寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ③◆

 退屈だ。
 これほど興味の持てない空間というのもそうあるまい。
 氷河はぼんやりと、着飾った男女がダンスに興じる姿を見るともなしに見つめていた。
 くるりくるりと曲に合わせて人々が舞う様はまるで大輪の花が無数に咲いているようで美しい。が、少しも心は躍らない。
 色とりどりの花を咲かせているフロアから数段高いところに設えられた席の中央に光政卿、彼を挟むように両サイドにアイザックと氷河が座している。
 アイザックの向こう隣にはカミュ、氷河の隣に座る男は───さて、紹介くらいはされたはずだが───明日わたくしが指揮を執る艦は、と、ひっきりなしに話しかけてくる内容からして、これが噂の「海図も読めない司令官」なのだろうことまではわかるが、どうにも名は思い出せない。(名を呼ぶ必要性も感じないため思い出す努力もあまりしていないのだが)
 確か前の領主の縁のものだと紹介されていたか。
 能力のない者に不相応の役を与えるとは当主らしくないが、そういうことならば合点がいく。領地を「横取り」したという不満を抑えるために派手ではあっても毒にも薬にもならない役を当てがっているのだ。
 さっきから男は、自分の指揮する艦がどれほどの金貨を投じて作らせた船なのか滔々と語っているのだが、艦の性能を費やした金貨の枚数で測ってしまうあたり、程度が知れている。何より、そもそもその財の出所は光政卿である。まるで自分の手柄であるかのようにふんぞり返っていることに周囲が苦笑していることに気づいてもいない。
 必ずや蠍の首を我が手で、と口先だけは勇ましいが、誰の目にも彼にその能力がないことは明々白々で、にもかかわらず、光政卿は「頼もしいな」と白々しく頷いてみせるものだから氷河の心は冷えて行く一方だ。
 茶番だ、何もかも。
 敬愛する師の手前、わかっています、と首肯したものの、こんな嘘と茶番の政の世界など、自分にまともに務まる気がしない。よしんばアイザックの補佐でいいにしても、足を引っ張ることは目に見えている。
 それでも逃げ出しもせずに行儀よく座ってみせているのは光政卿のためというより、師の立場を守らんとせんがためだ。不出来な弟子のせいでカミュが肩身の狭い思いをするくらいなら、少々のことは耐えてみせる。
 ───少々ですめば、だが。
 必死に話しかけてくる隣の男へ気づかれぬよう、はあ、と氷河は沈鬱なため息をついた。


 海賊討伐艦の壮行式典とそれに続く酒宴は、伯爵が、初めて『息子』二人を公式に伴って現れたことで、すわ、後継者のお披露目か、と、冒頭から高揚感に包まれていた。
 だが、一同を見回した当主は、
「今年に入って商船護衛艦含めて三十六隻、うち、二十九隻は蠍の餌食となった。我が領国も大損害を被っておりこれ以上は看過できぬ。都の海軍も討伐に動き始めた今こそ一丸となって彼の悪党を叩き───」
 そんな型通りの挨拶を長々と続け、ついに最後まで、両脇に控えたアイザックと氷河の存在に一言も触れることはなく、列席者は皆一様に肩すかしを食らった形となった。
 悪趣味だ、と氷河は思う。
 今夜の招待客の関心が海賊討伐の成否と同じだけ後継問題にあると知らないわけではないだろうに、そこに触れないでいるのは、故意に関心を煽ろうとしているようにしか思えない。
 いや、招待客に説明するどころか、氷河もアイザックもこの期に及んでまだ何も知らされていないのだ。
 本人に知らせずに公然の事実にしてしまおうというのは俺やアイザックに否やを言わせないためか?
