藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク
◆Navy Story ②◆
ふわり、と潮の香りが漂った気がして、カミュはつと顔を上げた。
どこか窓でも開いているのだろうかと、誰もいない小さな礼拝堂を見回して、そこでカミュは初めて、もうすっかりと窓の外が薄闇に包まれていることに気づいた。
いつの間にか日が暮れてしまっていたのだ。
館の方角からは大勢の人間が出入りしているようなざわざわとした気配がしていて、宴の始まりが近いことを知らせている。
カミュは酒宴の類はあまり好まない性質だ。有益な情報が手に入ることも稀にはあるが、たいてい上滑りの追従や酔客にありがちな論理の破たんした同じ話を延々と聞かされる羽目になって、無駄な時間を過ごした気がして酷く疲れるからだ。
だからいつもなら、「子どもたちが寝ずにわたしの帰りを待っているものですから」と、まだ独り身の青年らしからぬ理由で煙に巻いて早々に退席するか、端から顔も出すことさえしないところだが、今夜ばかりはそれはまずい。
明朝に出航を控えたカミュたちのために開かれる宴だ。さすがに途中退席というわけにはいかないだろう。何より言い訳に使ってきた当の『子どもたち』も同席するのだ。逃げようがない。
子どもたち、か。
カミュは苦笑した。
いつまでも出会った日の幼子のままだという意識がどうも抜けないが、「寝ずに待っていた」のはとうの昔のこと、二人とも変声期を過ぎ、背もすらりと伸び、そろそろ帯剣の儀を考えねばならぬ頃合いに来ている。
否、もしかしたら今夜───形式ばかりの帯剣の儀など飛び越して、新領主の誕生を持って彼らは否応なく成年として扱われることになるのかもしれぬ。
育て親同然のカミュの与り知らぬところで後継を発表してしまうほど、伯爵はカミュを軽んじてはいない、と思う。
カミュが航海から戻るのを待つつもりであれば、不在の間二人を世話する後任が用意されていなければ理屈に合わない。とんとそうした話を聞かないからには、きっと今夜それは訪れる。
折しも、海賊討伐艦を見送るために、主だった近隣諸侯は皆揃い踏みしている。『新領主』を披露するのにこれほどの舞台はない。
どちらになるのだろうか。
重要な決断を下すときには決まってカミュの意見を聞いてきた領主だが、この件に関しては別だ。カミュばかりか誰にもその胸の裡を悟らせるような隙を見せていない。
アイザックか、氷河。
選択肢はその二つだけだ。だが、これほど困難な二者択一はない、とカミュは思う。
もしもわたしなら。
選択権はカミュにはないにも関わらず、朝から何度も同じところを回っている思考が今また再びそこに帰結する。
もしもわたしが選ぶとすれば───
カミュは憂いの吐息を静かに吐いて、礼拝堂の石の床に視線を落とした。
**
過去を語るときは、いつもそこに潮の香りが漂っているような心地がする。
それほどこの国の人々は海に依って生きている。
ほとんど島と言ってもいいほどに国土はぐるりと入り組んだ海岸線に囲まれていて、海に接していないのは大陸と地続きになっている北東部のみ。しかしその国境線には、頂が年中雪で覆われている険しい山脈が横たわっていて、つまりそれは陸路で他国と行き来することが困難であることを意味している。
他国からの侵入を阻む天然の要塞は同時に陸路による隣国との交易ルートを断ってもいるのだ。
畢竟、移動ルートは海路一択、この国ではどこへ行くのにも潮の香りなしでは行けぬようになっている。
それゆえに、日々何隻もの船が漕ぎ出だす沿岸部は大いに賑わい、各港の周辺には規模こそ違えどいくつもの商業都市が発展していた。
今は伯爵として一領地を拝している光政卿だが、実は領主としての歴史は非常に浅い。ほんの十数年前までは、そんな海辺の都市に暮らす商人の一人であったに過ぎないのだ。
と、言っても、なかなか辣腕な大商家として名は通っていたようで、既にその頃から王宮に出入りすることは許されていた。彼が爵位を得たきっかけもそこにある。
