に収めながら水夫たちの輪へと入っていった。
 苦い物を飲んだような渋面で見守っていたカノンは、氷河に向かって短剣を収納するための鞘を差し出した。
「………本当にいいのか……」
 慣れぬ手つきで鞘へ剣身を収めて、氷河は半信半疑でカノンを見上げた。
「船長が認めたことを俺に覆す権限はない。だが、たかだか短剣一つ手に入れただけで何かできるとは思ってくれるな。命が惜しくて言っているわけではない。お前のために言っている。ミロが短剣一つでどうこうできる男ではないことは、剣を合わせた今ならお前はよく思い知っただろう」
 そうかもしれないが、それにしたってあり得ない扱いではないのか。
 捕虜に武器を与えられる、という、この事態をどう受け止めていいのか、戸惑っているのは氷河だけではなくアイザックも同じだ。
「来い、手当てが必要だ」
 カノンは氷河の手を引いて、キャビンへ続くステップを上ろうとしている。
 アイザックは慌ててその後を追った。
 カノンと氷河を二人きりにはできない。何をされるかわかったものじゃないことは痛感したばかりだ。
 興奮した男たちの波をかき分けかき分け進んで、航海長室の扉の前でようやく二人に追いついたアイザックは、待て、と声を張り上げた。
 氷河が振り返って、アイザック、と青い目を大きく見開く。
「アイザック、俺、」
 数歩駆け戻ってアイザックに飛びつこうとする氷河の襟首をカノンが掴んで引き戻す。
「手当てが先だ」
 キャビンの中へずるずると連れ込まれる氷河を、アイザックは小走りとなって追う。
 カノンはアイザックを締め出すようなことはせず、航海長室の中に設えられた簡易水洗の蛇口をひねって、洗え、と氷河の背を押しやった。
 素直に従った氷河が、血で濡れた顔をざぶざぶと無造作に洗うのを、アイザックは黙って見守る。
 洗っても洗っても、裂けた左耳と頬から新しい血が溢れ、洗面台はあっという間に真っ赤に染まった。
 見せてみろ、とカノンが氷河の顎を持ち上げ、傷口をのぞき込んだ。
「剣の切れ味とミロの腕に救われたな。出血は多いが、深く切れたわりに痕は残らんだろう」
 少しこれで押さえておけ、と、カノンはアイザックに白い綿布を渡して、航海長室を出ていずこへかと去って行った。

 扉が閉まるや否や、アイザックと氷河は顔を見合わせ、おもむろにひしと抱き合った。
「……よかった、アイザック、ちゃんと生きていた……」
「俺は心臓が止まりそうだった、お前ときたら……!」
 抱き合ったまま、二人はずるずると床へ崩れるように座り込む。
 氷河の頬から滴った血がアイザックの胸元を汚して、ああ、といつの間にか取り落としていた布を慌てて拾い上げて、アイザックはそれを氷河の頬へ当てた。
「痛むか?」
「全然。たいしたことはない、これくらい。……アイザック、見てたか?」
「……ああ、見ていた」
「俺、ミロに、負けたと言わせた……」
 上擦った声で興奮気味に告げる姿にアイザックの心臓はざわりと嫌な音を立てる。
「氷河、お前……」
 こんな表情は見たことがない。
 カミュに初めて誉められたときですら、こうではなかった。
 いつもどこか仄暗い影が過っていた瞳は今、宝石と謳われた真価を発揮せんばかりに美しく輝いていて、だというのに、目の前のアイザックはまるで映していない。
 ショックだった。
 己がカノンという男を悪だと思いきれないことを自覚するのと同じかそれ以上に、ショックだった。
 俺も、氷河も、一体どうしてしまったんだ。
 氷河の頑固さは師ですら手を焼いていたというのに。変わらず、海賊憎しで揺らがぬ氷河に会えば、そうだ、カノンみたいな悪党は滅びてしまえ、と思いを強固にできたはずだったのに。
 わかっているのか、氷河。
 お前は、憎い母の仇を堂々と殺す千載一遇のチャンスを逃したんだぞ……

