藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ⑦◆
「何やら騒がしいな」と、珍しく船室にいて、執務机でのんびりと海図を眺めていたカノンが外の様子を気にするように顏を上げた。
アイザックはそれを黙殺する。
カノンと会話を成り立たせてしまえば、一方的なこの『協力』関係を受け入れたかのようで居心地が悪い。
この空間にはカノンが会話をかわすべき人間などいやしない。あれはカノンの独り言で、俺はただ、そこに在るだけのモノにすぎない。
自分の行為が酷く子どもじみていることは自覚しているが、口を開けば開くほど、カノンにつけいる隙を与える結果となってきたのだ、ほかにどうしようもなかった。
カノンはアイザックの無反応を気に留めた様子もなく、椅子を蹴って立ち上がり、キャビンの丸窓の方へと近寄った。そして、腰を屈めて己の目線の高さより低い位置にある丸窓から外を覗いてしばし沈黙し、これはまた想定外なことをしてくれる、と疲労感を滲ませたため息をこぼした。
想定外───氷河か?
慌てて立ち上がって丸窓へ近寄ったアイザックに、おや、いたのか、と言いたげな(白々しいったらない)カノンの視線が突き刺さる。
が、カノンの存在など頭から吹っ飛ぶような光景が目に飛び込んできてアイザックは思わず息を呑む。
氷河、あのバカ、一体何している……!?
ハーネスもなしでマストを上ろうとしている氷河の姿に、アイザックは、天を仰いで唸る。
アイザックの隣で同じ光景をのぞき込んでいるカノンは、どうしてこう面倒事ばかり、とこめかみを揉んでいる。
たった今、あのバカ、と心で氷河を罵ったばかりであるのに、カノンが手を焼いているのかと思えば小気味はよく、よくやった、と誉めてやりたい気分になった。
が。
そう思った途端に、上っている途中のマストからずるずると氷河が滑り落ちて、アイザックの血の気は引く。
想定外の動きに手を焼いているのは、海賊たちだけではない。己も同じなのであった。
**
氷河とは一度きり会えただけだ。
氷河を最下層の薄暗い船倉に監禁したまま残しておいてカノンは、アイザックを上甲板へと連れ出した。そして、そのまま船尾楼へと促す。
やっぱり俺はまたあそこなのか、とアイザックは重い気分となる。
セイル全体を見渡せて操船に都合がよい船尾は、いわゆる司令塔としての機能を持っていることが多い。船長室や海図室など、それに類する船室しかないのが普通だ。スコルピオ号も例外ではなく、アイザックは氷河に会うまで、船尾にある航海長(つまりカノンだ)室で軟禁されていたのだ。
と、言っても、扉は施錠されていたわけでもなく、カノンはしばしば部屋を空けてアイザックを一人にしたから、本当に外へ出る自由がなかったかと言えばそうでもなかった。ただ、アイザックの心理的にはそれは確かに軟禁だった。
広い船のうちでも一等の部類に入る区画、中でも船長に次いで権限を持っている航海長室だ。荷と同じ扱いをされていた氷河に比べれば、アイザックの置かれていた環境は身体的には格段に快適だと言えた。
広い室内は執務室と私室、浴室に区分けされているばかりか、調度類も充実していて、日の光の恩恵を受けて明るく、清潔に保たれていたし、もしかしたら運ばれてくる食事の質も違っていたかもしれない。
最も驚くべきことには、カノンは、俺がいない時には好きに使え、と、アイザックに己の私室に立ち入り、ベッドを使わせることすら許可していた。
空間の限られた船上においては、ベッドで眠るというのは最上の権利だ。水夫たちは皆、壁際に連なって吊るされたハンモックで交互に仮眠を取るのが普通で、船倉の氷河にはそれすら与えられていない。
自分の不在時限定とはいえ己のベッドを捕虜が使うのを許す、というのは通常なら考えられない。
当然ながら最初の夜に、自分が置かれた予想外の厚遇に激しく戸惑って、アイザックはそれをカノンに問いただした。
が、カノンは、