 それとも、皆が勝手に誤解しているだけで、そもそも伯爵は後継を指名する気など端からないのだろうか。
 そうならそうと、「儂はまだまだ現役でいる」と仄めかしさえすればいいものを、彼が肚を見せないせいで、「ははあ、もったいぶるのは宴を盛り上げるための演出か」と勝手な諒解がなされてしまい、二人の一挙手一投足にどちらが選ばれたのかヒントはないものかとチラチラと視線が集まるものだから、落ち着かないことこの上ない。
 華やかに飾り立てられた空間にも、軽やかに奏でられている舞踏曲にも、少しも関心が向かないのはそのせいだ。迂闊にダンスの相手も選べない。(選べたとしても、自分が積極的にそうしたものに娯楽性を見出したとは思えないが)
 口をきく相手を選ぶのにすら神経を使わねばならないことを思えば、虚栄に満ちた実のない自慢話がどれだけ退屈でも、適当な相づちだけでいいぶん、まだましだというもの。

 隣の男はよほど「司令官」の響きが気に入っているらしく、恍惚とした表情で延々と話し続けている。
 少し離れたところに座っている近隣の領主たちが、そんな彼を見やりながら、「国家を悩ます大悪党を討つという手柄を立てれば陛下からも莫大な報奨金が」「いや、報奨金どころか功績次第ではこの地の領主へ返り咲きもあるやも」などと噂しているのが氷河の耳に届く。
 なるほど、そういうことか。どうりで張り切っているわけだ。
 だったら本当に大殊勲を立てていっそこの男が領主になればよい、と氷河は俄かに男を応援してやりたくなった。
 問題は男にその能力があるようには到底思えないことで、相変わらず続いている薄っぺらい自慢話に相づちをうつことにもそろそろ疲れ、ちょうど給仕がシェリー酒のグラスを運んできたのを幸いとし、氷河は杯を受け取った。唇がグラスの縁に触れている間は、彼と口をきかないでいい大義名分ができる。
 結果、もう一杯、もう一杯とほとんど切れ目なく氷河は飲み続け、何杯目かわからぬ杯が空になったところで、隣の男はようやく「自分がいかに有能であるか」を語ることに飽きたらしく、代わりに氷河の横顔をまじまじと見つめ始めた。
「……それにしても間近で見れば想像以上だ」
 何がですか、と、久しぶりに口を開いた氷河に喜んで、男はまるで女を口説くかのような甘い声となって「あなたの瞳が、ですよ」と答えた。
「宝石と噂に聞こえるだけはある。これほどの美しい青はそうお目にかかれない」
 波長の短い青色光線を多く拡散しているだけのことがそんなに珍しいですか、と氷河は投げやりに答えたが、男はあまり意味を理解しなかったようで曖昧に笑うと、女でないのが惜しかった、だの、いや男でもこれほどの上玉なら、だの、一人でブツブツと言い続けた。
「失礼ながらあなたはまるで伯爵とは似ていない。その美貌は母上譲りなのでしょうねえ……ああ、母上は本当に残念なことでした。思えば、あなたの母上の船に護衛艦をつける手間を惜しんだのは、大きな声では言えませんが伯爵の重大なミスでした。このわたくしが領主であれば決して起こらない悲劇でしたのに残念でなりません。しかし、こう言っては不謹慎かもしれませんが、母上は船と共に沈んで却って幸せだったのかもしれません。その美貌だ、海の荒くれ男どもの目に留まってでもいればどんな扱いを受けたか……異国に売られるならよい方で男どもの慰み」
「いい加減、」
 その下品な口を閉じたらどうなんだ、という言葉を飲み込んだのは、我ながら上出来だった、と氷河は思った。
 不快感か怒りか、手にしたグラスがふるふると小刻みに震えている。
 男の顔にグラスをそのまま投げつけてしまいたい衝動と戦って、だが、氷河はそれをどうにか堪えきった。
 代わりに、ガタリ、とほとんど椅子を蹴るようにして立ち上がる。
 光政卿の向こう側で、アイザックと会話を交わしていたカミュの瞳が氷河の方を向いたのが視界の端に映った。
 男に、というより、むしろ、師に対して言い訳をするように氷河は言った。
「……少し酔いが回りました。風に当たってきます」
 それだけ言って、誰の返事を聞くこともなく氷河はくるりと背を向け、壇上から駆け下りた。
