藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ④◆
「まったく……」
ダン、と、男は肩に担ぎ上げていた氷河の身体をほとんど叩きつけるような勢いで甲板に放り投げた。
「一滴も濡らさず連れて来られたものを、あんなに暴れて君ときたらよほど泳ぎたかったと見える」
そういう男もびしょ濡れだ。
入り江に隠されていた小舟に乗せられる時、それから舫い綱を解いて海原に漕ぎ出した時、夜の海に停泊していた本船に乗り移る時、激しく抵抗して男と揉みあった氷河は、都合三度は海に落ちた。
そのたびに男が、思ったより生きのいい坊やだ、と笑いながら自身も海へ飛び込んでは氷河を連れ戻したのだ。
一体何が起こったのか、すっかり酔いの醒めてしまった頭でもまるで理解が追いつかない。宴を盛り上げるための余興の類だと言われれば、そうなのか、と納得してしまいそうな非現実感があるが、あの当主がこんなバカげたサプライズ余興に金貨と時間を浪費させるような真似をする気がしない。
男の声を聞きつけたのか、そこここから「キャプテンのお戻りだ」と何人もの水夫たちがわらわらと湧いて出てきた。
まだ状況はうまく飲み込めていない。
が、屈強な海の男たちに取り囲まれたことで、氷河は、少なくとも自分がどれだけ危機的状況に陥っているのかは否応なしに自覚させられる羽目になった。
剣を携え礼儀正しくお辞儀をし、互いに名乗りを上げてから始まる剣技なら、並大抵の相手には引けを取らない自信はあるが、相手は礼儀作法など無用の海賊ども、自分が丸腰で孤立無援であることを思えば、さすがにこの状況に恐怖を覚えないかと言えば嘘になる。
いや、なによりも、波の音と潮風、それに武器を携えた荒っぽい男たちの話し声は、心の奥底に沈んでいる幼き日の血生臭い記憶を喚起させるには十分で、堪えようとしても勝手に身体が震えてしまう。
が、腑に満ちかけた恐怖心は、次第に強い憤りへと変わった。
相も変わらず無法を働く海賊どもめ。
だが、俺はもうあの日の何もできなかった幼子ではない。
これは好機だ。
この日のために俺は生きてきた。
運命の神が、この悪党どもに正義の鉄槌を下すチャンスを与えてくれたのに違いない。
水夫たちが、濡れ鼠となった氷河をひと目見るなり、ひゅう、と口笛を吹く。
「なるほど、これが噂の?」
「ハッハー!すごい上玉だ。キャプテンが航路を変更してまで盗みたがったはずだ!」
まるで見世物のような不快な扱いを、氷河は表情ひとつ変えずに黙殺した。
雑魚に用はない。
これだけの人数、氷河一人で全員と渡り合うのは得策ではないが、どうせ流浪者ばかりの寄せ集めだ、指揮する人間さえ失えばあっという間に集団は機能しなくなるに決まっている。
ならば、狙いは───
氷河は己をここへ連れてきた男を見上げる。
キャプテンと呼ばれていた。
自ら『蠍』を名乗りもした。
蠍、だ。
母の仇が目の前にいる。
狙いはこの男以外にない。
氷河は身を起こす振りをしてさりげなく辺りを観察した。
水夫たちの中には舶刀を腰に携えている者も多い。戦闘用、というよりむしろ、縄を切ったり、魚を捌いたりするための作業用なのだろう、刀身は短い。
あれを拝借したとしても、対する男が腰に帯びているのは刺突向きの長剣レイピアだ。男との体格差も考慮に加えれば、己も深手を負う覚悟で懐深く入らねば致命傷を負わせられそうにない。
だが、元より死は覚悟。
氷河は男に視線を定めたまま、じわりと近くの水夫との距離を詰めた。
「さすがに夜の海は冷えたな」
そう言いながら男は煩わしげに髪を掻き上げた。
長い金の巻き毛の先からはポタポタと海水が滴り落ちて、甲板の上へ水たまりを作っている。
お風邪を召されます、と慌てて水夫たちのひとりがタオルを男に差し出した。
受け取った男は、だがしかし、己の髪を拭く代わりに、膝を折って、同じだけ濡れている氷河の肩へそれを掛けた。
男を討ち取る方法を必死に考えていた氷河は、その当の本人が思いがけず見せた紳士的なふるまいに一瞬、激しく戸惑った。
が、すぐに氷河は、いらない、とタオルを払い落とした。
