寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
魔傷を負って数年後。

性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆月光の秘め事と細氷の誓いと◆

 今夜の月はやけに赤い。
 氷河は眉根を寄せて、夜空を仰ぎ見た。
 欠けたところのなき円い天空の窓は、本来ならもっと清浄な白き光で柔らかく万物の眠りを見守るはずが、今夜はその光が朧げなばかりか、禍々しい色を放っていて、荒野を行く氷河の足元は昏く危うい。
 左手に広がる森を迂回するように進んでいたが、これほど昏くては森を突っ切った方が距離が短いだけマシだったかもしれない。 だが、密に立ち並ぶ木立の奥は、全てを飲み込むような漆黒の闇を孕んでいて、戦士としての本能はそこへ立ち入ることを是としない。風のひとつ吹くでなく、全ての命が死に絶えたかのように辺りは静寂だけが包む。
 不意にキェーッという甲高い鳴き声と共に木立の間から黒い影がバサッと飛び立った。ざわざわと木の葉同士が擦れる音が不協和音のように不快に静寂を切り裂く。
 夜空へ飛び去る影を、手を翳して見やり、ただの鳥か、と氷河は息をついた。
 ───いや。何かいる。
 鳥が飛び立つ原因を作ったモノが木立の奥にいるはずだ。氷河は歩みを止めないまま指先まで緊張を漲らせた。
 ───やはりいる。
 森の縁に沿って歩く氷河の左頬が絡みつく視線でチリチリと発熱している。ソレ…いや、ソレらは氷河の歩みに合わせて、木立の中をゆっくりと移動している。
 敵意を隠しきれないあたり三下のようだが、あまり数が多いとやっかいだ、と氷河は神経を研ぎ澄ませた。三…四…五…六人目はいないようだ。
 五人。
 小宇宙燃やせぬ己が一度に対峙する人数として多いか少ないかの判断はつかないが、凌げない人数ではないだろう。
 しばらく、付き従って動く闇の気配を引き連れて、氷河は表情を変えずに進んでいたが、昏い森がまだ濃厚に広がる場所でゆっくりと歩みを止めた。あまり進むと自分の行く先を気取られるだけでなく、誰かを巻き添えにしないとも限らない。自分の方から仕掛けるのは好きではなかったが、どの街からも遠いこの場所で決着をつけておきたかった。
 氷河が歩みを止めたことで、森の中の気配も移動がピタリとやんだ。
 やがて、ゆっくりとその気配が木立の間から姿を現す。その数、見立てどおりに五つ。
 赤と黒の鎧が禍々しい月の色にぬるりと光る。
「キグナスだな、お前は」
 真ん中の、ひときわ大柄な影が野太い声で言った。『キグナス』のあたりにやけに抑揚をつけた言い方に込められた皮肉を氷河は答えないことでやり過ごす。
 氷河の無言を皮肉が堪えた、と取ったのか、その火星士マーシアンは満足げに鼻を鳴らし、さらに続けた。
「闇の子をどこへ隠した。女神は今、どこにいる。案内してもらおう」
「断る、と言ったら?」
 初めて響く、氷河の涼やかな声に五つの影は一瞬驚いたような顏を見せ、それからざわざわと嘲笑の波が広がる。
「その選択肢があるのか?おまえに?戦ってみるか?我らと、ご自慢の聖衣を纏って!」
 赤と黒の鎧の間で嘲笑が爆発する。
「マルス様のお力で戦えぬ身となったお前が、我ら五人を相手に戦えるとでも思うのか!」
 静寂を縫って嗤いさんざめく声が響く。氷河はふうと息をついて、目に落ちた前髪をはらりとかき上げた。
「子ども一人、何年も探し出せずにいるお前らごとき、聖衣など纏うまでもない」
 途端に引き攣れた嗤いが止み、それは氷河をねめつける動きに変わる。
「あの世で後悔しても知らんぞ、キグナス!」
 一番端の火星士が地面を蹴り、氷河との間合いを詰める。その拳を受ける前に氷河は素早く身を沈めていた。 視界から氷河が消えたことで戸惑う彼の足を薙ぎ払い、続く二人目を低い構えから拳を繰り出して地へ倒し、同時に氷河の背後を取ったつもりでいた三人目と四人目を振り返りざまに鋭い蹴りで沈める。
 一瞬で四人の火星士が地へ這いつくばって呻く羽目になり、残る一人はギリリと歯噛みした。だが、次の瞬間、彼の拳の中に、ぼう、と赤いものが灯ったのを見て取り、氷河は僅かに顔色を変えた。
「ほう。キグナスは氷の戦士。炎は苦手と見える」
 ニヤリと嗤う火星士は他の四人と違い、多少の使い手であるらしい。掌に生んだ炎を礫として氷河へ向かって鋭くそれを放つ。
 反射的に氷河はひらりと飛び退きかけ、だが、一瞬の迷いの後に動きを止め、結果として僅かにたたらを踏んでその場へ踏みとどまった。 飛来した灼熱の炎が、防御の姿勢を取った氷河の腕をかいくぐって胸に腹に首にと熱傷をもたらしてゆく。
「ぐぅ……っ」
 炎の礫をいくつも身に受け、氷河の怜悧な顏が苦悶で歪む。
「はははははっ。避けることもできぬとは愚鈍な奴よ!」
 次々と炎を生み出しながら火星士が一歩、また一歩と嬲るように氷河に近づく。
 氷河の背後には枯野が広がっている。自分が避けることで乾いた草に落ちた炎は、あっという間に燃え広がり、命育む森までも消してしまうだろう。
 ───やむをえまい。
 氷河は、自らの内奥へ意識を潜らせ、体内に眠る銀河を呼び起こす。青白い燐気のような小宇宙が薄く氷河の身体からゆらゆらと立ち上る。
「……っ!お前、小宇宙は…っ」
 使えないはずだ、と激しく動揺して闇雲に炎の礫を氷河へ叩きつける動きより、一瞬早く氷河の凍気が宙を舞った。
 闇の中でも清涼に輝く白い氷の結晶が炎を封じ込めるように渦巻き、それは炎の源となる腕をも氷結させていく。
「俺の、俺の腕がぁ…っ」
 もはや戦闘意欲などないに等しい。
 たった一人の彼らの言うところの『戦えぬ身』の聖闘士すら倒せずに、最初に地に伏した四人と、覚えていろ、というお決まりの台詞を吐くと、火星士達はもんどりうって逃げるように異空間へと消えて行った。

