寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ロディもの

藤田貴美さん「キャプテンレッド」のパロディによる海賊もの
最終的にはミロ氷でカノザク


◆Navy Story ①◆


 海の蠍に気をつけろ
 俊敏にして獰猛、大胆にして不敵
 その毒針に狙われて逃れた者は未だなし
 それはまさしく真紅の衝撃───




 視界が開けるなり瞳に飛び込んだ強い光の欠片に、氷河は目を細めた。
 飛び跳ねた魚の鱗が沈む陽の最後の輝きを反射したのだ。
 視線の先では帆船が水平線に向かって進んでいて、海原を二つに割るように尾を引く波頭を夕陽が赤く照らしている。澄んだコバルトブルーの海は陽の欠片をゆらゆらと散りばめて多彩な色に染まっていた。
 頬に感じる風はごくごく弱い。夜が近いせいだ。
 海の上に突き出た半島のこの岬の崖の上ではいつもはもっと強い風が吹いている。昼は海から陸に向かって吹く風は、気温の下がる夜には陸から海へ向かう風へと変わる。海風と陸風がちょうど切り替わるこの刻限の、ほんの僅かな時間帯のみ、いつもの強風が嘘のようにピタリと無風になるのだ。
 崖の上へ立っていくらもしないうちに、最後の風もやんだ。
 足元の葉擦れのざわめきも同時に失われ、耳に届く音と言えば、ただただ潮騒だけ。
 波音だけの世界に立って目を閉じれば、まるで自分が海の中にでもいるかのような錯覚が氷河を支配する。
 寄せて返す波と同じリズムで、踏みしめた大地が揺れているような、そんな奇妙な酩酊感が───
「バカ、危ない!」
 突然に響いた怒声に、ハッと氷河は目を開いた。無自覚に傾いでいた身体を、まずいと思うより早く、このバカ、とよく知る腕が氷河を抱きとめていた。
「こんな断崖絶壁で目を閉じたままぼうっとするバカがどこにいる!」
「……ぼうっとなどしていない」
 ごめん、と口を開きかけていたのに、畳み掛けるように幾度もバカと連呼されて、氷河は膨れっ面となった。
「ぼうっとしていないって?じゃあ、俺がお前を何度呼んだか言えるのか?」
 呼んだのか(まるで聞こえなかった)、と驚くのは「ぼうっとしていた」証左のようで悔しかったから、氷河は驚きを隠すように早口で、
「知っているさ、二回だろ」
と言った。
 当て推量だ。だが、自信はあった。
 崖の上へ続く小道を上りながら、自分の背が見えたところで「おい、氷河」とまず一回。それから自分が振り向かなかったことで、仕方ない奴だな、と苦笑しながら、「おーい、氷河?耳はちゃんとついているのか?」ともう一回。
 聞こえなかったはずの彼の声を想像するのは容易い。まるで双子のようにして育った仲の良い『兄弟』なのだから。
 だが、氷河のはったりなどお見通し、というように、同じ歳の『兄』は悪戯っぽく笑った。
 その表情を見て、しまった、外したか、と慌てて氷河は「三回だ、三回呼んだ、お前は」と言い換えたが、彼はますます笑みを広げて、ばーか、と氷河の髪を掻き混ぜた。
「呼んでないっつーの!正解は〇回だ」
「!!ずるいぞ、アイザック!」
「ずるなもんか。聞こえてないくせに適当なこと言ったお前が悪い」
「聞こえるわけがないじゃないか、呼んでいないなら!」
「だーかーらー。『呼んでいない』ことを確信もって答えられないほど、お前はぼうっとしてたんだ。ふらふら揺れて危なっかしいったらなかった」
 そう言って笑ったアイザックのこめかみを一筋の汗が伝い下りた。
 多分───崖っぷちでぼうっとしている(認めよう、心ここにあらずだったことは)背を見つけて慌てて駈け寄ったのだ。
 心配させたのだと知れて、今度は素直にごめん、と声が出た。
 全くだ、と言いながらアイザックは、まだ大地の端っこに不安定に立ったままだった氷河の腕をさり気なく取って、己の方へ身体を引き寄せた。
 同じ体格の胸にしっかりと抱きとめられながら、よくここにいるとわかったな、と氷河が首を傾げると、お前のことは何だってわかる、とアイザックは氷河の額に己のそれをぶつけて笑った。
「明日はいよいよ海賊討伐艦の出航だ。今夜は盛大に壮行の宴が開かれることはお前だって知っているだろう。なのに肝心の主役の姿が消えてしまってカミュ先生が困っていたぞ」
 主役?と氷河は肩をすくめてみせた。
