藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ⑤◆
カミュの声だ。
アイザックは、カーテンの前で立ち止まった。
開放された窓の代わりに広間とバルコニーを隔てているカーテンは、寄せて返す波のようなリズムでゆらりゆらりと緩やかに揺れている。
その薄い布地の向こう側から、広間で鳴り響く舞踏曲にもかき消されることなく届いた低い声は、確かに師のものだった。
慣れぬ酒精が回って具合を悪くした氷河を残し、水を取りにと走ったものの、己が傍を離れている間に倒れていまいか、と心配し、焦る気持ちでいっぱいだったアイザックはほんの少し(ほんの、ほんの少しだけだ)がっかりした。
氷河に倒れていて欲しかったわけではない。
ただ、せっかく大慌てで戻ってきたが、師が傍についているなら無用だったかもしれないな、と己の左手が掴んでいるグラスにチラと視線をやる。
アイザックの歓心を引きたがる連中を振りきって、大忙しの給仕を捕まえて水をもらってくるのは結構難儀なことだったわけだけれども。
でもまあ、戻りの遅い弟子二人を案じて、様子を見に来てくれたに違いない師の気配りは素直にありがたい。それに、まだ無駄になったと決まったわけでもない。
そんな風に自分の気持ちを整理するのに必要だった時間は、ほんの僅か。
大きな息をひとつ吐いて気持ちを切り替え、いつもの「頼れる兄」らしく、具合はどうだ氷河、と、カーテンを開こうとした時だった。
ひときわ強く吹いた風が今にも開かんとしていたカーテンを大きく翻らせて、バルコニーに立つ二人の姿を一瞬だけ顕わにさせた。
いたずらな風は、二人の姿を垣間見せるだけ見せておいて、再びカーテンをアイザックの鼻先にするりと落とし、視界から二人を消した。
が、その一瞬で───全てを認識し終える前に心臓がドッと大きく跳ねていた。
人違いをした、と刹那思ったのだ。
てっきりバルコニーではカミュが氷河を介抱しているのだろうと思い込んでいたが、どうやら二人は既に広間へと戻っていて、バルコニーはいつの間にか誰かほかの恋人たちの秘密の逢瀬の場へと変わっていたようだ、と。
咄嗟に、無粋に覗き見る結果となってしまった非礼を心で詫び、だが、次の瞬間には、いや、あれはやっぱり氷河の背じゃないか、ということに気づき……ということは、つまり、やはりあそこにいるのはアイザックのよく知る二人なわけで。
そこで、俺も思っているより酔っているらしいと笑って流してしまうほどアイザックは雑な性質ではなかった。
一瞬のこととはいえ、なぜ、俺はそんな誤解を……?
網膜に焼き付いた光景の細部をアイザックはひとつひとつ検証して、己の奇妙な誤解の原因を探る。
氷河はまだ気分が悪いのか半ば手すりにもたれたまま俯いていた。
カミュの指が氷河の頬の上でひどく優しげに雫を拭う動きをしていて、それで……それで、俯く氷河のつむじに注がれているカミュの瞳が。
再び大きく心臓が鳴る。
カミュの瞳に、ごく仄かに甘い感情が漂っていた。
そう、見えた。
弟子たちの成長を見守るときの温かな瞳とはまた違う。
何かを言いたげに躊躇う口元は、氷河を慰めていながら、それでいて、何かを(何を?)氷河に乞うてでもいるかのような……
あれでは。
あれでは、まるで。
どうやってその場を離れたのかは全く覚えていない。
気づいた時にはアイザックは、広間から遠く離れ、一人、中庭に面して開放された外回廊を歩いていた。
何故二人に背を向けてこんなところまで逃げて(と、言っていい勢いで歩いていた)きたのか、自分でもよくわからず、酷く混乱していた。
見てはならぬものを見た、と思った。
風で捲れた他人のノートに、思いがけず赤裸々な日記が綴られていたのを目にしてしまった、ような。
夜目だったし、一瞬の出来事で、距離もあった。だから、あれがいつものカミュらしくなかったかどうかを判ずるには早計に過ぎ、おかしな見間違えをしたものだと自分を納得させることはさほど難しくはなかったかもしれない。
ただ、なぜだか直感は告げていた。
カミュの心の片鱗をのぞき見てしまったのだと。
根拠などない。根拠などないのに、確信だけがあるのは───
自分の中にも、カミュを甘く優しく笑ませていたのと同じ種類の仄かな感情がある、からだ。
二人の姿に動揺して、自分が動揺した、という事実で、初めてアイザックはそのことを自覚した。
いつのころからか。
カミュにきつく叱られて取りつく島がない時。
光政卿との会話の接ぎ穂に困った時。