 闇の気配が完全に消えてしまうと、あれほど禍々しい色をしていた月は、見慣れた穏やかな白い色で、周囲を柔らかく照らし始める。
 先ほどまでの戦闘の影はもうどこにもない。いや、人型に無残に倒れ伏した枯草が不穏な気配を残してはいた。だが、それもそよそよと温かく頬を撫でていく風に、やがては消える。昏い深淵を見せていた森は、木立の間に美しい月光が落ち、優しく手を広げて己を守った氷河を労わるように誘う。
 それでも氷河はしばらく立ち尽くし、何も起こらないことを確認してからようやくゆっくりと警戒を解いた。
「……っ」
 はあはあと大きく肩で息をつき、ぐらりと地面に膝をつく。背中を冷たい汗が落ち、氷河は激しく疼く左の脇腹へと手をやった。熱く発熱しているような、冷たく凝っているような、奇妙で不快な疼きがぼうと闇の炎を燃やして氷河の肌の上を蠢いている。
 彼らがもう少し骨のある相手であれば、あるいはもっと正確な情報を知る立場にある上位の者であれば、氷河が小宇宙を燃やし続けられないことに気づいただろう。 内側から激しく氷河を責め苛む魔傷の存在を気づかせずに涼しい顔をして立っているのは並大抵のことではなかったが、それしか道がなかったとあってはやるしかなかった。
「くそっ…」
 魔傷はまだ昏い焔を燃やして、立ち上がろうとする氷河の気力を奪っていく。ほんの少し小宇宙を燃やしただけでこれなのか、と氷河の気持ちが苛立つ。だが、逸る気持ちとは裏腹に身体の方は重く痺れる疼きに耐え兼ね、ついに氷河の身体はぐらりと揺れ、地に伏した。

