氷河女体化シリーズ
設定は同じですがそれぞれのお話は独立しています
◆ミロ編 ③◆
目的もなく、ただふらりふらりと歩いているうちに、二人は小高い丘の上へと辿り着いていた。有名な観光スポットのあるその丘へと人の波が動いていて、特に逆らうことなく歩いた結果だ。
「わあ……すごい」
目の前に開けた夜景に氷河が素直に感嘆の声を漏らす。
近代的なビルに混じってところどころ点在するパルテノン様の遺跡がぼんやりと浮かび上がって、都市の中に突然出現した『古代』は幻想的な空間を作り出していた。
転落防止のために作られている柵へと身体を預けて、ミロも目を細めた。
「夜に来るのは俺も初めてだ。意外と綺麗なもんだな、こうして見ると。近くで見たってただの石だけどな」
……昼間は来たことがあるんだな。
誰と?こんな風に手をつないで?
みっともない、とわかっているからどうにかその言葉は飲み込む。でも、顔には出ていたかもしれない。
「どうした。何を怒っている?」
案の定、すぐにミロが気づいて氷河の顏を覗き込む。
「……怒ってなんかいない」
そう返した声は、少し───怒っていた。
ああ、駄目だ、これではいつもと同じだ、と氷河は俯いた。
丘の斜面を吹き上がる冷たい風が、氷河の頬を撫でていく。ミロがその頬へそっと手を当て、冷えたな、と呟いた。
「少し連れまわし過ぎたな」
そう言って、ミロは自分が巻いていたマフラーを氷河の首へと巻きつけた。
「い、いらない。寒くない」
仄かに香るトワレはもうさほど気障だとは感じず、どころか、ミロの体温と香りの残るマフラーに包まれているのは、なんだか抱き締められているようで、心臓の音がやけに煩い。
慌てて、外そうと首元へ手をやるのをミロの手が宥めるように止める。
「もっと防寒を考えてやらなかったのは俺のミスだ。俺のために巻いててくれ」
そう言うミロの方がきっと寒いと感じているはずだ。彼の寒がりが筋金入りなのを氷河はよく知っている。
駄目だ。またみっともなく思考が揺れる。
今、ミロは俺のことを氷河ではないと思ってるわけで。
そして、そのマフラーは俺がミロに贈り、ミロが自分と会う時の専用にする、と言ったもので。
それってひどくないか、と『氷河』が怒って───傷ついている。
でも、本当は自分の方がずっとずっと寒がりなくせに、おくびにも出さないミロの優しさに、とても自分のものとは思えない柔らかな胸の塊の奥の方が甘く疼いてもいる。
「誰に対してもこんな風に優しくしてみせるのか」
鈍く内側から氷河を翻弄する感情の波に堪えきれず、とうとう明らかに拗ねた声でそう問いを投げかけてしまった。唇から言葉が零れた途端に、しまった、と思ったが後の祭りだ。
ミロは一瞬怪訝な顔で氷河を見て、ああ、と困ったように眉を下げて苦笑した。
「いや、君は特別。誰に対しても同じ態度を取れるほど俺の気持ちは安くない」
夜目にも氷河の頬が赤く染まる。
よくそんな恥ずかしいこと真顔で言えるな、という反発と裏腹に勝手にどんどん熱のあがる自分の頬が恨めしい。
きっとマフラーのせいだ。寒くないって言ったのに、ミロが巻いたから。
「ほら。上を見てみろ。星も綺麗だ」
マフラーに顔を埋めるように俯く氷河を愛おしそうに見つめていたミロが、不意に夜空を指差した。ミロの視線を追って氷河もようやくマフラーから顔を出して冬の冷たい夜空で煌く星々を見上げた。
確かにミロの言うとおり綺麗な夜空だ。だけど、明かりの少ない十二宮の中で見る方がずっと綺麗に見える。ミロもそのことを知っているはずなのに。
と、突然に唇に温かいものが触れた。あ、と驚いて反射的に身体を引く氷河の背をミロの腕が強く引き寄せる。
「……星を見ろって言ったくせに」
知っているつもりだったけどなんて手の早い人なんだ、という憤りを込めて、触れた唇のあわいで氷河が小さく抗議するとミロは笑った。
「目を開けていればいい」
そんなの無理に決まっている。
本当は自分も少し、否、とてもキスしたい気分だったから。
啄むだけの軽いキスだが、何度も愛おしむように触れては離れる動きに陶然と氷河の瞼は閉じられる。
周囲には、まだパラパラと丘の上からの夜景を楽しむ人が行き来している。いつもなら人目が気になってとても正気ではいられない。でも、今は『氷河』ではない、という思いが氷河を少し大胆にさせ、素直にミロへ身体を預けて唇を開いた。
「さすがに腹減った、ぞ」
離れた後、なんとなく気恥ずかしくなって、ミロから視線を逸らして氷河はそう言った。
ミロは左腕を上げてチラリと時計を見て、ああ、そうだな、遅くなると混む、と何気なく言った。
その仕草で、氷河は、あ、と気が付いた。
今、何時なのだろう。
俺には後、何時間残されている?
