派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
氷河がマルスの魔傷を負った直後のころのお話。(Ω時間から遡ること13年)
◆光さす、新しい朝に ⑤◆
ずいぶんと情緒のない、ただがむしゃらに重ね合されただけの口づけだった。
押し当てられた唇に、というより勢いで当たった歯の痛みに驚いて───驚きが去ってしまえば困惑が襲ってきた。
困った。
頭を撫でてやりたい、のだが。
貴鬼を前にするとどうしようもなく胸が苦しくなる瞬間がある。
一人、真剣な表情で聖衣に向かっているのを見た時に。
氷河!と喜んで宙返りをしながら塔から飛び降りてきた時に。
傷だらけの身体を隠して、強くなったから見て見て、とあどけなく笑った時に。
彼もまた、師を失ったのだと思い知らされる度に、それは訪れた。そんな時は決まって勝手に手が彼の頭を撫でている。
自分がそんな風にされるのが好きだったせいだ。それは幾分甘い記憶とともに氷河の胸にしまわれていて、だから、頭を撫でてやるという行為は、貴鬼が拘泥しているほど、「子ども扱い」の象徴ではなかった。
今もそうだ。普段見せている大人びた表情などまるでなく、余裕なく睫毛を濡らしている姿は、どうしようもなく氷河の胸の繊細な場所を刺激する。
道を失って途方に暮れている少年を、大丈夫だ、と頭を撫でて、抱き締めてやりたかった。
胸を締め付けるその衝動は、だが、ほかならぬ少年自身が両腕を拘束していることによって行動に移すことは阻まれている。
抱き締めてやることも、頭を撫でてやることもできない。どんな言葉も彼には届かない。ならば、どうやって、この気持ちを伝えればいいのか。
困って、困って───氷河は代わりに仕方なく、強く押しつけられた唇に応えるために薄く唇を開いた。
貴鬼の肩が驚いたように軽く強ばり、だが、すぐに熱い舌がするりと開かれた唇から侵入してきた。貪るように氷河の口腔内を蠢く濡れた塊に時折氷河も応える。
戯れや挨拶とは違う一線を越えたのだ、という認識は氷河にはあまりなかった。
いつもの、頭を撫でてやる行為の延長で。
大丈夫だ。
落ち着け。
お前はよくやっている。
愛撫のような口づけに応えながら、氷河の頭に上っていたのはそんな言葉だ。
深く傷ついて、どうしようもなく千々に乱れる感情を制御できずに自分を失っている少年を愛しむ気持ちがそうさせた。
離れた時、息があがっていたのは貴鬼の方だった。余裕なく血走る瞳が、どうして、と問うている。
子ども扱いするなと怒って自分から唇を押し当ててきたくせに、応えたことを混乱して咎める姿はずいぶんと可愛らしく思えたが、
どうして、も何も氷河自身にも何故そんなことをしたのか説明は難しい。氷河はただ、困ったように眉を下げた。
「貴鬼、手を……」
離してくれ、という意味で視線を拘束された手首へと向ける。貴鬼は、ふるふると首を振る。
「いやだ。あなたはすぐ逃げるから」
「違う。何も逃げようというんじゃない。お前のためだ。いい子だからこの手を、」
「だから、あなたに『いい子』だなんて言われたくない!」
「そこに反応するのか?」
ふう、と氷河はため息をついた。すっかり頭に血が上っている今は何を言っても無駄なのだろう。
わかった、と氷河は静かに呟くと、床の上へ縫い止められていた両の手首をくるりと返した。そのまま腕を体幹につけるように下げれば、
強く手首を掴んだままだった貴鬼の上体がバランスを失って揺れた。氷河はすかさず肘をつかって貴鬼の体躯を跳ね上げ、
そのまま軽やかに身体を反転させたかと思うと自分の体重を乗せて貴鬼の背を床へとつけた。
な、と貴鬼が驚く間もない。
あっという間に氷河は自分を組み敷いていたはずの少年の身体と位置を入れ替え、彼の腹の上へと馬乗りになってみせた。
体格も上回り、その上、既に黄金聖闘士と等価の力を得た少年をそんな風に跳ね除けるのは氷河にとっては容易なことではない。
その証に、まだ癒えぬ傷に無理な動きが負荷をかけ、氷河の額には脂汗が滲み、喉の奥で苦悶の呻きが漏れた。
だが、それでも氷河は目を丸くして言葉を失っている貴鬼を見下ろして柔らかな笑みを浮かべてみせた。
「ほら、貴鬼」
そう言って、氷河は拘束から解き放たれた手で貴鬼の腕を引いて、組み敷いた身体を抱き起こした。まだ何が起こったか理解がついてゆかず、半ば茫然としている貴鬼は氷河の手に引かれるままに上体を起こす。
貴鬼の上に跨ったまま、向かい合う形となった身体に腕を回して、氷河はよしよし、と慈しむように背を撫でた。貴鬼の額が、とん、と氷河の肩へ押し当てられる。