**

 頬の上を気遣わしげに撫でる指の動きに、覚醒との狭間で混濁する氷河の意識が主を探す。
 先生…?…違う、先生の指はもっと冷たい。
 では、母だ。
 ほかにこんな風に氷河を労わる人間などいない。……否、ほかに、も何も二人とももういないのだ。だから、これは夢の中だ。ずいぶん懐かしい夢を見ているのだ、と氷河は疼く胸の痛みを意識の外に追いやって、ただその指の心地よさだけにしばし身を委ねる。
 熱を確かめるように頬へ手のひらをあて、時折髪の毛を柔らかく梳いて、また指の背が頬を撫でる。
 ああ、俺はこの指を知っている。温かで、長い指先が器用に動いて聖衣を修復していくのを──
「………貴鬼…?」
 ようやく意識が覚醒へと振れ、氷河はゆっくりと目を開いた。菫色の瞳が、安堵したように揺れて、ふう、と息を吐く。
「よかった、目を覚ましてくれて」
 氷河は片腕を支えとして半身を起こした。木立の中にいる自分を発見して些か記憶が混乱する。 だが、目を凝らした木立の先に広がる、見覚えのある荒野に、ああ、と合点した。幾分場所を移動させて、森の中に少し足を踏み入れているのだ。 周到な青年のことだから幾分どころか、かなり移動しているかもしれないが、それでも沿って歩いていた森の中にいることには違いない。
 満月の白い光が木の葉の間から静かに零れ落ちていて、覗き込む青年の頬に柔らかな影を落としている。月の傾きからして時間はたいして経っていないようだ。
「貴鬼、何故ここに?」
「さっきここで氷河の小宇宙が爆ぜたから…」
 貴鬼の答えは氷河を満足させるものではなかった。鼻の頭に皺を寄せて軽く唸る。
「だから?俺が小宇宙を燃やすたびに、お前は世界中どこへでも現れるのか?無様に膝をついてやしないかと心配をして?」
 貴鬼が慌てて首を振る。
「ち、違う、そんなつもりじゃないよ、氷河。たまたま近くにいたんだ!ほら、ほら見て、修復の材料に必要で、夜じゃないと見つけられないし、それで、探しに来ていて、そしたら急に闇の気配が濃くなって警戒していたら、あなたの小宇宙を感じて、びっくりして、だって、あなたはいつもどこにいるかわかんないし、いくら俺が精神感応の心得があっても世界中なんて無理だし、」
 氷河の不興を買ったと見て、肩から下げていた鞄の中身を見せながら、あどけなさの残る声が必死に言い訳を繰り替えすのを、氷河は首を振って止めた。
「……悪い。お前に当たっても仕方なかった。…ちょっと苛ついている」
 許せ、といつもの穏やかな声で言う氷河に貴鬼は安堵して、まだ半分抱えていたその身体をおずおずと抱きかかえ直した。
「何があったの?」
「たいしたことじゃない。もう退けた」
 言って、氷河は自分の身体に負っていた無数の熱傷に丁寧な手当てが施されていることに気づいた。目眩のするような痛みも消えている。 心配そうに自分を覗き込んでいる青年がそれをしたのだということは自明だった。聖衣を纏えぬ苛立ちを無意味にぶつけてしまったことを今更ながらに気まずく思いながら氷河は彼の栗色のくせ毛へ手を伸ばした。
「お前が来てくれて良かったよ。ありがとう」
 貴鬼の顔が泣きだしそうに歪む。
「俺…氷河、俺…」
 後は言葉が続かない。どんな言葉も彼を傷つける気がして。戦えないつらさ、力が届かなかったつらさは貴鬼だって知っている。 氷河に魔傷を与えることになった戦いに、貴鬼は前線に立つことを許されなかった。
 聖衣を纏えぬ、小宇宙を燃やし続けることも困難なほどの忌々しい傷を負った仲間を、少年貴鬼は迎えて、ああ、また俺は届かなかった、と慟哭したのだった。師の背中を見送ったあの時のように、俺はまた。
 守りたかった、などと傲慢なことは言わない。ただ、同じ痛みを分かち合いたかった。今度こそ置いてけぼりを食わない様にと、どれだけ研鑚に努めてきたことか。 そして、それは『届いていた』はずだったのに。なのに、貴鬼があの戦いで聖衣を纏うことはなかった。戦うことが許されなかったのは、女神の意志なのだとわかっていても、それでも『届かなかった』ことには変わりない。
 唇を噛んで俯いた貴鬼の頭を氷河の手がゆっくりと撫でる。飲み込んだ多くの言葉を知っているかのように。
「そんな顏をするな。お前の存在がどれだけ俺の救いになっているかわかっているのか」
 そう言って、しばらく考えて「皆の救いに」と言い換えた。
「俺が唯一の聖衣修復師だから?」
 貴鬼の声が強張ったように尖っている。今夜はやけに二人とも苛立っている。闇の力を帯びた月の光を浴びたせいか、たまたま日頃の鬱屈が、気を許せる相手に邂逅したことで噴出してしまっただけか。
 あの戦いはまだ記憶の彼方と言えるほど遠い昔のことではない。身体の傷は癒えても、心に負った傷がまだじくじくと血を流している程度には。
 ひとり、戦えなかったもどかしさ。
 翼を奪われた悔しさ。
 まだ、それらは彼らの心の中でうまく決着がつけられていないのだ。
「お前の存在価値はそれだけじゃない。『アリエス』に魔傷がないことは俺達の切り札だ。わかるだろう?」
 貴鬼にとっては『届かなかった力』の象徴で苛立ちの原因でしかない魔傷のない体も、氷河達にとっては違う意味を持っている。 女神を護る聖闘士の数はまるで足らない。常に盾となって彼女の前へ立ち続けた氷河達も、今や満足に戦えぬ身とあっては、聖域の行く末は風前の灯に同じ。
 だが、まだアリエスを継ぐ者が残されている。
 それは新しい時代の到来を喚起させ、暗く打ち沈みがちな聖域では確かに救いとなっているのだった。

