寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
Ω時間の1~2年前。


◆巡る季節、巡る絆◆

 トスン、という音がして氷河は顏を上げた。
 柔らかな塊が積もった雪の上へ落ちた音だ。今度はドサ、というやや大きな音。 僅かに丸太づくりの小屋が振動で揺れるとともに、窓の外を白いものが地上目がけて横切る。固く凍り付いて、小屋の屋根に分厚くしがみついていた雪が屋根の傾斜を借りて滑り落ちたのだ。
 そういえば、久しぶりに太陽の顏が見えていて、その光に温められて凍り付いていた屋根の雪も緩んだのだろう。
 永久凍土のシベリアに春が近づいてきているのだ。
 屋根の端から落ちる雫が日の光に反射して眩しい。柔らかな光が満ちる春は好きだが、書棚の整理をしていた氷河の手元には乱反射する光が少々きつすぎる。氷河はカーテンを引こうと、分類のために積み上げた本の山を崩さない様に注意しながら、窓辺へと近寄った。
 年季を感じさせるざらついた生地に手をかけ、これも発つ前に一度洗っておくべきか、などと考えながら何気なく氷河は窓の外へ視線をやった。
 まだ分厚く積もる雪の表面が微かに解けてキラキラと太陽を反射するのがやはり眩しく、氷河は目を細めた。
 白くハレーションを起こす視界の中、何かが動いたのを視界が留めた。獣でもいるのかと目を凝らして見やる。
 ───子どもだ。
 こんな、近くに人家などないところで。
 不審に思って、氷河は「保護者」の姿を探した。あんな小さな子が一人でいるはずがない。当然誰かがそばに……いた。雪の中を右に行ったり左に行ったりしている幼子のすぐそばに背の高い栗毛の青年が立っている。
 あれは───

 氷河は軋む扉を開けて、雪の中へと足を踏み出した。
 青年の方でも氷河の姿に気づいたのだろう、首がこちらの方へ傾いたのが見えた。
 融けかかって足元を濡らす雪を踏みしめながら、氷河は速足で二人の方へ近寄って行く。
「どうしたんだ、貴鬼、こんなところで。いくら太陽が出ていてもお前にとってはまだ真冬の寒さだろう」
 それに、その子は一体?と疑問の視線を投げかける氷河に、困ったように雪遊びに興じる幼子を見守っていた貴鬼の表情が、一瞬でふにゃりと崩れた。
「よかったぁ、氷河いた…」
 ここのところ様々な地を巡っている自分を訪ねて来たのなら、このタイミングで、というのは僥倖だった。数日前にシベリアへ帰ってきた氷河はいくつかの用を済ませるとまたすぐに発つつもりでいたからだ。気配を消して、転々と居場所を変える氷河を掴まえるのは空間移動の得意な貴鬼であっても容易ではない。
「俺に用だったのか?」
「用って言うか…」
 そう言って、貴鬼はチラリと足元で雪の玉を作っている幼子へ視線をやった。つられて氷河も足元へ視線を移す。
 いくつくらいだろうか。氷河が初めて会った時のヤコフよりはやや大きいような気がするが、ぷくぷくと丸い頬に笑みを浮かべて、隣へ立つ氷河へ気づかないかのように夢中で雪をかき集めるその姿は、まだ親と長時間離れていられるような年齢ではあるまい。
 萌葱色の瞳、肩の下あたりで揺れる赤毛…それよりも目を引くのは青年と同じ特徴的な引眉。
「………お前の子か?」
「!ち、違うよっ!」
 貴鬼は僅かに声を上ずらせて氷河を恨めしそうに睨む。さらに抗議のために口を開こうと息を吸ったその時、足元で、はっくちん、と小さなくしゃみが起きた。
「ああ、ほら、羅喜。だから風邪をひくって言ったのに…。手が真っ赤じゃないですか」
 そう言って、小さな身体を抱き上げて、冷たく冷え切った指先を自分の手で包む貴鬼の姿はどう見ても……いや、まあ事情があるのだな、と氷河は小屋を指差した。
「まあとにかく話は中でしよう。その子だけじゃなくてお前も寒そうだ」
 うん、と素直に貴鬼は頷いた。その鼻の頭が寒さでほんのり赤くなっている。貴鬼の腕に抱かれて、羅喜と呼ばれた幼子はようやく初めて氷河が視界に入ったようだ。珍しそうにじっと氷河を見つめて、そして貴鬼の耳元で言った。
「あの人、お目々が青いのだ」
 驚いたように目を丸くする羅喜の頭を撫でて、貴鬼は笑った。
「綺麗でしょう」
 何故か自分のことのように自慢げに胸を張る貴鬼の肩を押して、ほら、早く、と氷河は小屋へと足を向けた。