 初々しいことで、という笑い声が後ろで起き、カッと頬が熱くなったが、幸い、頬にかかったブロンドがそれを隠し、氷河は大勢の人がごった返す広間を足早に横切って、庭園へ続く大きな滑り出し窓のカーテンを捲り上げて外へ飛び出した。
 が、すぐにバルコニーの手すりに行く手を阻まれて勢いを封殺され、くそっと腹立ちまぎれに氷河は手すりを拳で殴った。
 飛び越えられぬ高さではない。
 だが、夜の闇の中にぼんやり浮かんでいるバルコニーの白い手すりが、まるでどこへも行かせまいと自分をこの閉塞した世界へ閉じこめている檻のように見えて、氷河は虚脱するようにずるずるとバルコニーの床に座り込んだ。
 広間とバルコニーの境界にある滑り出し窓は大きく開放されているが、間に吊られたカーテンが広間の喧噪と好奇の視線から氷河を遮断しているのだけが救いだ。
 がやがやとした話し声の代わりに、しんと冷たい夜気が、遠くでうねる潮騒を運んできた。
 海は嫌いだ。
 だが、無気味でしかない夜の潮騒もあの不愉快なざわめきに比べたらずっとずっと優しく響く。
 カーテンが風の形にふわりふわりと舞う様を見つめながら、氷河はじっと波の音に耳を傾けていた。

 どのくらい波の音を数えただろうか、多分、そういくらも数えぬうちに、風に揺られていたカーテンが、不意に見知ったシルエットを浮かび上がらせたかと思うと、ふわりと人型に持ち上がった。
「……アイザック」
 広間の明かりが逆光となって、顔の判別はできなかったが、己と全く同じデザインの、前裾の短いフロックコートに氷河はそう呼びかけた。
「お前まで抜けて来ることはないのに」
 氷河がそう言ってみせると、隣まで近づいてきたシルエットは手すりに体を預けるようにもたれると、俺にだって風に当たる権利はある、と足先で氷河を蹴って笑った。
「お前が席を立たなきゃ俺が転んだふりで奴に酒をぶちまけてやるところだった」
「……聞こえていたのか」
「ああ。ろくな男じゃない。よく堪えたな」
「別に……怒りをぶつける価値もないと思っただけだ」
 同感だ、と言ってアイザックは腕を伸ばし、「弟」の頭を撫でた。
「……どっちだと思う」
 何のことか故意に主語も目的語も省いたにも関わらず、恐らく同じことが胸に重く圧し掛かっていたのだろう。アイザックは間髪入れず、「わからない」と答えた。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。
 次期領主にふさわしいのはアイザックだ、と氷河は思っている。
 だが、万一アイザックではなかったら?という恐れも同時に存在している。
 二人の関係性を変えてしまわないとも限らない大きな転換点を前に、不安は増してゆくばかり。

 やがてアイザックが、ふ、と息を吐いた。
「こうして俺たちが考えていても仕方がない。……さすがにそろそろまずいかな。戻れるか?」
「……戻った方がいいか?」
「多分な。先生と過ごせる最後の貴重な時間でもある」
「お前はいいよ、先生の隣だから」
 俺もそっちがよかった、と拗ねて膝の間に顏を埋めた氷河に、アイザックは笑いながら「席を代わってやるから。な?」と屈みこんで顏を覗きこんだ。
「……あれ。お前顔がだいぶ赤いな。もしかして本当に酔ってるな?」
「まさか。あんな楽しくない酒で酔えるはずがない」
 楽しくないと酔えないってのはどういう理屈だ、とアイザックは苦笑しながら、ちょっと立ってみろ、と氷河の手を取って引いた。
 大げさな、と氷河は自信満々で立ち上がろうとし───
「……………?」
 膝がまるで言うことを聞かないことに驚いて目を丸くした。
「変だな。俺、ここまで自力で歩いてきたはずだけど」
「急に立ち上がって動いたことで一気に酔いが回ったんじゃないのか?」
 アイザックに半ば抱えられながら、氷河はバルコニーの手すりに抱きつくようにしてようよう立ち上がった。
 視界がぐるぐる揺れ、大理石の床が飴細工のようにぐにゃぐにゃと波打っている。
 カーテンが揺れているのを見ているつもりだったが、もしや、揺れていたのはカーテンではなく、自分の方だったか。
 自覚した途端に急激に吐き気が込み上げてきて、氷河は、う、と顏を顰めて唸った。
