寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
氷河がマルスの魔傷を負った直後のころのお話。(Ω時間から遡ること13年)


◆光さす、新しいあしたに ③◆

「……怒ってる?」
「怒ってはいない」
「ウソ。……怒ってるでしょ」
「怒っていないと言っただろう」
「……ホントは少し怒ってる?」
「しつこいぞ、貴鬼!怒られるようなことをしたっていう自覚があるのか!」
「ほら、怒ってるジャン」
「これは今、お前がしつこくして怒らせたんだ」
「やっぱり怒ってるんだ……」
「……あのな」
 不毛な会話に、氷河がカタリとスプーンをテーブルに置いた。テーブルを挟んで向かい合って座っていた貴鬼も同じようにスプーンを置く。 せっかく作った粥が冷めてしまうが、むっつり黙り込んで粥をスプーンでぐるぐるとかき回しているだけの氷河の姿には、貴鬼はどうしても黙っていられなかったのだ。
 氷河が腕組みをして貴鬼を見るのを、貴鬼は上目遣いで窺った。春の空のような澄んだ青い瞳はいつもどおり柔らかな色だが微かにその眉間に皺が寄っている。
「はっきりさせておくぞ。俺は怒っていなかった。怒ったとしたら、今、お前がしつこかったことに対して怒ったのであって、お前が結界の中に俺を閉じこめて行ったことに怒ったわけじゃない」
 やっぱりそのことを怒っていたんだな、と貴鬼は気づかれないようにため息をついた。怒っていない、なんて言いながらこの流れでそのことを持ち出すなんて……なんてわかりやすいひとなんだ。
「しつこかったのは謝るけど……結界を引いてったことは謝るつもりはないからね。俺、悪くないもん」
 なに、と目をむく氷河の反応はどう考えてもそのことを怒っている。
「だってさ、氷河、俺の目が離れたらこれ幸いといなくなるつもりだったでしょう」
「……そんなことはない」
「ウソだね。じゃあ、なんで俺が結界引いてったこと知ってるのさ。おとなしく中で寝てたらわかんないはずだよ。結界の存在に気づいたってことは小屋の外に出ようとしたってことでしょう?その身体で」
 今度は貴鬼が怒ってみせる番だ。あれほど、互いを傷つけてまで止めたというのにこのひとはやっぱりあっさりと俺を置いて行こうとするんだ、とこっちも眉間に皺が寄る。
 図星だったのか、氷河はぐっと声を飲み込んだ。
 その様子に勢いを得て、貴鬼はさらに言葉を連ねる。
「自己管理の大切さはカミュからイヤって言うほど教わったでしょう?今のあなたの姿をカミュが見たならなんと言うかな。『氷河、お前はいったい何を』と、」
「貴鬼」
 聞こえるかどうかわからぬほどの微かな氷河の呼び声に、ハッと貴鬼は言葉を止めた。また軽率に彼の傷口に触れてしまったのかと竦みかける少年に、 氷河は、違うんだ、と苦笑して、顎で隣の椅子を指し示した。誰も座っていないそこには、いつ掛けられたものか背もたれに毛布が一枚かかっていた。
「アレをお前に、と思って……」
「……?」
「お前がそんな軽装のままで出て行ったから……雪の中に戻ってきたら例え短い距離でも寒いかと思って、だから外で待っていてやろうかと思っただけだ」
「あ、そ、そ、んなの……そんなこと……」
 家の中に直接跳ばないとはいえ、扉のすぐ外に跳ぶのに。まだ熱のある身体で、してもらうようなことではないのに。
 誤解していただけではなく、それが自分のためを思ってした行動だと知って、苛立ちに寄せられていた貴鬼の眉間の皺は、気まずさをごまかすために、と目的を変えてますます深められた。
「氷河……あの、俺、ご、めんなさい」
 なんだか謝ってばかりで、自分という人間は氷河の側にいる価値もない、いても迷惑をかけるだけなのかも、とひどく貴鬼は落ち込む。こう在りたい、と描く理想像と乖離した情けない自分の姿に揺れ動く不安定な心を持て余して、貴鬼は途方にくれるばかりだ。
 俯いて唇を噛む貴鬼に、ややして、氷河のくつくつと笑う声が届いた。
 不審に顔を上げると、氷河は、少し身を乗り出して貴鬼の頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「信じたのか?俺の苦しい言い訳を信じるとはお前らしくないな、貴鬼」
「……え……?」
「今のは嘘だ。本当のところはお前が想像していたとおり、お前の姿が見えなくなったからこれ幸いと黙って発ってやろうと思ってたんだ。結界がなきゃ今頃、雪の中だ」
「氷河……」
「貴鬼、ありがとう。お前がいなければ俺はきっと今頃行き倒れていた」
「……あ……」

