寒いところで待ちぼうけ

パラレル:午前時のシンデレラ

氷河女体化シリーズ
設定は同じですがそれぞれのお話は独立しています


◆ミロ編 ①◆

「通らせてもらいます、ムウ」
「おや、久しぶりですね。あなたが来ると言うのにカミュがここへ迎えに来ていないとは珍しいが……」
「今日は内緒で来たんです。たまには先生を驚かせるのもいいかと思って」
 第一の宮をそんな会話で通り過ぎ、氷河はうきうきと通い慣れた石造りの階段を上がって行く。
 春が来るにはまだもう少し。
 吹く風は冷たく肌を刺す。
 だが、ここ聖域はシベリアと違って雪もなく、氷河にとっては冬のうちには入らない。久しぶりに訪れる師の元へと、氷河の足取りはまだ来ぬ春の風のように軽やかだ。
 途中の宮の住人へ挨拶を交わしつつ、鼻歌すら歌い出しそうなほど上機嫌の氷河の足は十二宮の中程で初めて止まる。
 天蠍宮。
 ミロはいるだろうか?
 会いたい、ような、会いたくない、ような。氷河にとっては複雑な相手だ。
 からかわないでいてくれたら、そして人前でベタベタとスキンシップをとらないでいてくれたら、会いたい、と素直に思えるのに、ミロと来たらそれ抜きで氷河の相手をしてくれたことなどない。師の前でだってそれはお構いなしで、二人を見守るカミュの眉間の皺は深く、それがいつもとても居心地が悪い。
 どうか不在でありますように。
 今日はカミュに会いに来たのだから、と誰にともなく言い訳めいたことを思いながら、氷河はおそるおそる歩みを再開させた。
 が、その瞬間、どくん、と全身が脈打ち、体中の細胞がぐにゃりと不安定に揺れ動くような感じが氷河の裡に起こる。もう何度目か数えたこともない、あの、気まぐれな神の戯れの時間が今また訪れようとしているのだ。

 ───くそっ、どうしてなんだ……!

 あんまりだ、と氷河は天に向かって叫びたくなる。
 先生に会いに来たというのに。少し驚いた顔をして、でも、よく来たなと嬉しそうに笑う顏を見たかったのに。これでは──これでは元の身体に戻る深夜まで宝瓶宮には行けない。

 氷河の体はみるみるうちに変化を遂げていく。
 筋肉で覆われていた手足は薄い皮膚で包まれた柔らかなものへ。直線的だった身体のラインは流れるような曲線を描いた優しげなものへ。
 ああ、と困って眉を下げている氷河が視線を落とせば、しっかりと隆起して存在を主張する柔らかな塊も二つ。
 これは胸筋だってことでは……だめか、だめだな。
 きつく布を押し上げるその膨らみに、もはや足掻くことすら無駄だ、と氷河はため息をついた。
 背に負っていた聖衣箱のベルトは途端に肩に強く食い込んで、ずっしりと確かな重量を伝えてきている。

 氷河はふらふらとしながら、既にサイズが合わなくなって用を為さなくなってしまっていた靴を脱いだ。そしてそれを片手へと持ち、くるりと踵を返した。

 とにもかくにも。
 危ないところだった。後少しでも遅くこれが起こっていたら天蠍宮の中だった。ミロの前でこんな失態(そう、失態だ)を見せたら、何を言われるかわかったものではない。
 幸いひとつ前の宮は天秤宮。無人である。
 薄雲に見え隠れしている太陽は一番高いところからほんの少し傾いたばかり。日付が変わり、この奇妙な魔法が解けるまでにはまだ当分ある。それまでをその無人の宮で息を潜めて待つしかない。
 老師、ありがたくお借りします。
 そう氷河は口の中で呟いて、今上ってきたばかりの石段を下り始めた。

