寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ⑧◆

 扉の向こうで、古びた木の床がギシギシと軋んで音を立てた。
 もう巡視の時間か、と氷河は扉の外の気配を探る。
「氷河番」はずっと船倉の扉の前に立っているわけではなく、不定期に船倉をのぞいては、氷河が確かにそこにいることを確認してまた持ち場に戻っていくのが常だ。
 ただ、マストを登ってみせたことが災いしたか、巡視の頻度はやたらと増えた。と、言っても、警戒を強められたわけではない。好奇心を刺激したのだ。入れ替わり立ち替わり、毎度毎度新しい水夫が見回りと称して氷河の顔を見に来るようになってしまい、煩わしいことこの上ない。
 必要最低限のやりとり以外、氷河が相手をすることはないのだが、よほど娯楽に飢えてでもいたのか、氷河(クールビューティ)を笑わせたら勝ち、という実にくだらない賭けまで登場している始末だ。
 低俗な遊びは、誰も勝者がいないまま、レートだけが日に日につり上がっているが、氷河の歓心を得たいばかりに、巡視時間を教えてむざむざ脱走を許してしまう奴もいるあたり、あまり賢い遊びとは言い難い。
 
 船倉の前を足音が素通りしていくのを確認して、氷河はふーっと息を吐き、座り込んだ床の上へ広げた羊皮紙に再び視線を落とした。
 ざらついた紙の上にはこの船内部の見取り図が描かれている。
 氷河が描いたのだ。
 海賊の油断を誘うために始めた脱走劇だが、ただ無闇に遁走だけしていたのでは芸がない。
 脱走のたび、密やかに船内の観察を繰り返してきたおかげで、今では船体の構造までもすっかりと把握するまでになっていた。
 さすがに船内くまなく見て回れたわけではないが、火薬の臭いを纏わせた水夫が次々に上ってきた梯子の下に位置しているのは砲台だろうと推察できたし、白いエプロンとコック帽を被った男が出てきた扉の向こうにあるのは炊飯場と見ていい。確証がなかったとしても、氷河を賭けに使っている男たちにそれとなく尋ねれば、答え合わせも簡単だ。
 今や上甲板の船長室付近をのぞいては、船体の見取図はほとんど完成に近づいている。

 見取図を書き付けるための羊皮紙やペンは、幾度目かの脱走の時に拝借した。
 と、いっても、貸してください、と言って捕虜に簡単に与えられる代物ではない。要はこっそりくすねてきたのだ。
 剣は握ってもペンを握ったことがない輩も多いこの船上で、そうした類のものが存在する場所は限られている。
 船長室や航海長室なら紙だろうとペンだろうと不自由していないのはわかりきっていたが、迂闊に近づける場所ではないし、近づきたくもない。ミロの姿がチラとでも見えたなら、氷河は彼に背を向けて自ら船倉に戻ることにしている。マストの時の二の舞を踏んで、彼にいいように弄ばれるのはもうごめんだった。
 だから、氷河はそれを「ドク」の部屋で手に入れた。

 彼は、海賊どもとは一線を画す異質な存在だった。
 まずもって、容貌からして、この船に全く似つかわしくない。
 肩のあたりで緩く結わえた長い髪に、丸眼鏡、常に何かしらの分厚い書物を片手に、海辺訛のない上品な言葉遣いをする、海賊というより宮廷の学者とでも言った方がふさわしい姿形をしている年若い男だ。
 力仕事をまるで割り当てられていないのか、海上暮らしにしては肌も日に焼けておらず、淡い榛色の瞳といい、特徴的な引眉といい、どこかオリエンタルな雰囲気が漂っている。
 だから、初めて彼を見たとき、氷河は、己とアイザックのほかにも異国からさらわれてきた人がいたのか、と驚いた。
「あれは……?」
 例によって脱走して、追いかけてきた水夫に捕まって連れ戻されながら、氷河は今し方すれ違ったばかりの男を振り返って思わず問うた。
 水夫は、怪訝そうに氷河の視線を追い、
「あれって……ああ、ドクか」
と、なぜか眉を潜めて言った。
「ドク?」
「この船である意味一番恐ろしい人だ。逆らうと痛い目にあう。逆らわなくても痛い目にあう」
「痛い目?」
「ああ、痛みで気を失ったのは初めてだった。二度とドクの世話にはなりたくねえ。……まあ、でも、いないと困るしな。と、いうか、ドクはそもそもキャプテンと同じで、」
 折悪しく、そこで船倉の入り口に到達してしまった。氷河を押し込むべき船倉にたどり着いて初めて、会話の相手が捕虜であることに気づいたのか、放っておけば何でもべらべらとしゃべり続けそうだった懐こい水夫は、中途半端に会話を途切れさせたまま、落ち着かない様子で扉を閉め、まあ、あれだ、お前もドクの世話にならないよう気をつけろよ、とだけ言い置いて、逃げるように去っていった。
「そもそもミロと同じで」……?