「おかしなことを訊く。客人は丁寧にもてなすくらいの礼儀はわきまえているつもりだが?」
と、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「……捕虜、の間違いだろう(客だったとしても己のベッドを貸し与えるというのはおかしくないか?本当に「客」を毎度己のベッドへ引き込んで「もてなす」ようなヤツならそれはそれで問題だ。頼むから『捕虜を見張るため』であってくれ)」
「お前は捕虜ではない。無理矢理攫ったわけではないからな」
「ならば、俺に下船の自由はあるということか」
「お前だけならば」
卑怯な、とアイザックは拳を握る。
奴らは『氷河』の存在さえほのめかせば、事は容易に足りるのだ。鍵のかかる部屋も、拘束具も必要ない。氷河がいる限りアイザックは絶対に彼をおいて一人で下船したりはしない。悔しいが、それは全く正しい。
精神的にはアイザックは見えぬ鎖でつながれているようなものだったが、見せかけだけとはいえ自由を与えられてしまえば後ろめたいものだ。
まるで幹部同然の待遇をアイザックが許されていることを氷河が知れば、そこに裏切り行為があったように見えるだろう。奴らになどこれっぽっちも与していないつもりだが、心の中までは誰にも証明することはできない。
これでは、俺に従え、と手酷く痛めつけられていた方がずっとましだった。
「お前はこっちだ」
予想通り航海長室の前まで辿り着き、入るように促されても、だからすぐにアイザックは一歩が踏み出せなかった。
結果的に氷河をとりあえずは扱いやすくするのに手を貸した今、この厚遇はその報酬のようで到底受け入れがたい。
ここは嫌だ、俺も荷室にしてくれ、と激しく抵抗はしたが、残念だがどこにも空きはない、とカノンにあっさりと退けられ、以来、アイザックは航海長室で過ごしている。
幸いにも、カノンはほとんどの時間を不在にしていたから、日がな一日見張られていて息が詰まる、というようなことはない。
特に行動を制限されてもいなかったが、アイザックが部屋から出ることはほとんどなく、使え、と言われたベッドも一度も使うことなく、アイザックは執務室の固い木の床の上で眠った。(勧められたからと言ってこの状況ではいそうですかとベッドを使う奴などいないと思う。始めからそれも織り込み済みで形ばかり勧めてみたのだろうが)
執務室に設えられた豪華な革張りのソファの上すら拒否したのは、俺は断じて自由の身ではない、せめて心だけは氷河と共有していたい、という抵抗の顕れだ。
だが、アイザックのささやかな抵抗に反して、甚だ不本意ながら、氷河と会えないことさえのぞけば、この奇妙な軟禁生活に不自由はなかった。
執務室のあちこちに乱雑に積まれた日誌や海図を盗み見る時間は無限にあったし、丸窓から外を覗いて水夫たちの動きを観察してみることも、息を潜めてデッキから漏れ聞こえる会話に聞き耳を立てることもできた。流石に海賊たちはそこまで間抜けではなかったのか有益な情報を得られることこそなかったものの、それらは全ていい退屈しのぎにはなった。
その上、時折戻ってくるカノンは、氷河の様子をアイザックに知らせる、という道義はかろうじて守っていた。
今日は食事をしたようだ、と聞けば安堵はできたし、脱走して部下たちを困らせた、と聞けば、怪我をしなかったことを確認するまでは心配にもなった。
それが唯一の心の慰めだったとはいえ、あまりカノンにばかり一方的にカードを握らせておくのはまずいと、氷河に対しての無関心さを装ってみたこともあったが、そうすると今度はカノンは途端に氷河の「ひ」の字も口にしなくなり…………結局、アイザックの方が根負けして、憮然とした表情で「氷河は元気なんだろうな?」と問う羽目になった。(屈辱を飲み込んで問うたというのに、「ああ…悪いな、忘れていた」などとしらじらしくとぼけるものだから、カノンにはやはり殺意を覚える羽目になった)