 足元がかなりおぼつかない。
 こうしてみると聖衣箱というのは相当に重いのだ。聖衣自体は纏っていてその重さを感じたことはない。聖闘士の能力ゆえか聖衣に重さを感じさせない機能でもあるのか。
 だが今は、あまりの重さにうっかりと階段を転げ落ちてしまいそうだった。
 足の裏へざらついた石段の感触が触れ、それがずいぶん痛い。
 小石を踏んだ拍子に刺すような痛みが走り、あ、と氷河はたたらを踏んだ。痛む足を庇う動きに、既に不安定に揺れていた身体は、背の聖衣箱の重みでさらに前へとバランスを崩し、だめだ、落ちる、と氷河は次の衝撃を覚悟した。
 が、その瞬間、背後から伸びてきた逞しい腕がふわりと柔らかく氷河の腰を抱きとめ、踏み外して空を蹴った足は石段を滑り落ちることなくそのまま空へととどまった。
「何をやっているんだ」
 笑いを含んだこの声は。
 頬にふわふわと触れる柔らかな巻き毛の主の登場に、氷河は絶望的な気分になる。
 ───最悪だ。
 先生に知られるのも絶対に絶対に嫌だが、この人に知られるのはさらに嫌だ。せっかくそれを免れたと思っていたのにどうしてあなたはタイミング悪く登場してしまうんだ。
 どれだけ笑われるか想像しただけで屈辱で氷河の眦に薄く涙が滲む。

「何故靴を履いてないんだ?それに目的地にも行かずに何故帰ろうとしている?」
 くすくすと笑いながら、ミロは氷河の体をゆっくりと石段の上へ着地させてやり、顎に手をかけて、くるりといつもの強引さで自分の方へ顔を傾けさせた。
 笑って弧を描いていたマリンブルーの視線は、だがしかし、氷河の顏の上へ定められた途端、忽ち怪訝な色を宿し、そして、不躾に見えない程度にさり気なかったものの、一瞬、氷河の隠しようもない豊かな乳房のあたりを彷徨った。
「……これは失礼。知人だと思ったもので」
 ニヤリ笑い一つなく、聞いたことのないようなよそよそしい声で、そっと氷河に触れていた手を下ろすミロは、紳士的ではあったが警戒心を全身に漲らせている。
 変化の瞬間まではどうやら見られていなかったようだ。
 てっきり氷河を別の人間だと思い込んでいる(性別が違えば同一人物だと思う方がおかしいわけだが)ようなので、これ幸いと、氷河はこの場を逃げ出すことにした。
「いえ。どうも」
 短くそう言って、俯いて彼の視線から逃れるようにさらに石段を下りようとすると、後ろから鋭く声が飛んだ。
「待ちたまえ。どこへ行こうとしている」
「……か、帰るだけ、です」
「帰る?どこだ、君の家は」
「十二宮の外にあります」
「では今までどこへ行っていた」
「……どこへも。あの、ただ、迷い込んだだけで」
「ならばその聖衣箱はなんだ」
「ひ、拾いました」
「どこで」
「……今、そこで…?」
 苦しい。
 自分でも苦しい言い訳だと思っているのだから、いくらなんでもこんな言い訳が通用するはずはない。
 だが、何故かミロは、ふうん?と怪訝な声を最後に追及を止めた。
 じっと観察するような視線が、つむじのあたりに注がれているのを感じ、次は何と言われるかと氷河はドキドキしながら待った。だが、いくら待っても次の言葉はない。

 氷河はおそるおそるミロを上目づかいで窺った。
 十二宮への不審な『侵入者』に相当に厳しい視線を注がれているものだとばかり思っていたが、案に相違して、そこには柔らかな色の瞳があるばかりだ。

 ……?

 もしかして。
 男である俺にだって、可愛いだの綺麗だの歯が浮くようなセリフを山ほど囁くくらいなのだから、ミロは「女の子」には甘いんじゃ?

