寒いところで待ちぼうけ

パラレル:午前時のシンデレラ

氷河女体化シリーズ
設定は同じですがそれぞれのお話は独立しています


◆ミロ編 ②◆

「ど、どこへ行くんだっ」
 ミロは、抵抗して暴れる氷河を宥めるように腕に抱いて十二宮の階段を下りてゆく。

 どういうわけか、ミロはずいぶんめかし込んでいた。
 細身のシャンパングレーのズボンに黒のジャケット、インには光沢のある白いシャツ。透かしで何かのロゴが入っているが、ブランドに疎い氷河にはよくわからない。
 首元に巻いている赤とグレーのマフラーは、去年、氷河が贈ったものだ。坊やと会う時専用にする、と言っていたくせに、と怒りに違うベクトルが加わって、氷河のミロを見る瞳はますます冷やかだ。
 だがそれも、では、とミロに再び抱き上げられたことで、あっという間にそんなもやもやが吹き飛ぶほど動揺させられた。
 下ろせ、自分で歩く、と騒ぐ氷河を後目に、靴もないのにか、とミロは取り合おうとしない。
 こんな状態で十二宮の階段を下りるだなんて、ぞっとする。近寄ってよく見ない限りは、『氷河』に見えるはずだ。途中の宮の住人が何と言うかと思うと、大人しく腕の中におさまっておけという方が無理な相談だ。

 だが、ミロの腕は細い氷河の体を簡単に閉じ込めて、一向に地に足をつけることを許してくれない。
 最終的に氷河は逃れることを観念して、くそっと呻くと、ミロが首元へ巻いているマフラーを引いて奪い、それに自分の顏を隠すように埋もれさせた。
 馴染んだ男の香りに混じる、少し気障なトワレの芳香が鼻腔を擽り、それもなんだか気に入らない。気に入らないのに勝手にドキと跳ねた自分の心臓が、もっともっと気に入らない。

「……どこへ行くつもりだ、ほんとに」
 たくさんの『気に入らないこと』の堆積が氷河の言葉をどんどん乱暴にさせる。演技していたのも最初だけ、今や完全に声質こそ違えど『氷河』の口調だ。怒っている分だけ、『氷河』の時より乱暴だとも言える。
 ミロはそのことを気に留めた風もなく、のんびりとした口調で「デートだ」と答えた。
「……だったら、俺は邪魔だな。今すぐ消えてやるから下ろしてくれ」
「違う。君と」
「は!?な、何言って……!?」
「味気ない宮の中で顔をつきあわせていたってどうせ君は口を割るつもりはないのだろう。だったら、街へ下りていって食事でもしながら聞き出した方が互いに楽しいだろう?『不審者』を聖域から遠ざけられて、一石二鳥だ」

 開いた口がふさがらない、とはこのことだ。
 先生なら絶対にこんな解決方法は選ばないに違いない。ちゃんと規則にのっとって、教皇にまず報告をして、それから門兵にでも引き渡して……それを、デート?デートだって?不真面目にもほどがある。
「あなたっていつもこんな風なんですか。不審者を見つけるたびにデートなんてさぞかし大変でしょうね。ひょっとして両手の数じゃ足らないほどの恋人がいるんだったりして!」
 尖った声で精一杯の嫌味を言ったつもりだが、ミロがそれに堪えた様子はなく、ただ、ニヤニヤと氷河を見下ろした。
「俺のことをもっと知りたくなってきたようだな、お嬢さん?」
「!べ、別に知りたいわけじゃっ……!」
 ミロがどういう人物かって事はわざわざ聞かなくてもわかりすぎるほどよく知っている。
 自分の中のミロのイメージを、俺のことをからかって困らせる、でも、本当はいい人、というところから、女、男見境ない、最低なタラシ野郎、に修正しながら、氷河はミロのマフラーに、口も聞きたくない、とばかりに顔を伏せた。

