寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
光牙と謎の男が出会う直前のお話。
当初は天秤聖衣としていたところを放映の流れから水瓶聖衣に微修正。
性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆止まり木の二人 前編◆

 鬱蒼と茂った森を男は進む。
 本来なればたくさんの生命を育む命の源であるはずが、太陽の光を遮る梢はザワザワと禍々しい風に昏く蠢いて、不気味な気配だけが森を支配していた。
 鳥の囀りも、虫の羽音も何も聞こえぬ。
 ただ、生ぬるく不快な風だけが薄暗い湿った空間を縫って通り抜けてゆく。
 男は足を速めた。
 日暮れまでにここを抜けておきたい。
 太陽が高く昇っていてさえ、この昏さだ。日が落ちてしまえばそこはもう闇の結界へと変わってしまう。
 目的地はもう間近のはずだ。
 この森を抜けた先にあるは、魔の赤い砦───バベル。

 男はギリリと歯噛みする。
 この地上で。
 女神の聖闘士が護るこの大地で。
 あのような光景を許すとは。
 耐えがたき苦痛が男の身の裡に熾き、左半身が激しく疼いて男は顔を顰めた。

 地上のどこを穢されても男は怒ったに違いないが、よりによって、聖域、ときた。
 そこは男にとっては心の拠り所、まさに『聖域』であったというのに。
 男が今もまだなお敬愛する師が育ち、護り、そして眠る地。
 女神の加護の及んでいた神聖なる不可侵の領域を醜悪な魔の力で薙ぎ払い、その静かな眠りを妨げた邪神の残した力が左半身で蠢いているのが酷く忌々しい。

 再び男は血が滲むほど唇を噛んだ。
 足の動きはもはや歩いてる、とは言えないほどの速い動きで運ばれている。

 男の両側を流れていた景色の中で、植生帯が僅かに変化し始めた。
 密度の濃い木立の中、享受できうる僅かな日の光を必死で求めるように高く高く梢を伸ばしていた木々が、溢れる光を精いっぱい受け止めようとするかのように、横へ幹を大きく張り出したものに。
 森の終点が近いのだ。
 闇の結界の裡にある森は男にとっては危険なものであったが、だが、森が途切れてしまえば男の存在を魔の砦の視線から隠すものは何もなくなる。
 赤い砦を目指して荒野をまっすぐに進む男の姿は格好の標的となるだろう。
 だが、存在を知られてしまう前に、瞬時に距離を詰めてみせればあるいは───。

 男は意識を自分の内奥へと向け、裡に眠る銀河を静かに呼び起こし始める。
 と、同時に、左半身がまたズクン、ズクンと嫌な脈動を刻み始めた。身の裡で闇の力が勢いづいて主を激しく責め苛む。

 囚われる。闇に。
 ───否、己はあんなものに屈しない。

 男の葛藤をも嘲笑うかのように、それは男の内面を嬲るように掻き回す。

 ち、と無音で舌打ちをして、男はすうと息を吸いこんだ。

 さあ、と湧き上がる小宇宙を放出させ、ひと息に森を荒野を駆け抜けようとした瞬間、不意に後ろから力強い右腕が彼の身体に巻きつけられた。
 魔が早くも彼の小宇宙の匂いを嗅ぎつけたか、と男は振り向かずに身を沈めてその腕を振りほどこうとした。
 が、男の攻撃パターンなどお見通し、というかのように背後の気配は強い力で男の身体を戒めるように抱き、耳元へそっと囁きを落とす。
「暴れないで。わたしです、氷河」
 それは男のよく知る声。
 なぜここに、と目を瞠る男に、焦りの色をその表情に滲ませていた青年はほっと短く息を吐いた。が、すぐに、全身に緊張を漲らせる。
「来た」
 ああ、と男も─氷河も頷く。
 森の向こう側から、赤と黒の鎧を纏った男たちが数人、こちらに近づいて来ていた。