村娘たちにきゃっきゃと囲まれて動くに動けない時。
助けが必要な時にはいつだって氷河の青い瞳はアイザックを探しているのだ。困ったやつだな、と渋い顔をしてため息をつきはしてみせてはいたものの、口で言うほどにアイザックはそのことを厭うていたわけではない。なかったのだ、多分。
全く自覚はなかったが、今にして思えば、兄貴風を吹かせて、お前もいい加減にもっとしっかりしろ、などと愚痴てはいたものの、頼られるたびに胸の内を満たしていたのはむしろ、密やかな喜びにも似た感情だった。
ここまで自覚せずに来れたほど、それは、曖昧で不確かなものではあったが、俺がいないと駄目なんだからお前は、と言いながらついたため息は、そう、確かに甘美な疼きをアイザックにもたらしていた。
カミュはどうだろう。
自覚していたら、二人きりだったとはいえ誰に見られるかわからぬ空間であの師が隙を見せたとも思えない。
師としてのカミュは、完璧だった。
光政卿の後継として育てられていながら、だからアイザックが目指していた理想像は常にカミュだった。
彼は、二人の弟子に差異をつけることは決してしなかった。
複雑で悲劇的な経緯で引き取られることになった氷河に対しても、アイザックにそうであったように、厳然とした態度を貫いていた。
声を荒げたり、冷たく突き放したりすることはまるでなく、心配りは非常に濃やかであったが、もう少し氷河に甘くしてやってもいいのに、とアイザックがやきもきするほど、駄目なものは駄目、という態度は終始一貫していた。
氷河をこっそり助けてやる役回りも、内緒だぞ、と少し甘やかしてやる役回りも、だからいつもアイザックだった。
泣き疲れて眠りこんだ氷河の課題を代行してやり、光政卿への拝謁を厭うて逃げ出したのをごまかしてやり、うるさい辰巳のお小言を代わりに聞いてやり……………ただ、そういえば、それらのことを師に咎められたことは一度もなかった。いくらこっそり手助けしていたとはいえ、子どものすることだ。あの聡明な師が全く気づいていないはずはない。なのに一度もお咎めなしであった、ということは逆に、師は全て承知していたことの裏返しなのだろう。
師という立場だから、ということのみならず、複雑な政治情勢のせいで、カミュは二人のうちどちらか一方に肩入れしていると思われるような態度を微塵も見せるわけにいかなかったのだろう。
カミュの些細な態度次第で政局が変わる可能性があったとなれば、自覚するせざるに関わらず常に神経は張り詰めていたに違いない。
だが───実質上、師弟関係は今日で終わる。
後継指名が成れば、全く同じ位置にいた、アイザックと氷河の力関係も変わるだろう。カミュが決してつけなかった差異は否応なしに生まれてしまう。
明日から離れ離れになることを思えば、最後の夜にほんの僅か、「師の立場」を失ったカミュを誰が責められよう。
頭では冷静すぎるほど冷静に、そんなふうに理論立てて分析はできている。
それなのに、(いや、それとも、だからこそ、か)胸の中にもやもやとした消化不良の何かが広がっていくのを止められず、アイザックは酷い息苦しさを抱えて困惑していた。
相手がカミュでなければ、多分、アイザックの内側で起こった変化は「嫉妬」と呼ばれる、古今東西、万人の身に起こる、単純明快なもので済んでいた。
氷河に触らないでくれ。
例えば、あの司令官殿が相手なら、そんな風にあからさまな牽制をしてみせたかもしれない。
なのに相手は、この世で一番敬愛してやまない師だ。嫉妬心を向けることすらおこがましいほど尊敬している。
アイザックにとっては氷河と同じだけカミュのことも大切で、心から彼らの生に幸いあれと願うことに一点の曇りもない。
二人の幸いを願うなら───俺はどうすればいい。
俺の存在は二人にとっては異分子だろうか。
アイザックは歩みを止め、回廊の天井を支える柱へ背をつけて、その場に力なく座り込む。
酷く重く感じる身体を支えるために地面へ手をつこうとして、ふと、アイザックは水のなみなみ入ったグラスを己がまだ持ったままだということに気づいた。
いつまで後生大事に抱えている。
最初からこんなもの必要なかったというのに。
急激に込み上げた破壊衝動を抑えきれず、アイザックは座り込んだままそれを向かい側の柱へ向かって投げつけた。
装飾柱にぶつかって、グラスは水を飛び散らせながら粉々に砕け散る。
込み上げた衝動に従ったことで少しは気が晴れるかと思いきや、カミュならこんなこときっとしない、そう思うと、浅はかにも物に当たって鬱憤を晴らそうとしたことへの後悔が押し寄せてきただけで、抱えた苦しさは却って増した。
