寒いところで待ちぼうけ

Ω:氷シリーズ

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における貴鬼×氷河
氷河がマルスの魔傷を負った直後のころのお話。(Ω時間から遡ること13年)


◆光さす、新しいあしたに ②◆

 毛布の下で氷河の肩がカタカタと小刻みに震えている。今でも十分高熱だというのに、これ以上さらに熱が上がるのかもしれない。

 氷河の熱は、やはり怪我からくるもののようだった。加えて、自分自身の凍気に当たったのかもしれない。
 貴鬼が彼を看病するには、まず小屋を正常な状態に戻すことから始めなければならなかった。
 慣れぬ暖炉を扱って火を入れる。
 そのことで霜付いた家具についていた氷は多少は水へと代わり、貴鬼はそれを拭いて回ればよかったが、 だが、聖闘士の小宇宙で生み出された凍気というのは一筋縄ではいかなかった。貴鬼自身も小宇宙を燃やしてひとつひとつ氷を溶かしてゆかねばならず、 最終的に全ての部屋をすぐに正常な状態に戻すことは諦めて、貴鬼は手っ取り早く暖炉の前へ、いくつか無事だったリネン類を引っ張ってきて急拵えの寝床を作り、そこへ氷河を移した。

 初期治療は既に聖域で受けている。抗生剤を自分で投与しているようだが、包帯は緩み、傷口からは血が滲んでいた。 一番ひどい傷は右肩だが、拳も足も、どこもかしこも傷だらけだ。何より、一番気になるのは───
「氷河、ごめん、ちょっと見せてね」
 高熱で朦朧として意識のない氷河に、一応の断りを入れておいて、貴鬼はそっと彼のTシャツの裾をめくった。 日に焼けていない白い肌は目に眩しい。だが、その滑らかなキャンバスに無粋に刻まれた昏い魔傷は───
 思わず貴鬼は息を飲んだ。
 広がっている。
 聖域で、彼が治療を受けているのを見たときは、脇腹に、受けた拳の形のままにそれは刻まれていたはずだ。 だが、今はどうだ。元々の形などわからないほど、それは蝕む範囲を広げている。
 どの程度の小宇宙を燃やしたのかは知らない。だが、暖炉の炎で溶ける程度の氷など、彼にとってはほんの子供だましにすぎない。 それなのに、たったそれだけのことでここまで急速に魔傷の侵蝕が進むとは───自分たちが想像していたより、 ずっと彼らの命は危険に晒されていることを思い知らされ、氷河の傷(魔傷ではなくフィジカルに負った傷の方だ)の具合を見る貴鬼の手が微かに震えた。

 それにしても貴鬼の手に触れる氷河の肌の熱さは尋常ではない。
 熱がどのくらいあるのか。体温計くらいはどこかに置いていそうなものだが、と貴鬼は小さな小屋の中を視線を巡らせながらうろうろと歩き回った。
 寝室。洗面所。キッチンの棚。
 思いつくところを見て回る貴鬼の胸が、時折、氷のように冷たい手でぎゅっと心臓を鷲掴みされたかのような痛みに軋む。
 揃いのカップ。三脚の椅子。かつて幼い弟子達が使っていたであろう踏み台。
 もう、用を為さなくなって何年にもなるというのに、それはそこにあった。