ただ、カノンは、それ以外の場面においては、不必要にアイザックを構うこともなく、何かを強要するようなこともなく、淡々と自分のペースで眠り、起きて、出て行き、そして戻るだけの、非常に淡白な「監視人」だった。
「船室に空きはない」というのも、「お前は客だ」というのも、偽言だとばかり思っていたのだが、もしかして言葉通りの意味だったのか?と自信がなくなるほどに、アイザックを見張っているにしては、カノンはどうもアイザックに対して無関心で、その上、様々なことに無頓着すぎるような気がした。
航路を朱で記した海図を平気で広げ、長剣をそのあたりに気軽に放ったままアイザックに背を見せて着替えをし、あまつさえ堂々と眠りもする。
眠ると言うのはこの上なく無防備な行為だ。少なくともアイザックはカノンが同じ空間にいる間は決して目を閉じたりはしない。
昼夜を問わず不定期に戻ってくるカノンは、扉を開いて、床に座り込んだアイザックに気づくと、ああ、そうだった、と毎度毎度初めて存在を思い出したような表情をし、だが、特に何かをするでなく、疲労の滲む息を吐きながら執務室のソファへ長身の体躯を横たわらせ……数刻もしないうちに規則的な寝息が聞こえてくる、という体たらくなのだ。
……………何なんだ、この男は。自分がお尋ね者の身で、俺とは敵対関係にあるということを忘れていやしないか。
(それに、せっかくあんな一等のベッドがあるのになぜそこで寝る?)
どうせ眠っている振りをして油断を誘っているのだろうと、足音を消して近寄っても、長い睫毛が覆う彼の瞳は閉じられたまま。
健やかな寝息をたてて眠る姿はまるで子どものようだ。かろうじて凛々しく結ばれている口元が、だらしなく開いてでもいれば、完全に氷河の間抜けな寝顔と一緒だ。
隙だらけに見える。
が、隙だらけすぎて逆に怪しい。この男はそんなに底の浅い人間でも、単純な人間でもない、とアイザックは思う。
もしも、今ならやれる、と判断して、カノンが床に無造作に投げたままの長剣をアイザックがそっと拾い上げたとしたら、その瞬間に彼の深海色の瞳が開かれないとも限らない。
だから、しばらくソファの傍へ立って男の寝顔を見下ろした後は、アイザックは元の位置へと戻りそっと腰を下ろす。
反撃にはまだ早い。
敵を倒すにはまず相手をよく知ることだ、と師もおっしゃっていた。
規則的にたてられていた寝息は、アイザックが定位置に戻ればいつの間にか聞こえなくなっているのが常だった。
**
「航海長、キャプテンを止めてください…!あの坊やには無理だ!」
慌てふためいて扉を叩いた水夫に応えて船室の外へ出たカノンは、もう遅いようだぞ、とメインマストを見上げた。
ミロとそれを追う氷河の姿はもう、マストの真ん中をゆうに過ぎている。
でも、とうろたえている水夫に、予備の帆があるだろう、万一に備えて甲板で受け止める準備くらいはしておけ、とカノンが告げると、水夫は敬礼もそこそこに飛んで行った。
「行かなくていいのか?お前が行けば少なくとも氷河の方は止められるかもしれないが」
扉のところまで進み出て、やや青い顔でマストを見上げているアイザックに気づいて、カノンがそう言った。
いや、とアイザックは首を振る。
「あんたが今言った通りだ。止めるにはもう遅い」
今、アイザックが姿を見せれば却って動揺を誘うかもしれない。これ以上の危険には晒せない。
「大丈夫だ、氷河は木登りが得意なんだ。落ちるわけがない」
扉の木枠を強く掴んで、その姿を凝視するアイザックは自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
カノンが、ほう、と感心したような声を出した。
「意外だな。血相を変えて連れ戻すかと思ったが」
「アイツの無茶には慣れている。俺が言って聞くような奴でもない」
氷河が素直に首肯するのは、我が師の言葉に対してだけだ。
言いかけて、アイザックはそれを言葉にするのを止めた。人に知られたくない感情が混じりそうで嫌だったからだ。
「前々から訊こうと思っていたんだが」