 アイザックの受けた衝撃に敏感に気づいたのか、氷河が慌てたように目を瞬かせる。
「あー……だから、つまり、ともかく、武器は手に入れた」
「親の仇から恵んでもらった、の間違いだろ」
 言った自分自身が自己嫌悪で落ち込むほど意地悪な言い方になったのは、受けたショックの反動だ。
 氷河は大きく息をのんで、酷く傷ついた顔でアイザックを見たが、アイザックは、気づかぬ振りで視線を逸らした。
 だって、従順になったふりで隙をつけって言ったのはお前だろ、と俯く氷河の声が戦慄いている。
 嘘だよ、よくやった、と言って頭を撫ぜてやれば、きっと安堵したように泣き笑いの顔をして甘えて身体をすり寄せてくることは知っていたが、今はとてもそう言ってやる気持ちにはなれなかった。

「……見せてみろ」
 放っておけば、氷河の薄い色の瞳から雫がこぼれる羽目になることは明白で、さりとて、やさしくしてやれるほどアイザックの心も平らかではなく、だから、最大限の譲歩でそうぶっきらぼうに言って、片手を差し出せば、ん、と暗い声をして、氷河は素直にアイザックの手のひらに短剣を乗せた。
 短剣は、小振りなわりに思いのほかずっしりと重量感があり、アイザックは思わず、おや、と視線を移す。
 重いはずだ。柄には精緻なレリーフが施されていて、そのレリーフの美しさを最大限に発揮させるためか、柄が通常のものよりやや太く作られている。錆もなく、誰かの手に馴染むほど使い込まれてもいないそれは、おそらく、実戦用というより儀式用、あるいは装飾具か何かのように見える。
「……これは、わりと新しいな」
「ああ……ここを見てくれ、アイザック」
 言いながら、氷河はアイザックの手から短剣を取って、同じように美しいレリーフで覆われた鞘から剣を抜いた。
 氷河の指が指し示した剣身に、よく見なければ装飾と見間違うほど小さな文字と紋章が掘ってある。
「『感謝を込めて』……?こっちは、王家の紋章に見えるな……」
「お前にもそう見えるか。実は長剣の方にも同じ紋章が掘ってあった」
「レプリカではなく本物だとすれば、これは陛下からの下賜品ということになる。まさか海賊が直接陛下からもらい受けているはずはない。盗みかあるいは略奪の動かぬ証拠だ」
「……………そう、だな。……うん、俺もそう思っていた」
 王家の紋章入りの剣が二本も海賊船に乗っている合理的な理由はほかに見あたらない。
 カノンとミロの会話からは、『成人の議』らしさを演出するため、数ある剣の中からその紋章入りのものがわざわざ選ばれたことが伺えた。海賊でありながら、己らを征伐せんと動く宮廷のやり方を真似るのは痛烈な皮肉だ。実に海賊らしい、悪趣味極まりない演出だ、と、アイザックは自分に言い聞かせるようにことさら強く吐き捨てた。
 だというのに、そうだよな、と繰り返す氷河の声には力がない。
 つい先ほど、ミロに向かって氷河自身が『盗品だ』と断じていたにもかかわらず。
 なぜ、今、そこに別の意味を探そうとしているんだ、と、凪ぎかけていたアイザックの心が再び波立つ。
 会わない間に、あの男が母の仇ではないという決定的な証拠を見つけたわけではないならば、その揺らぎは、つまり、あの男を殺さないですむ理由を探し始めていることにほかならないのではないのか。殺すのはありなのか、と自分で聞いていた、あの男を、どうしてお前は……!
 
 アイザックは氷河の背へ腕を回して、ぐっと彼を抱き寄せた。
「……アイザック……?」
「帰ろう、氷河。武器が手に入ったならいつまでも大人しく捕虜に甘んじていることはない。お前だって、早くカミュ先生に会いたいだろ?夜のうちにボートを盗めば、きっと逃げられる」
「……だが……まだ、奴が母の仇かどうか確かめていない。このまま帰るわけには……」
 嘘だ!
 お前は、それを言い訳にしてあの男の傍にいたいだけじゃないのか。
 まんまと奴の策略に乗せられて、母の仇を討つ信念すら揺らぎかけている今のお前に、あの男が討てるはずもないのに、確かめてなんになる。
 だからカミュはお前を乗艦させたくなかったんだ。
 甘いんだよ、お前はいつも!
 