**

 信じられないことに、ミロはアテネ市内までずっとその状態で氷河を連れて歩いた。道行く人が何事かと思っただろう。怖くて氷河は一度も顔が上げられなかった。

 だから、ミロが店の扉を開いて、いらっしゃいませ、と迎え入れる声がかかったときも、まだそこがどんな店か、ということに気づいていなかった。

「彼女を完璧なレディにしてやってくれ」
 そう言うミロの声と、久しぶりに地に着いた足の感触におずおずと顔を上げて、初めて氷河は、自分が高級そうなブティックの中にいることを知った。通りからよく見えるように配慮された、硝子張りのショーウインドーに並んだ、可愛らしいキャンディカラーのひらひらした物体は……
「あの、ミロ……」
 と、隣へ立つ青年の腕をつかむ氷河の手は震えていたかもしれない。他に助けを求められそうな人間がいなかったのだ、そもそもの原因にすがるしかない。
「いやだ……じょ、女性用の服は着れない……」
「おかしな事を言う。君は女性だ」
「いや……あの……でも、もっとほかに……」
 百歩譲ってこの身体に合う服を着せられるのは仕方ないとして、他に選択肢はあるはずだ。今時、ユニセックスな格好など珍しくもない。シンプルにTシャツとジーンズ、それでいいじゃないか。
 なんで、なんで、よりによって、リボンやフリルたっぷりのいかにも、な女物なんか着せられなくちゃいけないんだ!

「心配しなくてもいい。君はきっと似合うよ」
 そう言って氷河の背を押すミロの声は笑っている。
 違う、似合う似合わないの問題じゃないんだ、と、一生懸命首を振ってミロの袖にすがるのだが、抵抗虚しく、どうぞこちらへ、と非情に手を引く店員にいざなわれて氷河は試着室の奥へと引き込まれた。

 試着室は入り口以外の三方向が鏡張りになっていて、氷河のほかに店員が何人入っても大丈夫なほど広かった。
 鏡に映る自分の姿は、サイズの合わない男物をだらしなく引っかけているだけで、着飾ることに無頓着な氷河ですら異様な風体だと感じた。
 いくらなんでも、よくこんなのとデートしようって気になったな、とミロの貪欲さに呆れるばかり。


 試着室の仕切り代わりのカーテンの向こうから、店長らしき女性とミロとの会話が漏れ聞こえてくる。
「ずいぶんとお可愛らしい恋人でいらっしゃいますね」
「お転婆で手を焼いてるんだ。少し世間を知れば違うかと思って攫ってきたんだが我が儘で困る」
「そこが可愛くて仕方ない、というお顔ですよ。この後はどちらへ?」
「適当にぶらぶらとするだけさ。週末だからどこも混んでいるだろうしな」
「歩くのでしたらあまりエレガントになりすぎない方が動きやすいですね。可愛らしく?それとも大人っぽく?」
「大人っぽい方がいいかな。本人次第だが」
 もはや何をどう突っ込んでいいかわからない。氷河には酸欠状態の金魚のように顔を赤くして口を開けたり閉じたりさせることしかできない。
 なのに、頭の隅っこで、ミロは可愛いのより大人っぽい方がタイプなのか、などとチラリと思ってしまい、氷河は慌てて頭を振った。そんなこと、知ってどうする。可愛いも大人っぽいも、本来の自分には無縁なものだ。聞かなかったことにしないと胸が疼いてしまいそうで怖かった。

 意識がすっかりカーテンの向こう側に行っていたせいで、氷河は背後に忍び寄る影に遅れた。振り向いて、お客様、とにっこり笑った店員が持つメジャーの意味に気づいたのは、その数分後だ。