「なんだよ、氷河……こういう場合、振りほどけないのがセオリーなのにさ……簡単に振りほどいちゃうなんて反則もいいとこだ。空気読んでよ、少しはさ。俺、どうしようもなくカッコ悪いじゃん……」
「そうでもないぞ。お前が油断していなかったら多分無理だったな。俺も二度は自信ない」
応える氷河の声が笑いで揺れていることに、貴鬼の肩がますます下がる。氷河はしょんぼりと項垂れてしまった栗色の毛を額の上へかき上げて、笑いながらそこへ唇を押し当てた。
自分の気持ちを伝えるために、自然と、そうした。
「貴鬼、死ぬことは怖いか?」
「……何、急に」
氷河の方から押し当てられた唇に薄らと頬を赤らめた貴鬼が顏を上げる。
「どうだ?それを考えたことはあるか?」
間近で見返すアイスブルーの真剣な色に、貴鬼もしばし難しい顏をした後に、うん、と真面目に頷きを返した。
「死ぬことは別に怖くない。……一人、遺されるのは怖いけど」
やっぱりな、と氷河は頷く。
「貴鬼、女神がお前を戦いから遠ざけているのはそのせいだ」
「……?意味が分からない、氷河」
「死ぬことを恐れていない奴とは俺も一緒には戦えない」
「何言ってるの、氷河。だって……女神の聖闘士なら、皆……あなただって、紫龍だって、いつだって皆のためなら命を懸けるじゃない。紫龍なんて紫龍なんて……まだ龍峰は小さいのに、
あんなにボロボロになるまで……」
「もちろん俺にも紫龍にも他の皆にもいざという時の覚悟はある。だが……大切な者のためなら命すら懸けることは惜しくない、と思う一方で、
その大切な者を哀しませないために必ず帰って来なければならない、という思いは常にある。星矢も……きっと今、帰るために戦っているはずだ。お前には……お前にはそれがない」
「そんな……こと……」
ない、と言う少年の声は震えていた。
黄金の戦士を師に持つ少年は、彼の師が逝った時、まだ8歳だった。あまりに崇高だった彼の師の散り様はまだ成長途中の柔らかな心に深い悲しみと衝撃をもたらしただろう。
それでも健気に、いつかムウ様のようになる、と必死に、もういない師の背中を追ってみせた少年は、弛まぬ努力と研鑚によって、師のものだった聖衣の修復技術と、
アリエスとしての力、そのどちらをも長い時を経て己のものにしたのだ。
いつかムウ様のように。
たった一人、あの館で繰り返された言葉は彼を呪詛のように縛ってはいなかったか。
いつかムウ様のように立派な聖衣修復師になってみせる。
いつかムウ様のように強い黄金聖闘士になってみせる。
いつかムウ様のように───女神のために命、を……
苛々と、戦いの場へ向かえなかった己を責める少年の姿は、まるで師が通った道筋をそっくりそのままなぞらえようと必死になっているようで、
ともすればそのあまりの師への傾倒ぶりが命取りになってしまいそうな痛々しさがあった。
とりわけ沙織には、その姿はつらかっただろう。女神の聖闘士が喪われて、深く傷ついているのはなにも遺された聖闘士達だけではない。
彼女自身も、師を喪って道に迷う貴鬼の姿に、己の力のなさへの悔恨を抱えて生きているに違いないのだから。
「俺は……だって、でも、」
青ざめた貴鬼の唇がひっきりなしに震えている。まるきり自覚がなかったわけではないのだろう。
少年が自ら気づく前にその事実を突きつけねばならなかったのは氷河にも胸が痛い。ましてや、それが過去の己も通った道だとなればなおさら。
「貴鬼、お前も知っているはずだ。聖衣を纏って戦った、それがムウの全てではなかったはずだ。ムウは……自分の役割を知っていた。
女神の危機とあっても動かなかったこともある。あの人には、『動かずに待つ』強さがあった。そこにお前の存在は無関係ではなかったと俺は思う」
俺の言っていることわかるか?と氷河が貴鬼の額にかかる髪をかき上げてじっとその瞳を覗き込む。
玻璃のように美しい青にじっと見つめられて、貴鬼はそこへ映った己の姿をまじまじと見返した。
情けない顏だ。
師の生があまりにも短かったから───自分もそうなるのだと思っていた。残された時間は短いと、とても焦って───
ムウ様に追いつきたくて。
氷河に追いつきたくて。
氷河を導いた黄金の戦士に追いつきたくて。
追いつかなければ、何も、なんにも、できないと焦って焦って……
俺はおまけの貴鬼。
だけど、ちっちゃなおまけの貴鬼は、いつだっておまけなりに己を誇って精いっぱい戦ってきた。
いつから、俺は間違っていた?
