寒いところで待ちぼうけ

Ω:その

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界の行間妄想。カプ要素薄め。ほのかに氷瞬のような瞬氷のような
貴氷シリーズとは完全パラレルです。

Ωの7~8年ほど前のお話。
みらい様による素敵なイラストもお楽しみください。


未来あしたの空はブルー ③◆

 瞼の裏に感じた僅かな明度の変化に、氷河の意識は敏感に反応し、己を覚醒へと向かわせ始めた。
 久しぶりの深い眠りのせいか、目を開いても、一瞬、ここがどこかわからず、見慣れぬ天井と壁に視線を彷徨わせて、しばし記憶を遡る。
 鼻腔を擽る薬品の匂いと、腕に触れる柔らかな亜麻色の髪の感触に、ああ、とようやく完全に意識が覚醒した。
 窓の外は薄紫の闇を残していて、まだ夜が明けきってないことを示している。
 だが、夜明けは近い。
 闇が薄くなったことで、本能的に氷河が覚醒したほどには。
 身体はずいぶん気怠く、身を起こすのは億劫で、このままとろとろと温かな体温を隣に感じながら微睡む誘惑に打ち克つのは相当な努力が必要だったが、氷河は、瞬を起こさぬよう慎重に注意を払いながら、どうにか半身を起こした。
 ゆっくりとベッドの縁へ腰かけ、穿いていた時の形のままで床に転がっていたスラックスを引き寄せてそれに足を通す。


「まさか黙って出て行くつもりじゃないよね?」
 不意に背後から響く声に、ギクリとして思わず振り向く。
「起こしたか……悪い」
「ううん。たいていこの時間には目が覚めるから氷河のせいじゃないよ。で?」
「……ええと、黙って、ってつもりじゃなかった」
「そう?僕が起きなきゃ、置手紙ひとつで発つつもりだったでしょう」
 図星を指されて、氷河は気まずそうに口ごもった。
 言葉を探して、困って俯いている金髪に瞬は手を伸ばす。梳るようにさらりと指を通して瞬は笑った。
「そんな叱られた子どものような顏しないでよ。別に引き留めるつもりも、怒るつもりもないから。ただ、いつもいつも黙っていなくなられると寂しいだけ。たまには見送らせてくれてもいいんじゃない?」
「……ごめん」
「謝らないでってば。……どうしたの、氷河、これ」
 氷河の柔らかな金髪に通していた瞬の指の動きが止まる。
 さらさらと根元から毛先へと流れを追って梳っていた指が、その終点が不意に途切れている箇所に気づいて、そこをひと房掬って持ち上げた。
 ん?なにが?と視線をやって、肩から下の毛先がバッサリ途切れた箇所に氷河も気づいた。
「ああ、昨日ちょっと」
 それ以上を語ろうとしない氷河に、瞬は大仰に溜息をついて見せ、氷河はますます小さく俯いた。
「ここは論外だけど……氷河、ちょっとずいぶんひどい頭してない?」
 少し癖のある髪は、何の手入れもされていないのだろう。
 伸びたい放題、伸ばしたい放題伸ばされた金色の髪は、瞬が知るどの氷河の姿よりも長く背中を覆っている。その毛先は日に焼けて、パサパサと広がり、元の美しさの原型も留めていない。
 前髪だけは少し短く形作られていて、後ろほどひどくはないが、それもずいぶん不揃いだった。
「そんなにひどいか?ちゃんと時々自分で適当に切ってるけどな……」
 自分で、適当に、ね……。
 瞬は呆れて、この困った大きな子どもを見やった。

 きちんと手入れして、見た目に気を配れば、それはそれは貴公子然として、あらゆるものを惹きつけずにはいられないほどの容姿をしていながら、本人は全くそれに頓着していないどころか、何故皆が振り返るのか理解していないところは氷河らしいと言えば氷河らしい。
 常に戦士としてあろうとする氷河には、美しく整った容姿など全く不要なものなのかもしれないが、それでも「髪を切る」という、普通の暮らしなら当たり前にやってくる日常的な営みにすら無関心な、氷河のストイックさは哀しくもあった。