 氷河の拳がぐっと握られる。それを青年の拳が掴み、今にも飛び出して行きそうな彼の体を抱いたまま、ふるふると首を振ってみせる。唇の動きで「堪えて」とけん制する青年に、氷河は不満げに眉を寄せた。
 青年が作り出した結界の内側で気配を巧みに消した二人の前を、赤と黒の鎧が通り過ぎていく。

 足音も気配も十分に去ってから、青年は静かに氷河の体を解放した。
「何故こんなところに来たんだ、貴鬼。お前は……」
 そう言って、氷河は貴鬼と呼ばれた青年の後ろを窺うように見た。氷河の問いの意図したところを気づいたのだろう、貴鬼は肩を竦めてそれを受け流す。
「連れてくるわけがないじゃないですか、こんな危険なところに」
『危険』に強いアクセントを置いて、やや咎めるように貴鬼は氷河を見た。だが、氷河は貴鬼の非難に気づかなかったように、とにかくお前は早く帰ってやれ、と貴鬼の肩を押しやった。
「あなたも、ですよ」
「俺は」
「駄目です」
「……俺を止める権利はお前にはない」
「ずいぶん冷たいことを」
 貴鬼の、穏やかな笑みを湛えた頬が次第に苛立ちで歪み始める。まだ不吉にざわめく森の中に二人はいる。闇が夜の色を増し始め、もはや目の前に立つ男の顔の輪郭すらおぼろげだ。あまりに危険な状況での不毛な言い争いなど続けるつもりはない。
 貴鬼は氷河の肩に片手をかけ、短く耳元で「御免」と囁くと、彼の鳩尾に鋭い拳を突き入れた。かはっと空気を吐き、氷河の身体が力を失って貴鬼の腕の中へと倒れ込んでくる。
 気を失った氷河の身体をやすやすと肩へと抱き上げると、貴鬼は追跡をかく乱するように結界を十重二十重に張り巡らせながら、邪神の支配する闇の空間からはるか遠く、彼の暮らす安寧の地へと跳躍した。

**

「……まだ怒ってます……?」
 氷河はこちらに背を向けて、窓際にぴったりと寄せられたベッドの上でまるくなっている。返事はないが、眠っているわけではない証に、貴鬼の言葉を肯定するようにますますその背がまるめられた。
 貴鬼は、そのベッドの端へギシ、とスプリングを弾ませて腰掛ける。
「手荒くして悪かったと思ってます」
 そう言って、己が拳を入れた腹のあたりを撫でると、男の手がそれを拒否するように払われた。
 ずいぶん怒りは大きいようだ。
 貴鬼の声が途端に、しゅんと力なく小さくなり、言葉があどけなく崩れる。
「そんなに怒らないでよ……ああでもしなきゃ、氷河、退いてくれなかったでしょう?」
「退く必要がどこにある。あそこには我が師の聖衣が……!」
 そう言って、氷河は跳ね起きて貴鬼の方を見た。
 が、そこへ、泣きだしそうに歪められている菫色の瞳を発見し、続く非難の言葉の勢いは削がれた。代わりに、行き場を失ってますます滞留する憤りを、ぐっと自分の拳を白くなるほど握ることで耐える。
 貴鬼は、怒りに震えている氷河の拳に自分の手のひらを重ねた。声にどうしようもなく抑えきれない激しい感情が滲んで震える。
「俺が……悔しくないと思う?ねえ。聖衣への愛着が、俺が氷河より劣っているとでも思うの?本当に?」
 幼い頃、喜怒哀楽を誰より素直に表していたかつての少年は、いつの頃からか、めったなことでは感情を外に出すこともなくなり、絶やさぬ微笑みに本心を隠すようになっていた。
 だが、変化の少ない表情に隠された内面には、今もまだ、熱い感情が確かに存在している。

 悪い、言い過ぎた、と、氷河は貴鬼の背へ腕を回して宥めるように撫でた。
 背へ垂らされている意外と柔らかい髪が氷河の指に触れる。師の面影を追うように長く伸ばされた髪は、だが、師のもとのは違い、生来の強い癖にあちこち跳ね回るのを苦心しながら、それでも切ろうとしない彼の可愛い拘りを知っている。
 師の背を追って、追って、今もまだ追い続けている彼は、この世界でただ一人の聖衣の修復師なのだ。彼の手が触れていない聖衣などないほどに、彼と聖衣とは切っても切り離せないもの。
 何より水瓶座の聖衣に抱く氷河の想いは、同じ、黄金聖闘士を師に持つ彼にはわかりすぎるほどによくわかるはずだった。