十数年前、いつものように王宮へ織物を納めるために出向いた光政卿は───否、ここではまだ光政「翁」は、とすべきか───そこで内乱に巻き込まれた。
その頃、華やかな宮廷の裏側では、まだ生まれたばかりであった現女王陛下を亡き者とする恐ろしい企みが人知れず進行していた。それをいち早く察知した近衛の一人が、赤子であった陛下を密かに連れ出し、光政翁に託したのだ。宮廷内の誰を信用してよいかわからぬ、政に関わっておらぬ人間以外には託せぬのだ、どうか頼む、と、陛下を連れ出す過程で首謀者に見つかり深手を負ったらしい近衛は、虫の息の下、そう言って翁に懇願したという。
翁は赤子を織物の籠に隠して王宮を出(内乱の行方次第では陛下の御身柄略取の重罪で拷問の末斬首もあり得たからその度胸は称賛に値する)、内乱が無事に収束するまでの一年、密かに陛下をお守りお育てしたという。
いち早く異変を察し、陛下を逃れさせた殊勲の近衛は残念ながら助からなかった。翁に陛下を託した直後に命を落としたらしい。
内乱がどのように収束したのか、首謀者が誰であったのかは内々に秘匿されたため、誰もその後の詳しい事情は知らない。(光政翁は事の顛末を聞いたらしいが、墓まで持って行く秘密だとして誰にも語ろうとしない)
だが、とにもかくにも陰謀は潰え、幼い女王陛下は健やかな御姿のまま一年ぶりに王宮に戻ることができた。
その際に宰相が、陛下の命を守り通した功績を称えて、翁に伯爵の称号と、この地、「グラード領」を褒賞として与えたのだ。
当然ながら翁は驚き、身に余る褒賞を固辞したのだが、まだ若い宰相が「受けてもらわねば困る」とどうしても譲らなかった。「じいじ、じいじ」と陛下が翁にすっかり懐いてしまっていたからだ。
さすがに言葉にはせぬものの、陛下の「おじいさま」が一介の商人では困る、とありありと顔に書いていた宰相に、却って小気味が良かった、と伯爵となった後に卿は語っている。そういうことならば、と最終的には折れ、翁は爵位の栄誉を得たのだった。
だが、そうした事情があったとはいえ、商人に与えられた異例の爵位に当然の反発はあった。
商人ごときが領地ひとつ、それも国境の重要地を切り盛りしてゆけるものか、という、他の領主たちの嫉妬交じりの冷ややかな目や、当主が由緒正しき貴族の血筋(ただし、無能で領民たちは長年苦しい生活を強いられていたようだ)からどこの馬の骨とも知れぬ町民にすげ替わった、城の内部の戸惑いなど、しばらくの間はぎすぎすした不協和音は免れなかった。
だが、辣腕で知られていただけのことはある。成り行きで得た地位なれど、得たからには野心もあったのだろう、光政卿は商家出身という経歴を見事に攻め手に転じてみせた。
商人に富と権力を集中させないために重い税を課す領主が多い中、光政卿は公課を大幅に減じたのである。
負担が軽くなったことで商取引は活発化し、人々の暮らし向きは楽になった。近隣を航行する船舶も他領より物資が安いとあれば挙ってグラード領の港を目指すようになり、港は常に活気に溢れるようになる。
気づけばグラード領は、公課減による一時的な財政の落ち込みの影響を受けぬほどすっかり豊かになっていた。
不思議なもので、税を減らすだけで豊かになるなら易いもの、と追従した近隣の領地では減収による負債ばかりが嵩んでゆく。数多くの商取引の経験に裏打ちされた光政卿の目がなければ、そのバランスを保つのは困難らしい。
ほどなくして、この新参者の伯爵が商人の出だったことは、侮蔑と言うよりむしろ、敬意を込めて語られるようになった。
何もかも順風満帆。こうして女王陛下のお命を救った伯爵はその後も末永く幸せに暮らし───と、言いたいところだが、現実はおとぎ話ほど簡単ではない。
皮肉なことに光政卿がうまく領地の舵取りをしたことである問題が持ち上がった。
後継問題、である。
光政卿は妻子を持たない独り身であった。しかもほとんど隠居間近の老境に差し掛かっている。
この黄金期はどれほど続く?