「大丈夫か?」
「………………………だ、大丈夫だ」
「待ってろ、すぐに水を持ってくる」
 慌てた様子でアイザックがカーテンの向こう側へ消えていくのを見送って、氷河の顰め面はそのままさらに歪んで自嘲的な笑みへと変わった。
 自分の無力さがつくづく嫌になる。
 夕刻までは母の仇を討つ意欲に燃えていたはずが、今や、母を貶める下卑た発言を好き勝手に許したばかりか、自分の身体すら満足に操ることもままならないとは。

 何もできない情けなさがたまらず、悔しさに任せて、額を強く手すりにぶつけたとき、おやおやこれはいけない、と背後からあの甘ったるい声が響いた。
「せっかくの美しい顏に傷がつく」
 逃げてきたはずの『司令官殿』の登場に、氷河は思わず舌打ちをした。
 アイザックは、と無意識に男の背後にその姿を探したが、まだ戻ってくる気配はない。
 夜のバルコニーには氷河と彼と二人きり。せっかくの逃避場所が不快な空間に逆戻りだ。
 男はグラスを手に氷河に一歩、二歩と近づいてくる。
「大丈夫ですか。酔いは醒めましたか」
 そういう男の足元も時折ふらついていて、お世辞にも大丈夫とは言い難い。
「なに、わたくしが正しい嗜み方を教えてあげましょう」
 酔った時はさらに飲むのですよ、気つけ薬と思ってね、そう言って男は氷河にグラスを差し出し、気の利いた冗談を言ったとばかりにくすくすと笑った。
 氷河は男を冷たく一瞥したが、男が堪えた様子はなく、ふらふらと右に左に身体を揺らしながら氷河の隣へ並び立った。
 すっかりアルコールの影響下にあるのか、男の瞳は焦点が合っていないくせに奇妙に据わっていて、もはや何憚ることなく氷河をじろじろと睨め回す。
「あなたともっと仲良くなりたいと思いましてね」
「……明日には旅立ってしまう方と親しくお近づきになっては見送りがつらくなるというもの。どうか今宵はここまでで失礼を」
 俺はこれ以上口をききたくなどない、さっさと消えてくれという意味だ。
 拒絶も否定も侮辱も、美辞麗句にくるんで婉曲的に伝える話法をカミュから叩き込まれている。氷河は単純な性質で、こうした迂遠な修辞を操るのは苦手な方だが、カミュのいる最後の夜だ、面倒を起こすことなく立派に務め上げてみせたかった。
 が、氷河の努力はまるで無駄足に終わった。
 何を勘違いしたのか、男はぱあっと顏を輝かせると、うんうん、と満足げに頷いた。
「そんなにわたくしを好いてくださったとは感激です!」
「…………………いや、そうではなく、」
「なんて可愛いおひとだ、ますますあなたが気に入りました」
「なんて目出度いひとだと俺もますます驚きました……」
 うっかり声に出てしまった本音すら、褒められたととったのか、男はそうでしょうそうでしょうと何度も首を振り、そして、人目を憚るようにそっと声を落として氷河の耳元で囁いた。
「ご安心めされよ、わたくしたちが離れずとも済む方法があるのですよ」
 誰がお前と離れたくないと言った!?と驚きで氷河が目を瞠ったのを、男は多分「そんな方法があるのですか!?」と問われたととった。
 あるのですよこれが、と上機嫌に笑うと、ジャジャーン、と言いたげに両手を広げてのたもうた。
「あなたを乗艦させてあげましょう!」
「断固、お断り…………………………え?」
 なんたってわたくしは司令官ですからね、と、男はえっへんとふんぞり返った。すぐに、おっとっと、と無様によろめく結果になったが。
「えーと。いや、それは……」
「何を躊躇っておいでですか、わたくしと共にゆきましょうぞ」
「はあ……でも、伯爵やカミュ先生がどう言うか……」
 氷河の指摘に、男は「カミュ!!」と素っ頓狂な声をあげた。
「カミュは『副』司令官です。誰もかれもがカミュを重用するが結局司令官に選ばれたのはこのわたくしでしょう。カミュより優れているから司令官に選ばれた、違いますか」
「……ひゃ、百歩譲ってそうだとして(譲らなくてもそうなのです、と男が鼻息を荒くする)、それでもカミュは俺の……わたしの師です。わたしの乗艦の是非は師と話をして結論が出ています」