**

 自分一人だけのこと、と火を入れていなかった暖炉へ幾本か薪をくべて火を熾し、氷河はその前へソファを移動させてやった。雪で濡れた服の裾を乾かすように、貴鬼は羅喜を膝の上へ乗せて火にあたる。
「……で?」
 考えた末に二人ともへ温かいココアを入れてやって、カップを渡しながら氷河が問う。
 貴鬼は、しばらくの間言葉を探して沈黙した。
「…羅喜、と言います。羅喜、氷河にご挨拶を」
 さんざん躊躇った末に結局、これと言って説明になっていない言葉しか貴鬼の口からは出てこなかった。
「羅喜なのだ。よろしくなのだ」
 貴鬼の膝に乗ったまま、氷河へ向けてぴょこんと頭を下げる仕草はやはりあどけない。だが、人見知りも物怖じもしないあたり、青年の幼かった頃を彷彿とさせる。
「……血は繋がってないからね」
 氷河の頭の中を読んだわけではあるまいに、貴鬼は唇を尖らせてそんなことを言う。そして、羅喜の穿いているズボンの裾が乾いたのを確認するとそっと膝から下ろした。
 羅喜は床へ足がつくと、ウロウロともの珍しそうに小屋の中を歩き回る。それを横目で見ながら貴鬼はため息をついた。氷河はその隣へ腰かけ、視線は暖炉の炎へやったまま、彼の言葉を待つ。
「少し…事情のある子で…」
 歯切れ悪く貴鬼は言葉を止め、その先を続けることに躊躇いを見せる。氷河は促すでなく、落ちる沈黙をそのままに、チラリと羅喜の方へと目をやった。
 羅喜は今しがたまで氷河が整理していた書棚の前に立っていて、並ぶ背表紙をじっと見つめている。そういえば、アイザックと二人、お気に入りだった絵本を先ほど、書棚の一番上へと収納したところだ。この土地の文字を読めぬ幼子でも絵本なら楽しめるかもしれない、と思いつき、氷河はそれを取ってやるために腰を浮かしかけた。
 が、ちょうどその時、羅喜の方でも、書棚の上の段へ鎮座する、淡い色彩でクマのイラストが描かれている背表紙に目が留まったらしい。自分の背の倍はある書棚を伸び上がるようにして見ていたかと思うと、羅喜は少し迷うような素振りを見せた後に本に向かって手を伸ばした。届くはずない、と氷河が思うより早く、ふわり、と絵本が宙へと浮く。それはそのままふわふわと空中を漂って、ゆっくりと羅喜の手の中に収まった。
 えへへ、と嬉しそうに笑う羅喜の姿に氷河は何度も目を瞬かせ、そして貴鬼を見やった。
 貴鬼は肩を竦めて、そういう『事情』なんです、と頷いてみせる。
「驚いたな…。あんなに幼いのに…?」
「生まれついて、なんだ。俺もそうだった。羅喜はまだうまく力の制御ができなくて。だから一族の村でも育てるのが難しくて、それで、俺が」
 口数が少ない方ではない青年が、語る言葉を探す様子に、氷河はそうか、とだけ言って、再び彼の隣へと中途半端に浮いていた腰を落ち着け直した。パチパチと爆ぜる炎を見つめながら、氷河はもう一度、そうか、と静かな声で呟く。
 貴鬼は羅喜が絵本のページを夢中でめくり、こちらには注意を傾けていないことを確認して、氷河の肩へトンと額を預けた。
「氷河ぁ…どうしよう、預かったのはいいけど、どうしていいのかわかんないんだ…。俺には無理だよ…」
 すっかり逞しく成長した青年が、珍しく子どもの頃に戻ったかのように泣き声を出すのに、氷河は苦笑して、その髪を撫でた。豊かな栗毛は意外と柔らかく指先を滑る。
「今夜はここに泊まるといい。後でゆっくり話を聞いてやるから」
 氷河の提案に、貴鬼はうん、と安堵したように額を預けたまま深く息をついた。

