派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界の行間妄想。カプ要素薄め。ほのかに氷瞬のような瞬氷のような
貴氷シリーズとは完全パラレルです。
Ωの7~8年ほど前のお話。
みらい様による素敵な
イラストもお楽しみください。
◆未来の空はブルー ②◆
「氷河!」
扉を開いた人物は、男をそう呼んで、男の胸へ自分の身体をぶつけるように飛び込んできた。
男はそれを柔らかく抱きとめる。
『氷河』
ああ、俺はそういう名だった、そう言えば。
独りで行動している男の名を呼ぶ存在は多くない。
独りきりの時間を孤独だと感じたことはあまりないが、自分の名を新鮮だと思う程には長く、独りの時間を過ごしていたようだ。
「心配した、さっき、氷河の小宇宙が爆ぜたのを感じたから……」
そう言って瞳を潤ませる姿は、最後に会った時とほんの少しも変わっていない。
「泣き虫は相変わらずだな、瞬」
氷河が指の背で、頬に滲む雫を拭ってやると、瞬は少し頬を膨らませた。
「いつもいつも泣かせる原因の人が何言ってんの。ホントに……氷河ときたら……無茶ばっかりで……」
お前を泣かせる原因はもう一人いるだろう、俺よりさらに無茶な奴が、という言葉を氷河は静かに飲みこむ。
この上さらに泣かせたくはなかった。
代わりに、大丈夫、そんな無茶なことはしてないよ、と安心させるように瞬の背中を叩いてやる。
男の声に滲む嘘を敏感に感じ取って、だが、瞬は、それを追及することなく、疲れたでしょう、中に入って、と奥へと誘った。
小さなバラックでは、部屋数などそう多くない。
ツンと鼻をつく、医薬品の匂いが充満する部屋は、同時に居住空間でもあることを示すように木づくりのベッドや小さなダイニングテーブルが共に設えられていた。
「ごめん、一人暮らしだから椅子、揃ってないんだ。そこ、座って」
瞬の勧めた先のベッドにかけられた白いシーツには、たった今まで横たわっていた人物の形に乱れて皺が寄っていて、それがどことなく艶めかしい。
なるべくそれを視界から追いやってベッドへ腰かけながら、氷河は壁際の棚に目をやった。
薬も物資も豊富に種類が揃っている、とは言えない。
一人きりで、医師として看護師として薬師として、孤軍奮闘するのは苦労も多いだろう。だが、瞬が優しげに、そして気遣わしげに人々を癒す姿がありありと脳裡へ浮かぶ。
壁に『しゅんせんせい』と書かれた、多分、子どもの手によるものなのだろう、似顔絵書きが多数貼られていて、彼がここではなくてはならない存在となっているのであろうことが容易に推察された。
ちょっと待ってね、とキッチンに立った瞬はまだ白衣を纏ったままだ。
「似合うな。『瞬先生』」
え?と振り向いて、氷河の視線から白衣姿のことを言ったのだと気づいた瞬は少し頬を赤らめた。
「からかわないでよ。……必要なんだ、『医療者』の記号が」
ここは治安が悪いから。
『医師である』と、一目見てわかる格好をしておかないと、治療に必要な物資の買出しすらままならない。
ああ、と氷河も先ほどの出来事を思い浮かべる。
邪神が生命を奪った土地は、生命が育たぬがゆえに、人々から生きる糧を奪い、産業を奪い、生きる手段を失った民は略奪まがいのことをしてしか生きて行けぬようになる。
渓谷で出会った集団も、元はきっと善良な農耕の民だったのだろう。
氷河の身体に刻まれた魔傷と同じく、かの爪痕はその脅威が去った後もなお、この地の生命を脅かし続けているのだ。
眉根を寄せて、氷河は瞬の背に問う。
「大丈夫なのか?」
瞬は背中で笑う。
「変な氷河。聖闘士だよ、僕」
聖闘士だけど、もう以前のようには戦えないだろう、とは言葉にはできない。
その事実は氷河をも打ちのめす。
氷河の沈黙をどう受け取ったのか、瞬は、聖闘士だからね、と自分に言い聞かせるように重ねて言った。
「さあ、食べて。こんなのしかなくて悪いけど」
瞬が差し出したスープと固い黒パンを氷河は素直に受け取った。
久しぶりの温かい食事を堪能しながら、氷河は傍らのデイバッグを引き寄せて、中から一通の手紙を取り出して瞬にそれを渡す。
「龍峰から。ここへ来る前に寄ったんだ、紫龍のところ。と、言っても半年以上前のことだが……」
「龍峰?……字、覚えたんだ?」
『しゅんさんへ』