「なんと!ではカミュはあなたを連れて行かないと言ったのですか。母上を海賊に奪われたあなたこそ剣もて戦うべきであるのに?」
 思いがけず鋭く核心をつかれて、ずき、と氷河の胸が痛んだ。
 だが、痛みを痛みと認識するより早く、カミュを批判する男の言葉を許せないと思う気持ちが湧き上がり、氷河はそれまで堪えていたものを爆発させるように声を荒げた。
「先生の判断に間違いはない!カミュ先生は本来なら司令官だって務まるほど立派な方だ!だから俺は、先生のおっしゃる通り、この地に残ることに、の、残ることに納得、して」
 いる、と最後まで言い切ることはできなかった。
 声を荒げたことで、感情を押さえつけていた糸がプツンと切れ、堪えきれずに込み上げた涙が目尻から零れたからだ。
 最悪だ、こんな男の前で醜態を見せた、早く取り繕わなければ、そう思うのに、口を開けば嗚咽となりそうで氷河はぐっと唇を噛むことしかできない。
 かわいそうに、カミュはあなたに意地悪をしているのですね。
 男のあまりに見当違いな呟きに、そんなんじゃない、絶対に違う、と強く否定に首を振った氷河の瞳からまた一筋涙が零れる。
「おお、どうか泣かないで。わたくしがいるではありませんか。なに、カミュの言うことなど律儀に守らずともよいのです。……そうだ、今から艦長室に忍び込んでおくというのはどうでしょう。そうだ、それがいい!わたくしと一緒に一足早く艦長室のベッドの寝心地を試しましょう。カミュが気づいた時には港ははるかかなたという寸法です。ふふ、いやいやこれは男ばかりの航海、つまらぬ日々を覚悟しておりましたがあなたがいればなかなかどうして……」
 甘く囁く男の息が不快な熱を帯びている。
 こんな男の見え透いた口車に乗ってカミュを失望させるほど俺は馬鹿じゃない、と冷めた思いでいる一方で───だが、もしもこの誘いをうまく利用できたとしたら…?という迷いがアルコールで重く痺れた頭の片隅をチラと掠めた。
 馬鹿な、俺は今何を考えた?と即座にその考えを振り払い、氷河は、いや、と男に向かって首を振った。
「やっぱり俺は、」
「いえいえ何もすぐにここで決断しなくてもよいのです、まずは少し横になって休んで、そして、明日の朝落ち着いてもう一度考えたっていい」
 だから、ね、ね、と男は必死だ。
 あ、そうだ、もう少し飲むといいですよ、と手にしたグラスを氷河に差し出しさえする。
「ほら、憎き蠍を討ち取らんがための決意の杯だと思って」
 カミュの教えは正しいということに迷いはない。
 だが、蠍の名を出されてしまえば平静でいられず、心は千々に乱れてしまう。グラスを受け取ることもせず、かといって拒絶しきれもせず氷河はただ立ち尽くす。
 と、その時、横から伸びてきた長い指が男の手からグラスを奪い去った。
 あっけにとられた男と氷河を、涼やかな瞳で一瞥すると、襟元ひとつ乱れていない軍服姿の師はグラスを口元に運んでそれを一気に飲み干した。
「蠍を討ち取るための決意の杯ならわたしが頂くのが理にかなっておりましょう、『司令官殿』」
「……カミュ『副』司令官」
 茫然と、だが精一杯の負け惜しみを「副」に込めることを忘れずに、男は、ええ、とか、ああ、とか意味の為さない声を発して及び腰となり始めた。
「今夜のうちから艦長室へお泊りになるとは司令官殿の熱意には頭が下がります。ちょうどわたしも作戦遂行について司令官殿と詳細を語り合いたいと思っていたところ、お供させていただければと存じますが」
「う、うむ。まあ、そうだ、もちろんわたくしもそのつもりでしたよ。君の弟子があまりに熱心にわたくしを誘うものだから熱意に負けましてね。…………おっとっと、これはいけない、わたくしとしたことが。伯爵に話があるのを忘れていた。いやいや、これは失礼、残念だがその話はまた後ほどということで」
 ゴホンゴホンと大げさに咳払いをし、男は、では失礼、とへらへらとへつらうような笑みを頬に張り付かせてカーテンの向こうへと消えていった。
 しん、と再び静けさが戻る。
 師が今、どんな表情をして自分を見下ろしているのかと想像すればあまりに居たたまれなく、氷河は、すみません、と消え入りそうな声で呟いて俯いた。