一度豊かになった暮らし向き、元の苦しい生活に戻りたくないのは当然のこと。
「残念だ。彼の治世がこの先ずっと続けばよいのに」
「せめて当主に子さえあれば」
領民の間でそうした囁きが多く聞かれるようになる。
やがてそれは重臣からの忠言という形を取って卿の耳にも届く。
光政卿がどう受け止めたのかはわからない。
己の築いた地位を連綿と継承させてゆきたいという野心ゆえだったのかもしれないし、意図せざる成り行きとはいえひとつの領地を任された責任感がそうさせたのかもしれないし、当人にしか本意はわからないが、とにかく、臣下の意見を素直に取り入れる形で卿は養子を取ることとなった。
それがアイザックだ。
「商人の血」をとやかく言うものはもうほどんどいなかったが、だが、跡継ぎに、と選ばれたその子どもは、父に子爵、母は伯爵令嬢という、生粋のサラブレッドだった。
宮廷の派閥争いに敗れて没落し、生きるに困って国を捨てて他国へ渡る算段を進めていたところを、「せめて子どもだけでも食うに困らぬ暮らしをさせてやらぬか」と、光政卿の臣下のひとりが貰い受けてきたのだ。
商人時代から仕えている執事頭の辰巳などは「血筋、血筋としつこい輩め、旦那様に対する嫌味だ」と激昂したと言うが、光政卿は、騒ぐな、辰巳、と一喝してそれを退けた。
連れてこられたものの、強面の辰巳に威嚇され、自分の処遇がどうなるのか不安であるに違いないのに、おくびにもださずに行儀よく立っているアイザックを光政卿は甚く気に入ったようだ。
アイザックを値踏みするように見下ろして彼は言った。
「賢そうな子だ。家庭教師を急いで用意せねばなるまい。この子を当主に相応しく育てられる者を。辰巳では荷が重かろう」
こうして、カミュに白羽の矢が立ったのだ。
当時、カミュは王都下にて元服したばかりの、まだ少年と言って通る歳に過ぎなかった。
それでも元服前には既に父の所有する艦を率いて出征し、海上の争い事を何度も征するなどその名は遠く知れ渡っていた。
どういう人選を経てカミュが選ばれたのかは知らない。だが、王都から遠く離れたグラード領に(それもまさかの家庭教師として!)、と乞う書簡を手にした時、カミュは誰に相談することなくすぐに受諾を決めた。
息子の行く末は女王陛下の近衛に、と信じていた父は、田舎領主の家庭教師にするためにお前を育てたのではない、侯爵家の恥め、親子の縁を切ってくれる、とまで言って激怒したが、カミュは「勘当で結構」と淡々と己の城を後にしてきた。
後悔するぞ、と最後まで嘆いていた父にとっては寝耳に水だっただろう。
生まれた時から反抗らしい反抗はしたことがない。有能で物腰も柔らかく、美しい容姿のカミュは侯爵家の自慢の種だった。
少年期特有の反抗期が遅れてきたというわけでも、父に敷かれたレールの上を走っているのが突然嫌になったわけでもない。
カミュという人間は生まれた時よりこうだった、というだけだ。
穏やかな声と涼やかな見た目に実の親すらも騙されてはいるが、その実、内に秘めた情熱は誰よりも熱く、その上ひとたび決めたことは決して覆さないという強情さも持っている。
今までは己が決めた道が父の決めた道とたまたま一致していただけだ。
女王陛下のお役に立ちたい、という気持ちもないではないが、だがそれは今ではない。
「商人あがり」であるにも関わらず最重要地を治めている噂の光政卿の手腕に興味もあったし、その後継を育てる任というのは「田舎領主の家庭教師」と片づけられるほど退屈な仕事ではないことをカミュは本能的に知っていたのだ。
幸い、父の嘆きに相違してカミュが後悔するようなことは何も起こらなかった。
アイザックは非常に利発で教えがいのある生徒であったし、光政卿はカミュを単なる家庭教師としてのみならず片腕として尊重し(カミュは本来であれば伯爵よりも身分は高い。その上、軍人としての経験も浅くはないことを考えれば、最初から家庭教師以上のものを期待されての招聘だったのかもしれない)、己の能力を如何なく発揮できる任は何もかもが楽しかった。
しかし───
ある日、光政卿の元にひとつの知らせが届いた。
何ごとか思案に暮れている様子の当主に、何かありましたか、とカミュが声をかければ、白いものが目立つ顎鬚を撫でながら卿は「長年探していて見つけられぬものが今頃になって見つかったとは」と珍しく疲れた息を吐いた。