無駄になって、何の役に立つこともなく無為に石畳を濡らして消えた水を見つめ、まるで俺だ、とアイザックは思った。
ストレートに嫉妬することもできず、さりとてうまく昇華する術も知らず、負の感情は全て自分自身に跳ね返って、酷く惨めで孤独な気分だった。
「荒れているな」
突然、声が降ってきたのはその時だ。
自分以外の存在があることに驚いて、アイザックはハッと顏を上げた。
仰ぎ見れば、いつからそこにいたのか、アイザックが座り込んでいる柱の陰に長身の男が立っていた。
ずいぶん見目の良い男だ、というのが第一印象だ。
かといって氷河やカミュのような、宮廷でもてはやされる類の品よく整った中性的な美しさではない。
赤銅色に灼けた肌と精悍な顔つきは、海の男のそれだ。
まるで野生動物が獲物を狙って身を潜めるかのように、深海色の襟つきシャツは夜に溶け込んでいるが、肩に広がる長いプラチナブロンドは凛と光って男を縁取っていて、その存在を際立たせている。
招待客ではない。
軽装すぎるし、これほど目立つ男はあの中にはいなかった、と思う。百歩譲ってアイザックが見逃したのだとしても、招待客なら誰もがアイザックの顔と立場を知っているから、こんな無遠慮な声のかけかたはしないだろう。
明日の出航のために多くの水夫が雇い入れられているから、もしかしたらその一人なのかもしれない。離れの使用人部屋では、彼らにも酒や馳走が振る舞われているはずだった。酔い醒ましの散歩に中庭へ出てきた者がいても不思議ではない。
瞬時にそれらを分析すると、アイザックは当主の息子たるにふさわしい余所行きの顔つきに戻って、きりりと立ち上がった。(哀しいかな、心の中でどんな嵐が吹き荒れていようとも、自暴自棄になって理性を失ってしまえないのがアイザックのアイザックたるゆえんだ)
「風はあるが荒天というほどではない。明日はきっと出航日和になるだろう」
荒れている、というのは天候ではなく己の内面を差して言ったのだともちろん気づいてはいたが、アイザックは襟を正しながらそんなふうに答えた。
つまり、立ち入らないでくれ、という強い拒絶を、無作法にならぬよう婉曲に伝えたわけだ。
雇われ水夫だとしたら、こうした、宮廷流の婉曲的な作法が通じるかどうかは怪しいところだ。船乗りはたいてい野卑で、デリカシーの類は欠落している者が多い。
それでも、そう取り繕ったのはアイザックのせめてものプライドだ。
自身でも経験したことがないほど打ちのめされている心の内側を、誰かに、ましてや見知らぬ他人になど触れさせたくはなかった。
だが、アイザックのその健気な努力は無駄に終わった。
男は、こちらの意図を正確に察したようで、可笑しそうに片頬を歪めると、そうだな、明日の日和「は」良さそうだ、と割れたグラスの欠片をわざとらしく拾い上げながら頷いた。
アイザックが故意に意味を違えて取ったことに気づいたのなら、それを気づかぬ振りで流すのがマナーというもの。わざわざ、そういうことにしておいてやろうか?と言わんばかりに皮肉な笑みを見せるなど……これなら通じない方がまだよかった。
アイザックの頬は知らず熱くなる。
見目は良くともなんと感じの悪い男だろう。
相手にするべきじゃない、とアイザックは男に向かって無言で一礼だけしてその場を立ち去ろうとした。
が、その背に男が投げかける。
「ただし、出航は明日ではなく今夜だ」
どういう意味だ、とアイザックが振り向こうとした時だ。
遠く広間の方角から、キャーッという叫び声が響いた。
明らかに急を告げる、切迫した悲鳴だった。
悲鳴ばかりではない。何かが割れる音や大きなものが倒れる音など、風に乗って異音が次々に届く。
「……何だ……?」
何か尋常ならざる事態が起こっている、と胸騒ぎに襲われ、アイザックは駆け出そうとした。
が、男の手が猫の仔でもつまみ上げるように、アイザックの襟首を無造作に掴んで、それを阻んだ。
間違っても「当主の息子」にそんな不躾な触れ方をする人間などいない。アイザックが当主の息子だと知らないにしても初対面でこれはない。
先ほどの不快な会話と相まって、アイザックの口からは、無礼な、何をする、と、思わず鋭い非難の声が出た。
男の態度次第では衛兵引き渡しも辞さぬつもりでいれば、男は、肩をすくめて、無駄だ、もう遅い、と言いながらあっさりとアイザックを解放した。
無駄……?
無駄と言ったのか、今。
何が起こったかわからぬうちに何故この男はそんなことを言う……?