反射的にそう考えて、そう考えてしまった自分に驚く。
早く日付が変わるのを待ち望んでいたはずなのに、いつの間にかこの状況を楽しんでいた。こんなに時間がゆっくり過ぎれはいいと思うのは初めてだ。
「背負ってやろう」
「え?な、なんでだ、まだ歩ける」
突然のミロの申し出に戸惑って氷河が一歩後ずさる。
「高いヒールじゃ、上りはともかく、下りはきついぞ。背負うのが嫌ならまた抱いてやってもいいが」
「そ、それはいやだ」
油断するとまたあっという間に膝裏を掬われてしまう、と氷河はじりじりと後ろへ下がる。
ミロは羽織っていたジャケットを脱いだ。
そして、それを氷河の腰へとくるりと巻いて、ウエストのところで袖を結ぶ。
「な、なんだ?」
「そのまま背負ったらパンツが丸見えだ。男物のヤツ」
「!!!し、知るかっ!色気ないとか言ったんだから別に見えてもどうってことないだろっ」
「だが、俺以外の奴に見せるのは嫌だ」
「そ……んなの……そんなの……」
何と言葉を続けていいのかわからない。
「そんなの、勝手だ」
結局、ミロを非難するところに落ちつけて氷河はぎゅっとスカートの布地を握りしめる。
「……ミロが寒いだろ、それじゃ」
「だから早く温めてくれればいい」
ほら、とミロが指先を軽く曲げて氷河を呼ぶ。
氷河を乗せるために膝を落としてこちらを向けている背がやけに寒々しい。
だから、氷河はおずおずと近寄って、そっとその広い背中を抱き締めるように腕を回した。
俺のためじゃない。
ミロが寒そうだから、だから。
やっぱり誰にともなくそう言い訳をして。
氷河の体重が乗るや否やミロは立ち上がって軽やかに足を進めていく。
時折、よっ、と氷河の太腿を支える手を離す、という悪戯をしかけるところなどまるで少年だ。やめろよ、と言いながら氷河もミロにしがみついて笑い声を上げる。
「うん、温かい。それにずいぶん柔らかくて気持ちいいぞ。もっとくっついてくれ」
「!!サイテー!最初からそれが目的だったんじゃないだろな!?」
「ははは、だったらどうする?」
「サイテーサイテーサイテー!!」
ミロの首の前で交差させた腕をぐいと引いて、半分本気で締めてやれば、ミロは乱暴なお嬢さんだな、とさすがにけほけほと咽ていた。
「……なあ」
「ん?」
「その……こういうの、好きなのか」
「こういうのって?」
「だから……む、胸だよっ……お、大きいのと、小さいのじゃ、どっちが好きなんだ」
不毛な問いをしたことに気づいた、のは、ミロから返ってきたのが沈黙だったからだ。
大きいも小さいも、普段の自分にはついていないものだ。どちらの答えが返って来ても傷つくに決まっている。
やっぱり今のナシ、答えなくていい、と言いかけた時、遅れて反応があった。
「ないよりはある方がいいかな。男はたいていみんなそうだろう」
聞くのではなかった。
案の定、その答えはぐっさりと刺さった。
『ないよりある方がいい』
同じ顔なら、男より女がいいに、決まっている。
背負われていて幸いだった。
今の顏はとても見せられない。
「ミロ……」
呼んだ声は少し揺れていた。
「なんだ」
「……ヒールだと下りの方が大変ってなんで知ってるんだ?」
「逆に君は何で知らないんだ?」
今度ははぐらかされた。
でも、はぐらかしてくれてよかった。そうでなければ、きっと堪えた涙が落ちていた。
氷河はふわふわと頬をくすぐるミロの豪奢な巻毛へそっと顔を埋めた。もうとっくに太陽は沈んだというのに、それは春の日だまりの匂いがしていた。