 氷河は貴鬼の苛立ちを宥めるようにとんとんと背中を叩く。
 そうすることで自分のささくれ立った気持ちも幾分かは和らぐ気がした。
 氷河を抱き締めていたつもりが、いつの間にか自分が幼子をあやされるように抱かれていることに気づき、貴鬼はやや頬を赤らめて、ぐいと腕を突っ張った。
「こ、子どもみたいなこと言っちゃった。ごめん」
 そう言って狼狽える姿はまるきり子どもで、氷河は声をたてて笑った。
「子どもだろう?貴鬼はまだ」
「ち、がうよ…っ!俺、もう二十歳だよ…っ」
 年上の聖闘士達の間で、貴鬼は今でも『ちっちゃな貴鬼』なのだ。彼らの背を越して久しいというのに。
 氷河はくすくすと笑っている。誰に子ども扱いされても不満だが、とりわけこの人に子ども扱いされるのが一番堪える。
 チリチリと焦がれた胸の疼きのままに、笑って揺れる金糸を引いて上向かせると貴鬼は強引にその唇を塞いで笑いを止めた。止めた…つもりだったのに、それは触れた唇の間でまだ続いていた。
「…なんで笑うのさ」
「いや、年齢で子どもか大人か線引きしたがるうちは子どもだなあと思って」
 そう言ってまた氷河はおかしそうに肩を揺らす。暗く影を落とす憂い顔よりは、そんな風に屈託なく笑っているのを見ていたいものだが、でも、その笑いが自分のことで、となると話は別だ。あんまりおもしろいものではない。
 貴鬼は再び氷河の唇を塞いだ。笑って薄く開いている唇を舌で割ると、ん、と鼻に抜ける吐息が漏れ、さすがに氷河の笑いは止んだ。
 濡れた唇を吸い、温かな舌先を触れ合わせているうちに、笑いを止める、という当初の目的などあっという間に霧散して、その行為そのものに没頭する。
 口づけどころか、互いに他者と触れ合うことすらない生活をしている。久しぶりに味わう人肌の温もりに陶酔し、初めは遠慮がちに、次第に貪るように夢中になって濡れた粘膜どうしを絡め合う。 
 ようやく離れた時にはどちらの唇からもずいぶんと熱っぽいため息が零れた。
「会いたかった、氷河…。さっきの、俺、本当にただ、氷河が近くにいる偶然が嬉しくて飛んできちゃっただけなんだ。あなたは少々のことでは心配ないってちゃんと知ってるよ」
 聖衣を纏えなくても、という言葉はもちろん飲み込んで。
「気にするな。あれは俺が大人げなかった。俺もまだまだ子どもだな」
「子ども同士だね、俺達」
 目を合わせて、二人で同時にぷっと吹き出す。
 一人でなら暗く腑に凝り続ける感情も二人で笑い飛ばすなら少しずつ穏やかに昇華してゆける。

