寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
Ω時間の直前。


◆聖夜にダイヤモンドダストを◆

「あっ氷河様だ!氷河様───!」
 黄色い、というよりさらに甲高い幼な子の声がはるか前方に見える塔の高いところから降ってくる。
 窓からずいぶん身体を乗り出して、ぶんぶんとこちらに向かって手を振る姿に、氷河は、おい、危ない、と届く距離でもないのに思わず手を差し出す。
 その手を何と誤解したのか、小さな影はさらにぐっと伸びをし───窓枠から膝がのぞいたかと思うと、ぐらりとバランスを失ってその身体は木の葉のように空中へと舞った。
「羅喜!!」
 一瞬にして顔色を失った氷河は、手に携えていた荷をその場へ放り出し、すばやく乾いた地面を蹴った。
 常人の脚力であればとうてい届くはずのない距離を一瞬で詰め、慌てて広げた両腕のほんの数センチ上空で、小さな身体はピタリと止まった。
 そのまま羅喜はくるりと自分で回転し、ふわりと柔らかな着地を決める。
「えへっ。氷河様、驚いた?」
 幼いながら念動力を操る彼女はこうやって時々氷河を驚かせてはいたずらっぽく笑うのだった。知っていたのにまたひっかかったな、と氷河は苦笑して、素直に頷きを返した。

「羅喜」
 いつの間にか塔の入り口に立っていた背の高い青年が窘めるように呼ぶと、ひゃっと羅喜は飛び上がって氷河の後ろへと隠れてしまった。
「そんなふうに力を使うのではないと何度言ったらわかるのです。第一、それがお客様をお迎えする態度ですか? わたしは、氷河が見えたら教えるように、と言っただけであって、誰が驚かせなさいと」
「貴鬼」
 滔々とお説教を並べ立てる青年を、今度は氷河の方が窘める声で止めた。
「いいんだ、毎回同じ手にひっかかる俺が悪い。それに今日は……ほら、特別だ。あまりそう叱ってやるな」
せっかくのクリスマスなのだから、な?と後ろへ隠れた赤毛を撫でてやるほんのり冷たい手に、羅喜はくすぐったそうに笑った。
 しかしすぐに、師を神妙な顔で見上げる。
「ごめんなさい。お師匠様」
 くりくりとした萌葱色の瞳と、切れ長の空色の瞳にじっと見つめられて、貴鬼は小さくため息を漏らした。
「……せめて氷河の荷物は羅喜、あなたが取ってくるのですよ」
「はい!なのだ!」
 師の言葉に嬉しそうに頷いて、氷河が放り出してきた荷のところへ羅喜は駆けていく。

「素直で可愛いじゃないか。ガミガミ叱らなくてもちゃんとしていいことと悪いことの区別はついているさ」
「あなたを驚かせるのは『していいこと』?あの子はどうもあなたに対して甘えすぎているというか……何がおかしいんです?」
 美しい金髪を震わせてくっくと笑い声を噛み殺している氷河に、貴鬼が不本意そうにその顔をのぞき込む。
「いや、お前がちゃんと『師匠』してるのがおかしくて……」
「笑われるほどひどい師ではないつもりですが」
「違う、逆だ。想像以上にいい『師』だから、つい、な」
「……そっちの方がひどいじゃん」
 拗ねたように頬を膨らましてみせる貴鬼の表情が幼いころの面影と重なり、思わず氷河は笑みを頬へ残したまま、よしよし、とその頭を撫ぜた
 羅喜へしたのと同じやり方で慰められたことに、貴鬼は一つ咳払いをして表情を引き締めると自分の髪を撫ぜている手首を掴んで止めた。
「……覚えておいてくださいね。後で泣いても知りませんよ?」
 途端にさっと氷河の頬に朱が射す。
「な、何言って……子どもがいるのに……。今日はそういうのはナシだからな」
「おや。わたしは具体的にはまだ何も言ってませんが。……何か期待しました?」
「……っ!」
 至極もっともな指摘に、さらに氷河は赤くなって視線を逸らす。
 その氷河にとっては助け船、羅喜が両腕で氷河の荷を抱えて駆け戻ってきた。
 氷河様!と呼んで、見上げる純粋な瞳に、氷河はますます視線を狼狽えさせる。怪訝な顔で師へ視線を移した羅喜に、貴鬼は満足げに微笑み、塔の内部へと身体を傾けた。
「さあ、中へ。氷河、来てくれて嬉しいです。ようこそ……ジャミールへ」
「あ、ああ……」
 羅喜が嬉しそうに、師と氷河の手を取る。氷河様、今日三人で一緒に眠ろうな!と言うに及んで、氷河は絶句し、貴鬼は小さく吹き出した。