と、アイザックはマストを上る氷河から視線を外さないままカノンへ問うた。
長いこと己の方が会話が成立するのを拒絶していたが、本当はカノンに訊きたいことは山ほどあった。うっかりカノンの呼びかけに答えてしまったからには、この際、毒を食らわば皿まで、だ。
「なぜあんたは海賊になんかなったんだ」
存在意義を知りたくはないのか、とはどういう意味だ、とか、自分ですらわからない俺の何を知っている、とか、俺のことをどうこう言うならあんた自身は何のために生まれたか知っているのか、とかカノンと出会った夜からずっと自分の中で渦巻いている命題をストレートにぶつけることはしなかった。
代わりに、カノンが一体何者なのかを問うた。自分の情報を与えずしてまず相手を探ること、師に教わった兵法のセオリー通りだ。
「久しぶりにまともに口をきいたと思えばえらく踏み込むな」
揶揄しながらも、カノンは、興味を引かれたかのようにアイザックの方へ身体を傾けた。
「海で生きるのに理由が必要か?」
「ほかに生きる道はあるだろう。あんたも、あそこで氷河を煽っている男も、望めば十分に陸地で生きていけるだけの力はありそうに見えるが」
望んで海賊になる人間はまずいない。海上での生活は、陸地でのそれに比べればはるかに人間らしさを損なうからだ。常に揺れている不安定な波の上、食料も水も娯楽も格段に制限される。陸地では簡単な医療で完治するような病気も、海上では命取りとなり、常に自然の驚異にも晒されている。
それでも海で暮らすのは、そうせざるを得ない事情を何かしら抱えているせいだ。
貧困や犯罪、家の没落……陸地での居場所を失った者たちが生きるための場所を求めて海へ出て、初めは生存のためにやむなく手を染めた盗賊行為は次第にエスカレートし、それそのものが目的へと変貌してしまう。
一度、真っ当な道を踏み外すと元に戻れぬものとはいえ、この男が最初にどこでどう道を踏み外したのか見当もつかない。
いいように操られて、正直、カノンに対して良い印象はないが、ただ、個人的な感情を排除して彼の行動を俯瞰してみれば、彼はステレオタイプな『悪賊』とはまるで違うことがわかる。
正邪を判断できるだけの倫理観も論理的思考もカノンは十分に持ち合わせていて、簡単に堕落、逸脱する類の人間には見えない。実際にその剣捌きを目にしたことはないが、非常に有能な使い手であろうことは纏う空気から易々と察せられる。少々身分が低かったとしても、望めば仕官の道だって開けただろうに。仕官が無理でも傭兵くらいにはきっとなれた。
「前にも言ったと思うが」
と、カノンは片手を翳して眩しそうに目を眇めながらミロの位置を確認するように振り仰いだ。
「自らを海賊と名乗ったことはない。海賊になったというのとは少し違うな。どうしても知りたいなら俺をそう呼ぶ奴に聞いてくれ」
「はぐらかすな。俺が訊きたいのはそういうことじゃないと知っているだろう」
「聞いてどうする。慰めてでもくれるのか?」
やはり慰めなければならないような、やむにやまれぬ複雑な事情があるのだろうか、とアイザックは無神経に切り込んだ己に少し怯む。
思わず同情的に眉を下げたアイザックにカノンは一瞬だけ虚をつかれた表情をし、そして唇の端で微かに笑った。
「世界はお前が思うよりずっと複雑でずっと悪意に満ちている。そんなに真っ直ぐではあっという間に悪い奴につけこまれる」
「……あんたがそうしたように?」
そうだ、とカノンは迷いなく頷き、肯定されてしまえばアイザックにはもう返す言葉もない。これだけ堂々と『お前を利用している』と宣言されてはいっそ清々しさすら覚えるほどだ。
結局、煙に巻かれた形になって、カノンが陸で暮らせぬ理由はわからないままだ。
ミロの姿はマストのてっぺんへ到達した。氷河もあと少し。
アイザックは、ほらな、氷河ならできると思っていた、とやや誇らしい気持ちでそれを見上げ、安堵しながらカノンの方へ視線を移した。
アイザックの物言いたげな表情にカノンはわかったわかった、と肩を竦めて「今回は我がキャプテンの負けだ。まさかついて来られるとは思わなかったのだろう」と素直に認めた。