「見つかった?何がです」
儂の息子だ、と言った卿の声は、今しがた一瞬だけ見せた弱気を吹き飛ばすかのようにいつも以上に尊大に響いた。
子はいないはずでは、と問うほどカミュは愚鈍ではない。
庶子など珍しくもない話だ。
ただ、アイザックを養子とした今になって実子が現れた、というのはよろしくない事態だ。跡目争いは家の崩壊を生む。知らず、カミュの声には緊張が走った。
「アイザックはどうなさるおつもりですか」
実子がいるならそちらに継がせるのが道理の世界だ。アイザックを大人の勝手な都合でお役御免にするにしても、それ相応の不自由ない処遇を求めねばなるまい、と強く憤りを感じるほどに小さな愛弟子に情は移っていた。
だが、老当主は眉をひそめて、カミュの質問の意味を判じかねる、と言いたげに首を傾げた。
「どうもこうもない。大事な後継ぎだ、其方は今までどおりアイザックを導いてやってくれればよい」
驚きで、はい、とすぐにはカミュは頷けなかった。
憤っておいておかしな話だが、アイザックを離縁しない、という発想はカミュにはなかったからだ。それほど、後継ぎと血縁とは切っても切れない社会にカミュは育った。
「……では、見つかった子の方を捨て置くのですか」
当然疑問はそこへ行く。
金貨を積んで光政卿との血の繋がりはなかったことにされるのか。それはそれで胸が悪くなる結末だ。
「もちろん呼び寄せるつもりでおる」
光政卿はさも当然、というようにさらりと言った。
実子と養子と二人を育てる、ということですか、と驚いたカミュを見て、少しだけ卿は愉快そうに笑った。
「世の中には子が何人もある家庭の方が多いというのに、何をそれほど驚く」
「それは……どちらも実子であれば、生まれ順で継承順位は明らかであるからよいのです。実子と養子となれば、必ず争いが起きましょう」
「なるほどのう。面倒だのう」
そう言って光政卿は目を細めて顎髭を撫で、しかしややして有無を言わせぬ声で言い放った。
「だが儂は決めた。生まれ順も血も関係ない。より有能な方に跡を継がせるのが最も合理的だ。家臣には儂からそう説明しよう」
なるほど、とカミュは悟った。
卿は、根っからの「経済家」なのだ。今や称賛の意味で使われているが「商人」という言葉はまさにこの男を形容するのに相応しい。
情も、しがらみも、常識も、慣習も、彼には関係ない。
利があるかどうか。
彼の行動原理はそこに集約され、だからこそたった一代で王宮に出入りするほどの商家となり、異色の領主として成功するほど立身出世を遂げたのだろう。
もしかしたら陛下を救ったのも……いや、さすがにそれまでが営利主義の発露の末であったはずはない。
幼い陛下がずいぶん懐いていたというのだから、光政卿とて人の子、純粋に子どもを可愛いがる心は持っているはずだ。合理主義に隠してはいても、本当はどこかに養子も実子も見捨てられぬ情があるのだろう……あるのだ、と思いたい。
子どもを手駒のように扱うのには諸手を挙げて賛成とは言い難いが、反対するだけの材料が(旧態依然とした)カミュの価値観というだけならば、当主を説き伏すのには弱い。
不吉な予感が拭えないまま、カミュは主の判断を受け入れたのだった。
当主に、公にならない妻子があったことはたちまち知れ渡り───やはり、領内は揺れに揺れた。
既にアイザックは「小さな後継ぎ様」として認知されて可愛がられていたのだ。「今更」という反発が生まれるのは必然だった。
だが、後継ぎが必要とされていたのは、そもそも光政卿のカリスマ的手腕の継承を望んでのことだ。実子であればかの偉大な性質を生まれついて備えているのではないかという声も徐々に増え、最終的には、反対派と賛成派、ほとんど領地を二分せんばかりに意見は割れた。
収拾がつかぬ混乱状態のまま、新しい「御子」を乗せた船を受け入れる準備だけは進み───だが、そんな時、港に恐ろしい知らせが飛び込んできた。
一報を受けて、カミュが愛馬を駆って港に駆けつけた時には既に光政卿も港へと着いていた。
がやがやと無秩序にさんざめく人の輪をかき分けて、カミュがその中心へ進み出ると、卿の足元で、全身ずぶぬれとなった少女がガタガタと震えていた。
少女は質素ながらきちんとした身なりをしていて、だが、身につけた装飾品の少なさから、何らかの人物の侍女であろうと推察された。