「無理です!嫌なんです!」
「そうは言いましてもお客様……」
 氷河を挟むように立った二人の店員は困ったように顔を見合わせて、カーテンの向こうのミロを気にするそぶりを見せた。出資者(氷河はお金を持っていないのだ、必然的にミロしかいない)と、その連れのどちらの意向を優先させたものか困っているのだろう。
 試着室の床にぺったりと座り込んで氷河はほとんど半泣きだ。
 氷河を飾り立てられるために用意された、いくつかのひらひらした洋服が、袖を通されるのを待って並んでいるのも既に正気を保てないほどの光景だというのに、今、店員の手にあるものは女性用の肌着だ。
 氷河の風体から、瞬時に、まず何をさておきそれが必要だと判断したのだろう。(それともミロの指示だろうか?だったら俺は今すぐ舌を噛んで死にたい)
 あれよあれよという間にメジャーをくるりと身体に回されたかと思うと、Dの65、などという暗号を二人は囁いて、その物体を持ってきた、というわけだ。ハンカチでも持ってきたのだろうかと目を凝らして、繊細なレースで縁取られた白い小さな布きれの正体に気づいて氷河は悲鳴を上げて座り込み、そこから延々と押し問答が続いているというわけだった。

 頑なに自分の殻に閉じこもるように腕で膝を抱えて座り込む氷河に、店員はお手上げだ、と判断したようだ。
 二人の気配がカーテンの向こう側へ消え、しばらくすると俯く氷河の金の髪に、ぽん、と大きな手がのせられた。
「あんまり彼女たちを困らせるものじゃない」
「……もう帰りたい。あんなの絶対嫌だ」
 抱えた膝の間に隠れるように突っ伏したまま言った声は、すこし湿っぽく揺れていた。

「だが、皆、目のやり場に困っている。俺もさっきは少し驚いたぞ。まさかと思うが女性のくせに、一度も女性の格好をしたことがない?肌着くらいはつけるだろう?それもないのか?」
 そのまさかだ。
 氷河は顏を上げないまま、そこは素直に頷いておいた。
 ミロは、よっと声をあげて氷河の隣へ片膝を立てて座った。
「……そろそろ、君がどこの誰で、何のために聖域にいたのか白状した方がいいんじゃないのか」
 その可能性は氷河も今考えていたところだ。
 あんな、あんな、どうやって装着するのかもわからない物体を胸元にあてろと言うくらいなら、もう、力いっぱい笑われる覚悟で今ここで全てを話す。

 長い逡巡の末に意を決して、俺は『氷河』なんだ、と言うために唇を開いたちょうどその時、ミロの方でも「氷河」と呼んだので、氷河は驚いて顏を上げた。てっきり呼ばれたのだと思って顏を上げたのに、ミロの視線は氷河ではなく、鏡の向こうで膝を抱えている少女の方を向いていた。
「氷河、と言うんだ。俺の想い人は。君にとても似ている。性別以外は瓜二つと言ってもいい」

『想い人』

 自分の名が出たことにも驚いたのに、自分のことを突然にそんな風に表現されて、氷河は声を失った。

「強情なんだ、ソイツも。だから俺はいつも振り回されている」
 嘘だ、振り回されているのは俺の方だ。

「おまけに怖い保護者がついていて、二人きりになれることもそうない。二人きりになったって、ソイツは素っ気なくて、一緒に街も歩いてはくれない」
 それは、あなたが人前でも気にせずべたべたと触るからで。

「極端に人目を嫌う奴だから、たまには普通のデートをしてみたい、という俺の希望は一生叶えられそうにない」
 だから、それは、あなた、が。

「俺に『氷河』とデートさせてくれないか。ただ、君はそばにいるだけでいい。一晩だけ。いや、数時間だけだっていい。それで無罪放免だ。君にとっても悪い話じゃないだろう」

 ……困った。
 こんな話を聞かされた後で、実は俺がその「氷河」です、と言えるほどデリカシーに欠けてもいない。

 な?と頭を撫でるミロの声がずいぶん寂しそうなのも気になった。俺は……俺の行動はそんなにミロを傷つけていたのだろうか。
 あれは、だって、恥ずかしい、だけだ。
 なんの照れも気負いもなく、君が好きだ好きだと言ってのけるミロが、そんな風に言われることに慣れていない自分には眩しくてまともに見られない、だけで。
 別にミロのことが嫌なわけじゃ……ない。それくらい、わかってくれている人だと思った。だから、いつも安心して意地が張れたのに。
 こんな風に、不意打ちで曝け出されてしまったら。

