寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ⑥◆

「やられた!脱走だ!」
「またか!」
「早く探し出せ、どうせ船の外には逃げられない!」
 隔壁の向こう側で、悲鳴にも似た水夫たちの声が上がった。
 もう見つかったのか。
 やけに早い。警戒して見回りの回数でも増やしたか。あまり警戒されるのもまずいから次は日を置かなければならない。

 氷河は進む方向を決めるために辺りを見回し、天井部に空いたハッチに目をつけた。
 閉じ込められている船倉は最下層だ。もう長いこと太陽を拝んでいない。

 よし、一か八か上甲板に出てみるか。

 即座にそう決めると、ハッチの縁にかかった昇降梯子に手をかけ、氷河はするすると身軽に己の身体を押し上げた。
 一時、歩くだけで息が上がるほどに落ちていた体力は、密やかで涙ぐましい努力のおかげで今やすっかり元通りだ。
 ものの一瞬で甲板に到達し、周囲を窺おうとしたものの、頭が出ると同時に強い日の光が降り注ぎ、眩しさで氷河は片腕を翳して思わず目を閉じた。
 暗い船倉に馴染んだ瞳には久しぶりの太陽の恵みも刺激が強すぎる。動きを止めて顏を顰めて瞬きを繰り返す氷河の前へすっと男の手が差し伸べられた。
「御手をどうぞ、お嬢さん?」
 笑い含みの声の主は顏を見なくても誰だかわかる。
 急速に氷河の腑には冷たいものが満ち、同時に体中の血脈がどくどくと波打ち始める。
「坊やも毎度毎度飽きないことだな。逃げられはしないことはいい加減悟っただろうに」
 呆れ顔で笑って、ミロは手を出そうとしない氷河の片腕を強引に掴むと甲板の上へその身体を引き上げた。
 氷河の逃走劇はあっさりと終了だ。
 だが、捕まることまで見越しての脱走だ。逃げること自体が目的ではない。

 そうしよう、とアイザックと決めたのだ。
 従順に、とは言ったものの、「殺してやる」とまで言っておきながらまるきり大人しくして見せるのは却って怪しまれないだろうか、と。
 油断を誘うなら、嘘は少ないに越したことがない。
 初めから従順を装えたならともかく、一度見せた敵意を全くなくなったことにするのはちと不自然だ。
 考えた末、彼らに危機感を抱かせない程度の反抗はしておくべきだ、ということで落ち着いた。
 その結果の脱走、だ。
 氷河が閉じ込められている船倉はあくまで「倉」であって、人間を入れることを想定していない。ちょっと工夫すれば内側からなら簡単に開けられ、脱走は容易かったが、数十分の自由を満喫した後はしおらしく元の船倉送りにされることに異を唱えなかったから、今のところは見回りの数が少し増えたほかは特別に脱走対策を講じられた様子はない。

 氷河を探していた水夫たちがようやく今頃追いついて、甲板に己らの船長がいるのを発見して、ああっと声を上げた。
 すみません、目を離したすきに、と慌てて氷河を連れ戻そうとする水夫を、いい、後は俺が、とミロは笑って片腕で退けた。

 ミロの様子からして、こちらは真剣ではあっても、退屈な船上では捕虜の脱走も娯楽の一つ、であるのかもしれない。(対策を講じられていないのもそのせいか)
 自分の本意がすべてミロに筒抜けになっていて、その上で遊ばれているのか、捕虜のささやかな反抗ごとき歯牙にもかけていないせいか。
 いずれにしても、今は生きのよい捕虜が物珍しく、娯楽代わりにはなっていても、いつ飽きないともしれない。度重なる脱走に対する罰はいつどんな形でもたらされるかわかったものではない。ミロが己に対して見せる寛容さをそのまま受け取るのは愚かというもの。
 母の仇だと思えば、彼の一挙手一投足すべてが厭わしく、今にも飛びかかってしまいたい気持ちを抑えるのは困難を極める。だから、今は努めて母のことは心の奥底に封印するようにしているのだが、それを差し引いても、氷河をまるで珍しい玩具のように扱うその態度が全くもって不愉快で、どちらにしろ殴りかかりたい衝動を抑えるのは難しい。
 氷河一人きりであれば多分、耐えがたい怒りと恐怖にしばしば冷静さを失って、見境なく男に真正面から向かって行っていただろうが、自分は一人じゃないという心強さが生んだほんの僅かな心の余裕が氷河のその衝動に歯止めをかけさせていた。