少女は、同じように濡れて青い顔をしている幼子を胸へ抱いてひどく取り乱していた。
「海賊が、海賊が私どもの乗った船を……ナターシャ様は船と共に……!」
歯の根の合わぬほど震える唇から零れる言葉をようよう拾って、カミュは何が起こったかを知った。
母と子を乗せてグラード領をめざしていた船は、その行程で海賊に襲われたのだ。
混乱の最中、海に落ちた侍女(で、合っていたようだ)は、散乱している荷のひとつに掴まって震えている主の子を発見した。慌てて泳ぎ寄ったものの、まだ船上では海賊が暴虐の限りを尽くしている。見つかっては自分も子も命がない。幼子だからと見過ごしてもらえるような寛容さなど持ち合わせていない輩だ。主の元に戻るに戻れず、侍女は断腸の思いで船に背を向けると、子をつれて必死に波をかき分けて逃げたのだという。
子の母ナターシャが乗っていた船は海賊たちによって荷を略奪された上、彼女を含め多くの人を乗せたまま沈められたらしい。
力つき、海流に任せて漂流していた少女たちを救いあげた漁船の乗組員が、遠目に、船が沈んで行く様を確りと見ていた。
すぐに捜索隊を出しますか、そう問うたカミュに光政卿は、無駄だ、と即座に首を振った。
「もう生きてはいまい。望みのないものに人材も富も浪費させるわけにはいかぬ」
その言葉のあまりの迷いのなさに、自身も決して人情家であるとは言えないと自覚しているカミュですら、さすがに腑に冷たいものが満ちるのを禁じ得なかった。
「領主」として、それは正しい判断だということに異論はない。光政卿がすぐに捜索隊を、と言ったならもしかしたらカミュの方が、お待ちください、と止めたかもしれぬ。
だが……すぐそばに子がいるというのに。
父が母を迷いなく見捨てたともとれる言葉を目の前で聞かされることになった幼子の心は。
子はまだ侍女が腕に抱えたままだ。
冷酷に響いたあの言葉がせめてその耳に届いていなければよいが、とカミュは地に膝を突いて、幼子の顔をのぞきこんだ。
歳の頃はおそらくアイザックと同じ。
あらかじめ男児と聞いていなければ女児と見紛うほどの愛くるしい顔立ちをしているが、血の気を失って白くなった頬と、硝子玉のように何も映していない青い瞳が痛々しい。
どちらかと言えば、カミュは新たな子を受け入れることに反対する立場ではあったが、こうしてその姿を目の前にすると、せめてこの命だけでも助かってよかった、と心から安堵せずにはおれなかった。
カミュが、茫然と座り込んだままの侍女に、「御子を守り通したこと、殊勲であった」と声をかければ、彼女はぶるぶると震えたまま首を振り、「でも、ナターシャ様は」と言ったきり、あとは堪えきれなくなったのか堰を切ったようにわあっと泣き伏した。
その声で現実を取り戻したのか、子の肩がビクリと震え、乾いていた瞳は焦点を取り戻したかと思うとみるみるうちに透明な水の膜で覆われ始めた。
「いやだ……マーマ……マーマ……!」
侍女の身体を押しのけて海の方角へ走り出そうとした子を、慌ててカミュは抱き留めた。いやだ、離せという抵抗は僅かの間のみ、しだいに声が弱くなったかと思うと、カミュの腕の中で小さな身体はくたりと意識を失った。心が現実を受け止めきれなかったのだろう。
濡れた身体は氷のように冷え切っていて死人と見分けがつかぬほどだ。
このままでは本当に母の後を追うことになってしまう、とカミュは急いで己の外套で子をくるんだ。
城へ戻るために馬上へ子の身体を乗せてやりながら、カミュはチラリと光政卿を見やったが、彼は一度も我が子の顔を見ようとはしなかった。
怪我の功名というのか、不幸中の幸いというのか、こういう、悲劇的な登場となったせいだろうか、氷河──子の名だ──の存在は存外に温かく皆に受け入れられた。
多分、一番冷たかったのは(少なくともそう見えたのは)、父親である光政卿だっただろう。
アイザックと氷河を彼は全く分け隔てることなく平等に扱ったが、それゆえに、「母を亡くしたばかりの我が子に対する父親の態度」としてはあんまりだ、と元々氷河を受け入れることに反対していた者たちすら、氷河に同情的だった。
氷河は当初、自分に対して冷たいか温かいかに関わらず誰に対しても心を閉ざしていたから、光政卿のそうした態度をこれといって気に留めた様子はなかった。(そもそも、当時、彼が光政卿を父親と認識していたかどうかからして怪しい)