 その物言いではまるで氷河が討伐艦を指揮するかのように聞こえる。実際には悔しいかな、指揮どころか完全に蚊帳の外だ。まだ帯剣すら許されていない半人前の身ではそれも致し方ないことなのだが。
 それを敢えて「主役」と呼ぶとは、少々意地悪にすぎるじゃないか。
 知っている、くせに。
 俺がどれほど世間を騒がせているあの『蠍』を我が手で討ち取りたいと望んでいるか。
 隠しきれぬ非難の色が氷河の瞳に浮かんだのを見て取って、アイザックは、あー、いや、そうじゃなくて、と鼻の頭を掻いて気まずげに口ごもった。
「皮肉のつもりじゃない。主役、というのはまあ言い過ぎたが……だが、今夜は多分俺たちにとっても特別な宴となる。……なる、と思う」
「……カミュ先生が明日の朝には発つから、か?」
 カミュというのはアイザックと氷河の家庭教師だ。
 歴史に文学、宮廷社会の常識、剣術、語学、騎馬術、立ち居振る舞いにダンスまで……生きていくのに必要なありとあらゆる知識を二人に教え、その上、身の回りの世話も何もかもをほとんど一人で担っている。
 そのカミュは『蠍』討伐の副司令官として、明日から洋上の身となるのだ。
 だがアイザックは、うーん、そういうことじゃなく、とますます歯切れが悪い。
「どうした、アイザック?ほかに何があるって言うんだ?別に俺もお前も今日が誕生日というわけでもないぞ」
 氷河が思いつく「特別なこと」というのはせいぜいそのくらいである。
 アイザックは少しだけ笑って、そしてまた口ごもった。
 何だよ、早く言えよ、と氷河はアイザックを肘の先でつつきながら内心首を傾げた。
 思慮深い方ではあるが、ここまで言葉を慎重に選ぶアイザックというのは珍しい。彼の言葉にはあまり迷いがない。もちろん内心では様々な葛藤は抱えているのだろうが、自分の意見を発する時にはそれらはきちんと消化されて済んでいて、何ごとにつけ潔く、はっきりした物言いをする性質だ。
 アイザックが言い淀むような「特別なこと」とはなんだ、と氷河が思案にくれていると、これ以上待っていても氷河が察することはないだろう、と諦めがついたのか、彼は口の端に苦笑をほんのり浮かべて、あのさ、と口を開いた。
「うん?」
「光政卿はもうご高齢だ」
 話題が予想外の方向に飛んだことに面食らいながらも、己らの領主である伯爵が高齢だということについては異論がないため、氷河は、ああ、と頷いた。
「せっかく長年準備してきた肝入りの討伐隊だというのに、司令官の座はお譲りになった。自ら指揮する体力がもうおありではないんだ、きっと」
「どうかな。命が惜しくて危険な航海に出るのが嫌になっただけかもしれない…………冗談だ。そんな怖い顔するな」
 領主がおいそれと統治圏を離れることはできぬものだ、というのが表向きの理由だ。
 だが、日頃からどちらかというと外遊の多い領主のことだ、本当の理由は別にあることは明白だった。
 海の暴君『蠍』を討伐せんがために、築き上げてきた富の多くを投入して特別に作らせた大型ガリオン船は、細部の設計からして領主の意見が大いに取り入れられ、建造中も何度も現場に足を運んで指示を飛ばしている姿が見かけられていたのだ。きっと自らの手で、あの『蠍』に引導を渡すつもりなのに違いないと誰もが信じていたから、玉座に座ったまま精鋭部隊を見回して「蠍の首を我に献上せよ」と申しつけるという今回のやり方は、全く意外なものだった。
 当然の帰結として、我らが領主は重病を患っていてもう長くはないらしい、という噂が領内を駆け巡った。が、その後何ごともなかったかのような元気な姿が領内で見られるにつれ、そうした噂もすぐに有耶無耶に立ち消え、今では話題に上ることもない。
 領民にとっては、己が領主のちょっとした意外な選択は、酒の肴にはなっても、日々の生活にさえ影響がなければ長々と関心を留め置くような問題ではないのだ。
 だが、伯爵は外向きには見せないように注意してはいたが、重病とは言わずとも、頭には白いものが急激に増え、立ち上がる時には介添えの手を借りねばならぬほど衰えが目立つようになっていた。
 アイザックの言うとおり、数日では済まないに違いない航海を乗り切るような体力はおそらくもうない、というのがやはり真相なのだろう。
 でも、と氷河は小さく息を吐いた。
 老体に鞭打て、と無体なことを言いたいわけではないにもかかわらず、失望のような、哀しみのような、言葉にできないもやもやしたものが胸の辺りに燻っていた。