「俺なんかで……代わりになるのか」
 バカみたいだ。
 了承したも同然の言葉が口を突いて出た。

「そうだな……代わりになるか、と言えば代わりにはならない。だが、少しくらいは慰めにはなるかな。いつもいつも拒絶されるのを想い続けるのはいくらなんでも骨が折れる」
 ドキ、と氷河の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
 俺は今、きっととてもフェアではない方法でミロの心を盗み見ている。氷河の前ではいつも自信たっぷりで弱味なんか見せない男だ。
 そのミロに、そんな風に思わせていたことも、それを言わせてしまったことも。
 胸が痛くて切なくて激しく疼く。

 思いがけずミロの心を覗いてしまったことで、もう何があっても『氷河』だと知られるわけにはいかなくなってしまった。
「………一緒に飯を食うくらいなら。む、無罪放免だって言うなら、それで手を打ってやってもいい」
 生意気に言葉を飾らないとうっかり涙が零れそうで、氷河は、ふん、と鼻をならして顏を背けた。
 氷河の頭を撫ぜていたミロの手が、よーし、決まり、とやや乱暴さを増してさらに強く掻き回す。
「そうと決まれば、あまり彼女たちに手を焼かせるな?」
「わかった。服は着てやってもいい。だが、アレだけは絶対に無理」
 アレというのは、さきほどのDの65な白い物体のことだ。ミロはようやくいつものように、くくっと肩を震わせて笑った。
「『絶対に無理』な理由をぜひとも教えて欲しいものだな。まあいい。そのくらいの自由は許してやろう」
 そう言ってミロは試着室から出て行き、入れ替わりに先ほどの店員が戻ってきた。

 氷河が、もしかして、俺、騙された?と気づいたのは、着せ替え人形よろしくしっかりとドレスアップさせられてからだった。

 ミロの奴……!
『氷河』の代わりだって言うなら、こんな格好する必要ないじゃないか……!
 むしろ男の恰好をさせるべきじゃないのか!?俺が『氷河』を男だと知らないと思って、あんな……あんな……!

 ああやって同情ひいて、誰彼かまわず口説いてんだな、あなたって人は!口説くのは勝手だけど、俺をだしにするとか最低だ!!

**

「おや、姫の登場だ」
 ひゅーっという軽薄な口笛を氷河はむっつりと黙り込んで無視を決め込んだ。
 シンプルなローズレッドの袖のないAラインのワンピース。膝より少し上のところで裾がふわふわと揺れている。
 並べ立てられた洋服はどれもこれも氷河の許容範囲を越えていた。淡いピンク色のフリル、胸元で揺れる大きなリボン、ドレープたっぷりのフレア。ありえない。俺にそんなものを喜ぶ趣味はない。
 中で唯一、装飾がほとんどなく、氷河の中で、『断じてこれはスカートなどではない。ちょっと丈の長いランニングシャツを俺は着ているんだ』とどうにか自分を騙せそうな形状のものがそれだった。ずいぶん胸も背中も肌を露出する面積が広いなとは思ったが、他の、女子全開のデザインのものに比べればそのくらいどうということはない。

 ミロは嬉しそうに全身を眺め、「赤は俺の色だ」とご満悦だ。

 ワンピースがシンプルなので、このくらいは必要だ、と言う店員の手によって氷河のブロンドは高い位置でまとめられている。
 大きく開いたデコルテラインから続く日に焼けてないうなじの白さが眩しく、ミロは目を細めた。

 最後に紅でも、と化粧道具を持って氷河の背後に立つ店員に、ミロは止めたてするように片手を上げてみせ、その必要がないことを告げた。実際、少女の肌は瑞々しく滑らかで、唇はふっくらと赤く、無駄な装飾などでその色を隠すのはもったいないほどだった。
 ミロは不貞腐れてそっぽを向く少女の傍へと寄って行った。

