派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
氷河がマルスの魔傷を負った直後のころのお話。(Ω時間から遡ること13年)
◆光さす、新しい朝に ⑥◆
さあ、話は終わり、とばかりに跨っていた貴鬼の腰の上から立ち上がりかける氷河の背を貴鬼は強く引き寄せた。
「どうした?まだ何か?」
「氷河、俺、あなたのこと好きなんだ」
「?ああ、俺もだ」
「家族、に、なりたい」
「???どういう意味だ?」
「……『家族』だよ、氷河。例え生きる道は別々でも、約束なんかしなくても互いの元へ帰るのが当たり前な、そんな関係を俺はあなたと作りたい」
家族……?
その言葉は氷河の心の奥にしまわれた記憶を刺激する。
姉の元に戻る星矢。春麗と龍峰の元に戻る紫龍。互いを支え合う一輝と瞬。
「仲間」とは微妙に異なるその関係は、特別の絆だ。家族───かつて俺が持っていて、そして失われて長く、この先もきっと持つことは叶わぬもの。
胸に差した痛みを隠して、なんだ、と氷河は苦い笑いを貴鬼へ向けた。
「だったら……貴鬼、お前はまだ若い。この先本物の家族ができることも」
「俺に、じゃだめなんだ、氷河。あなたにこそそれは必要なんだ」
「俺か?いや、俺はもう……あんな哀しい思いを誰かにさせるのはごめんだ」
氷河!とのけぞった貴鬼の声は悲鳴のようだった。
「おかしいよ、氷河、自分が矛盾してることに気づいてる?待つ人がいればそれがあなたの力になるんでしょ?
必ず帰ってくる覚悟があるんだって言ったじゃない。だったら、あなたが家族を持ったって問題ないはずだよ。哀しい思いをさせると決まったわけじゃない」
まだ睫毛を濡らしている少年に遠慮なくど真ん中に投げられた言葉に思わずたじろいで、それとこれとは別問題だ、と氷河は言いよどんだ。
貴鬼の言葉を借りれば、セオリー通りなら、師に代わって年下の少年を導いて、頼もしい兄貴分として尊敬の眼差しで見られて終わる予定だったのに、想定外の切り返しにあって氷河の視線はウロウロと彷徨う。
だが、貴鬼の追及は容赦がない。
「氷河、哀しませたくないって言うけど本当は逆でしょう。あなたが、もうこれ以上誰かを失うことに耐えられないんだ。違う?
何も持っていなければ失うことはない、そう思ってない?だから人にはたくさん愛を与えていても、あなた自身は誰の愛も受け取ろうとしない。
一方通行なんだ、あなたの気持ちはいつも。失いたくないから、なんて理由で、人とかかわることを恐れているだなんて、エゴだよ、それは……
あなたに寄り添いたい、もっと深く関わりたいって思っている人はきっとたくさんいるのに、あなたはまるで寄せ付けないんだもの」
貴鬼の言葉はぐっさりと心臓の真ん中に刺さった。失うことを恐れているということは、それほど多くの喪失を経験してきたことの裏返し。
分別がついて久しい大人であれば、見ぬふりをしてそっと遠巻きに見つめる氷河の生々しい傷口に、少年のひたむきさは恐れることなく触れた。
「もしも、あなたが、俺を必要としてくれるなら……俺なら絶対にあなたを哀しませたりしない。あなたが俺のために帰ってきてくれたというのなら、俺はあなたのために帰る。だから、お願い、氷河……」
氷河は返事ができない。
もう長いこと、こんなふうに氷河の内側へ踏み込んでくる人間などいなかった。ただ黙って寄り添う温かな仲間は常にいた。だが、ここまで傷口が開くことも厭わず、遠慮なく引っ掻き回されたことなど初めてだ。
不思議と不快感はなかった。少年の内側にも同じ痛みが存在しているのを知っていたせいかもしれない。現に、氷河の傷口に触れた少年の瞳は痛みを耐えるかのように新しい涙に濡れていた。
氷河の視線に、知らず、また涙を零していたことに気づいた貴鬼はそれをぐいと掌底で拭って、ごまかすようにへへっと笑った。
「氷河、俺、ほら、シオン様を知ってるでしょ?長命の種族なんだ。他の誰より、あなたを一人遺す可能性は低いと思う。ただでさえ6つも年下なんだしさ」
その、長命の種族のはずのムウは20歳で、というのはどちらの頭にもあったが、言葉にはしなかった。
パチパチと暖炉で薪が爆ぜる音の合間に、互いの微かな息づかいが混じる。
