藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ⑨◆
うとうとと微睡んでいたアイザックはハッと目を見開いた。
アイザックはしぱしぱと目を瞬かせて、自分が転がっている木の床の模様を眺め、ああ、海の上だ、ここは、と眉間に皺を寄せながら起き上がった。
眠ったつもりはなかった。
だが、結果的に無防備に寝入ってしまっていたことに小さな焦りを感じながら、部屋の中を見回したが、カノンの姿はない。
ここ数日、カノンは航海長室で長く過ごすことが多く、だからアイザックはほとんど眠っていない。
彼が同じ空間にいる間に眠る気には到底なれない。
が、身体は正直なもので、連日の寝不足についに限界が来て、意志と関係なく勝手に休息を取ってしまったらしい。
カノンが部屋から出ていく前に目を閉じてしまったのか、それとも、出て行ったことで緊張が緩んで眠ってしまったのか、眠りに落ちる直前の記憶がまるでない。できれば後者であってほしい、と心から願わずにはいられなかった。
窓越しに見える、薄赤く染まった空の色からして、夕暮れ時のようだ。一昼夜以上経っているのでない限り、さほど長い時間を眠ったわけではないらしい。
風ある限り、昼夜問わず航行する帆船だが、それでも、夜間は多くの水夫が休息に入るため、普段は夕刻ともなると甲板には人はまばらだ。
だというのに、扉の外がなにやらざわざわと騒がしい。多分、その喧噪が耳に届いたことが覚醒のきっかけになったのだ。
何が起きているのかと甲板へ続く通路側の丸窓へと近寄り、だが、窓硝子の向こうにカノンの長い白金色の髪を発見し、思わずアイザックは隠れるように身を屈めた。
キャビン横の通路でカノンは誰かと話をしている。
窓硝子を通じて届く声は聞き取りづらいが、時折大きくなる声の調子からして、どうも言い争いをしているようだ。
「深入りはよせと言ったはずだぞ」
「これのどこが深入りだ?」
「捕虜に成人の儀など……冗談にしても馬鹿げている」
「別に氷河のためじゃない。こうも奴が現れなくては、な。退屈しのぎの遊びのひとつやふたつ、そう目くじらを立てるようなものでもあるまい」
「真剣を使った遊びがどこにある。何かあったらどうする気だ」
「俺の腕を信用していないのか、カノン」
「お前のことは心配していない。だが、氷河の方はお前相手では冷静になれまい。怪我で済めばいいが、万が一のことがあれば……」
「それは坊やを見くびりすぎているというものだな。あの坊やはそこまで柔じゃない」
「俺が見くびりすぎていると言うならお前は買い被りすぎだ。氷河はまだ子どもだ。成人の儀なんかまだまだ早い。お前が相手をしてやるような器ではない」
「やけに必死だな、カノン。俺とお前、どちらが正しいかは、剣を合わせてみればわかるさ。反対するのなら、坊やの前にお前と一戦交えても俺は一向に構わんぞ」
言い争っている(と言うよりほぼ一方的にカノンが言い負かされている?)相手はミロだ。
それもどうやら氷河のことだ。聞き間違いでなければ成人の儀がどうとか……?
二人が言い争う合間にも水夫が入れ替わり立ち替わりやってきて、キャプテン、料理をどうしますか、酒の準備はこれでいいですか、剣はどれを使いますか、などと指示を仰いでいる。
アイザックはどくどくと鳴る心臓を押さえてそっと窓の外をうかがいみた。
ミロは水夫が掲げた数種類の剣を選んでいるところだ。
「氷河はこれにしよう。俺は短剣でいい。体格差ぶんのハンデくらいはやってもよかろう」
イエッサー、とかしこまった水夫の背を見送って、カノンは、「よりによってあんなものを使うのか」と、見たこともない渋面をミロに向けた。
「遊びでも儀式は儀式だ。あのくらいの格の剣を使うのが筋だろう」
「格?格式張った宮廷が嫌いで海賊になった男が一体どの口で」
それはお前だろ、とミロはくつくつと笑う。
そして、さあ、俺はそろそろ主役を呼びに行かなければ、と言ってミロは夕風に長い髪をなびかせて、甲板へと去っていった。
苦言をまるで聞き入れられず、完敗した形となったが、カノンは諦めずに彼の後を追って引き留めるのだろうか、とアイザックが考えた瞬間、ドン、と大きな音を立てて、航海長室の壁がビリビリと震えた。