 氷河様、あのね。
 それでね、氷河様。
 日頃、師以外とあまり口をきく機会のない羅喜は氷河へくっついたまま、ひっきりなしに話しかけている。
 氷河の相づちはごく短く、ああ、とかそうだな、とか実に頼りないものなのだが、それは羅喜の興奮を落ち着かせるのには役立たないようだ。普段と違う客(それも大好きな氷河だ!)がいる、というだけで嬉しいのに、折しも今日はクリスマスイブ。
 これではしゃがない子どもがいるわけない。
 クリスマスの絵本を引っ張り出してきては、アレコレ話しかける羅喜に、氷河が、そういえば、と自分のデイバッグを引き寄せた。
 中から小さな箱を取り出して羅喜へと渡してやる。特別な包装などされていない、ただの白い箱に羅喜が問いかける瞳で氷河を見返す。
「?何が入ってるのだ?」
「開けてみるといい。新品でなくて悪いが」
 氷河の言葉がなくとも、角が丸く削れた古い箱の外観から、ずいぶん年季が入ったものだと知れ、羅喜は壊してしまわないように、とおそるおそる箱の蓋を持ち上げた。
「!!これ、本物のクリスマスだ!」
 そこへ納められていたのは色とりどりのオーナメント。サンタの人形、ろうそくの飾り、ピカピカ光る電球、ひときわ大きなお星さま。
「おししょ───っ!氷河が本物のクリスマス持ってきてくれたのだ───!」
 羅喜は額の上へ箱を乗せたかと思うと、飛び跳ねるような足取りで扉を開いて廊下へと飛び出していく。
 廊下の向こう、キッチンで忙しく立ち働いている貴鬼の元へ飛んでいったのだろう、興奮のあまり敬称をつけることも忘れて、氷河が、氷河が、と連呼している声が聞こえる。
 羅喜のはしゃぐ声が治まりきらないうちに、貴鬼が慌てた様子で腰へ巻いていたエプロンで手を拭きながら、氷河の元へとやってきた。
「氷河、あれ、まさか、」
「うん。この間シベリアへ戻った時に取ってきた。まだ残してあってよかった。あんなに喜ぶならクリスマス当日じゃなくてもっと早く持ってきてやればよかったな。来年は少し早く出してやるといい」
「氷河……駄目だよ……もらえない……」
 あんな大切なもの。
 古ぼけた箱の外装から、いつごろ、誰が、どんなふうに使っていたものかということは聞かずとも容易に知れた。師が優しく見つめるそばで、樅の木にオーナメントを吊るしては笑い合う二人の弟子の頬が暖炉の炎に赤く染まっている様子までが見えるようだ。
 『三人』で過ごした時間の大切な思い出の品を、などと。簡単に受け取れるわけなどない。

「いいんだ、貴鬼。俺はもう使うことはないだろうから。あんなに喜んでいるのに取り上げては可哀相だろう?」
「氷河……」
 貴鬼は思わず氷河を抱き寄せた。
 このひとには、いつもこうして、ものすごく堪らない気持ちにさせられる。
 彼にとって何ものにも代えがたいほどの、大切な心の欠片であっても、他の誰かの笑顔のためならあっさりと手放してしまえる、その欲のなさに。
「き、貴鬼……っ!」
 廊下ではしゃいでいる声が気になって、慌てて肩を押し戻そうと小さな抵抗を返す耳元で貴鬼は言い聞かせるように囁く。
「これはいただけません、氷河。……でも、ありがたく預からせてもらいます。毎年ここで飾るから、飾っている間はどうかあなたも必ず一緒に居てください。……いいですか?」
 扉の向こうから、お師匠様、これはどこに飾ればいいのだ、という声が近づいてくる。氷河はますます慌てて、貴鬼の肩を押すのだが、強い力で包み込むように抱きしめられた腕は容易にはふりほどけない。
「……っ。」
「氷河、返事を聞かせて欲しいのですが」
「わ、わかった、わかったから早く離れろ……っ」
約束ですよ、と貴鬼が氷河の身体を離したのと、羅喜が扉を開けて飛び込んできたのは同時だった。