貴鬼の言いたいことは理解はしたが、もうずいぶん長いこと凍り付いていた氷河の感情は本来の機能を忘れてしまったかのように、一向に動きださない。
だが、それが正常に機能し始めるまで、少年のその若さゆえの性急さは待ってはくれなかった。
「氷河、ねえ、返事を聞かせて」
「俺は……」
逡巡の末に、氷河は結局そっと視線を逸らした。
「まあ、今でもお前は弟みたいなもんだから……」
「ほら!そうやってあなたはすぐ逃げるんだ。俺が言ってる意味、わかってるくせに。『弟みたい』じゃなくて……」
言いながら貴鬼は、腰に回した腕に力を込め、氷河の身体をすっぽりと包み込むように胸へ掻き抱いた。
「さっき言ったの、俺の本心なんだ。あなたを抱きたい。頭に血が上って心にもないことを言ったわけじゃない」
「き、貴鬼……」
「あなたのこと好きなんだ。特別になりたい」
「俺は……俺は、お前には応えられない……俺の中にはまだ……」
あまりに真っ直ぐに氷河に感情をぶつける貴鬼の真摯さに耐えかねて、氷河も思わず本音が漏れかけた。だが、少年は氷河の言葉を遮った。
「ストップ。知ってる。あなたの中に誰がいるのかなんて。その位置を俺に明け渡してって言ってるんじゃないんだ。
だけど、その人はもうあなたに触れられないわけでしょう。あなたが怪我をしていても手も貸してくれないし、頭だって撫でてくれない。
その人のことはずっと抱えたままでいてもいい。でも、あなたにだって一人が寂しい夜はあるでしょう?氷河、俺に触られるのいや?氷河が俺のこと嫌いだって、触れられたくないって言うなら俺は諦める」
氷河よりすっかりと背を越した少年は、甘えたように頬を摺り寄せ、上目遣いとなった。
「その……聞き方は、ずるい、貴鬼……」
嫌いであるはずがないことを知りながら、わざわざ聞いて退路を断つ狡さは、老獪な大人のものだ。
上目づかいで「お願い」されたことを過去の氷河が断ったことなどないことまで計算されているかのようだ。
なのに、狡い、と思いながらもまるで憎めない。強引に押しておきながら、肝心なところでは自信なさげに氷河の顏色を窺うところなど、可愛いとすら思えて───俺は、俺は一体どうしたら───
道に迷った時は常にあのひとに問うてきた。だが、こんな事態を問えるはずもない。
氷河は自分自身の心に問うしかない。自分の心は───自分の心がまるでわからない。
「氷河……」
返事を急かす貴鬼の声ときたら、いつ変化したのかすっかりと低い『男』のものへとなっていて、
なのに、それが耳元で幾分舌足らずに「ひょうがぁ」と呼ぶのが、今や子どもの甘えというよりは、甘い睦事の最中に名を呼ばれているようで、氷河は戸惑う。貴鬼はこんな声をしていたか……?
「キスしたい、氷河」
まだ自分の気持ちの整理もできないうちに、いいでしょ?と熱い吐息が囁いたかと思うと、貴鬼の唇が氷河に触れる。
「ま、待て、貴鬼」
焦った声を出して、貴鬼の胸を押し返せば、待てない、と逃げる後頭部を押さえつけられて、愛しげに唇を食まれる。
ちゅ、と吸い上げる甘い水音に、上にのしかかられて押さえつけられて交わした口づけの時には訪れることがなかった動揺が今、激しく氷河を揺さぶった。
氷河を包み込むように抱いた肩幅が、自分よりずっと逞しいものに育っていることにたった今気づいたかのように。
頭では理解していた。背が伸びた。厚い筋肉がついた。もう、「おいら」だなんて言わなくなった。
なのに、感覚ではずっと、みんなの後をついて歩いていた貴鬼の姿のままでいた。
だから押さえつけられていても何も感じることもなく、口づけを受けていても、ひっくり返ってむずかる駄々っ子を宥めるような感覚でいられた。
俺が貴鬼の寂しさをどうにかしてやらねば、と思ってはいても、自分の抱える寂しさを貴鬼にどうにかしてもらおうなどと思ったこともなかった。
ころころと皆の間を飛び跳ねていた、あの、無邪気な貴鬼は一体どこへ行ったのか。
目の前にいる貴鬼はまるで知らない他人のようだ。
だが、それはいきなり氷河の前に姿を現したわけではない。氷河の目の前で、緩やかに緩やかに訪れた変化なのに、そのことの意味をまるで理解していなかった。
───それだけの、時間が経過したのだ。あの日々から。
氷河の中では、師と別れたあの日はまるで昨日のことのように思い出せ───いや、嘘だ。