 嫉妬に塗れたその叫びを、氷河に投げつけるのはかろうじて飲み込んだ。
 だが、激しい苛立ちは、氷河を抱擁した腕の力へ知らず伝わった。
「……っ、い、痛っ、アイザック、どうしたんだ、アイザック、」
 もがき、逃れるように身を捩る氷河に、マストの上で一つに重なった陰が脳裏をちらついた。
 あの男には大人しく身を委ねたくせに、なぜ俺からは逃げるんだ、という怒りがこみ上げて、そうなるともう理性を保つのは難しかった。
 アイザックはぐっと氷河の後ろ髪を掴むと、半分開いた彼の唇に己のそれを押し当てた。
「……っ!?」
 驚きに見開かれた、澄んだ青が突き刺さる。
 不純物のない青が己を責めるのが怖くて、アイザックは自分の方から目を閉じた。
「……………っ、アイ……ク、ん、……っ」
 氷河の心に強引に割り込むように、唇の合わせ目から無遠慮に捻じ込んだ舌で深く口腔を犯す。
 抱き合って眠ることなど何度もあったのに、この甘ったれた「弟」の内側の熱を知るのは初めてだ。氷河の濡れた舌の熱さに頭はすっかりのぼせ上り、だというのに、胸の中心は氷でも飲み込んだかのように冷たく凍えていた。
 アイザックの腕の中から逃げようとする身体に、どうしてだ、と泣きたくなる。
 逃げるなよ、と泣きそうになりながら、それと矛盾して、違う、俺がしたかったのはこんなことじゃない、これ以上酷いことをしてしまう前にもっと強く拒んで俺を止めてくれ、と叫びたくなる衝動が胸の中を吹き荒れている。
 八つ当たりだ。本当に詰りたいのは氷河ではなく、自分自身だ。わかっている。でも止まれない。自分が制御できなくて苦しい。
 苦しさから逃げ、縋るように、アイザックはひたすら氷河の唇を貪る。
 ん、んん、と氷河の喉が苦しげに反り、もがいた腕がキャビンの床をたたいた、その時だ。
 不意に強い力がアイザックの襟首をつかんで、氷河の身体から引きはがした。

「同意がないように見えるが?」

 いつの間にか戻ってきていたカノンだった。
 ───カノン、だ、よりによって。
 同意なく組み敷いて、犯すぞ、と言った男と大差ない、醜い己を、一番見られたくない奴に見られた。
 は、は、と荒い息を吐く氷河を片腕で抱き起こし、手にしていた包帯や軟膏を床に置きながら、カノンはちらりとアイザックを見やった。
 いっそ詰ってくれれば、あんたが言える立場か、と怒りの矛先を向けることもできたのに、カノンの瞳には批判も、憐れみも、同情も何もない。
 見透かすような深海色の瞳に見つめられた瞬間に、かあっと頬に血が回って、アイザックは跳ね起きて扉に向かって駆けだしていた。
「アイザック!!」
 追いかけようと立ち上がりかけた氷河をカノンが引き留めた気配は、背中でだけ感じて、アイザックはキャビンから飛び出した。
 
**
 
 ゆらゆらと。
 揺れる船体に逆らわず身を委ねれば、海と同化したようで心地よい。
 街明かりもなく、空気は澄み渡り、星は怖いほど美しく瞬いている。
 自然が美しければ美しいだけ、己の卑小さが浮かび上がって、いっそ海の藻屑となって消えてしまいたくなる。
 大の字となって夜空を眺めていたアイザックは、はあ、と小さくため息を吐いて、身体を起こした。
 先ほどまで大いに盛り上がっていた甲板は、夜半を越え、少しずつ人の数が減っていき、今はもうすっかり閑散としている。
 人の声が消えた今、アイザックの耳に届くのは波の音と風がはためかす帆の音だけだ。
 アイザックが寝転がっていたフォアマストの周辺には、予備のロープや折り畳まれた帆が積まれていて、それがいい目隠しとなって、誰もアイザックの存在には気づいていないまま人けがなくなったのはありがたかった。
 氷河に合わせる顔はなかった。
 カノンにはもっと会いたくない。
 