「どこに飾ろう!?」
「そうですね、うちのツリーに飾るには少し大きいようですし……何より特別なものですから別にしておきましょう。かといって樅の木をこれから調達するのは……氷河、どう思います?」
 まだほんのりと赤い頬をしている氷河の顏をしれっとのぞき込む貴鬼を氷河は恨めしそうに睨む。
 だが、すぐに、羅喜の方へと首を傾けて笑みをみせた。
「窓辺へ飾ればいい。俺が手伝ってやろう」
「わあい!氷河様とクリスマスなのだ!」
 羅喜は念動力で自分の周りへとオーナメントを浮かせ、まるで自分自身がツリーになったかのようにくるくると回ってみせた。

 キッチンへ戻った貴鬼をのぞき、氷河と羅喜は二人、床へ広げた白い大きな紙へ、樅の木の絵を描く。
 即席のツリー作りだ。
 樅の木はなくとも似たような木でもあれば足りると、オーナメントしか持ってこなかったことを氷河は少し後悔していた。
 あまり気に留めたことはなかったが、ジャミールは植生帯が違うのだ。標高が高いため、背の高い木はほとんど生えていない。高山植物ばかりの景色に、木の一本や二本くらい、と軽く考えていたことが悔やまれた。
 だが、羅喜の方は嬉しそうだ。
 初めての「クリスマス」らしい。
 ジャミール地方ではクリスマスを祝う習慣はないのだそうだ。文化や宗教が違うのだから当然だ。
 昨今は、異教徒であっても、盛り上がるイベントとしてクリスマスを楽しむ傾向が世界中で広がっているが、世俗と隔絶された空間のこの地方にまではまだ西洋化の波は広がってはいないようだ。
 だが、絵本を通じて「クリスマス」というものを知った羅喜はすっかりサンタさんを信じてしまったらしい。
 うちは「クリスマス」はしませんよ、と言ったにも関わらず、こっそりとサンタさんが来るまであと何日、と指折り数えている幼子をもてあました貴鬼から氷河がSOSを受け取ったのが二週間ほど前。

 緑色のクレヨンを叩きつけるように白い紙へ走らせている羅喜に、氷河がさりげなく問う。
「サンタさん、くると思うか?」
「来るのだ。よい子にしてたら世界中どこへでも来てくれるって絵本に書いてたのだ。だからお師匠様のこといっぱいお手伝いしたのだ!」
「サンタさんには……えー……何を頼んだ……?」
「内緒なのだ!」
 そう、貴鬼がもてあましていたのがまさにこれだ。
 「クリスマス」自体は、氷河が来るからそのもてなしに、という理由をつけて祝ってやることにしたものの、肝心のサンタさんへのお願いを教えてくれない。
 何が欲しいかわからないままに、毎日朝から晩まで「良い子」で過ごされて「サンタさん」は非常にプレッシャーを受けた。
 羅喜に聞くと、「サンタさんにはテレパシーで送っといた。お師匠様には内緒なのだ」とくる。
 貴鬼としては、「受信してませんよ……!」ということで、ほとほと困り果てたらしい。
 ここのところ取り澄ました顏ばかりしか氷河に見せずに翻弄していく年下の青年が、突然現れて、氷河ぁどうしよう、と懐かしい表情で弱音を吐く様子がおかしく、俺が役に立つかどうかわからんが、とこうして出向いたというわけだ。


 窓辺の出窓のところへは、貴鬼が手作りしたらしい、小さなツリーが飾られている。
 オーナメントの代わりに、折り紙で作った星やサンタなどが吊るされている。折り紙はきっと星の子学園で覚えたのだろう。俺はあんまり『クリスマス』らしいクリスマスを知らなくて、と氷河を頼ってきた青年が、もしかしたら最初に祝ったクリスマスがそんな風だったのかもしれない。
 8歳で師と別れ、別れる前の1年ときたら、クリスマスどころではない激動の1年だった。
 師と別れた後に彼一人のために特別に祝われたクリスマスが何度あっただろうか。自分が過ごしてきた、温かなクリスマスの思い出と対照的な彼の少年期に思いを馳せ、そんなことにも気づいてやれなかった、と氷河の胸が軋む。
 一人でクリスマスを過ごしていた氷河が、そういえば貴鬼は同じく一人でクリスマスをどう過ごしているのだろう、と気づく余裕ができた時にはもう彼はサンタさんを信じているような子どもではなくなっていた。
 『クリスマス』を知らなくて、というのは、きっと単に文化や宗教の違いだけではないはずだ。彼の師が生きていたなら、あるいは……。