 不意にひらめいたその思いつきを確かめるように、氷河は、にこ、とぎこちない笑みを浮かべてみせた。
 ミロは、呼応するように氷河へ向かって微笑を返す。
 とても十二宮の守護者とは思えないミロの甘やかな表情に、俺の気のせいじゃないよな、ともう一度引き攣ったような笑みを向けてみれば、ミロは今度ははっきりと、氷河が見たことのないほど優しげな笑みで応えた。

 なんだよ、ミロ。
 追及が甘いのはもしかしてこの外見のせいなのか。
 状況が状況だったとはいえ、俺には容赦なく致命点まで撃ったくせに、その蕩けそうな笑顔はなんなんだ。
 どう考えても不審者だろう、俺。
 ずいぶん扱いが違うじゃないか。

 氷河の胸にもやもやと黒い感情が渦を巻く。
 なんだかわからないけど面白くない。
 だが、今は、のんびりと自分の感情の種類を確かめている場合ではない。ミロなんか、侵入者をむざむざ逃して、軟派で手が早いことをサガあたりにこっぴどく叱られるといい。

 氷河は上目づかいで、駄目押しとばかりににっこりと笑ってみせた。サガに叱られるミロを想像したせいか、今度はかなり自然な笑顔が出た。
「あの、迷い込んでしまってすみませんでした。この箱はあったところに置いておきます…ね?あの、それでは、そういうことで、お、お邪魔しました」
 そう言って、氷河は聖衣箱のベルトに手をかけた。大事な聖衣を一時的とはいえ手放すのは丸裸にされるようで心細かったが、どうせこの身体では纏えはしないのだ。強硬に持ち出そうとして不審がられるより、ミロのところへ預けておいた方がよほど安心だ。
 ミロは、ごく自然な所作で聖衣箱の底へ手を添えて、重そうに肩ベルトを外す氷河の動きを助けている。

『俺』の時にはしないのに。

 聖闘士が聖衣箱の背負い下ろしくらいで手伝われても困るわけなのだが、いつもと違う紳士的なミロに、女性相手にはずいぶん態度が違うじゃないか、という思いが湧き上がる。よく考えてみれば、おそらくミロに限らず、誰であっても(ほかならぬ自分自身も)、聖闘士に対してと女性に対してと態度が違うのは当然といえば当然なのだが、なぜか、それはそれ、これはこれ、という理不尽な怒りが氷河を刺激した。

 聖衣箱をミロに預け、それじゃあ、と曖昧な笑いを浮かべたまま、くるりと氷河はミロに背を向けた。

 だが、石段を一歩も下りないうちに、ミロによって氷河の二の腕は柔らかく掴まれた。
 振り向けばやはりそこへは甘い優しさを含ませたままのミロの表情があり、氷河は思わず、あ、ミロの奴、やっぱり『俺』を口説く気だな(この女ったらし!)、と身構えた。
 ミロの唇が氷河の耳に触れそうなところにまで下りてきて、背筋を震わせるような甘い低音が囁く。
「残念だったなお嬢さん。君の笑顔は極上だが、俺には通用しない。一緒に来て話を聞かせてもらおう」
 思わず目を瞬かせて氷河はミロを振り仰いだ。
 ずいぶん変わった口説き文句だ、と思えるほどにその表情も声も柔らかい。だが、ただそっと掴まれているだけのはずの二の腕はふりほどけず、声には有無を言わせない強さがあった。