広間の方角からは次々に混沌とした音や声が届いていて、明らかに有事の気配が大きくなっている。もはや自分の中で渦巻いていた感情のことなど、アイザックの頭からはすっかりと霧散していた。
急激に膨らんだ警戒心に促され、アイザックは改めてまじまじと男を観察した。
そこで初めて、二の腕までまくり上げたシャツの袖口からのぞく男の逞しい腕に細かな刀傷のような痕がいくつもあるのを発見して、アイザックはギクリとした。
腰の皮ベルトには、長剣の柄らしきものまで。
ドクドクとアイザックの全身が脈打つ。
咄嗟に脳裏を掠めたのは、暗殺、の二文字だ。「氷河派」と「アイザック派」で根深い溝ができているのは知っている。後継選びを、このままではアイザック有利と見なした氷河派の狂信的な連中が、乱暴で愚かな、だが確実な方法としてアイザックを排除する手段に出たとしてもおかしくはない。
いや、広間の方で争乱が起こっていることを考えれば、その逆で、狙われたのは氷河の方か。
だとしたらこの男は。氷河は無事か。先生は。
「……誰だ、お前は」
問いながら、アイザックは男からじわりと距離を取るように後退した。
この至近距離では、男の腕と剣の長さを鑑みれば抜かれた時点で終わりだ。
男に殺気は感じられない。
既にチャンスはいくらもあったのに、アイザックを害する素振りも見せてはいない。
だからといって、正体のわからぬ男を前に用心しない理由はない。
男はそれに気づいたのか、ああ、と間延びした声を出した。
「ここで抜くつもりはないが……気になるならお前に預けておいてもいい」
言って、男は腰に帯びた長剣を鞘ごとベルトの留め具から外した。そして、腕を伸ばしてそれをアイザックの方へと差し出す。
予想外の展開に戸惑って、だが、最終的には不審な男を前に丸腰でいることの心許なさの方が勝ち、警戒しながらアイザックはそれを受け取った。
ずしり、と途端に重量感が腕に伝わってアイザックは驚く。
男があまりに軽々と扱ったため、近頃主流の片手剣に見えていたが、いざ手にしてみると、柄の長さといい、大きな十字鍔といい、幅広の刀身といい、刃の鋭さよりもその重さで殺傷するタイプの豪快な両手剣だ。
受け取ったもののアイザックでは鞘から抜くのにも手間取りそうでとても身を守る武器として役に立つような代物ではない。
仕方なく、アイザックは男から視線を外さぬまま後ずさり、ずっしりと重い剣を自分の背後の地面に下ろした。
男が目を細めてそれを見、賢明な判断だ、と言わんばかりに頷く。(お前に褒められる筋合いはない、とまたアイザックの心は苛々と波立つ)
「お前は何者だ」
「何者か、か」
アイザックの再びの問いに、男は、難問だな、それは、と苦笑して、答える代わりにアイザックに問い返した。
「そういうお前は自分が何者なのか理解しているのか」
「なに?」
「自分の居場所がわからなくて苦しい、そう顔に書いてあるぞ」
男の言葉に、アイザックの鼓動はまたドッと乱れた。
そんなことが顔に書いてあるわけがない。
当てずっぽうに惑わされるな、というごく真っ当な自制と、自分は一目見てそうとわかるほど酷い顔を晒しているのだろうか、という不安とがアイザックの中でせめぎ合う。
「……今は俺が聞いているんだ。質問に答えろ」
かろうじてプライドを保って、厳しい声を出したアイザックに、うまく逃げたな、と男が肩を揺らして笑った。(つくづく癇に障る。断言できる、俺はこいつが嫌いだ)
アイザックはこれ以上男に主導権を握らせまいと、重ねて男を追及する。
「お前は誰だと聞いている。あの物音は何だ。お前の仕業か」
「何のために生まれて来たのか、自分の存在意義を知りたくはないのか?」
己の言葉を遮るように発せられた声に、なに、とアイザックは思わず男の顔を見た。どうせ不愉快にニヤついているのだと思っていたのに、予想に反して、真剣な色の瞳がそこにあることに、アイザックは戸惑う。
だが、突然に投げかけられたその命題を深く───深くどころかほんの僅かも、追究してみる暇は与えられなかった。
男は、ふと我に返ったかのように広間の方角に視線をやると、「おっと、こうしてはいられない。ぐずぐずしていると終わってしまう」と呟いて、すい、とアイザックに背を向け歩き出した。
えっと思わずアイザックの声に出た。
思いがけず、アイザックの琴線に触れる命題を投げかけるだけかけておいて、議論すらせずに会話打ち切り、とは。
強引に押されればガードを固めるが、こうも簡単に引かれてしまえば、却って気になるのが人間というもの。
「ま、待て」
不審者の挙動を制止した、というよりは、どちらかというと行かないでくれ、という懇願の色合いが声に混じったような気がして、アイザックはしまった、と眉を歪めた。
慌てて、そこを動くな、と続けたものの、先の会話の流れのせいで未練がましく追いすがってしまったような形になったのは否めない。
ただ、アイザックにとっては幸いなことに、耳に届かなかったのか、興味がなかったのか、男は数歩歩いてから、ようやく、何か言ったか、と言いたげに鷹揚に振り向いた。
そして、アイザックが立ち止まったままなのを見るや、少しだけ意外そうな顔をして首を傾げた。
「来ないのか?」
どこへ。
男が足を向けている先にあるのは、海しかない。氷河たちのいる広間は逆方向だ。
来るのだろう、と言いたげに男は再び背を向けて歩き出す。
「ッ!?おい、待て!お前は一体……おい、これはどうすれば、」
アイザックの足元には男の携えてきた剣が横たえられたまま。
男の背はどんどん遠ざかる。
逡巡する間はない。
くそっ、なんなんだ、いったい。
アイザックはずっしりと重い長剣を両腕で抱えると、待て、と男の後を追う。
今にして思えば、既にこのときに男の術中にはまっていた。不審者といえど他人の持ち物を預かって放っておけないアイザックの人の好さを、男はきっと見抜いていた。
アイザックが追いついたのを横目で確認すると、男はやや歩みを緩めた。追うように仕向けられたのだ、とそれで気づいたが後の祭りだ。
「海に出る。その格好では動きにくいぞ」
言っていることも行動も、何が狙いなのか、まるで支離滅裂だ。
つまり海までついてこいということなのか?