聖衣を纏って最前線に立っていないと聖闘士として無価値だという想いを抱いていたのはいつからだ?
力をつけて、驕りまで身についたようですね、貴鬼、と師の呆れ声が聞こえてくるようで、思わず、ごめんなさい、ムウ様、と貴鬼の口からずいぶんと情けない声が零れた。
氷河は、何度も瞬きを繰り返す貴鬼の瞳を見返した。ピシャリと横っ面を張られて目が覚めたのか、菫色の瞳が次第に本来の凛とした光を取り戻し始める。氷河は微かに安堵の息を吐き、
ようやく貴鬼の耳に届くようになった言葉をゆっくりと噛んで含めるように言う。
「貴鬼、お前の気持ちが俺にはわかる。俺も同じだった。死ぬことなんか少しも怖くなかった」
何しろ、氷河を待つものは誰もいないのだ。戦地では、俺に任せろ、と星矢の前に立ち、紫龍に先駆けて技を放ち、
待つ者がいる他の誰よりも命を削っていることになんの躊躇いもなかった。
もし、誰か一人の命を犠牲にしなければ前に進めない事態が起きたら、その一人は絶対に自分でなければならない、とそんな強い思いは常にあった。
氷河が貴鬼を危ういと感じたように、仲間たちは喪失感を自覚なきまま抱えている氷河を危ういと感じていたのだろう。
何も言わず見守る目は、その時こそ気づいてはいなかったが、皆、氷河を気遣う色に染められていた。
記憶を探るように氷河は目を細め、それからふと気づいて貴鬼へと言った。
「もしかしたら、俺のそういう姿勢に、気づかないうちにお前は影響されたのかもしれないな。だとしたら、すまなかった、貴鬼」
俺のせいだな、と氷河に何度も優しく背を擦られて、貴鬼は苦しげに首を振った。
俺は一時の感情に流されて、氷河に向かってなんてことを口走ったのだろう。「置いて行かれた者の気持ちがわからない」などと。
貴鬼の背を撫でる手があまりに優しすぎてどうにか堪えている涙が零れてしまいそうだった。
気持をわかっていないのは俺の方。俺の痛みと氷河の痛みが同じであるはずがない。氷河の負った荷は俺よりずっと重い。なのに、氷河は、自分が抱えた荷の重さを感じさせないまま、人の分の荷まで負おうとするのだ。
氷河のことを想えば、胸が締め付けられ、堪らなく狂おしい感情に支配される。
女神に不敬、だろうか。氷河に、まだ俺の言っていることがわからないのか、バカを言うな、と怒られるだろうか。
それでも、このひとが心から笑えるためなら俺は───命だって惜しくない。
気が遠くなりそうなほどの恋情を抱えて、貴鬼はごめんなさい、と言うために顔を上げた。だが、それとタイミングを同じくして氷河が口を開く。
「俺を変えたのは貴鬼、お前だ」
「…………おれ、が?」
「お前はあの塔で一人、聖衣に向き合っていた。お前はあんまり寂しいとは言わなかったが……俺が帰る時、いつ振り返ってもお前はずっと手を振っていて……
だから、俺はまた早くここへ来なければ、という気持ちになった。お前とした『また会いに来る』という約束を守らなければ、という想いが俺を何度も救った」
「……ひょ…うが……」
駄目押しだった。
必死に堪えていた貴鬼の瞳が水の膜を張って揺れる。それを隠すように俯くのを氷河は止めなかった。
食いしばった貴鬼の歯の間から微かな嗚咽が漏れる。よしよし、と頭を撫でる氷河の手が、今はひどく心地よく、それがまた貴鬼の嗚咽を激しくさせた。
このひとのためなら命なんか惜しくない。