むしろ、そのことに最も心を痛めたのは皮肉にもアイザックだった。
俺の存在がなければ父と子は痛みを共有できただろうか、と幼い胸で考えたに違いない。光政卿を「父上」と呼ぶよう躾られていたアイザックが、卿を父と呼ばなくなるのに時間はかからなかった。
アイザックのその変化が氷河にわかろうはずはなかったが、彼の心が通じたのか、それとも単に同じ子どもどうしの気安さがあったのか、やがて氷河はアイザックには口をきくようになり、それを端緒としてカミュへも、そしてゆっくり時間をかけて周囲の者へも少しずつ心を開いていって───
こうしてグラード領には「二人の後継者」が育つことになったのだ。
**
「せんせい!」
思考を中断させる呼び声に、ハッとカミュは顔を上げた。
振り返れば、こちらにいらっしゃったのですね、と額にうっすら汗を浮かべて息を切らした弟子たちが、礼拝堂の扉を開けて狭い通路を急ぎ足で歩いてきているところだった。
二人揃っているところをみるとどうやら氷河は見つかったようだ。
宴を前にいつの間にか姿を消してしまった氷河を、アイザックに迎えにゆかせていたのだ。
息を切らせるほど慌てた様子で飛び込んできたにも関わらず、神聖なる祈りの場ではドタバタと駆け回るものではない、というカミュの教えをきちんと(?)守って、「駆けていない」と判断できるぎりぎりのスピードで足を運んでいる二人に、思わずカミュは笑みをこぼした。
「「何か可笑しいことでもありましたか?」」
はあはあと息の切れた二人の声がぴったり重なったのがさらに笑いを誘って、いや、なんでもない、と首を振りながら、だがしかし、この二人のどちらかが(結果如何ではどちらともが)今夜には重いものを背負う運命にあるのだと思えば、胸に痛みが刺す。
どちらか一人───有能な方に、と光政卿は言ったが、事態はそう単純ではなくなってしまっている。
そもそもどちらが有能なのかと問われても、彼らを教えたカミュですら、どちらとも判じがたいほど二人は同等に育ってしまった。元来、どちらも素直な性質だったのだろう、カミュの教えを二人がまるまる忠実に吸収した結果だ。
初めこそアイザックの能力は抜きん出ていたが、心を開くようになって以降の氷河は、剣術も文学も意外にも社交術までもみるみるうちに彼の横に並ぶまでになった。
その上、同じものを食べて同じように眠って育ったせいか、体格すらうり二つ。
さすがに容貌はまるで似ていないが、どちらもそれぞれ人目をひく容姿をしていて、瞳の色にちなんでアイザックは「碧の宝石の公子」、氷河は「青の宝石の公子」と巷では呼ばれていて、老若男女の心を恣にしている。
これだけ甲乙つけがたい二人なら、単純に年長者の方を後継ぎとしておけばまるく収まるところだが、これも運命のいたずらか、困ったことに二人は年齢まで同じなのである。
正確には氷河の方がひと月に満たないほどわずかながら生まれ月が早いらしい。
だが、当初、頑固に口をきかないくせに布団に潜り込んできてはべそべそと泣いていた氷河に対して、俺の布団で泣くなよ、濡れてたら俺がおねしょしたと思われちゃうだろ、と怒ってみせるアイザックは、そのくせ布団から追い出すこともせず、濡れた布団の言い訳を「俺が水差しをひっくり返しました」と、かばうような「長兄らしさ」を見せることが多かったから、誰が決めたわけでもないが自然とアイザックを「兄」、氷河を「弟」とすることで何となく収まってしまった。
後から来た生まれ月の早い実子が「弟」、先にもらわれてきた生まれ月の遅い養子が「兄」。
どちらにも長短はあり、また、どちらを領主に推す声も同じだけある。
いったい誰がこの二人に優劣などつけられようか。
それだけでも困難を極める選択だというのに、さらにそこに政治的思惑が絡み、事態をより複雑にさせている。
政治的事情を斟酌しないでいいなら、カミュが推すとしたらアイザックだ。
不思議なことに、情に流されず実利を取る卿の性質によく似ているのはどちらかと言えば血の繋がりのないアイザックの方だ。
大局を見ることにも長けていて、経験さえ積めばそつなく組織を統べるであろうことは想像に難くない。
氷河の方は斬新なアイデアを出すのが得意で、風のように自由な性質だ。組織の長などといった立ち位置より、もっと自由に動ける位置の方が彼の良さを発揮できるように思う。