 何が同じだというのか。
 海賊になった経緯?
 何か利害を共有?
 それとも、船長であるミロと立場が同じだとでも?その割には水夫たちに混じって下層の船倉をうろうろしているのが解せないが。
 どういう人物なのかは探り損ねたが、彼は捕虜などではなく、正真正銘、海賊の一味であるらしい。
 全く、全く、それらしくは見えなかったにもかかわらず。

 その、異質な存在、ドクの部屋へ忍び込むチャンスが思いがけずやってきたのは、それから数日後のことだ。
 氷河はそのとき、中甲板の娯楽室、狭く埃っぽい戸棚の陰に隠れて、酒を煽りながらカードゲームに興じている水夫たちの会話に聞き耳を立てているところだった。(もちろん脱走中の出来事である)
 干した芋にも魚にももう飽きた、肉が食いてえ、だとか、女を抱きたいもう幾月もやってねえだとか、実のない会話に、本日は収穫なし、見つかる前にそろそろ船倉に戻ろうかと思っていた矢先に、見覚えのある男が姿を現した。
 確かあれは「ドク」だ、と氷河が気づいたのと同時に、微酔いの水夫が、手にしたカードをひらひらさせてその男に声をかけた。
「ドクもやらないかい?少しくらいの時間ならあるだろ?」
「この間、泣きを見たばかりでしょう。二度とドクは誘わねえって泣いていましたよ、あなた」
「負けっぱなしは性に合わねえ。借りを返すチャンスをくれてもいいだろう」
「引き際がわからず借りを増やすのは賢明とは言えませんがね」
 そう言いながらも、彼自身、娯楽を求めて立ち寄ったのだろう。ふふ、と笑いながら、ドクは椅子を引いて空いていた席へと腰掛けた。
 氷河の心臓はその成り行きにドドッと鼓動を早めた。
 もしかして、これはチャンスか……?
 ドクは左の通路から現れた。確か、そちら側は行き止まりになっていて、つきあたりにひとつ部屋があるきりだ。ドクはその部屋から出てきてこの娯楽室に入ったと見るのが自然だ。
 その部屋を探れば、何か重要な情報のひとつやふたつ得られるのではないか。
 娯楽室には障害物が多く、身を隠しながら通路に出ることは可能で、通路までたどり着けさえすればその部屋まではすぐだ。
 そして何より、少なくともゲーム一回分の時間、ドクがその部屋に戻らないことは確実だ。
 部屋が今無人だということに賭けてみる価値は───多分、ある。
 決断は早かった。
 氷河は音を立てないように慎重に後ずさってその場を離れた。
 脱走を見つかっても今のところせいぜい食事を抜かれるか、少々手荒に扱われる程度で済んでいる。だが、それは、うろつく先を慎重に選んでいるからだ。そこがどんな類の部屋であれ、内部に入り込んでこそこそ探りたてているのを見つかれば、さすがに今までのようにはいかないだろう。
 一歩歩みを進めるたびに、全身が心臓になったかのように激しく脈打ったが、幸いなことに、つきあたりの部屋に到達するまで誰にも見つかることはなかった。
 氷河は大きく息を吐いて、木の扉に耳をつけて中の音を探る。
 無音だ。
 波が船体を打つ音と娯楽室の話し声が反対の耳に届くばかりで、部屋の中で何かが動く気配はまるでしていない。
 長くこうしていても仕方がない。
 ままよ、と氷河は思い切って、重い扉を引いてみた。
 キィ、と蝶番が軋み、一瞬、背がヒヤリとしたが、部屋の中から咎める声があがるでなく、娯楽室から響く話し声も特に途切れた様子はない。
 ほっと息を吐いて、氷河は、薄く開いた扉から背を低くして体を滑り込ませた。
 そして、様子を探るべく部屋の中に視線をやって、氷河は思わず、えっと小さな声を漏らした。
 無人ではあった。
 が、想像とはずいぶん違う光景が広がっていた。
 彼の風体からして、この部屋は、航海の記録をつける書斎のようなものではないかと推察していたのだが。
 書棚はある。書き物机も。
 加えて、狭い空間ながら、ベッドまであって、つまりこれは、執務室を兼ねたただの私室だ。私室が与えられるということは、この船における地位はそれなりに高いことを意味するのだが、それよりも、これは……この部屋は……いったい、何だ?