「海賊からの施しなど受けない。どうせ元は盗品だ」
男は愉快げに肩を揺らした。
「心がけは結構だが、そのままではあっという間に凍えて泣く羽目になるぞ。大人しく受け取っておくが賢明だと思うがな」
「貴様の世話になるくらいなら凍えた方がましというもの」
「は!大層な口を叩く坊やだ。『センセイ』なしでは一人で着替えもできないのを虚勢で隠しているのでなければいいが」
からかいを帯びた男の声に、カッと氷河の頬が熱くなった。
幼い頃はともかく、さすがに近頃は身支度くらいは自分でするようになった。が、今夜は慣れぬ正装ゆえに、久しぶりにカミュの手を借りたのだ。袖口の飾り釦の扱いに困ってまごまごした氷河に、カミュが「それは確かに少し難しい」と笑いながら手を貸してくれた。
まるで傍で見ていたかのような手痛い図星に、羞恥で上った頬の熱を誤魔化すように、氷河はことさら無表情となって冷たい視線を男へ送った。
だが、男は氷河の動揺を見透かしたかのように、ますます煽るように唇の端を上げる。
「『センセイ』の代わりに俺が手伝ってやってもいいが、残念ながら俺は脱がす方専門だ。いっそずっと裸でいるか?毎晩脱がす手間が省けて俺は助かるが」
「……ッ!」
海の男独特の尾籠な冗談だ。
氷河とて、いつもなら聞き流す程度の柔軟性はある。
だが、折悪しく、『司令官殿』が母を酷く冒涜したばかりだ。男どもの慰み者、と。
飲み込んだばかりで消化しきれていなかった怒りが、ぐっと熱い塊となって喉奥からせり上がった。
気づけば氷河は、後先考えず吐き捨てていた。
「卑劣な海賊め、貴様など俺がこの手で殺してやる!」
冷静に隙を見て武器を奪って、などという段取りは台無しだ。
ニヤニヤと笑っていた水夫たちは笑みこそ引っ込めていないものの、さり気なく舶刀の柄に手をかけて、さっきまでの緩んだ空気を一変させた。
からかいに氷河を煽っていた蒼の瞳からも、戯れの色がすっと消える。
男が、氷河の顎を乱暴に掴んで上向かせた。
鋭い双眸に射抜かれて、氷河の背が本能的な恐怖にぶるりと震えた。
「命の何たるかも知らない坊やが、覚悟もなしに殺すなどと簡単に口にするものじゃない」
「き、貴様が言うな!人の命を虫けらほどにしか思っていない貴様よりよほど知っている!覚悟などとうの昔にしてすんでいる!」
あの日、氷河たちの乗った船を襲った海賊たちがどれほどの暴虐を働いたことか。
血で滑る甲板を俺は忘れはしない。
盗人猛々しいとはこのことだ。
憤りを覚え、だが、熱く滾った内面に反して、氷河の声は情けなくも震えていた。
それほど男の纏う空気は圧倒的だった。
こんな威圧感は初めてだ。
怒りに身を任せて男に飛びかからんとするのに、何故か、見えぬ縄で全身を縛られでもしたかのように指一つ動かせない。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
ただ、それでも氷河は男を確りと見据えて、決して目を逸らさなかった。
命の重みを身をもって知る者として、無法者相手に一歩でも退くわけにはいかなかった。
睨み合いの均衡はどれほど続いたか。
ややして、男がおもむろに口を開いた。
「なるほど、宝石と詠われるだけはある。だが、まだ荒削りの原石といったところだな。磨くには……」
言うや男の瞳がふっと細められた。
一瞬、何が起きたかわからなかった。
男の鋭い瞳に負けじと気を張っていたのだ。男が、纏う空気を緩ませた瞬間、思わず氷河もそれに同調するようにほっと息をついて気を抜いて───気づいた時には唇に温かく、塩辛い何かが触れていた。
唇の合わせ目を割って氷河の内側にするりと入り込んだものが男の舌だということは、周囲で水夫たちが、わあっとはやし立てたことでずいぶん遅れて理解した。
「……ッ!?」
目を見開いて逃れようとするも、いつの間にか抵抗するための両腕は男によって甲板の上へ押さえつけられていた。
鍛え上げられた男の体躯が氷河の腰の上に覆い被さっていて、逃げるどころか満足に動くこともできず、男を跳ね除けようとした両足はバタバタと虚しく濡れた甲板の上を滑るばかり。
