寒いところで待ちぼうけ

Ω:その

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界の行間妄想。カプ要素薄め。ほのかに氷瞬のような瞬氷のような
貴氷シリーズとは完全パラレルです。

Ωの7~8年ほど前のお話。
みらい様による素敵なイラストもお楽しみください。


未来あしたの空はブルー ①◆

 風が、強くなった。
 男の頬を撫でた乾いた風は、荒れた大地の砂を巻き上げて、小さな空気の渦を作り、空へと舞い踊る。
 上空で強い気流に乗った砂塵は、その渦をじわりと成長させながら再び地上付近を舐めるように這い、またさらに大地を削り取ってゆく。

 行く手を阻むように渦巻く砂埃に、男は強い日差しを遮るためにフードのようにかぶっていたスカーフで口元を覆った。

 行く先、永遠に続くかのように広がる荒廃した渓谷。
 左右にそびえ立つ、丘陵から続く切り立った崖の乾いた岩肌が、谷を強く吹き下りる風に音もなく崩れ、大地には礫と砂粒が堆積されてゆく。
 丘陵を切り裂くように流れていたはずの河は今は涸れ、堆積した砂礫によってすっかり大地と同化してしまっている。
 渓谷に横たわる砂漠、という奇妙なその光景は、ほんの数年前まではそのような姿をしていなかった。
 涸れ川の境界がそこであったことを示すかのように、ところどころ残されている船着き場。崖を背に点在する丸太づくりの家の傍には立ち枯れた広葉樹。幾重にも折れて丘陵へ続く、回廊のような生活道。
 全てが大量の砂礫に埋もれてはいたが、かつては豊かな水資源を礎とする人々の営みが存在した名残をまだ留めていた。

 今はただ、生命のひとつも感じられない無機質な光景が広がり、砂の渦の向こうに広がる空の青さだけが唯一の色彩として、同じ色をした男の瞳に映る。
 だが、その青さも、照りつけては体力を奪ってゆく灼熱の太陽の前では疎ましくすら思える。
 崩れ落ち続ける岩肌に、その陰を歩くこともままならず、男の肌を汗が流れた。


 この地は、あの異星の邪神によって生命を奪われた地のひとつ。
 男は、邪神と戦った戦士のひとり。

 男たちの、地上を護るための闘いはかつてない結末をもたらした。
 人知を凌駕する圧倒的な魔の力は炎のように全てを舐めつくし、それは、邪神を封じた今となっても、この地上に、戦士たちに、そして彼らが頂く女神にすら癒えぬ傷痕を残している。

 傷痕───いや、それは、もはや痕などと呼べる代物ではなく、今まだなお、男の身体で昏い焔を燻らせ続けているのだ。

 いつまた力を解放させるやもしれぬ闇の勢力の、あまりの妄念の強さに、戦士としての翼を封じられた男は、だからこそ、一時たりとも戦士であることをやめてはいない。
 こうして、生命を奪い取られた地を巡りながら、結界に綻びはないか、そこに蠢く闇の気配があるなら見逃しはするものか、と神経を張り巡らせる。

 今はまだ、束の間の平和の時。
 だが───。


 風がまた一段と強くなった。
 視界は砂塵で煙り、舞い上がる砂埃で大地と空とはその境界を失っている。

 口元の布きれをぐいとさらに引き上げて、男は足を速めた。
 戦士として生きている男にとっては、視界なき道を進むのも造作なきことだが、それでも、避けられるべきリスクは常に避けよ、と、遠い昔に師に教えられたことを忠実に守る。

 唯一外気にさらされている両の瞳への攻撃を強める容赦のない砂塵に辟易としながら、ますます強まる風にはためくマントを押さえつけて男は進む。
 行けども行けども変わらぬ景色の中、だが、不意に男は歩みを止めた。

「用があるなら聞こう」

 虚空に向かって発せられた男の声は、うなる風の音に負けることなく明瞭に響いた。
 だが、返事をする者はない。
 風の音だけが男をごうごうと包む。

 返事がないと知るや、男は興味を失ったように、再び砂地へ足を踏み出した。

 だが、次の瞬間、男の行く手を阻むように、どこからか一つ、二つ、と影が現れた。
 砂漠の民によく見られるガラベーヤに似た衣服を纏い、頭にはターバンを巻き、スカーフで目元以外は覆ってはいるが、かつてこの地に豊かな水資源があったことを示すように、貝でできた装飾品を首に、腕にと多く身に着けている。
 次々と湧いて出た影は、その数、七つ。
 男はそれを砂霞に時折失われる視覚ではなく、肌に感じる気配で数えた。