「まあ君もさすがに船倉ばかりでは飽きもするだろう。特別に許す、今日は海の上のデートといこう」
 言って、ミロは氷河を立ち上がらせると船尾の方角へ向かって歩き出した。
 大人しく「デート」に応じたと思われるのは心外だったが、当初の目的通り、甲板を歩き回れるチャンスだ。氷河は「不本意だ」ということがありありとわかる憮然とした表情でミロの後を追う。


 今日はあまり風がない。
 風を受けて走る帆船は、だからまるで休日のような長閑さで、水夫たちもそこここで談笑していたり、釣竿を垂れていたり、保存食作りに精を出していたりと、先に海賊だと知らされていなかったらわからないほど平和的な光景が甲板には広がっている。
 海賊船で暮らすようになって、氷河が一番驚いたのはこういうところだ。
 海賊と言うものは敵味方関わらず四六時中小競り合いばかり、恐怖で相手を縛り付けるような殺伐とした人間関係しか築けぬ野蛮な輩とばかり思っていたのだが。
 釣れるか、とミロが声をかけた水夫が「もちろん!今日はとびきりのご馳走ですよ!」と嬉しそうに釣竿を掲げて振り仰いでいる。
 殺伐としているどころか、水夫たちとミロはしごく普通な上下関係を築いているように見える。水夫たちは思っていたほど自堕落ではなく、それなりに勤勉であったし、ミロに対しても恐怖というより畏敬と親しみの念を抱いているように見える。
 意外にも「良き船長」として海の男たちをまとめ上げているミロの姿は氷河の驚きを誘うのだが、ただ───海賊はやはり海賊だ。
 連中が真っ当な輩ではない徴に、氷河がいることに気づくや、彼らは皆一様ににやにやと下卑た笑いを口元に浮かべ、ひゅう、と口笛を吹いたり、「キャプテン、これからお愉しみですかい」と下品そのものな野次を飛ばしたりする。
 単に談笑しているように見えた集団も、よくよく見れば昼間から酒をあおって賭け事に勤しんでいるだけだ。
 見せかけの平和になど俺は騙されない、一皮むけば奴らは獰猛な獣だ、と氷河は固く殻を閉ざして、ミロの背をきつく見据える。

「アイザックに会わせてくれ」
 のんびりと水夫たちの間を縫って歩いているミロの背にそう投げかけると、ミロは半身で振り返って、それは無理な相談だ、と答えた。
 カノンによって引き合わされた氷河とアイザックだったが、数刻の後に予告なく現れたカノンによって、再び引き離された。
「どうせ監禁しておくだけなんだ、二人一緒でいいだろう」
 抗議したアイザックにカノンは、頭の回る小賢しい悪戯坊主たちをいつまでも一緒にさせとくバカはいない、と笑って退けた。
 もっと侮ってくれれば楽だったのだが、さすがにそこまでは甘くなかったのだろう。
 二人は離れ離れにされ、以来、一度も顏を合わせていない。
「なぜ無理なんだ。無事を確かめるくらいはいいはずだ」
「アイザックのことはカノンに任せてある。カノンの許可がないと駄目だ」
「………………そして俺のことは貴様の許可がないと?」
「そういうことになる」
「人一人を所有物のように扱って、いい気なものだ……!」
 悪びれもせずに肯定されて、氷河の拳が怒りで震える。だがミロは、肩を竦めただけだ。
「お前は俺のものだ、と口説けばたいていなら喜んで飛びついてくるものだが、怒る奴もいるのだな。口説いて殴られたのではかなわん。肝に銘じておこう」
 傍でやり取りを聞いていた水夫たちがドッと笑って、キャプテンはモテるから、とはやし立てる。
 大真面目な話をしていたのに、軽薄にはぐらかされて氷河の怒りは収まらない。
 こんな嫌な人間を本気で好くヤツがいるものか。どうせ毎度金貨でもちらつかせているんだ。好かれているのはミロじゃなくて、ミロのもたらす金だ。
 心の中でこっそり吐き出して溜飲を下げたつもりが、どうやら声にも出てしまっていたようで、水夫の一人が、まさか、と氷河に向かって首を振った。
「キャプテンがどんな人間かあんたは知らないからそう思うんだ。知ればきっとあんただって好きになるさ」
 まさか、と今度は氷河が強く否定する番だ。
 絶対にそれだけはあり得ない。天と地がひっくり返っても、俺があの男をほんの僅かでも好ましく思う日など来ない。
 断言できる、と声を荒げた氷河の何が可笑しいのか、水夫たちは腹を抱えて笑う。
 不愉快で最悪の気分だ。価値観の違う、相容れない世界に長居させられて頭が可笑しくなりそうだった。