「氷河…」
 抱いた腕に力を込めて耳元で囁く貴鬼の声が熱っぽく掠れて上ずる。指先は既に官能を誘い出すように氷河の肌の上を妖しく辿る。
「貴鬼、こんなところで…」
 既に何度かその交歓を経験した身は、そのこと自体は咎めずに、ただ、今いる場所がどこかを青年に思い出させる。
 木立から零れる仄かな月の光が彼の頬に貼りついた一掬いの金の髪を鈍く光らせ、怜悧な横顔が羞恥と躊躇いに揺れるのを縁取る。日の光の下で見れば年齢の割に幼く見える彼のそんな表情も、命を育まぬ冷たい光の下では例えようもなく淫靡に映り、貴鬼の情欲はじわりと熱を増す。
「何か問題でも?」
「問題…て、お前、だってここは…」
「誰もいないよ。知ってるんでしょう、氷河」
 闇の気配を辿って歩く氷河は、他者の巻き添えを恐れるがゆえに、移動の折には人けのない地を選んで歩いている。主に夜に移動するのもそのせいだ。先ほどのような小競り合い程度のものであっても昼日中の街中で起こったとあれば、何の犠牲も出さずに防ぎ切ることのできる力はもうないのだ。哀しいほどに慎重な彼の、そんな見えざる他者への愛を貴鬼はよく知っている。
「そうは言っても……ん…っ」
 氷河はまだ躊躇いがちに貴鬼の躯を押し戻す。だが、弱い拒絶の合間の吐息は既に貴鬼の指の動きに色づき始めて。
「だって、次にいつまた会えるかわかんないんだもん。俺、子どもだから我慢できない。いいでしょ?氷河…」
 こんな時だけ子どもを主張して強引に貴鬼の指は氷河の上衣の裾を割って直接肌の上を蠢く。
 許可を求めておきながら氷河の答えは待たずに、貴鬼の唇は氷河の耳に触れ、柔らかく歯があてられる。彼のそこは弱いところの一つなのだ。耳朶から腰まで駆け抜ける疼きに、氷河の唇から、ああ、と吐息が漏れ、貴鬼を押し戻すために突っ張っていた腕からゆるりと力が抜けてゆく。
「ほら、いっぱい咬んであげるよ。好きでしょう、咬まれるの」
 実際に口に含んだ柔らかな耳朶を何度も甘噛みしながら低く囁けば、氷河の躰は貴鬼の腕の中でひくひくと跳ねた。もはや青年の誘いに陥落したも同然だ。
 自分の愛撫に素直に反応する躰に機嫌を良くして、貴鬼はいっそう大胆に彼の身体をひらいてゆく。いくら人けがないとは言え、開放された空間に全てを曝け出すのはあまりに心許ないもの。官能の波の合間、なけなしの矜持に首を振って、衣服を取り去ることを抵抗する氷河に、耳元で囁く。
「着たまましちゃうの?却っていやらしいけどなあ」
 幼いころからの知り合いで、みっともないところ情けないところを全部知られている氷河が相手だからこそ、殊更に主導権を主張して意地悪なことを囁いてしまう。余裕があるところを見せたい、という背伸びの一種であったのだが、言葉で嬲った後に氷河の肌が色づくことを知ってからはより一層その耳に、あからさまな言葉を紡ぐようになった。
 今も、貴鬼、と恨めしげに見上げる薄青の瞳は欲に潤んでいて、本人がどれほど否定しようとも、言うほどには、年下の情人のその遊戯を咎めてはいないのだった。
「いいよ。じゃあ、このままで。ふふ、犯してるみたいで興奮しちゃうなあ」
 故意に俗っぽい台詞で煽れば、氷河は長い睫毛を震わせて顏を背けた。
 上衣を捲り上げ、貴鬼は先ほど自分が施したばかりの手当ての痕を巧みに避けて胸の頂をねっとりと舐め上げる。氷河の唇から、甘く掠れた吐息が漏れ、貴鬼の舌に押しつぶされた突起がピンと固く尖った。それを唇で挟んでコリコリと刺激してやると吐息はあえかな喘ぎへと変わる。
 胸の上を動く栗色の毛に白い指が絡められ、無意識に先を促すその仕草に若い牡の性は瞬く間に煽られる。
 出口を求める狂おしい情動を今すぐ彼の中へ突き立てたい思いに駆られるのをどうにか堪え、貴鬼は氷河の下肢へと手を伸ばした。長い指で器用に前をくつろげて、勃ち上がりかけた氷河自身を指の輪で擦り上げる。
「ねえ…会えない間、氷河どうしてるの?」
 いっそ無邪気なほどの声で貴鬼は耳元で囁く。ビブラートのかかった声が耳朶を震わせることにすら氷河は戦慄いて白い喉を曝け出す。
「俺以外とこういうこと、する?」
「…っ。バ…カ…言う…な……んんっ…」
「じゃあ自分でするんだ?俺の指、思い出したりする?」
 直截的な刺激に、美しい金糸を揺らして声をあげるのを耐えてのけ反る首筋に、つ、と舌を這わせると、貴鬼の指の間で固く張りつめた欲望がどく、と脈打つ。透明な蜜がとろりと零れ貴鬼の指を濡らし、淫らな音を立てて氷河を追い詰める。
 享楽に弱い躰を恥じるように、感じまいと抵抗して苦しげに眉根を寄せる氷河の淡い色の睫毛に雫が光る。彼の涙は見る者の胸を苦しくさせる切なさがあるのに、こんな時にはいつももっとめちゃくちゃに泣かせてしまいたいという衝動に囚われる。