氷河が決してアイザックに劣るわけではなく、単純に向き不向きだけの問題だ。
何より、氷河では、父親である光政卿との溝がありすぎる。
親子の間をどうにかできぬものかと一時期カミュが腐心したおかげで「親しい他人」くらいには近づき、会話に(作り物の、だが)笑顔が混じるまでにはなったが、到底、心を割って語り合うには程遠い。ぎくしゃくした会話しか交わせぬ間柄で継承も何もあったものではないだろう。
にも関わらず氷河を推す声が世間で減らないのは、彼が当主の実子だということと───その、背負った経歴ゆえだ。
「母を失った悲劇の公子」
本人が忘れたくても忘れられないその過去が、皮肉にも氷河を領主に、と望む声を後押ししているのだ。
ただし、大衆の間では同情の意味合いで持ち出されるその過去は、城の内向きに入るとぐっと趣を変え、政治的色合いでもって口の端にのぼることが多い。
いまや、当人たちの仲の良さに関わりなく、アイザック派と氷河派は領内を二分する勢いなのだ。根強く残る「貴族」の血に対する崇拝と、「商人」がもたらした富との相克が、二人の後継ぎのどちらを推すか、に形を変えて未だに燻り続けているのである。どちらが選ばれても遺恨が残ることは不可避、カミュが最初に懸念していたとおりの権力争いに発展しそうな危ういものが生まれつつある。
二派に分裂しかかった領内を争いなくひとつにまとめ、燻る火種を消し去るには、誰もが納得せざるを得ない劇的展開でもなければもはや不可能。
そこで───
海賊によって母を奪われた悲劇の公子が、父の作り上げた海賊討伐艦の出航前夜に当主に就任───
これほど大衆の心を掴む就任劇があろうか。アイザック派であっても氷河の経歴には皆同情的なのだから。海に拠って生きている民にとって、「海賊」は派閥も身分も関係ない共通の忌敵だ。『氷河』を旗印に掲げれば心をひとつにするのは容易い。
だが───
自分に付随する過去ゆえに当主に推されたとあらば氷河は酷く傷つくであろう。そしてアイザックもまた。
アイザックの方が当主に向いている。だが、彼では領内の分裂は避けられない。だからと言って氷河の過去を政治的に利用することにも承服しかねる。
朝からカミュが堂々巡りの議論を脳内で戦わせているのはそのジレンマゆえだ。
判断するのは光政卿だが、彼は何を考えているのかまるで肚が読めぬ。
海賊討伐に着手する、と聞いたときには、やはり、冷たく見えるだけで彼とて深く哀しんでいたのだ、と思ったものだが、続けて、このところ連続で荷を略奪されて大損害だ、これ以上捨て置けぬ、と言われて酷く落胆させられたほどだ。
心を読ませないのが彼の流儀なのか、それとも読むほどの心を持たないのか、長くつきあったカミュにも未だわからない。
どうあってもきっと翻弄され、悩むことになるに違いない二人を残していくのは心残りで、乗艦を引き受けたのは早計に過ぎたか、とそこまで自分の判断を迷って揺れに揺れているのだ。
「……あの……せんせい……?」
眉根を寄せて物思いに沈んだカミュを見て、不安そうに表情を変えた愛弟子たちに、大丈夫だ、とカミュは慌ててもう一度柔らかな笑みを作ってみせた。
「さて、急いで戻ろう。お前たちも今夜は正装しなければならない」
まだ略装のまま何の準備もできていない二人の背を促すように押して、カミュは歩き出した。
思考は棚上げだ。
どういう結論が下されても、二人が二人でいるならば、大丈夫だ。そうなるように互いに支え合う術を教えてきた。
今は二人を信じるしかない。
カミュの当面の仕事は(そしてそれが師として最後の仕事になるが)二人を恙なく今夜の夜会で光政卿の両隣に座らせておくことだ。
「こうしている場合じゃない、着替えの前に湯あみもした方がいい。急がなくては」
足早に礼拝堂の出口まで向かったところで、さあ早く、と振り返れば、氷河が存外に深刻な面持ちをしていてこちらを見つめていて、思わずカミュは足を止めた。
「どうかしたのか」
「せんせい……俺も……俺たちも連れて行ってくれるんですよね?」
振り絞るような声と縋るような青い目に、即座に彼の言わんとしたことを察し、カミュは再び眉間に深い縦皺を刻むことになった。
「今夜でお別れではありませんよね?……明日、俺たちも、乗艦させてくれますよね?」