 何かを彼に期待したことはない。なかった───と、思っていた。
 ただ、命尽きたとしても、愛する者の命を奪った賊を自らの手で討ち取りたい、という、氷河の内側で痛いほど燃え盛っている思いと同じものが彼の中にあると無意識に信じていて───そして、裏切られたような。
 失望して初めて、ああ、俺は知らずにあの男に期待していたのだ、ということを自覚して、胸の辺りが重くなった。
 彼に対して、というより、むしろそんな自分の弱さに対して抱えていた苛立ちが、氷河の声をずいぶんと冷たくさせていた。
「それで?『光政卿』が高齢だってことが今夜の宴が特別なものになる理由と何か関係があるのか?」
「……いいかげん『父上』と呼んだらどうだ」
「いつも言っている。お前がそう呼ぶなら俺も呼ぶさ」
「俺は血が繋がっていない」
「でもお前が『兄』だ」
 仲の良い『兄弟』は互いを思いやるがゆえにしばしば喧嘩にもなる。
 今がまさにそれだった。
 制御を失って自分の抱えているもやもやをアイザックに理不尽にぶつけてしまいそうな気がして、慌てて氷河は彼に背を向けた。
 深呼吸をして気持ちを落ち着けていると、背後からも同じ呼吸音が聞こえて、悪い、俺が踏み込みすぎた、と肩を叩かれた。
 先に謝られてしまった気まずさに、黙って氷河は首を振り、そして視線を横に滑らせた。
 丈の短い草が一面を覆う崖の上、一本だけ若い楡の木が何かを守るように立っている。
 氷河は気まずさをごまかすように一歩、二歩とその木へと近づいた。
 楡の木がその枝葉で守っているのは根元に立つ小さな石碑ひとつ。石碑に刻まれている子どもの拙い文字は既に長い年月の間に消えかかっていて、何と書いてあるのか判別は難しい。
 だが、それが『ナターシャ』と刻んであったことを氷河は知っている。───己が刻んだのだ。
 氷河はもう一度深く息を吐いて、そして、石碑の前へ膝をついた。
 石碑の周囲の雑草を避けてやろうとして、そこで初めて氷河は、赤い薔薇が一輪地面に横たえられていることに気づいた。
 薔薇など自生する地域ではない。
 花弁が開き切る前の最も美しい形で切り取られたそれは、この辺りでは金貨一枚ではすまないほど値の張る品だ。
 真紅の花弁が瑞々しさを失っていないところを見ると、捧げられてそう時間は経っていない。
 誰だろう、と氷河は思わず背後のアイザックを振り仰いだ。
 今朝からずっと、城中が宴を前に準備に大わらわで、こんな岬の端っこの小さな石碑に思いを致す余裕がある者は誰一人いなかったはずだ。
 何より、ここに石碑があることを(そしてこれが墓標の代わりだということを)知る者自体が数えるほどしかいない。
 先生かな、とアイザックも首を傾げる。
 ほかに心当たりもなかったから、かもな、と氷河は曖昧に頷いた。
 母を喪って誰とも口をきかなくなってしまった幼子の心を溶かすきっかけになれば、とここへ墓標代わりの石碑を設えてくれたのはカミュなのだ。
 出航前に挨拶に訪れた、というのはありえそうなことだった。
 カミュ先生はさ、としばらく後にアイザックが口を開いた。
「どうして副司令官に選ばれたんだと思う?」
 また話が飛んだ。
 今日のアイザックはやけに話が遠回りだ。それでも、『父』の話題よりは心穏やかでいられる、と氷河は立ち上がりながら「有能だから、だろ」と答えた。
 司令官は、政治的事情でそこへ据え置かざるを得なかった、とある旧家の道楽息子だ。
 毎夜、女の尻を追いかけ回してばかり、海図の読み方もろくに知らないという。
 だから実質的に艦の指揮はカミュが執ることになるわけだが、一家庭教師がいかに優秀であってもいきなり副司令官に抜擢されるわけはない。カミュは元々軍人なのである。それも、この国を統べる現女王陛下から仕官の打診があったほど地位も能力も申し分ない人物で、つまり辺境の地で子ども相手の家庭教師に甘んじていたことの方が異例で、今回のことは、本来収まるべきところに収まった、と見て取る方が自然だ。
 そう氷河が指摘してみせると、わかってるじゃないか、というようにアイザックは頷いた。
「逆に言うとさ、そのカミュ先生が俺たちの家庭教師をしてくれていたのはなぜだかわかるよな?」
 家庭教師など暇な哲学者がやるものだ。