「氷河様?どうかしたのか?」
 手が止まってしまった氷河の顏を、小さな彼の弟子が不思議そうにのぞき込む。
「いや、なんでもない。羅喜が『クリスマス』をしたいと言ってくれて嬉しいなと思っていたところだ」
「!えへへ。氷河様もクリスマス、好きなのだな?」
「そうだな……一年で一番好きだった」
 誕生日よりも。
 朝、師よりもずっと早く目が覚めて、アイザックと二人、ベッドの中で包みを開ける時のあの胸の高鳴りを今も覚えている。先生、サンタさん来たよ!と告げた時の、師の優しげな微笑も。
 忘れかけていた温かな気持ちが胸へ溢れ、氷河はもう一度、うん、好きだった、と頷いた。

 紙に描いた樅の木を窓辺へと貼って、そこへオーナメントをテープでさらに貼りつける。
 氷河の知るツリーとはずいぶん違う不格好なものだが、電球のスイッチを入れてピカピカと光らせてやると、どことなくクリスマスのような雰囲気にはなった。
 赤に青に黄色にと様々な色に揺れる光に、羅喜の目もきらきらと輝く。
「これならサンタさん、道に迷わず来れるのだ」
「そうだな。きっと来ると思うよ」
「うん!氷河様、ありがとう!!」
 氷河自身も、その電球が瞬くのを見るのは何年ぶりだろうか。お師匠様、見て見て、と飛んでいく羅喜の姿は幼き日の兄弟子の背と重なり、じんわりと瞳の奥が熱くなった。

**

「氷河、替わるよ……あれ」
 羅喜の部屋の扉を何気なく開けば、ベッドサイドで慌ててしっと唇に指を立てる氷河の姿が目に入った。
「もう寝ちゃった?」
 貴鬼はそっと部屋の中へ身体を滑り込ませておいて、憚るように低く落とした声で聞く。
「ああ、絵本を一冊読み終わるのが待てなかったみたいだな。ずっとしゃべりっぱなしだったのが急に途切れたからどうしたのかと顏を見たらもう寝ていた。眠りに落ちる瞬間までしゃべってたぞ」
 氷河も同じように声を落としながら密やかに笑った。
 羅喜は食事の間もずっと興奮気味に『サンタさん』の話をしていた。
「クリスマスの料理なんて作ったことがないのですけど」
 と、いうわりに、手先が器用な貴鬼が用意した晩餐は、きちんと「絵本に出てくるような」それらしい食卓だった。
 ターキーにジンジャークッキー、ポテトとビーンズのサラダ、シュトーレンに、ユールムストにブッシュドノエル……混沌とした多国籍ぶりは世界中どこへでも簡単に飛び回る彼らしさの顕れ。 クリスマスの料理、というものがわからずに、知る限りの「クリスマスらしさ」をかき集めてみたのだろう。
 こんなんで本当にいいんですか?と困ったように氷河を窺う貴鬼に、嬉しさのあまりじっと食卓に着いていられずにぴょんぴょんと椅子の上で座ったまま跳ねている羅喜を氷河は目で指し示した。それが全ての答えだ。

 楽しげな聖夜の晩餐が終わって、夜が更けていくのに、羅喜は一向にベッドへ入ろうとせず、「サンタさんが来るまで起きてるのだ」と言い張り始めた。
 その上、今日は三人で寝る、と譲らない。
「良い子にしていないとサンタさんは来ないのでしょう?」と貴鬼が怖い顔を見せると、一瞬、迷うような瞳を見せたが、それでも、いやだ、三人で、と半べそで訴える。仕方なく、羅喜の部屋のベッド脇の床へ貴鬼がマットレスや布団を2組運び、並べてみせるとようやく安心したようにベッドへと入ったというわけだった。

「すみません、氷河。来てからずっと子守ばかりさせていて。うるさかったでしょう?」
 氷河は、いや、と言いかけて一瞬言葉に詰まり、うるさかった、と苦笑して続けた。
「新鮮だった。小さくても同じ人間とは思えないほどしゃべるのだな、女の子というのは。でも……久しぶりに楽しかったよ。毎日だと俺は参るかもしれないが」
「……毎日相手してる人間に向かってそういうこと言う?」
 ははっ悪い悪い、と悪びれなく笑った氷河が、運び入れていたデイバッグをずるずると引っ張り、中から小さな包みを取り出した。
 こちらは昼間のオーナメントとは違い、赤と緑のクリスマスカラーで可愛く包まれている。
「ほら、頼まれてた『サンタさん』のだ。こんなのでいいのかどうか俺も自信がないが」
 氷河から包みを受け取って、貴鬼はほっと安堵の表情を見せた。
「よかった。ありがとう、氷河。助かった。何を頼んだか教えてくれないんだもん。本人がいる前で長々と買い物するわけにもいかないしさ」
「……本当に俺も自信はない。頼んだものとずいぶん違ってがっかりさせるかもしれないが」
 とは言いながら、自分自身の経験から、サンタさんにもらえるならどんなプレゼントでも嬉しかったことを氷河は知っている。中身を知らない、くれた人の顏を知らない、当日になるまでもらえるかどうかわからない、アレは、そういうワクワクした気持ちを楽しむイベントなのだ。