 ───海鳴り響く海底で。

 アイザック、と名を呼んだ氷河の苦しそうな横顔は今も貴鬼の脳裡に焼き付いている。

 氷河にあんな顔をさせてはいけない。あんな、見たこともないようなつらそうな顔は。まだ、おまけでしかなかった貴鬼はそれでも、氷河を守りたい、と思ったのだ。
 おいらが氷河の代わりに戦わなきゃ。その一心で貴鬼は海将軍に向かってみせた。
 だけど、力はまるで足らなくて。
 氷河は、だから、結局、彼の兄弟子と戦うしかなかった。ここで、家族のように共に育ったあの隻眼の少年と。 居並ぶ立ち姿も、交わす小宇宙も、まるで双子のように似通った二人であったのに。
 そんなこと、させたくなかった。あんな哀しい戦いはあってはならない。
 余計なことだ、と言われるだろう。彼とその兄弟子は戦わなければ終わらない何かを抱えていたのかもしれない。立ち入ってはいけない強固な絆を、あの戦いからは感じた。
 それでも、そのことはずっと貴鬼の胸にひっかかっている。
 俺に、もっと力があったなら。
 この小屋に残されたままの、三人分の食器やベッド。それらすべてが貴鬼を責める。師だけでなく兄弟子までも自分の手にかけた氷河の苦しみ。 あの時、俺に力があったなら氷河が負った十字架は半分で済んでいたかもしれないのに。
 二度と、己の届かない力を後悔したくなくて、ここまでひた走ってきたというのに、なのに、俺はまた肝心な時に何の役にも立てなかった。
 もう長いこと抱えてきた悔恨を今また改めて感じさせられ、貴鬼はギリリと強く奥歯を噛みしめる。

 結局、体温計の在り処はわからなかった。
 貴鬼自身の額で計る感覚としては、40度はゆうに越えている。すぐにも聖域の医療施設に連れ帰るべきだ。 だが、それほどの怪我を押してここまで帰って来た氷河の気持ちを考えるとそれはどうしても躊躇われた。
 治療のための道具も用品もまるで足りないのを、自分自身の小宇宙で癒す力を補いながら、ひとときも傍を離れず、祈るような気持ちで貴鬼は氷河の側に座り続けた。

**

 熱い。
 頭の芯が重く、ぼうっと霞んでいる。身体も痺れたように言うことをきかない。
 俺はどうしたのだろう、と氷河はぼんやり考え、しかしその思考すら重く痺れる意識の向こうに消えていく。

 それにしても熱い。
 喉が乾いた。
 だが、水を取りに行くのもおっくうなほど身体が重い。

 でも、喉、が。

 と、唇に温かなものが触れた。なんだろうと正体を確かめる間もなく、柔らかな塊がするりと氷河の唇を割り、同時に、何かが流れ込む。

 ああ、水、だ。

 氷河の喉がこくりと上下に動く。少しぬるいその液体が喉を通り、細胞が潤う感覚に、氷河の渇望感が僅かに薄れる。 温かなものは離れてゆき、ややして、それは再び氷河の餓えを満たすために戻ってきた。
 氷河は流れ込む液体を夢中で飲み干して、餌を待つ雛のように、唇を開いて次をねだる。
 二度、三度。求めるままに与えられる潤いに心地よく身を委ねていたが、何度か潤いを運んできた後にそれは不意に止んだ。

 もっと、と無意識に開かれた氷河の唇に、少し間があった後、再びあの温かなものが触れた。 潤いが届くのが待ちきれない、とばかりに、氷河は自ら舌でそれに触れる。
 だが、今度は勝手が違った。氷河がいくら求めても潤いが訪れない。ん、と不満げに鼻を鳴らして、氷河は舌先で水の在り処を探る。 温かな柔らかな塊に残った水の香りに夢中で吸いつき、舌を絡ませる。
 もう少し、と追いかける氷河の舌に応えるように柔らかな塊が氷河の濡れた粘膜の上を蠢く。

 その甘い感覚は、温かく、そして切なく疼く遠い記憶を刺激した。 氷河の眦から、意図せず涙がこぼれる。頬を伝う雫の感覚に、ようやく氷河の意識が覚醒を始める。

 氷河はゆっくりと目を開いた。
「カ…………あ……?貴鬼……か……?」
 氷河の視界いっぱいに広がった菫色の瞳と栗色の毛に、混乱する頭を整理するかのように氷河は何度も瞬きを繰り返した。栗色の癖毛に見え隠れする貴鬼の耳がほんのりと赤い。
「あの、ごめん、二杯目を、と思ったんだけど、氷河が、あの、離してくれなかったから、それで……」
 そういって貴鬼は右手に持っていた空のグラスを掲げ、同時に視線を左右に狼狽えさせた。 その視線を追ってみれば自分の両腕は縋るようにしっかりと貴鬼の首に巻きつけられていて、ああ、悪い、と氷河はそれを離す。
「もっと飲む?汲んでくるから待ってて」
 早口でそう告げて、貴鬼はあたふたと立ち上がって行った。