 腰に携えている大ぶりの剣の所在を殊更に誇示させながら、影の一つが男の前へ進み出た。
「この地の者ではないな。何をしにここへ来た」

 男はフードの影から微かに笑って答える。
「魔の気配を監視しているのさ」

 男にとってはそれは真実であったが、影たちは既に後ろ暗いところがあるのか、その返事を自分達へ向けられた皮肉と取ったと見え、砂煙の向こうで、数名が腰の剣の柄へと手を伸ばす動きを見せた。
 男に声をかけた影だけが、手をかけた剣の柄をぐっと握り、それからそれをすらりと抜いて構えた。
 男の眉間に定められたその剣は、片刃の重々しいもの。武骨な見た目の割に意外と刃は鋭く砥がれている。
 男の視線が剣の総身に注がれたことに、影はニヤリと笑った。
「切れ味が気になるか?腕の一本くらいは簡単に落とせる」
「そのようだな」
 男は動じた風もなく、再び、一歩足を踏み出した。
 そのことによって、男の前に立つ影との距離は縮まり、影は、眉間に定めていた剣をピタリと男の首筋にあててその動きを封じようとした。
「動けば、腕の前に首が落ちることになるぞ」
 影の言葉に男は、ふ、と息をつく。
 男にとっては、刃の鋭さなどは何の脅威にもなりえない。
 むしろ、よく手入れされ、砥ぎすまされた刃は、それを身を守るための拠り所として恃む、持つ者自身の力のなさの顕れとも見えて、男の内側は凪いだ湖水のように平らかで波立つ気配すら見せない。
 だが、彼らが無謀にも戦いを挑んでくる愚を犯さぬよう、あえて、わかりやすい殺気だけは纏ってみせる。

 男は視線を上げて、対峙する影を静かに見やる。男の、柔らかな色合いの薄いブルーの瞳が、意外な鋭さでもって影を射抜く。
「目的はなんだ」
 問う男の声は至極穏やかだ。
 だが、男を四方から取り巻く影たちは、勝手の違う展開に何故かいつになく緊張感を強いられ、ギリギリと柄を握りしめる掌に汗が滲み始める。
 たいていはこれだけの人数で囲み、そこへ武器の存在を知らしめてやりさえすれば、容易に、命だけは、という展開になるのが常だ。それなのに、丸腰で立つ男の背は隙だらけに見えるにもかかわらず、影たちは、男の尋常ならざる力に抑えこまれてでもいるかのように、男との距離を詰めることができずにただ、恃みの柄を握り続ける。

 数瞬の沈黙の後に、それでも、男に剣を突きつけていた影はどうにか威厳を保ったまま、男の声に応える。
「知れたこと。お前が何をしようとしているのかは知らぬが、通行料は置いて行ってもらおう。この地を通るからには」
 そう言って、剣先を、男が肩にかけていたデイバッグへと僅かに動かし、意味はわかるだろう?と片眉をあげてみせる。
「通行料……?この地の領主がそうしろと?」
「ここは領主もその存在を忘れた死の谷。完全なる治外法権の領域だ。ここでは我らこそが絶対者。立ち入るなとは言わぬ。だが、立ち入るなら、全てのものをここへ置いてゆけ」
「なるほど……だが、断る、と言ったら?」
 男の答えに、影たちの緊張感がさらに増す。
「我らの気配に気づいたお前ならそれがどれだけ愚かな答えであるかわかっているだろう。無事にこの地を抜けるか、骸となって留まるか選ぶのはお前次第」
 影の言葉を、男は予想していたのだろう。了解した、と言うように鷹揚に頷いて見せ、にもかかわらず何ごともなかったかのように、首に突き付けられた剣先をものともせずに、またさらに一歩踏み出した。
 あまりに男の所作が流れるように自然だったために、突きつけた剣を動かす暇もなく、気づけば男の背を見送る格好になっていた影は、はっと声を荒げた。
「貴様ッ!」
 影が歩み去ろうとする男の背に向かって剣を振り上げた瞬間、男の姿は視界から消えた。どこだ、と視線を巡らせようと思った時には振り上げた腕を柔らかく捕まれていた。
「やめておけ。こんな視界の悪い中でそんなものを振り回しては仲間を傷つけるだけだ」
「……くっ……!」
 柔らかく捕まれた腕には男は少しも力を込めているように見えないのに、ピクリとも動かせないことに影は己を失って、無闇矢鱈に手足を振り回して逃れようとした。
 男はそれを憐れむように一瞥し、動くべきか動かざるべきか判断を迷っている残りの六つの影を、動くな、と視線で縫い留めた。
「他に生きる術がないのはわかるが、暴力はいつか己自身を滅ぼす」
 男の諭すような声に、片腕を封じられている影は、わかった風な口をきくな、と唇を噛み、ピィッと短く指笛を吹いた。
 一体何を、と男が不審げに眉を寄せたのと、一陣の風が起こったのは同時だった。
 風は瞬く間に人間の形へと姿を変える。
 伏兵がいたのか、と男が僅かに目を瞠ったその瞬間に、八番目の影はピタリと男の背後につけ、空気をも切り裂くように鋭くその背へ剣を打ち下ろした。