 貴鬼はそっと、羅喜の枕元へとそのプレゼントを置いてやる。よほど楽しい夢を見ているのか、羅喜の口元が笑ったまま開いているのに、二人で顏を見合わせてくすくすと笑った。


「貴鬼、ここは塔の上へは出られるのか?」
「?ええ、出られますけど……?」
「今出てもいいか」
「いいけど……夜はさすがに冷えますよ」
 悪戯っぽく笑う氷河を怪訝に思いながら、貴鬼は先に立って、塔の上部へと案内をする。

 外気とのあまりの温度差に重く抵抗を返す扉をゆっくりと開くと、確かに標高の高い空気は冷たく凍えそうなほどだった。
 だが、氷河にとっては寒いうちに入らないのだろう。薄い夜着のままスタスタとそのまま塔の端へと歩いて行ってしまうのを、貴鬼の方は僅かに震えながら追いかけた。
「一体何です?」
「さっきのは『サンタさん』からだろ。俺からも、と思ってな」
 塔の端へ立った氷河はそう言って、暗闇の中でも美しく光る白い小宇宙を薄布のように体へと纏わせ始めた。
「氷河!何をするんです!」
 慌てて貴鬼は氷河の腕をとる。薄い夜着の下で、ぼう、と魔傷が昏い焔を燃したのが見えた。
「大丈夫だ、少しだけ」
「駄目です!ほんの少しでもあなたの身体に障ります!」
 強く叱るような声を出す青年の肩に、心配するな、と宥めでもするかのように白いものがふわりと舞った。ふわり、ふわりと、闇に光を届ける花のように次々と美しい結晶が下りてくる。

「ほら、ちゃんと絵本のクリスマスみたいだろう?」
 そう言って笑う氷河の金の髪へも白い花が次々と咲いてゆく。

 標高はそこそこあれど、乾いた空気のジャミールでは、雪が積もることはそう多くない。それが、クリスマスの朝に積もったとなれば、それはもう羅喜は喜ぶだろう。

 でも、だからってあなたの身体を損なってまで。

「そんな顏をするな、貴鬼。何も辺り一面銀世界にしようっていうんじゃない。塔の周りへ少しだけだ」
 貴鬼が強く掴んで止めた制止などものともせずに、氷河の指先からきらきらと生まれ続ける六花は、星空へ舞い、やがて重力に従って、ゆっくりと地上を目指す。彼にそんなことをさせては駄目だ、と思うのに、その光景はあまりに美しく貴鬼の心を奪う。

「あなたってひとは……」

 貴鬼は氷河の身体を後ろから包み込むようにそっと抱き締めた。ピタリと身体をくっつけ、腰へ腕を回して、肩へと顎を乗せ、貴鬼自身も小宇宙を高める。
「せめてこのくらいはさせてもらうから」
 氷河の小宇宙へ同調するように燃やされた小宇宙が、彼を癒すようにゆっくりと氷河の中へ流れ込む。
「……ああ……あったかいな、お前の小宇宙は」
 労わるように魔傷の上をゆっくりと往復している腕までもが温かく、氷河は気持ちよさげに目を閉じる。
「俺は寒いよ、氷河。短い間しか駄目だからね」
 貴鬼の方は拗ねた声で肩へ乗せていた顎を傾けて、氷河の髪へと鼻先を突っ込んで、冷たく冷えた耳朶を噛んで抗議の意を伝えた。
「……っ」
「こんな無茶して……後でお仕置きだからね、氷河」
「きょ、うは、三人で寝る……と……」
「あれっ。お仕置きと寝ることとは関係ないはずだけど、また何か誤解しちゃった?俺、もしかしてよっぽど期待されてる?期待に応えた方がいい?」
「っ!!……っまえときたら……可愛くなく育って……こ…の!」
 顔を逸らして身を捩る氷河に、貴鬼は腹の前で組んだ腕の拘束をますます強め、俯いて声を落とす。
「……嘘、ごめん、氷河。来てくれてホントに嬉しかった」
 しゅん、とうなだれた尻尾が見えるような殊勝な声に、氷河の動きも止まる。
「俺は……お前も喜ぶかと思って……。今更、だったな。もっと早く、お前が子どもだったうちに気づいてやるべきだった」
「ううん。ありがとう。……大好き、氷河。ねえ、キスしたい。してもいい?」
「……聞くのか?それを」
「だって今、可愛くなく育ったって氷河怒ったもん」
「お前がからかうからだ。……ほら」
 氷河は再び身を捩った。
 今度は逃れるためではなく。
 貴鬼の方を見上げるように振り仰ぐ細い顎を捉えて、貴鬼はそっと唇を重ねた。
 冷たい空気の中、触れ合うところだけは温かい。混じり合った小宇宙が唇からも互いの体内を行き来して、まるで二人の身体が一つに融け合ったような錯覚に陥る。
 甘く痺れる感覚を追いかけてさらに深く、と追い求めれば、少しく無理な姿勢で振り向いていた氷河の喉が苦しげに鳴った。
 ハッとして、貴鬼が捉えていた顎へかけた指を離すと、氷河ははあ、と酸素を求めるように息をつき、貴鬼の腕の中でくるりとその身を反転させた。向かい合うように立った氷河の薄い色の瞳に星々の瞬きが映っている。綺麗だ、と見惚れる間もなく、瞼が閉じられて、再び唇の上へ柔らかな温かさが触れた。