 氷河はもう一度、言い過ぎた、と言って彼の背を撫でた。


 貴鬼は氷河の肩口へ自分の額を押しつけるようにしてその体を抱いた。
「氷河……もう、あんなことしないでよ。心臓が……もたない。間に合って本当に良かった。なんで一人であんな無謀なことするのさ……」
「危険は承知だが、俺なら……万一のことがあっても哀しむものがないから身軽だ」

 戦士にはそれぞれ役割がある。
 女神という求心力を失った今、斥候として身軽に動ける者はそう多くない。
 氷河とてもちろん封印の解けた闇の気配に臍をかみながらも、今はまだ雌伏の時、と耐えがたきを耐えて時が来るのを待ち、身を潜めていた。
 だが、もはや、雌伏などと悠長なことを言っていられる時期は過ぎた。あの崇高な聖衣を、女神の力を恐ろしき目的に使わせてはならぬ。 例え望みは薄くとも、女神の聖闘士がそれを許したとあっては末代までの名折れ。組織としての機能を失っている聖闘士であっても、誰かが起たねばならぬ。
 ならば、兄弟も妻子も弟子も……守らねばならぬものを何も持たない、自分が。

 いや、そんなものは大義名分でしかなかったのかもしれない。
 氷河の身の裡にあったのは、もっとシンプルな怒り。
 ただ、赦せなかった。
 水瓶座の聖衣を、邪な目的に利用されることが。
 あの聖衣は何もかもが特別だった。
 海の底でも。
 冥府でも。
 それは常に氷河に寄り添い、援けとなった。
 何より、自分にとっては師の生きた徴。

 いてもたってもいられずに、氷河は赤の居城を目指した。
 無謀な戦いを挑んでいるつもりはなかった。
 氷河とて、無策のままに己一人で邪神を討てるとまでは考えていたわけではない。ただ、聖衣を取り戻すことだけは、と。
 交戦する力は残されていなくとも、豊かな戦闘経験から、気づかれずに奪い返す程度の力くらいは残されている自信があった。
 だから、何故自分を止めるのか、という不満で言葉にどうしようもなく険が滲む。


 だが、逸る気持ちに熱をあげる氷河に反して、貴鬼の声は急速にその温度を下げた。鎧をまとったかのように、再び言葉が固くなる。
「氷河、それ、本気で言ってます?」
 氷河の背へまわした指先が、長く伸ばされている金髪をぐいと強く引いた。痛みで氷河は小さく唸る。
「わたしの目を見て、もう一度言ってみせて。『俺なら何かあっても』?ほら、言って、氷河」
 触れる指の強さに反して、言葉だけはひどく甘く優しげな色で囁かれる。愛を囁いているかのような甘い色の求めに応えるための言葉を探していた氷河は、何度か瞳を瞬かせた後に、それを放棄してふいと視線を逸らせた。

 氷河がそうすることはわかっていたのだろう、しばらくの沈黙の後に、髪へ強く絡めていた貴鬼の指がふ、と緩められる。
「……いつまでたってもあなたは変わらない。わたしが哀しむとは考えないんですね。ひどいひとだ、本当に」
 貴鬼が絶やさず頬へ張り付かせている穏やかな笑みはすっかり失われて、冷たく凍り付く双眸が氷河を見つめている。
 怒っているように見えて……深く傷ついている瞳だ。意志に反して無理矢理連れ戻されたことへ感じていた怒りは、居心地悪さへと変わり、氷河はますます貴鬼の視線から逃れるように横を向く。