自分の正体を何一つ明かそうとしないのに、なぜ、俺がお前の言いなりに動くと思えるんだ?
「ふざけるな。海になど俺は行かない」
憮然として、低く威嚇したアイザックに、いや、ふざけてはいない、と男は言った。
「お前は明日には船の上だ」
「何を馬鹿な。俺を一体誰だと?」
男が笑う。
「もちろん知っている。『碧の宝石』だ」
俺がどこの誰だか知っているのか、とアイザックは虚をつかれた。
驚いて、だがますます不審はつのる。アイザックの素性を知った上で、この言動とは不可解極まりない。
人攫いまがいの強引な声のかけかたをしているのは、手当たり次第に働き手を掻き集めなければならないほど、出航前の人足夫が不足しているのかとも思ったが、その線はこれで消えた。
「ならば知っているはずだ。乗艦は我が師だけだ。俺と氷河はこの地に残る必要がある。後継が今夜、」
「誰が『せんせい』の船だと言った」
「ほかに何が……」
海鳴りが大きくなった。
中庭を抜けて、風を遮る木々が減ったのだ。
長い髪が風に吹かれて夜空に舞って、男が少し煩わしげに目を細める。
「蠍の船だ」
「……蠍……?」
蠍という単語と、男の腕の刀傷と、広間から聞こえた悲鳴と、腕に抱えた長剣の存在、そして今まさに開けた視界で目に入った見慣れぬ帆船、脳の中で次々に情報が繋がって、まさか、とアイザックは目を見開いた。
「お前は蠍か……!?」
「蠍かと聞かれれば俺は蠍本人ではない」
「だが海賊だ!そうだな?」
「自らそう名乗ったことはないが、そう呼ぶ者もいよう」
驚きと困惑でかえってアイザックの心は冷静さを取り戻した。
海の男だ、というアイザックの観察は合っていたわけだ。
だが、まさか海賊、とは……!
自分が思い描いていた海賊のイメージとは男があまりに乖離している意外性もさることながら、海賊討伐艦の就航祝いの席への急襲、俄かには信じがたいその大胆不敵さには驚きを通り越して感服すら覚える。
「何故この場で俺を殺さない」
「そういう命令だからな」
「だが、海賊が俺を誘拐して何の利がある」
「誘拐ではない」
男が再び笑う。
今日何度も目にした嫌な笑い方だ。だが男が海賊だと知れたことで見えてきた。わざとアイザックの感情を波立たせて理性を失わせ、場の主導権を握ろうとする、それが男の手だ。
うかうかと男のペースに乗ってしまった自分の未熟さが疎ましい。
「俺たちがお前に用があるのではない。お前の方が多分それを必要とすると思って迎えに来てやったまでだ」
「何だと……?俺は海賊になど迎えに来られる理由なんかない」
果たしてそうかな、と男が意味ありげに広間の方角を振り返った。
「蠍は今夜、青の宝石をもらいうけた」
「……な……まさか。嘘をつくな!氷河ならさっきまで師カミュが……」
自分自身の言葉で、また先ほどの苦しさが戻ってきてアイザックの息は乱れる。敵(と、もうみなすべきだろう)を前に、己を理性的に保ち続けるには、今夜はあまりに間が悪すぎた。
「誰がついていようと関係はない。蠍は狙った獲物を逃したことがない。嘘だと思うなら確かめに戻るか?まあ……戻って真実だとわかった時にはもう手遅れだがな。俺たちはとうに海の上だ」
これは何かの罠だろうか。
カミュがついていて氷河を奪われることなどあるはずがない。
そう信じているが───
だが、もし、万に一つ本当なら……?