熱く蠢く男の濡れた舌が氷河の舌に絡み合わされる。
何をされているのか理解できない。
苦しい。
息ができない。
混乱状態で、それでも無意識の抵抗に、内側を蹂躙する男の舌を排除しようと氷河はくっと歯の根を合わせた。
歯の間で柔らかな弾力を感じたかと思うと、じわりと錆びた鉄の味が口の中に広がってゆく。
僅かに顔を顰めながら氷河を解放した男の唇の端から、赤いものが滴り落ちた。
周囲に、キャプテンに血を流させたぞ、と動揺と緊張が走る。
だが、動じたのは周囲だけ。唇を朱に染めた男は、ひどく失望したように冷たく氷河を見下ろしていた。
「……俺を殺すと言ったのは単なる言葉の綾か」
「な、なに」
「こんなものでは虫が刺したほども堪えんぞ。君の覚悟とやらがこの程度とはな」
氷河は悟った。
己は、奴の舌を噛み切る絶好のチャンスを与えられて、そしてそれを逃したのだと。
仇敵自らにそのチャンスを与えられた屈辱、衆目の場での口づけなどというふざけた手段でそれを与えられた怒り、指摘されたばかりの己の甘さをむざむざと証明する羽目になった居たたまれなさ、何もかもが一度に湧き上がって、もはや、完全に己の制御を失うには十分だった。
男が、失望の表情を浮かべたまま、唇の端からこぼれた血を拭うために氷河の片腕を離した瞬間、氷河は、頭に上った血の勢いのままに跳ね起きて男に飛びかかった。
「貴様は許さない……!」
男の頬に叩き込むつもりだった渾身の拳は、だがやすやすと男の掌底へと吸い込まれた。
「そう簡単に二度目があると思うな」
氷河の拳を掴んでいる男の手は、まるで力を込めていないように見えるのに、氷河は身動きもできない。
湧き上がるわけのわからない強い感情が空回りするばかりで、息は上がり、背にはどっと汗が噴き出す。
男はしばらく氷河を値踏みするように見下ろしていたが、氷河がそれ以上反撃できなさそうだと知るや、ふん、と肩を竦めて、氷河の拳を唐突に解放した。
勢い余って前へとつんのめった氷河は、無様に男の足元へ転がる。
くっと歯を噛みしめて男を見上げたその時、不意に、赤い色の翼をした鳥が夜空を割って男の肩へと舞い降りてきた。
何か告げでもするかのように、二度三度と翼をばたばたさせるのを、男の指が宥めるように撫でる。
男は水夫たちに向かって声を張り上げた。
「すべて調った。錨を上げろ。出航だ」
氷河と男を取り巻いて、見物を決め込んでいた水夫たちは、途端にピリリと顔を引き締め、アイアイサーと敬礼をして各々の持ち場へと戻っていく。
彼らの背を見送って、男は氷河が払い落としたタオルを拾い上げると再び氷河の肩へと乗せた。
乱れた息を整えるのに必死で、うっかりと大人しくされるがままとなった氷河の頬を、男の爪が、いい子だ、と言いたげに軽く引っ掻いてゆく。
「覚えておけ。この船ではすべてが俺の思うまま。君の命でさえも」
まだ唇を血の色で染めている、蠍を名乗った男は───確かミロと言った───そう言って不敵にニヤリと笑ってみせた。
「ようこそ、我がレッド・スコルピオ号へ」
**
「夜風は障ります。中へ入って少しお休みになられた方が」
うむ、と、老当主はカミュへ頷いておきながら、だが、一向にその場を動こうとはしなかった。
あちこちでグラスは割れ、机は倒れ、まだ広間には混乱の爪痕が色濃く残っている。
ひとり、夜のバルコニーに佇んで、海の方角を見やる老人はさすがに疲れを隠せないようだった。
「アイザックは見つかったか?」
「いえ。おそらくアイザックも……」
その先を口にするのはカミュのプライドが許さなかった。
目の前で氷河をむざむざと奪われた、それだけでカミュの人生の許し難い汚点であるのに、男が最後に放った言葉に、まさかと急いで探させたアイザックの姿は既に煙のように消えた後だった。
アイザックが消える瞬間を目撃した者はない。
氷河が離席したのを気遣って後を追ったあたりまではカミュも姿を見たが、その後は誰に訊ねても一向に行方は知れない。
だから、彼までも拐かされた確証はなく、もしかしたら、気まぐれを起こして自らどこかへ散歩にでも出ているのかもしれないが、あの責任感の強い愛弟子に限って、この非常時に気まぐれを起こすなどとは考えにくい。