 ───なんだ。
 氷河は拍子抜けをして、思わずそう声に出すところだった。

 当たり前か。
 天下の黄金聖闘士だ。いくらなんでも、氷河のあんな拙い説明で騙されるようでは終わりだ。

 これで逃げ場はなくなり、自分は窮地に陥ったわけなのだが、何故か氷河の心のもやがほんの少し晴れる。
 ミロが簡単に女の色香に惑うような奴じゃなくてよかった、という安堵が氷河の心を晴れさせたのだが、何故そのことを己が安堵したのか、そのことの意味をうまく消化する前に、思考は不意に中断された。
 白鳥座の聖衣箱を己の肩へ担ぎ替えたミロが、失礼、と言って少し身を屈めると、目にもとまらぬ速さで氷河の膝裏を掬い、横抱きに抱きかかえてしまったからだ。
「ちょ、な、なにする……!?」
 あまりのことに目を白黒させる氷河に、ミロは、落ちるぞ、と言うや否や、数段飛ばしで階段を駆け上がり始めた。
 片手にまだ自分の靴を抱えたままだった氷河の身体は、ミロの腕の上で不安定に跳ね、落下を避けるために氷河は咄嗟に空いている方の手をミロの首に回してしがみついた。
 自分からミロに乳房を押しつける格好になって(そして見上げたミロと目が合うとニヤリと笑われて)、氷河の頬が怒りと羞恥で赤くなる。

 サイッッッッッッッテ───!!!
 見直しかけた俺がバカだった!
 このひと、こういう人だった!!
 よく考えたらさっきのだって、普通に最初から厳しく追及すればいいものを、あんな、あんな誤解させるような笑みなんか!宮へ連れていかれて一体何をされることかわかったもんじゃない!
 いざとなったら噛んでやる、と不穏な決意を胸に、だが、振り落とされないように氷河は必死にしがみつくのだった。

**

 それで、とミロは嫌味なほどに長い足を組んで氷河の正面へと座った。
 いつもはバカみたいに近い距離で隣に座って、あまつさえ膝に乗せたりなんかするくせに、一応は常識的なふるまいもできるみたいだな、とまだ怒りの抜けきっていない頬をまるく膨らませて氷河はそれを睨みつけた。

 天蠍宮の居住区で。
 聖衣箱は没収で、氷河は応接セットの奥側、入り口から遠い方へと座らされた。ミロが上座と下座を意識したはずはなく、要は脱兎のごとく逃げ出されない様に、という抜かりなさにほかならない。
 でも、そんな、戦士としての基本事項ですら、今や、不埒な行為をするための布石にしか思えない。

「君は一体何者だ?名は何と言う」
 問い詰めるミロに氷河は答えず、代わりに声に怒りを滲ませて言った。
「あんな連れてきかた、する必要あったんですか。普通に歩かせればいいじゃないですか」
 いつもより高めの声では怒っていても凄みが足らない。それでも、せいぜい剣呑な響きを含ませた。
 ミロから返事はない。やましいからに決まっている。
 普通の女性なら、ミロ相手では気圧されて思うことの一つも言えないに違いないが、生憎と俺は女じゃない。甘い笑顔なんかでごまかされないのは俺だって同じだ。
 氷河は不機嫌さを隠そうともせずに、腕を組んでそっぽを向く。

 しばしの間、沈黙が続いたが、不意に自分の上に影が落ち、氷河はハッと顔を跳ね上げさせた。
 いつの間に立ち上がっていたのか、こちらを見返す海の深い蒼がすぐ間近にあって思わずドキリとする。なに、と問い返す暇もなく、顎を掴まれて無理矢理に視線を捉えられた。
「訊いているのは俺だ。君じゃない」
 ───冷たい瞳に、不本意だが僅かに身体が震えた。
 聖衣を纏って対峙したときは、その強大な小宇宙を前にしても決して怯みはしなかったというのに、何も持たない今は素直にミロの強い光は恐ろしく、古傷が痛んだ気さえした。
 口を割らせるために実力行使に出られたら、と思うと体は竦んで逃げることもできなかった。
 だが、ミロは氷河の顎からすぐに手を離し、今度はその足下へと跪いた。そして、氷河の片足をぐいと持ち上げて、確認するように親指の腹で足裏を何度か撫ぜた。
「な、ななななにをっ!?」
「怪我をしていなくてよかった。ここの石段は古くてあちこちガタがきている。裸足で歩くには向かない」
 それが先ほどの、『あんな連れてきかた』の理由なのだ、と氷河はやや遅れて理解した。理解した途端、自意識過剰だった己を突きつけられたようで、気まずさで氷河はうろうろと視線を彷徨わせた。