氷河は、今、どうしている。
困った時に見せる、アイザック、と己の姿をうろうろと探す青い瞳が思い浮かんで、だが、俺の出番はもうない、と慌ててそれを打ち消して、打ち消した途端に再びまたそれが脳裏を掠めて、アイザックの心は千々に乱れる。
こんな胡散臭い男の誘いに乗るのは全く賢明じゃない。今すぐ師の元に戻って真実を確かめ、指示を仰ぐべきだ。
優等生らしく正解はちゃんと心得ている。
だが、夜の海に停泊している帆船の不気味な影と、男の確信めいた不遜な態度が、アイザックに冷静な判断を下すのを妨げさせる。
「氷河に怪我などさせていないだろうな」
そう問うてしまった時点でアイザックの負けだった。
男は、アイザックがそう問うのを知っていたかのようにふっと無音で笑って、自分の目で確かめるといい、と頷いた。
男について行く以外の選択肢はこれで消えた。
徹頭徹尾、男のペースのまま、アイザックはほとんど無抵抗どころか、自ら望んで海賊船に乗る羽目になった。バルコニーの二人の姿を見た後でなければこうはならなかったような気もするし、最初からこうなることは必然だったような気もした。
男の名がカノンだ、というのは海賊船のタラップの上で聞いた。
何者だ、という問いに対するずいぶん遅い答えだった。
**
アイザック、と氷河は驚きに息を呑み、だが、次の瞬間には、ほうっという大きな吐息とともに全身に漲らせていた警戒を解いた。
張り詰めていた糸が切れたかのように、足元が怪しくなるのを、慌ててアイザックは腕を伸ばして支える。
氷河に触れて───今度はアイザックが息を呑んだ。
たった数日しか経っていないのに、ずいぶん痩せている。手に触れる背はほとんど骨と皮ばかりだ。
「許せない、お前まで奴らに無理矢理連れて来られていたとは」
怒りで震える氷河の、肉の落ちて細くなった肩を前に、自ら望んでここへ来たアイザックは応える言葉が見つからず、ただ、気まずく立ち尽くす。
危険を冒してここまできたのだ、氷河に会いさえすれば、自分の中でぐるぐると縺れていた感情はすっきりと元通りになるような気がしていた。
確かに氷河はアイザックを見るなりいつもどおりの安堵の息をつきはしたが───今、アイザックにもたらされたのは、甘い疼きどころか、強烈な後ろめたさだ。
『氷河を従順にこの船の上へ留めておくこと、それがお前の役割だ』
カノンはそう言った。
まるでアイザック自身に海賊船に乗らねばならぬ理由があるかのような物言いをしたくせに、本当のところは、海賊どもの方がアイザックを必要としていたのだ。
それをカノンに指摘してみせると、あの男ときたら悪びれもせずに、「だが、俺たちの利害は一致している。違うか?」と嘯いた。
氷河を大人しくさせておけるなら会わせてやってもいい、俺と手を組むなら二人の命も保証しよう、と。
海賊と利害が一致しているなどと冗談じゃない。
誰が手など組むものか。
憤ったものの、アイザック一人にできる抵抗など知れている。最終的にアイザックは、決してこれはお前と手を組んだわけじゃない、と釘を刺しはしたものの、氷河に会うためにその条件を呑んだ。
だが、いくら理屈をつけてみても、海賊に与した形になったことには変わりがない。すっかりと肉が削げ落ちるほど頑なに己を曲げない氷河を前にアイザックは、罪悪感と自己嫌悪を抱える羽目になった。
カミュがこの場にいたなら、ほかの選択肢を心理的に断っておきながら、最終的にアイザックに「選ばせた」形にしたカノンがあまりに手練れ過ぎた、選択肢などないに等しかった、お前は後ろめたく思う必要はない、と救いの手を差し伸べたに違いない。
だが、残念なことに、師と遠く隔たれているアイザックを救うものは何もない。
自分の中に生まれた後ろめたさの原因を他者に見つけるには、アイザックは素直すぎ、また、世間を知らな過ぎた。
「……アイザック…?」
反応を返さないアイザックをさすがに不審に思い、顔を上げた氷河は憔悴の色も濃く、(口を開きさえしなければ)「貴公子」と謳われるほど整った容貌は見る影もない。
罪悪感や自己嫌悪、不安に後悔、いろいろなものが渦巻いている自らの内側に蓋をして、アイザックはぎこちない笑みを浮かべてみせる。たったそれだけで氷河は安堵に表情を緩ませるのだ。苦境に陥っているかもしれないことがわかっていて、アイザックが彼を放って置けたはずがない。
「……………お前、何も食べてないって本当なのか?」
何か言わなければと迷いに迷って、ようやくアイザックが発した問いに、氷河は一瞬で顔をこわばらせ、「奴らから施しを受けるのなんか死んでもごめんだ」と、吐き捨てるように言った。