どんなに氷河が覚えていたい、と抵抗しても、あれほど鮮明だった記憶は日常の営みの中で日に日に薄れていってしまうのだ。
忘れたくない。
あのひとを。
あのひとがどんな風に逝ったか考えれば、絶対に忘れるわけにはいかなかった。
なのに、どれだけ覚えていたいと願っても願っても、神が人間に科した「忘却」という枷からは氷河も逃れられない。
いや、枷と感じている氷河に、「忘却」とは神が与えた救済なのだと、皮肉にも、それを教えてくれたのも師だった。
母への思慕を抱きながらも、母の声や香りや優しい手の記憶が日に日に薄れていくことを泣いて嫌がった氷河に、人間はそういうふうにできている、と優しく背を撫でてくれた。
忘れなければ───前に進めないから。
哀しみをいつまでも胸の中へ抱えたまま、人は何年も生き続けられないものだから。
それでいいのだ、哀しみを新しい思い出が次々に上書きしていくこと、それはお前が生きているということなのだから、と。
忘れたくない、と思う気持ちはわかる。覚えていられるだけ覚えていればいい。だが、死者は、哀しみを両手いっぱい抱えるだけ抱えて、
新しい世界を手に入れることを拒むお前を望むまい、そう言った師は己がこんなにも早く逝くことを想像していただろうか。
幼子に向かって、お前が望むと望まざるとにかかわらず、記憶は勝手に薄れていくのだ、と冷たく突き放さず、そんな風に言った、あの時のカミュはどんな表情を、どんな声をしていただろうか。
何一つ忘れたくないのに───氷河がどれだけ抵抗しても時は勝手に流れていく。
貴鬼の栗色の癖毛に縁取られた精悍な表情に、流れた歳月の長さを嫌でも感じさせられ、氷河の中の何か説明できぬ張り詰めていたものが不意に張力を失って切れた。
俺は、生きて、いるから。
昨日のことのようだ、と思っていた日々は、いつの間にか、生き続ける氷河の命の中で流れる時に、遠く隔たれてしまっていたのだ。
あのひとの欠けた、色を失った世界は、だが───
新しい命。新しい世代。日々、成長して姿を変えていく貴鬼。
目を開いてみれば、思っていたよりずっと鮮やか色に溢れていた。
そのことが寂しくて、切なくて、でも、なぜか温かな涙が一筋氷河の頬を流れた。
嫌いか、と問われた。
触れられるのが嫌か、とも。
そのどちらも応えは否、だ。氷河自身、そのことに戸惑う。
貴鬼のことは愛おしい、とは思っていても、その思いはまさに「家族」愛に近いもので、色欲と結びつくような種類のものではなかった。
───なかったはずだ。確かに、今、この瞬間までは。
ひょうが、と何度も名を呼ばれ、吐息と共に唇を柔らかく吸われる。濡れた舌先が優しく氷河の口蓋を擽る。
これは愛を伝え合う行為なのだと、氷河の遠い記憶が告げている。貴鬼から流れ込むひたむきな想いが、氷河の心を揺さぶって、長らく感じることはなかった甘く切ない胸の疼きをじわりと呼びこむ。
つ、と銀糸を引いて唇が離れた時、二人は同じように息が上がっていた。
「貴鬼、俺、俺は……」
自分の中の急激な変化を受け止めきれず、戸惑い、狼狽える声を途中で貴鬼が奪う。
「まだ子どもにしか思えない?頼りない俺はあなたに触れる権利はない?」
貴鬼の余裕なく低く掠れた声すら今は耳に甘く、何故、彼の上に跨って抱き締める、などという大胆な行為を先ほどまで何とも思わなかったのか不思議なほど、激しい羞恥が氷河を襲った。
「……っ……貴、鬼っ!」
放してくれ、と腕を突っ張って顏を背ければ、強く氷河の腰を引いて逃がさぬよう押さえつけている貴鬼の前へ耳を差し出した格好となった。ひょうが、と熱く呼ぶ声にまた勝手に背が甘く震える。
耳は───耳はそもそも、弱い。
弱かった、のだ、ということをたった今思い出した。そんな風に他者と触れ合うことなど久しくなかったから忘れていた。
思い出してしまえば、触れている体の温かさをずっと心地よいと感じていたことまで自覚させられ、違う、俺はそんなつもりでは、と羞恥で気がおかしくなりそうだった。
勝手に熱く火照る耳朶に、こちらも熱い唇が触れる。
「氷河、そんな顏をされたら、駄目って言われたって、俺、もう、」
止まれない、というやけに腰に来る低音を耳朶を食んだ唇に囁かれて、あ、と力の抜けた背は貴鬼の逞しく成長した腕へと支えられた。