「俺はするよ。いつもあなたの中を思い出してる。温かくてきつくてもっともっとって俺に絡みつくあなたの中を…」
 言うな、と見上げた瞳は、だがすぐに、切なげに歪んで、迫り来る絶頂を迎え入れるためにゆっくりと閉じられる。
 手のひらの中でひときわ固く昂ぶる熱塊を確認して、不意に貴鬼はその手を止めた。
「…あ…っ…」
 あと少し、のところで放出の道筋を断たれて、惚けた無防備な表情に、一瞬懇願の色が混じったのを貴鬼は見逃さなかった。
 満足気に笑って、貴鬼は、力の抜けかかった氷河の躰を抱き起し、後ろを向かせて立たせた。
 乾いた木肌に上体を押し付けられ、膝まで下着ごと下衣を下げられて、思わず氷河の腕は支えを求めて柔らかな土の香りのする幹を掴む。
 弾みで臀部を突き出す格好になり、慌てて氷河は身体を起こそうとしたが、それより早く跪いた貴鬼の腕が細い腰を押さえつけた。ピチャ、と濡れた舌が入り口を抉じ開けるように挿し入れられる。
「や…め……そんなと…こ」
「痛い思いをさせたくないもん」
 耐えられぬほどの羞恥に首を振りながらも、氷河の蕾は与えられる熱にひくひくと蕩けていく。氷河の花芯からとろりと透明な蜜が零れて、下生えの柔らかな草を濡らし、時折月の光でそれが光る。
 氷河の膝が震え、物言いたげに唇が時折開いては閉じられる。こうなればその唇が淫らな求めに動くのを待ちたくなるのが常だが、今夜ばかりは貴鬼にその余裕はなかった。
 貴鬼は下衣の下で、倒錯的な状況にすっかりと熱く脈打っていた昂ぶりを取り出すと、氷河を立たせたまま後ろから潤んだ蕾へ押し当てた。
「う…っく…ん……あ…あ…ああ…っ」
 ゆっくりと貫かれるのを息を詰めて耐えていた唇から甘美な喘ぎが次第に零れる。含ませた楔を馴染ませるように、二、三度腰を揺すると、柔らかな金糸が月光に揺蕩うように揺らめき、熱い隘路が彼の感じている快楽を伝えるかのようにひくひくと引き攣れた。
 昂ぶる情動のままに、氷河のつま先が時折空に浮くほど激しく突き上げれば、その律動に合わせて、切れ切れに声が漏れ、それが夜のしじまへ消えてゆく。
 頬を撫でる風や、梢から梢に飛び移る小動物の気配、手をついた木肌のざらついた感触が、喘ぎの合間に氷河に今いる場所を思い出させ、羞恥をもたらす。だが、揺さぶられた躰が生み出す甘い疼きに、その羞恥すらも倒錯した官能へと変わってゆく。
 貴鬼は手を前に回して、氷河の昂ぶりを掌で包み込む。腰を突き入れる動きに合わせて緩く扱けば、氷河の膝はがくがくと震えて悲鳴のような嬌声をあげた。
「ン…あんまり締め付けないでよ。…ねえ、今のはどっちに感じたの?」
「…っ…ンっ…貴…鬼…っ……あ、あ…っ」
 貴鬼を呼ぶ声はひどく甘く、切羽詰まった響きがした。 
 貴鬼が支えていた氷河の腰を離すと、もはや己の力でそれを支えることもできないほどの官能に耐えていた躰からずるりと楔が抜け、氷河はそのまま地面の上へ崩れ落ちた。
 荒い息をつきながら氷河は躰を激しく震わせる。またも中途半端なところで止められて、貴鬼を見上げる潤んだ瞳は許しを請うているようにも非難しているようにも見えた。
 貴鬼は氷河の腰を支えて、膝で引っかかっていた下衣から片足を抜いてやると、今度は向かい合うようにゆっくりと抱きかかえ直した。
「そんな顏しないでよ。ちゃんといかせてあげるから。いく時の顏、見たいからこっちがいいだけ」
 何か言いかけた氷河の唇へ宥めるように貴鬼は口づけを落とす。背を木の幹に押し付けて、氷河の両膝を抱え上げると、貴鬼はその躰をまだ熱い己の滾りの上へと落とした。
「あっ…やっ……貴……鬼……っ」
 氷河は自重で深く繋がる苦しさから逃れようと貴鬼の首に手をかけて必死にすがりつく。
 敏感にひくつく肉を抉じ開けられて、掻き回されるたびに響くぐちぐちというぬらついた音と、殺しても殺しても揺さぶられるたびにどうしようもなく漏れる喘ぎが木々の間に消えて行く。中空へ投げ出された、完璧に均整のとれた長い足が青年の動きに従順に跳ね上げられ、時折引き攣ったように伸ばされる。
 氷河を揺さぶる青年の額にも薄く汗が光る。弱いところを穿つ楔に、氷河はほとんど泣き顔で髪を振り乱して悦がり、貴鬼が抱えた両膝の先が、青年の腰へ誘うように絡みつく。
「貴鬼…あ…、んっ…ああ、だめ…だ…もう…っ」
「……っ…氷河っ…く………っ」
 草原を渡る風の音も、揺れてざわめく梢の音も、もう何も二人の耳には届かない。ただ、互いの名を呼ぶ掠れた甘い声だけが二人のすべて。
 一つに融け合う至福の時を月光だけがただぼんやりと照らす。