 ───だというのに。
 
「ここにいたか」
 もう誰もいなくなったと思っていた甲板が軋み音を響かせたと思えば、不意に降ってきた声に、アイザックは呻いた。
 あんなことのあった後だ。
 いくら悪党でも人並みの情けがあるなら、気が済むまで、否、せめて一夜、放っておいてくれてもよさそうなものなのに。
 人の心を先回りして読むくせにそういう気は回らないのか。───いや、アイザックの居たたまれなさはわかった上で、面白がってわざと顔を見に来たに違いない。出会った日の夜もそうだった。厭な男だ、と最悪の第一印象だったことは記憶に新しい。だから、絶対に顔を合わせたくなかったのに。
 アイザックの不愉快顔に気づいておきながら、カノンは、ロープの山を乗り越えながらまんまと傍まで近づいてきた。
「海に身を投げたのでなくて安心した」
「あんたに見つかる前にどうしてそうしておかなかったのか、今死ぬほど後悔している」
「無駄だ。飛び込まれたところで必ず連れ戻していた。安心した、というのは俺が濡れずに済んだ、という意味だ」
と、聞きようによって恐ろしい台詞を吐いて、カノンは、アイザックの前へと膝をついた。
「飯を食い損ねただろう」
「……そんな気分じゃない」
 カノンは片手に葡萄酒の瓶、片手に皿を持っている。
 野良猫を手懐けるように、まあ食え、食えば少しは落ち着く、と、皿をそっと床に置かれては、度を失って海賊以下の最低の行為を働いた事実を改めて突きつけられたも同然で、ようやく落ち着いていたはずの熱がまたアイザックの頬に上った。
 皿の上には、洋上ではなかなか拝めないような分厚い肉や珍しい果物が乗っていて、普段なら、いくらか心が浮上する助けになったかもしれないが、とても何かをこれ以上飲み込めないほど胸の中は厭なものでいっぱいだ。食欲がわくどころかむかむかと吐き気すらこみ上げる。
 黙って皿から視線を逸らしたアイザックに、俺はいただこう、おかげで俺も食い損ねた、と、カノンは葡萄酒の封を切って瓶に直接口をつけた。
 呑むか?とアイザックにも瓶を傾けられたが、誰がいるかよ、とアイザックはそれも突っぱねた。

「………………………………氷河は」
 カノンとの間で、絶対に絶対に蒸し返したくない話題であったにも関わらず、さっさと彼をどこかへ追いやりたい一心で、しばしの沈黙の末に結局アイザックはそれを問うていた。
 からかわれでもしたら本当に海に飛び込んでやろう(連れ戻されるかもしれないが、少なくともカノンを濡れ鼠にはできる)、というつもりでいたが、カノンはさらりと、手当てのあとは大人しく船倉に戻った、お前と同じで飯は拒否でな、と言っただけだ。
「……結局捕虜扱いは変わらないというわけか」
「自由をやるとは言っていない。子どもだろうと大人だろうと捕虜は捕虜だ。一人前の捕虜の証として、閂錠を一つ増やさせてもらった」
「はっ!馬鹿にした話だ。何の意味があったんだ。剣まで与えて」
「聞いていただろう。ミロが気まぐれで思いついた他愛のない遊びだ。特別な意味などありはせん」
 紅潮し、上擦った声で、ミロが、と言った氷河の薄青の瞳が思い起こされてぐっと胸が締め付けられる。
 気まぐれが氷河にあんな表情をさせたのか、と思えばどうしても平静ではいられない。
 氷河をこれ以上弄んだら承知しない、と言いたいところだが、今夜、多分もっとも氷河を傷つけたのはアイザック自身なのだ。それ以上、何も言う権利はなかった。
「氷河はお前を心配していた。飯を食わなかったのも、お前に会わせないことを抗議してのことだ」
 アイザックの心を見透かしたかのようなカノンの慰めが、全く、全く、余計で、これ以上なく最低な気分だった。
「…………やっぱり呑む。よこせよ」
 返事を待たずに、アイザックはカノンの手から葡萄酒の瓶をもぎ取った。
 瓶を逆さまにして、一気に喉に流し込めば、焼けつくような酒精の刺激が空の胃には強すぎて、早々にグフッとむせる羽目になった。ゲホゲホと咳き込むのが収まらないうちに、だがしかし、アイザックは再び瓶に口をつける。むせては瓶を傾け、傾けてはまたむせる。その繰り返しだ。
 まともに味わうこともなく、ほとんど空になるまで嚥下作業を繰り返したが、その間、カノンがアイザックを止めることも窘めることもなかった。