氷河の一番好きな匂いだ。
**
ミロに連れられて入ったタヴェルナはそこそこ混んでいた。
週末だからなのか、それともいつもこうなのか氷河にはわからない。大通りから一本入ったところにあるせいか、観光客よりは地元の人間が多いようだ。
気後れする氷河をよそに、ミロは自分の家のようにくつろいでいる。
ああ、この人にとってはここが故郷なんだっけ。
メニューを開いても氷河には、どんな味がするのか見当もつかない料理ばかりが並んでいる。
「ギリシャ料理は好きか?」
「よくわからない。あまり食べたことはない」
「じゃあオーソドックスなのを色々試してみよう。きっと君も好きになる」
『俺』のことをよく知りもしないくせに、きっと好きになる、だなんてずいぶん自信過剰だ。でも、ミロが言うと本当にそうなる気がして、うん、と氷河は頷いた。
注文を取りに来たウエイトレスに、てきぱきとメニューを指さし、最後にそれからウーゾを……と付け加えかけたところで、はた、とミロが動きを止め、氷河の方を見た。
「そう言えば、君は何歳なんだ?」
「えっ……じゅう……」
思わず本当の歳を言いかけ、ミロの手にまだあった、ドリンク類のメニュー表と、こちらを窺うウエイトレスの表情で、つまりはアルコールを飲めるかどうかを聞かれたのだ、と氷河は気づく。
「………………はち」
少し、背伸びをしたい気分だったのだ。
昼間、ミロが大人っぽい方がいい、と言ったのを盗み聞いたことが潜在意識下にあったせいかもしれない。
ミロと同い年というには無理があると自覚していたし、ギリシャでの飲酒可能年齢がいくつか知らなかったから、多分、このくらいなら、というギリギリの予想で、18、と答えたのだ。
ウエイトレスが、「二人で飲むなら、ボトルもありますけど。」と勧めるのを、ミロは、じゃ、そうしてくれ、と頷く。
ウエイトレスが去った後で。
「……18歳?」
ミロの視線が氷河の全身に絡みつくように注がれている。氷河は、そうだけど、と自信なさげに答える。
「ずいぶん幼く見えるな。もっと下かと思った」
氷河の背がヒヤリとして、それから一瞬のうちに耳まで赤くなった。
そ、そうか、大人っぽく見られたいなら、実際の年齢より上に言っちゃ逆効果だったのか、と今頃知ってももう遅い。
というか、何故、自分がそんなにミロ好みの女性を演じようとしているのかさっぱりわからない。
近くのテーブルの女性客がミロに熱っぽい視線を注いでいるせいかもしれないし、ただ、神のかけた魔法の時間に、アルコールを飲む前から既に少し酔っているのかもしれなかった。
「ギリシャの酒だ。『ウーゾ』、知ってるか?」
ミロは運ばれてきたボトルを氷河へ傾けてみせる。
名前しか知らない、と正直に言うと、ミロはいたずらを思いついた少年の顔つきになった。
「見てろ。このボトルの中に入っている液体は何色だ?」
「……透明?」
「正解。じゃ、こっちは何かわかるか?」
「水」
「それも正解。じゃ、この二つを混ぜると何色になる?」
「えっ。そりゃ……透明なものに透明なものを混ぜるのだから透明に決まっている」
氷河が唇を尖らせて主張するのに、ミロはニヤリと笑った。そして、氷河の前のグラスにボトルから少しとろりとする透明な液体を注いだ後、そこへ静かに水を注ぎ足した。
「えっ!?わ、わ、何で!?白くなった!」