「来て、氷河。僕が切ってあげる」
 自分も身なりを整えてベッドから下り、氷河の腕を引いて立たせれば、案の定、別にこのままでいい、というそっけない返事が返る。
「そのくらいの時間、僕にくれてもいいでしょう?……外で切ろうかな。掃除が楽だし。まだちょっと暗いかな?でも、切ってるうちにだんだん明るくなってくるから平気だよね」
 氷河の了解は取らずに、瞬はさっさとダイニングの椅子を庭先まで運んで行く。
 そうしてしまえば、氷河が重ねては突っぱねないことを知っている。
 夜露に濡れた下草の上へ椅子を置き、鋏と櫛を取りに部屋へ戻ると、思った通り二度目は氷河も一緒について外へ出た。

 まだ地平線から太陽は顔をのぞかせてはいない。
 だが、東の空はすっかり白んで、日の光の再生が近いことを知らせている。
 ゆるやかな丘陵の一番上に立つ瞬の住むバラックからは、集落全体が見渡せた。
 距離を置いてポツポツと点在しているバラックはまだどれも静寂に包まれていて、動くものといえば二人と、バラックの上に止まって囀りの時を待つ白い小鳥だけ。

 瞬はにっこりと笑って椅子の傍に立った。
 氷河は肩をすくめて、そこへ長い足を組んで座る。

「医療用の鋏と、キッチン鋏しかないんだ。完璧ってわけにはいかないと思うけど、そこは勘弁してね」
「いい。瞬に全部任せる」
 困ったように抵抗してみせていても、最後はいつも優しく微笑んで瞬の言葉に従う氷河は、まるで初めから自分がそう望んだかのように瞬に己を委ねる。
 たいていの場合はこうして、常に自分の気持ちを優先させてくれる氷河なのに、肝心の時だけは絶対に自分の意志を曲げず、どうしようもなく頑固になるところは、どこか兄に似ている、と思った。似ている、と言えば二人はうんざりした顔をするだろうけれど、とくすりと瞬は笑い、だが、その兄が顏を歪めるところを再び見ることがあるのだろうか、とすぐにその笑顔は蔭る。


 隠しきれない不安感を振り払うように、瞬は二度三度と頭を振って、改めて氷河の髪に櫛を入れてゆく。

 ずいぶん長いこと放置したものだが、酷い痛みは毛先だけで、根元の方は本来の艶やかな美しさが残っている。
 どうせ、瞬と別れてしまえば、途端に不精するに違いない、と、瞬は、少し大胆に鋏を入れてやること思いついた。兄さんみたいに短く、と今しがた脳裡を横切った面影を、ついまた追うようなことを考えてしまう。
 柔らかな感触の金糸を指でそっと掬っていけば、日に焼け残った白いうなじが姿を現して、まだ薄く群青色の夜が残る空気の中では思いのほか目に眩しく映った。
 短くすることでその滑らかな肌を、日中の酷薄な太陽の下へ曝け出すことになるのは躊躇われて、やはり、いつもの氷河らしく肩甲骨のあたりで揃えてやることにする。

 氷河は時折くすぐったそうに身を捩りながらも、意外にもそんなふうに世話されることに慣れた様子で、瞬の指の動きを助けるように少しずつ首を傾けてみせさえする。
「……お母さん?それともカミュの方かな?」
「えっ。な、何が?」
「今、氷河が思い出してた相手。前にも誰かにこうして髪を切ってもらったこと、あるんでしょう」
 鋏を持つ瞬の指の下で、金糸に埋もれたうなじが薄赤く染まった。主が言葉を紡ぐより早く、体が肯定の意を示し、それに遅れて主の言葉が重なった。
「まあ……それは……どっちも」
 どっちも、なんだ。
 瞬は氷河に気づかれない様にくすりと笑った。
 幼い時は母に、その後は師に。
 きっと自分で何とかせねば、と思うよりずっと早く、彼らの手が差し伸べられて、一度も自分で容姿に気を配ることなく、ここまできたのだ、この貴公子様は。
 とても微笑ましくもあり、だが、そんな彼らはもう二度と氷河の髪に触れることの叶わぬ存在なのだと言うことが切なくもある。