 既に数歩先を歩いていたミロが、何をしている、早く来い、と氷河を待って振り返っている。
 結局、最後まで水夫たちに笑われたまま、納得のゆかぬ気分でのろのろと氷河はそちらへと進む。
 メインマストに片腕をついて待っていたミロは、この上なく険悪な表情をしている氷河に小さく吹き出した。
「そう尖ってばかりいては見えるものも見えなくなる」
 知るものか、とばかりに無言で返した氷河に、ミロは、強情ものめ、と苦笑した。
「仕方ない、俺のとっときを君に見せてやろう」
 そう言って、ミロは、彼の二抱えも三抱えもありそうな太いメインマストに腕を回した。
 何が始まるのか首を傾げている氷河を後目に、巧みに足がかりを探して、ミロはするすると器用にマストを上って行く。
 君も来い、とはるか上方から声が降って来るのに、氷河は呆気にとられて、はあ?と声を上げた。

 何をバカな。つきあう義理はない。

 そう言ってやるつもりだったのに、怖いのか、と続けられて、ぐっと声を失う。
 水夫たちが同情した顔で寄ってきて、「キャプテン、そりゃ無茶だ」「俺たちだって誰一人上れないってのに、いくらなんでも子どもにゃ可哀相ですぜ」「坊や、上れなくても恥じゃない。今日はもう倉庫に戻ってねんねしな」としきりに庇ってくれるのだが───先ほどの不愉快な成り行きと氷河の性格が相まってそれらは全て逆効果となった。

 ふん、どうせ怖気づくと思っているんだろう。見ていろ。

 ミロの後を追うように、よし、とマストに腕を回した氷河に、水夫たちの顔色が変わった。
「悪いことは言わないから本当にやめときな」
「落ちたら怪我じゃすまない高さだぞ」
「おい、誰かカノン航海長を呼んでこい、こいつを止めさせるんだ!」
 慌てふためいて甲板を右往左往する水夫たちの気配を置き去りに、氷河はミロの後を追ってマストを上り始める。

 のっぺりとして、その上氷河の腕が回り切らないほど太いマストは手がかりも少なく、予想以上の上りづらさだ。いくらも上らないうちに氷河の全身の筋肉は悲鳴を上げ始めた。
 無謀だったかな、アイザックがこのことを知ったら怒るだろうなあとチラと後悔が掠めたが、今さら後には引けない。
 噴き出る汗で滑る手のひらを片方ずつ、履いたズボンの尻で拭いながら、氷河は慎重に腕を伸ばす。
「……ッ!」
 手がかりをつかみ損なって、ずるずると滑り落ち、折りたたまれた帆にようやくひっかかった時は、はるか下方の甲板でどよめきが起きた。
 だが、ミロが上にいる以上は戻るという選択肢はない。氷河は一度も振り返ることなく、ひたすらに上を目指す。
 そのうちに下の声も聞こえなくなるほど、甲板は遠ざかり、聞こえるのは、は、は、という自分の息づかいだけになった。
 前後のマストのてっぺんが視界に入り、ということは己がしがみついているメインマストのてっぺんもそろそろ近い、というところまで到達したところで、これまで順調に探し当てて来た手がかり、足がかりがどうしても見つからず、氷河の動きは止まった。
 流れ出る汗と、さすがにもう限界まで痺れて来た腕と脚に、じりじりと氷河の身体は滑り落ちていく。
 くそっ。あと少しのところで……!
 多分、既にてっぺんに到達しているミロからは氷河の動きが止まったのは見えているはずだ。
 からかいの声が降ってきてもよさそうなものだが、一向にミロの声はしない。からかう必要もないほど、己の状況は危機的なのかもしれない、と思えば今更ながらに背に冷たいものが流れる。