カノンが外側から蹴ったか殴ったかしたのだ、と理解したのと、キャビンの扉が、バン、と荒い動きで開いたのは同時だった。
驚いて、中途半端に腰を屈めたままの姿勢でアイザックは動きを止めたが、そもそも、剣呑に足音を響かせて戻ったカノンにはアイザックなど眼中には入らなかったようだ。
眉間に皺を刻んで、悪態をつきたげに口元を歪めて部屋の中程まで進んで、カノンは、だがしかし、己の感情を鎮めるように天井を見上げて、ふーっと大きく長いため息をついた。
息ひとつで、壁を揺らした激しい感情を手懐けたのか、やや険を削いだ顔をしたカノンは、そこでようやく、ぐるりと部屋へ視線を巡らし、窓の傍で半端に屈み込んでいるアイザックを発見すると、再び険を表情に上らせた。
この場合、気まずいのは、盗み聞きが知れた己の方なのか、盗み聞きされていることに気づかず感情を乱した姿を見せた彼の方なのか。
何とも言えない微妙に軋んだ空気が漂う。
ただ、百人いたら百人ともが関わり合いになるのを避けるに違いない、明らかに不機嫌なオーラを纏わせているカノンの姿は、普段の、憎たらしいほど余裕綽々の彼よりよほど人間味があるように見え、おかしな話だが、彼に対して抱いていた敵対心と得体の知れぬものへの恐れは逆に薄らいだ。
全く隙のない、食えない男だと思っていたが、案外と人間らしいところがあるのか……?
少なくとも、別れの夜に初めて僅かな感情の揺らぎを見せるまで、何年も共に暮らしていて一切の私情を外に出すことがなかった師カミュほどは、己を完璧に律してはいない様子が伺える。
だとすれば、己を船上へ誘い出した見事なまでの手腕に警戒し、慎重に様子を伺い続けてきたが、必要以上に慎重になることはないのかもしれない。
アイザックは僅かの逡巡の末に意を決すると、窓から離れ、カノンへと数歩近寄った。
「成人の儀をすると聞こえた。氷河に、という意味だろう。何のためだ。氷河をどうする気だ」
一部始終を聞いていたことを隠しもせず正面から切り込んでみれば、果たして、カノンは苦々しげに、チ、と舌打ちをして、アイザックへ背を向けた。
「聞くな。俺は知らん」
短く吐き出したカノンの言葉はまるで拗ねた子どものようだった。
大の男が拗ねて背を向けるなんて。
なんだか氷河と喧嘩した時を思い出すぞ、と、アイザックはこの船へ来て初めて少し笑った。
意図せず親しみを感じてしまったせいだろうか。
それとも、ミロに簡単に言い負かされたカノンの姿に、まるで己もそうできると錯誤してしまったのか。
普段であれば、慎重に言葉を選んで距離を詰めたに違いないアイザックは、どうしたわけか迂闊にも、血の繋がりのない弟に他愛のない喧嘩をふっかけるのと同じに、拗ねた背へ、ことさら煽り立てる言葉を投げかけた。
「あいつが氷河に構うのがあんたにはずいぶん都合が悪いようだな。何かあるのか。氷河に……いや、違うな、あんたはもしかしたらあの船長のことが、」
いらぬ口を叩いた、と気づいた時には遅かった。
視界がぐるりと回って背中に激痛を伴った衝撃を受け、ぐぁ、とアイザックは呻いた。その呻きすら握りつぶさんと、床に縫い止めたアイザックの喉輪をカノンの片腕が締め上げている。
「……っ、ぐ、……ふぐ、」
バタバタと四肢を振り回してみても、たった片腕一本がふりほどけない。
喉をギシギシと締め潰されて、このままでは息が止まる。否、そうなるよりも早くこの怪力では首の骨が折れる。
死を覚悟する間すらもなく、意識が遠のいていくまで僅か数秒。
だが、完全に落ちる、その寸前で、喉輪を締め付けていた大きな手のひらは不意にその力を失った。
急激に血の巡りを取り戻した脳髄と、突然に肺に流れ込む新鮮な空気の刺激が強すぎて、アイザックは涙目となりながら、腹這いでげえげえと咳と嘔気が入り交じった呼吸を繰り返す。
だらりと口の端から垂れた唾液を拳で拭いながら、なぜ途中で止めたのか、カノンへ視線をやったが、なんの感情もなくアイザックを見下ろす彼は、もういつもどおりの鷹揚としたカノンだった。
「………………………ず、図星かよ」
ろくに息も整わないうちから、再びそう煽ってみたのは、今度は意図的にだ。
人間、乱れた感情が完全に凪ぐまでにはそれなりに時間を要するものだ。凪いでいないうちは、小さな刺激で簡単に再び波立つ。波立てば波立つほど、弱みを握る隙ができる。好機を逃してはならじと、アイザックは果敢に踏み込んだのだ。