幼子が覚えたての文字を誇らしげに駆使して書いたその手紙は、残念ながら『し』が逆向きにひっくり返ってはいたが、それでも内容の判別に困らない程度にはきちんと書けていた。
「5歳になったんだっけ?いつの間にか字が書けるようになったんだね。……『おくすりありがとう。だいぶせきがでなくなってうれしいです』あ、よかった、あの調合、龍峰の体に合ったんだね。えーと、『げんきになったので、ぼくはせいんとのしゅぎょうをはじめました。おとうさんがしゅぎょうをつけてくれ……』……どういうこと、氷河」
文字を追っていた瞬の顏色がさっと青くなった。
瞬の反応を予想していた氷河は、スープを口元に運ぶ動きを止めずに、書いてあるとおりだ、と答える。
「書いてあるとおりって……龍峰はまだ5歳だよ?」
「俺たちだってたいして変わらない年齢から修行を始めただろう。……我が師など7歳で黄金聖闘士であられた」
「それにしたって、龍峰はあんなに身体が弱いのに!聖闘士どころか、普通に育つかどうかさえ……」
「聖闘士として修行することが治療になるかもしれないだろう。お前だって前に言っていたじゃないか。少しずつ鍛えて体力をつけてゆけば、と」
「少しずつ、の話だよ、僕が言うのは!いきなり聖闘士の修行なんて医者として許可できないよ!」
「大丈夫だ、紫龍がついてる。加減は心得ているさ」
「……だいたい、紫龍はどうやって修行をつける気なの……」
「俺たちには小宇宙があるだろう」
「わかってるよ!でも……だって……それじゃ、紫龍は……」
小宇宙を燃やした分だけ魔傷は侵食する領域を広めていく。
身体と比例して心へも。
突発的な事態に一度きり小宇宙を燃やすのとはわけが違う。龍峰が聖闘士になるまで、小宇宙を燃やし続ければその侵食はどこまで進むことになるか。
魔に侵される領域が己の大部分を覆った時、そこに残っているのは己だろうか、それとも既に邪神の僕と成り下がった己の成れの果てだろうか。全てを侵されきる最後の瞬間まで、己を保っていることができるという保証などどこにもない。
顔色を失った瞬は自分の想像に恐れおののいて身を震わせた。
氷河はコトリとテーブルの上へスプーンを置き、微かに唇を震わせている瞬の身体を抱き寄せ、その震えを止めるようにしっかりと腕の中へ閉じ込める。
「瞬……俺は紫龍と約束してきた。紫龍が万一、闇に囚われるようなことがあれば、その時は俺の手で紫龍を」
「やめて!!……い、いやだよ、氷河、万一でもそんなこと考えたくない……」
胸へ顔を埋めて声を震わせる瞬の細い背を氷河はゆっくりと擦る。
「心配するな。紫龍はきっと大丈夫だ。……龍峰の小宇宙も父親譲りで力強かった。きっと短期間の修行ですむはずさ、な?」
根拠のない気休めを言う男を、瞬は瞳を潤ませたまま、キッときつく睨みあげた。
「ひどいよ。氷河も……紫龍も。二人で勝手にそんなこと。星矢も兄さんも行方がわからなくて……僕が……僕がどんなに……」
「瞬……」
氷河は、困ったように何度も何度も瞬の頭を撫でた。
母の面差しによく似たまだ年端もいかぬ少年は、だが、その意志の強さだけは父に似て、僕、絶対に聖闘士になります、と氷河に言ってみせたのだ。
その幼さで、戦士の道を選びとった彼を、氷河は瞬が感じたように不憫だとは思わない。
お父さんを治したいから、というその理由は、氷河にはとても覚えのあるもの。
血の絆からくる込み上げる強い思いは、幼ければ幼いほど、誰にも止められないことを知っている。ましてや彼の父はまだ生きているのだから。
自分とは違って、そこには希望が残されている。そこに希望があるならば、幼さも、病弱さも全て乗り越えて進むべきだと、氷河自身は考えている。
戦うことそのものを是としない瞬にはきっとわからない理屈だろうが。
やがて、落ちる沈黙に耐えかねたように氷河がポツリと口を開く。
「瞬、俺は、紫龍がうらやましい。紫龍は……師からもらった全てのものを次代へと繋いで行ける」
俺には、師から預かっているものを託す相手はいない。
崇高な師が命を懸けて伝えたものを、自分の代で途切れさせてしまうのはあまりにつらい。
師の精神を、誰かへと繋いでゆきたいと心から切望しているにもかかわらず、生きているうちにそれが叶うという保証はない。
だから。