 と、その時、鳥の羽ばたき音が間近で聞こえた。
 視線を上げれば、あの時、ミロの元へと飛んできた赤い翼の鳥が氷河のすぐ目の前にちょうど舞い降りてきたところだった。

 すうっと流れるような動きで滑空してきた鳥は、そのまま、マストへと鋭い鉤爪を押し当てて、そして翼を折りたたんで止まった。

 鳥まで俺をバカにしているのか───いや、待て。

 いかに鋭い鉤爪をもっていても全く何もないところを止まり木にするだろうか。
 ほかに止まるべき物体は上下左右無限にある。

 つまり───氷河のところから見えないだけで、あの鳥の足元には彼が(彼女が?)楽に翼を休めることができるだけの足がかりは───多分、ある。

 賭けだった。
 いずれにしても、もう長くその場に止まる体力は氷河に残っていなかったし、賭けに敗れて手がかりを掴み損ねて落ちたとしても、無数に張り巡らされたヤードロープのどれかにひっかかって助かる可能性もゼロではない。
 決断は早かった。
 よし、と深呼吸するが早いか、氷河は最後の足がかりを大きく蹴って自らの身体を伸び上がらせた。
 そして、鳥の足元へ───多分、存在するはずの手がかりへ───腕を伸ばす。驚いた様子で飛び立った鳥が今しがたまで掴んでいたところに指が触れ───確かに窪みがある、とわかるのと、しっかりとそれを掴みきるには僅かに腕の長さが足らない、と理解するのはほぼ同時に起こった。
 それでも渾身の力を指先に込めてマストにしがみつこうとし、だが、駄目だ、これは落ちる、と覚悟を決めたときだ。
 ぐっと強い力で氷河の手首が掴まれた。
 トップヤードに両膝裏をひっかけて逆さまとなったミロが、氷河の腕を掴んだのだ。
 そのまま自らの身体と共に氷河を帆桁の上まで引き上げて、なんという無茶をする、と言ったミロの額には珍しく汗が滲んでいた。
 氷河はぜえぜえと息を吐きながら、「き……さまが……来い、と……言った……んだろ」とミロを睨みつけた。
 ああ、と頷いてミロは、細い帆桁の丸太の上で不安定に揺れている氷河の身体に腕を回して支えながら、「確かに俺がそう言った。まさか俺についてこれるとは思わなかったが」と、感嘆の声を上げた。
「ふん、木登りは得意なんだ。高いところだって別に怖くなどない。からかえなくて残念だったな」
 得意、というのは本当だ。
 唯一、一度もアイザックに負けたことがない。お前、前世は鳥か何かじゃないのか、そうアイザックに笑われるほど、身軽なのが自慢だ。
 さすがにこれほど高いところに上るのは初めてだが、と、氷河は初めてそこで下を見下ろした。
 甲板ははるか彼方。水夫たちが豆粒より小さく見える。落ちれば死は避けられない高さであることは明白だ。
 だが、高ければ高いほど、ミロを見返してやったようで小気味は良かった。誰もかれもが怖気づいて、体のいい玩具に成り下がると思っていたら大間違いだ。
 ミロは、からかわせないためにここまでするのか君は、と少し呆れ、それから、揺れる帆桁の上で安定のよい姿勢を探すように何度か氷河を抱きかかえ直した。ミロに黙って身を任せていることに激しい抵抗感はあったが、実際問題、もう指一本たりと動かす力は氷河には残っていなかったし、一矢報いたことで満足し、あとは好きにするがいい、という自棄気味の心境でもあった。

「俺のとっときを見せてやると言ったな?ここまで来れた褒美をやろう」
 見てみろ、とミロは前方を指差す。
 遮るもののない視界、全方位を囲む海は美しいコバルトブルーの輝きを放っている。不純物のない青が、同じだけ透明な青を反射して、それは沿岸から臨むよりはるかに完璧なブルーだった。
 見るも鮮やかなブルーに柔らかな空の色が重なり、空と海との境界はまるで白く発光しているように荘厳で───こんなに美しく、非の打ちどころのない青は見たことがない、と氷河は息を呑む。
 船の周りをぐるぐると滑空している先ほどの鳥の翼の赤がまた、完璧な青に大いに映えていて、なんて、なんてこれは……
 感嘆のため息をつきかけて、慌てて氷河は口を閉じた。
 ───素直に認めてやるわけにはいかない。
 海もミロも、俺は嫌いなのだから。

 目の前に広がる光景に目を奪われているくせに、唇をへの字に曲げている氷河の様子にミロは少しだけ苦笑して、だが、強引に感想を求めることもせず、自分自身が景色を楽しむかのように目を細める。
 理解、できない。
 海賊を生業にして生きているような人間に、これを美しいと感じる心があるのか。
 美しいものを美しいと感じる心があるなら───なぜ、醜悪な暴力まかせの世界に身を置いている。それは対極で相容れぬもののはずだ。

 氷河はそっとミロを盗み見た。

 蠍、ではないのか……?