**

 ここはどこだ。
 目を開いてすぐに飛び込んできた見慣れぬ景色に一瞬氷河の意識が混濁する。
 ピンク色だの花柄だのがあちこち目につくずいぶん可愛らしい部屋だ。自分には無縁の世界に氷河は何度も目を瞬かせた。
 ぐるりと体を反転してみれば、すぐ間近に見慣れた精悍な横顔があって、思わず声を上げそうになる。

 そうか。
 羅喜の部屋で寝たのだった。
 まだ夜は明けきる前なのだろう。薄闇がまだ部屋の中へ漂っている。ベッドの上からは寝息。隣へ眠る青年も目を覚ます気配はない。

 氷河はほっと息をついて、二人より早く目が覚めたことを安堵しながら、自分のデイバッグはどこへやったかと手探りで探す。
 と、頭の上へと伸ばした手の先へ、カサ、と紙が擦れる音と感触があった。

 なんだろうと不審に思い、横着するのをやめて片肘をついて上体を起こして目を凝らす。

 小さな包み。
 緑色の包装紙に赤と金色のリボンで飾られた。


 ええと。

 思わずしっかりと起き上がって布団の上へと正座をしてしまう。

 俺に、か?

 こちらの方へ身体を傾けてやや背を丸めて眠っている青年の横顔をチラリと見つめる。

 参ったな……この年になって『サンタさん』が来るとは。

 だが…と、氷河の口元へ薄く笑みが上る。
 今度こそ、正しく自分のデイバッグを引き寄せて、氷河はその中を探った。そして、目的のものを探り当てるとゆっくりと取り出した。こちらもやはり同じようなクリスマスカラーの包装が施してある。

 同じことを考えていたとは。

 少し愉快な気持ちで氷河は腕を伸ばし、それを貴鬼の眠る枕元へと置こうとした。が、置く瞬間、はた、と悩む。
 羅喜へのプレゼントより若干包みが大きいのだがいいだろうか。
 今更悩むようなことではないことなのだが、実際に渡す段にならないと気づかないことも多いものだ。大きさはこうなったが値段は羅喜あての方がやや張ったのだが、子どもにはそんなことは関係あるまい。 これを置いたがために羅喜ががっかりするようなことがあっても可哀そうだ。となるとここへ置くより、後で直接こっそり渡すべきなのか?
 いやしかし。
 俺に「サンタさん」が来た以上、貴鬼だけ来てないのも羅喜は不審に思いやしないか。

 動きを止めたまま考え込んでしまった氷河の腕に、不意に温かなものが触れ、氷河は思わず悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで堪えた。
「……置くか引っ込めるか早くどちらかに決めてくれないと眠ったふりも長くなるとつらいです」
「おっ起きていたのか」
 声を潜めて、柔らかく手首を掴んでいる青年を振り返ってみれば、彼はぼんやりと生まれ始めた朝の光を頬に浴びて、はにかんだように笑った。
「なんか興奮して眠れなくて。クリスマスの朝って、なんかドキドキするんだね。贈る方も」
「『贈られる方』をお前に味わわせてやろうと思ったんだけどな」
「もう十分味わったよ。嬉しい。俺にも用意してくれたんだね?」
「つまらんな。起きて驚くところが見たかったのに。それが『贈る方』の醍醐味だろう」
「あのね、俺のこと何歳だと思ってんの。子どもみたいにはしゃいだりはしないよ」
「それは俺のセリフだ。何で枕元へ置くんだ、お前も」
「え?あれえ?それ、俺じゃないよ。氷河にもサンタさん来たんだ。よかったね、昨日はずいぶん素直な『いいこ』だったもんね?」
「……っ!お前な!」
 潜めていた声が一瞬高くなり、その気配のせいでか、ベッドの上でうーんと身じろぎをする声がした。
 慌てて貴鬼は氷河の腕を離し、氷河の方も咄嗟に投げるように包みを貴鬼の枕元へと置くと、自分の布団へと飛び込むように潜って息を潜めた。