ほかに何も抵抗する手段を持たないのだ。彼らの思いどおりにはさせてやらない、それだけで何か一矢報いたような気にはなるものだ。
ただ、その気がするだけで、現実に打ち負かしたわけではない。
現実は───少年たちには非情だった。
ほどなくして甲板から大きなどよめきが起こる。
ハッとして、慌ててアイザックは視線を氷河へと戻す。
落下だ。
いや、落下未遂、だ。
マストのてっぺんを目前に落下しかけた氷河の腕を、ミロがしっかりと掴んで引き上げているところだった。
氷河の危機にぎゅっと縮みあがった心臓は、そのまま別の苦しさにどくどくと波打った。
氷河に触れるな、と叫びたい。
だが、男が手を離せば氷河は落ちる。
究極の二律背反に、息苦しさで眩暈が起こる。
甲板ではやんややんやの喝采と大きな拍手が起こっている。
想像していたよりまともな人間らしさがある、と感じていた海賊たちだが、人の命を娯楽代わりとする姿には失望させられ、やはり彼らと自分とは違う世界に住む人間なのだというのをひしひしと感じさせられる。
そして、アイザックには今日もっとも彼を動揺させる出来事が起こる。
喝采は、すぐに、やった、キャプテンがまたやったぞ、とはやしたてる歓声と下品な口笛とに変わり、マストのてっぺんでは、ミロが氷河の身体を抱き寄せて───
アイザックを問答無用で貫いたその衝撃たるや筆舌に尽くしがたい。
カミュと氷河の姿を垣間見てしまった時の動揺の比ではない。見間違いかも、師としての情の延長かも、などという逃げ道は今度ばかりは全くなかった。
アイザックは凍り付いた彫像のように、天上の光景を見つめ続ける。全身が真冬の冷気に晒されているかのように冷ややかであるのに、心臓だけが酷く熱い。
───長い。
苦痛を感じているせいか、時間の歩みはあまりに遅い。
氷河が(下から見る限りでは、だと信じたいが)大人しく身を任せているように見えるのもアイザックの焦燥を誘う。
なぜ、その男に触れるのを許しているんだ、氷河。
あれほど、母の仇め、と唇を震わせていたというのに。
俺の知らないところで何があった。
氷河は自分の本心を隠して行動できるほど器用ではないことをアイザックは誰よりよく知っていた。
いくら危険な帆桁の上とはいえ、男を全く拒絶する様子のない氷河の姿は激しくアイザックの感情を揺さぶった。
カミュ相手の時には抑圧されて形にならなかった妬気が明確な形となって腹を熱くする。
俺は多分今、醜い顔をしている。
ほんの一瞬前は、得意げにカノンに負けたと言わせたというのに。
隣で同じ光景を見上げているはずのカノンは一言も声を発していない。
仰ぎ見て、からかうような表情でも見せられた日には、あるいは、同情するような目で見られた日には、冷静さを装う自信はない。
海風が伝える、男の纏う空気がそのいずれでもないことが、今はアイザックの救いだった。
**
スコルピオ号が帆を張り終えるのを待っていたようにぬるい風が夕凪の海を渡り始めた。
「南東へ針路をとれ」
風をはらむ帆を見上げながら船尾楼まで引き上げてきたミロはそう声を張り上げている。
キャビンへと続くステップへ足をかけたミロが、ステップに長く伸びている影へと気づいて顔を上げた。
「外に出ていたとは珍しい。何か面白いものでも見えたか」
「………別に何も」
アイザックが答える前から既に唇の端で笑っているような男に、動揺しました、と告げてみせるのは癪だ。ほとんど能面のような無表情でそう答えると、こっちもずいぶん強気だ、とミロは肩を揺らして笑った。
船室の窓越しに何度かその姿を見かけたことはあったが、アイザックが彼と言葉を交わすのはこれが初めてだ。
間近で顔を合わせて驚いたのは彼が酷く若いことだ。