 すぐに戻るつもりなのだろう、低い天井につるされたランプは火がついたままで、ゆらゆらと揺れる炎が、床の上へ所狭しと積み上げられた本を照らしている。
 なぜ床の上へ書物が積まれているのかといえば、本来、それらが収まっているべき書棚には、ガラス瓶が無数に並んでいるからだ。波で揺れても倒れないための工夫なのだろう、書棚には、後から作ったらしき、瓶の大きさに合わせた十字型の仕切りが取りつけられている。
 ガラス瓶の大きさも色も様々で、何かの液体や粉末、乾燥させた植物や、干物のような(形からして蛙や蛇だろうか)ものが入っているのが見てとれる。
 書き物机は、といえば、本来の目的に必要な羊皮紙やペンも乗るには乗っていたが、それらは隅の方へ追いやられ、代わりに主役顔で並んでいたのは、何十本もの細く鋭利なナイフだ。
 それだけではない。
 刃のない鋏のような形状の器具、すり鉢、蝋燭、拘束具らしき鎖状のもの……極めつけの石灰質の小さな白い物体は───見間違いでなければ人間の歯に見える。それもたった今抜かれたかのように生々しく血がついた。
 部屋の最奥に追いやられているベッドのシーツにも同様の赤いものがまるで飛沫のような模様を描いていて、何より、湿度の高い空気の中には、鉄が錆びたような臭気(紛れもない血の臭いだ)が漂っていた。
「痛みで気を失った」「一番恐ろしい」という言葉が脳裏を過ぎって、氷河の背へ冷たいものが流れる。

 これは、拷問の跡なのか……?

 残虐さを喚起する生々しい血の臭いに、幼い頃の酷い記憶がどっと甦って、氷河の呼吸が激しく乱れる。
 血だまりに倒れ伏した船長と、毒針を振り上げた大蠍の姿───
 無意識に後ずさった足が当たったのか、氷河の足元で積み上げられた本の山がバサバサと大きな音を立てて崩れた。
 息を呑んで、慌てて屈み込んで拾い集めようとしたが、掴んだ本を何度も取り落とすほど手が震えていて、一向に元通りに積み上げられない。
 その場にとどまり続けることは、得策ではないように思われた。身構えることなく襲い来たトラウマに血の気は引き、冷静さと程遠いところに心はある。いつもなら、大丈夫だ、と氷河を落ち着かせてくれる、師もアイザックもここにはいない。僅かでも頭がまともに働いているうちに、判断することを迫られていた。
 額に浮かんだ冷や汗を拭い、氷河は視線を左右に巡らせながら立ち上がった。
 今は退くべきだ。
 だが、せっかく得たチャンスに手ぶらでは帰れない。逃げ帰るにしても、せめて何か一つ拝借していかないことには。何かないか、何か───
 身を守るため、書き物机の上に並べられたナイフを手に取りたい衝動に駆られたが、寸分の狂いなく刃先が同方向に揃った隊列はあまりに整然としすぎていて、一本たりとも欠けることを許さない危険な空気を醸している。
 一つ、二つ消えていてもすぐには気づかれなさそうなもの……あの、中身が何かもわからぬ小瓶のどれか?それとも、本?退屈しのぎには使えそうだが───いや。
 紙、だ。
 乱雑に重ねられた羊皮紙は、いくら几帳面な人間であろうとさすがに何枚あったかまでは数えてはいまい。
 情報伝達にも共有にもきっと役に立つ。
 そう判断するや否や、書き物机の上の束から、氷河は数枚だけ羊皮紙を抜き取った。
 羊皮紙をシャツの背へ隠しながら、同じように羽ペンを一本取り上げた瞬間、遠くの方で「また逃げられた!」という声とともにバタバタと走り回る足音が響いた。
 氷河がいないことに見回りの水夫が気づいたのだ。
 慌てて氷河はシャツの裾を下ろす。
 インク壷までは拝借できなかったが、代用はいくらでも見つかる。
 まずは一刻も早くここを出なければ。うまく足が動いてくれればいいが。
 そう思って振り返った瞬間───扉を開いて、驚いた表情を浮かべた「ドク」と目が合った。
「………っ!」
 驚きならドクの比ではない。
 肩が跳ねるほど戦慄いて、氷河は大きく息を呑んだ。