 既に部屋へ漂っていた薄闇は姿を消し、白い光が柔らかく満ち始めている。
 ベッドの上でもぞもぞと動いていた気配はやがて、はわわ!という息を飲む音へと変わった。衣擦れの音で、息を詰めている二人の方向へ体が向いたことがわかる。
「お師匠様にも……氷河様にも……」


「……来た……!サンタさん、来たのだ……!」
 確認するように呟いた後は、キャーッという歓声へと変わった。
「来たのだ、来たのだ、本当にサンタさん来たのだ!」
 ぴょんぴょんとベッドの上へ飛び跳ねる気配に、もう頃合いか、と二人は同時に目を開く。
「あっ!お師匠様!氷河様!見て見て、三人ともにだよ!サンタさん!!」
 羅喜はリボンのかかったままの包みを胸へ抱いて、ベッドの上でくるくると宙返りをしてみせる。
「すごい!すごい!サンタさんのところに本当に羅喜のお願い届いてた!」
 片手をついて身を起こした貴鬼が少し不安そうに、羅喜へと声をかける。
「『お願いしたとおり』とは限りませんよ?サンタさんは羅喜が頼んだものとは違うものをくれたかもしれません」
「ううん!合ってるのだ!」
 まだ包みを開く前からきっぱりと断言するのに、氷河と貴鬼は顏を見合わせて怪訝な顔をした。透視能力まではなかったはずだが、と貴鬼がさらに重ねて問う。
「なぜ言い切れるんです?開けて御覧なさい。……あの……違っていても、サンタさんは羅喜のために選んでくれたのですから……」
 あまりにもきっぱりと合っていると言い切る羅喜の姿に、これは却ってがっかりさせたら、と不安になってそんなことをつい言ってしまう。だが、羅喜は貴鬼に言われて素直にリボンに手をかけながら首を振った。
「違うのだ。わたしの分は頼まなかったのだ。だけどわたしにもくれたから、これはきっとオマケなのだ」
「……?頼まなかった……?」
「そうなのだ。『羅喜の分はいらないから、お師匠様にクリスマスをしてください』って頼んだのだ。だから、お師匠様にプレゼントが来たから、サンタさんは羅喜の分のお願いをきっとちゃんと聞いてくれたの……ああっ……髪飾り!」
 夢中でリボンをほどいていた羅喜が、中から現れた髪飾りを手に取って、さらに歓声を上げた。 子どもっぽいピンクや赤のリボンなどではなく、大人の女性向けのデザインの、色とりどりのビジューの散りばめられた髪留めに、はわーとうっとりと羅喜の目が輝く。
 氷河が、気に入ったのか、と聞いてみると、羅喜は何度も首をたてに振った。
「つけてみればいいじゃないか」
「だっ、だめなのだ、こ、これは『レディ』が身に着けるものなのだ」
「大丈夫。君は立派なレディだよ」
 幼くても、自分のことより師を喜ばせようとする思いやりに満ちている君は。

 氷河は柔らかく笑って羅喜に向かって手招きをした。
「ほら。着けてやろう」
 羅喜は、恥ずかしそうにえへへ、と目尻を下げてベッドから下りた。
 まだ寝癖のついてあちこちに跳ねている少し癖のある赤毛を、手櫛で少し整えてやって、髪留めを耳の上へとつけてやる。
 着けてやる、と言ったものの、扱いに慣れない氷河では、ほら、と留めたつもりが少々傾いていたのだが、羅喜はほんのり紅潮させていた頬をますます赤くしてえへへと頬をゆるませた。
「かっ……鏡……を見てくるのだ」
 飛び跳ねるように立ち上がり、しかし、慌てて、しずしずと足を踏み出す。
 ずいぶん長い時間をかけて扉の所へ辿り着いた羅喜はそっと廊下へ姿を消していった。
 なるほど、どうやらあれが『レディ』の歩き方らしい。
 氷河はクスリと笑って、背後の気配へ振り向かないまま手を伸ばし、頭を掻き混ぜるように撫でてやる。
 トン、と軽い音を立てて、貴鬼の額が氷河の背中へ押し当てられた。よしよし、とその頭をさらに撫でてやる。
「負けたな、『レディ』には。あれには到底敵わない」
「……ん……」
「まさか俺次第、だったとは。危ないところだった。ちゃんとお前の分、思いついてよかった」
「……ん……」