** 

 数日間だけの滞在のつもりでいたから、小屋には最低限の食料しか持ち込んでいない。子どもの好きなものなど何もないが、と、氷河が作った簡単な夕飯だったが、羅喜は嬉しそうにそれを頬張った。
「氷河様も貴鬼様みたいに聖衣を直す人なのか?」
 聖衣が何たるかを知っているのかいないのか、だが、貴鬼が日々していることはよく見ているのだろう、羅喜はそんなことを訊いた。
「うーん、俺には直せないなあ…聖衣を修復することができるのはこの世ではただ一人貴鬼だけだ」
 途端に羅喜の顏がぱあっと輝く。やっぱり羅喜のお師匠様は特別なのだな、と嬉しそうに隣に座る青年を見上げ、貴鬼の方は困ったように視線を彷徨わせて、結局、ほら、早く食べてしまいなさい、とだけ言った。
「じゃあ氷河様は何する人なのだ?」
 直截的な子どもの質問に、貴鬼が窘める視線を寄越したが、氷河はいいんだ、とそれを制す。
「そうだな…旅をしている」
「旅?素敵なのだ!うらやましいのだ!羅喜もどこへだって行けるのに、お師匠様がまだ一人で力を使っちゃ駄目だっていうからあんまりお出かけできないのだ…」
 実際は、悪神の残した魔の気配を辿って監視する旅なのだが、幼子にきらきらした瞳で『素敵』だと言われると、平和を享受しているような錯覚に陥り、氷河の頬が思わず緩んだ。

 太陽が地平線の彼方へ姿を消してしまうと、昼間に訪れかけていた春の気配が途端に失われ、真冬の寒さが戻ってくる。
 氷河は幾本も暖炉に薪をくべてやり、寝室を彼らのために整えてやった。幸いなことにまだベッドは三つ残っている。突然のことだったので、布団が少々埃っぽい感じがするのは堪えてもらうしかないが、久しぶりに三人分のベッドメイクをするのはどこか不思議な感覚がした。
 少しでも温まるように、と普段は使わないバスタブにも湯を張ってやって、暖炉の前で羅喜を膝に抱いている貴鬼に声をかける。
「貴鬼、湯を使うといい。ええと、羅喜はまだ一人では入れない…よな?お前が入れて」
「羅喜、氷河様とがいい!」
「え?」
 貴鬼の膝から飛び降りて、自分の手をとる幼子に戸惑い、氷河は助け船を求めて貴鬼の顏を見た。だが、貴鬼は肩を竦めて、言い出したら聞かないんです、とため息をつく。
「旅のお話、まだまだいっぱい聞きたいのだ!だから、氷河様とがいい!いいでしょ、お師匠様?」
許可を求める幼子の姿に、貴鬼はうーん、と唸って、氷河がいいなら、と答えた。期待に満ちた子どもの瞳の前に駄目だ、などと氷河が言えるはずもない。
「…構わないが…人の頭とか洗ったことないけどな、俺…」
 困り切ったように、だが、それでも優しげな瞳で、ほら、来い、と羅喜の身体を抱き上げる氷河の背に、貴鬼はこの後の展開を予想して思わず忍び笑いを漏らした。