難しい顔をしたカミュの沈黙に、こちらもすぐに答えを察してしまったのだろう、一音一音を区切るように発していた氷河の声は最後は掠れて揺れた。
「それはできない」
誤魔化すことなく、正直にそう断じたカミュに、なぜですか、と氷河の唇は震えた。
「先生は言いました。俺に、強くなれ、と。母の仇を討ちたくはないのか、そのための強さを手に入れろ、と。俺はもう十分な力を手に入れました。このまま陸地にいては永遠に仇など討てません」
確かにカミュはそう言った。
言ったがそれは、凍りついた心に灯をともすためのレトリックだ。決して本気で仇討ちをさせようなどという意図は微塵もなかった。
「正義を体現するものは義憤であるべきで私憤であってはならない。……復讐のための剣は己をも殺す。お前の乗艦は許可できない」
せんせい!と氷河が声を張り上げた。
嘘つきだと罵られても、氷河が己に寄せている信頼や敬愛、全てのものを失っても、カミュは揺らぐわけにはいかなかった。
あの当時、氷河に生気を吹き込むにはそれしかなかったとはいえ、「母」を利用したのは、彼の経歴を政治的に利用しようとしている連中と同じだ。
母のために、と健気に前を向き始めた幼子の姿に己が正しいことをしたと信じていたが、何年たっても海を見つめては唇をきつく噛む氷河を見るにつけ、自分がしたことは氷河の心を過去に縫いとめてしまったにすぎないのではないか、本当は過去を断ち切らせて忘れさせてやることが彼のためだったのではないか、という思いが日に日に増し、カミュを責め苛んだ。
自ら育てた愛弟子が新領主となる姿も見ずに副司令官の任を受けたのは、そのためだ。
氷河の手を復讐の血で染めさせるわけにはゆかぬ。
ならば、師であるわたし自らが彼の悪党には引導を渡してくれよう、と。
氷河はやはり納得しきれない様子で、でも、だけど、と繰り返している。アイザックはしばらくそんな氷河を見つめていたが、やがてカミュに向かって顔を上げた。
「では先生、俺なら……俺なら連れて行ってもらえるわけですね」
「なに?」
「俺が氷河の代わりに戦います。それなら私憤ではありません」
ですよね、とカミュを見上げたアイザックの瞳は、ほんの少し師の「正論」への非難の色を滲ませていた。
カミュに全幅の信頼を置いている愛弟子たちだが、それでも近頃は時折、正論に正論をぶつけるような反抗心をのぞかせることもある。そうした成長の顕れは頼もしく思いこそすれ、厭うようなものでもない。
だから、カミュは、そうだな、理屈ではそうなる、と苦笑しつつ頷いた。
「だが、アイザック、お前も連れてはゆけない」
なぜ、と声を上げたのは氷河の方だ。アイザックは始めから却下されることが織り込み済みだったかのように肩を竦めたのみだ。
「お前たちのうち、どちらかが今夜後継にと指名を受けるだろう。危険な航海にまさか『新領主』を連れてゆくわけにもいくまい」
「……だったら、せめて選ばれなければ連れて行ってください。決して先生の邪魔はしません。俺一人の感情くらい飲み込んでみせます」
諦め悪くそう言った氷河に、困った子だな、とカミュは笑った。虚ろな瞳で誰とも口をきかなかった子どもが、こんな風にきかん気に育つとは誰が想像しただろう。
「アイザックになっても、氷河になっても、当分は身辺穏やかではない日々が続くだろう。味方だと思っていた者にお前たちが反目し合うような謀略を仕掛けられてもおかしくはない。だが、お前たちさえ互いに支えとなって、信頼し合っていればきっとその苦境は乗り越えられる。いいか、これからは二人が支え合う姿を見せることがより肝要になる。選ばれなかったからと言って、お役御免になるわけではないのだ。……氷河、わたしが言いたいことはわかるか」
頑なに唇を結んでいた氷河はしばしの沈黙の後に、わかっています、とようやくとしぶしぶ頷いた。
「…………では、本当に今夜でお別れなのですね、先生……」
惜別の情が込み上げたのか、氷河の瞳がじわりと潤んだ。それに誘発されたかのようにアイザックも俯く。
今日一番カミュの胸も軋んで、カミュは二人の肩を抱きしめた。
「そんな顔をするな。すぐに戻る」
「……きっとですよ」
「もちろんだ。立派になったお前たちの姿を見たいからな」
はい、と重なった二人の声は湿った音に揺れ、どちらのものかポタリと床に滴の落ちた音がした。