 と、いうことにしてくれたのだ、ということは明らかだった。貴鬼が感じている気まずさを減じてくれようとした彼の優しさなのだということは。
 だって、嘘だったというのなら、そんなところに毛布が掛かっているはずがない。本当は、痛む体を引きずって毛布を抱えて帰りを待ってくれていたのに違いないのに。
 自分の痛みには鈍いくせに、時にびっくりするほどの鋭さで人の痛みを察して、でも、嘘をつくのはあまり上手ではなくて不器用で。

 これだから、堪らないんだ。氷河のことを思うたびに胸が痛くて苦しくなる。

 たくさんの優しさをこのひとからもらった。
 元気にしているか、と訪ねて来ては、師の思い出話を共有していく彼に何度救われたか知れない。
 優しさには優しさで、愛には愛で応えたくなるのが人の常だ。氷河に救われた分だけ、貴鬼の、彼の力になりたい、という思いは日々増した。
 それなのに、氷河ときたら、人にはそんな風に優しくするくせに、自分自身は誰かから優しくされるのをよしとせず、寂しげな蔭の落ちる笑みを湛えたままひっそりと自分の殻に閉じこもっているのだ。 行き場を失った貴鬼の想いは、昇華されずにただひたすら貴鬼の内側で育ち続け、今や決壊の時を待つばかりに溢れかえる。


 再び気まずく言葉を探す貴鬼に、氷河は黙って微笑んで、さあ、食うぞ、とスプーンを握り直した。うん、と貴鬼もぎこちなく微笑を返す。
「冷めちゃったね。よかったら温め直すけど」
「猫舌なんだ。冷めてないと食べられないからこれでいい」
 なんだ、それであんなに黙ってかき回してたのか、と貴鬼は安堵で頬を緩めかけ、すぐに、いや、これもやっぱりこのひとの優しさなのかな、とまた胸が疼く。 なんと言おうか悩んで、結局、貴鬼はからかうように「猫舌だなんて、ずいぶん過保護に育ったみたいだね」と笑ってみせた。
 氷河は、ふっと片頬で笑い、「いいだろう?」となぜか胸を張る。
 その様子がまるで幼子のようなのがおかしくて、今度は本当に貴鬼は声を立てて笑った。

**

「熱は下がったみたいだね」
 顔色からして大丈夫だろうと思っていたのだが、額を触れ合わせてそこに火のような熱さがないことを確認してようやく貴鬼はほっと胸をなで下ろした。
 結局、2週間近くも氷河の発熱は続いたのだった。高熱と微熱を行ったり来たりする氷河に、これ以上長引くようなら、どれだけ氷河が嫌がっても、 一度聖域の医療施設に連れ帰らねば、と覚悟していた矢先にどうにか下がり始めた。
 怪我の具合はまだ芳しくないが、こちらは無理さえしなければ快方に向かうだろう。無理さえ───しなければ。
 氷河は早くも、だいぶ鈍ったなと言いながら、怪我をしている右肩をかばうように左腕一本で腕立て伏せなどしてしまっている。時折、傷に響くのか軽く呻き声を漏らしているのを貴鬼は苦笑して見つめた。
 
 気が済むだけ氷河は身体を動かし、ややして、額の汗を拭いながら立ち上がった。たったこれだけのことで汗する己の弱った身体を忌々しげに見下ろし、それから、着ていたシャツの胸元をパタパタと仰ぐように引っ張った。
「汗を流したいな」
「と、思って湯を張っといた」
「助かる」
 氷河は貴鬼の頭をポンポン、と撫でてバスルームの方角へと歩いて行く。

 俺が何かするたびに、いちいち「いい子だ」と言いたげに撫でるのやめて欲しいんですけど。

 ちぇ、と拗ねた顔で貴鬼は氷河の触れた髪に手を伸ばす。二人とも立っているときなんかは背伸びしなけりゃ手が届かないくせに、 そこまでしても「頭を撫でる」ことにこだわる氷河に貴鬼の心がささくれ立つ。なのに、それとは矛盾して、彼の少し冷たい指先が触れるたびにふわふわと心が温かくなってしまうのだ。 そんな風に勝手に浮き立つ心は、褒められるのを待っている幼子から成長していない証のようで、緩みかけた頬の動きを打ち消すかのように殊更貴鬼は渋い顔をしなければならなかった。

 今の俺は、出会った時の氷河よりも年が上なのに。
 子どもの時に出会ったから、その関係をずっと引きずってしまうのだろうか。
 氷河の中に、今一歩踏み込ませてもらえないのは、彼の頑なな気質のせい?それとも俺が年下だから心を開くに値しないと思われている?
 せめてもう少し対等な立場にいさせてもらうにはどうしたらいいのだろう。
 一緒に戦っていない奴は到底望みはないだろうか。