 リビングに一人残った貴鬼はぐるりと小屋の中を見渡した。日頃、誰も暮らしていない割に生活感が漂っているのは、ここが使われていた時のままの姿で残されているためだろう。突然の来客だったにも関わらず、供された食事に使われた食器はちゃんと同じものが三組揃っていた。 
 三組。椅子も三脚。ベッドも。
 失って久しく、戻ることもない主のために、それでもまだそれらは残されている。
 不精して処分を怠っているだけか。感傷を捨てきれないだけか。どちらも彼らしいと言えば言えた。
 ただの椅子に、こんなにも胸が締め付けられるのは、貴鬼自身にも同じ感傷が横たわっているせいだ。だからこそ、貴鬼はここへ来たのだ。
 じんわりと痛む胸に膝をかかえていた貴鬼の耳に、バスルームの方角から、わああ、という悲鳴が聞こえた。
 あ、やっぱり。
 涙を堪えるために噛みしめていた貴鬼の唇に、薄い笑みが浮かび、やがてそれはくすくすと笑いの発作へと変わる。
 と、バタン、と派手な音を立てて、バスルームから続く扉が勢いよく開いた。
 腰にタオル一枚巻いただけで、髪も体も濡れたままの氷河が大きなタオルで羅喜の全身を包んで小脇に抱え、血相を変えて貴鬼の前へ立つ。
「お、お、お」
 真っ赤な顔で口をパクパクさせているのがおかしく、貴鬼は堪えきれずに吹き出した。それをきっかけに氷河の凍り付いていた声が一気に爆発する。
「女の子じゃないか!」
「そうですけど」
「聞いてない!俺は聞いてないぞ!」
「そう?でも、男の子だとも言ってないはずだけど」
「言わなくても普通そうだと思うだろう!」
 エキゾチックな名前に、民族衣装。くりくりと丸い瞳の幼子の性別など、頭から男の子だと思い込んでいた氷河にはわかるはずもない。気軽に抱き上げてバスルームに消えた様からして気づいてないのだろうなとは思っていたが、ここまで動揺するとも思わずにおかしくて貴鬼は身を二つに折って笑い転げた。
「氷河の顏ったら、おかしい。あー、俺も最初の晩、そんな顏してたのかなあ」
「おまっ…まさか、自分が驚いたからって俺にもわざと…」
「だって一人だけ、なんて悔しいもん」
「お、お前なあ!」
 髪からポタポタと水滴を垂らしながら赤い顔で抗議する氷河が動くたびに、腰に巻いたタオルがずり落ちて行く。貴鬼は立ち上がって、氷河の腕からタオルごと羅喜の身体を受け取った。羅喜、何か悪いことしたの?と困ったように固まってしまっている赤毛を撫でて立たせ、貴鬼は氷河の腰へと手を伸ばした。見るも忌々しい魔傷が刻まれた腰骨をするりと撫でると、一瞬、氷河はピクリと小さく反応した。貴鬼は、解けかかっていた結び目をもう一度腰のところで結わえ直してやり、氷河の耳元で笑った。
「こんな恰好で飛び出してきて…困ったひとだ」
「…っ。誰のせいだと…」
「肩が冷えている。風邪をひきます。もう一度バスルームへ。…羅喜、あなたも」
 何が起こったかわからずにきょときょとと二人の青年を見上げる幼い瞳に、氷河は何度も息をついて困ったように貴鬼を見た。
「お、俺はどうしていいかわからん…」
「頭を洗ってやってください。たいていのことは自分でできるけど、流すのはまだちょっと難しいので」
「う、うむ」
 ギクシャクした動きで、再び羅喜を連れてバスルームに消えた氷河の姿に、貴鬼は自分の姿を見ているようで苦笑した。今でこそ、「女の子」の扱いも慣れたものだが、最初の日、同じようにバスルームで初めて自分が誤解していたことを知った時はちょうどあんな感じだったに違いない。