風も波も一つとして同じ条件の日はない。複雑な自然を動力に進む帆船では、有能さや知識より、どれだけの風を読んできたか、その経験がものを言う。陸地では非常に優秀な騎士が、海ではまるで使い物にならないことなどよくある話だ。だから、およそ船と言う船において、船長と呼ばれるまでになる人間は長い航海経験をもっているのが普通だ。(お飾りだけの『司令官殿』は論外だが、カミュが実質的に艦の指揮を執るのも、グラード領に来る以前の操船経験があってこそだ。一度も海上暮らしをしたことがなければ、多分、どれほど有能でもカミュがその位置に、というのはあり得なかったに違いない)
だから、あのカノンがキャプテンと仰ぐのは必然的にもっと年嵩の男なのだろうと勝手に想像していたが、カノンよりずっと、もしかしたらカミュよりも若いかもしれないその姿があまりに意外で、アイザックは困惑する。
悪戯っぽくアイザックを見上げている瞳はまるで少年のように輝いていて、それが彼を実際の年齢より若く見せているのかもしれないが、それにしても、これが、蠍───?
七年も前、当時まだ少年だったはずのこの男が氷河の母を殺したかと言えば、有り得ないとも言いきれないが………もしや、蠍は代替わりをしたのか?氷河の母を殺したのは『先代』でこの男ではない……?
本来の目的を忘れて思わず考え込んでしまったアイザックを置き去りに、ミロは構わずステップを上りきった。そのまま船長室へ消える勢いなのを、すんでのところで我に返ったアイザックが、待て、と慌てて引き止めた。
なんだ、と半身で振り返ったミロのオレンジがかった金の巻き毛に夕陽が映えていて、精悍な顔立ちを引き立てている。切れ長の瞳は思わず目を奪われるほど鮮やかな海の色をしていて…………この男が氷河に触れた、と思えばドクドクと心臓は激しく鼓動を打つ。
「二度と氷河に触らないでくれ」
長く男を見つめていると気圧されて言えなくなるような気がしたから、呼びとめた勢いのまま、アイザックは一気にそう吐き出した。結局、動揺しました、と告げたも同然で、力関係と立場を考えれば無意味なことは明白だったが、どうしても言わずにはおれなかったのだ。
ミロは、怒るでなく、笑うでなく、アイザックを観察するようにまじまじと見て、それから、「そうやってみんなして坊やをいつまでも『坊や』のままにしておく気なのか?」と少し呆れたような声音で言った。
意味がわからない。
ミロの言い方では、まるで自分が氷河の足枷になっているかのように聞こえる。
責められるべきは無法を働いているミロの方であるはずなのに、何故、俺(俺たち、か?みんなして、の「みんな」が誰を指すのかわからない)の方が責められる。
憮然として唇を結んだアイザックをしばらくの間見下ろして、「ところで君は、」とミロは打って変わって軽い声音となった。
「俺がこの船の船長だということは知っているか?」
「知っている」
「氷河が『捕虜』だということも?」
「ああ」
「通常、『捕虜』がどんなふうに扱われるかというのは知っている?」
「……もちろんだ」
アイザックも厚遇といえたが、多分、氷河の方も捕虜にしてはずいぶんぬるい扱いをされている。彼らが噂に聞こえる蠍に間違いがなければ、一度の脱走で手足の一つや二つ、落とされていても不思議はない。
知っている?本当に?と、ミロは首を傾げ、知っていて俺に氷河に触れるな、と命じるとはたいしたタマだな、誉めてやろう、と笑った。
捕虜の分際で、と怒り狂われた方がまだよかった。
そんな風に笑われてしまっては、相手にする価値もないほど圧倒的に力の差があるのだと突きつけられたようなものだ。
悔しさで拳を震わせているアイザックを見下ろして、ミロは笑いを引っ込めてしばらく沈黙し、そして静かに言った。
「……カノンがどう言ったか知らないが、君も『捕虜』であることには変わりない。捕虜の身でありながら坊やの心配をできる余裕があるのはどういう意味なのか一度考えてみることだな」
君も『見えなくなっている』ようだな、最後はそう呟いて、そしてミロは船長室の扉を閉めた。
一人デッキへと取り残されたアイザックは為すすべなく立ち尽くす。
見えなくなっている…?