 この違和感は、そう仮定すると説明はつくようにも思うが、だが、そうだとするとわざわざ凶悪なお尋ね者を騙っている意味がわからない。今や『蠍』は国賊だ。海軍筆頭に国中から追われる身、本物でもない限り、蠍を名乗るメリットなどありそうもない。
 違和感の答えを得ようと、氷河はミロの日に灼けた肌に視線を滑らせる。
 目に見えている範囲にそれらしき刺青はない。ただ、あの時の男は上半身を曝け出すように大きく上着を肌蹴ていたような気がする。
 となれば、今はシャツで隠されている胸か、背───?それとも腕か……腹、ということはなさそうだが。
 ミロのシャツの釦はたいてい上から二つ目あたりまでが開いている。もう一つ二つあれを外すことができたらわかりそうなものだが。暑いな、と気軽に脱いででもくれればよいが、海に飛び込んだ後にも濡れたシャツを脱ぐようなことはなかった。後は、彼の部屋に忍び込んで着替えをのぞくか───

「大胆だな」
 不意に己に向けられた海と同じ色をした瞳に、氷河は、えっと声を上擦らせた。思考がまた口から零れていたのかと思ったのだ。
「物欲しそうな目で見られては応えぬのも礼を失するというもの」
「もの……なっ、ち、ちが……!」
(口からは零れていなかったが、目は口ほどに物を言っていたようだ)
 断じて違う!!ととんでもない誤解(脱がせたい、とは思ったが、ミロが思うような意味じゃない!!)に首を振る氷河を見るミロの瞳にはからかいの色が戻っている。
 逃げるための足場はない。痺れた四肢が支えきらぬ身体は既にミロの腕の中。
 とん、とマストに背をつけられ、顎を持ち上げられて、氷河の身体は緊張に強張った。

 またアレ、だ。

 一度経験した身、既に身構えて拒絶の空気を纏わせているのを、ミロがくつくつと笑う。
「せっかくのデートなのにキスもさせないつもりか?」
 デートであるものか、これが!
 口を開けば、その隙を突かれて唇を塞がれそうで、氷河は心の中だけでそう叫ぶ。
 だが、抵抗は無駄だった。
 ぐっと引き寄せられた身体が男の熱に包まれたかと思うと、唇も同じ熱を感じていた。
 やめろ、とようやく吐いた息は、暴れると落ちるぞ、という囁きで封じられる。

「……っ……ん……ッ!」
 無遠慮に唇をこじ開けて挿しいれられる熱い舌に呼吸を奪われ、頭の中が白く霞む。
 抵抗にミロを押し戻そうとしていた腕は、だが、途中で突然に方向転換を決めた。

 そっちがその気なら。

 やってやる。
 あの時は未遂に終わったが、もう遠慮などしない。蠍であるかどうかはこの際関係ない。海賊であること、理由はそれだけで十分だ。

 抵抗をやめ、氷河は大人しく唇を開いて機を待つ。
 ミロは一瞬だけ動きを止め、だが従順になった氷河を満足そうに撫でて、より一層深く口腔を愛撫する動きを強める。
 息苦しさに耐えて耐えて、よし、今だ!と氷河が力の限り歯の根を合わせた時だ。
「バレバレだ」
 という笑いを残して、するりと男の熱が氷河の中から去った。