「俺には、紫龍の気持ちもよくわかる。紫龍がそう望むなら叶えてやりたい。そのために俺ができることと言ったら……」
瞬は返事をしないまま、また強く氷河の胸へ自分の顏を押し当てる。
長い時間を共に戦ってきたのは瞬も同じ。
だが、二人の師がどんなふうに生き、どんなふうに死んでいったか、黄金の戦士を師に持つ二人にしか分かり合えないものがきっとあるのだろう。
氷河は友の命を奪う約束などしたくはなかっただろう。約束を果たした時に彼の愛息が受ける苦しみをきっとわかっているだろうから。
紫龍は氷河にそんな約束などさせたくはなかっただろう。もう彼の手は、既に十分すぎるほど愛しい者の血で濡れているのだから。
それでも、二人の覚悟は揺るぎないのだろう。
それほどまでに、師から受け継いだものを残してゆきたいと言う気持ちは強いのだ。
あまりに崇高な師だったがゆえに。
止めて止められる二人ではない。
それでも堪らない寂寥感が溢れる。
師弟の絆に入り込むことも、同じ覚悟を分かち合うこともできないのなら。
僕にできることは。
「ねえ、氷河。ちょっと脱いでみて」
苦しそうに上下させていた肩の動きが止まったかと思えば、瞬は顔を上げて、至極真面目な顔でそう言った。
睫毛はまだ濡れているが、その瞳に涙はない。
「……え?」
意図がわからず、目を瞬かせる氷河のTシャツの裾に瞬は手をかける。
「聞こえなかった?脱いでって言ったの」
聞こえたからこそ意味がわからず問い返したのだが、再び同じことを言われて氷河は困惑して眉根を寄せた。
瞬は自分の白衣の襟を叩いて、氷河に自分が何者なのか、を思い出させてみせる。
「診察。してあげる」
「えっ……べ、別にいい」
「駄目です。医者の言うことは聞いてください」
「診てもらわなきゃいけないようなことなんか俺は何も……」
「ふうん?そう?」
そう言って、瞬は氷河の首筋についた真新しい切り傷を、つ、と撫でた。そして、自分の背に回されていた腕を取って、拳を開かせる。そこにもまだ血の滲む、新しい傷。
瞬の指の動きは、傷の深さを確かめるように優しく這わされているだけなのに、どこか後ろめたい気持ちになって、氷河は視線を逸らす。
「僕に見せられない理由があるんでしょう?」
「……そういうわけじゃない」
「じゃ、脱いで見せてよ」
詰め寄る瞬の勢いに、たじたじと後ずさる氷河を追って、瞬の膝がベッドの上に乗り上げられる。
氷河はさらにベッドの端へと後ずさる。
「いいって。ホント、どこも悪くない。な?」
「氷河。『瞬先生』の言うこと聞けないの?」
めっと子どもを叱るような声で腰に手を当てて見せる瞬は、その可愛い顔に反して、言い出したら聞かないところがあることを知っている。氷河は観念して、わかったよ、と自らTシャツを脱ぎ捨てた。
これでいいか、と問う氷河の声に、瞬の、息を呑んだ音が重なる。
氷河をベッドへ横たわるように促して、瞬はその肌へ指を滑らせた。
よく日に焼けて健康的な褐色をした手足と対照的に、常に衣服で守られている胸や腹は、透き通るように白く、彼に異国の血が流れていることを思い出させる。
だが、そんな積もりたての新雪のごとき白き肌を、無遠慮に蹂躙する魔の刻印は、見るたびその姿を変え確実に氷河を蝕んでいる。苦しげに震える瞬の指が、氷河自身の肌と、昏く蠢く魔傷との境を辿っていく。
「前よりずいぶん広がってる……一度や二度じゃないでしょう、氷河……」
「気のせいだろ。前に会ったの、ずいぶん昔のことじゃないか。記憶違いじゃないのか」
そう嘯く男を、瞬は上目づかいで見て、首を左右に振った。
「医師を舐めないでよね。ほら……ここ……第九肋骨の開放部分の縁……前は確かにここまでだった。なのに今は……」
瞬の指は、薄い皮膚の下にある筋肉の層も越えて、骨格を的確に探り当てて見せる。その動きに、氷河は気まずそうに口ごもり、もういいだろ、と手元のTシャツを手繰り寄せた。
瞬の手がそっとそれを止めて、氷河に向かってにこりと微笑む。
「駄目。治療はこれから」
治療?と聞き返した氷河の問いには答えず、瞬は手のひらを、氷河の魔傷の上に置き、すうと息を吸いこむと、彼が止める暇も与えず、一気に小宇宙を最大限に爆発させた。
春色の温かな瞬の小宇宙だが、究極にまで高められたそれはむしろ炎のような激しさで熱く氷河の中へ流れ込む。