 赤くなった氷河は、それをごまかすかのように視線を逸らし、まるで今初めて気づいたかのように声をあげた。
「鳥が……いるんだな、ここには」
 氷河の視線の先を追って、そうだね、と瞬は頷く。
「ここには水量は少ないけど水場があるから。緑もあるし、土地は荒れているけど少しは作物も取れる。生き物の数は少ないけど、ちゃんと生態系も築かれてるよ。……鳥、そんなに珍しい……?」
「そうだな……ここへ来るのに通った渓谷では鳥どころか虫も見なかった」
 瞬は瞳と同じ、榛色の睫毛を伏せて、哀しそうにそれを震わせた。
「そう……。普通なら、どんな過酷な環境でも、適応種が現れてくる頃なのにね」
 生命を育まぬかに見える冷たい貌をした、酷暑の砂漠にも、極寒のシベリアにも、命が芽吹く、それがこの星の本来の逞しい姿。
 だが、魔の赤き炎が残した呪いは、その逞しき命の脈動すらも何年にもわたって封じ続けているのだ。
 それゆえ、戦いの跡地を巡り、邪神の封印を監視して歩く氷河の目に、生命の息吹が触れたことはまだなく、彼の、命を育む水のような美しい色の瞳は、ただ、死の気配ばかりを映し続けている。

 哀しげな瞬の声に応えるように氷河の拳がぐっと握られる。

「だが……人間に会った。彼らは何故、死の谷に今も留まっているのだろう……この辺りまで移り住むわけにはいかないものなのか?」
『会った』のじゃなくて、もっと不穏な事態だったんじゃないの?と瞬の髪を掬う手に力が込められたが、氷河がそれに気づいた様子はない。
「移住は……難しいんじゃないかな。この辺りにある水場はどこも本当に水量が限られているんだ。水は金より重宝されている地域で……水辺に住む権利を守るために皆武装していて、治安が悪いのはそのせいでもあるんだ。新しく民を受け入れる余裕は、多分、どの集落にもないと思う。それでなくても貧困に喘いでいるから……」
 瞬は、自分の管理下にはない事態を、至極申し訳なさそうに、恥じたように告げる。
 どこまでも他者の気持ちに寄り添うことを常とする彼らしい純真さで。

 重く、苦しい話題ばかりだ。
 逸らしても逸らしても、最後は沈黙で終わってしまうような。
 何か明るい話はないのだろうか、と探してみても、氷河の方にも、瞬の方にも、取り立てて楽しげな話題は落ちていなかった。
 耳元でショキショキとリズムを刻む鋏の音だけが、まだ少し冷たい空気の中へと消えて行く。

 静かだ。

 ここが仲間のいる日本で、煩いほどしゃべりっぱなしの皆に囲まれてのことだったら、どんなにいいだろう、と感傷的な気分を二人は共有して、だが、それを言葉にすることはなく、ただ息をついた。


 そういえば、と口を開いた瞬の声は僅かに湿っていたが、氷河は何気なく、うん、と答える。
「ロザリオ、どうしたの。昨日から気になってたんだけど……」
 いつ、どんな時も氷河の肌から離れたのを見たことがないノーザンクロスが、氷河の胸元に光っていない。
「ああ、失くしたんだ」
 そう答える氷河の口調は至極あっさりしている。

 母の形見を失くした、という割に、沈んだ様子のない氷河を少し首を傾げて瞬は窺い見る。
「どこかで落とした?よく探してみた?」
「うーん、予定外だったけど……いいんだ」

 あんなものでも、生きる道を失った彼らが命を繋ぐ糧になるのなら。

 自分はもう執着は捨てた。
 物にも、地にも、人にさえ。
 大切なものは、常に氷河の心と共にあることを知っているから。

「?ふーん……氷河がいいなら僕はいいけどさ」

 氷河の肩からハラリハラリと下草の上へ金の髪が落ちてゆく。
 草の色を映した金髪はまるで、新芽が萌え出て来たかのように柔らかく辺りを覆った。


 瞬はくるりと氷河の前へ移動した。前髪は、瞳が見えるように、と短くすることは決めてある。
 額を覆う前髪を上へあげてみせると、氷河は、遮るものがなくなった視線をどこへ向けるべきかうろうろと彷徨わせ、結局、どこへも視線を定めることなく睫毛を伏せた。
 左目の瞼の上へ、白く残る傷痕が目に入る。
 互いに全身に傷痕など無数に残っていると言うのに、何故か目に入る傷痕といえば決まっている。
 傷痕自体が特別に存在を主張しているのか、それを見るこちらの感傷のせいか。
 瞬はそれを人差し指の腹でそっとなぞった。
「瞬」
 傷付いたように発せられた短い音の中に、色濃く罪を恥じる色が混じっていて、そこに触れることはまだタブーなのだと知れる、
「ごめん」
 瞬の指はすぐに離れ、最後の仕上げへと移ってゆく。