 怒っているのか、それとも呆れているのか、カミュの返事はない。
 情けなさの言い訳を慣れないアルコールのせいにしてしまえるほど氷河は器用でもない。どこから聞かれていたのか、「熱心に誘うものだから」と言った男の言葉を信じていないといいが、と視線を落とした先にある、よく磨かれたカミュのブーツの爪先を氷河はじっと見つめた。
 と、氷河の目尻に溜まっていた雫をカミュの指先が拭った。心に去来した狡い迷いをその雫に悟られたように思えて、氷河は少し身を竦ませる。
 雫を拭って濡れたカミュの指の背が氷河の頬を何度か往復した。
 そのやさしい動きにおそるおそる顏を上げれば、指よりずっとやさしい色を灯した瞳がそこにあった。
「氷河、わたしはな……」


**


「いい眺めだ。お宝が俺たちの迎えを今や遅しと待っている」
「そういう言い方はよせ、ミロ」
「今更義賊ぶるつもりか?敵を煽るなら派手な獲物がいいと当たりをつけてきたのはお前だろうに。なあ、カノン?」
「だがこれは煽るにしてもあまりに度が過ぎる。遊びではないのだぞ」
「もちろん俺はいつだって本気だ」
「……だといいがな」
 見ろ、と高揚した声を上げて望遠鏡をのぞき込んだ男に、カノンと呼ばれた男は、あまり身を乗り出すな、見つからんとも限らん、と眉を顰めた。
 城の中庭、宵闇に紛れて、ひときわ高い木の梢で、二人の男は宴で賑わう大広間の窓を覗きこんでいるのだ。
「そんなへまを俺がしたことがあるか?それより見てみろ、噂をすれば『宝石』がバルコニーへ出てきた。あれはどっちだ。……『青』だな?」
 望遠鏡をこちらに寄越して確認せよと求める男に、カノンは筒に填められた円い硝子をのぞきこんだ。同じ体格、良く似た容貌の二人、遠目にはすぐには判別が難しいが、無造作に伸びた金髪といつも何かに怒っているかのような頬、そのくせ素直な性質を隠しきれていない柔らかな口元は紛れもなく青の宝石と称される少年の方だ。
 当たりだ、とカノンは頷いて、望遠鏡を男に返す。男の肩には赤い色をした翼の大型の猛禽が乗っていて、それが、望遠鏡を取るために伸ばされた男の腕の動きに少し居心地悪げに身じろぎをした。
「どうして青の方だと思った?」
「さあな…………おや、『碧』も来たぞ…………いや、そっちは去った……今度はニヤけた面の男が来た……」
 ずいぶん皆に愛されている坊やだなあ、いや、愛されているというより甘やかされているのか、とくつくつと笑い転げ、だが、男の横顔はすぐに真剣な色を宿した。
「緋色の髪の男は誰だ」
「それがカミュだ。言っただろう。家庭教師の」
「カミュ?陛下が傍付きにと熱望しているという噂の、か。確かに手強そうだが……だが……家庭教師……?あれが、か……?」
 翼を休めていることに退屈して、男の豊かな金色の巻き毛に嘴を突っ込んで遊び始めた鳥の喉を撫でながら、男は、ただの家庭教師があんなに愛しげに頬を撫でるものか、と呟いた。
 あんな、とはどんなだ、と問う間もなかった。
 唐突に男は、よし、行くぞカノン、と枝の上へ立ち上がった。待っていましたとばかりに素早く反応したのはカノンではなく肩の鳥だ。それが自分の仕事だと知っているかのように迷いなく、赤い翼は海の方角めがけて音もなく飛び立った。動きあり、出航準備だ、と告げに戻ったのだ。
 満足げにそれを見やった男が、用済みとばかりに放って寄越した望遠鏡を慌ててカノンは受け止めて、待て、ミロ!と小声で制止したが、制止した時にはもう男の姿ははるか下方の葉の間に消えていた。
 飛び下りる際に彼が蹴った枝だけがわさわさと揺れて、そこに確かに男がいた名残を残している。
「……アイアイサー、キャプテン」
 こまった男だ、とため息をついておいて、誰もいない空間へ向かって一応の敬礼の形だけ取ると、カノンも続いて地面へと飛び下りたのだった。


**


「おや、お戻りになられたのですね!」
 広間に戻って数分も経たないうちに、再び「司令官殿」に掴まって氷河はげんなりとした。つくづく懲りない男である。
 何かもの言いたげに氷河の頬を撫でていたカミュは長く躊躇った末に結局、「……いや、何も言うまい」と首を振って手を下ろした。