 ドン、という鈍い衝撃音が空気を震わせ、影たちはしてやったり、と一瞬ニヤリと笑い、だがすぐに顔色を変えた。
 他の影より一回り以上小さなその伏兵は、誰よりも大ぶりの剣を見事に操っていたが、男はそれを空いた片手だけで止めていた。
 刃を後ろ手に掌底だけで受けた形となったが、巧みに勢いを殺して受け止めたそれは、僅かな出血しか男にもたらしてはいない。
「これを止められたの初めてだな」
 随分ハイトーンのあどけない声が漏らした呟きに、男は、だろうな、と、溜息をついた。

 男は腕を戒めていた影を解放し、小さな影と向かい合うように対峙する。
 互いに、この場において、自分が相手にする価値があるものは目の前の存在しかないと無言のうちに理解し合い、次なる一手を待って神経を研ぎ澄まさせる。

 男は小さな影を注意深く観察した。

 男に気配を感じさせることなく距離を詰めたところといい、自分の背丈ほどもある大振りの剣を軽々と操って見せるところといい、男の持つ力を的確に見抜いて、いたずらに懐に入るような浅慮を見せないところといい、戦士向きの才が元々あるのだろう。

 だが、このような状況で男に対峙しながら、瞳を期待と興奮で輝かせる様は、まるで新しい玩具を与えられた子どものそれだ。

 いや、真に子どもであるのだ。

 己のしていることの意味を理解できているかどうかは怪しい。
 躊躇なく丸腰の相手の背へ剣を打ち下ろすことの是非を説いてやる者がこの中にいるのかどうか。

 聖闘士に、とまでは言わないが、正しく導く者がいれば、その腕を恃みにどこかへ士官する道がきっと開けるに違いあるまいに、あまりに惜しい。


 小さな影は、構えの姿勢を取らない男を警戒して距離を取っていたが、やがて、目にもとまらぬ速さで身を沈めたかと思うと、次の瞬間には高く跳躍して男の頭上へと身を躍らせた。

『自分の動く先へ視線をやるな』

 柄に感じたザン!という鈍い衝撃は剣が砂にめり込んだもの。
 小さな影は見失った男の姿を追って視線を巡らせながら剣を引き抜いた。

『恃みの剣を手放せないがゆえに、お前の動きは一拍遅れている』

 男は声には出さず、心の裡で小さな影に語る。

 いともたやすく切っ先から逃れるくせに、まるで、さあどうした、もっと、と挑発するかのように逃げるスピードを緩めてすらみせる男に、小さな影は、余裕なく熱を上げてゆく。

『我を失ったら終わりだ。悔しさは今は置いておけ』

 あまりに早い二人の動きに、最初の七つの影はただ、成り行きを遠巻きに見守るしかない。


 ひらりひらりと軽やかな動きを見せていたが、男は、ズ、という腹の底に響く微かな振動を感じてその動きを止めた。
 すかさず、小さな影が、剣を振って男に詰める。フードのように巻いていたスカーフの間から零れていた男の金の髪が、ハラリとひと房、砂礫の上へ散らばった。髪の毛を薙ぎ払った剣先をそのまま男の喉元に突き付けて、はあはあと息を上げている小さな影は、どうだ、と言わんばかりの顏で男を見た。