 頑なに肌着を拒絶した結果、柔らかな丸みを帯びた二つの乳房は布地の上からでもはっきりとそのフォルムを伝えていて艶めかしい。つんと上向く生意気そうな頂が存在を主張していて───少女の幼気さの上に成り立つ自覚なき色香の前には、誰もが目を惹かれてしまう。

 ミロは、近くのショーケースの中から適当に選んだ、シルバーグレーのファーのボレロを氷河の肩へとかけた。
「別に寒くない」
「君のためじゃない。男にとっては君の肌は刺激的すぎる」
「ふん。変態」
「心外な。美しいものに目がいくのは自然の摂理だろう」
「この、天然タラシ…!!」
「正直なんだ」
 何を言っても、いけしゃあしゃあと聞いている方が恥ずかしいセリフで応えるミロに氷河は絶対零度の視線を返した。
 そしてボレロを脱ぎ捨てるとペタペタと裸足のままミロと反対側のショーケースにまわり、ぐるりと視線を左右にやると、短めの丈の、マニッシュなデザインの黒いレザージャケットを選び出して自分で羽織った。
 肌を隠せっていうならこれでどうだ、と振り向いた氷河にミロは苦笑した。
 女性らしい甘さをひいて、ハードな素材を足した装いは、彼女のベビーフェイスにアンバランスな彩りを添えている。ふわふわと甘い砂糖菓子をビターなチョコレートでくるんだような意外性のある組み合わせは却ってその蠱惑的な魅力を増していた。


 仕上げだ、お嬢さん、と差し出された靴は、これまた氷河にとって難関だった。
 キラキラと光る石がついていて、細身の二重のストラップで足首のところを止めて装着?するらしい。が問題はデザインではない。
 ヒールがやけに高い。足を入れてみる前から、裸足の方がマシだとわかる。
「……違うのがいい」
「それならば、こっちはどうだ」
 と差し出された方のヒールはさらに高かった。やむを得ず、最初の方でいい、と告げると、ミロは、御意、と言ってその場に跪き、女王陛下へ傅くように恭しく氷河の足を取った。
「じ、自分で履けるっ……!」
「黙って世話されておけ。屈みこんで胸の谷間を俺に強調したいなら別だがな」
 ぐっと氷河の喉から声とも音ともつかぬ微妙な音が漏れる。
 ミロは慣れた手つきで(何でそんなもの慣れてんだ、とまた氷河の気持ちがささくれる)、パチンと留め具を鳴らすと、上目づかいで氷河を見上げてニヤリと笑った。
「……パンツまで色気のない男物とは念が入ってることだ」
「!!さ、サイッテ──!!!」
 怒りで身体を震わせて、氷河は足を一歩踏み出した。
 もう我慢ならない、こんな軟派な奴が黄金聖闘士だなんて女神に恥をかかせる、と女神の代わりに鉄拳をくれてやるつもりで。
 が、氷河の想像以上に、そのヒールの高さは難物だった。
 足を踏み出した瞬間、あっという間に、生まれたての仔鹿よろしくカクンと膝から崩れ落ち、まだ跪いていたミロの胸の中へ倒れ込む。
「気の早いお嬢さんだ。ここでは人目がある。後でゆっくり可愛がってやるからそう急くな」
 耳朶に触れた唇がそう囁くに至って、もはやなりふり構わず、氷河は真っ赤な顔をして右腕を振り上げてミロの顔面へ拳を叩きこんだ。だが、既に素早く立ち上がりかけていたミロは、その手を柔らかく受け止め、同時にその拳の勢いを利用して、流れるような所作で氷河を引き寄せた。
「では、行こうか、『氷河』?」

 誰 が 『 氷 河 』 だ !!

 この最低の女ったらし!!『俺』に何かしたらただじゃおかないからな!!