 だが、氷河の喉奥で迸ったものが悲鳴となるよりも、ドクが驚きから脱して状況を飲み込む方が早かった。まるで戦士のような俊敏さで部屋へ一歩踏み入れたドクは、今まさに音を発しようとしている氷河の口をその手のひらで塞いだ。
「……っ、~~~っ!」
 強引に声を奪われたことで、驚きは恐怖へと爆ぜた。
 咄嗟に腕を突っ張って逃げようとしたが、読まれていたのか、彼は、空いた方の腕で氷河の体を胸に抱くように押さえつけた。
 力仕事と無縁の細身の体格に見えたのに、こうして間近で見ればミロと同じくらい上背はあり、その上、氷河を押さえつけている腕も、密かに鍛えてでもいるのか均整のとれた固い筋肉が覆っている。ぎりぎりと締め付けを増す男の腕は、多分、このまま氷河の背骨を折れるくらいの力を持っている。
 彼が現れる前から既に冷静さは危うかったのだ、激しい恐慌状態に陥いるには十分だった。
「んーっ!んんーっ!」
 逃れようと四肢をバタつかせて身をよじっていたとき、廊下から、バタバタとした足音と共に、「ドク!氷河を見ませんでしたか!?捕虜です、あの、キャプテンの、」と水夫の声が響いた。
 思わず、天の助けだ、と氷河は声の方角へすがるように顔を向けた。
 誰が敵で誰が味方か見失うほど、目の前の男と、充満する血の臭いが恐ろしかった。
 だが、ドクは、捕虜ならここにいますよ、と、水夫へ氷河を引き渡すどころか、信じ難いことに、廊下へ顔を傾け、
「わたしは見ていませんよ!」
とよく通る声で返して、後ろ手でパタリと扉を閉めた。
「ふふ、これでわたしも脱走の共犯だ。……あなた、少しの間、暴れずいい子にできると約束できます?」
 にっこりと氷河に向けた笑みは柔らかなのだが、氷河はもうほとんどパニックだった。
「……っ、………っっ!」
 首を振り、身を捩って、氷河はめちゃくちゃに四肢を振り回した。
 ドクがそれに堪えた様子は全くなく、やすやすと氷河を片腕で押さえつけたまま彼は目を細めて、とてもいい子にはできなさそうですね、と嘆息した。
「わたしはミロやカノンほど甘くはありませんよ。あなたが大人しくしないなら、不本意ですが、従順にさせる手段を取るまでです。……いいですか、離しますよ」
 ドクはそう言いながら不意に氷河の拘束を解いた。
 解かれてすぐに動けなかったのは、解放があまりに不意だったのと、従順にさせる手段とはなんだ、と、一瞬、恐慌状態から我に返ったせいだ。
 だが、一瞬だ。
 逃げなければ、とすぐに氷河が扉へ飛びついたのを、だが、ドクの腕が腹に巻き付いて制止する。
「あなたの愚かさを矯正するためにアイザックの指を一本ずつ切り落とすような真似は、流石にしたくありませんからね」
 耳元でそう囁かれ、な、と氷河は絶句した。
 ドクが、硬直して動けなくなった氷河の顎へ指をやって己へ向かって顔を上げさせる。
「世間知らずの公子様には想像も及びませんでしたか?あなた自身を痛めつけるより、よほど手っ取り早くあなたを従順にさせる手段を我々は持っている」
 だからいい子にできますね、と幼子に言い含めるように念押しをされ、氷河は呆然と立ち尽くした。
 一度に吹き出た厭な汗がこめかみを伝い、呼吸は荒く、なのに身体は凍えたように動かない。
 俺のせいでアイザックが……
 彼の姿が船内のどこにも見えないのは、もしかして、俺の代わりに酷い目に遭っているからなのか。
 血の臭いが厭な想像に拍車をかけ、目の前が真っ暗になって、意識を保っているのが難しい。
 命など惜しくない。
 母の仇を討てるなら、己の命と引き換えにしてもいいと本気で思っていた。
 だが、自分の行動の結果がそんなふうに他者にもたらされるとなると話は別だ。
 すっかりと凍り付いた氷河の頬にドクの手が触れ、まるで電流でも流されたかのように氷河の肩がビク、と跳ねた。
「ああ、瞳孔がすっかり開いてしまった……ふ、ふふ、少し効き過ぎましたか」
 ドクは肩を揺らして笑い、冗談ですよ、と氷河の肩を叩いた。