 しばらくの沈黙を、ずっと頭を撫でてやって過ごし、そろそろ頃合いか、とゆっくりと氷河は振り向いた。俯いている貴鬼の鼻の頭が少し赤い。
「ははっ。サンタさんにふさわしく赤鼻だ」
「……氷河、鼻が赤いのはトナカイですよ。サンタじゃないです」
「なんだ、お前もちゃんと『クリスマス』知ってるじゃないか」
 そういって笑う氷河につられて、貴鬼もようやく笑い声を上げた。

「氷河……あれ、高かったでしょう」
「ん?ああ……そんなでもない。イミテーションだし」
「ちょっと……びっくりしました」
「何が?」
「あなたは……その……ああいうものを選ばないかと」
「センスがないって言いたいのか?」
「そうは言いませんけど……子どもにあげるにはずいぶんとその……意外な選択だと思ったので」
 感嘆したような声を出す貴鬼に、どうだ、見直したか、と一瞬だけ胸を張って、しかし、氷河はすぐに肩を竦めて種明かしをした。
「本当を言うと俺もお手上げだったんだ。女の子の欲しがるものなんか見当もつかなくてな。だからあれは瞬のアイデアだよ。女の子は年齢以上のものを贈られると喜ぶってアイツが言うもんだから」
 ああ、と貴鬼は合点する。
 あの女性的な、濃やかな神経の行き届く優しい彼であれば、思いつきそうなことだった。氷河じゃあせいぜいお菓子か絵本だっただろう。
 貴鬼が考えていることがわかったのか、氷河がおい、と自分の額を貴鬼の額へとぶつけるように寄せた。
「今、なんか失礼なこと考えてなかったか?」
「……気のせいでしょう」
「言っとくけど、最終的に選んだのは俺だからな。赤毛に映えるようにとずいぶん悩んだぞ」
 女性用の装飾品に囲まれて悩む氷河の姿を想像すればおかしくて、でも、ほんの少し妬けた。

「氷河、ありがとう」
 氷河の頬を挟んでそう言えば、氷河は、ん、と頷いて目を閉じる。二人の唇が重なりかけたその時───
 廊下の奥で、キャーッという悲鳴が響いた。
 咄嗟に戦士の顏になって、ハッと腰を浮かす二人の元へ、さらに届く高い声。
「雪だああああ!」
 ああ、それがあったか、と小宇宙まで既に燃やしていた貴鬼が拍子抜けしたようにすとん、と腰を落とした。

 膝立ちになった氷河が窓へとにじり寄って下を見れば、洗面所の窓から飛び降りたのだろう、羅喜が子犬のように雪の中を転がり回っていた。
「これは氷河様だな!?ありがとう!」
 早速雪をかき集める羅喜の姿に、氷河は手を振って、しかし、うーん、雪扱いが甘いな、とつぶやくと、よし、俺も行ってくる、と言い残し、そのまま窓から下へとひらりと飛び降りてしまった。

 貴鬼が二人ともまだ寝衣で、と止める間もない。

 貴鬼も同じように窓へ膝行り寄って見れば、『レディ』も『いい年した大人』もどこへやら、二人はきゃあきゃあと雪をぶつけあっているのだった。

 その楽しげな声は貴鬼の記憶の奥深くを刺激する。
 自分も師とこんな朝を過ごしたことがあるような気がした。いつも厳しい師が特別ですよ、と笑った朝が。

 雪の白さが眩しく、下で駆け回っている二つの塊が時折きらりと反射した光の中へと消える光景に胸の奥が痛くなり、じんわりと景色が滲んだ。

 サンタさん。
 どこかにいる、おいらのサンタさん。
 何にもいらないんです。
 豪華な食事も、ピカピカ光るツリーも、プレゼントも。
 来年も、その次も、ずっとこの光景を見せてもらえるなら。
 ただ……それだけで、泣きたくなるほど幸せなんです、おいら。

「貴鬼、お前も来い!」
「お師匠様、楽しいのだ!」
 薄着で無茶を言う二人に、貴鬼は親指の腹で目元をぬぐうと、今日だけの特別ですよ、と言って、自分もひらりと雪の上へと飛び降りた。


(fin)
   
(2012.12.24UP)