後ろめたさと切っても切れぬ経緯ではあっても、こうなっては、『兄』の取るべき行動は一つ。
いけない、とアイザックは首を振る。
「それは駄目だ、氷河。ちゃんと食べないと奴らと戦うこともできないじゃないか」
「今すぐにでも戦える」
「どうやって?」
「どうやってでも。剣がなくとも体術だって習った」
「氷河」
アイザックはため息をつきながら氷河の腕を取って、己の二の腕を掴ませた。
「今、俺を投げれるか」
藪から棒に何を、と氷河は目を見開いた。いいから投げてみろ、とアイザックは促す。
二人の力は全く同じ。同時に真正面から組めば、アイザックが氷河を投げることもあれば、氷河がアイザックを投げることもある。
馬鹿げている、知らないからな、と言いながら、アイザックを掴む手のひらにぐっと力を込めようとして───氷河の顔色がサッと変化した。
「……待て、急だったからちょっと……見てろ、もう一回、」
どれだけ力を込めても、数日前は容易く組んでいたはずのアイザックの片腕さえ持ち上がらないことに、氷河は初めて衝撃を受けた顏をした。
実は寝起きなんだ、などと言い訳をしながら、氷河は玉のような汗を額に浮かべて、アイザックの身体を押したり引いたり四苦八苦していたが、最終的に不貞腐れたようにそっぽを向く。
「お前相手じゃ本気が出ないだけだ」
「海賊どもにもそうやって言い訳をする気か?」
ため息とともに厳しい声を出しておいて、アイザックは不満げな氷河を床へ座らせた。そして、壁伝いに隅へ移動すると、床に置かれていた銀のトレイを取り上げた。具の少ない魚介のスープが乗っている。ご丁寧に二人前。氷河が来るより前に、カノンがそれを置いて行ったのだ。
すっかり冷めてしまって、正直、元々お世辞にも美味いとは言えない代物がさらに不味くなっていることは明白だったが、背に腹は代えられない。
氷河の前にトレイを置き、スプーンを彼の手へと握らせる。必要ない、となおも抵抗する氷河に、だめだ、とアイザックは譲らない。
「………わかった。お前が食べるまで俺も食べない。一週間でも一カ月でもつきあおう」
結局、押し問答が続いた末にアイザックはそう言った。そう言えば氷河が折れることは知っていた。アイザックがそう言ったなら本気で実行することを氷河もまたよく知っている。
己自身を人質に、氷河に意志を曲げることを迫った己に、今日一番の自己嫌悪と罪悪感がアイザックを襲ったが、さりとて、ほかに方法はみつからない。
案の定氷河は絶句して、それはずるい、とアイザックを睨みつけたが、アイザックは目を逸らさなかった。
ついに根負けして、氷河はしぶしぶスプーンを手にして、スープの中へと浸した。
まだ逡巡しているのだろう、ぐるぐると渦を巻くように、冷めきったスープを無意味に撹拌している。
悔しさのためか、頬を一筋、雫が伝い下りて、だが、最後には震える指が銀のスプーンを口元へ運んだ。こくり、と嚥下の動きに動いた白い喉に、アイザックは安堵に胸をなで下ろす。
少なくとも餓死は避けられた。
しばらくは、二人とも無言で、食事と呼ぶにはあまりに機械的な嚥下作業に没頭していた。アイザックは後ろめたさを飲み込むのに必死だったし、氷河は込み上げる悔しさを抑えるのに必死で、これほど殺伐とした食事風景もほかにあるまいと思えるほど、味など何も感じない、酷く苦痛な作業だった。
「アイザック……やつら、一体何を考えているんだと思う」
口火を切ったのは氷河だ。
苦痛な嚥下作業をこなしたのは、海賊どもと戦うためだ、ほとんどスープ皿を空にするまでに作業が終了したならば気になって当然の問いだった。
あいつらのお決まりの略取簒奪と少し様子が違うと思わないか、と問いかける氷河の頬は、心なしか赤みを取り戻している。それを横目で確認しながら、そうだな、何かが変だ、とアイザックは強く頷いた。
守られる取引かどうかは定かではないが、海賊が「命を保証する」などとは聞いたことがない。人の命を替えのきくおもちゃくらいにしか思っていない連中だ。その場限りの口約束にしたって、命を持ち出すのは違和感がある。
だいいち、なぜ、アイザックを使ってこんな回りくどい手段を講じてまで氷河をこの船に留めておく必要がある?
カノンは揶揄するように「宝石」と二人を呼んだが、成年前の少年ごときに、そこまでして傍に置いておかねばならぬ価値があるとも思えない。
出会い頭に相手の素性を確かめもせず、とにかく邪魔だと斬って捨てる連中が、どんな目的であれ、捕虜を生かしたまま連れ回すような真似をするだろうか?