「そうすることもできる、という事実確認をしただけです。本当にそうするつもりなら、あなたが逃げ出した最初の晩にとうにアイザックは腕を失っていたでしょう。ミロは少々甘いところがありますから、そうはしなかったみたいですがね。………なんです、そんなに青い顔をして。冗談ですよ、これも。ちゃんと腕が二本ついている彼に確かに会ったでしょう」
 ドクはくすくすと笑っているが氷河は笑うどころではない。
 どこまで本気でどこまで冗談かわからない。冗談だ、と言うその言葉がそもそも嘘かもしれない。
 ただ、嘘か本当かはどちらでも同じだった。
 彼らはいつでもそれを本当に実行することができるのだという事実を突きつけられたことは、氷河自身の腕を落とされるより、よほど牽制に有効だった。
 さて、それではこちらにどうぞ、と、ドクに促されても、氷河は促されるままに血飛沫残るベッドへと動くしかなかった。
 情けなく震えて、青い顔でゴクリと喉を鳴らしておそるおそるベッドの縁へ腰掛けたた氷河に、そんなに心配しなくても取って食いはしませんよ、とドクは苦笑した。
「その様子ではわたしのことはまるで覚えていないようですね」
 過去に会ったことがあるようなドクの口ぶりだが、氷河の記憶に彼の姿はない。こんな恐怖を味わって忘れるわけがない。
 困惑している氷河に、最低限必要な説明もしないなんてミロもミロだ、と、ドクはため息をついた。
「あなたは高熱にうなされていたのだから覚えていないのも無理からぬことですが……まあ、元気になったようでよかった。マストを上る無茶をするほど元気になったのは想定外でしたが。ですが、少し診させてもらいますよ。ここでは些細な体調不良も命取りですから」
 そう言って、ドクは、氷河の首のあたりを両手で押さえたり、瞼をひっくり返して眼球をのぞき込んだりし始めた。
「……ん、黄疸も出ていない。リンパも正常。肉も少しは戻りましたね。ちゃんと食べているようで結構。おかしな痣も傷もなし、と。あとは……口を開けてみて。……OK、自分で開けないならこじ開けます……ああ、お利口でよろしい。うん、喉もよし。顔色が酷く悪いのが気になりますが……まあ、これはわたしのせいでしょう」
 どんな拷問が始まるのか、と腹を括っていた氷河はあっけに取られて事の成り行きを見守った。
 健康観察をされているように見えるがこれは……
 風邪をひいた後やひき始めに、師やお抱えの医者がよくこうして氷河やアイザックを診てくれていた。彼がしているのはあれにとてもとてもよく似ている。
 氷河の疑問に応えるかのように、ドクが、よろしい、健康です、と言って顔を上げた。
「…………あー……、ドク、というのは、つまり医者(ドクター)……?」
 混乱の極みにあった氷河が、その結論にたどり着いたのは上出来だったと言わざるを得ない。
 だが、ドクは、ほかに何だと思っていたんです、一目瞭然でしょう、と、呆れたように両手を広げて部屋を指し示した。
 医者、だったのか。
 それで……
 氷河は気まずく黙り込んだ。
 まさか血の臭いに動揺して拷問部屋だと誤解したとは言えない。ここが海賊船の中であるという先入観があったにしても、幼いころのトラウマに我を失っていたのにしても、冷静になってよく観察すれば、どれもこれも、医療器具や薬としてお抱え医師の部屋に並んでいたものばかりだ。
「まあ、もともとは博士(ドクター)の方でしたがね。見よう見まねで調合した薬がたまたま利いたものだから、今や、傷の縫合も抜歯もなんでもわたしのところにやってくる。簡単に医者へかかることのできない洋上では、音が同じ、という冗談みたいな理由で博士が医者も務めるのです」
「博士……?嘘だ、本当に博士だったなら、海賊船になんか乗っているはずがない……」
「おや、救った恩も忘れて偽物扱いとは酷い」
「救った……?」