どういう、意味だ。
君も、ということはつまり、氷河と俺が、という意味か?
(そして俺はやっぱり『客』じゃなくて捕虜なんじゃないか、カノン!知ってたけど!)
お前は利発で頭の回転が速いと誉められて育ってきた。与えられた命題に答えが出せなかったことなどない。
だが、あの夜から次々に難問ばかりが突きつけられる。まるで大部分のピースが足らないパズルに何が描かれていたのか当ててみよ、と言われているようなものだ。
海賊どもが意図的に隠したピースには一体なにが描かれているというのか。
男に牽制をしたつもりが、予想外の反応が返ってきたせいで、胸を塞いでいた黒い感情はいずこへか去り、代わりにたくさんの疑問符がぐるぐるとアイザックの中を渦巻く。
だがしかし、疑問符に答えを見つけるべく思案しながら、船室前の手すりに寄り掛かってふと空を見上げれば、茜色に染まった空にそびえ立つ、真っ白な帆を張ったマストが目に入って、また心臓はきゅうと鳴るのだった。
**
空には星が瞬き、水夫たちも操船に必要な一部を除いてはほとんど眠りついた時間になっていたが、武器庫の装備を確認し終えて、カノンが上甲板へ引き上げてきてみれば、ミロは一人、再びメインマストの上部に立っていた。
当直のために甲板で作業をしていた水夫がカノンの視線の先に気づいて、「自分で見張ると言ってきかなくて」と肩を竦める。
困った船長殿だ、とカノンは眉間の皺を深めながら、シュラウドへ足をかけた。
撓む縄梯子を掴みながら、大柄の体躯の割には身軽にてっぺんまでするすると上ってみれば、ミロは昼間上った最上部の帆桁で、闇色に染まった海の向こうを眺めていた。
シュラウドの終点で帆桁の端へと移り、ミロへ近寄りながら、見えたか、とカノンは尋ねた。
いや、とミロは短く答える。
はるか遠い島影に明かりが見えるほかは、スコルピオ号以外には何もない。しばし、二人の間には沈黙が落ち、波が船体を打つ音と風が帆をはためかせる音だけが耳に届く。
多分、待っていてもミロがそれに言及することはないだろうと思い、カノンは自分の方から口を開いた。
「……正直、今日のは肝が冷えた」
「それは気が合うな。俺もだ」
嘘をつくな、とカノンはため息をつく。肝が冷えた、というような顔ではない。証拠に、まさか本当に上りきるとはな、と呟いたミロの瞳は高揚に輝いてすらいた。
もはやこれ以上深く刻めないほど眉間に皺を寄せて、カノンは、見せてみろ、とミロの腕へと手を伸ばした。
ミロが応じて、自ら腕を差し出すようなことはなかったが、元々彼にそんな従順さは求めていない。カノンは勝手に彼の片腕を取り、シャツをまくり上げてそこへ触れる。(ミロは煩わしげにカノンを一瞥はしたが、取り立てて咎めもしなかった)
存外に滑らかな皮膚に包まれた引き締まった筋肉は、果たして、予想通りに固く強張り、熱を持っていた。
いくらよく知り尽くし、慣れているとはいえ、己の後を追う氷河の動きを常に気にかけながらマストを上り切るのは、ミロにとっても骨の折れる作業であったのだろう。