 すまなかった、わたしも少し酔ったのかもしれない、と困ったような笑みを見せ、背を向けて広間へ戻ろうとする師を、待ってください、と氷河はふらつく足で追いかけた。
 師は何を迷っていたのか、何を言おうとしていたのか。
 それは自分の乗艦に関することか、ならば───
 カミュを引き留めて真意を問いただそうとしていた矢先に異分子の登場だ、男のせいでカミュの背を見失って、思わず氷河は苛立ちのあまり邪険に言い捨てた。
「俺に構うな」
「なんとつれないことだ。照れなくともよいのですよ。もう邪魔をするカミュはいません。さあ早く二人きりで」
 さあ、さあ、とぐいぐいと己の身体を押し付けて強引に氷河の腕を取った男に、いい加減にしてくれ、と氷河が顔をゆがめた刹那、二人の間の空間を割くようにシュッと音を立てて何かが男の頬を掠めた。
 ダン、という音を立てて男の髪を縫い留めるように背後の壁に突き刺さった物体は……小ぶりの短剣だ。
 何が起こったのか理解するのに数瞬かかった後、男は、ひ、ひぃっ!?と悲鳴をあげて尻餅をついた。
 誰だ、と氷河が短剣を投げた主を探すために振り返った瞬間、ガシャン、と大きな音が響いてテラスに面した窓ガラスが割れた。
 降り注ぐガラスの破片に、舞踏曲の演奏は止まり、きゃあ、という悲鳴が上がった。
「この程度の沿岸警備で海賊討伐とは片腹痛い」
 よく通る声がどこからか響き、何者だ、どこにいる、と、グラスを傾けて談笑していた騎士たちが緊迫した面持ちで次々に剣の柄に手をかけて立ち上がった。
 上よ、シャンデリアの上に人が、という声で全員の視線が上へと集まれば───果たして、そこには長身の男が一人。
 だらしなく胸元の開いた簡易なシャツ姿、どう見ても招待客ではない。だが、波打つ豊かな金色の巻き毛がシャンデリアの光を美しく反射していてハッと目を惹かれる存在感があった。
 素性を隠すためだろうか、男は目元を仮面で覆っていて、だが、足をぶらぶらとさせながら愉快げに唇の端を上げていた。
「今宵は比類なき宝の甘い香りに誘われ海より参上した。我が名はミロ。……海の蠍と呼ぶものもいるが」

 蠍……?

 一瞬の静寂が広間を包む。
 が、誰かが、海賊だ、と呟いたのをきっかけに、爆発的に混乱と恐怖の悲鳴が上がった。
 恐慌状態に陥った人々の間で、やめてわたしのネックレスが、だの、わたしのダイヤはどこ、という叫びが起こり、それがまた「海賊の襲来だ」という衝撃に拍車をかける。
 少ない出口を求めて一度に押し寄せた人の波、いざ戦わん、と立ち上がった騎士たちも飲み込まれて、まるで身動きが取れていない。(動けたところで満足に戦えたかどうかわからぬほどあからさまにほろ酔い顔ではあるのだが)
「通してください、どうか俺を奴と……!」
 氷河はもみくちゃにされながら、男の姿を探していた。一瞬目を離した隙にシャンデリアの上にいた男はどこかに消えている。
 蠍、だと。
 確かにそう聞こえた。
 聞き間違いではあるまい。
 なんと不敵な。そしてこれほど人を食った話があるものか。
 己を滅ぼさんと、まさに意気を上げている最中の、騎士たちの集団に自ら飛び込んでくるとは。
 だが、向こうからやってきたのなら好都合、陸へ上がったことを後悔させてやる。
 こんな状況でむざむざ逃しては末代までの笑いものだ。こと、ここに至ってはもう氷河ひとりの感情など問題ではない。まさかカミュもこの状況で氷河に黙って隠れていろとは言いはすまい。
「氷河、アイザック、どこにいる!怪我はないか!」
 群衆の中から、そのカミュが呼ぶ声が聞こえる。
「ここです、俺も戦います!」
 言って、氷河は、自分が戦うための武器を何も持たないことに気づいた。正装をした騎士たちはみな腰に長剣を帯びているが、まだ成年の儀を迎える前の氷河には、正装と言えど帯剣は許されなかったのだ。
 何かないかと辺りに目をやれば、壁際で尻餅をついたまま、青ざめて震えている「司令官殿」の腰に携えられた豪華なレリーフのほどこされた長剣が目に入った。
「貸してもらう」
 近寄って、剣の柄に氷河は手をかける。