 ガチ、と目的物を失って勢いよく空振りさせられた歯の根が、図らずも自分の舌に当たって、あまりの激痛に口を押さえて氷河は、ううっ、と身体を折ってもんどりうつ。
 そんな殺気立ったキスで騙されるものか、とミロは可笑しそうに腹を抱えて笑っている。
「もう少し情緒のあるキスの仕方も知らんのか坊やは」
「……知らなくて悪かったな」
 憮然とした表情の氷河にミロはふと笑いを止め、首を傾げる。
「まさか初めてというわけでもあるまい?」
「だったらどうした!」
 知らないことが、何かこう、半人前と嘲られたように感じられて氷河は顏を火照らせる。
 だがミロは笑うどころか、虚を突かれたかのように目を瞬かせて、初めてなのか、と確認するように繰り返す。
「『先生』には教わらなかったのか」
「せ、せんせいが、こんなふざけたこと、するわけない…!」
「驚いたな……もったいぶった家庭教師もあったものだ」
 どおりで乳臭さが抜けんはずだ、まあ、こんな坊や相手では教えようもないのかもしれんが、と感心されるに至って、氷河は羞恥と怒りで真っ赤になった。
 倫理観をもたぬ男の戯言など気に留める必要はないというのに、いや、だからこそそんな男に侮られるのはどうにも我慢がならない。
「バカにするな!俺は『坊や』なんかじゃない!」
「と、たいていの子どもは主張する」
「違う!あの夜に大人となるはずだったんだ!貴様が台無しにさえしなければ!」
「ほう…?」
「こ、後継指名とともに帯剣の儀を控えていたんだ。それを貴様が邪魔をした」
 多分、というのはもちろん言葉にはしない。
 望まない後継選びが気が重く、自分たちの成年がどういう形で訪れるのか考えてみる余裕は全くなかった。あの夜に帯剣の儀が控えていたかどうかなど知る由もない。
 氷河の口から出任せに、ミロは、
「邪魔をしたなら悪かった。……だが、たかだか剣の一本で大人になれるとはずいぶん易いものなのだな、坊やたちの世界は?」
と、わざとらしく感心してみせた。
 ぐっと氷河は二の句を失う。
 ミロの指摘は至極もっともで、どちらかといえば氷河自身、そうした宮廷流の形式主義をバカバカしいと感じることも多かったものだから、反論が浮かばない。
 耳を赤くして黙り込んだ氷河に、ミロはそれ以上を深追いすることなく、さて、と辺りを見渡すように顏を上げた。
「そろそろ風が吹く頃合いだな」
 方角を測るように遠くに視線をやってミロは目を細めている。
 目的地を定めていないのか、スコルピオ号の進みは緩やかだ。
 普段は窓のない船倉に閉じ込められているため、氷河の感覚から得た印象でしかないが、スコルピオ号は風任せにただ流されているようにも思える。
 そうやって気まぐれに漂っては、偶々行き会った商船を襲うのが彼らのやり口なのだろうか。だが、この広い海域で偶々商船と行き会う確率はいかほどのものか。蠍が沈めた船の多さからして、偶然に頼っているとは到底思えない。意味がないように見えるこの航行にもきっと何か意味はある。

 戻るぞ、と、ミロは氷河に立ち上がることを促した。
 だが、マストを上るために使い果たしてしまった筋力は完全に戻ったとは言えず、帆桁の上へようよう立ち上がった氷河の膝はまだバカみたいにがくがくと笑っていた。
「ところで君は、」
 と、氷河の腰を支えながら問うたミロは完全に呆れ声だった。
「どうやって下へ戻るつもりなんだ?」
 言われずともとっくに気づいていた問題に、氷河は憮然として唇を結ぶ。
「言っとくがその状態では来た道は戻れないぞ。下りる方が上るより数倍難しい」
「……知っている」
 木登りでは、たいてい跳び下りて済ましていた。下手に枝を伝い下りるよりよほど安全だったからだ。
 ミロの手前、無茶を承知で木登り同様跳び下りてみたっていい、そんな自棄気味な発想も脳裡を掠めていたが、彼はひとつため息をつくと、真剣な表情となった。
「君はどうやらすぐに周りが見えなくなるようだから教えておいてやろう。何かを為すときに、退路を確認しておかないのは愚か者のすることだ。勇ましく突っ込んで行くのはいいが、死体になって帰ったのでは意味がない。退路を気にせず命を賭けていいのは生涯一度きり。安売りするものじゃない」
 また、だ。
 無法を働く海賊という存在に、命について教え諭されているこの不条理は、やはり納得はいくものではない。
 ただ今回は愚かなことをしたという自覚があったぶん、ミロの言葉を痛い、と感じる自分がいた。