つい今しがた様子を見てきた船倉の氷河は、泥のように眠りこけていて、おい、とカノンが何度か揺さぶってもピクリとも動かなかった。氷河の方は少なくとも三日は足腰が立たないだろうが、これではミロの方も明日に響かないはずはない。本人は至って涼しい顔をしてそのことを微塵も感じさせはしないだろうが。
「……氷河を気に入ったようだな」
興味がなければ、そこまでして氷河に自力でマストを上らせるはずはない。命がけの無謀は嫌う男だ。
「どこまでできるか見てみたかったというのはあるな」
「見て、どうする気だ」
「さあな。このまま手元に置いて鍛えるのもいい」
「……わかっていると思うがあれはいずれ返さねばならん借り物だ」
「返すには惜しい。俺の手で極上の珠に磨いた宝石をあの家庭教師の元へ戻すのかと思えばちと妬けるが」
「ミロ」
渋い顔をしたカノンに向かって、ミロはからかうような笑みを見せる。
「冗談だ。時が来たらちゃんと返す。面倒は俺もごめんだ」
「既に面倒を起こしておいてよく言う。……お前にとっては戯れでしかなくとも、子ども相手にキスなど……悪ふざけにも限度がある」
カノンの苦言を、は、と息を吐いてミロは全身で呆れてみせた。
「どうかしているぞ、カノン。お前まで坊やたちの世間知らずに毒されたのか?あれが戯れであるものか。俺のものだとはっきりと主張しておかないともっとややこしいことになるのがわからないのか?もう何日陸に上がっていないと思う。辛抱強い俺の部下たちがついうっかり間違いを起こしたとしても誰が責められよう。あの見た目だ、坊やなど一日たりと無事でいられまい」
それにしたって、ほかにやりようがあるだろう、とカノンはますます渋い顔となったが、ただ、ミロの言っていることはあながち間違いではなかった。
男ばかりの閉鎖された船上で最も不足するもの、それは水でも食料でもない。性の捌け口だ。人間の欲求として当たり前に備わっているそれをコントロールできるか否かに航海の平穏がかかっていると言ってもいい。
噂に聞こえるほどの容貌の少年を、船長の所有印もなしに水夫たちに混じらせておけば何が行われるかは火を見るより明らかだ。
氷河は気づいていないだろうが、趣味の悪い戯れに見えるミロの一連の行動によって彼は実質的に守られているようなものだった。(ミロのやり方とはまるで違うが、アイザックを水夫たちと同じ船室に混じらせておくのはまずかろう、という意識はカノンにもあるから、少年二人は、と言った方がいいかもしれない)
「……とにかく、これ以上氷河に深入りはするな」
何度目かのため息と共にそう言ったカノンの横顔にミロがチラリと視線を流す。
「お前らしくなく品行方正だな。何を隠している。『氷河』に何かあるのか」
「そういうわけではない。いざと言う時に情に流されて剣が鈍るのでは困ると思っただけだ」
ふん、と鼻を鳴らしたミロの猜疑の視線がカノンに突き刺さる。
かつて、レイピアを喉元に突き付けられた時のような緊張感が甦ってカノンの背を寒くしたが、ミロがそれ以上言葉を発することはなかった。
ふ、とカノンは気づかれぬ程度に息を吐く。
夜の海を渡る風がスコルピオ号の帆をはためかせ、船はゆっくりとゆっくりと進んで行く。