**

「ごめん…また無理させちゃった」
 氷河、怪我してたのに、としゅんと項垂れて大きな体を縮こまらせて草の上へ正座している青年を、氷河は気だるげに身を起こして笑った。
「何か会うたび毎度同じセリフを聞いてる気がするな、俺は」
「う…だ、だって、なかなか会えないんだもん。つい…」
 わかるでしょ?と上目づかいで窺う青年の向こうに広がる空は、遠く連なる山嶺との境目がうっすらと白みかけている。
 肌を合わせている時はあれほど強気で氷河を翻弄するのに、こうして狂おしいほどの熱が去ってしまえば、途端にあどけなく甘えた声を出すのが彼の常だ。意識的か、無意識的にか、そうすればたいていのことは氷河が笑って許すのを知っているのだ。
 氷河に追いつこうと必死な青年の、抜けきらない『子ども』の部分は、まだ皆が揃っていた過去の時間の名残のようで、だからこそ過ぎ去る時を留めていたくて、いつまでも子ども扱いしてしまうのだ。
「会えなくてもちゃんとお前の事考えて『してる』からそう焦るな」
 なにを?と問い返しかけた貴鬼の口が「な」の形のままで固まり、そのまま耳まで真っ赤になった。情事の中で、戯れに聞いた意地悪な問いに、不意打ちで真正面から答えられたのだと気づいたせいだ。
 真っ赤になってしまった貴鬼は年相応に可愛らしく、氷河は、ははっと身を折って笑った。何しろ腰が痺れて立ち上がれないほどなのだ、このくらいの反撃は年上として許される範囲だろう。
「ちょっ…ちょっ…ひょ、うが。あの、もう一回、続きを」
 あっという間に再び熱が上がって、ごくりと喉を鳴らして氷河の袖を引く貴鬼の額を氷河は軽く小突く。
「調子に乗るな、バカ」
「そ、そんな、だって、そんなこと別れ際に言うなんて反則って言うか」
『別れ際に』
 ああ、貴鬼はちゃんと互いの道をわかっている、と氷河は目を細めて、小突いていた彼の頭を、撫でる動きへと変えた。
 偶然の邂逅に、本来の目的を置いて想いのままに怠惰に過ごせるほど彼らの生きる道は甘くはない。ただ一夜、束の間の熱を分かち合うことはできても、日が昇ればまた、それぞれの道を行かねばならない。
「大丈夫。いつ、とは約束できないが、ジャミールにも必ず寄るさ。またすぐ会える」
 あなたの『すぐ』は当てにならないけど、と恨めしげな声を出しながらも、結局、貴鬼はうん、と頷いた。
 いいこだ、と氷河はその頭を撫でてやり、一瞬考えた後に片腕へ小宇宙を僅かに纏わせ、手のひらに凍気を生んだ。
「氷河!駄目だよ…!」
 貴鬼が制止した時にはそれは終わっていた。
 氷河が開いた手のひらの中へころんと生まれる小さな氷の結晶。ほら、と氷河は貴鬼の手へそれを落とす。
「約束だ。それが融けるまでには会える」