『お前のそれは勇気ではない。己の命を顧みようとしないのは、無謀あるいは自棄と言うのだ』

 かつて何度も言われたカミュの言葉が今にして甦る。
 その時は氷河はよく理解できなかった。死を恐れて敵に背を向ける臆病者にはなりたくありません、と反発までしてみせて……そういうことを言っているわけではないのだ、とカミュをよく困らせた。
 師の言わんとしていたことが、今、敵であるミロにすら呆れられたことでようやくわかる。
 死を恐れることは恥ではない。
『恐れないこと』に拘って、犬死することの方が恥なのだ。

 さすがに少し落ち込んで視線を俯かせた氷河に、ミロは、おや、珍しく殊勝だな?とからかうような声を出す。
 殺してやると言えば覚悟もないのに言うなと威圧され、大人しく反省すればからかわれる。
 一体どうしろというのか。
 言っておくが貴様に言われたからじゃない、過去のカミュの言葉が今響いただけだ、と心の裡でだけやはり小さな反発はしておいて、氷河はミロに問うた。
「ならば貴様はどうなんだ。海賊ごときに生涯一度きり命を賭けるほどの大切なことがあるとは到底思えないが」
「は!愚問だな。俺たちが命を賭ける時など決まっている。目も眩むようなお宝に出会った時がそれだ。例えば、海にも負けぬ美しい青の宝石───君のことだ」
 そう言って、ミロは氷河の手を取り、甲に唇を押し当てると、上目づかいに氷河を見上げ、ニヤ、と笑った。

 どこまでも人を食った男だ。
 やっぱりどうにも理解はできない。
 いかにも海賊らしい独善的すぎる論理と、相手にするのもばかばかしいほどの軽薄さは真に男の本質か、それとも故意に装われたものか。
 いっそ、全く言葉が通じないような、想像通りの野卑な海賊の姿を見せられた方が話は簡単だったが、ふとした拍子に垣間見せるカミュにも似た篤実さが迷いを生じさせ、その実体は掴みきれない。


 ごう、とマストに沿って吹き上がった風を合図に、ミロは、こうしてはいられない、と片腕で氷河を支えたまま、残る片腕だけで、己の腰に巻いていたサッシュベルトを器用に解いた。

 何を始めるつもりだ……?

 氷河の疑問の視線をものともせず、手っ取り早くいくぞ、とミロは視線を上げる。
 メインマストのてっぺんからは、柱を支えるために船の舷に向かって無数のロープが張り巡らされているのだが、ミロはその中から、船首斜檣に向かって真っすぐ張られたロープへ大きく伸び上がるようにして腕を伸ばした。
 幅広のサッシュベルトを放り投げるようにしてそこへ引っかけ、輪を作るようにその両端を己の手首に巻きつけ……

 何をする気だ……何を、する気だ……!

 ミロが作ったのは即席の滑車もどきだ、ということに気づいた瞬間に答えは得ていたが、だからこそ、正気の沙汰ではない、と氷河は信じられない思いで目を見開く。

「高いところは平気だと言ったな?」

 そういう問題ではない。
 氷河の視線が追ったロープは、メインマストから船首に向かって確かに真っすぐ張られてはいて、滑り降りるのは理論上は可能だろうが、張られている角度があまりに鋭角すぎる。
 これでは『跳び下りてみようか』とした氷河の発想と大差ない。
 ロープを伝って滑り降りたところで、ほとんど墜落同然のスピードで甲板に激突するのは必至、いや、甲板に到達するより先に、船首とメインマストの間にそびえ立つフォアマストにぶつかって落ちる羽目になるやもしれない。今は折りたたまれている帆だって軌道を邪魔し、地につくまで握力が自重を支えきれる保証もなく、摩擦でサッシュが裂けないとも限ら、

「つかまっていろ」
「……な、」

 予告らしき予告は、たったそれだけだった。
 ミロの無謀を(どう考えても俺よりよっぽど無謀ではないのか、これは!)説き伏せようと組み立てられていた論理は、身体が空に浮いた感覚に突然に途切れた。

 つかまっていろ、と言ったくせに、自分の方がむしろ氷河をつかまえた状態で強引に帆桁を蹴ったミロに、氷河は反射でしがみつく。不本意と感じる余裕などあろうはずもない。あるのは、生存本能、ただそれだけだ。
 胃がひっくり返りそうな感覚と、叩きつけるような激しい空気抵抗に全身を包まれて、氷河の呼吸は止まる。
 瞬く間に目の前に近づいたフォアマストの帆が頭上すれすれで風を起こし、無数に張り巡らされたヤードロープはミロの袖を打ち、氷河の髪を掠め、そしてもうその次の瞬間には、耳元で激しくうねる風の音と共に急激な勢いで近づく甲板が目に飛び込んできた。

 だめだ、やはり激突する…!