 ミロは氷河の足下へ跪いたまま、ゆっくりと顔を上げた。その瞳からはまだ追及を辞さぬ厳しさは削がれていなかったが、先ほどのような刺すような鋭さは消えている。
「それで?俺は答えたぞ。君はどうだ?」

 ……困った。
 本来、無法を働いているのは自分の方だという自覚はある。そして、日頃のミロがどれだけ俺様な性格かも知っている。
 なのに、まだ厳しさを緩ませていない、最高位の黄金聖闘士に先に譲歩されてしまった。

 どうしよう、と、氷河は俯いて自分の姿を見下ろした。
 見下ろした先にある身体はすっかりと女性のものだ。困ったことに『女聖闘士』ですらない。長い時間をかけて身に着けたはずの筋肉は失われ、ふやふやと柔らかな肉で包まれた頼りないほど細い骨格。
 それを隠すように纏う衣服はだらしなく襟ぐりが開き、ジーンズも腰にひっかかっているだけ、袖も裾も余り気味、なのに一番隠したい胸元辺りだけが布地が足りていない、というかなり異様な風体だ。おまけに靴までサイズの合わないものを胸へ抱えているだけだ。
 どんな説明でだってミロを納得させられる自信はなかった。例え真実を話したところで、信じてもらえるかどうかは怪しい。

 途方に暮れて、氷河は俯いた。
 このまま黙秘した状態で日付が変わるまで過ごせないだろうか、という現実逃避の思いで。

「何の説明もなく俺の宮から出られると思っているなら大間違いだぞ」
 ミロの声に苛立ちが混ざり始める。気が長い性質ではないことはよく知っている。彼の苛立ちを証明するかのように、ミロの指が俯いた氷河の首筋にピタリと当てられた。
 見なくてもわかる。
 きっとその先端は獲物を待って血色に鈍く光っている。
 今度こそはっきりと古傷が痛んだ。
 それでも氷河は口を閉ざしていた。口が開けなかった、のかもしれない。
 なまじミロの力を知っているだけに、この先の激痛を覚悟して、氷河は目を閉じた。

 爪の先がつ、と首筋にあたり、チクチクと氷河の肌の上を不快な刺激が走った。ミロは目を閉じた氷河を酷薄に見下ろし、不意にそれを横薙ぎに一閃させた。
 氷河の耳の下でひと房の金の髪がはらりと落ちる。
 ミロはそれでも唇を引き結んだまま微動だにしない氷河を観察するように見下ろした。
「ふうん……見たところ戦士って体つきじゃないが、顔色も変えないとはすごい度胸のお嬢さんだ」
 感嘆しているようにも聞こえる声を耳にして、そうか、「普通」はもっと悲鳴を上げて慄く様子を見せるものだったのか、と気づいたが、今となっては遅かった。氷河のそんな態度はきっと事態を悪化させたに違いなかった。

 氷河がおそるおそるミロの方へ首を傾けると、予想に反してそこへはいたずらっぽく輝く瞳があった。
 ───この表情は知っている。
 いつも氷河を困らせる、強引なやり方で構う時のそれだ。
「それにどうやら相当に強情なようだ。外見だけじゃなく、そういうところまでそっくりだ。君はもしかして双子の兄か弟でもいないか?」
 誰のことを言いたいのかは尋ね返すまでもない。
 いっそ、そうです、と頷いてみようか。
 100人も兄弟がいるのだ。今更、一人増やしてみたところで影響はあるまい。ただ、兄弟だと言い張ったとして、白鳥座の聖衣箱を抱えて聖域にいた理由は、どんな言い訳をつけてもミロを信じさせるには苦しい。