**

「まだ怒ってる?」
 寝室のベッドへと羅喜を寝かしつけた後。
 暖炉の火に照らされた氷河の頬はほんのりと赤い。横顔が不機嫌に尖っているように思えて、おそるおそる貴鬼はそう問うた。
「怒ってるというか…心構えくらいはさせて欲しかった。男の子だと思い込んでたから……タ、タオルも何も巻かずに…みっ見られてしまった」
 思い出したのだろう、氷河の頬がますます赤く染まった。見られたことを気にしているなんてまるで少女だ、とまた貴鬼の笑いの発作が起きかける。だが、これ以上笑うと本格的につむじを曲げられる、とどうにか顔に出すのは耐えた。
「子どもだからきっとすぐ忘れるよ」
「……そういう問題じゃない。だいたい、お前…女の子なのだったら、仮面はいいのか…?」
 貴鬼をお師匠様と呼ぶからには彼女も聖域のルールに縛られるのではないかと気づき、氷河が自信なさげに問う。
「そっか。氷河、素顔見ちゃったね。じゃあ…師として責任を取って俺が代わりに…愛してあげる」
 貴鬼は氷河の肩を抱き寄せて、まだ少し濡れているブロンドを引いて唇を重ねた。こら、茶化すな、と胸に手をおいて距離を取ろうとする氷河の指先を掴んで抵抗を阻み、さらにもう一度、口づけをしようとした貴鬼の動きが止まった。
 貴鬼の唇が微かに震えているのを見て取り、怒ったように貴鬼の胸を押し返していた氷河がその動きを止め、代わりに大丈夫か?と、彼の、同じようにまだ濡れている髪を撫でた。
 その穏やかな優しさに堪らず貴鬼の言葉が湿って揺れた。
「女の子、なんだ。だからなおさらどうしたらいいのかわからない…」
 氷河はよしよし、とその背を優しく撫で上げる。
「あの子、駄目だと言ったのに、俺のことを『師』だって呼ぶんだ。いつか俺のようになりたいって。どうしよう。俺はどうしたらいい?」
 お師匠様が直した聖衣、世界を護るために使われているのだな?羅喜もお師匠様みたいな立派な聖衣修復師になりたいのだ。だから、いっぱいお手伝いしていっぱい勉強するのだ。
 そう、にこにこと告げる幼子を、最初は、いっぱい勉強しないと修復師にはなれないですよ、と微笑ましく見守ることができたのだ。
 だが、次第に、修復のために必要な材料を諳んじることができるようになった羅喜の姿に不安の芽が生まれ始める。
 束の間の平和な時間はいつまで続くだろうか。
 彼女が成長する姿を自分は見届けることができるだろうか。自分自身が八歳で師と別れたように、幼い彼女を置いて先立つ運命に曝されてしまわないだろうか。
 己をきらきらと憧れの目で見上げる彼女が、自分のもう一つの姿──牡羊座の継承者としての──を知ったら何と言うだろうか。修復師を継ぎたい、と言ったように、そちらも継ぎたいと言い出しはしないか。
 戦う女性たちを間近で見てきた貴鬼は、女性だから黄金聖闘士にはなれない、とはもちろん思わない。呑み込みが早く、小宇宙の片鱗を見せかけている彼女の姿にあるいは、という思いもある。だが、黄金聖闘士が何たるかを真剣に考えれば考えるほど、前線に立つ戦士ではなく、修復師として、だけで終わって欲しい気持ちが湧くのを押さえられない。だが、修復師はいいけれど、黄金聖闘士はだめだ、というのは彼女に対しても、師に対しても侮辱している気がして、その感情すら湧いては打消し、湧いては打消ししてしまうのだ。

 途切れがちな貴鬼の言葉を、氷河はその背をゆっくりと撫でながら静かに聞いていた。弟子のいない氷河にはわからないが、青年の感じる迷いに、時間を超えて、師の想いに触れたような気がした。
 師カミュも、もしかしたら迷っただろうか。
 お前たちを聖闘士に、と鍛え上げながら、だが、どうか前線に立つことのない世が続きますようにと願っただろうか。弟子たちが一人前に巣立つ前に自分の命が潰える運命にあるかもしれない、と不安に思ったことがあるだろうか。
 同じだ、きっと、と思った。
 訓練に対してはストイックで厳しい師だったが、あの厳しさというのはただ一つの理由から来ていたように思う。お前たちの命よ、揺るぎなく強くあれ、と。師を失っても生き抜く逞しさを。戦場で己の命を揺るがさない強さを。
 そこには、常に大きな師の愛があった。
 守るべき大切な存在を前に、『師』として迷う貴鬼の姿は、そのまま彼の師にも、氷河の師の姿にも重なった。

「貴鬼…聖闘士になったことを後悔しているか?」
「まさか!」
「もし…時間を戻して別の生き方が選べるとしたら?」
「そんなの…氷河だってわかるでしょう。何度だって俺はムウ様の弟子であることを選ぶよ」
「だったら…羅喜も一緒じゃないかな…」
 貴鬼の顏が瞬時にくしゃくしゃに歪んで、回した腕が氷河の首筋に強くすがりつく。
「お…れ、ムウ様じゃないもん。ムウ様は本当にすごかったんだ。どんなにがんばったって追いつけないよ。俺はムウ様みたいに立派じゃないのに、なのに、あの子…」
 氷河の首筋に温かな雫が落ちる。
 ああ、貴鬼、わかるとも。お前の気持ちが痛いほどわかる。
「貴鬼、ムウに言われたこと、してもらったこと、覚えてるか?」
「当たり前だよ。全部…覚えてる」
「なら、ムウがしたとおりに羅喜にしてやれば、間違いはない。だろう?」
「…ムウ様、ものすごく厳しかったけど」
「じゃ、厳しくすればいい」
「だって…ほんとに容赦なかったよ。羅喜は女の子、なのに」
「ムウだったらどうすると思う?」
「………関係ない、かな…?」
「さあ。俺はわからないが、少なくとも、生き抜く力を与える、という意味では性別で区別はしなかったんじゃないか?」
 まだ一人前には到底足りなかった幼い貴鬼を、だが、そのことを理由に、ただ皆の背の後ろへ下がらせておかなかったあの師は。
 聖闘士でもなく、まだ幼い身であっても、貴鬼は幾多の戦場に共に立ち、あまつさえ重要な役割さえ与えられた。
 それは師から寄せられた絶対的な信頼の証。