 衝撃に耐えるべく、ぐっと腹に力を入れた時だ。墜落すれすれのスピードで滑り落ちていた氷河の身体はぐん、と後方へ引っ張られる感覚と共に、大きく空中を舞った。
 そのまま振り子のように、ロープを支点として前後に大きく身体が揺れるのに、目を白黒させて見上げれば───サッシュベルトの滑車は、ロープにできた瘤(多分、結び目か何かだ)を終点として止まっているのだった。
 そこで止まることは計算のうちだったのか、勢いよく前後左右に振られていた二人の身体の揺れが小さくなるや、ミロは、マストのてっぺんからしたらはるかに近づいた甲板めがけて軽やかに跳び下りた。

 身構えていたよりずっと軽い衝撃で、ミロとともに着地した氷河は、支えがなくなるや否や、片膝をがくりとついた。
 は、と久しぶりに息をして、何が起こったのか、自分が直前までいたはずのマストの上を見上げようとしたが、それよりも早く、わあっと歓声を上げながら集まってきた水夫たちに囲まれて、氷河はもみくちゃにされていた。
「キャプテン以外に上ったヤツを初めて見た!」
「悲鳴も上げないとは」
「スコルピオ号の伝説がまたできたな」
「これでただの捕虜とは実に惜しい」
 口々に称賛の(?)言葉をかけて、氷河の背をばんばんと叩く男たちの向こうで、同様にミロが水夫たちに囲まれている。
「キャプテン、脱走の罰にしては厳しすぎやしませんかい?あまり怖がらせると後で航海長がうるさいと思いますがね」
「別に罰ってわけじゃないからカノンには好きに言わせておけばいい。それにそいつは別段怖がっていなかったぞ」
 ほんとですかい?と問うた水夫が感嘆の声を上げて氷河を振り返ったものだから、成り行き上、氷河は涼しい顔をして両の足でしっかりと立って見せねばならなかった。
 本当は怖がる間もなかった、というのが正しい。
 まさかと驚いて、次の瞬間には空を飛んでいて、気づけばもう水夫たちの輪の中にいた。

 なんて……なんて奴だ……!

 蠍、だ。間違いない。
 俊敏にして獰猛、大胆にして不敵。いくら真っ当な人間を装ってみてもその本質は隠せない。
 今年に入ってまだたった半年で商船、護衛艦含めて二十九隻も沈められた。大げさに伝えられた数字と思っていたが、この男ならきっとやる。

 さあ、ショーは終わりだ、と、まだお祭り騒ぎの甲板でミロが声を上げる。
「帆を張れ、風が出るぞ」
 わあわあと好き勝手に騒いでいた水夫たちは途端に背筋に一本芯を通されたように表情を引き締め、アイアイサー!と統率された動きでそれぞれの持ち場へ散っていく。
 三本のマストに分かれた水夫たちは、マストのてっぺんから両舷へ向かって張られているロープの根元に寄り、次々にハーネスをつけると、マストに向かって縄梯子を上り始め……

 縄梯子?

 梯子?

 よくよく見ればどのマストも、細いロープを網目のように交差させて作られた足場がきちんと両舷からてっぺんまで続いていて、水夫たちは危なげなくそれぞれの持ち場のヤードまで到達して帆を張る準備に取り掛かっているのだった。

「な……な……あんな、あんなめちゃくちゃな方法じゃなくても上り下りできるんじゃないか……!」
「当たり前だ。帆を張るのにいちいち命を賭けていたのでは水夫がいくらいても足らない」
 開いた口が塞がらないでいる氷河をミロは悪戯っぽく笑っていた。
「見えるものも見えなくなる、と言っただろう」
 ぐうの音もでないとはこのことだ。
 安い挑発に乗って、ちょっと考えてみればすぐわかることを見落として、結局、仇敵に命を預ける事態に陥って。
 ほんの少し、ミロを見返した気分になって溜飲を下げていた自分がひどく小さく見える。

「さあ、楽しいデートは終わり。坊やは戻った戻った」
 再び船倉へと氷河の背を押すミロの手を、氷河はただ、黙って受け入れるしかない。