否……このひとのためだったら、俺は絶対に死んだりはしない───
守りたい、と思っていた。
儚げで、簡単に「あちら側」へ行ってしまいそうな心を抱えたあなたを。
だけど、どれだけ儚げに見えても、あなたは俺よりずっとずっと先を歩く大人で。俺なんかよりずっとずっと強くて。
俺はあなたの後を必死で追いかけているのに、その後ろ姿すら見失ってしまうような子どもでしかなくて。
なのに───
俺の存在に救われていた、と言ってくれた。
もちろん言葉通り受け止めるほど能天気じゃない。毛布を抱えて雪の中で待っていてくれた、あの言い訳のように、あまりにも道を失っている貴鬼を見かねて、
と、いうことにしてくれた、彼の優しさなのだと、自分に釘を刺すことは忘れない。自分の存在が彼の中でそこまで大きな位置を占めていたとはとても思えない。
それでも、もしも。もしも、氷河の中でほんの僅かでもそれが真実だった瞬間が一瞬でもあるなら───
氷河より6つも年下であることがずっと疎ましかった。追いつくのに必死で、子ども扱いされると苛立って。守られる存在なんかいやだ、と意地を張って。
だけど、そのことが氷河の生きる力になった瞬間が一度でもあるのなら。俺の頼りなさが、あなたの帰る理由になったのなら。
初めて、年下でよかった、と思えた。
師にも、氷河にも、遠く及ばない俺だけど───それで、よかった。
貴鬼の中で意固地になっていた部分がすぅっと解けていく。
俺の、役割。
ムウ様の、ように。
聖衣は───全聖闘士の命、だから。
自分が死ぬと言うことは全聖闘士が命を守る術を失うということ。そう心得て、師は自ら動くことをよしとしなかった。
師が起ったのは、一度きりだ。
その一度があまりに貴鬼の脳裡に強く刻まれ過ぎていて……すっかりと忘れてしまっていた。
俺の役割、は。
生きる、こと。
全ての聖闘士の命を背負っていることを自覚して、生き延びること。
傷つく仲間の姿を目の当たりにしながら、座して待つのは耐え難くつらい。
それでも、俺には「動かない」強さが必要なんだ。闘わないのは、決して力がないからでも、臆病だからでもない。動かないこと、それがどんなに強い精神力が必要だったか、今ならわかる。
俺はまだまだムウ様には届かない。あの、輝ける黄金の星には、まだ、とても。
それでも生きているから。
生きていればいつかは、きっと。
師に追いついた、と胸を張って報告ができるようになるまで、とてもあちら側になんか行けるわけがない。
顏を上げた貴鬼の顔はずいぶんとすっきりしていた。まだ睫毛は涙で濡れていたが、この僅かな間にひとまわり逞しくなったような凛とした表情が頼もしく、氷河はもうお前は大丈夫だな、と深く長い息を吐いた。
だが、氷河のその、肩の荷を下ろしたかのような安堵のため息は、逆に貴鬼の不安を誘う。
なんで、「役目は終わった」「もう俺の力はいらないな」みたいな顔しちゃうのさ、氷河。
そんなの寂しすぎる。
俺の幼さが少しはあなたの生きるための理由になっていたのだったら。
俺が成長してしまったら、あなたはどうするのだろう。あなたを、『俺がいなければ』と思わせるものはほかになにがあるのだろう。
俺はずっと子どもでいなければあなたを繋ぎとめる理由にはなれない?
あなたに何も与えてあげられない、一方的に受け取るだけの関係のままでないとあなたを救えない、なんて。そんなのはあんまりだ。