 吸い込まれそうなほど澄んだアイスブルーの瞳がよく見えるように。
 絶妙な長さを探し当てた瞬の右手が、シャキ、と音を立てて視界を動く。

「うん、これでいいかな」
 鼻の頭に乗った髪を払ってやりながら、瞬はにっこりと微笑んだ。
 犬のようにプルプルと頭を振って、氷河は椅子から立ち上がる。
 ちょっとチクチクする、と子どものような言い方をした氷河の肩に手を伸ばして、髪をパラパラと落としてやる。
「ごめんね。仕上げに洗ってあげたいけど、ここでは水は貴重だから。一日一度の湯あみが限界なんだ」
「いい。わかっている。……なんか頭が軽い」
 瞬はプッと吹き出して笑った。
「頭が重くなる前に、また僕を訪ねてきて。次はちゃんと髪を切るのにちょうどいい鋏、用意しておくから」
 瞬自身も世界中を移動している身だ。『次』がいつになるかはわからないことは知っている。
 それでもそう言わずにはいられない。
 例えいつになるかわからない約束であっても、この男の未来を束縛しておかなければ、簡単にあちら側に行ってしまいそうな気がして。

「『瞬先生』の病院も美容院も、氷河のためにいつでも開けておくから、ね?」
 おどけて、毎度ありがとうございます、と頭を下げて見せると、氷河は初めて声を出して笑った。びょういんでびよういん?と言葉遊びを楽しんで、二人でくすくすと笑う。

 その時、ちょうど、地平線の彼方に、太陽の縁が顏をのぞかせ、小さな集落に一条の光が射しこんだ。
 それは氷河の、美しく整えられたばかりのハニーブロンドを煌かせ、笑み崩れている彼の穏やかな表情を照らす。
 一瞬、空気中の塵の加減か、それとも、願望が見せた幻か、瞬は氷河の背中に、失われたはずの翼を垣間見たような気がした。
 彼の戦士としての象徴でもある、純白の鳥の翼を。

 瞬?と、生まれたばかりの柔らかな白い光を受けて振り返る氷河の姿は、まるで一幅の天使絵のようだった。

 ああ、と何故だか泣きたくなるほど胸が痛い。

 大丈夫。僕たちはまだ、何も失ってなどいない。
 どんなときにも、支え合う仲間がいる限り、そこに光は差す。
 昏き冥府にも光を呼び込んだ、あの時のように。


「じゃあ、瞬、元気で」
「うん、氷河もね」

 すぐに再会の機会はやってくるかもしれないし、何年も音信不通になってしまうかもしれない。事と次第によってはこれが最後となる可能性だってないわけではないことを二人は身を以て知っている。
 それでも、別れはなるべく淡々と済ませる。また明日ね、とでも続きそうな軽い調子で。

 また明日。

 離れていても、進む道が分かたれていても、求める世界が同じである限り、きっとまた道は交わる。

 だから長くは背を見送らない。
 だから振り返らずに歩いてゆく。

 束の間、交わった二人の道は、また次に交わる日まで、それぞれの日常の中へと伸びてゆく。

**

 来た時とは逆に、踏みしめる足元の大地は、だんだんと礫混じりになり始め、やがて、その感触はさらさらと流れる砂へと変わっていく。
 来し方とは違う方角へと進んだにも関わらず、やはり前方に広がるは果てしない無機質な砂の王国。
 何度も邪神との激しい攻防を繰り広げた戦場となったこの一帯は、命ある地は少なく、ここもまた、死の呪いから免れえずに音無き慟哭を響かせている。
 男は、監視の目を強めながら、次なる地へと巡ってゆく。

 サク。
 サク。
 サク。

 色彩のない大地を、足を取られながら歩いてゆくのは、どこか故郷での光景に似ていいたが、白の魔物が覆い尽くす大地であっても、ここほどに生命を感じさせないということはなかった。
 氷の下を時折流れる影や、低く垂れこめた灰色の雲の間を飛ぶ渡り鳥。
 凍えるような寒さのモノトーンの世界にも、命は確かにそこにあった。