瞬が何をしようとしているかに気づき、氷河が慌てて瞬の腕を掴んだ。
「やめろ、瞬!」
細い腕なのに、腰を中心に広がる魔傷の上に触れているその手は強い力で押し付けられていてびくともしない。瞬の手から流れ込む小宇宙が、氷河の中に潜む闇の力と内奥でせめぎ合って、体が燃えるように熱い。
「……くっ……瞬……!本当に……やめるんだ!」
「やめ……ないっ。今なら、まだ、僕の小宇宙で浄化できるかもしれないもの……っ」
「そんなことをしたらお前の方が……うっ……あぁっ!」
悲鳴をあげているのは氷河自身なのか、それとも、彼の中でぬくぬくとその身を潜めていた魔の欠片か。やめろ、と瞬を見上げる氷河の首筋に汗が滲み、金髪がそこへ貼りつく。
目を閉じて、氷河の中に横たわる魔の気配を自分の小宇宙で囲い込むように封じるべく意識を集中させる瞬の額にもじわりと汗が浮かぶ。
瞬自身の左腕に眠る魔の欠片が、小宇宙という糧を得て歓喜の声を上げ、もっと、もっとと耳元で妄りがましい囁きを繰り返す。
どこか淫猥なその囁きに身を委ねてどこまでも堕ちてゆきたくなる誘惑と戦いながら、せめて氷河だけでも、この果てない苦痛から逃れさせてやりたいと、瞬は己が小宇宙を氷河の中へと注ぎ続ける。
瞬がどれだけ心配してみせたとて、氷河は無茶をすることをやめないだろう。
だったら。
無茶をすることができる身体に戻してやるしか。
この細い腕のどこにそんな力があるのかと思いたくなるような強い力で氷河の身体を押さえつけ続ける瞬の腕を、氷河もまた強い力で押し戻しながら、同時に壁に貼られた似顔絵書きを指差して叫んだ。
「子どもたちはどうなるんだ、瞬!俺一人のために、彼らから『瞬先生』を奪っていいのか!」
『子どもたち』
その言葉に、瞬は一瞬だけ怯んだ。その隙をのがさず、氷河は瞬の腕を振りほどいて跳ね起きるように体を反転させ、逆に瞬の両腕を戒めてベッドへと縫い留める。
小宇宙の燃焼と、魔の力との激しいせめぎ合いに、互いに息は上がり、玉のような汗が肌を伝って落ちる。
「『医師になって、たくさんの人を救いた』かったんだろう、瞬……」
同じ、人を救うなら。
戦士ではなく、人を癒す仕事に就きたかった、そう言ったじゃないか。
だから今、お前はこうして無医村を巡り続けているんじゃないのか。
治安の悪い地域に臆することなく赴ける、腕に覚えのある医師ってアリじゃない?って笑っていたじゃないか。
お前が救うべき命は俺じゃない。
たくさんの可能性を秘めている子どもたち。
そうじゃないのか。
お前の闘いの場はもう、戦場ではなく、医療へと移っているはずだろう。
氷河の言葉に、瞬は静かに涙した。
まだ、身体を、心を切り裂くような苦痛を伝える左腕を悔しそうに見やる。
瞬の視線の動きに、氷河はゆっくりと戒めを解いて、大きな溜息をついて自分もその隣へ身体を横たえた。寄り添い、触れるところから体温と、どくどくと脈打つ血流が触れる。
虚脱した状態のまま、二人はぼんやりと天井を眺める。
「僕は子どもたちを救いたいんだ、氷河……」
「ああ」
「僕がどれだけ治療しても治療しても終わりはない。医療から隔絶されて困っている僻地は世界中にあって、どれだけがんばっても追いつかないんだ……」
「ああ。それが今の瞬の闘いだ。俺に構ってる場合じゃない」
闘えば闘うほど、無力さに打ちひしがれる。
もしかしたら、戦場にいる時より、瞬の闘いはずっと苦しく、終わりのないものかもしれない。
だが、もう進み始めたのだ。
氷河とは別の道を。
「氷河……無茶しないって約束して」
「大丈夫だ」
「ちゃんと誓って。僕に……氷河を殺させないで。お願いだから」
「誓う。瞬には俺を殺させない」
言いながら氷河は腕を持ち上げて、それを無意識に自分の左胸へとやった。
そこにはかつて、一度氷河を死の縁へ追いやったひときわ大きな傷痕が残っている。
俺を殺す男がいるとしたら、それは───。
小宇宙を燃やすたびに、じわりじわりと皮膚を侵す範囲を広げていく魔の刻印は、その傷痕にもぞろりと舌をのばし始めている。このまま侵食が広がれば、いずれそれすら魔に飲み込まれて消えてしまうだろう。
同じ男のことを思い出したのか、瞬がごろりと身体を氷河の方へ傾け、傷痕の上へ置かれた氷河の掌にそっと自分のそれを重ねた。