 結局、意識はまたそこへ戻り、魔傷のない己の身体が疎ましくて仕方がない。魔傷そのものは忌むべきものであるはずなのに、 それがない体は、目に見えぬ「戦わなかった証」「半人前である徴」を刻まれているようでひどく堪えた。

 ダイニングテーブルに突っ伏して鬱屈した感情と戦っていた貴鬼の耳に、浴室の方から微かに呻く声が聞こえた。
 貴鬼は慌てて立ち上がって、そちらの方向へ歩いていく。
 簡易な扉を引いて開け、「どうかした?」と声をかけると氷河は顔をしかめて身を折っていた。
「……悪い……手を、かしてくれ……」
 ああ、と貴鬼は合点した。動くと傷に響いて、洋服を脱ぐのも一苦労なのだ。
 いいけど、と近寄って、袖から腕を抜くのを手伝ってやる。陶磁のように白く滑らかな肌が目の前で晒されてゆくのを、貴鬼の視線がうろうろと落ち着かなくさまよった。 不意に、彼の柔らかな唇と濡れた舌の感触が意味もなく思い起こされて、そのことも貴鬼の動揺を誘う。
 氷河の視線から逃れるように背後へ回った貴鬼の前で、氷河は衣服を脱ぐのを手伝われながら何度も呻き声を上げた。

「あの、」
 浴室の扉に当たって反響する貴鬼の声はずいぶん固く緊張していた。ん?と氷河は振り返らずに(姿勢を変えると痛い)声だけで答える。
「あ、頭、俺が洗ってあげようか。その肩じゃ、洗えない、でしょ」
 お前がか?と背中で答えた氷河の声は笑いが含まれていた。
「だったら、ついでにお前も入ればいい。ここじゃすぐに湯が冷める。いちいち湯を張り直すのも大変だからな」
 いとも簡単にそう言ってのける氷河に、貴鬼は、彼から見えないのをいいことに、思わずがっくりとうなだれた。
 やっぱり氷河は俺のことを「8歳」のままだと思っている。
 折に触れ、好きなんだという気持ちは伝えてきたはずなのに。多分、その「好き」は貴鬼の意図した意味では伝わっていない。
 氷河の柔らかな肌が指先に触れるだけで、貴鬼の心臓は音を立て、身体の中心に熱が熾きる。
 いつから好きだという気持ちが性の欲求に直結するようになっていたのか貴鬼にはもう思い出せない。 氷河をこれ以上つらい目に合わせてはならない、おいらが氷河を守りたい、という想いは、次第に身を焦がすような恋情へと変化し、 少年期を脱しかかった今、それは、少なからぬ獣の衝動と切っても切り離せぬものとなって、貴鬼の中に存在していた。
 だが、変化したのは貴鬼の方だけ。氷河はいつまでも、いいこだ、と貴鬼の頭を撫で、好きだと言っても、俺もだ、とずいぶん軽い返事を返すだけだ。

 どうしていつまでたっても俺は「おまけの貴鬼」から抜け出せないんだ。

 もう何度目かのループだ。答えが得られないから、貴鬼の思考はどうしてもそこから抜け出せない。

 何が足らないというのだろう。
 対等に扱って欲しいだけなのに。氷河も───それから、女神も。逸る気持ちを訴えるたびに二人とも少し困った顔をして貴鬼を見る。
 貴鬼を子ども扱いする氷河に感じる苛立ちは、そっくりそのまま一人前の聖闘士として戦わせてもらえなかった苛立ちに重なり、相乗効果で貴鬼の感情は乱れる一方だ。


 狭い浴室だ。
 少し動くとすぐに裸の肌が触れる。
 湯気で互いの姿がよく見えないのが、貴鬼にとっては幸いだった。引き締まった裸体を惜しげもなく晒している氷河の姿を目にすれば、きっとあっという間に理性なんか飛んでしまう。(ていうか今でも既に頭の中がぐるぐるして限界だ。)

 貴鬼の指先が濡れた髪を泡立て、湯をかけるのに大人しく身を委ねている氷河は、どうしようもなく貴鬼の欲を煽った。
 均整のとれた身体は無駄な肉など少しもついていない。むしろ、必要な肉さえついていないかのように細く、どこに神々と渡り合ってきた力があるのかと思えるほどに頼りなげだ。 青年期にさしかかったというのに、いつまでも少年のような瑞々しい肌が水滴をはじいている。その肌の上には無数の傷痕が刻まれてはいるが、それは彼の美しさを際立たせこそすれ、損なわせてはいなかった。 ただ、昏く燃す魔傷だけが無粋な禍々しさを放っている。
 濡れた髪に守られるように僅かにのぞくうなじは新雪のように真っ白で艶めかしく、唇を押し当てたい衝動と貴鬼は何度も戦わなければならなかった。
 胸の裡でぐるぐると渦巻く苛立ちが、「子どもじゃないんだって思い知らせてやればいい。誘ったのは氷河だ」と悪魔の囁きで貴鬼を弄する。まだ若い貴鬼にはその甘い誘惑に打ち克つのは容易なことではない。