この不在は、海賊の襲来と無関係ではないと捉えるのが自然なのだろう。認めがたいことだが。
衆人環視の元で氷河を連れ去る、という派手な誘拐劇を演じた男の陰で音もなく忍び寄った伏兵がいたのか。
これが計算された作戦だったのであれば蠍は思っていた以上に手強いことになる。
問答無用の暴力で全てを捻じ伏せる野蛮な存在、それが蠍だと認識していたが、このやり口はどうだ。恐ろしいばかりの知性すら感じるではないか。
一瞬だけ間近で垣間見た、仮面の下の男の素顔。
───これが『蠍』だと……?
こんなに若い男だったのか。
成年して数年の自分とたいして変わらない年齢に見える。
蠍の名が恐れられるようになってから何年たつだろうか。この男が蠍だとしたら、まだほんの子どもの域の頃から海の覇者として君臨していた計算になる。
もっともカミュとて、物心つくかつかぬかのうちに父の片腕として頭角を現していたから、それをもってだからこの男は蠍ではありえないとも言い切れないのだが。
事実、男の剣捌きは年齢の割にやけにこなれていて、昨日今日剣を取ったものとは違う貫禄があった。長年実戦に携わってきた熟練の騎士のようだとカミュは感じた。
悪賊を騎士に例えるのは腹が煮える話だが、不思議なことに、そう例えて違和感がないほど男は気品を纏っていた。軽装のまま賓客に紛れていたというのに、野蛮で場違いな印象は微塵も感じられないほどに、だ。
その姿は、それまでの情報でカミュが思い描いていた蠍のイメージとあまりに乖離していた。
笑みの形に崩れた瞳の奥に隠しきれずに光る凄みがなければ、きっと今年だけで二十九隻もの船を沈めた兇賊だとはとても信じられなかったに違いない。
暴力で物事を解決するタイプにはとても見えなかったが、少なくとも新鋭の戦艦を次々に沈める能力があるのは間違いない。
ただ、やはり違和感は残る。
カミュは光政卿の隣へと立ち、同じように海の方角へと目をやった。
庭園の木々の隙間から、海原の波頭が星明りに照らされているのが見える。
「蠍が陸に上がったという例を聞いたことがありますか」
「さて……少なくとも儂は知らぬ」
海賊の中には、海を荒らすに留まらず、港町を襲う輩も少なくはない。沿岸警備に捕まるリスクは大きいが、いつ通るとも知れぬ獲物を海上で待つより、よほど確実に稼げるからだ。商船のふりをして入港し、夜に紛れて燃料や金銀財宝を強奪していく被害は後を絶たない。
だが、蠍は決して陸に上がったことがない。
慎重だからなのか、そうする必要がないほど海で荒稼ぎできているからなのか。
手に入れた財宝を換金し、享楽に耽るには蠍とて陸地と無縁でいられるはずはないのだが、蠍と手を結んで極秘に協力している領地でもあるのか、これまでのところ蠍の被害にあった港町はない。だから彼らは「海の」蠍と呼ばれているのだ。
言い訳をするのは潔しとしないが、油断があったのはだから確かだ。
戦うための準備を万全に整えたと思っていた自分の驕りにカミュは臍を噛む。
後継のことに気を取られていた───それもまた言い訳か。
すぐさま後を追うことも叶わなかった。
乗艦予定の者の多くが微酔いで使い物にならなかったことに加え、肝心の海賊討伐艦は帆を畳んでいたのだ。
当然といえば当然である。
出航予定は翌朝である。風の力は侮れない。帆を張ったまま停泊するなど危険極まりないからだ。
もちろん、海賊襲来を受けて直ちに帆を張る準備に取りかかったが、なにしろ大型船だ。全ての帆を張り終えるのに数刻は要する。錨を上げた時には、蠍は既に海の向こうだ。
自分の甘さが招いた事態、噛みしめ続けた歯の根が鈍く熱を持っている。
「二人は生きていると思うか」
感情の見えない、嗄れた声が、「息子」を奪われたにしては冷淡とも言える問いを発したのを、カミュは即座に、生きています、と言い切ってみせた。
「生きているか。そう考える根拠は」
「根拠、ですか」
二人の生存を信じるのに根拠が必要なのか。
カミュは眉根を寄せた。