「意地を張って熱を出して倒れたでしょう、あなた。ほとんど命を危うくしていたあなたに薬を調合したのは誰だと思っていたのです。ミロは何でもこなす器用な男だが、さすがに病理学の知識はありませんよ。もっとも、意識もないくせに頑なに口を開けないあなたに、薬を飲ませたのは彼ですがね。どうやって飲ませたか、詳しく説明しましょうか」
「………………す、救ってくれと俺が頼んだわけじゃない」
「ええそうですとも。絶対にこいつを死なせるな、と必死だったのはミロでした。あなたではなかった、確かにね」
 ドクが何を言っているのかわからない。
 全く消化しきれない。
 蠍は母の仇だ。
 氷河を無理やり攫ってきた蛮賊だ。
 なのに、なぜ、その当の蠍が己の命を救うのに必死だった話を聞かされているのか。
 ───いや、騙されてはいけない。
 ミロがそれほど必死に己を看病したというのも、この男が氷河の命を救ったというのも、全部全部、嘘に決まっている。アイザックの名を持ち出して冗談とも本気ともつかない脅しで氷河をいいように操ろうとする奴らの言うことに耳を貸してはいけない。
 そもそもこの男が博士である証拠などどこにもない。本当に博士の称号を持っていたなら、下手をしたら陛下の近衛よりよほど重用される立場だ。海賊船になど乗っているわけがない。
 薄い皮膚から血が滲むほどきつく唇を噛んで、ドクを見上げれば、彼は、頑なですね、と苦い笑みを頬に張り付けた。

 ひとつ聞きたいのですが、と、ドクは書き物机の前にゆっくりと移動して、机にもたれるように軽く腰掛けた。
「なぜそんなに海賊を憎んでいるのです。我々が忌み嫌われる存在であることは間違いはないが、あなたのその頑なさは義憤のそれじゃない。過去になにか海賊と関わりでも?」
「………俺こそ聞きたい。なぜ人の命を救ったのと同じ手で、人間の命が奪えるのか。一人二人救っても、それ以上の命を奪っているなら神は貴様たちを許さない」
 問いに対して問いで答えた氷河を、ドクは静かに見つめた。
「奪った命の多寡で魂の行き先が決まるなら、わたしもミロも間違いなく地獄行きとなるのでしょう。今更神の傍へ呼ばれるなどとは思っていませんよ」
「……開き直りか」
「いいえ、覚悟です。この道に生きると決めたときから、愛するものに看取られて死ぬような人生は捨てました。いつか自分が命を奪った人間の息子に、娘に、母親に、後ろから斬られても文句など言えた義理ではない。ミロもきっと同じでしょう」

 俺が、その、息子だ。

 七年前、お前たちに母を殺されて、敵討ちだけを胸に生きてきた人間がまさに今目の前にいるぞ、と言ってやったら彼は何と言っただろう。
 そして、蠍は───ミロは、何と言うだろう。
 仕方ない、これも因果だ、と大人しく首を差し出してくれるだろうか。
 そんなはず、ない。
 物の因果を理解しているような人間が、あんな、あんな酷いことができるはずがない。
 ほとんどが女と子供ばかりの船だった。
 助かった命は氷河を含めてほんの僅かだ。ほとんどの命は失われた。たいして金になるわけでもない荷と引き替えに。
 その因果が己の身にどう巡り来ても受け止めると、その覚悟があると……?
 俯いて、言葉を発しなくなった氷河をしばらく見下ろしていたドクは、ふ、と息を吐くと扉へ向かって歩み寄り、取っ手へ手をかけて振り返った。
「さあ、そろそろお戻りなさい。あなただけならずっとここに置いてやってもいいが、ミロに通ってこられてはわたしも煩わしい。だが、覚えておきなさい。蠍はあなたの手に負える相手ではない。海賊を憎む理由が特別にないのなら、大人しくしておくことです。下手に動けば後悔することになりますよ。いいですね。忠告はしましたよ。何かあれば短慮を起こす前にわたしに……ああ、そうでした。まだ名乗っていませんでしたね。わたしの名はムウ。ドクでもどちらでもお好きなように」
 そう言って、ドクは───ムウは扉を開いて、どうぞ、と氷河を柔らかな、しかし問答無用の仕草で外へと押しやったのだ。
 
 
「海賊を憎む理由が特別にないのなら」───?