**

 冬の日が暮れるのは早い。
 ブティックですったもんだしている間に、街にはひたひたと夕闇が迫って来ていた。
 家路を急ぐ人の波は、朝の喧騒と違って太陽としばしの別れを告げる寂しさを含んでいて、どこか少し郷愁を誘う。
 だが、今の氷河には次第に濃くなる闇色だけが救いである。こんな茶番ももうすぐ終わりだ、と思えば耐えられる。(逆に言えばもうすぐ終わりだと思わねば耐えられない)

 ヒールは案の定、歩きにくいどころの話ではなかった。
 一歩踏み出すたびに身体がぐらぐら揺れる。自分が転ぶだけならいい。だが、行きかう人の波で、ぐらぐら揺れる身体を操って誰にもぶつからずに歩みを進めることは、氷河にはどれだけがんばってもできなかった。
 途方に暮れて、往来で立ち尽くす氷河を笑って、ほら、とミロが手を差し出す。
 誰があなたになんか頼るものか、と両手を隠す氷河に、ミロは数歩戻って、コラ、と額を小突いた。
「意地っ張りなのも可愛いが、時と場合を考えろ。俺以外の奴に迷惑をかける意固地は好きじゃない」
 立ち止まったままの氷河をよけて人波は二手に分かれ、時折、氷河を避けた拍子に、避けた者同士がぶつかったりしている。
 さすがの氷河も、これには少ししゅんとして、おずおずと差し出された手を取った。それでもどうにか、そもそもはあなたがこんな格好させるから、と文句を言うのは忘れずに付け加える。

 だが、ただ繋いだだけの手では歩きにくさはそう変わらない。
 ミロの手に誘導されるように、氷河はミロの腕に自分の両腕を絡めた。悔しいが、ミロの腕を抱くようにして体重を預けることで格段に歩きやすさは違った。
 が、これでは場所を選ばず、べたべたといちゃつくバカップルに見えやしないか。(それも俺の方がミロに甘えて纏わりついてるように見えそうでいやだ)
 違うんだ、これは人様に迷惑をかけないように歩くために仕方ないんだ、と相手のない言い訳を胸の内で繰り返しながら、ミロの腕の支えを借りてどうにか歩く。
 赤くなった頬と、手を借りなければ満足に歩けもしない自分のことを、珍しくミロがからかわないのだけが救いだ。


 ミロは目的があるのかないのか、氷河の歩みに合わせてゆっくりと雑踏を歩いて行く。
『デート』だなんて、一体どんなことをさせられるのだろう、いざとなったら逃げだして、と身構えて固くなっていた氷河の緊張は、気負いないミロの姿に、氷の大地が春の訪れに緩むように次第に解け始める。
 ミロがしたことと言えば、時折、立ち止まって、ショーウインドーの片隅に眠る猫(置物かと思ったら本物だった!)を指差したり、前を歩くロマンスグレーがどうやらカツラっぽいと耳打ちしたり。(ミロが氷河に耳打ちした途端、件の紳士がそれをちょっと持ち上げて地肌を掻いたので二人で顏を見合わせて涙が出るほど笑った)