「嫌いだ、あんたなんか」
「知っている」
「あんたのせいで俺の人生めちゃくちゃだ」
 スコルピオ号に連れ去られることがなければ、氷河とは信頼関係を築いたままでいられた。
 可能性は五分五分と言いながら、恐らく、伯爵の後継は実子の氷河で決まりだった。
 氷河は後込みしただろうが、いつものようにアイザックが、大丈夫だ、俺がついてるから、と言えば、最終的には頷いたに違いないし、周囲がどれだけ対立したとしても、時に、師ですら入り込めないほど、深い信頼で繋がっているアイザックを氷河は決して遠ざけはしなかっただろう。今までずっとそうだったように、これからもずっと二人でいられるはずだった。
 それを俺は……
 くそっ、と怒りにまかせて短く吐き出した悪態を、カノンはなぜかくすりと笑った。
「……何が可笑しい」
「……………いや、お前の人生、と言えるほど、お前はお前の人生を生きていたのかと思ってな」
「何だと」
「あの夜、師の隣でお利口に愛想笑いを振りまきながらお前はひどくつまらなそうだった」
「……それは氷河だろ。見間違いだ」
「違う、確かにお前だ。氷河の方が置いてけぼりにされる不満をはっきりと顔に出していただけまだマシだった。物分かりよく笑っていたが、本当は、後継争いにも、海賊退治にも興味などないだろう、お前は」
 ドク、と心臓が鳴った。
 味わいもせず流し込んだ葡萄酒の酒精がここへきて一気に回ったのか、心臓がドクドクと脈打つたびにくらくらと目眩が起きる。

 ずっと、ひっかかっていた。
『自分の居場所がわからなくて苦しい、そう顔に書いている』
『何のために生まれてきたのか存在意義を知りたくはないのか』

 何のために。

 思いのほか己を動揺させたその問いに対する答えを未だアイザックは持っていない。
 物心ついたときには氷河がいた。
 氷河を守り、助けるのがアイザックの兄としての務めで、海賊を討ちたいと氷河が望むならアイザックもそう望んだし、あの伯爵の後を継いでは氷河が苦労をすると思えば、身を引いてグラード領を去るよりも傍に居て共に苦労を背負う道を選んだ。母を思って泣いていれば、俺が母代わりを務めなければと思いもしたし、父との間に壁があると感じれば、二人の距離を近づけるための道化にもなった。
 氷河がきっと必要とすると思ったから、こんな男のあからさまな怪しい誘いにも乗ったのだ。
 それほど、アイザックの世界はいつも氷河と共にあった。