 結局、氷河にできることといえば、曖昧にごまかしながら真夜中になるのをひたすら待ち続けることしかない、という結論に至り、氷河は諦めたように首を左右に振った。
 ミロは自分の問いに些かの自信があったようで、本当に?と猜疑心たっぷりに氷河をねめつけた。慌てて氷河はミロから視線を逸らす。
「お、俺をどうするつもりなんですか」
『俺』?と一瞬だけミロは怪訝な顔を見せ、だが、すぐに小さく吹き出した。
「どうにかして欲しいみたいに聞こえるな、お嬢さん。俺にどうにかされたくてここへ来たのだとしたら、ずいぶん迂遠な誘い方だな」
 途端に氷河の頬が真っ赤に染まった。
「そ、んなつもりで言ったわけがないだろっ。あなたって人はいつも、」
 羞恥と怒りでうっかりと失言しかけたのを、どうにか皆まで言わずに飲み込んで、氷河は唇を噛んだ。

 ミロは赤く火照った氷河の頬を人差し指の背でするりと撫でた。
「ほら、そんな風にすぐ真っ赤になって怒るとこなんてそっくりだ」
「!し、知るかっ!俺に勝手に触るなっ!」
 乱暴な拒絶の言葉を投げつけて、氷河は勢いよく立ち上がった。立ち上がった勢いで歩きだそうとすると手首を掴まれ、反動であっという間に身体が元のソファへと沈んだが。
 ミロの瞳に鋭い厳しさが戻っている。
「まだ君の素性を聞かせてもらってないぞ」
 強い光に射すくめられたが、ただの女たらしなんて怖くない、と氷河は怒りにまかせてミロを睨み返した。

 春の空のような薄青の美しい瞳は、その柔らかな色合いに反して決して屈しない強い意志を内包している。なんだかデジャビュを感じるぞ、とミロは大仰に溜息をついた。
「一筋縄でいかないお嬢さんのようだ。なるほど、どうあっても何も語るつもりはない、とそういうわけだな」
 肯定も否定もせずに唇をへの字に曲げたままの氷河にミロは言った。
「ならば最低限の確認は勝手にさせてもらうぞ」
 確認?と氷河が問い返す間もなかった。
 ミロの腕が氷河の細い肩を掴むや否や、その身体をソファの上へ押し倒し、そのままその場へ縫い留めるように押さえつけた。
 突然に視界がぐるりと回って混乱している氷河が、シャツの裾をミロが捲り上げたのだ、と気づいた時には、もう既に胸元でぷるんと乳房が外気に曝されていた。
「K$@+$N:nIJ$bA!?」
 言葉にならない悲鳴が口をついて出て、慌てて氷河は捲り上げられたばかりのシャツの裾を光速で臍の下まで下ろした。
 ミロはそれを止めるでなく、「……本物だな」と驚いたように呟き、押さえつけていた氷河の体を半ば茫然と解放させた。

「あた、あた、当たり前だろ!本物に決まってる!な、何を考えてんだよっ!!」
 本物に決まっている、と喚いたものの本物でなくて幸いだ!
 俺が男だったからよかったようなものの、本物の女の子だったら犯罪だ!俺を『氷河』じゃないかと疑っていたのだとしても!だからって!いきなり脱がせて確認する奴があるか!信じられない!!
 声に出してもっとミロを罵倒したいのだが、そうするわけにもいかず氷河の唇はわなわなと震えるのみ。

 ミロの方は、というと氷河の様子など気にも留めず、何ごとか考え込むように腕を組んで唸っていた。
 が、その時間はそう長くはなかった。

 警戒心をむき出しに、噛みつかんばかりに威嚇する氷河へ向き直ったミロは、悪かったな、とたいして悪いとも思っていなさそうな軽い口調でそう言った。
『氷河』を宥める時のように、髪の毛を掻き回そうとするミロの腕を氷河は勢いよく振り払う。何がおかしいのかミロは豪奢な巻き毛を震わせてくつくつと笑った。

「元気のいいお嬢さんだ。よかろう。確認はしたことだし、」
 と、ミロはいつものように不敵に口角を上げた。
 そうとわかれば、躊躇う理由はないな、と氷河を見下ろすミロの人の悪い笑みに───なんだか嫌な予感がした。