「氷河、奴らは『蠍』と名乗ったか…?」
その名を聞いて氷河の顔色が瞬時に変わる。ああ、と短く答えた声が震えている。
「お前の知っている『蠍』と同じか?そもそもお前は蠍と会ったことがあるのか?」
「見た……俺は知ってる。あんなもの、二人といてたまるか」
「明確に同一人物だと言えるか?お前を疑うわけじゃないが、その……お前はどこまで覚えている。七年も前に一度きりしか会っていない男の顔をはっきりと覚えているのか」
それは、と言って氷河は声を詰まらせた。
忌まわしい記憶を探っているのだろう、目を閉じて眉間に深い皺を寄せた。
歪んだ表情と震える睫毛に、アイザックの胸も痛む。悲鳴をあげながら汗びっしょりになって飛び起きていた夜は一度や二度ではなかったことをアイザックは知っている。ゆえに当時のことを深く尋ねてみたことは一度もない。
だが、いくら触れたくない傷であっても、こと、ここに至ってはもう触れずに済ましてしまえるものでもなかった。仇を討ちたいなら、氷河自身がその痛みを乗り越えねばならない。
やがて、氷河は深い息を一つ吐いて目を開いた。
「お前が言うとおり、確かに顔はよく見ていない。それでも……ヤツがあの時の蠍だと確かめる方法はある」
「それは何だ」
「刺青があった」
「刺青?」
「蠍を象った刺青をしていたんだ」
「どこに?」
「それが───」
思い出せない、と氷河は苦しそうに言った。
マーマを探していたんだ、そう続けた氷河の瞳が急速に焦点を失う。
そっちに行ってはだめだ、と脱出のためのボートに押しやろうとする大人たちの手を振りきって、混乱と恐怖に陥っていた船室を、氷河は母の名を呼びながら渡り歩いていた。ここにもいない、あそこにもいない、と、母を必死に求めて、ついには船長室にまで辿りついた氷河の瞳に映ったのは、床に取り落した剣を拾わんとしている血まみれの船長の姿と、今にも毒針を刺さんと尾部を振り上げる蠍の、否、剣を振り上げた男の姿だ。あまりの恐怖に悲鳴すら上げられなかった。立ちすくむ氷河の前で男は船長に剣を振り下ろし───そこで記憶は突然に途切れている。船長の最期を見たのかどうかすら定かではない。
酷い光景に防衛本能が働いて心が記憶を消してしまったのか、すんでのところで、誰かほかの大人が氷河を船長室から遠ざけたのか。
記憶がないせいで、結局その後母を見つけられたのかどうか、それすらもわからない。
気づけば海に投げ出されていた氷河は、母がどんな風に最期を迎えたのかも理解できぬまま───永遠に分かたれることとなった。
虚ろな瞳で努めて淡々と語る氷河を遮って、思い出させて悪かった、と呟けば、氷河の瞳から一筋滴が零れ、違う、覚えていなくて悔しい、と呟きが返ってきた。
十分だ、その情報は役に立つ、とアイザックは金糸を撫でてやる。
実は刺青を入れている海の男は少なくない。
ただ、たいていは港で待つ女の名を入れる程度だ。複雑な図柄は感染症のリスクが高くなるため当人も敬遠するし、それほど技術のある彫師もほとんどいない。
どの程度の刺青だったのかアイザックが知るべくもないが、幼い氷河の記憶にそれほど鮮烈に刻まれたことを思えば近寄ってまじまじ見ねば気づかぬような小さなものではなかったはずだ。
それが「蠍」だと(少なくとも幼児に馴染みの動物だとは言えなかろう)一目で認識できるほどの出来であったことを思えば、作品としてはかなり完成度の高いものであったに違いない。名のある彫師に相当な金貨を積まねば刻めなかったはずだ。蠍の名を真似た、小物の海賊もどきに手が届く代物ではない。海賊は海賊でもよほど荒稼ぎしている───そう、本物の「蠍」でもない限りは。
そもそも、蠍の刺青、というもの自体がほかでは聞かぬ珍しいものだ。
威嚇目的に刻むなら、たいていは龍や虎だ。いくら猛毒の象徴とはいえ、蠍は、剛猛な海の男たちが好む図柄とは言えない。ならば、「蠍の刺青のあること」それが、氷河の母の仇敵だという証だと言っても過言ではなかろう。
「あんな嫌な奴なんだ、絶対にヤツに決まっている。どうにかして確かめて、仇をとりたい」
唇を噛む氷河の気持ちが痛いほどわかり、アイザックの胸が軋む。
「お前の気持ちはわかるが、あからさまに行動を起こすのは得策じゃない」
「……わかってる」
「従順になったふりをして隙をつく。奴らの油断を誘うんだ。できるか?」
「できる。何でもする」
膝を抱え、声を低く落とし、二人は互いの身体を支え合るように身を寄せ合って、ポツリポツリと会話を交わす。
「アイザック」
「ん?」
「お前がいてよかった。……本当は一人きりでどうしていいかわからなかった」
そっとアイザックの指先に己の指先を絡める氷河に、アイザックの胸はかつてなく甘く激しく疼き、同時に、この上ない罪悪感に苛まれた。
思惑通り従順になった氷河を見て、よくやったと言いたげにカノンが満足そうな笑みを見せたなら、俺はきっと殺意を覚える、と思った。