望みのないものに人材も富も浪費させるわけにはいかぬ、と迷いなく断じた、遠い日の領主の声が甦る。
己の返答次第では、やはりこの実利を重んじる領主は「無駄だ」と二人を切り捨てるつもりだろうか。
「二人がほんの僅かでも害されていたらと想像しただけでわたしは正気を保てそうにない。だから二人は生きております」
本来ならこれは『父親』が言うべき台詞だろうに、という、非難めいた本心が、珍しくカミュの言葉を感情的にさせた。
理知的なカミュらしからぬ、論理とも呼べぬ論理に、だが、卿は意外にも、なるほど、道理だ、とあっさりと賛同した。あまりに全面的に同意されたため、次に続けるはずだったカミュの観察眼による真の根拠の方は口にする機会を失った。
皺だらけの手が、落ち着かない様子でバルコニーの手すりを掴んだり離したりしている。
もしかすると、冷酷と言えるほど現実主義の男は、実のところ情を表出する術を知らないだけの不器用な男なのかもしれない。どことなく、己自身と似た部分を感じながら、落ち着かなく揺れる老人の指先をカミュは見つめていた。
「蠍は二人の命と引き替えに金貨をよこせとでも言うつもりか」
長い沈黙の末、光政卿は解せぬ、と言いたげに首を傾げた。
それはどうでしょう、とカミュは懐疑的に応える。
「そのつもりであればあの場で要求を突きつけたと思われます」
「では、人買いに売るつもりか」
現陛下の元では禁止されているものの、労働力として、時には愛玩用として、年端もいかぬ少年少女が秘密裡に売買されることはままあると聞いている。
「いえ、二人はそのあたりの町娘とはわけが違う。一国の領主の後継者としてあれほど顔が売れていてはどこへ売ろうにもすぐに身元が割れてしまいます。リスクが高すぎて買い手を見つけるのは難しいはず」
「ならば、何だ」
「わかりません。……牽制のつもりかもしれません」
俺を滅ぼそうと思うな、大事な者を奪われたくないならな、と。
女王陛下が海軍を動かしたのを機に、グラード領以外にも、我も我もと海賊討伐に名乗りを上げ始めた領主は多い。地方領主の貧しい財政事情、陛下が海賊の首にかけた莫大な報奨金は魅力的に映る。
だが、そんな、国を挙げて討伐に向けて高まっていた気運に今夜は冷水を浴びせられた。
剣を取るどころかおびえた顔で婦人方に紛れて逃げまどっていた諸侯たちは、今頃、国に帰って大臣たちと海賊討伐から手を引くかどうか相談をしているに違いない。
しかし、牽制にしては変だ、とカミュは思った。
ただの牽制だけなら、その場で殺す方がインパクトは大きかったはずだ。既に何人もの命を奪ってきた蠍のこと、血を流すことが必要だと判断したならたかだか二人の命ごとき、躊躇したと思えない。
何かがおかしい。
ひとつひとつの違和感は些細なものだが、それが重なるとどうにもすっきりしない。
じっと考え込むカミュの隣で、老いた領主が何か物言いたげな仕草を見せた。
何か、とカミュが首を傾げたその時、広間に水兵服を着た少年が慌てた様子で飛び込んできた。
「カミュ副司令官、帆を張り終えました。出航準備完了です!」
振り向いて、すぐに行く、とカミュは応えた。
光政卿に視線を戻した時には、彼はもう、迷いのない当主の顔に戻っていた。
「二人を頼む」
確りとカミュは頷いて、そして広間を後にした。
追い風は吹いている。
後れを取ったが、まだ致命的なものではないはずだ。
カツカツと踵を鳴らして港へ向かうカミュの纏った軍服の裾が風に大きく翻った。
**
今朝はずいぶんと濃く海が香る。
自室の窓は海に臨んでおらず、美しく整備された庭園の木々が見えるばかりだが、それでも間近にその存在を感じられるほどに、城からの距離は近い。
ずっと潮の香りに包まれて育ったが、一概に潮の香りと言っても、季節によって、時間帯によって、そして天気によっても、実は繊細にその濃淡は異なる。
南東の風、快晴、気温は22度、湿度は45%……
海の香りでそんなことを計りながら、氷河は射し込む朝日を遮るように腕をかざしながらのろのろと瞳を開いた。
「おや、気がついたようだ」
心なし安堵の滲む、聞き慣れないこの声は…………?