 氷河は羊皮紙に視線をやったまま、拳を握りしめた。
 ムウとの会話はあれ以来消化不良の塊となって氷河の胸のあたりにずっとつかえている。
 理由なら存分にある。
 因果を受け止める覚悟があるなら、俺が、母の仇を討っても彼らには文句が言えないはずだ。
 だが、何だろう、この違和感は。
 彼らを知れば知るほど、わからなくなる。
 こいつは蠍だ、母の仇だ、という思いを強くすることもあれば、本当にあのときの蠍なのだろうか、と迷う瞬間もあって、どう気持ちを定めておけばよいのかわからない。
 正直、蠍のことは、自分と同じ、血の通った人間だとは思ったことがなかった。
 記憶は途切れ途切れだが、殺戮そのものを楽しんでいる姿は物語の中の化け物そのもので……だから、躊躇いなく、化け物の心臓に剣を突き立てる自分を何度も何度も想像した。
 だが、自分の目で見る海賊たちは話の通じない化け物などではなく、まるで普通の人間のようで、美しい海を見つめて子どものように目を細め、捕虜の命が危ういとなれば己のベッドを明け渡してまで救い、船長と部下とは信頼関係で結ばれて───
 ああ、いけない、と氷河はぶるぶると首を振った。
 どうかするとすぐにこんな風に奴らの術中に陥ってしまう。
 何人もの命を奪ってきたことをムウは悪びれなく認めていた。どんなに人間らしさがあったところで海賊は海賊だ。
 そして、母は海賊に殺された。
 その事実を、決して決して忘れてはいけない。
 
 ただ───
 氷河の、強固なその怒りと悲しみを脇に置いておくにしても、まだ違和感は残る。
 おかしなことに、ムウは、氷河と蠍の繋がりを知らないようだった。
 時間がたって考えれば考えるほどそこが釈然としない。
 なぜ、何年もの間、船ばかり襲ってきた蠍が、今回に限り、陸に上がり、田舎領主の跡取りを生かしたまま攫うことにしたのか。手当たり次第に攫ったわけではない。ミロは、氷河を氷河だと認識した上で船上へ連れ去った。
 どこかへ売るのが目的であればもっと高値がつく標的を選ぶはずだ。非力な女性の方が扱いだって楽なはず。
 光政卿の海賊討伐に対する牽制だというのなら、殺せばすむ話で、わざわざ追って来させるようにし向けるのは道理に合わない。第一、都の海軍はじめ、国を挙げて蠍の討伐に動いているというのに、一領主だけが狙われたのが解せない。
 だからこれは、氷河が、七年前の襲撃の生き残りだと知って、悪趣味に弄ぶことが目的の拐かしだと思っていた。
 商人上がりの領主という異色の経歴から、光政卿の後継の行方は注目を浴びていた。
 海上暮らしの奴らの耳に届くほど話題に上っていたとは思えないが、それでも、政治的に利用されていた「海賊に母を奪われた」という氷河の経歴がもしも耳に届けば、気まぐれを起こす理由くらいにはなるかと思っていたのだが。
 その事実を彼らが知らないならば、何故、氷河だったのか、という理由がまるでなくなってしまう。
 一体、氷河とアイザックをどうする気なのか、目的がまるでわからない。
 氷河一人の情報では答えは到底出そうにない。
 アイザックは何か情報を得ただろうか。
 少しでいいからアイザックと接触して情報を分かち合いたいのに、彼が閉じこめられている部屋だけがどうしても見つけられない。
 こうまで見つからないと、冗談に紛れさせたムウの脅しが真実味を帯びて迫り不安が募る。
 船の見取り図はもうほとんど完成していて、そのためだけに脱走をする必要はなくなっているが、アイザックの居場所がわからない以上、船倉に閉じこもってただ待っていることもできない。
 
 よし、と本日の脱走を決意して、広げていた羊皮紙を丸め、ペンと一緒に、空樽の隙間に隠そうとした瞬間だ。
 トン、と軽いノックの音が空気を震わせた。
 ハッとして氷河は扉を振り返る。
 巡視の水夫にはノックをしてから扉を開ける、などという紳士的な真似をする奴などいない。
 聞き間違いだろうか、と、身を固くしながら、それでも手にしていた地図は咄嗟に隙間に押し込むだけ押し込んで───カサ、という音を残して氷河の指が羊皮紙から離れるや否や、キィと音を立てて扉が開いた。
「近頃大人しくしているらしいな、坊や?」
 逆光でもわかる豊かな巻き毛のシルエット、笑みを含んだ尊大な声───ミロだ。
「………何の用だ」
 生殺与奪を握る男に対して捕虜のきく口にしてはずいぶん威勢がよかったが、生意気に声を張らねば隠せないほど、氷河の心臓は激しく跳ね回っていた。
 巡視の水夫たちとはやはりまるで纏う空気が違う。
 ミロの周辺だけ、密度の違う何かが膜を張っているようなオーラに包まれている。
 殺気ではない。むしろ、彼はいつも自然体に見える。なのに隙はどこにもない。
 何の気配も足音もなく現れたことが何より背筋を凍らせる。