 だが、男の視線ははるか遠く、涸れ川の上流の方向へ向けられている。

 小さな影は関心を取り戻そうとするかのように、ぐいと、男の白い喉へ切っ先を押し当てる。激しく動いた後の腕の震えから加減を失った刃が薄い皮膚を切り裂き、紅い血がじわりと滲んだ。

「どうだ。俺の勝ちだろ?わかったら通行料を置いていけよ、オニイサン」
 生き抜くための略奪行為であるはずが、『勝負』というやはりどこかゲーム感覚でこの邂逅を捉えている幼い言葉が気になりつつも、男はシッと人差し指を唇にあてた。
「お前なら感じないか……?何か……」
「何がだよ?」
 小さな影は男の関心が自分へと戻らないことに次第に苛立ちを見せ始め、男の首筋に当てていた刃をぐるりと回転させて手元に引き寄せた。
 器用に操られた剣の切っ先に、男の首に掛けられていた鎖が半ばちぎれた状態で引っかかっている。
 小さな手のひらをのばして、彼はそれを手に取った。
「ロザリオ……?」
 光に透かすように十字架を掲げる手に、ああ、と男が喉元へ手をやった。
 参ったな、取られたか、と苦笑を返したその時、ごう、と今度は誰の耳にもはっきりとわかる不吉な地響きとともに、強い風が彼らの間を通り抜けた。

 と、同時に、男が、感じていた違和感の正体に気づいて声をあげた。
「砂塵嵐だ」

 涸れ川の上流から此方へ向かって、ごうごうと音を立てて、砂の壁が姿を現す。

 男の指摘に、影たちは、あっと声を上げた。
 渓谷を吹き下りる、まさに嵐のような強い気流が、上流から大量の砂礫を巻き上げて押し寄せて来ていた。
 広大な砂漠で起こる砂塵嵐と異なり、この渓谷で起こったそれは、両側を高い崖に阻まれてその逃げ場を失い、圧倒的で酷薄なほどの密度の砂塵を激しくうねる気流に閉じ込めて、雪崩や地滑りにも似た勢いで下流を目指して牙を剥きだしにしていた。
 その攻撃は無慈悲なものだ。自然の力の前には善も悪も等しくひれ伏すしか道はない。

 驚きに立ち尽くす間にも、砂塵嵐は勢いを増して向かってきている。

 駄目だ。人間の足で逃げ切れるようなスピードではない。
 男の力であれば数人を抱えて崖の上まで跳躍することは可能だが、さすがにこの人数では一度では無理だ。

 男は素早く頭の中で、最善の道を選びとり、半ば崩壊しかかった丸太小屋を指差して叫んだ。
「あそこまで走れ!」
 男の言葉が終わらないうちに、影たちは走り出していた。
 男も背後に迫りくる土色のモンスターを気にしながら同じように走る。皆、砂地へ何度も足を取られ、モンスターに徐々に距離を詰められてゆく。

 八つの影と男が廃墟となった小屋に飛び込んだ時には、嵐はもうすぐ間近へ迫っていた。男は小屋の様子を一瞥し、微かに唸った。

 だめだ、これでは凌げない。

 思ったよりずいぶん荒廃が進む小屋は、大量の砂と共に激しい風が叩きつけてしまえばあっという間に吹き飛んでしまうだろう。

 やむをえん。

 男は自分の内奥に意識を沈め、体内に眠る宇宙を呼び覚ます。
 無限に広がる銀河を、その細い体の隅々にまで充満させ、そしてそれを瞬時に爆発させる。
 男の周囲に青白い燐気のような焔が冷たく燃え、それは次第に大きさを増してゆく。

「……くっ……ぐぅっ!」

 だが青白い焔のような小宇宙が燃えれば燃えるほど、男の顏が苦痛で歪んでゆく。
 左半身に刻まれた魔傷が、美しく燃える小宇宙を糧として、じわじわと男を嬲り、蝕む範囲を広げようとその闇の舌をのばしてゆく。