『約束だ。氷が融けるまでにはきっと俺は会いに来る』
 
 それは、師を失ったばかりの貴鬼に氷河が思いついた他愛もない慰めの習慣。
 大丈夫。お前は一人じゃない。
 氷が融けないうちにきっと会えるから寂しがるな。
 いつも別れ際に氷河はそう言って、貴鬼に自分が生んだ小さな氷を握らせた。ダイヤモンドのような、小さな白い花のようなキラキラ光る結晶を、子どもだった貴鬼は硝子の瓶にしまって、窓辺へと飾った。
 氷河と自分を繋ぐ絆に、目が覚めてそれがそこにあることを確認しては大丈夫、まだ融けてない、と安堵する日々。
 だが次第に、いつまでたっても融ける気配のない氷と、なかなか会いに来ない氷河に、なんだよ、ずるいじゃん、と頬を膨らませる羽目になる。だが、それでも、目に見える約束の徴があることは幼い貴鬼にはずいぶんと慰めになった。
 その約束が氷河にとっても救いとなったのだというのは、ずいぶん後になってから知ったことだ。貴鬼と同じく、氷河の方も耐えがたき孤独をただ一人で耐えていたのだ。
 会うたび交わされた約束は数え切れず、今ではジャミールの館の窓辺へずらりと並んでいる。まだどれひとつ融けてはいない。
「こんなの…喜んでたの、子どもの時の話なのに…」
「でも、顔に嬉しいって書いてるぞ」
「……これ、絶対に融けないんだもん。氷河はずるい」
「…いや、今日のは俺も自信ないんだ。だからずるじゃない」
 何故自信がないのかに思い当たって、貴鬼は堪らず氷河の躰を抱き締める。それなのに、自分のために、と小宇宙を燃やした氷河を。
「……りがと…氷河、大好き……」
「約束を破らないためには、慌てて会いに来なきゃいけないな」
「大丈夫。きっと融けない。俺はあなたを信じてる」
 二人の唇が静かに重なる。
 名残惜しく、何度も優しく触れ、切ないほどの恋情を交わしあう。

 貴鬼は何度か肩で息をして、よいしょ、と幼いかけ声をかけて立ち上がった。
「それじゃ、俺は行かなくちゃ。聖衣がたくさん修復を待ってるから。氷河…あの……あの……元気で」
 目を逸らすのは、そうしなければ離れがたくなるせいだろう。
 氷河の方も、ああ、と片手を上げて応えるに止める。
 貴鬼は氷河から数歩離れ、一度だけ、振り返って愛しげに揺れる菫色の瞳を瞬かせると、ふっとその姿を消した。

 青年の移動手段のせいか、共に過ごした濃密な時間の割に、出逢いも別れもずいぶんと唐突だ。
 だが、貴鬼の消えたあたりに、空間跳躍のために彼が高めた小宇宙が、まだありありと存在を主張している。
 それは青年の人柄を表すかのように温かく、だが、力強さと雄々しさも同時に内包していていた。幼さが残るも、ずいぶんと逞しく成長した青年の名残にしばし氷河は身を委ねて、その小宇宙を自分の体と同調させる。
 小宇宙。
 氷河自身では今は燃やし続けることが叶わぬものだが、こうして彼の雄々しい小宇宙に身を委ねていると、不思議と戦士としての力が戻ってくるようだった。

 空間跳躍ができるにも関わらず、氷河を目的地まで送るよ、と甘やかさずにあっさりと消えた青年は今でも氷河のことを聖闘士として尊重しているのだ。
 互いの進む道がまるきり同じではないと知る彼は、あんなにもっと会いたい、と泣き言を言うくせに、別れるべき時は常に決然としている。ただの一度も我が儘を言って誰かを困らせたことなどない。
 そのことが氷河には嬉しい反面、小さな時から一人前であることを強いられた彼の生が切なく、それゆえに愛おしく思う。

 会えてよかった。
 ここのところ幾分塞いでいた気持ちが、貴鬼に会ったことですっかりと明るく変化している。

 さて、俺もゆかねば、と氷河は片手をついて立ち上がった。だが、最初の一歩を踏み出す時に、言うことを聞かない腰が邪魔をしてふらふらと頽れる。
 一人、頬を染めて、貴鬼のヤツ、と今褒めたばかりの青年のことを少々くさして再び氷河は立ち上がった。
 しばらく息を整えて、身体の感覚を確かめるようにもう一度足を踏み出す。
 大丈夫。今度は揺れない。

 氷河はまた前を見据えて歩いて行く。
 月はいつの間にか山の端へ消え、代わりに命育む日の光が彼の金糸にきらきらと反射していた。

(fin)
   
(2013パラ銀15にて発行された貴氷アンソロ「adoration」より再録)
「光さす、新しい朝に」より先に書いたため、矛盾、重複が多少あります。