カミュでもない、アイザックでもない、辰巳も違う、と目覚めに傍にいて不思議ではない声が瞬時に脳裡を巡ったが、心当たりを一巡し終える前に、開いた瞳が声の主を捉えて、氷河は雷に撃たれたかのように跳ね起きた。
「なぜ貴様がここにいる!」
問うた瞬間に、ここが慣れた城の自室などではないことに気づいてそれは愚問に変わったが、ミロはベッドの縁へ片膝をついて氷河の額へ手をやって、よし、下がったな、と独りごちながら、律儀に答えた。
「俺のベッドだ、本来の権利は俺にある。三日も君に明け渡してやったというのに感謝はなしか?」
ミロの言葉で、まだ夢うつつだった氷河の頭に徐々に記憶が戻ってきた。
船倉に閉じこめられたのだ。
「キャプテンの命令だ、逃げられては困るんでね」
そう言いながら、濡れ鼠の氷河を薄暗い船倉へ押し込めた水夫は、触るな、と頑なに近寄らせないくせに、自分で着替えることもしようとしない氷河に、完全に困り果てていた。
頼むよ、あんたに何かあると俺が叱られちまうからせめて髪だけでも拭かせてくれ、と懇願していた水夫は、氷河にまるでその気がないと知るや、最後は諦めたように肩をすくめ、とにかくここに置いておくからな、ちゃんと着替えておいてくれよ、と自分は命令を遂行したことを強調しながら扉を閉めた。
ギギ、と錆びた鉄の音を響かせて閂がかかる音がし、水夫の足音が遠ざかると、船倉はしんと静まりかえった。
天井で揺れるランプの炎を頼りに、氷河は薄暗い船倉の中を見回す。
中身の入っていない木のコンテナや樽、腕ほどもある太い縄の切れ端が無秩序に散らばっている。不要なものを乱雑に押し込めているだけの空間のようだ。
寝具らしきものも何もなく、人間の居住空間ではないことは確かだ。「あんたに何かあったら」が呆れる、何のことはない、捕虜の処遇のご多分に漏れず、人間以下として扱う、と宣言されたも同然だ。
それでも、殺されもせず着替えを差し出されただけ好待遇と言えるのかもしれない。何しろ、刎ねた首を船首像代わりに舳先へ吊るすような蛮賊どものことだ。「濡れたままでは風邪をひくから」というごく当たり前の気遣いが彼らにできたことを驚異に思ってもいいくらいだ。
が、海賊どもが意外な気遣いを見せたとはいえ、生まれてこの方、こんな劣悪な環境で一夜を過ごしたことはない。
船倉には錆びた鉄と朽ちた木の放つ腐食臭が混ざったすえたにおいが充満していて、その上、波を受けてひっきりなしに船体は不規則に揺れている。いくらもしないうちに酷い眩暈や吐き気と氷河は戦わなければならぬ羽目になった。
その上、想像していた以上に寒い。
海水で濡れた身体は隙間から吹き込む風に氷のように凍え、氷河の身体はガタガタと震えはじめた。
風の当たりの少ないコンテナの陰へ蹲ったものの、扉のところへ置かれたままの着替えと毛布が目に入り、氷河は目を閉じてそれを視界から追い出した。
あの温かな衣服を拝借する誘惑に身を任せれば、ぐっと人間らしい心地を取り戻せることは承知していたが、母を奪われた氷河のプライドは決してその誘惑に屈するのをよしとしなかったのだ。
天井近くにある明かり取りの細長い窓から射し込む陽の加減から察するに、多分、二昼夜以上はそうしていた。
途中何度か水夫が食べ物を手に様子を見に来たが、濡れた衣服を纏って蹲ったまま微動だにせず、食べ物を受け取ろうとしない氷河の様子に、飽きれるやら感嘆するやら困るやらして、最終的には、三度目の陽が暮れたあたりでミロ自らが顔をのぞかせた。
扉を開ける前から既に笑っていたのか、薄く扉が開くとともにミロのくすくすという笑い声が響く。