 貴鬼、あなたならできる。あなたはあなたの能力にふさわしい役割を果たせるはずです。
 なぜなら、このわたしが教えたのだから。

「大丈夫。お前ならできる、貴鬼」
 彼女に力を。こんな時代だからこその揺るぎない力を。あとは、きっと彼女自身が道を見つける。
「お前はいい男に育った。自分を信じろ。お前の中にムウは生きている」
 氷河が自分の中にカミュを感じるように。彼らが残したものは礎となって魂に刻まれ、もはや分かたれることはない。

 貴鬼は黙ってただ氷河に背を抱かれていた。

「あなたがいて良かった」
 長らくの沈黙の後に開かれた貴鬼の口から零れたのはそんな言葉。
「ああ、本当にいいタイミングで会えたもんだ。明日にはシベリアを発つつもりだったからな」
「違う。そうじゃなくて。氷河と巡り合えたことが」
 同じ時代に生まれて、同じように黄金の背中を追いかけて、同じものを背負って立つ存在が傍にいてくれることが、胸が痛くなるほどの幸せを貴鬼にもたらす。
 夜空に瞬く星の数ほど溢れかえる人の波の中、運命の人に巡り合える奇蹟。氷河とカミュ。貴鬼とムウ。そして、氷河と貴鬼も。もしかしたら、小さな修復師見習いがここにいることも。
 運命の綾なす人の出会いはまさに神秘の輝き。それはまるで星の導きのように。