 そんな彼の様子を青年は冷たく見下ろし、やがて溜息をつくと、また元通りの穏やかな表情を頬へ貼り付けた。
 ほんとに困ったひとなんだから、と溜息混じりの声は、だが、愛しさを抑えきれずにそっぽを向いた頬に押し付けられた唇の間で消える。
「ほんの少しでいいんだ。一人で何でも突っ走っちゃわずに、もう少し俺を頼って……お願いだから」
 氷河が、幼い弟子を持つ自分のことを巻き込むことは決してないだろうと知りつつ懇願せずにはいられない。
 あまりに彼は戦士として孤独に生きすぎるから。
 案の定、氷河はますます困ったように視線を逸らし、貴鬼の望むような首肯は決してしない。
「お前だって、俺と同じ立場だったらきっとそうする。俺はただ聖闘士であることをやめたくないんだ。万一の危険だって……さ、さっきのは少し言い過ぎて悪かったが……だから、常に覚悟はしていてくれ」
「わかってるよ。あなたの気持ちはわかってる。だからいつもは止めたりしないよね?本心でどれだけ心配してても、ちゃんと氷河の意志を尊重してるよね?だから、その俺が初めて止めたんだから……一度くらい俺のお願い聞いてよ。あそこは今、本当に本当に危険なんだ。命を失うよりずっと酷いことになりかねない」
 黄金聖闘士を十二人揃えるべく、邪神は躍起になって各地へ刺客を差し向けている。
 既に何人か、邪神の甘言へうかうかと乗って──それとも肚に何かを隠して──あの塔へ参じていると言う。
 貴鬼の元へも『アリエス』は邪神へ下るのか楯突くのか真意を問う使者が矢のように寄越されている。
 こんな状況で、『アクエリアス』を纏う力を持つ氷河が魔の結界の内側へ入るなどと……簡単に膝を折る氷河ではないからこそ、もたらされるであろう結果が恐ろしい。
 ただでさえ、アクエリアスの聖衣は意志が強く簡単には誰にも纏えず、邪神もその扱いに手こずっている、と聞く。聖衣そのものの意志を呪術で捻じ伏せようとしている、というのに、そんなところにのこのこと氷河が顔を出したなら。
 聖衣の意志を捻じ曲げるより、簡単に屈しないとはいえ纏う人間を操る方がよほど容易い。どんな酷い拷問の末に洗脳されるか、想像するのもおぞましい。
 わかっているのかいないのか、そんな中に自ら飛び込んで行くことほど無謀なことはない。
 小宇宙が燃やせない傷ついた身体を以前と同じように酷使する氷河は、貴鬼にとっては己を鍛えるための原動力であったが、また同時に長年の頭痛の種でもあった。

「氷河……いいことを教えてあげる」
 暗く重い雰囲気を振り払うように、貴鬼が不意に顏を上げた。
「新しいペガサスを見たんだ、俺」
「……え?」
「似てたよ、少し……星矢に。真っ直ぐな感じがね。でも、そうだな、まだまだ粗削りで……どこかまだ肚が据わってない不安定な感じはしたかな」
「ペガサスを継ぐ者が現れたのか」
「誰だと思う?…………羅喜が言ってた。新しいペガサスの名は───『コウガ』だってね」
「光牙……?」

 忘れるはずもない名前だ。
 そうか。
 星矢が守り、そして、女神が育てていたあの子どもが、ついに『ペガサス』に。
 自分達が辿った道を、再び歩く者が現れたのか。

 それは確かに希望と呼べるもの。
 戦えぬ理由をもつ戦士の代わりに、若き新しき聖闘士が。
 そうやって戦士の覚悟を受け継ぎながら、女神の聖闘士というのは神話の時代より、連綿とその存在を繋いできたのだ。