 サク。
    ────サク。
 サク。
    ────サク。
 サク。
    ────サク。


 男の足音に、もう一つ、足音が重なる。

「今日は一人なのか?」

 気配を隠そうともせずに背後を歩く、小さな影にそう呼びかけてやれば、それは、不安定な足場をものともせずに、くるりと高く跳躍して、男の前へと移動してみせた。

 その影は、相変わらず自分の背丈ほどもある剣を鞘にも収めないまま、片腕で軽々と振り回し、それを男にピタリと定めて物言いたげな視線を寄越した。
 あどけなさの残る瞳はやはりどこか、刺激を求めて胸躍らせているようで、男は、困ったものだ、と微かに息をつく。

 静かに少年の視線を受け止めていた男だが、突然、影に向かって足を踏み出して間合いを詰めた。
 男の方から攻撃の一手に出るとは思わなかったのか、小さな影は不意を突かれ、身を躱すことなく、耳元に鋭い拳圧による風を受けた。
 男がいつ足を踏み出していつ拳を繰り出したのか見切ることすらできなかったことに、幼き影の背に冷たい汗が流れたが、彼は構えていた剣だけは本能的に振りぬいていた。
 それは男の腕を掠めて、マントの下の皮膚を切り裂いたようだ。
 ポタリ、と砂地の上へ赤い飛沫が飛び散る。

 その光景に、剣を遊び半ばに操っていた幼い心にも違和感が走る。

 男の拳はなぜ自分を撃ちぬかなかったのか。
 この男の腕なら、過たず一撃で致命傷を与えらえたに違いないのに、と、おそるおそる男の方を見やると、男はその、突き出した拳に柔らかく何かを握っていた。

「お前の肩に乗っていた」

 男はそう言って膝をつくと、拳の中に収めていた何かをそっと砂地の上へと下ろした。
 砂の上でそれは、カサリと、足を動かす。
 暗褐色の両の鋏は蟹にも似ているが、それにしては胴体が長く、同じくらい長い尻尾がついている。

 小さな影が見せた疑問の表情に、男は、そうか、見たことないのか、と呟いた。

「蠍だ。毒針を持っている」
「え……っ。だ、大丈夫なの、素手で触って……?」
「いや、ちょっと刺された」

 平然とそう答える男に、小さな影は、己が剣で傷つけた男の腕を気まずく見た。
 男はその毒針の脅威から自分を守るために拳を出したのであって、なのに俺は……。
 謝らなければ、と迷って口を閉じたり開いたりしているうちに、男の方が先に声を出した。
「渓谷にはいないんだな?」
「う、うん。こんなの初めて見た。っていうか、こんなのじゃなくてもあそこには何にもいやしないよ」

 男はしばし思考に沈む。

 それは渓谷だけでなく、この地もきっと同じだろう。
 では一体この生き物はどこから来たのか。
 男か、この少年が途中通った緑陰のどこかからついてきた、という可能性もある。

 だが、あるいは。

 生命を奪われ、無に返された大地に、もしも新しい命が芽吹き始めているのだとしたら……?

 男は片頬を歪めて、嘲るような笑みを浮かべて見せる。
 自分自身の左半身で蠢いては魔の囁きを続ける闇の徴に向かって。

 見るがいい。
 貴様の醜悪な奸計など、この星の生命の前では、何の役にも立ちはしない。
 それは、強く、逞しく、どれだけ踏みつけられても、自らの命を紡ぐ道を必ず見つけ出す。
 泥にまみれ、みっともなく足掻きながらも、その道筋は未来へと続き、決して途切れることはない。


 男は、まだつうと流れる自分の血よりも、毒を持つというその生物の方に気をとられているらしい。
 特徴的な長い尾部を威嚇するように振り上げて、砂地の上を後ずさっていく小さな生物の去りし方をじっと見つめている。

 予期せず流れた血に、幼き少年の心に生まれた罪悪感は、その捌け口を、原因となった生物へと向かわせた。
 男を刺したという、その毒を持つ生物めがけて、剣を振り上げる。
 が、すぐに男が彼の腕をとってそれを止めた。
「殺してはいけない」
「だって、毒があるなら危険だ」
「それでも、殺しては駄目だ。貴重な……生命だから」
 蠍は尾を振り上げたまま、じりじりと砂地の上を這って、岩陰の方へと歩みを進めている。
 そこへ巣でもあるのか。
 それとも、初めての地に本能的に隠れる場所を探しただけか。
 どちらでもいい。
 まずは生きて動くものの姿があること。
 それが次なる命を呼び込む道しるべになる。