 あんなに何度も好きだと告げてるんだ。いくら鈍いところのあるこの人だって、まるきり応える気がなければこんな風に身体を預けていられるはずがない。

 ───応えるもなにも、端から相手にされていないだけ、だ。だったら、うかつに踏み越えて、せっかく「子どもだ」ということを免罪符に手に入れたこの位置を失いたくない。 傍にいられなくなるよりは、例え「おまけの貴鬼」でも一緒にいさせてほしい。

 嘘だ、そんなの欺瞞だ。俺はもうおまけなんかじゃない。氷河が俺を子どもじゃないと認めてくれたなら───女神だってきっと。

 貴鬼の理性を乗せた天秤が右に左にと激しく揺れ動く。長いことこの葛藤とは戦ってきたわけだが、こんな風に自分の感情が制御できないほど乱れているのは初めてのことで、 そのことに戸惑いを感じていなければ、あっという間に誘惑に堕ちていた。

 背中を向けている氷河がくすぐったそうな笑い声を上げた。事実、肌の上を動く貴鬼の指がくすぐったいのだろう、傷に障るだろうに、ひゃ、と色気のない声をあげて身をよじりもする。
「変な気分だな」
 浴室に反響する氷河の声にドキ、と貴鬼の心臓が跳ねた。自分の邪な感情を見抜かれたのかと思った。
「お前も大きくなったんだな。前はこの浴室を狭いと感じたことはなかったんだが。そろそろ背も俺より大きくなったんじゃないか?」
 なんだ、と貴鬼は安堵の息をつく。氷河の「変な気分」というのは、貴鬼が感じている劣情とは別の意味だ。
「一体いつの話してるのさ。とっくに俺はあなたの背を越してるよ」
「まだ越してはないだろう?」
「越してるってば。あんなに悔しがってたの、忘れたの?」
「そうか?忘れたな。まあ、でもまだお前は子どもみたいなもんだろう」
「氷河、自分がいくつで聖戦を経験したか忘れてるでしょう。俺はあの時のあなたより、もうずっと年上なんだよ」
「変な奴だな。過去の俺と比べて年齢を議論しても意味がないだろう。お前が成長した分、俺だって年をとった。お前が俺より年上になることはないだろう?」
 氷河の肩が笑って揺れるのに、貴鬼は唇を噛む。
 そんなの、そんなの、言われなくてもわかってるのに。

「……油断してたら痛い目に遭うんだから」
「ん?」
「知らない。ほら、腕かして。湯船に入るから」
「ああ……悪いな」
 抱き上げようとするのを、素直に貴鬼の首に片腕を回して支えとする氷河は、そんなふうに笑えるほど年上らしくはないというのに。
 ぐらぐら揺れ動いている天秤がじわりと傾く。

 貴鬼は氷河を横抱きに抱いて、一緒に湯の中へと身を沈める。浴槽は、少年と青年の二つの体躯を収めるのには狭すぎるほどで、 せっかく張っていた湯のほとんどが浴槽の縁からざあっと音を立てて流れていってしまう。
 貴鬼の太腿の上へ背後から抱き締められるように乗せられたまま湯へ身を沈めた氷河は、狭い浴槽内で密着する身体に、さすがにやや気まずそうに身じろぎをした。貴鬼は、氷河の腰に腕を回してそれを止める。
「いいの、このままで。どうせ湯から上がるときも抱えるんだからあんまり姿勢変えない方がいいでしょ」
「そうだが……お前が重いだろう」
「何言ってるの。簡単な物理の問題でしょ。湯の中じゃ浮力が働くもん。氷河を膝に乗せておくくらい朝飯前さ。湯の中じゃなくたって、あなたは軽いしさ」
 そう言って、貴鬼は氷河の腰を引いて裸の胸と彼の背中をぴたりと密着させた。
 自分の心臓の音がうるさいほど鳴っていて、動揺を悟られそうだったが、彼に触れたい、という欲求からは逃れられなかった。
 こうしてるだけ。
 怪我してる氷河の身体を支える必要があるだけ、だから。
 正当な言い訳を得て、ぴったりと甘えるようにくっつく身体に、氷河の方も困ったように身を固くした。だが、守りを固めてくれた方がずっといい。何にも意識されないよりは。
 またじわりと天秤が傾くのを感じて、貴鬼は動揺を隠すために殊更大人びた笑みを氷河へ向けてみせた。