「な?不思議だろ?……じゃあ、質問だ。今度は逆。水のグラスにこのウーゾを注ぐとどうなる?」
「俺を馬鹿にしてるだろ。白くなるに決まっている」
透明な液体同士を混ぜ合わせると白くなる魔法を見せられたばかりだ。混ぜる順番が逆になったくらいで結果が変わるわけない、と氷河は自信満々で答える。
「ずいぶんはっきりと言い切るなあ。もう少し考える時間をやってもいいが」
「なんでだよ。考えたところで一緒だろ」
「ほう。言うじゃないか。なら、賭けてもいいか?」
「何をだよ。俺は賭けられるようなものなんて何も持ってない」
「『君自身』だ。……さっきの続き」
「えっ」
さっきの続きって、キッキスのその先のこと?と氷河の頬が赤くなるのを、ミロがくすりと笑う。
「おや、自信がなくなったようだな、お嬢さん。いいぞ、ゆっくり考えろ」
挑発されては、氷河の中の負けず嫌いが黙っていない。
「別にそんなんじゃない!いい。賭ける。混ぜたら絶対絶対に白くなる!!」
ミロはニヤニヤ笑っている。
「いいのか?今なら許してやらんこともないぞ」
「しつこいな、あなたも!絶対に白くなる!自信ある!ファイナルアンサー!!」
では、とミロはコトリと氷河の前に水の入ったグラスを置いた。そこへボトルから静かにウーゾの液体を注ぐ。さっきは二つの透明の液体が混じり合った瞬間にそこに雲が生まれたようにぼわんと白く……白く……白くならない!
「う、うそ!?なんで!?」
驚きのあまり氷河は両手で頭を抱えて、腰を浮かせた。
氷河の格好をミロは笑って、俺の勝ちだ、お嬢さん、とチェックメイトを告げた。
だが、氷河にその声が届いたのか届かなかったのか、なんで?なんで?ウーゾに水を入れたら白で、水にウーゾを入れたら透明??なんで??と盛大に頭の周りにクエスチョンマークを飛び散らせている。
透明のままのグラスを手に持って、何か仕掛けはないだろうかと下からのぞいたり、くるくる回してみたりする氷河に、ミロは自分のグラス(こちらは同じ透明の液体が入っているがストレートだ)を掲げた。
「ほら、俺の勝利に乾杯だ」
「う、うーん?……変だなあ」
首をひねりつつミロとグラスを合わせて、氷河はそれを口へと運んだ。
ミロが静かにそれを見つめる。
一口飲んでちょっと変な顏をして、慌ててグラスから口を離す氷河にミロは吹き出した。
「……く、くくっ……どんな味だ?お嬢さん。初めての酒は」
サラリと真を突かれたのだが、氷河は気づかずにグラスを額に押し当てて、うーんと唸った。
「うーん……この味……何かに似てるんだ……えーと……えーと……」
随分と香りのきつい酒だ。
ワインのような果実っぽい芳香、とはまた違う。木の幹っぽい?いや、違う、薬草っぽい?俺はどこかで似た香りを嗅いだことがあるような……?
あ!
不意に氷河の脳裡にひらめきが灯る。
「ヤコフんちのおばあさんの湿布!」
うん、そうだ、なんか薬っぽいところが似てると思ったんだ、とすっきりした顔を見せる氷河に、ミロはもう堪えきれずに腹を抱えて笑い出した。
「ヤコフって誰だ。おばあさんの湿布に似た味ってなんだ。まったく、君ときたら……ほんとに……!」
涙目になって机に突っ伏して肩を震わせるミロに、氷河は、あ、と口を押さえて、これ以上は赤くなれないほど赤くなってしおしおと椅子の上で小さくなった。
さ、最低、俺……!
よりによって、湿布に例えるとか……!
ほら、そう、ハーブっぽい。ハーブの香りがするって言えばよかったんだ、こういう時は!