 と、氷河の手を押さえるように一回り大きな手がそれに重ねられた。
「やめておけ、装飾ばかり豪華で重いだけだ。こんな人混みで振り回していい代物じゃない」
 からかいを含んだ低い声が耳元を擽り、今しがた聞いたばかりの忘れもしないその声に、ぞわ、と氷河の背が総毛だつ。
 まさか、と勢いよく振り向けば、いつの間に傍に来ていたのか、蠍を名乗った仮面の男がすぐ背後に立っていた。
 やめておけと言われたからと言って、はいそうですかと退ける状況ではない。殺らねば殺られるだけだ。構わず氷河はぐっと柄を握りしめようとしたが、男の手がそれを強引に阻んで、代わりに氷河の指先は男の手に器用に絡め取られた。
 男はどう力を込めているのか、柔らかく掴まれただけに見える指先は、離せ、と振りほどこうとしてもびくともしない。ばかりか、男は氷河の指を恭しく持ち上げたかと思うと、己の唇をそっとそこに触れさせた。まるでダンスでも誘うような優雅さで。
 な、と言ったきり絶句した氷河を見て、仮面の奥で男の瞳が弧を描く。
 深い蒼だ。
 まるで海そのもののような。
「氷河から手を離してもらおう」
 低く響いた怜悧な声にハッと氷河が我に返れば、人混みを掻き分けて辿り着いたカミュが、男のこめかみにピタリと剣を突きつけていた。
 男は動じた様子を見せず、ふ、と唇の端を上げたのみだ。だが、全身が研ぎ澄まされた殺気に包まれている。
 仕草は鷹揚として優雅だが、戦闘慣れしているのが見てとれる。
 1秒……2秒……二人を繋ぐ緊迫した間合いに氷河は身じろぎもできない。
 カミュは厳しい師だったがこんなに怖い顔はいまだかつて見たことがない。
 どちらがどう合わせたのか、二人の呼吸はピタリと重なっている。乱れているのは暴れる心臓を抑えかねている自分の呼吸だけだ。
 男はまだ氷河の指先を離していない。
 カミュに気を取られている今なら、と氷河は男の手から逃れようとした。
 が、次の瞬間、男から離れようとしていた氷河の身体は、逆に男の腕が強く引き寄せていた。腕を掴まれたまま、ダンスのターンにようにくるりと身体を回転させられたのと、ほぼ同時にカミュの剣先が男の仮面を割る。
 はらりと落ちた仮面、晒された男の素顔にカミュの眉が一瞬反応を見せ、だがすぐに二の太刀が男に浴びせられた。
 男は片腕で氷河をもう一度くるりと反転させると、反対の手でカミュの二の太刀を受け止めるために己の剣を抜き、二人は互いに斬り結ぶ。
「……飲んでいてその腕とはたいしたものだ」
 カミュへ称賛を贈りながら振り向いた男の片袖が一直線に裂け、断面にじわりと赤いものが広がった。
 だが、カミュの頬にも一筋赤いものが流れ、ひと房の髪がはらはらと散って床に広がっている。
「酒は剣を鈍らせる。互いに飲み過ぎには気をつけたいものだな」
 男は笑って、離せ、と暴れる氷河をもう一度引き寄せた。
「今宵のダンスはこれまでにしておこう。音楽がなければ盛り上がりに欠ける」
 演奏家たちがとっくに楽器を捨てて逃げだしているのは確かだがそういう問題ではない。
「ふざけるな……!」
 四肢をめちゃめちゃに振り回す氷河を抱えたまま、男は軽やかな足取りでバルコニーの方へと向かった。
「逃げられると思うな」
 氷河を抱えていないだけ身軽な分、先回りをして行く手を塞いだカミュにも男はまだ余裕の笑みを見せている。
「……ところで『碧の宝石』はどこかな、センセイ?長らく姿を見ていないが」
 ピクリと一瞬カミュの眉が反応した。
 男はその隙を逃さず、ひらりとカミュを躱し、バルコニーの手すりに飛び乗って振り返ると声を張り上げた。
「確かに望みの宝は貰い受けた!紳士淑女の諸君、お騒がせして申し訳なかったが引き続き宴を楽しんでくれたまえ」
 くっと珍しく感情を顕わにして剣を振り上げたカミュに向かって、男は少し声を落とし、
「大事なものがたくさんあるのがあだとなったな。……悪く思うな」
 と片目をつぶり、そして手すりの縁を勢いよく蹴って、夜の庭へと身を躍らせた。
「氷河…ッ!」
 二人の姿の消えた闇にカミュの短い叫び声が一瞬こだまし、それはやがて、ざんざんという雨にも似た潮騒の音に飲み込まれて消えて行った。