 たまたま(本当にたまたまだろうか?)、扉をノックする気まぐれを起こしてくれたおかげで、間一髪、今回は免れたが、これでは、いつ、あの地図を広げている氷河の背後に立たれていてもおかしくはなかった。
「顔色が悪いな。今更船酔いか?それとも何か心配事でも?」
 ミロは大股で一歩、二歩、と氷河の元へ近づいてくる。慌ててつっこんだ羊皮紙が、ちゃんと隙間に収まりきったかどうか、確かめたくて仕方がなかったが、視線をやるわけにもいかない。一瞬の眼球の動きを見逃すような男ではない。
「………何の、用だ」
 鸚鵡のように繰り返された問いがおかしかったのか、ミロは空樽の数歩手前で足を止め、そう警戒するな、と目を細めて笑った。
「来い」
 問答無用だ。
 説明も、氷河の意志もあったものではない。
 次の瞬間には腕を掴まれて、通路へと連れ出されていた。
「ど、どこに行くんだ!俺はここにいる、どこへも行かない!」
「はは!毎日毎日抜け出しておいて、ここでいいとはよく言ったものだ。あんな薄暗い倉に日がな一日閉じこもっているような柄じゃないだろう、君は」
「閉じこめているのは貴様だろ!」
「そうだ、俺だ。だから俺が連れ出すのも自由だ」
「な、何を勝手な、」
 水夫相手になら、どれだけ低俗に煽られたって表情ひとつ変えずにいなしてみせるのに、ミロを相手にするといつも冷静になれない。
 たった今、そろそろ今日の脱走を、と思っていたことまで見抜かれているような気がして、とにかく厭だからな、俺は、と、首を振って、ぐっと両足を突っ張って氷河は外へ出るのを拒んだ。
 ミロが、それを、まるで駄々っ子だな、などと笑うものだから、かあっと頬に熱が回ってますます冷静さは遠のいていく。
「自力で歩かないなら俺が担ぐことになるが君はそれでいいのか」
「よ、くない、どっちも御免だと言っている!」
「残念ながらそういう選択肢はない」
 冷静さを欠いた氷河の抵抗などミロにはないも同然だ。
 引きずられている、というより、ほとんど小脇に抱えられるような格好で氷河は強引に上甲板へと連れ出された。
 
 跳ね扉を開いた瞬間、水平線に沈んでいく真っ赤な太陽の残光が目を焼いて、うっと思わず氷河は目を閉じた。
 しぱしぱと瞬いておそるおそる顔を上げれば、空も海も怖いくらいの茜色に染まっていた。
「あ……」
 息を飲むほどの夕焼けの海を、だが、美しいと思う間もなく、がやがやとした喧噪が耳に入る。
 甲板の上には大勢の水夫が集まっていた。
 それだけではない。マストから延びるロープというロープには色とりどりの布が無数に結びつけられていて、ずいぶん派手に船体を飾っていた。
 見上げるマストのてっぺんには、真紅の蠍を象った海賊旗まではためいている。
 水夫の中にはアコーディオンやハーモニカで思い思いの音楽を奏でているものもいて、皆、一様に酒瓶を抱えてて陽気に歌を歌っていたり、大きな声で笑いあっていたり、まるで何かの祝宴のようだ。
 海賊の祝い事などきっとろくなものじゃない、と露骨に顔をしかめた瞬間に、ミロが、氷河の背を水夫の輪の方へ押しながら声を上げた。
「主役の登場だ!」
 はあ!?という大きな抗議の声は、水夫たちがあげた野太い歓声にかき消された。
「ちょ、何が、俺は関係ない、ミロ、これは……ミロ!ミロ……!」
 わけがわからず隣に立つ男を見上げれば、彼はもう、水夫から受け取った高級そうなウイスキーを瓶のまま傾けてごくごくとうまそうに喉を鳴らしているのだった。
「呑んで騒ぎたいなら俺を巻き込むな!」
 氷河の怒りの滲む抗議に、ミロはあっという間に空となった瓶を放って唇を拭うと、言っただろう、と笑った。笑った瞬間に鋭い瞳が柔らかく弧を描いて一瞬だけドキリとする。
「主役は君だ。君がいなければ始まらない」
「は、いや、なんで俺が、」
「今夜は特別な祝いの宴だ」
 だから何の、と、進まない会話に苛々と度を失いかけている氷河の言葉を遮るように、たいけんだ、とミロが声を張り上げた。
「たいけん……?」
「君が言ったんだ。あの夜に帯剣の儀を控えていた、それを俺が台無しにした、と」
 言った。
 言ったが、あれは、でも、ミロにバカにされた悔しさから出た咄嗟のはったりで、本当に成人の儀式が予定されていたかどうかは甚だ怪しい。
 いつの間にか喧噪は止み、あたりはしんと静まりかえっている。水夫たちの視線はすべてミロと氷河に注がれている。
「一生にただ一度きりの大切な儀式を駄目にしたお詫びだ。代わりといっては何だが……」
 そう言って、ミロは、すらりと姿のよい抜き身の長剣を傍らの水夫から受け取って氷河に向けて差し出した。
「『海賊』流の成人の儀式で悪いが、俺と手合わせいただけるかな」
 よく研ぎ澄まされたことがわかる、夕陽を赤く反射する剣身の向こうで、同じ色に染まった男の唇がニヤリと歪んで「なあ、坊や?」と動いた。