 身体を引き裂かれるかのような強い痛みは、だがその闇の刻印の本質ではなく、むしろ痛みは男の馴染みとするもの。

 男が感じている苦痛は、己が己ではないものに変化していきそうな根源的な恐怖によるもの。侵食する闇は男の身体だけではなく、男の心をも蝕んでゆく。
 これは俺の身体だ。
 これは俺の心だ。
 誰が貴様の好きになどさせてやるものか。
 男の激しい拒絶をも、邪神の残した刻印は無理矢理にこじ開けて深いところまで暴き、無遠慮に掻き回してゆく。
「くそっ……この……程度で……!」
 俺を止められると思うな、と、男は忌々しく蠢く闇の力を振り切るように、清浄なる光を一気に解放させた。
 男の掌から発せられた白い光はやがて、美しい氷の結晶となって砂埃に煙る空気中を煌いて進む。
 男が小屋の周りにドーム状の氷の壁を張り巡らせるのと、ドォン!と大音声を響かせてその氷の壁に砂のモンスターが襲いかかったのは同時だった。
 男はぐらりと身体を傾がせ、膝をついてその場へ座り込む。額には脂汗が滲み、今日初めて上がった息を整えるために何度か深く息を吸う。

 ただ、ほんの少し小宇宙を燃やしただけでもうこれだ。
 なんと厭わしい闇の力だろうか。
 小宇宙を燃やせば燃やすほど、己が闇のものに近づいてゆくというのは、聖闘士にとっては戦慄すべき事態。
 魔傷が彼の身体を覆っていても、聖闘士としての力は少しも損なわれていない。
 むしろ、魔傷は、その力を増幅させようとする気配すら見せた。

 さあ、女神よ。
 そして、女神の聖闘士たちよ。
 世界を護りたいのであろう。
 護るがよい。
 いつものように、小宇宙を燃やして。
 感じるであろう。
 小宇宙を燃やした瞬間、その内奥に、我が力が漲るのを。

 さあ。
 小宇宙を燃やせ。
 絶対的な力はそれだけでお前のものだ。

 邪神は、封じられる前にこのような甘美な罠をしかけていったのだ。

 己の肉体が損なわれるだけであれば、戦士たちはそれを厭わず戦い続けたに違いない。
 だが、小宇宙を燃やした結果、心を奪われるとあっては。
 魔傷が全身を覆う時、彼らは完全に闇のものへと生まれ変わる。
 黄金聖闘士をも凌ぐほどに成長した彼らの力が、魔の誘惑に堕ちるようなことがあれば───。

 邪神の最後の悪あがきは、死をも恐れぬ彼らの反撃を、確実に封じる一手となった。

 こうして、戦士たちは自ら戦いを封じることによって邪神の罠に落ちることを拒絶し続けているのだ。
 長き時を、翼を奪われた苦痛と共に。



 透明な氷のドームの外側をまるで激流のように砂が流れてゆくのを、男は静かに見つめた。

 男が見せた異能を八つの影が畏怖とともに遠巻きにしていたが、砂塵嵐が通り過ぎる頃、やがて、最初に男の前に立ち塞がった影が言った。
「今見せた魔術は何だ」
 男は曖昧に微笑んで立ち上がり、砂煙が落ち着き始めているのを確認すると、すうと息を吸うと、自らが作り出した氷の壁を拳で粉砕した。
 ひんやりと涼しかった空間に、むせ返るような熱風と共に、いくらかの砂塵が舞い散る。
 ケホ、と小さな咳を残して、男は影たちに背を向けて外へ出る。

「何故、我らまで助けた」
 お前の命を奪おうとしたのに、と投げかけられた問いに、男は歩みを止めた。
 手のひらを目の上に翳して、太陽を仰ぎ見て、時間と方角を測りながら、男は背中で答える。
「お前たちのためじゃない。……お前たちにもいるのだろう。帰りを待っている母が」
 だから、母のためだ、と、自分の行く手を見定めた男は、まだ煙る視界の荒野へと足を踏み出す。
 一瞬だけ、あの幼い瞳だけでも、この歪んだ世界から連れ出そうかという思いが男の脳裡をよぎったが、彼にもまた帰りを待つ母はいるのだろう、と振り返ることはしなかった。



 やがて、足の下に触れる土は、砂礫ばかりの歩きにくいものから、固い地盤へと変化し始め、味気なかった黄土色の色彩ばかりの光景に、緑がポツリポツリと混じり始める。
 死の渓谷は越えたのだ。
 あれほど肌を突き刺していた日の光が、その力を弱め、急速に冷たく夜の気配を纏わせ始めていたが、男の歩みに焦りは見られない。
 開けた視界の向こう、なだらかな丘陵の背に点在して見える影は男が目指しているバラックだろう。
 バラックに、ひとつ、またひとつと明かりが灯るのを目印に男はしっかりと大地を踏みしめて進みゆく。