 氷河はそっとあたりを見回す。
 全て夢だったらよかったのに、とかつて何度も思ったことを今また思いながら、氷河は自分自身の身体の感覚を確かめるように身じろぎをした。 腹の辺りで、異質な魔の存在が醜く蠢いていることに急速に現実に引き戻され、それが忌々しく、思わず舌打ちをする。
 どうやらいつの間に来たのか、貴鬼が看病をしてくれていたようだ。

 そうか、貴鬼だったのか。
 貴鬼、だったのか……。

 現実認識にようやく意識が追いついて、じわりと胸に痛みが差した。ひどく幸せな夢の中にいた後、目覚めてそれが夢だったことを知る時に感じる、 あの、言葉で言い表せない寂寥感を今感じていた。
 会いたい、と願っても叶わぬ誰かの手を頬に感じたような。
 懐かしい声を聞いたような。
 夢でもいい。
 せめて、幸せな夢の中身を反芻したいのに、完全に目が覚めてしまった今は、もうどんな夢だったのかその輪郭はまるで靄の中のように朧げだ。 ただ、温かく、切なく、幸せで泣きたくなるような、そんな胸の疼きだけ残されて、思い出せないもどかしさに寂しさは増した。


 狭い家だというのに貴鬼が戻ってくるのはずいぶん遅かった。だが、氷河にとっても幸いだった。 気持ちを静めて現実に戻ってくるだけの十分な猶予を与えられた後に、氷河は貴鬼から二杯目のグラスを受け取った。
 一気にそれを飲み干して、氷河はさて、と立ち上がろうと片手をついた。途端に鋭い痛みが肩に走り、つっと短い声を上げる。
「駄目だよ、氷河、もう少し寝てないと……」
「貴鬼、俺はどのくらい眠っていた?」
「4日と少し……」
 貴鬼の答えに、氷河はくそっと呻いた。
「そんなに長く……?貴鬼、悪いが俺はもう行かねばならない」
 貴鬼の顔が悲しげに歪む。
「何言ってるの、そんな身体で……まだ熱だってあるんだよ」
「だが、星矢を」
「氷河」
 貴鬼の声が叱るような宥めるような縋るような複雑な色に揺れる。
「俺が星矢のこと心配じゃないとでも?あなたはまず、その怪我を治さないと無理だよ。……星矢なら、俺が連れ帰って、」
「いや、お前は駄目だ、貴鬼。今自由がきくのは俺だけだ。だから、」
「氷河!」
 悲鳴のような鋭い声を出した後で、貴鬼は力なく、お願いだから、とうなだれた。
「あなたがどうしても行く、と言うのなら、俺は力づくでもそれを止める」
 不穏な言葉を、どこか哀しげな色の瞳で告げる少年に氷河は首を振った。
「貴鬼、お前に俺を止める権利はない」
「あるよ」
「ないんだ、貴鬼」
「あるったら」
「なぜだ。いつから貴鬼、お前は俺に指図するようになった。何の権利でそうするんだ」
 氷河の言葉に、貴鬼ははっきりと傷ついた顔をし、そしてすぐにきっと瞳に力が込められた。
「何の権利で、だって?わかんないの、氷河!俺も聖闘士だからだよ!あなたも女神も認めてくれないかもしれないけど! 戦ってもない俺は聖闘士だって言えないかもしれないけど!だけど、俺は聖闘士だから、女神の聖闘士がこれ以上失われるのを黙って見ておくわけにはいかないんだよ!」
 今度は氷河の顔から血の気が引く番だった。
「俺が、星矢を助けられずに無駄死にするって言いたいわけか」
「……そんなこと言ってない……」
「いや、そういう意味だろう。俺の力を信頼しているなら止めはしないはずだ」
「だったら言うけど!追っていくってあてはあるの!?」
「……小宇宙を辿る」
「へえ?星矢が今も小宇宙を燃やし続けてるといいけどね?俺や沙織さんがどれだけ探っても見つけられなかったけど氷河なら見つけられるかもね?」
「貴鬼!いくらお前でも……!」
 ぐっと氷河の拳が握られる。だが、それは振りかざされる前に貴鬼の手のひらに包まれるように止められる。
「ほら。まだあなたは回復していない。簡単に俺に押さえ込まれてしまう。…………戦地にも立てなかった俺に、ね」
 自嘲的に漏らされた貴鬼の声に、この事態に苛立ちを感じているのは自分だけではないのだと気づかされて、氷河の拳が勢いを失う。 傷つけて、傷つけられて、傷つけたことに傷ついて、傷つくような弱さが己にあったことにまた傷ついて。
 自らの意志に反して雌伏を強いられた女神の聖闘士二人は、ままならぬ苛立ちに共に支配されて、そこに重苦しい沈黙が落ちた。
 