だが、カノンはアイザックの揺さぶりに、薄く笑って、何のことだ、と言って立ち上がり、乱れた白金色の髪を無造作にかきあげただけだ。
これで内側に波立つ感情を隠しているというのなら、その秘匿はあまりに完璧だ。一瞬であれほど波立った感情を平らかにしたのならなお完璧だ。
もう隙などないように見えるが、アイザックは諦めきれず、なおも食い下がった。
「特別な理由がないのなら、あんな無茶苦茶な男に従う必要なんかないだろ。あの男よりあんたの方がずっとまともだ。あんたほどの男が一言言いさえすれば、ほかの奴らだってみんなあんたについていくに決まっている」
カノンがまともかどうかなどこの際どうでもいいし、ミロ以上に人望があるかなど知る由もない。
にも関わらず、薄っぺらい空世辞を口にしたのは、彼の弱点らしき弱点が、何らかの含みが見え隠れするミロとの関係、それだけしか見えないからだ。また動揺してでもくれればもうけもの、あわよくば、海賊同士で仲間割れでもしてくれれば万々歳だ。
だが、さすがに見え見えだったのか、カノンは、その手には乗らん、と憎いほどの余裕を頬に貼り付けて、人の食った笑みを浮かべた。
そこまで甘くはないらしい。
かわいくない奴、とアイザックが肩をすくめれば、カノンはお前もな、と同じ仕草で返した。
「思ったよりふてぶてしいな、お前は。殺されかかったというのによくそんな口がきけるものだ」
「別に。あんたなんか怖くない」
「死を恐れていないという意味か?」
「そういう脅しは、あんたが俺を殺せるなら有効かもしれないが、そうじゃあない。どうせあんたにもあの男にも、俺も氷河も殺せやしないんだ。それどころか、死なれては困る事情がある。そうだろう」
怪我ですめばよいが万が一のことでもあれば、と、カノンはやけに氷河が死ぬことを恐れているようだった。苛立ち紛れにアイザックを縊り殺してもおかしくない場面でもギリギリのところで引き返した。
はったりだけで突きつけた台詞ではない。
合理的根拠に基づいたそれはほとんど確信だった。
だが、口にした瞬間にアイザックは猛烈に後悔する羽目になった。
ほう、と、カノンの深海色の瞳が冷たい光を放って細く眇められた。室温がすうっと下がるような背の寒さを覚えて、アイザックは知らず総毛立っていた。
カノンがアイザックの方へ一歩近づく。感じたことのない威圧感に、思わず後ずさりたくなるのを、アイザックは冷や汗を流しながらかろうじて堪えた。
「よく気づいたな……と、誉めてやりたいところだが、切り札を早々に晒すあたりはまだ甘いな」
と、カノンが、アイザックの後ろ髪をぐっと掴んで強引に上向かせた。
「……っ」
先ほど締め上げられたばかりの頸椎がその急な動きで鈍く痛んだが、僅かでも恐怖を見せれば、再び、カノンにいいように支配されてしまう。退くわけにはいかなかった。
やってみろよ、とばかりにアイザックは強気で睨みつける。
カノンはしばしそれを無言で見つめ、そして、不敵に唇を歪めると、身を屈めてアイザックの耳元で囁いた。
「殺せはしないが、犯すことはできる」
意味を理解するより早く再び視界が回ってアイザックは背を床に強かに打ちつけて呻いた。
カノンの体躯がアイザックの動きを封じるように圧し掛かる。
「お前がそう出るなら、二度と生意気な口が叩けぬよう教え込むしかあるまい」
「……こ、の、下衆野郎……!」
「誉めたり貶したり忙しいな、お前は」
喉奥で笑って、カノンの手のひらがぐっとアイザックの急所をもみ込む。握りつぶされそうなほどの強い力でありながら、やけに艶めかしく動き回る指先に、アイザックの額に玉のような汗が浮かぶ。
「案ずるな。傷一つつけずに終わらせてやろう。お前の推察どおりだ。『死なれては困る』んでな。まあ、違う意味で天国は拝める。痛い方がマシだったと泣く羽目にはなるかもしれんが、自分で蒔いた種だ、悪く思うな」
「……くっ……ぁッ」
こうなる事態は想定していなかった。
否、連れ去られてきて数日は実のところ、警戒はしていた。だが、一向にそれらしき気配も見せず、アイザックに興味すらないかのようなカノンの態度に、彼の中には全くその選択肢はないのだと油断していた。
油断───否、信頼、していたのかもしれない。それを信頼と呼ぶのはおかしな話かもしれないが。