 暗褐色のシルエットが、完全に岩陰に消えたのを見守って、男はようやく立ち上がった。
 立ち上がって初めて、男は己の腕から流れる血に気づいたようだが、それがほとんど止まりかけていることを知るや、傷口をちょっと拭ってそれで済ませてしまった。
 手当てを、と言いかけた少年の言葉は、行き先を失って、喉奥で消える。

「さ、刺されたとこ、大丈夫なの……毒とか……」
 本当は自分が傷つけた刀傷の方をこそ聞きたかったのだが、つい、先にそちらを聞いてしまう。
 男は手のひらを確認するようにひらひらと動かしながら、柔らかく笑った。
「大丈夫。俺は蠍の毒には免疫がある」
 そう言いながら男はその痛みを思い出したかのように、少し脇腹を押さえてみせた。


 小さな影は、躊躇いがちにゆるゆると男の方へ拳を突き出す。
 拳の中に握られているのは男のロザリオ。
「返しに来たんだ」
 装飾品を一切身に着けていない男が、唯一身に着けていた祈りのための十字架。
 何度も鎖を繋ぎなおした跡の残る、年代を感じさせるそれを、命を救ってもらった後で重く感じるほどには彼らの中にも心は残されていた。
 少年は、怪訝な顔をしている男に向かってそれを放って寄越す。
 放物線を描いて落ちる鎖を片手で受け止めて、男はそれを見つめた。
「売ればそれなりの値にはなるはずだが」
 暗に、そうしてもよいと含みを持たせた男の言葉に、少年はただひたすら、ふるふると首を振った。
 代わりに、胸に秘めてきた決意を言葉にしてみせる。
「俺、いつかあなたみたいな人になりたい」


 憧れを素直に向けるあどけない瞳に、男は俺など別に……と言いかけ、だが、すぐに思い直した。

 俺には友のように師から受け継いだ全てを、誰かたった一人に伝える、ということはできないかもしれない。
 だが。
 こんなふうに、あの、崇高だった師の精神のほんの欠片であっても、残してゆくことはできる。
 自分自身の生き方で。
 道々に出会う、次代を担う子どもたちに。
 それが、俺にとっての命を繋いでゆくということ。

 この星じゅうに散りばめられた、あのひとの、強く清浄なる魂の光は、いつまでも失われることなく、この美しき星の生命を護りつづけるに違いない。


 男は強く頷きを返した。
「奪ったり、傷つけたりするのは、新たな憎しみや哀しみを生むだけだ。本当の強さは誰かを守るためにあるもの」

 きれいごとだけでは生きていけない苦しい世界があることも知っている。
 だが、彼の心に一石を投じることができるなら。
 可能性は開ける。
 優しく、穏やかな光に満ちた未来への。

 少年は男の言葉に何度も強く頷きを返す。形の定まっていない柔らかな心に、男の言葉はじんわりと浸透してゆく。

 男は、少年の様子を満足気に目を眇めて見て、もう一度頷き返すと、本来の自分の道へと戻るべく、行く手へと視線をやった。
 マントを翻して背を向ける男に、少年が慌てて声をかける。
「名前、名前教えて、オニイサン!いつかあなたのいる場所を目指したいから!」

「俺は……」
 男は名乗ろうとして、聖衣を纏えぬ己がまだその称号を冠していてもいいのか、と僅かばかり逡巡し、だがすぐに顏を上げる。


「俺の名は氷河───キグナス氷河。女神の聖闘士」


 女神の聖闘士はそう凛とした声を響かせて、ひと時の邂逅に別れを告げて、また次なる地へと旅立つ。


 高く昇り始めた太陽が、風になびく柔らかな蜂蜜色の髪の毛に反射して、彼の歩いた軌跡にきらきらとその欠片を零していた。

 緑陰にも。

 荒野でも。

 光は生まれる。
 そこに女神の聖闘士がある限り。

(fin)
(2012.10.6~10.8UP)