 口を開いたのは貴鬼が先だった。
「ごめんなさい、酷いこと言って」
 先に謝るべきは年上の自分の方だったのに、と氷河は気まずく、いや、と俯く。そして、その短い言葉だけでは足らなかった、と手を伸ばして貴鬼の頭を撫でた。
「すまなかった。悪いのはお前じゃない」
 かつては頭を撫でてやれば、へへ、と嬉しそうに笑った少年は、今は、撫でれば撫でるほど複雑そうに睫毛を伏せるばかりで、途中から気まずくなった氷河は力なく腕を下ろした。


「……ねえ、氷河、おなかすかない?」
 しばらくの後に貴鬼が顔を上げて、ことさら明るい声を出して笑った。
 俺はすいちゃった、と情けなく眉を下げてみせる貴鬼に救われて、氷河も思わず自分の腹に手をやる。
「そう言えば……すいている、かな」
「でしょ?あなたはずっと眠ったままだし、この小屋の中には食料なんてないし、買い出しに行こうにも、あなたから目を離すのは……」
 心配だったから、という言葉を飲み込んでおそるおそる氷河を見返す貴鬼に、氷河は重ねて、悪かったな、と言った。 長く滞在する予定ではなかったから、確かに食料は何も持ち込んでいない。
「あの、俺、買い出しに行ってくるから。少しは何か食べないと回復するものも回復しないよ」
「街は遠いぞ。歩いてはとても無理だ。橇もここにはないし、」
 氷河の言葉が終わらぬうちに貴鬼は立ち上がって、声を立てて笑った。そして、おかしそうにくすくすと笑ったまま、戸口まで歩いていくと、 一瞬笑いを止めて何か言いたそうな顔で振り返る。
「あの……俺がいない間に、」
 そう言いかけて貴鬼は氷河を見、何度もその先を躊躇った末に、結局、「……なんでもない」と言って扉を開いた。
 開いた扉が閉じきらないうちに、彼の姿が視界からフッと消え、それでようやく氷河は彼が笑った理由に思い至った。
 なるほど。雪の中を歩く必要などないわけだ。

 氷河は無事な方の片腕をついて、立ち上がろうとした。だが、身体全体が鉛のように重く言うことをきかない。節々が痛く、貴鬼の言うようにまだ熱は下がっていないのだろう。
 それでも、この程度のこと、と歯を食いしばってゆっくりと身を起こす。たったそれだけのことがひどく気怠く、額には不快な汗が噴き出した。
 這うようにして貴鬼が消えた戸口までゆっくりと進む。扉を開いてみれば、案の定、今しがたここを出たばかりの少年の姿はどこにも見えず、白の大地が広がっているだけだった。
 貴鬼のやつ、勝手も分からぬ街で買い物など、と心配しかけて、その必要がないことにやはり遅れて気づく。 物理的な距離など関係のない彼は、世界中どこの街へも買い物に行けるのだ、シベリアの街にいるとは限らない。その心配は意味がなかった。
 4日、眠っていたと言っていた。ずっと眠っていた氷河はともかく、面倒を見ていた貴鬼の方は早くから空腹を感じていたはずだ。 一瞬で世界を往復してみせることのできる少年は、それなのにその一瞬すら自分の側を離れようとせずに空腹を我慢していたのに違いない。

 何もない空間に向かって氷河は遠くを見るように手を翳した。
 見慣れた鉛色の空しか見えない。

 そういえば、目が覚めてまだ一度も彼に「ありがとう」と言っていない、と思った。