自分の洗練されていないデートスキルの低さが恥ずかしく、人を楽しませることに長けているミロとのあまりの違いに、氷河は消え入りたくなって俯いた。
ミロはまだ笑いの発作から抜けきらないうちに、肩を震わせながら顏を上げ、氷河の手の中からグラスを奪って自分の手元へと引き寄せた。
「お嬢さん……お嬢ちゃん、かな?にはまだ早いようだ。没収とする」
そう言って、店員を呼んで炭酸水を追加されるのに、やりとりを聞いていた隣の女性客(まだミロに色目を使っている!)に鼻で笑われて氷河は少々凹んだ。
「なあ、さっきの。結局どんな魔法使ったんだ。種明かしを教えてくれてもいいだろう」
運ばれてきた料理を食べている間も、氷河の興味はまだそこにあった。
自分はメゼを肴に呑みながら、氷河のためにムサカを切り分けてやっていたミロは、拘るなあ、と苦笑した。
「種明かしか……種はな、俺も知らん」
「えーっ、なんだ、それ!偶然ってことなのか?」
「偶然じゃない。まあ何となくの原理は知ってるが、俺も深く追及したことはない」
氷河は種を知らない魔法なんてずるいだろ、と頬を膨らませて、でも、とチラリとミロを盗み見た。
ミロの魅力はこういうところだ、と思う。
女心(多分。氷河の想像でしかないが。)をわかっているかのようなスマートさを見せたかと思うと、すぐにそれを打ち消すようなふざけた態度を覗かせる。
だけど、天然なのか計算されているのか、ミロのそういう部分は彼の価値を上げはしても下げてはいない。
完璧すぎて手の届かない存在なのではなく、憎めない、困ったひとだ、と思わせてしまうのがミロの魅力の本質なのだった。
濃やかな気遣いとスマートなエスコートに氷河が気後れしかけた絶妙なタイミングでいつも引っ掻き回すようなことを言うあたり、もしかして、狙っているのかとも思うけれど、仮にそうだとしてもそれを気づかせないさりげなさは常に備わっていて、結局全てはミロのペースなのだ。
そのミロはいくら呑んでも乱れる気配がない。ボトルをほとんど空にしているのに、顔色一つ変えず、次々に色々な話題を振る。氷河の方は乾杯でつけた一口が効いているのか(それとも別の理由なのか)頬が火照りっぱなしだというのに。
「やあ、ダンスが始まったようだな」
見れば、フロアでは客同士が肩を組んで、音楽に合わせてステップを踏んでいる。
「……?何か特別な日なのか?」
「いや?酒が入ると皆踊る。陽気な国民性なんだ」
マンドリンに似た民族楽器を奏でているのもどうやら客の一人であるらしかった。互いに見知らぬもの同士、笑顔で手を打ちならし、声を上げてくるくると舞い踊る。
雪に閉ざされた自分の故郷とはずいぶん違う光景だなあとしばし見惚れていた氷河だが、ふと気づくと自分の正面に座っていたはずのミロがいない。
もしや、と思って慌てて目をやれば……いた。フロアの中心に、ひときわ目を惹く背の高い青年が。
あんなに呑んでいて急に動いて酔いが回らないのが不思議だ、などと冷静に観察できていたのも束の間、音楽の流れに乗ってミロが近づいてきたかと思うと、気づいた時には氷河はもうその腕の中にいた。
「むむむむむり!踊れるわけがない!」
「大丈夫、ステップなんかいい加減でいいんだ。俺に任せろ」
実際、ミロのステップは本当にいい加減だった。
ほかの誰とも違う。
ギリシャの民族舞踏なのに、なぜかタンゴやワルツの動きが混ざっている。人に合わせようとかいう気もさらさらないようだ。ただ、音楽を自分で感じて自分の好きに動いているだけのようだ。
もともと、歩くこともままならない靴を履いている。くるくると振り回すミロに、氷河は身体を預けるしかない。
「ほら、踊れるじゃないか。楽しんだもの勝ちだ」
間近で子どものように笑われて、困ったひとだな、と思いながらも氷河も笑った。
楽しくて楽しくて、あんまり楽しかったものだから何故だか少し泣けた。
**
「……悪かった」
もう何度目かの謝罪をミロは繰り返している。
氷河はまたミロの背の上だ。
結局、ミロに少々アクロバティックに振り回されているうちに、氷河の酔いは完全に回ってしまった。あれっ、と思った時には、へなへなとフロアの床に氷河は崩れ落ちるように座り込んでいた。