 それを敢えてカミュが務めていた理由は。
 ───もちろんわかっている。
 結局、そこへ話が戻るのか、と氷河は辟易して微かに鼻の頭に皺を寄せた。普通なら気づかない程度の表情の変化だっただろうが、アイザックはすぐに気づいて同じように眉間を歪め、そして、何かを吹っ切るように数度瞬きをするときっぱりと顏を上げた。
「公式ではなかったとはいえ陛下からの下命を断るなんて、よほどの理由がないと許されないことだ。ただの家庭教師じゃない、ここが国境警備の要になる領地で、その領主の『後継者』を教育中だから許されたんだ。『後継者』───つまり俺かお前のどちらかがいずれこの地の領主になる」
 後継問題に関しては、彼だって氷河以上に微妙なものを抱えているにも関わらず、遠回りな言い方をやめたアイザックの言葉はやはり潔いほどに感情を排している。事実を淡々と告げられては『俺は後継者なんかじゃない』と子どもじみた反論もできない。
 氷河が黙ったままなのを肯定と受け取ったのか、いや、氷河自身の意志が後継問題に反映されることはないから肯定も否定も必要としていなかったのだろう、アイザックは、で、だ、と淡々と続ける。
「かつて陛下の下命すら俺たちを理由に断った先生が今回の任務に限っては受諾された。かてて加えて光政卿は相当な高齢ときている。つまり、」
 と、アイザックは言葉を切って氷河を見た。
 俺に言わせるのはずるい。
 だが、認めないのはアイザックに負けたようで悔しい。
 だから氷河は不貞腐れたようにため息を吐いて言った。
「光政卿は退く気だ。後継が決まったから『家庭教師』も必要なくなった、と言いたいんだろう」
「俺はそう踏んでいる。道半ばで先生が俺たちを置いていくとは考えにくい。公式の発表はなくともきっと今夜中には先生から話があるはずだ。どちらが選ばれたのか、な」
 アイザックは聡い。
 日のほとんどを一緒に行動しているのだ。同じものを見て、同じものを聞いているはずなのに、よくそんなところに気づいたなと氷河が驚くほど頭の回転も速いし、他者の感情に寄り添う濃やかさも持っている。
 だから、アイザックがそう推察したのなら、いつもなら的外れと一笑に付したりはしない。
 でも今は譲れない、と氷河は首を横に振った。
「先生が中途半端なことをするわけがない、というのは同意だ。だからって後継者が決まったとは限らない」
「なんだって?」
「先生はご自分が艦に乗り込むことになった、とは言ったが、俺たちに城に残れとも、教えはこれで終わりだ、とも一言も言っていない。俺たちも帯同させてくれる可能性はまだ残っている」
 まるで駄々っ子のような屁理屈に、氷河、とアイザックは絶句してやがてくつくつと笑いだした。
「お前のその頑なさは後ろ向きなんだか前向きなんだか……海の上に逃げたってこの先ずっと後継問題はついて回るぞ」
「そんなんじゃない。……俺はただ行きたいだけさ」
 あの、蠍を討つ旅に。
 優しくも厳しい師の教えに耐えてきたのは伯爵家の跡取りなんかに収まりたいためではない。
 氷河は足元の石碑に視線を落とす。
 墓標、と呼べないのはこの土の下に母の骸はないからだ。
 母は。
 氷河は海の方角に顔を上げた。
 もはや太陽は水平線の彼方へ隠れ、美しかったブルーは夜の藍色に沈み始めている。
 母の乗っていた船はいまもまだあの藍色の底だ。
 おぼろげな記憶、男の肌に刻まれていた蠍の刺青が脳裏を過ぎって、腹の底が熱くなる。
 何度も何度も確認してきた思いが今また強く湧き上がる。
 いつまでもあの悪党をのさばらせておくものか。
 きっと。
 きっと、俺が。
 ぐっと拳を握って、氷河はアイザックを見つめた。
「行こう。先生に聞けば全部はっきりする」
 逃げ出して俺に迎えに来させたくせに、とアイザックはからかうように笑って、でもすぐに、そうだな、行こう、と手を差し伸べた。
 氷河が取ったアイザックの手のひらが少し汗ばんでいる。後継に指名されるかもしれない緊張からか、それとも乗艦の可能性に逸る気持ちからか。あまり感情を見せない彼にしては珍しいことだ。
 もっとも氷河の方も武者震いで(と、思いたい)震えていたから人のことは言えない。
 光が覚束なくなった足下の不如意さを補い合うように二人は手を取ったまま山道を下りる。
 一時的にやんでいた風は、いつの間にか海へ向かって強く吹き始めていた。