 女神を欠いたこんな状況で繋がった『希望』がどんなふうに育ったのか確かめてみたい、という思いが氷河の中へじわりと生まれた。



 氷河は大きく息をついた。
 すぐにでも再出立したい、と、森の中にいた時からずっと漲らせていた緊張感が、今ようやく解ける。その様子に貴鬼もふーっと長く大きな息を吐いた。
「少し頭に血が上っていた。……悪かったよ、貴鬼」
「氷河のバカ……無茶ばっかりするんだから」
「お前もだろう?時々お前の小宇宙が爆ぜるのを感じるぞ」
「俺はちゃんと色々考えてるもん。なんたってムウ様の弟子だよ」
「……それは……俺だけじゃなくて我が師にも失礼だろう」
「あれっ。そんなつもりじゃなかったのに……変だな。カミュにだけは謝っとかなきゃ」
「俺にも謝れよ!」
 額で小突き合って二人はようやく初めて笑みを交わした。
 二人だけでいるときは、師がまるでまだ生きているかのような何気ない口調で、それはしばしば会話へ上る。
 否。
 生きているのだ。
 二人の心の中には、今もまだ。
 言葉無くして伝わる思いが、二人を強く結びつける。


「氷河…」
 何かを誘う、熱に上ずる声が名を呼んで、背中へ回した指に力が込められた。氷河は、チラリと視線を貴鬼の背の奥へやった。隣の部屋で眠っているであろう存在が気になるのだ。
「貴鬼、ここでは……」
「『ここでは』?」
「……ま、まずいだろう……」
「どうして?」
「どうしてって……それは……そう、だろう……」
 歯切れ悪く逃げを打つ氷河の頬に貴鬼の片手が添えられる。
「氷河が声を出さなきゃいい」
 氷河の唇に温かな体温が下りてくる。
 だめだ、と抵抗する声は重ね合された唇に押しつぶされて消えた。
 唇を挟んでちゅく、と吸い上げると、突っ張られた腕の、形ばかりの抵抗もすぐに弱まる。
 下唇の端から輪郭をなぞるようにゆっくりと舌で舐め上げ、逆の端に辿り着くと今度は上唇へ移動して同じ動きを繰り返す。
 いくらもしないうちに、氷河の唇が薄く開いて、は、と熱い吐息が漏れた。
 艶めかしい赤い舌が、同じように赤い唇の間でチラチラとさそうように蠢いている。
 唇から少しずつ内側へと辿る舌が深くなる。
「氷河、ここ、また噛んだでしょう。血の味がする」
 だめだよ、と叱るような口調で囁かれ、強く噛みしめて切れた粘膜をぞろりとなぞられ、氷河は微かに呻いた。
 だが、咎める動きは一瞬で過ぎ去り、再び、ぬめぬめと生き物のように動く舌が、氷河のそれに絡められる。
 ぴちゃ、と響く音に次第に息の上がり始めた氷河の腕はもはや縋るように貴鬼の首にまわされるばかり。

 一年の大半は誰かに名を呼ばれることも、自分以外の体温を間近に感じることもほとんどない生活だ。ばかりか、眠っているときですら常に張り詰めていて、氷河の神経が休まることはほとんどない。
 だが、彼が作り出す結界の裡でだけは束の間の安寧の時間が氷河にもたらされる。
 柔らかく耳を打つ声と、温かな体温と、休息と。普段手放しているものを一度にすべて与えられて、氷河はその一つ一つを愛おしむように夢中で貴鬼の口づけに応える。
 貴鬼の手が氷河の膝の上へ置かれた。
 それが膝と内腿の間をゆっくりと往復する動きに、氷河の目の縁が薄赤く染まる。直接の刺激はなくとも、何度も刻みつけられた愛撫の記憶に躰も心も簡単に高まってしまう。
 は、と漏れる吐息に唇を解放した貴鬼は、美しく輝く金髪の間で赤く染まった氷河の柔らかな耳朶を、カリ、と噛んだ。堪らず氷河が小さく息を飲む。
 貴鬼は、内腿を撫でていた手をさらに上へと滑らせる。偶然の体を装って触れられたそこは既に熱い。
「ああ……『ここでは』なんて言ってたくせに、キスだけでもうこんなに感じちゃったんだね。あなたはなんてかわいいひとだろう」
 自覚して、だからこそ羞恥に身を縮ませているのに、意地悪く言葉にしてしまう貴鬼が小憎らしくて仕方がない。
 なのに、甘く鼓膜を震わせる囁きに、背筋がぞくりと震えた。

「声、出さないようにできる?」
 疑問の形を取って示された、行為の始まりの合図に氷河にはもう微かに頷くことしかできない。