「氷河…」
 貴鬼は氷河の体を強く抱き締める。近頃では年下であることを感じさせないかのように取り澄ました顏をしているのが、今日はずいぶんと甘えん坊の顏になっている。 彼の背が、氷河よりまだ低かった頃に戻ったかのようだ。
 よしよし、とその頭を撫でていると、カタリ、と背後で小さな音がした。ハッとして二人はその身を二つに分け、慌ててソファの向こうを振り向く。
「なんか外にいるのだ…」
 羅喜が不安そうな表情でそこへ立っていた。
 二人は、怪訝に顏を見合わせて、戸外の気配を探った。だが、戦士の二人がどれだけ神経を研ぎ澄ましても、そこにあるのは風の音だけ。
 ───風。戸外では、春の訪れが来るのを抵抗する冬の名残が、ごうごうとうねりを上げて渦巻き、それが古い窓枠をガタガタと揺らしていた。
 ああ、それが怖かったのかと合点して、貴鬼はおいで、と手を伸ばした。が、すぐに、躊躇いがその指先を止める。
 ムウ様と同じように……?
 ムウ様なら…ムウ様ならこんな時どうするだろう。実体のないものを怖がってはいけない、と、音の正体をしっかりと見極めさせるのではないか。間違っても、よしよし、貴鬼、怖かったですね、などと抱き上げたりなどしない。
 貴鬼は差し伸べかけていた手を途中で止めた。声を低くし、厳しい『師』の顔を精いっぱい作ってみせる。
「何もいません。ただの風ですよ」
 正体を調べもしないうちに無闇に怖がるのは、と続けようとした貴鬼に、氷河の、「おいで」と呼ぶ声が重なった。
「一緒に眠ろうか」
 思わず貴鬼は耳を疑い、咄嗟に隣の氷河を見た。手を引っ込めた貴鬼の代わりに氷河が羅喜に向かって手を差し出している。
「えへへ。氷河様、優しいから好きなのだ」
 案の定、羅喜は厳しく突き放した貴鬼ではなく、優しく呼んだ氷河の方へと近寄ってくる。
「……ずるい、氷河」
「……え?」
 厳しくって言ったのに、言った本人がもう甘やかしてるってどういうことなのさ!と恨めしく見つめる貴鬼に、氷河はパチパチと瞬きを繰り返した。
「…えー…この家はだいぶガタが来てるから家鳴りが激しいんだ。幼子にはちょっと不気味かもしれない」
 だから?俺だって本当は甘やかす方が簡単だったのに、と小声で唇を尖らせる貴鬼に、氷河は膝元へ来た羅喜をソファの上へと抱き上げてやりながら、同じように小声で答える。
「…悪い、つい。……その…アレだ。お、俺もそうだった、から…」
 氷河は口ごもり、気まずそうに視線を暖炉の方へと投げた。
「…今のは、俺も『師に倣った』つもりだったんだ…」
 母を恋しがって眠れない夜を過ごす氷河に、厳しかった師は、時折三人で眠ることを許してくれた。氷河のために、とは言わず、今日は冷えるから、という大義名分までつけて。
 本当はそれが理由ではないことに気づいてはいたが、渋面を一向に崩さない師の手前、氷河もアイザックも寒い寒いと大げさに騒いで師へくっついたものだった。
 だから、お前を出し抜こうとかそういうつもりではなくて、と項垂れる氷河に、貴鬼はプッと吹き出した。師弟の形はそれぞれだが、ここシベリアでは冬の寒さが厳しい分、家の中はずいぶん温かな光景があふれていたようだ。『甘えん坊の末っ子』を師や兄弟子がはらはらと見守っていた光景が見えるようで、新しい弟子との関係を迷い、張り詰めて気負っていた貴鬼の肩からゆるりと余分な力が抜けていく。
 氷河と貴鬼の間で膝を抱えて、まだ少し外の音を気にするそぶりを見せている羅喜の耳元へ、貴鬼は内緒話をするように身を屈める。
「さっきから氷河も怖がって大変だったんです。だから一緒に眠って欲しいのは本当は氷河の方かもしれません」
 弟子を取られてしまったのだ、このくらいの意地悪は許されるだろうと、氷河の方へ視線をやると、氷河は、コラ、といたずらっこを咎めるような表情を見せた後は、否定することなく、気味の悪い風だな、と体を大げさに震わせてみせた。
 氷河がそう言うなら自分一人が臆病者だというわけではないのだ、と安堵の表情を見せる羅喜に、大人二人は顔を見合わせて忍び笑いを漏らす。
「さあ、ですが、子どもが起きていていい時間ではないですよ。ベッドへ戻らなくては」
 損な役回りではあるが、厳しい顔を見せるのが師の役目、どうせまた氷河と一緒がいいと言うのだろうな、と本音ではやや拗ねながらそう貴鬼が言うと、羅喜は困った顔をして俯いた。
「……あの…羅喜、お師匠様とがいいのだ…。」
 おや、と僅かに驚く貴鬼に、氷河は当たり前だ、というように笑って頷く。
 どれだけ厳しくとも、師とは特別な存在だ。貴鬼も知っているはずなのに、それが自分のこととなるとわからなくなるらしい。
「……えー…では…わたしも一緒に眠るとしましょう」
 新米の『お師匠様』は照れを隠すためか、今日一番難しい顏をして幼い弟子を抱き上げ(あーあ、結局甘やかしてるぞ、貴鬼)、寝室へと向かう。
 その広い肩越しに、羅喜は氷河に向かって手を振った。
「氷河様…ごめんなさいなのだ。あの…一人で寂しかったら氷河様も一緒にどうぞなのだ…」
 狭いベッドへ大人二人と幼子がぎゅうぎゅうと押し合いへし合いしている様子が頭に浮かんで、氷河は、ははっと肩を揺らした。
「そうだな。どうしても一人が寂しくなったらお願いするよ」
 貴鬼が振り返る。すみません、と目線で謝るのを片手を上げて制して、氷河はもう一度ソファへと身を沈めた。
 勢いが弱まり始めている暖炉の炎がゆらゆらと氷河の頬を赤く照らす。炎の向こうに、懐かしく三人で眠った時間が見える。

 『一人が寂しくなったら』か。

 ───俺は一人かもしれないが独りではない。
 自分を慈しみ育ててくれた師も共に腕を競った兄弟子も、まだこうして氷河の中に生きている。
 連綿と受け継がれた彼らの意志は、新しい命へと繋がっていき、遠き日の優しさも温かさも全ては未来へ還る。

 新しく生まれたばかりの師弟の絆を思い、ゆっくりと目を閉じた氷河の頬に薄く笑みが上った。

 風の音が柔らかくなり始めた。
 春は───もうすぐ。


(fin)
   
(2013パラ銀15にて発行された貴氷アンソロ「adoration」より再録)