「驚くべき強情さだな!俺の部下たちをあまり困らせてくれるな」
困るくらいなら一思いに殺せ。
気炎を吐く元気はもうこの頃にはなかった。
蹲って、両腕の間に伏せた顏をのろのろと上げて、ミロを睨みつけたところまでは覚えている。
目が合ったミロがそれまでの笑いを引っ込めて、「……いかんな」と途端に真剣な表情となって氷河に大股で近寄ってきたのを、ぼんやりと、勝手に閉じていく瞳の端で捉えたのが記憶の最後だ。
「君を少し見くびっていた。贅沢し通しのお坊ちゃんだ、最初は威勢よくともどうせすぐに音をあげると思っていたが、まさかあれほどの高熱でも強情を押し通すとはな。俺の読み誤りの詫びに、この船で一等の寝床を貸し与えたまでだ」
熱?と氷河は眉を顰めた。
言われてみれば全身が倦怠感に包まれている。四肢が妙に重いこの感じは確かに高熱後のそれだ。
と、見下ろして、己が糊のきいた清潔そうなシャツを纏っていることに気づいた。
氷河が着ていたはずの濡れたフロックコートはどこかへ消えている。
氷河の戸惑いを察したのだろう、ミロが、ああ、ちゃんと洗って吊るしてあるから心配するな、と言ってのけた。
「この俺が服を着せてやったのは生まれて初めてだ」
「…ッ!」
冗談じゃない、と、氷河は着ていたシャツから腕を抜こうとした。
既に屈辱に塗れたプライドに、さらに仇敵に世話をされた屈辱が加わって、今すぐ海に飛び込んで死んだ方がましなくらいだ。
捨て置いていっそ野垂れ死にさせてくれればよかったものを、己のベッドを貸し与えてまで捕虜ごときの世話をするなど(どうせ嬲り殺すのにも生きがよくないとつまらないとかそんな理由だ)悪趣味極まりない。
だが、ミロは、まあ待て、と腕を掴んで氷河を制した。
「手こずらせてくれるな。もう少し賢いと思ったのだがな」
「離せ!一体貴様は何が目的なんだ!」
息巻く氷河に、ミロは心底疲れた、という種類のため息を零した。
と、その時、船室の扉に軽いノックの音が響いた。
ミロは振り向かないまま、入れ、と告げる。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、精悍な顏をした長身の男が顏を出した。氷河は初めて見る顔だ。
「……笑うな」
ミロは男が何か言うより前に、憮然とそう言った。
男はごくごく真面目な表情で笑っているようには見えない。そもそも笑うような何かなどなかった。だが、男は、笑うなと言われたこと自体が可笑しかったらしく、それとわからぬほどシニカルな笑みを唇にのぼらせた。
「それは笑ってもいいという許可か?」
「死の覚悟があるならそう取るのはお前の自由だが、その前にこのきかん坊をどうにかしろ」
「はて、『俺の思うまま』とのたもうた船長がこちらへ御座すと聞いてきたのだが……」
「やけに死に急ぐな、カノン」
と、ミロはゆらりと立ち上がる。
カノンと呼ばれた男はすぐさま両手を上げて、撤回する、俺の勘違いだった、と全面降伏してみせた。既に好戦的に瞳を光らせていたミロは面白くなさげに鼻を鳴らし、再びベッドの縁へと腰かけて足を組んだ。
「いちいち監視人をつけておくほど人員に余裕はない。この坊やをせめて三歳児並くらいに話が通じるようにしろ」
「手段を不問に付すというのならやってみよう」
カノンと呼ばれた男はさらりと不穏な台詞を吐いて、来い、と氷河へ向かって手を伸ばした。
「手段を不問に付」さなければならないほどの何かをこれからされるのだとわかっていて、わかりました、と大人しく従えというのは無理な相談だ。
かといってミロの背に隠れるなど御免こうむる。