どうした、と覗き込んだミロの顔が少し強張っていて、そっちの方に氷河は驚いたほど、自覚なく突然それはやってきた。
「そこまで弱いとは思わなかった。本当にすまん」
あんまり謝られると居たたまれない。勝手に呑んだのは氷河なのだし、へたり込む前は本当に本当に楽しかったのだから。
最後に一度、甘えるように氷河はミロの背へ頬をくっつけて言った。
「もう歩ける。……下りる」
それでもまだ気遣わしげに氷河の頬を撫でるミロに、ジャケットを返し、ほら、と数歩歩いてみせた。
安心させるように歩いて見せたつもりが、やっぱりふらりとよろめいてしまい、い、今のは靴のせい、と言い訳をしないといけないところが恰好がつかない。
それでもミロは、大丈夫ならよかった、と息をついて、それからゆっくりと手を差し出した。
もうその手を取るのに躊躇いはない。
うん、と自然に氷河はその手を取った。
なんとなく沈黙が落ちる。
どこへ向かっているのか、ミロの歩みもずいぶんゆっくりだ。
今、何時だろう。
人通りはかなり減っている。
きっと、もうすぐこの魔法は解ける。
逃げるなら、今だ。
食事につきあったら無罪放免だって話だったよな?そう言えば、ミロはきっと深追いはしないだろう。
別れを告げるなら今だ。今、言うしかない。このまま一緒にいて、自分が本当は『氷河』だと知られることはきっと互いに傷を残す。もしかしたら、ミロと氷河の関係性を永遠に壊すほどの。
それなのに、氷河の上あごと下あごはぺったりとくっついて一声も発することができない。
もっと、ミロと一緒にいたい。
天真爛漫で、でも時に寂しげで。
少年のようで、ずっとずっと大人のようで。
優しくて、意地悪で。
ふざけているようなのに、本質は真摯で。
どうしたらいいんだ。
このひとのことが好きで好きでたまらない。
『氷河』が素直にならないのは、こんなふうになることを本能的に恐れていたからじゃないかという気さえしてくる。
意地を取っ払って、素直な気持ちでミロを見てみたら───
あっという間に気持ちが膨れ上がって、もう息もできない。
不意にミロの足が止まる。
自分の思考の海で半ば溺れかけていた氷河は、ミロの背にぶつかって、それからようやく足を止めた。
怪訝な顔で氷河はミロを見上げる。
その横顔に、やけに明るい人工的な光が映えているのに気づいて、氷河はそちらへ視線をやった。
大きな建物の前だ。
夜間でも訪れる人を待って煌々と辺りを照らして、大きく入り口を開けているその建物は───
ミロは繋いでいた氷河の指先を恭しく目の高さへあげて、手の甲へキスを落とした。
「さっきの賭けは有効かな?お嬢さん」
「……っ!」
ミロの唇が触れた肌から一瞬で全身に熱が回る。さっき読んだ建物の入り口に刻まれた名前がそれに拍車をかける。
氷河でも名を知っている、アテネ市内でも一、二を争う高級ホテルだ。
冗談や、いつものからかいなのかと思えば、ミロの表情はごく真剣で、愛を乞うようにそっと氷河を窺い見ている。
「勢いで口がすべっただけだから無効だ、というなら、今なら聞いてやれる。そうでないというのなら、俺は君を帰したくない」
ずるい。
俺に決めさせるなんて。
あなたにそんな風に言われて断れるヤツがいるわけない。
赤い顔で俯き、視線を彷徨わせる氷河に、ミロは掴んだ指先を引いてその身体を抱き寄せた。
「バカだな。そんな顔をしては『YES』と言ったも同然だ。帰せるわけがない」
そう、なんだが。
今の俺は『YES』だけど、でも『氷河』は───
はっきりと己の心に答えが出ないうちにミロに背を押されて、逃げる機会を完全に失ったまま、氷河は熱に浮かされたようにふらりと一歩を踏み出した。
**
階を指定するボタンを押すミロの指をぼんやりと見つめる。
小さな箱は二人を乗せてゆっくりと上昇する。
さすが、名を馳せているホテルだけあって、急なGがかかったり、機械音がしたりするような野暮はない。行き先表示と通過表示の明かりだけが、二人の位置を示す標だ。明かりがひとつ、またひとつと移動しているだけで、本当は、氷河の体は元いた場所から一ミリも動いてないのかもしれない。扉が開くとそこには元の鮮やかな光の渦に、大きな荷物を抱えて行き来する人の姿が見えるのかも。