 なのに───

 アイザックの存在に気づきもせず、ミロと同等に渡り合った氷河は、彼がそう認めたとおり、もう、誰の助けも必要としていない、一人前の男となったのかもしれない。師でもなく、アイザックでもなく、仇敵である海賊が、氷河をそうさせた。
 同じ船上とはいえ引き離されて、針路を見失ったかのように迷い、不安を感じているのは、甘ったれの氷河ではなく、むしろ常に頼りにされてきたアイザックの方なのだった。
 アイザックは、氷河抜きでは、自分が何のために生きているのか答えられないほど空虚な人間なのだと───知りたくなどなかったのにこの男が気づかせた。
「…………あんたに何がわかる」
 強くカノンの言葉をはねつけたつもりが、酒精にすっかりとやられたか、思いのほか明瞭さを失った力のない声となった。
 そればかりか、視界も歪み、身体が不安定にぐらぐらと揺れる。
 ぐるりと天地がひっくり返る直前に、カノンの腕が、支えるようにアイザックに伸ばされた。
「わかる、と傲慢なことを言うつもりはない。俺にそう見えただけだ。………俺がただ、俺の知っている奴とお前を勝手に重ねてしまっただけかもしれん。お前と氷河の関係は俺には見ていて痛い。あまりに近すぎる関係は互いを壊す」
 カノンがどんな表情でそれを言ったのかはアイザックにはわからなかった。
 空腹に注ぎ込んだ酒精はすっかりアイザックの瞼を重くし、芯を失った身体はカノンの腕の中で、あっという間にぐにゃぐにゃと崩れ落ちていた。
 ふわ、と己の身体が空中に持ち上がった感覚がして、今日はもう休め、と耳元で低い声が響く。
 カノンが足を踏み出すリズムでゆらゆらと揺れる身体は酷く気持ちがいいくせに、同時に気分はどん底で、なぜそんなわけのわからない状態になっているのか、考えることももう億劫だった。
 揺れに任せて運ばれながら、なあ、とアイザックは口を開く。
「続き。しないのか」
「………何だって」
「今ならもう邪魔は入らない」
「酔いすぎだな」
「できないのか」
「自棄を起こしてるやつとはできんな」
「今更紳士ぶるのかよ、犯すと言ったのはただの脅しか。言ったからにはやれよ」
「性質の悪い酔い方をする奴だな、お前は」
 正直、自棄かと言われれば自棄だった。
 何もかもどうでもよく、自分自身を壊したくて仕方なかった。消えたい。なかったことにしたい。どこから?どこからでもいい。自分ではない何かになりたい。
 トントンと、カノンがキャビンへの階段を上がる、その揺れで、また強烈に酒精が全身を巡る。
 もはや、ろれつが回っているかどうかもわからないのに、カノンを煽る言葉が止まらない。
「やれよ、やってみろよ」
「俺も呑んだ。使い物にならん」
「嘘だ、この意気地なし!人間を虫けらとも思わぬ悪党のくせにこんなときだけ、」
「謝りたいなら素直に氷河に謝ればいい。いくら俺に駄々をこねても解決せんぞ」
「氷河は今関係ない!!」
 大きな声を出したせいか、吐き気がぐっとこみ上げて、堪えるために顔をしかめれば、拍子に、目尻にじわりと熱いものが滲んだ。
 こんなやつの前で、と、慌ててアイザックは片腕で己の顔を覆う。
 アイザックを抱えたまま器用に扉を開いたカノンは、黙ってそのまま寝室へ進んだ。
 初めて足を入れるカノンの寝室は薄暗く、狭く、どこもかしこもカノンの匂いだらけで、自分でさんざん煽ったくせに、男の香りが残るベッドに柔らかく着地させられた瞬間に、やはり身は竦んだ。
 カノンが腰を折って、アイザックの足から靴を脱がせている。
 昼間、アイザックの中心を包んだ手のひらの熱が思い出されて厭な汗がどっと吹き出す。
 だが、身を固くして喉をごくりと鳴らしたアイザックの緊張をよそに、カノンはそのまま立ち上がった。
「俺はしばらく戻らん……と、言っても信用はできんだろうな。内鍵をかけるといい。少しは眠れ」
 鍵はこれだ、と、その所在を拳で叩くようにしながら、カノンは去っていった。
 去り際に背中で、悪かったな、とだけ告げて。
「何に対してだよ!言い逃げかよ!だからずるいんだよ、あんたは!」
 畜生、と、アイザックは拳でベッドの縁を叩いた。
 一人きりになれば、もう歯止めがかかりようがなく、目頭の奥にぐっと熱いものがこみ上げて、アイザックはそれが雫となるのを堪えるためにシーツに顔を押し当てた。
 途端に、去ったばかりのカノンの香りに濃く包まれて、畜生、畜生、と、アイザックは何度も拳でシーツを叩いた。