彼が剣を持つときの躊躇いのなさから、はっきりそうだと言いはしなくとも、何人もの人間を殺してきたであろうことは明白で、だが、なぜか、更正不能な悪党とも思えなかった。
人間の尊厳を奪い、貶めるためだけにそういう下衆な手段を取るような真似はしないのではないか、と。何か事情があって海賊に身を窶しているだけで、本来の性質は悪人ではないのだ、と。
そう、思っていたのに。
海賊はやはり海賊で、人を傷つけることを何とも思わない輩でしかない、ということか。
相手の非道さを読み損なって、焦って、必要以上に踏み込みすぎたのは、完全に自分のミスだ。
こうなってみれば、アイザック自身に欲情もしないくせに、躊躇いなく犯すと言える男の冷たさが恐ろしい。
カノンの手が、アイザックのズボンの合わせ目にかかった瞬間には、隠しようもなく全身がビク、と戦慄いた。
だが、そのときだ。
航海長、とカノンを呼ぶノックの音が響いた。
「キャプテンがお呼びです。始める、と」
カノンは応えずに黙ったままだ。
だが、動きは止めた。
「航海長……?」
水夫の声が扉のあたりで左右に揺れる。
甲板から、ざわざわとした喧噪が風に乗って届き、水夫が扉を叩く音がだんだんと大きくなってゆく。
「……へんだな……航海長ー?」
水夫の声に不審な色が混じる。立場上、勝手に扉を開けることはできないだろうが、在、不在を確かめるために、キャビンの丸窓をのぞき込むくらいはしそうな風情だ。
カノンはどうするつもりなのか。
檻のようにアイザックを閉じこめる長い髪が光を遮り表情はよく伺えない。
「航海長?ご不在ですかー?」
何度目かの呼びかけの後に、不意に、アイザックの四肢を束縛していた重みが、ふっと失われた。
慌てて身を起こして後ずさったときには、既に立ち上がって扉を開いたカノンが、今行く、と短く水夫に応えたところだった。
安堵の気配をにじませた水夫が、キャプテンが航海長に立会人を、と、と伝えている。
「わかっている。すぐに行こう」
そう言ったくせにカノンは、水夫の背を見送っておいて、船室の中へと戻ってきた。
そして、壁に阻まれてそれ以上後退できなくなるほど後ずさったアイザックに向かって、お前も来い、と手を差し伸べた。
手なんか。
今更、紳士よろしく差し伸べられたところで、取れるはずがない。
ふるふると首を振ったアイザックに、カノンは少しだけ困ったように眉を下げて、だろうな、と肩をすくめ、そのままアイザックに背を向けて一人でキャビンを出ていった。
バタンと扉が閉まり、丸窓の前を白金色の髪が横切るのを見送るや否や、アイザックは両手で顔を覆って、深く息を吐いた。
顔を覆った両手の指先が小さく震えている。止めようとすればするほど震えは大きくなり、くそ、とアイザックは呻いた。
カノンが恐ろしかった。
だが、それ以上に、カノンに裏切られた、と感じた自分に衝撃を受けていた。
経緯はどうあれ、攫われてきた身だ。軟禁され、いいように操られ、裏切るも何も、元々、信頼関係などそこにはありはしなかった。なのにひどくショックだった。自分がショックを受けている、という事実がまたアイザックを打ちのめしていた。
だが、もっともアイザックを打ちのめしていたのは───
カノンは、もしかしたら、水夫がすぐに己を呼びにくるだろうことを知っていたのではないか、と。
こと、ここに至っても、未だ彼にそういう妙な信頼を寄せてしまっている自分がいることに対して、だった。
「わかっている」と答えていた。立会人が必要になることをカノンは知っていた。務めるとすれば己だということも、氷河を呼びにいったミロが、日が暮れきる前にすぐに始めたがるだろうことも。
───だから?
だから、どうだって言うんだ。
あれが、途中で引き下がること前提のただの脅しだったからと言って、カノンが悪党ではないのだという証になどなりはしない。氷河を、アイザックを攫って未だ解放しようとしていない、そのことそのものが既に非難されるべき罪だ。
奴は海賊だ。
それも、氷河の母を殺した蠍の一味だ。
絆される余地などどこにもない。
なのに、なぜ、差し伸べた手をアイザックに拒絶されて眉を下げた表情がこんなにもちらつく。あんな、傷ついた、みたいな表情、こっちがしたいくらいなのに。