全身を強張らせて、どうすべきか考えあぐねている氷河に、カノンは、まあそうだろうな、と苦み走った笑みを頬へ上らせた。
そして、ひょいと氷河の腰へ腕を回すと荷でも担ぎ上げるように、己の肩へと氷河を担ぎ上げた。
「な、お、おろせ!」
「お前が大人しくついてくるというのなら考えてもいいが」
「誰が……」
「ならば俺も下ろしてやるわけにはいかないのは説いてやらずともわかるな?」
大人しくわかってやりたくなどないが、言いたいことはわかる。
だが、さほど小柄な方でも非力な方でもないのに、まるで赤子のように扱われて、既にミロによって粉々に粉砕されていた氷河のプライドは完膚なきまでに砕け散る。
離せ、と抵抗する氷河の動きなどカノンはものともせず、借りていくぞ、と、氷河を抱えたまま悠々と船室を出ていく。
逆さとなった景色、閉まる扉の向こうで、俺はようやく一眠りだ、とベッドへ体躯を投げ出して大きな欠伸をするミロの姿が見えた。
そういえば、己がベッドを拝借していたという三日間、その主はどうしていたのだろう。
相手は母を殺した海賊だ。頼んでもいないベッドの恩義くらいで絆されたわけではないが、離せ、と手足を振り回しながらも、ほんの少しだけ、そんな疑問が脳裏を過ぎった。
船長室を出たカノンは甲板を通り抜け、ハッチを通って下甲板へ下り、そのまま通路とも呼べぬ狭い通り道をどんどん進んで行く。
かなりの長身のため、天井に己の頭がつかぬよう首を傾けて酷く歩きにくそうだ。
氷河の鼻先で揺れている腰まである長いプラチナブロンドは緩く結わえられているが、長く海上にいるのだろう、日に灼けた毛先は傷んでいて、潮の香りを漂わせていた。
時折すれ違う水夫が、カノンに深々と腰を折っている。(察するにどうやらミロに近い上位にいる男のようだ)
すれ違った水夫たちはカノンに礼を尽くしながら、だが、目の端でちらりと氷河を見上げてはくすくすと笑いをもらす。
何度目かの忍び笑いを耐えた末、ついに氷河は抵抗をやめ、カノンの背へ呼びかけた。
「……俺を下ろせ。自分で歩く」
カノンの肩が揺れる。
笑われたのだ。
「少し遅かったようだ。もう目的地に着く」
目的地?と氷河はカノンの肩の上で首を上げた。長く薄暗い通路をいくつも通り抜けてきたが、まだここは通路の途中でしかない。
一体何が、と思っているとそれは現れた。
迷路のような通路の行き止まり、最終地点の床面にぽっかりと暗い入り口が開いていた。
入り口の縁に昇降梯子がかけられている。
あれを下りるのか、と思った瞬間、カノンは氷河を小脇に抱え直したかと思うと、ひらりと穴の中へと飛び下りた。
「……ッ!?」
予告なく宙に浮いた驚きで胃がひっくりかえり、氷河は目を白黒させた。
大きな体躯の割に猫のようにしなやかに底面に着地したカノンは、存外に優しげな手つきで氷河を床の上へ下ろした。
そして、後は話し合え、と言い置いて、今しがた飛び下りた入り口の縁に両手をかけると、腕の力だけで身軽に己の体躯を階上へ引き上げた。
何のための「昇降」梯子なんだよ……。
茫然と見送る氷河をよそに昇降口の跳ね扉がバタンと勢いよく閉まり、辺りは薄暗闇となった。そのままどんどん遠くなっていく足音に氷河は、狐に包まれたような思いだ。
てっきり暴力で氷河の気力を萎えさせる狙いだと思ったが、またただの監禁か?
それに話し合えって何を?誰と?
意図が読めず、不審に思いながら氷河は自分がいる場所を改めて確認しようと振り返り───そして驚きで息を呑んだ。
「ア、アイザック……!?」
なぜお前がここに、と驚く氷河に、『兄』は少しだけバツの悪そうな表情で薄く笑ったのだった。