 ───本当になんてことのない、ただの街歩きだ。

 氷河の代わり、というのは誰彼かまわず口説くミロの手なのだと思っていたのに、どうやらミロは本気でこの状況を楽しんでいるようだった。氷河はすっかり拍子抜けをして半歩先を歩く男に問う。
「こんな……こんなことを『氷河』としてみたかったのか?ただ、歩くだけのことを?」
「ああ」
「本人を誘えばいいじゃないか」
「言っただろう?俺の誘いを素直に聞くような奴じゃないさ」
「そう……なのか…」
「そうだとも。俺が口を開く前からもう拒絶の表情だ。師の言うことは一から十まで全部受け入れるくせにな」
 ミロの言葉が氷河の胸に刺さる。
 いつもの皮肉な口調で言われたなら、そんなのあなたのせいだろ、と反発もしただろう。だが、ミロは淡々と事実関係を確認するかのようにそう言った。
 地平線に姿を隠す太陽の最後の輝きが照らす彼の横顔は、道に迷って途方にくれる子どものようですらあった。
 完膚なきまでに力の差を見せつけられる、という出会いから始まったせいか、ミロのことを迷いも悩みも何もない超越した存在のように感じることは多かった。
『坊や』『坊や』とからかわれるたびに、いつまでも子どものまま追いつけない自分が悔しくて。
 でも、自分が思っているよりも、ずっと二人の距離は近かったのだろうか。
 20歳。
 本来なら少年からようやく青年にと少し足がかかったばかり。
 長く黄金聖闘士として第一線にいた彼であっても、自分がミロのことを考えて悩んだり嫉妬したり怒ったり揺れているように、この人の中にも不安定に揺らぐ感情はあるのだろうか。

 僅かにオレンジの光を放っていた太陽の欠片も今消えた。
 急に濃くなった闇色を蹴散らすように人工的なネオンが代わりに、少し寂しげな彼の横顔を照らす。

 もしかして、俺はまたこの横顔に騙されるのだろうか。この表情もまた、この人の手なのかもしれない。

 ───騙されているのでもいい。
 今は、なんとなく素直になりたい気分だった。
 意地も恥ずかしさもプライドも。『氷河』がどうしても捨てられないものを、『氷河』ではない今ならば全部捨てて、素直に。

「あの……俺が。俺でいいなら、あなたが『氷河』にしてほしいことを全部してあげてもいいけど」
 氷河が見上げた精悍な横顔が一瞬、驚きで瞠られ、それから少し体を捩って氷河の頭を宥めるように撫ぜた。
「『全部』?嬉しい申し出だがそれでは君が壊れてしまう」
 くくっといつもの調子で笑うミロに、あなた、一体ナニさせる気なんだ、と頬を紅潮させ、だが、大きな手のひらから与えられる熱が去っていった途端、どうしようもなく胸が痛くなって氷河は俯いた。

 ……俺は今、婉曲に振られたのか?

 喜んでいいのか、傷ついていいのか。
『氷河』になら言質を取ったぞ、と言わんばかりに、いや、言質など取らず意志すら確認しない勢いで強引に奪っていくのに。
 ミロのそんな日頃との態度の差に、胸が軋む。
 男として傷ついたのか、女として傷ついたのか、自分でもまるでわからず、ぐるぐると入り乱れる感情に勝手に鼻の奥がツンとする。
 一体、自分がミロにどうして欲しいのかまるでわからない。女性の姿をした自分に冷たくされても優しくされても、きっと、どちらも氷河の胸を鳴らしたに違いなかった。


 結局、たっぷり半刻ほど自分の感情に翻弄された末に、なあ、と氷河は意を決して口を開いた。『氷河』のどこがそんなにいいんだ、と聞いてみるつもりで。
 が、次の瞬間、ぐーきゅるるるるる、という盛大な腹の虫が氷河の次なる言葉をかき消した。
 ミロが咄嗟に音がした方向を振り返り、氷河は真っ赤になって俯く。
 な、何でよりによってこの瞬間なんだ、オレのばか!
 ははは、と声を上げて笑うミロに、笑うなよ、と恨めしそうに小さく抗議した時、半歩前行く体からもぐるるるるる、と盛大な腹の虫が鳴った。
 思わずミロの顔を見返すと、ミロは笑いながら、生きてりゃ腹も減る、と肩を揺らした。

「少し早いが飯にするか」
 ミロの言葉に、一瞬言葉に詰まって、だがすぐに黙ったまま首を左右に振った。

「……まだもう少し歩けるか?」
 今度は、迷わずに氷河は頷く。

 自分でもどうしてそうしたかはわからなかった。
 もう少し、どころか、もっと長い時間をこのまま歩いてみてもいい、そんな気さえしていた。