どうでもいいことをつらつらと考えてしまうのは、隣のミロも無言のせいだ。
何を考えているのだろう。
ミロは本気なのか。
いくら氷河でもこの後どうするかくらいは知っている。
戯れのキスとはわけが違う。
『氷河』の代わりで、そんなことまでしてしまうのか。
でも、それでは『氷河』に対して不誠実ではないか。
ミロはそんな人ではないと思っていたのに。好きだ好きだとあんなに言っていたのに。
軽い調子に見えていても、彼の口から発せられる言葉には何一つ嘘はないと思っていたのに───
でも……ああ、そうだ。
俺が悪い。
いつも流されるだけで、一度だって自分の意志でミロの気持ちに応えたことなどないのだから。
ミロがそんな『氷河』に愛想を尽かしたということはありえそうなことだ。
自分はミロの気持ちが移っても文句を言える立場ではないのだ。ミロの気持ちの上に甘えきって、まともに関係を築く努力すらしてこなかった。
───ミロの気持ちが移った相手が『俺』だということは多少の慰めにはなっても、だから、そのことで傷つく権利は俺にはない。
不意に音を立てずに箱の扉が開いた。
氷河の他愛無い想像はただの妄想でしかなく、開いた先には静寂に包まれた空間しかなかった。
固い表情で顏を上げる氷河にミロは少し笑いかけてその背を押す。
長い廊下。
左右に並ぶ、シンプルな装飾の施された白い扉。踏み出すと少し足の沈む絨毯が二人の足音を消す。
どうしたらいいんだ。
ミロがカードキーを取り出した。
いやだ。
不意に、激しい奔流となってその想いが湧き上がる。
いやだ、ミロ。
俺は今『氷河』じゃない。
『氷河』以外にあなたが触れるのはやっぱりたまらなくいやだ。
今の『俺』はミロとそうなってもいいって思っている。
違う。
そうなっても、なんて受動的な言葉で偽れないほど、ミロのことを考えたら身体の芯に熱がともる。
でも、もうすぐ魔法は解ける。
解けたら最後、残るのは、ミロを失った『氷河』だけだ。例えミロが黙っていても、ほかならぬ俺自身がミロの心変わりを知っている。
違う、もう手遅れだ。
今、元の姿に戻っても、俺は一生、『俺』にミロが向けていた甘い視線を忘れられないだろう。
どれだけミロが君だけだ、と言葉を尽くしたって、俺は嘘つき、どうせ女がいいくせに、と心の中で責めずにはいられないに違いない。
バカだ。
こんなこと、するんじゃなかった。
さっさと氷河だって言えば笑い話で済んだのに。
氷河の足が止まる。
数歩先の扉の前に立っていたミロが振り返る。
どうしようもなくミロのことが好きなのだと自覚させるだけさせられて……
結局、男の俺も、女の俺も永遠にミロを失ってしまった。
ぐらりと地面が揺れたように感じ、氷河はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。堰を切ったように涙があふれ、濃い臙脂の色をした絨毯にポタポタと染みをつくっていく。
一度溢れ出した涙を止める術はなく、次々零れる雫に、氷河は声を上げるのを堪えるために咬んだ唇の間から消え入りそうな声でどうにかミロを呼んだ。
「……ミロ……いやだ、ミロ……嘘をついてごめん……お、俺、ひょ…がだから……あなたが……俺以外とそんなことするのはいやだ……」
ぐちゃぐちゃに入り乱れる感情をどうにか言葉にして、その部屋には入れない、という意思表示のために氷河はひたすら首を振る。
意味が通じたはずはない。きっとここへ来て怖気づいたととられているはずだ、涙を止めて説明をしなくては、と思うのに、今日一日、楽しかった出来事が次々に脳裡をよぎり、後から後から感情が溢れる。
座り込んでしまった氷河の上へ影が落ちる。
怖くて顔が上げられないでいると、大きな手がゆっくりと金の髪を撫ぜた。
「やっと言ったな、坊や」
意味がわからず、おずおずと顏を上げると、ミロはひどい顏だ、と笑って氷河の頬の涙をぬぐった。